無名塾 『炎の人』(1)

2010年10月9日 能登公演を収録したDⅤDからである。2011年の東京公演は3月11日に起きた東日本大震災に際し、安全を考慮し東京公演を中止されたのである。DⅤDを観て、改めて東日本大震災に対する様々な人々の想いが湧き立って来る。

『炎の人』は、民芸の新橋演舞場での初演は新劇の演劇史からも伝説的な公演である。(キャスト/滝沢修、山内明、清水将夫、細川ちか子、宇野重吉、森雅之、小夜福子、下元勉、多々良純、北林谷栄、奈良岡朋子、芦田伸介、桜井良子、大森義夫) 無名塾の30回公演は、仲代達矢さんのゴッホを中心に無名塾の塾生さん達の演技的成長の見せ場でもあった。そうした中での中止は仲代達矢さんの第二次世界大戦の終結を十代で体験したことも要因していたとも思える。しかし今回、能登公演がDVDとなり、能登演劇堂での公演が観れたことは幸いであった。能登演劇堂は舞台の後方の扉が開き、そこに森の一部とも思える自然が現出するのである。舞台上では仲代さん演じるゴッホの迷いが日本の森へ向かい、原作者である三好十郎さんのゴッホに対する想いがエピローグへと繋がるのである。

ヴィンセントよ、
貧しい貧しい心のヴィンセントよ、
今ここに、あなたが来たい来たいと言っていた日本で
同じように貧しい心を持った日本人が
あなたに、ささやかな花束をささげる。
飛んで来て、取れ。

エピローグで、作者である三好十郎さんが出現する。それは、三好さんの溢れ出るヴィンセント・ヴァン・ゴッホへの想いであろう。

貧しい貧しい心のヴィンセントよ!
同じ貧しい心の日本人が今、
小さな花束をあなたにささげて
人間にして英雄
炎の人、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホに
拍手をおくる!
飛んで来て、聞け
拍手をおくる!

神経を痛めるまで絵を描くことに没頭し闘ったゴッホと三好十郎さんの想いを重ねて演じる役者さんの重圧は、凄まじいものがある。その重圧に仲代さんは役者として挑戦されたのである。ゴッホに関しては、残された絵と同時に兄・ゴッホに献身的に尽くした弟・テオに宛てた膨大な手紙がある。絵を見ただけでも、その変化は激しい。どうしてこんなに変化するのだろう。自分の耳を切って包帯を巻いた自画像。明暗の変化。色の変化。それらのまとまらないこちらの想いを、『炎の人』は一つの形を提示してくれた。ここに描かれているゴッホを、私は気に入り満足した。 それは、本と同時に、舞台も気に入り満足し、このゴッホに影響され、今後、ゴッホの絵を観ることに抵抗がないということである。さらに、疑問に思っていたことに答えをもらったということでもある。

さらに、エピローグで一人の日本人画家の名前を耳にしたとき、私を次の行動に駆り立てた。

日本にもあなたに似た絵かきが居た
長谷川利行や佐伯祐三や村山槐多や
さかのぼれば青木繁に至るまでの
たくさんの天才たちが居た
今でも居る。
そういう絵かきたちを…..

佐伯祐三である。奈良 山の辺の道 (2) で友人が思いがけない出会いをした画家である。その時は、見ていた絵からユトリロに影響を受けた画家とだけ認識していただけであったが何かありそうである。そして呼ばれた。山梨県立美術館で『佐伯祐三とパリ』の特別展を開催していたのである。

 

 

新橋演舞場 『笑う門には福来たる~女興行師 吉本せい~』

吉本興業の土台を作った吉本せいさんをモデルにしている山崎豊子さん原作『花のれん』のほうは、映画、テレビで見ている。映画は、豊田四郎監督で、淡島千景さんと森繁久弥さんの名コンビである。テレビのほうは、宮本信子さんで夫が死んだ後、心の支えになってくれる伊藤友衛役が藤竜也さんで、渋い素敵な役者さんになったと思って見た記憶がある。

『花のれん』は、吉本せいさんの手腕を主軸にしているが、『笑う門には福来たる』は、矢野誠一さんの『桜月記』を原作にしていて、せいさんと多くの芸人さんとの関係が交差していて、膨らみを持った分だけ、散漫になったふしがある。

関西の演芸史を盛り込んでの芝居である。それも、明治、大正、昭和の戦争をはさんで吉本せいさん(藤山直美)が亡くなるまである。それを、休憩を入れて三時間半、実質二時間半で繰り広げるのである。数々の芸人さんを映像で写し、如何に多くの芸人さんを抱えていたかを思い知らせてくれるが、その一人、一人で物語が出来てしまうような方々である。話しの中にその方々のエピソードなどが出てきて、あの芸人さんのことだなと思いいたるのである。エンタツ・アチャコ、ワカナ・一郎、ミヤコ蝶々さんら、それこそ蝶々のごとくヒラヒラと飛ばしてくれる。

