木のまち鹿沼(1)

栃木県鹿沼市も「木のまち」といえるということを行ってしりました。この町は、版画家の川上澄生(かわかみすみお)さんの市立美術館があることを知っていたのでピンポイントとして押さえていました。

川上澄生さんの作品「初夏の風」は、棟方志功さんが油絵から版画に変更するきっかけとなったという話しもあり興味あるかたでした。さて、調べてみますと、鹿沼市は祭りの<屋台>が展示されている場所があり、かなり山奥らしいですが、天狗で有名らしい<古峯神社>もあるらしく、この三か所を起点に計画しました。

<古峯(こみね)神社>のご朱印は種類が多いらしいのです。その時の書き手によって変わるらしいのです。この日に行きますが行かれますかと誘った友人は予定があり同伴できず残念でした。

鹿沼の町は、JR日光線鹿沼駅と東武日光線新鹿沼駅に挟まれていて、ちょうど中間あたりに見たい場所が集まっています。

JR鹿沼駅から歩いて20分のところに<鹿沼市立川上澄生美術館>があり、明治時代の洋館のような建物で、今回の「身近に楽しむ木版画 ー川上澄生・頒布会とその時代ー」は、洋風の小物などを題材としている作品も多かったのでの入場するのに雰囲気が合っていました。戦後、コレクターや愛好家に版画頒布会を開催した作品が中心です。

洋灯(らんぷ)、グラス、硝子瓶や明治時代の人々をモデルとする作品などが多く、色使いが明かるく、淡さとはっきりした色の調和が好もしい感じです。複雑な彫りを感じさせない単純化されて見えるのも川上さんの作風でもあります。

川上澄生さんは、宇都宮中学校の英語教師になってから本格的に木版画制作を始めています。戦争が始まると軍国主義の風潮を嫌って学校を退職、木の活字を彫ったり、絵本の製作などをします。1994年(昭和19年)の『明治少年懐古』を刊行し、少年時代の思い出を木版の挿絵と文で表現しています。その後、一時は、奥さんの実家の北海道苫小牧中学の教師となり、戦後宇都宮にもどり宇都宮女子高等学校の講師となり、宇都宮を終焉の地としています。

戦後、教え子さんたちが中心となり版画頒布会を組織されたようです。

『明治少年懐古』の文庫本を美術館で見つけました。作家の永井龍男さんが川上澄生さんが自分のことを<へっぽこ先生>と称したの受けて書かれた『へっぽこ先生』のエッセーが最後に載っていました。その中で「私は私を喜ばせ、また楽します絵を作っている」の川上さんの言葉を引用し、<短いが、川上澄生の作品の根本を語るに、これ以上適確な言葉はあるまい。>としていて、まさしくその通りで、少年・川上澄生の感性が素直に楽しめ、その当時の少年を身近に共有でき、ほっとさせてくれる作品です。

「俥屋さん」(人力車に乗る様子)、「へっつい直し」(煮炊きするかまどをなおす人)、「でいでい屋」(雪駄をなおす人)

桶屋さんの仕事、米屋のお米をつく仕事、九段坂の車を後ろから押すため立ちんぼをしている人、銀座で十二カ月分の種類があるお汁粉さん。

郵便屋さんが縁先で一服して一日5里は歩くというはなし。当時家の郵便箱は黒い四角いもので上に三角形の帽子がついていて、流行っていた『ふいとさ節』に「四角四面の郵便箱はね(ふいとさ)恋の取持ち丸くする(よいとふいとさ、おーさ、よいとふいとさ、ふいとさ)というのがあったと書かれています。子供が大人の流行り歌を自然に覚えてしまった時代です。

羽織り袴の小学生が、羽織の紐の先を前で結びくるりと後ろへまわし首にかけたり、袴の下から股引きがみえないようにたくしあげたりと、どんなときにもおしゃれを見つけ出す子供の姿も書かれていて微笑ましいかぎりです。

進む先に暗い時代があろうことなど考えもしない、明るい光を目指す子供の純真な観察眼にもどって書かれた短文は名文で、立、横、斜めの彫刻刀の彫りが心地よい音を伴って木版画を眺めてしまいます。

書き終わって思い出しました。澄生少年は写真屋で写真を撮った記憶で嫌になったのが、「立たされて居る時後から鉄のやっとこのようなもので頭を動かしたり曲げないやうにはさまれることだった。」と書いています。この<鉄のやっとこのようなもの>は、六本木のミッドタウンウエストにある、「フジフィルムスクェア」の写真歴史博物館で展示されていました。博物館といってもフォトサロンと同居した小さな場所ですが、写真をとるためにはかなり長い時間を要したらしく、下から伸びた棒に首をささえる丸い部分がついていました。

これを見ていたので、澄生少年の気持ちがよくわかりました。坂本龍馬さんの立ち姿は、木の台によりかかっている写真で龍馬さんらしく格好つけているなと思いましたが、もしかすると、長時間立ったままでは大変なのでこの姿になったのかもしれないと思った次第です。記憶がよみがえりました。