もう少し、吉本せいさんと芸人さんとの関係を整理して、その絆の強さを押し出して、ラストにもっていったほうが、一貫性が強くなったように思える。ラストがあっての芝居である。桂春団治さん(林与一)と桂文蔵さん(石倉三郎)があの世から迎えにくるのである。

桂文蔵さんは、どんな噺家さんであったのか、実際には分からない。ただ、芝居の中では、せいさんの手を焼かせた芸人さんの代表である。春団治さんは、せいさんが全ての寄席の売り上げをかき集めて勝負をかけ、自分達の寄席へ呼びよせた芸人さんである。文蔵さんは舟で、春団治さんは、真っ赤な人力車で迎えにくる。せいさんは、赤い人力車が良いといって、その赤い人力車に乗り、通天閣に見守られ、ゆうゆうとあの世への花道を渡っていくのである。このラストの納め方によって、この芝居は救われている。

夫(あおい輝彦)よりも興行師としての才能があったせいさん。弟(市川月乃助)との芸人に対する考え方の違いを感じるせいさん。息子と笠置シズ子さんとの結婚を許さなかったせいさん。そういうことをも盛り込んでの構成である。大盛りである。

役者さんも揃い、皆さんきちんと収まっているが、皆さんが平均的に良い人ばかりというのも、味を薄めているところである。その中で、藤山直美さんは、喜劇役者としての見せ場を探され、健闘されている。近年直美さんは、父上の藤山寛美さんの役から距離を置かれ、喜劇役者・藤山直美の道を模索されているように思える。おこがましい言い方ではあるが、孤独な闘いに挑んでおられるように思える。繋ぐのと同じように、違う道を歩くということは、厳しい道のりである。ここまでの土台をもとに、突き進まれるのであろう。

仁支川峰子、川崎麻世、大津嶺子、東千晃、鶴田さやか、いま寛大

新橋演舞場 11月 『京舞』

『京舞』も芸道ものであるが、こちらは、実在する京舞の井上流三世家元井上八千代さんと四世家元井上八千代さんのお話である。四世家元は、井上流に内弟子として入られ、三世家元の厳しい指導を受け、四世家元を継がれる。

現在活躍されている五世家元は、四世家元のお孫さんにあたられ、その芸の継承模様は、テレビのドキュメンタリーでも紹介されていた。

北條秀司さんの脚本は、芸の厳しさの中に人間としての日常の可笑しさも含めつつ、話を膨らませ、ぐいぐい引っ張ていき、観客を楽しませてくれる。祇園の<都おどり>の初めての振り付けをしたのが三世で、舞台には<都おどり>の様子も加え、<手打ち式>も行われる。<手打ち式>とは、かつては、京の顔見世の芝居の役者さんの乗り込みを迎えるものであったらしいが、現在では、慶事の席で披露される伝統芸能となっている。これを観れるのが、舞台『京舞』の楽しみでもある。

芝居では三世家元(片山春子)が内弟子愛子を次の家元として決めていて、孫の片山博通と結婚させる。そして百歳のお祝いの席で「猩々(しょうじょう)」を舞いおさめるのである。

そこまでの人間片山春子と師匠としての片山春子を水谷八重子さんは、風格を持って時には奔放な性格を爆発させながら芸に身を奉げる一途さを演じられる。愛子の波野久里子さんは、内弟子として若々しく甲斐甲斐しく働き、練習に励む。そんな愛子をそれとなく支える片山博通の勘九郎さんのさりげなさに好感がもてる。春子亡きあと、愛子は家元として井上流をりっぱに引っ張って行き、芸術院賞を受賞し、芸術院会員となり、その祝いの席で、「長刀八島」を踊るのである。その夜、愛子は博通に先代が観にきてくれたと告げ、芸に打ち込めたお礼を博通に伝える。

この芝居では、八重子さんと久里子さんは孫ほどの歳の開きのある関係であり、久里子さんと勘九郎さんは夫婦の関係である。それが、不自然でないのは、それぞれの役者さんの力量である。前回の公演のときよりも、八重子さんの老け役は手の内で、久里子さんは娘時代から芸が認められる年代までを自然な流れで演じていかれる。孫であり夫である勘九郎さんの優しさの変わることのない年齢の流れも違和感なく観て居られる。

舞台上の井上流を支えれ周囲の人々も、新派という劇団の息の合いかたが、上手く作用して小気味が良い。春子の性格をよく知っている料亭の主人の近藤正臣さんと八重子さんも息がぴったりで、後継ぎを話す相手として納得できる。

これだけ大勢の役者さんが出てきて、ダレさせることなく見せれるのは、やはり、長い間、お互いの芝居をみて進んできた新派の良さであると思う。

片山春子の役は八重子さんは、十七世勘三郎さんを踏襲していくと言われた。当然、久里子さんは愛子を演じた初代八重子さんを踏襲されるのであろう。

追善挨拶は『京舞』の劇中で行われる。一回目に観たときはゲストは上島竜兵さんで、勘三郎さんと呑んだとき、夜中も過ぎ、明日仕事が早いのでこの辺で帰らせていただきますと言ったら、僕も早いんだよ、あなたと同じ舞台に立ってるんだからと言われて困ってしまったと言われた。