   鹿沼市立川上澄生美術館

  

木のまち鹿沼(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

すみだ北斎美術館

葛飾北斎さんの生まれて住んだ地の『すみだ北斎美術館』ができ開館しました。旅行会社のツアーにも入っていたので、日が立ってから行こうと思っていましたら、開館記念展がこれまたギリギリで行けました。

「北斎の帰還 ー幻の絵巻と名品コレクションー」の『隅田川両岸景色図』が目玉品で、100年ぶりに日本へ帰還した作品なのです。北斎さんと交流があった烏亭焉馬(うていえんば)さんが注文されたとのこ。

烏亭焉馬(うていえんば)さんというのは、落語中興の祖であり戯作者で、北斎と同じ本所相生町でくらし、五代目團十郎さんの大ファンでもあったようです。

隅田川両岸景色図』は絵巻になっていまして、<両国橋>から始まって、手前の岸に<柳橋><首尾の松、御米蔵><駒形堂>と続き対岸と結ぶ<大川橋>(吾妻橋)<浅草寺>、対岸に<三囲稲荷><長明寺>、手前に<待乳山聖天>、対岸に<木母寺(もくぼじ)>、そして<日本堤><吉原大門>となり、この絵巻は両国橋から吉原までの隅田川の両岸を描いているわけです。そして、吉原の室内の絵となり、真ん中に盃を持っている男性が北斎であるという説もあります。最後に焉馬(えんば)さんの狂文が書かれています。

吉原に進む客を乗せた駕籠の提灯の小さな灯が赤で描かれています。残念ながら混んでいてゆっくり見れませんでしたが、優しいタッチで絵の雰囲気はわかりました。展示前の壁にレプリカも展示されていてそちらでも楽しむことができました。

『仮名手本 後日の文章』『忠孝潮来府志』のように忠臣蔵の後日澤を焉馬(えんば)さんが書かれていてさし絵は北斎さんという半紙本もあり、庶民にとっての忠臣蔵の強さが感じられます。北斎さんは、吉良家の家老・小林平八郎の一人娘が鏡師・中島伊勢に嫁入りしその実子、あるいは養子との説もあります。

『当時現在 広益諸家人名録』には、名前と住所が書かれているのですが、<葛飾北斎 居所不定>とあるのが、北斎さんの引っ越しの回数の多さを思わせます。

興味ひかれるものは沢山ありましたが、『詩歌写真鏡 木賊刈』は、木賊(とくさ)を刈ってそれを束ねたものを肩に担ぎ橋を渡っている男が描かれているのです。国立劇場の伝統芸能情報館で公演記録映像の鑑賞会がありまして「人間国宝による舞踏鑑賞会」の中に、京舞井上流の井上八千代(四代)さんの「長唄 木賊刈(とくさかり)」があり、「木賊刈」には引きつけられました。木賊(とくさ)というのは、観賞用として、または砥石のように茎でものを研ぐことができるのだそうです。

長唄には、木賊から<磨かれ出ずる秋の月><心を磨く種にもと いざや木賊を刈ろうよ>などと、木賊のかけた詞がでてきます。もちろん井上八千代(四代)さんの舞は磨きぬかれたものでした。

井上流と言えば新派の『京舞』で知られていますが、ちょっと旅の途中での思い出があります。奈良に旅している時、新聞に祇園甲部歌舞練場で井上流の会があって、四代目のお孫さんの井上安寿子さんが、名取になってはじめての出演という記事が載っていました。電話で問い合わせると切符はあるということで、急きょ旅の日程を変更して京都へ。こういう時ひとり旅は拘束されずに勝手ができます。ずらりと舞妓さんや芸妓さんが並ばれていてお客さんをお出迎えで、古い建物に不思議な雰囲気でした。

安寿子さんが踊られる前になると、井上流の幹部さんというのでしょうか、先輩格の方々が立ち身で端で見られていて、終わると、表情をゆるめられ、中にはお互いにうなずかれる光景を目にしました。芸をみせる場所祇園を支える井上流ですから、継承者とされる方の踊りがどうであるか芸を支える方々としては、期待感があったのでしょう。祇園という場の艶やかさを越える芸の真摯さの怖さを感じさせられました。

公演記録鑑賞会には、京舞の手打ちの映像もありました。独特の華やかさと調子が見る者を魅了します。(そのほかの人間国宝の舞踊/二代目花柳壽楽・一中節「都若衆万歳」、吉村雄輝・地唄「桶取」、藤間藤子・常磐津「山姥」)

北斎さんの『元禄歌仙貝合 あこや貝』では、歌舞伎の『阿古屋』をかけて、中央に琴が大きく描かれています。シネマ歌舞伎の『阿古屋』の宣伝をされたようで、大丈夫です見に行きますからと、特別展を後にしました。このほか、常設展があるのですが、長くなりますから機会があれば。