他でも、勘三郎さんは、明け方まで飲んでいるにも関わらず、その日の舞台には何かしら新しい工夫があって、寝ないで考えてきたなと思ったことが何回もあると言われていたのをどこかで見たか聞いたかしている。『京舞』のように長寿であっていただきたかった。

近藤正臣さんは、十七世勘三郎さんと一緒だった舞台での、十七世の演技を身振りで説明され、二回別々の演技の話しであった。まだ幾つか別の話しをされているのかもしれない。

柄本明さんは、新派に参加させてもらって、どうしたらよいのか解らないといわれていた。謙遜ではないように思えた。勘九郎さんの鶴次郎の前で、毎日自分の位置の定まらなさに苦慮されているかもしれない。いいとか悪いとかいうことではない。安易に収まろうとする自分に待ったをかけているようにおもえたのである。さてどうであろうか。もしそうであるならこういう時、勘三郎さんはどんな言葉をかけられるのであろうか。

作・北條秀司/演出・大場正昭、成瀬芳一 /舞踏振付・井上八千代/

友人は「観に来て良かった。良い物を観るために今度は一人でも出かけて来るよ。」と言っていたが、どうであろうか。

 

 

 

新橋演舞場 11月 『鶴八鶴次郎』

11月新派特別公演である。10月の歌舞伎座に続き <十七世中村勘三郎 二十七回忌、十八世中村勘三郎 三回忌 追善>公演である。十八世勘三郎さんが、十七世勘三郎さんの追善興行は<新派>でもと言われていて、勘九郎さんと七之助さんにも<新派>を体験させたいとの想いがあってのことという。残念ながら、鶴次郎を演じられた勘三郎さん不在の公演となってしまった。

『鶴八鶴次郎』の鶴次郎は、十七世勘三郎さんも演じられている。川口松太郎さん原作で、芸道物ということができるが、<新内>という芸に着眼し、そこに人情と義理を加えているところが、川口さんの作品らしい。<新内>は流して歩くところから出発している芸である。料亭の二階のお客さんに声をかけ聞かせたり、流して歩いてお客の声のかかるのを待ったりする。<新内>の哀調おびた三味線の弾き方と高音の声質の語りは、男女が心中したくなる気分にさせ、実際心中する者もでて、公的規制を受けたりもしている。

その<新内>が時を経て、名人会に加わるのである。名人会に加わるだけの芸の力のある芸人二人のどこかで亀裂してしまう男女の想いの芝居である。

芸の事となると喧嘩ばかりの鶴八と鶴次郎だが、鶴八は鶴次郎の師匠の娘である。そんなこともあり、好きだと言えない鶴次郎は、鶴八の結婚話に意を決して女房になってくれと告白する。二人は、先代鶴八の願いであった鶴賀の名前の席亭を開く直前、鶴次郎は男のプライドを傷つけられとして鶴八と別れてしまう。場末に燻る鶴次郎を番頭の佐平の助力で、老舗料亭の女将におさまっている鶴八と再会させ、再び名人会に二人を出させる。二人の芸がふたたび花開こうというとき、鶴次郎は、鶴八の三味線の芸に難癖をつけ、再度の別れとなる。

この後半からの、鶴八の七之助さんと鶴次郎の勘九郎さんがいい。七之助さんは、女形の声質を変えられる特性を生かし、低音にして、老舗の料亭の女将としての立場をきっちりつくる。鶴次郎の勘九郎さんは、持ち前の心理描写の上手さを新派的沈黙で押さえ、佐平に、どうして二人の中を壊したのかを静かに語る。当時の<新内>芸人の艶と泥水に通したような味はお二人には無い。そこが難点であるが、心理描写になると勘九郎さんは、聴かせる。鶴八は、老舗料亭の女将の座を捨ててでも<新内>の芸に鶴次郎と共に再び生きるという。その言葉を聞いたとき、鶴次郎には鶴八の今の倖せを壊すことは出来なかった。自分の想いを壊すのである。

勘九郎さんは、もちろん、中村屋の芸は伝えていくであろうが、それとは違う自分の語りを作っていかれるであろう。十八世勘三郎さんが、お二人に<新派>を体験させたいと思われた事は、意を得ていたのである。追善でありながら、十八世勘三郎さんのお二人への<芸>への示唆のように思えた。

川口松太郎さんは、花柳章太郎さんが亡くなられたとき、お棺の中へ『鶴八鶴次郎』の脚本を入れ、花柳のものとして永遠に他には上演させまいとしたが、それを止めたのが初代水谷八重子さんだという。(「空よりの声ー私の川口松太郎」若城希伊子著) 止められた八重子さんがおられてよかった。

旅のために、予定していた日にちに観られないかもしれないと、違う日にも切符を購入し、行けない日を友人に行ってもらおうとしたら、一人では嫌だと言われ、2回目は友人と観ることになった。

二回目のとき、出演者の挨拶のゲストが渡辺えりさんで、十八世勘三郎さんのこの芝居を観たあとで、どうして女の生き方を男が決めるの。女に決めさせなさいよ。と勘三郎さんに言われたのだそうである。大爆笑であった。勘三郎さんに佐平役の柄本明さんを紹介したのも渡辺えりさんで、渡辺さんが話す間ずーっと、柄本さん下を向いて新派の雰囲気だったのも可笑しかった。

作・川口松太郎/演出・成瀬芳一/新内・新内仲三郎社中

 

 

無名塾 『バリモア』

『バリモア』のポスターが、中折れ帽を被った仲代達矢さんの横顔である。素敵な横顔であるが、これは、偉大なる横顔といわれた、ジョン・バリモアを演じている仲代さんである。

ジョン・バリモアについては、『グランド・ホテル』の<男爵>を演じた役者さんで、それでしか彼は見ていない。品のある甘さで、ちょっと甘すぎるなというのが、印象であるが、一世を風靡したであろうことは想像できる。『グランド・ホテル』自体面白い映画である。ただ<男爵>があっけなく死を迎えてしまう。何があろうと、グランド・ホテルは何もなかったように次のお客様を迎えるのである。

『バリモア』は、アルコールに犯されているバリモアが、かつて成功をおさめた『リチャード三世』を演じようとして、台詞をプロンプターの力をかりつつ思い出そうとする。映画だけではなく、古典の舞台役者としても成功しているのである。ところが、出てくるのは、かつての自分と今の自分の違いである。大スターが今はその片鱗もないという、バリモアの実人生をバリモアによって、語られるという形をとっている。悲劇の大スターの話しという事になる。

ところが、悲劇ではあるが、仲代さん演じるバリモアには、メディアがよく取り上げる悲劇性はない。バリモアが自分の言葉で語りたかった彼の人生そのものがある。バリモアは、仲代さんに自分を演じてもらい、アルコールを楽しみつつ拍手喝采であろう。「そこは少し違うが、まあいい演じ方だよ。そうか、そういう風に陽気にやればよかったのかも。モンスターの観客にはそう言ってやれば良かったんだ。よく言ってくれた。酒がよりうまく感じるよ。」仲代さんのバリモアを見つつ、もう一人のバリモアの声が聞こえる。

バリモアの兄と姉のこともでてきて、『グランド・ホテル』に兄が出ているという。どの人か判らなかったので調べたら、病気で余命が少ないサラリーマン、最後の思い出に分不相応のグランド・ホテルに泊まる男である。映画は昨日見直しているので、バリモアが、兄である役者ライオネル・バリモアについての想いが納得できる。芝居好きの観客にとって見逃せない芝居である。

仲代さんは台詞を覚えられるのに相当苦労されたようであるが、芝居での仲代さんのバリモアにはそんな苦労が伝わらない。むしろゆとりがあり、楽しんでおられるようである。役者さんにとって、それはどう思われることか解らないが、モンスター観客にとっては、大変嬉しいことである。

姿を見せないプロンプターとの声だけのやりとりも、実際の舞台稽古のように息がぴったりで、シェークスピアの作品の台詞が、バリモアの人生の一断片として重なり、シェークスピアはやはり、普遍的な台詞をちりばめてたのだなあと思ったりする。もったいぶっているようで、意外とどこにでもある日常を差し示しているのかもしれない。

リチャード三世の衣装で出きたバリモアの表情が、観客がその姿を見たときのどう見たらよいのかわからない目をしているのを映しているようで可笑しかった。

虚像と実像の間のその空間を演じることは、役者にしかわからないことで、それが面白くて続けるのか、苦しくて続けるのか、その回答がないからこそ続けるのか、鶏と卵のような関係とも思われるが、モンスター観客もなぜ芝居をみるのか、出たとこ勝負である。

バリモアさんは、アジアのある国で、自分を演じてくれたある役者の名前は、酔っ払いつつも、プロンプターなしで覚えたことであろう。

作・ウィリアム・ルース/翻訳・演出・丹野郁弓/キャスト・仲代達矢(ジョン・バリモア)、松崎謙二(プロンプター)

劇場/シアタートラム

加藤健一事務所『ブロードウェイから45秒』

ニール・サイモン作であるが、名前はよく耳にするが、彼の作品は観ているようでどうも観ていなかったようである。

『ブロードウェイから45秒』。この作品の芝居に関しては、残念だがラストは書けないのである。この作家の手の内で転がされて、ラストを迎えると楽しさが十倍返しで、失敗しない作家の腕の中である。