この美術館美しい建物ですが、一つ問題があります。一階から三階までエレベーターしかないのです。階段が無いため、混雑するとエレベーターに乗るため並ばなくてはならず、時間が無い時は考え物です。急ぎますのでとは言えないのです。下り専用階段だけでも作ってほしかったですね。

さて、北斎さんの絵巻は個人の手から海外に流失して100年めに帰って来たのですが、国立西洋美術館の実業家・松方幸次郎さんが取集した<松方コレクション>は、戦争によってフランスの国有となったものが、日本に無償返還され、そのために国立西洋美術館が建てられたのです。

映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』は、<オーストリアのモナ・リザ>とまで言われていたクリムトの有名な絵『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』が、ナチスに奪われ、このモデルである女性の姪であるマリア・アルトマンが裁判を起こして返され、海を渡りアメリカの美術館に納められたという実話をもとにしたものです。

クリムトの絵にそんな数奇な事実があったことも知らず、マリア・アルトマン役が名女優のヘレン・ミレンで、心の傷と葛藤しつつも凛として闘う姿を見せてくれます。絵も描かれた時代から時間を通過して、様々な歴史的環境の中をくぐり抜けてきているのです。

さてさて隅田川にもどり、木母寺となれば梅若丸となりましょうか。となれば、次はどこへ行くのかお判りのかたもおられると思います。では、そこでお目にかかりましょう。

 

ルネサンスから『ダ・ヴィンチ・コード』まで(6)

ヴェネツィア・ルネサンスの祖といわれているのがベッリーニさんで聖母子像を沢山描かれているらしく、『ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち』チラシの絵「聖母子」がベッリーニさんの作品で通称<赤い智天使の聖母>といわれていて、マリアとイエスの上に雲から顔を出す天使が描かれていてその顔が大きくて赤い色をしているのです。ながめていると<聖>を強調するユーモアさえ感じます。

ティントレットの「聖母被昇天」にも昇ってゆくマリアの周りには羽根をつけた天使の顔が取り囲んで飛んでいます。象徴さを表したかったのでしょうか。

巨匠のひとりであるティツィアーノの晩年の傑作といわれる「受胎告知」が日本初公開でした。マリアに受胎を告げるのが、大天使ガブリエルで純潔の象徴である白い百合を持っていますが、ティッィアーノさんの絵にはマリアの足元のガラスの花瓶に生けられているのが白百合なのだろうと思いました。

<受胎告知>でも、大天使ガブリエルがいなくてマリア一人が描かれているのもあり、どこかに<受胎告知>のヒントはないかなと思ってみるのも面白いとおもいます。

ティツィアーノさんの「聖母子」は、抱かれているイエスの右腕が下がっていて死を意味するともいわれています。マリアの悲し気な眼。

その他の「聖母子」にはマリアが縫い物をしていて、横に立つイエスがハサミのようなものを持ち、これも死を暗示しているのかなとおもわせます。宗教画としなければ普通の親子の日常の一コマで、いたずらな子どもともとれて微笑ましい光景でもあります。

ヴィーナスの絵もあって、裸体のヴィーナスにあわてて何かを羽織らそうとする者がいますが、ボルドーネの「眠るヴィーナスとキューピッド」はキューピッドが掛けようとしているのか取ったのかわからない状態で赤い掛物と悪戦苦闘しているようで、その様子が可愛いいです。

豊満な裸体身のヴィーナスは、多産や繁栄や健康の守り神として、結婚の記念に贈ったり描かせたりもしたようです。ボッティチェリの「プリマヴェ―ラ(春)」もピエルフランチェスコの婚礼のために描かれて、彼の妻のセラミデがモデルで「ヴィーナスの誕生」のモデルも彼女であるとの説があります。セラミデさん、シモネッタさんとの血筋がつながっているそうですので、まあどちらでもいいですが、ヴィーナスの絵に役割があったのは面白いです。

苦手だった宗教画も観方によっては楽しいではないかとおもえるようになったのでルネサンスもまんざらではなかったということです。

さて、その宗教も解釈が色々あるようです。やっと『ダ・ヴィンチ・コード』となりますが、ルーヴル美術館の館長が殺されて、裸になって自分の身体に血で五芒星(ごぼうせい)の印を残していて、館長殺しの犯人とされてしまった宗教象徴学専門のハーヴァード大学教授が謎を解いていくのです。

五芒星(ペンタクル)はキリスト教以前の自然崇拝にまつわる象徴でもあり、男神と女神が力の均衡を維持する世界として、男女のバランスがとれていれば世界は調和がとれていて、バランスが崩れると混沌がおとずれるとしています。そして異教の象徴であり悪魔崇拝とされています。