出てくる登場人物が、超個性的。それも演劇を愛する人々の溜まり場のカフェ、喫茶店である。店には沢山の写真が貼られている。スターの写真ではない。名前を世に出すことの出来なかったスターを夢みた人々の写真である。この店の主人はスターは手を貸す必要はない。手を必要としているのは若い演劇人の卵であるとの主義で、何かとそういう人々を手助けしてきたようである。

常連客には、現役のコメディアン、現役の役者、役者をめざす娘、脚本家をめざす男、プロデュサー、芝居大好きの女性二人、そして芝居には全然関係の無い老夫婦、この店をきりもりする経営者夫婦である。これだけの登場人物の人物像を軽快で自己主張の強い台詞を捉えていくのである。笑いたいのに、笑えず振り回される。

そして、登場人物の人物像、考え方まで把握できたと思ったら、こちらは、昼は歌舞伎、夜は翻訳劇のスケジュールで疲れのためか眠気が少し起こる。そこへ、コメディアンのお兄さん登場。この兄弟の掛け合いが面白い。なんだか、ニール・サイモンにこちらの観劇状況を察知されているようである。今まで笑わなかったのを取り返すように声を出して笑ってしまう。コメディアンとしてのシリアスな話も出てくるが、全然それを理解しないお兄さん。

そして興味深かったのが、観客が芝居に出資金を出すというシステムがあるようで、もし芝居が当たれば配当金があるのであろうか。芝居好きの客が出資金を出した話をしている。その芝居の題名が気に入って出資するのである。ところが・・・

笑っているうちに、話が違う方向に展開し、そうだったのかと思っている間を外さず次の展開へとつながる。観客がこの芝居の中にに入っている心理状況を、ほくそ笑んで操作している作家、それが、ニール・サイモンである。頭を抱えて考えているのかもしれないが、ほくそ笑んでいる方が格好いい。

ただし、下手な役者さん達では、作家の意図するように観客を操作できない。操作できる役者としての技がいる。今回はそれが、そろったということである。今回はではなく、今回もであろうか。こういう騙されかたは大歓迎である。

そして、次の加藤健一事務所の公演ポスターもお店に張られていて、話がうまくそこへ繋がるのである。話せないことの多いお芝居でのお芝居の話しである。時には沈黙は金なり?

 

作・ニール・サイモン/訳・小田島恒志、小田島則子/演出・堤泰之

出演・加藤健一、石田圭祐、新井康弘、天宮良、加藤義宗、加藤忍、占部房子、田中利花、佐古真弓、山下裕子、  滝田祐介、中村たつ

場所/紀伊國屋サザンシアター

 

こまつ座 『きらめく星座』

観劇した<こまつ座>の『きらめく星座』のことを書こうとして、浅草のレコード店オデオン堂のお兄ちゃん正一を演じた田代万里生さんのことを調べようと検索したら、頚椎棘突起の骨折のため降板とある。田代さんについては『きらめく星座』で初見で情報もゼロである。愛くるしい真ん丸の目で脱走兵の正ちゃんはオデオン堂の家族のもとに顔を出し、楽しい困った状況を作り出しては、はたまた姿を消す。今度、正ちゃんはどんな姿で現れるのか。年上の義弟をあきれさせ、憲兵を煙に巻き、家族とその仲間に歌を歌わせ、正ちゃんは消えて行く。そんな役柄の田代さんであった。よく動き回り美しい声も披露し元気いっぱいであった。降板前の18日の観劇でのことである。

役者さんだって生身の人間である。故障があれば先の舞台や仕事で挽回すればよいのである。しっかり治していただきたい。24日から、峰﨑亮介さんが新しい正一で公演が続くようで、他の役者さん達はきっちり個々の役が出来上がっており、新しい正一を受け入れる皿は大きいので、浅草オデオン堂は新たな素敵なレコードをかけてくれるであろう。

いつもながらの、井上ひさしさんの深刻な問題も笑いと歌をおりなしつつの芝居である。笑いつつも重要なことはきちんと伝わってくる。どうして逆転の発想というか、ユーモアをもって問題点を突けるのか観ながら笑いながら思ってしまう。

長男の正一が進んで陸軍に入隊したのに脱走してしまい、オデオン堂は非国民の家族である。ひとり娘は、傷病兵に励ましの手紙を書いて、その返事がトランクからあふれるほどである。この娘さん、お母さんの軽い一言から、彼女はきちんと考え傷病兵と結婚する。オデオン堂は今度は美談の家である。

私はこの作品は二回目の観劇で、最初の時楽しかったのが、「一杯のコーヒーから」の歌の場面であった。横文字が入り、仮想敵国の飲物である。オデオン堂には広告文案家(コピーーライター)の下宿人もいて、この歌謡曲に対する傷病兵の婿とのやりとりが可笑しい。「日本人は日本茶だよ。」「日本茶はもとをただせば中国から渡来しました。」お母さんはもと少女歌劇団員で、彼女は歌手デビューするのであるが、市川春代の「青空」のために全く売れなかった経験がある。「煌めく星座」も軟弱な歌謡曲と一蹴される。この小さな普通の家族の愛する音楽は否定される。しかし、夜空には、動かすことの出来ない星座が、きらきら輝いている。

「星めぐりの歌」(宮沢賢治・作詞・作曲)

あかいめだまの さそり / ひろげた鷲の つばさ / あおいめだまの 子いぬ

ひかりのへびの とぐろ / オリオン高く うたひ / つゆとしもと おとす

太平洋戦争前夜昭和15年から16年の東京浅草レコード店オデオン堂。

みんながなんか違うんじゃないかと思ったとき、好きな歌が歌えなくなっている。

公演後、「時代と広告」のテーマで馬場マコトさん(クリエイティブ・ディレクター/ノンイクション作家)のスペシャルトークショーがあった。『煌めく星座』の中にに出てくる広告文案家は、満州にいるかつての教え子たちのもとに旅立つが、実際に同じ仕事に携わっていた優秀な人々が国策のコピーを書く形となったことを話される。<欲しがりません勝つまでは>。なるほど。広告って感心するぐらいすーと溶け込んでくる。それでなければ広告の役目を果たさないのである。広告は多くの人を動かす力があるからこそ面白く、広告の仕事にのめり込む怖さもあるのである。歌もしかりである。この時代の広告人については『戦争と広告』(馬場マコト著)に書かれているようである。

スペシャルトークショーは本当にスペシャルで、湯川れい子さん、村松友視さん、馬場マコトさん(すでに終わっている)、服部克久さん、大沢悠里さん、出演の役者さんなどである。

一杯のコーヒーから 夢の花咲くこともある 街のテラスの夕暮れに

二人の胸の灯が ちらりほらりとつきました

作・井上ひさし/演出・栗山民也/出演・秋山菜津子、山西惇、久保酎吉、田代万里生(9月18日まで)木村靖司、後藤浩明、深谷美歩、峰﨑亮介、長谷川直紀、木場勝巳

 

 

 

新橋演舞場 『天一坊秘聞 八百万石に挑む男』

『舟木一夫特別公演』の芝居とコンサートの二部構成の芝居のほうである。徳川吉宗のご落胤(らくいん)と称して世を騒がせた天一坊という実在の人物がいたようで、ご落胤かどうかの詮議は定かではなく、他の罪で処刑になったようである。

この事件をもとに歌舞伎、講談、映画など様々な描き方の物語へと広がって行く。今回の舞台『天一坊秘聞 八百万石に挑む男』は、東映映画『八百万石に挑む男』(監督・中川貞夫/脚本・橋本忍/主演・市川右太衛門)を元にしていて、斎藤雅文さんが脚本を担当している。(演出・金子良次)天一坊については、ほとんど真っ白で観たのであるが、面白かった。歌い手さんの公演はコンサートもあるので、芝居には時間的制約があるが、それが効を奏して、1時間45分で休憩なしである。幕もなく<場>で進むから暗転で、その間が待たせない。そして、目は舞台の闇を見つめさせつつ、耳の方に音楽を与えるため、待たせるという感覚ではなく、まだ見ぬ次の<場>を好奇心旺盛に音楽に身を任せる。

天一坊が、徳川吉宗の子なのか、それとも偽物なのか。このところが、2転3転する。若い天一坊は、名乗り出るための後見の軍師として、山内伊賀之亮と出会う。この伊賀之亮に出会うことによって、天一坊は、山内伊賀之亮、徳川吉宗、松平伊豆守、大岡越前、の政治の渦に巻き込まれていく。それは、一人では挑めぬ徳川幕府に対する軍師・伊賀之亮と結束しての上での事であったが、伊賀之亮には、天一坊に話していない、若き日の吉宗との関係があった。そして、天一坊にも、伊賀之亮に話していないことがあり、それが露見しても崩れない二人の関係は、天一坊の育てた和尚の出現によって、思わぬ事態を生ずる事となる。

天一坊のご落胤の審議を避け、違う罪で罰しようとする松平伊豆守との<網代問答(あじろもんどう)>も見どころであり、吉宗と伊賀之亮の若き日の二人の約束の場もこの芝居に面白さを加えた。

さらに、徳川吉宗の私的な感情を思いながらも崩してはならない徳川家について、妻・りつに食事の膳で説明する大岡越前。妻・りつでなくてもよくわかる。小道具の使い方も上手い。

若い天一坊は、自分の存在価値がわからなくなる。そして伊賀之亮は、この大きな事態に今だ対応できない若者の行く末を考え、大岡の役宅を訪ねるのである。

大岡は、娘の手毬で紀州の道成寺から清姫、安珍の話へと持っていき、動かせぬ事態を伊賀之亮に悟らせ、伊賀之亮は、ことの真相を話、天一坊のことのみ託すのである。ここがあるので、吉宗と天一坊の対面では涙してしまう。伊賀之亮、吉宗、大岡の三人は立場が違っても、天一坊に対する思いは、皮肉にも同じ気持ちで結ばれる。天一坊を、もう一度野に放ち、自分の力で生きて行く道筋をつけるために。