<シオン修道会>は、コンスタンティヌス帝とその後継者である男性の皇帝たちは、聖なる女性を公然とこき下ろし、女神を永久に消し去ることで、母権的な異教社会から父権的なキリスト教社会への転換をなしとげたと考えています。イエスは優れた預言者で、妻がいてそれが<マグダラのマリア>であったとしていて、小説ではマグダラのマリアはイエスの子を身ごもっていて、その血脈が密かに守られているということがからんでくるのです。

館長は、ダ・ヴィンチの円のなかに内接した手脚を伸ばした男の裸体図<ウィトルウィウス的人体図>の形で亡くなっています。さらに、犯人とされた教授を助けるフランス司法警察暗号解読官である優秀な女性がダ・ヴィンチの絵「モナリザ」や「岩窟の聖母」から謎の暗号の品物を見つけるのです。

十字軍やテンプル騎士団の話し、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵の解釈が出てきたりして、小説では<13の金曜日>の説明もありなかなか興味深いです。映画と小説の比較も楽しかったです。

この本と映画のお陰でその関連ツアーが人気になったそうで、DVD『ダ・ヴィンチ・コード・ツアー』では、そのツアーの映像版で旅をさせてもらったのです。

どう解釈するかは別としてティッィアーノさんの「マグダラのマリア」がきます。『ティッィアーノとヴェネツィア派展』(東京都美術館)です。

「マグダラのマリア」の絵はまえにも展覧会できてます。そのとき私は<娼婦>が懺悔していると解釈しましたので、映画館で『ダ・ダヴィンチ・コード』を観たときは架空の話しのミステリー&サスペンスとして観ていました。

宗教は根が一つかもしれませんが、長い間には解釈が多様化したり、時の権力者に変えられたりもします。それでいて神の名のもとに殺し合いもあるのですから、思索できない者はあまり深く関わりたくない分野です。宗教の自由がいいです。・

ロバート・ラングドン教授のトム・ハンクスさんは『インフェルノ』が良かったです。髪は長いより短いほうがいいです。

長いだけで終わり方がこれなのと自分で自分にツッコミをいれています。

クラーナハ 500年後の誘惑』(国立西洋美術館)ギリギリで行きました。ドイツ・ルネサンスはパスでいいかなと思ったのですが、いや~面白かったです。宗教改革のルターさんとも関係があって、事業家でもあり、沢山ツッコミをいれて観てきました。常設展にはヴァザーリさんの絵「ゲッセマネの祈り」もありまて、天使からの光があたる衣裳などがとても綺麗な輝きで描かれていました。

<ルネサンス>はダ・ヴィンチさんの解剖とは反対にどんどん筋肉がつき血が通ってきた感じです。きりがないのでここで一応締めます。

 

ルネサンスから『ダ・ヴィンチ・コード』まで(5)

ミケランジェロさんとボッティチェリさんの接点は、ミケランジェロさんの大理石の彫像「ダヴィデ」を設置するための設置委員会にボッティチェリさんが参加しています。この彫像はフィレンツェ市からの要請で作られ、何処に設置するかで意見がわかれたのです。ミケランジェロさんは外が良いと主張。ボッティチェリさんやダ・ヴィンチさんは外は痛みが激しいからと別の場所をすすめたのですが、ミケランジェロさんの要望が通りました。

現在は、本物はフィレンッェのアカデミア美術館にあり、市庁舎そばの本来の位置にはレプリカが立っています。

ボッティチェリさんも、1481年にシスティーナ礼拝堂に壁画を描いています。ミケランジェロさんが天井画描き始めたのが1508年で4年後に完成。そして「最後の審判」を始めたのが1536年で完成が1541年です。ミケランジェロさんが誰にも見せず描いたのに対し、ボッティチェリさんは皆にみせつつ描いたそうです。

システィーナ礼拝堂の天井画と壁画の「最後の審判」は、『ミケランジェロ展』でも詳しく解説を書いてくれていましたが、出品リストにも図入りで説明を加えてくれていまして今みても参考になります。天井画は<天地創造の物語><アダムとエヴァの物語><ノアの物語><旧約の7人の預言者>など一つ一つに意味があるのです。映画『E.T.』のポスターで、少年と宇宙人との人差し指の触れて合うのが印象的でしたが、天井画にあるアダムと神の絵と相似しているのであれが原点かなと話題になりました。

「最後の審判」は上が天国で下が地獄。左は善で、天国に迎えられる人々が描かれ、右は悪で地獄におとされる人々が描かれていていて、上下の人の流れがわかります。やはり説明がないと宗教画はわかりません。「最後の審判」は、メディチ家出身のクレメンス7世に要請されています。

星形の要塞の建築図面もありました。サン・ピエトロ大聖堂にかかわったり、メディチ家の礼拝堂にたずさわったりと、権威者に色々要求されて晩年も大変なミケランジェロさんでした。15歳の頃からその天分をロレンツォに認められ、ロレンツォの館でロレンツォの子どもと同じような扱いをうけ、88歳まで生きられたということもあります。サン・ピエトロ大聖堂にあるあの「ピエタ」が24歳の時の作品ですから、メディチ家もミケランジェロさんを放しませんよね。