この本は残ると思う。配役も良い配置である。

山伏とご落胤を装う変化と、変動する事態に戸惑う心の動きの天一坊を若さで演じた尾上松也さん。面白がって八百万石に挑む男が実は、果たせぬ夢を心に秘めていて、その私的な思いを天一坊に担わせた不覚を悔い、最後は自分の死に場所を見事に作る山内伊賀之亮の舟木一夫さん。登場は少ないが、伊賀之亮との事も天一坊のことも解っていても、将軍の立場を崩せぬ徳川吉宗を田村亮さん。伊賀之亮と吉宗の関係、吉宗と天一坊の関係を知っても、将軍吉宗の地位をあくまでも前面に出し、親子の対面も吉宗の個人的な振る舞いとして、そっと背中を向け見ない立場をとる大岡越前の林与一さん。

見捨てられた親子の辛さを口にし、一般の世のならいを夫に告げる大岡の妻・りつの長谷川稀世さん。自分の過ちを直接伝え心から侘びる和尚の尾上徳松さん。何んとか別件で葬り片を付けたい松平伊豆守の林啓二さん。皆さん堂に入った立ち居振る舞いで、安心して台詞を堪能し、真実が明かされていく過程を楽しんだ。この天一坊のご落胤の話に乘った人々の閉塞された社会からの脱出も伺い知れる。そして血筋とは何なのであろうかという疑問も。

一番面白いのは、舟木一夫さんが、俺がスターなんだから俺を見てくれよではなく、芝居の面白さを観てくれよ、と言っているように思える芝居であるということである。コンサートでは、どうして芝居の後にこんな声がでるのかと不思議に思える声量であった。

 

 

加藤健一事務所 『If I Were You~こっちの身にもなってよ!~』

『あとにさきだつうたかたの』『請願~核なき世界』 二回続けてシリアスではあるが、時には立ち止まって考える必要のある問題をテーマとした作品を上演してきたが、今回はコメディである。しかし前半は、イギリスのある家庭の、いや何処にでもあるような、家庭上の問題が、それぞれ我慢の限度を越えようとしている状態での、突然の出来事。

劇作家のアラン・エイクボーンはこの壊れそうな家族に、夫婦が入れ替わるという手法を試みた。身体が変わっただけで、その身体の動きはそのままである。それは、役者への挑戦状でもある。男女が入れ替わる。夫と妻の役割が入れ替わる。妻は夫の愛人と夫として電話で話す。妻の好みなど知らない夫が妻の洋服を着る。ところが、これが妻のほうが上手くやってしまうのである。

舞台装置は一つである。夫・マルと妻・ジルそして息子・サムの住む家で、ダイニングルーム、リビングルーム、ベッドルームが設定されている。この舞台が、マルの職場である、家具店のショールームとしても使われる。上手い発想である。夫妻にはもう一人娘・クリッシーがいて、その夫・ディーンは、マルと同じ職場である。マルと ディーンが同じ職場で、家の様子と職場の様子が観客に見せれるわけで、マルとなったジルが職場でどのような行動をとっているかもわかるわけである。このことは、マルとジルが入れ替わってどう行動するかの役者の大変なところでもある。

妻のマルは、意外や職場を夫のマルより上手くまとめてしまう。夫のジルは悪戦苦闘するが、娘と婿の問題を上手く解決の方向に持っていき、自分の理解していなかった息子のこともわかりかけるのである。娘はマルのお気に入りで、利発である。夫婦が入れ替わる前から母に仕事に出るように勧めていた。それが、入れ替わることによってジルは自信を取り戻す。娘は利発なだけに自分たち夫婦の問題は隠していた。ところが、入れ替わることによって、その問題も表面化し解決へと向かうのである。

結果的にこうまとめあげれるが、それは、ドタバタしているようで、それぞれの人物像、人間性はきちんと演じられているからである。前半は丁寧に問題点を時間をかけて見せ、突然の事件と困惑も夫婦二人の力で乗り越えた達成感へと持っていく。

一つ問題は、マルは自分がいなければと思っているタイプである。それを、妻のマルがことも無く自分の仕事をこなしてしまうのであるから、プライドが傷つくのではと思う。そこを、息子に対する婿の態度に怒り、それがお気に入りの娘に助力するという形で、マルは達成感に浸れるのである。ここのところを役者さん達の人物像がきちんとしていてくれたからこその成果である。アルと ディーンに対するサム。そうではなく一人、一人の人間性があるのである。

入れ替わることによって見えてきた、人間の長所と短所、見たくない部分だけが増幅していく人間関係。 <こっちの身にもなってよ!>

作・アラン・エイクボーン/訳小田島恒志 ・小田島則子/演出・高瀬久男/出演・加藤健一(アル)、西山水木(ジル)、加藤忍( クリッシー)、石橋徹郎( ディーン)、松村泰一郎(サム)