イタリア・ルネサンスの全盛期の三大巨匠は、ダ・ヴィンチさん、ミケランジェロさん、ラファエロさんなのですが、ラファエロさんの展覧会は今回なかったのでラファエロさんは抜かしました。

  • ボッティチェリ    1444年頃 ~ 1510年(65、66歳没)
  • ダ・ヴィンチ     1452年 ~ 1519年(67歳没)
  • ミケランジェロ    1475年 ~ 1564年(88歳没)
  • ラファエロ      1483年 ~ 1520年(37歳没)
  • ヴァザーリ      1511年 ~ 1574年(62歳没)

ヴァザーリさんが生まれた時は、ミケランジェロさんしか師とする対象の人はいなかったことになります。ラファエロさんは早くに亡くなられていました。

ルネサンス期は感染病のペストが何回か流行し、隔離するということがわからずフィレンツェの人口が半分に減ってしまうという事態の時もありました。死と隣り合わせの時代でした。

こうした流れの中での、『ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち』へとなるわけですが、この流れがなければ宗教画中心のこの展覧会には行かなかったとおもいます。アカデミア美術館所蔵とありまして、えっ!「ダヴィデ」はフィレンツェよねとはてなマークになりましたら、<アカデミア美術館>は、ヴェネツィアとフェレンツェにそれぞれにあるということです。

ルネサンスはフェレンツェからローマそしてヴェネツィアへと波及していきます。今になって『カラヴァッジョ展』(国立西洋美術館)も観ておけばよかったと残念がっております。

 

ルネサンスから『ダ・ヴィンチ・コード』まで(4)

メディチ家の至宝 ルネッサンスのジュエリーと名画』は、フィレンツェに300年に渡って君臨したメディチ家の人々が身につけたであろう宝石類や肖像画などの展覧会です。

フィレンツェを追われたメディチ家は再びフィレンツェに戻ってくるのです。アレッサンドロは君主となりますが暗殺され、フィレンツェはトスカーナ大公国となりメディチ家からコジモ1世がうまれます。ここまでメディチ家は、兄脈でコジモ、ピエロ、ロレンツォ ~ アレッサンドロと続いていたのですが、コジモ1世(初代トスカーナ大公)からは弟脈のほうが第7代トスカーナ大公まで続くのです。

メディチ家の至宝 ルネッサンスのジュエリーと名画』は、この弟脈のトスカーナ大公時代のものの展示がほとんどでした。あまりの沢山のジュエリーに、宝石に関しては猫に小判の者としては、さらさらと眺め、それよりもメディチ家の家系図が手に入りニンマリでした。肖像画に描かれている宝石類のほうには眼がいきます。ジュエリーの高価さよりも、それをどう身につけているかということには興味があります。可愛らしい女の子が大きな玉の真珠の首飾りを首に巻きさらに垂らしているのを見るとお気の毒とおもわざるえません。とにもかくにも栄華を極めていたことはたしかです。

兄脈のほうにはローマ教皇になった人物もいて、ロレンツォの息子が教皇レオ10世に、暗殺されたジュリアーノの息子が教皇クレメンス7世になっています。このお二人はミケランジェロさんとかかわってきます。教皇も当時の芸術家にとっては、強力なパトロンだったわけです。

映画『ウフィツィ美術館』は、古代ローマ時代の彫刻からイタリア・ルネサンス時代の巨匠たちの美術品を中心に、さらにその後の名品が展示されているウフィッィ美術館を紹介するもので、メディチ家の歴代のコレクションです。

イギリスの俳優・サイモン・メレルズさんが豪華王のロレンツォになって解説してくれます。フィレンツェの街からウフィツィ美術館の中まで3D・4Kテクノロジー映像とやらで、例のメガネをかけてみるのですが、ウオン、ウオンと飛び込んできて奥行ができたりと、私は普通の映像でいいと思いました。気が散ってしまいます。

ミケランジェロの「ダヴィデ」などは、下から見て顔が小さく見えないように大きくしているので、そうした彫刻の立体感や大きな頭などはわかりますが、ダ・ヴィンチ未完の「東方三博士の礼拝」があったらしいのですが記憶が飛んでいます。普通の映像で再度観てみたいものです。

ウフィツィ美術館は、コジモ1世がヴァザーリに設計させて作らせた当時の官庁としての事務所で、その後、美術館となったのです。このヴァザーリさん少年のころ、ミケランジェロさんのアトリエに入門するのですが、ミケランジェロさんローマ教皇に呼ばれてローマに行ってしまい、直接教えを受けていないのです。しかしミケランジェロさんを師として機会があると助言をしてもらったようです。ミケランジェロさんはダ・ヴィンチさんのBBC制作のDVDの中でも何日も入浴しない変わり者として扱われていましたが気難しい人で、ヴァザーリさんには気を許していたようです。

ヴァザーリさん画家で建築家であると同時に評伝家でもあって、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、ボッティチェリ、ラファエロなどの多くの芸術家の『芸術家列伝』を書いていて、当時の文献として貴重な役割をはたしているのです。

ヴァザーリさんは、コジモ1世のお抱え画家で建築家でもあり、ヴェキオ宮殿の改装、ウフィッィ宮殿の建築、その二つを結ぶアルノ川にかかる橋のヴァザーリの回廊などを作りあげています。

ミケランジェロ展』は、ミケランジェロさんの彫刻、絵画、建築の三つの柱の建築を中心にして、その装飾についても言及していました。

函館の五稜郭で、こちらは司馬遼太郎さんの『燃えよ剣』を読んで、もう剣の時代ではなかったよなあなどと思いつつ、新選組副長土方歳三が死を賭けて最後に飛び出した橋はここかなどと思いつつ中に入ったのです。函館奉行所の展示室に五稜郭のジオラマもあって、そこで係りの人が他の人に説明していました。「星形のお城は、もとをたどればミケランジェロが考えたんです。日本に函館ともう一つ長野にあります。長野のほうは五稜郭の中に学校が建っています。」

長野の佐久市にあって龍岡城五稜郭といわれ、星の中に佐久市立田口小学校が建っているのです。

ミケランジェロさんと建築が結びついた一瞬でした。

ミケランジェロさんとダ・ヴィンチさんは仲が悪かったようです。ダ・ヴィンチさんが「画家は優雅だが、彫刻家は汚い労働者のようだ」と言ったらしく、ミケランジェロさんカチンときたんですね。BBCの映像でも、ミケランジェロさん、ダ・ヴィンチさんに挑戦的でした。23歳年上のダ・ヴィンチさんに突っかかるのですから、天才の負けん気でしょう。

この天才二人の作品での対決があるのです。ベェッキオ宮殿(市庁舎)の<五百人広間>の向かい合わせ壁画の制作でした。BBCの映像では、仕組んだのはマキアヴェリとしていましたがフィレンツェの政庁から戦闘図を描くように依頼されるのです。ダ・ヴィンチさんは「アンギアリの戦い」、ミケランジェロさんは「カッシーナの戦い」を描きます。ところが、ミケランジェロさんは下絵の段階でローマにいってしまい、ダ・ヴィンチさん、またや新しい絵の具を試し失敗してしまうのです。そのあとで完成させたのが、ヴァザーリさんなのです。

ミケランジェロ展』には、ヴァザーリさんの『美術家列伝』も展示されていました。初版が1550年でその後の1648年に刊行されたものです。

 

ルネサンスから『ダ・ヴィンチ・コード』まで(3)

ボッティチェリさんは、ダ・ヴィンチさんより7歳年上です。接点は、ダ・ヴィンチさんが負かしてしまった師匠ヴェロッキオの工房です。

ボッティチェリさんは、フィレンツェの革なめし職人の家に生まれ、金細工の工房に弟子入りし、絵の才能があることから、修道士画家リッピの工房へ。師匠のリッピの息子がのちにボッティチェリの弟子となり、リッピ親子の作品も『ボッティチェリ展』にも並んでいました。その後がヴェロッキオの工房に移ります。ボッティチェリさんが24、5歳でダ・ヴィンチさんが16歳ころです。二人は終生良き関係を保っていたようです。

ボッティチェリさんはその後独立します。銀行家仲買人のラーマの注文で「ラーマ家の東方三博士の礼拝」を描きますが、ここにメディチ家の人々が描かれていて、ボッティチェリさん自分をもしっかり描いているのです。<東方三博士>というのは、新約聖書にでてくるイエスが誕生したとき訪れて拝した三博士・三賢人のことです。<新約聖書>はイエスが生まれたあと、<旧約聖書>は生まれるまえのことが書かれたものということで、「受胎告知」は旧約聖書に書かれていると思われます。

宗教画は苦手です。枠と決まり事があって、少しわかると構図や描き方などそれぞれの画家の違いを比較ができたりもしますが、同じに見えてしまうのです。

この「ラーマ家の東方三博士の礼拝」は『ボッティチェリ展』にきていたのです。コジモ・イル・ヴェッキオ公(コジモ)がイエスの可愛らしい足に手をかざしています。ひれ伏している赤いマントの人物がコジモの息子のピエロ、その隣がピエロの弟のジョヴァンニ。あとは色々説があるようですが、コジモの後ろに帽子をかぶって立っているのが、のちに豪華王といわれたピエロの息子のロレンツォ・イル・マニフィコ(ロレンツォ)、それと対称的に右に立っているのがロレンツォの弟のジュリア―ノ、その右端に立ってこちらを見ているのがボッティチェリです。描いているのがボッティチェリでその中で「どう、この絵」といっているようにこちらを眺めているのですからまいります。美男子のジュリア―ノはのちに暗殺されてしまいます。