 

織田作さんの『蛍』 (小説・演劇・映画)

織田作さんの『蛍』は、映画、舞台になっている。

小説では、主人公登勢は両親に死に別れ、彦根の伯父に引き取られ、十八のとき伏見の船宿の寺田屋に嫁ぐ。寺田屋は後妻の姑・お定が仕切っており、そのお定は頭痛を言い訳に祝言の席にも出てこない。  「そんな空気をひとごとのように眺めていると、ふとあえかな蛍火が部屋をよぎった。祝言の煌々(こうこう)たる灯りに恥じらう如くその青い火はすぐ消えてしまったが、登勢は気づいて、あ、蛍がと白い手を伸ばした。」 夫の伊助は、病的な潔癖症であり姑はすぐに病で寝たきりとなる。お定は寺田屋の家督を娘の椙(すぎ)に継がせたかったがそうならず、椙は好きな男を追い家を出てしまう。登勢はひたすら働く。あるとき赤子の鳴き声がし、登勢はその捨て子をお光と名づけ育てる。お光が四歳のとき千代が生まれ、姑は亡くなる。 「蚊帳へ戻ると、お光、千代の寝ている上を伊助の放った蛍が飛び、青い火が川風を染めていた。あ、蛍、蛍と登勢は十六の娘のように蚊帳中をはねまわって子供の眼を覚ました」 登勢は今度は女の子を産み、浄瑠璃を習い始めた伊助は、お光があってお染がなかったら野崎村にならないと、お染と名付ける。お染は四歳のとき疫病で亡くなり、お光は実は椙が実家に捨て子した子で、自分の子をむかえに来たと言って連れ去ってしまう。

間もなく登勢は京の町医者の娘お良を養女にする。世の中は騒がしくなり、寺田屋で薩摩の士が同士討ちとなり、逃げた登勢の耳に<おいごと殺せ>という言葉が残った。 「有馬という士の声らしく、乱暴者を壁に押さえつけながら、この男さえ殺せば騒ぎは鎮まると、おいごと刺せ、自分の背中から二人を突き刺せ、と叫んだこの世の最後の声だったのだ。」 やがて、薩摩屋敷から頼まれ坂本龍馬をあづかる。伊助は京の寺田屋の寮にしばらく移ることにした。奉行所の一行が坂本を襲って来た時、お良は裸のまま浴室から飛び出し坂本にその急を知らせた。このお良を坂本は娶って、二人は寺田屋から三十石船に乘り長崎に旅立った。翌日には、登勢の声がした。 「それはやがて淀川に巡航船が通うて三十石に代わるまでのはかない呼び声であったが、登勢の声は命ある限りの蛍火のような勢一杯の明るさにまるで燃えていた。」

淡島千景さんの最後の舞台となったのが、平成22年の<劇団若獅子>の『蛍火ーお登勢と龍馬ー』の舞台でお登勢を演じられた。織田作之助/原作(「蛍」より)で脚本は土橋成男さん、演出は<劇団若獅子>代表も笠原章さんである。題名からも分かる通り、お登勢と龍馬に焦点をあて、お登勢は龍馬の進むべき道に自分の心意気を託すような形となる。淡島さんは、すでに高齢であったが、培われてこられた身体の動きを凛として見せ、まさしく青い光をはなたれておられた。椙が恋人の五十吉を追いかける場面で蛍が飛び立つ。寺田屋騒動の場面を出し、お登勢が有馬を抱きかかえ最後を看取るかたちにしている。そして、龍馬がお良を連れてきて、寺田屋の養女にと頼む。お登勢の龍馬への想いも描かれ、最後の別れのあとの蛍だけが美しく輝くのである。

淡島さんは映画『蛍火』にも出られている。監督・五所平之助さん/脚本・八住利雄さんである。映画は観ていないのであるが、花嫁衣裳の淡島さんが手を広げると蛍がその手の内にある場面はみている。インタビューで、織田作さんの作品の事を聞かれ「作品が短いので、色々な思いを込めれるのではないでしょうか。演じていて面白いです。」と答えられていて、その通りであると思った。

この作品<前進座>でも公演していて、脚本は八木隆一郎さんである。「蛍」の題名で、脚本を読むことが出来た。お杉がお光を連れ戻しに来た夜蛍が飛んできて、伊助が祝言の夜の蛍を捉まえようとしてお登勢が手を伸ばした思い出をお登勢に話しかける。お良は養女になっていて、寺田屋騒動も伊助とお登勢の話の中で出てくるだけである。竜馬が登場し、ここが竜馬が死んだという寺田屋なのですなあと語る。竜馬を挟んでお登勢とお良の微妙な心の揺れがあり、竜馬とお良が去った後、伊助とお登勢の前に蛍が飛んでくるのである。

それぞれの捉え方で、舞台になり映画にもなっているのである。