ロレンツォは、左側の剣を持っている人物とも言われていますが、何となくイエスを中心に向かって囲んでいるような気がします。注文者の人物はジュリアーノの後ろでこちらを見ている人物です。そうすると、左端でこちらを見ている人も気になりますがわかりません。

フィレンツェは、メディチ家のゴジモ、ピエロ、ロレンツォ三代によって、共和制でありながら君主のように統治していました。

ボッティチェリさんはメディチ家の要請で「プリマヴェ―ラ(春)」、「ヴィーナスの誕生」等を描きます。メディチ家の豊富な資金力からギリシャ・ローマ神話の世界を絵や彫刻などに表現させるのです。このあたりが<ルネサンス>の古代の再生といわれるところとなるのでしょう。

メジチ家の栄華と財力は『メディチ家の至宝 ルネサンスのジュエリーと名画』や映画『フィレンツェ,メディチ家の至宝 ウフィッィ美術館』での公開となるのです。ウフィッィ美術館には、「プリマヴェ―ラ(春)」、「ヴィーナスの誕生」などボッティチェリさんの多くの作品やそのほかイタリア・ルネサンスの作品が納められています。

ボッティチェリ展』に展示されていた「美しきシモネッタの肖像」のシモネッタはジュリア―ノの恋人で、「プリマヴェ―ラ(春)」、「ヴィーナスの誕生」のモデルだともいわれています。

神々を人間の美しさで表すあたりや、色の美しさなど、中世のキリスト教会に押しつぶされていた人間賛歌ともとれ、「書斎の聖アウグスティヌス」の深く思索する様子は、いままでになかった精神的表現ともいえます。

メディチ家の贅沢三昧の生活をに批判的なドミニコ会の説教師・サヴォナローラが出現します。ロレンツォが亡くなり息子の代になると力が弱り、フランス軍の侵攻となりメディチ家はフィレンツェから追放されてしまいます。サヴォナローラは華美なもの官能的なものを禁じ焼却させます。ボッティチェリさん、サヴォナローラの説教に共感し入信します。そのため裸体の素描は提出し、焼却されたようです。しかし人々はあまりの禁欲生活に嫌気をさし、サヴォナローラは逮捕され火刑に処せられてしまいます。

その後ボッティチェリさんは、キリスト教の宗教画しか描かなくなったようなのですが、その前とその後の絵に関しては比較していませんので違いは書けません。サヴォナローラに心酔したのも、メディチ家の実態を知っていたがためであり、その前から精神的な葛藤はあったのでしょう。ルネサンスは決して平安な時代ではありませんから、メディチ家をパトロンとする自分の芸術家としての自分の位置になんらかの想いもあったのであろうと想像します。

 

ルネサンスから『ダ・ヴィンチ・コード』まで(2)

レオナルド・ダ・ヴィンチ - 天才の挑戦』のお勧めの絵は「糸巻きの聖母」でした。「モナ・リザ」につながる作品とされ、ダ・ヴィンチが考え出した<フスマート>といわれるぼかし法で、ボッティチェリなどは細い輪郭線がはっきりしていますが、ダ・ヴィンチはぼわーんとしています。

「糸巻きの聖母」はマリアがイエスを膝にのせ左手で抱えるようにしていて、イエスは糸巻きを縦にしてに持っており、その糸巻きが十字架を暗示しているようで、マリアの表情は穏やかですが、右手が「あっ!」と驚くように大きく開かれています。ダ・ヴィンチさんの絵は何か謎めいた物語性を感じさせます。『モナ・リザ』も美しいほほえみに見えたり、角度によっては皮肉っぽい笑みに見えたりします。

この展覧会のときは、鳥の飛翔に関する手稿、簡単に組み立てられる橋の図、正確なデッサン、医学的人体デッサンなどが展示され、絵を中心に考えていたので肩透かしをされた気分が少しありました。

ところがその後、DVDで『ダ・ヴィンチ1 ~万物を知ろうとした男~』『ダ・ヴィンチ2 ~危険な関係~』を見て、<天才の挑戦>がわかってきました。

小さいころから何でも観察するのです。鳥はどうして飛べるのかと羽根とか空気の流れとかをじーっと観察するのです。鳥って飛べていいなあ!では止まらないのです。子どものころ文字をきちんと学ばなかったこともあり、絵で表現していて、絵の才能もあったので、文字で表すより絵で表すほうがダ・ヴィンチさんにとっては速い表現方法だったのかもしれません。

大人になれば自分の考案したものを実際に作りたいという、科学者としてのダ・ヴィンチさんでもあるわけです。そのために、嫌われ者のミラノ公のもとでは、パーティーの演出を任され、ロボットのようなものを登場させたりと参加者を驚かせ愉しませています。

さらに、冷酷非道といわれたチェ―ザレ・ボルジアに近ずき、戦争を悪だといいつつ、戦さに使うためのものを考案します。城を包囲されたら空を飛んで逃げるパラシュートとかグライダー、敵にわからないように船を沈没させるため、水の中を潜って進むための潜水服のようなものを考えたり、戦車のようなものも考えます。

DVDでは、これらをダ・ヴィンチさんの設計図で実際に作って実験していました。最初は失敗するのです。次に、設計図の横のほうにメモが沢山あって、それが鏡文字なのですが、そのメモを使って修正すると成功するのです。これは、自分の発明を他の人にはわからないようにしてのこととも思われます。そういう意味でも、ダ・ヴィンチさんの謎解きの研究がなされるゆえんなのでしょう。ダ・ヴィンチさん左手書きなのです。

とにかくなんにでも興味があり、死体の解剖をして解剖図を描き、鏡文字があったりしますから、教会に呼ばれ妖術家の疑いをかけられたりします。

血液中のコレステロールも調べていて、年齢とともにたまるということまで調べていましたが、不浄な行いとして研究は続けられませんでした。

壁画や絵画の仕事を引き受けても、完全主義ということでしょうか、そこに描く一人一人を街を歩く人から選びデッサンをして納得いくまで実際の仕事にかからないので、「東方三博士の礼拝」など未完成の作品も多いです。

20歳ころには「キリストの洗礼」を師匠ヴェロッキオと共作し、左の二人の天使を描きますがそちらに目がいくように工夫するのです。その通りとなり、ヴェロッキオは弟子の腕に驚きその後絵筆をとらなかったともヴァザーリは評伝に書いているそうです。

「モナ・リザ」は常にそばにおき、死んだときもそばにあり、忘れかけていた彼の名も『モナ・リザ』で世間に知らしめたとDVDではしめくくっています。確かにそうです。こんなに色々なことに精通していたとは知りませんでした。

イタリアのトスカーナで生まれ、フィレンツェ、ミラノ、、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノ、ローマと移り住み最後はフランスで亡くなっています。

 

ルネサンスから『ダ・ヴィンチ・コード』まで(1)

新しい年の2017年となりましたが、気持ち的にはこれといった変化はありません。元旦は初日の出が眩しいほどよく見れたお天気で、自然界は少し渦巻いているようなので、「機嫌のよい年としてくださいな」と手を合わせました。

書くことは、これまた昨年の足跡なのです。なぜなら、2016年1月の『レオナルド・ダ・ヴィンチ展』から始まって日伊国交樹立150周年記念の年ということもあって、<ルネサンス>が目白押しでした。

こちらの意志とは関係なく<ルネサンス>の加速化が始まりまして、3月の函館の旅の五稜郭では、もとをただせば、ミケランジェロが考えた星形要塞の延長であることを知りました。最後は映画『インフェルノ』の公開があり、映画『ダ・ヴィンチ・コード』を見直し、これは小説『ダ・ヴィンチ・コード』を読まねば落ち着かないということで、2017年の読書本は年始から『ダ・ヴィンチ・コード』となりました。

簡単にルネサンス関連から観た経過を整理します。

  • レオナルド・ダ・ヴィンチ ー 天才の挑戦』(江戸東京博物館)
  • ボッティチェリ展』(東京都美術館)
  • メディチ家の至宝 - ルネサンスのジュエリーと名画』(東京都庭園美術館)
  • 映画『フィレンツェ,メディチ家の至宝  ウフィツィ美術館
  • ミケランジェロ展 - ルネサンス建築の至宝』(パナソニック 汐留ミュージアム)
  • アカデミア美術館所蔵  ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち』(国立新美術館)
  • DVD BBCアートシリーズ『ダ・ヴィンチ1 ~万物を知ろうとした男~
  • DVD BBCアートシリーズ『ダ・ヴィンチ2 ~危険な関係~
  • 映画『インフェルノ
  • 映画『ダ・ヴィンチ・コード
  • 映画『天使と悪魔
  • DVD『ダ・ヴィンチ・コード・ツアー
  • DVD『ダ・ヴィンチ・コード・ザ・トウルース
  • 小説『ダ・ヴィンチ・コード

最終的にはダ・ヴィンチさんが色濃くなったようです。

ダ・ヴィンチさんという人は天才で、それがルネサンス時代と重なり、同時にライバルとしてミケランジェロがいたり、あるいは、同時代の画家としてボッティチェリなどがいて、そのルネサンスの擁護者がメディチ家であったといういうことなどが見えてきました。

小説『ダ・ヴィンチ・コード』ですが、最初に「事実」という書き始めで、<シオン修道会>の会員として、サー・アイザック・ニュートン、ボッティチェルリ、ヴィクトル・ユーゴー、そしてレオナルドド・ダ・ヴィンチらの名が含まれていると書かれていて、さらに「この小説における芸術作品、建造物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。」とあります。

DVD『ダ・ヴィンチ・コード・ザ・トウルース』は、その事実とされることへの反論の内容です。『ダ・ヴィンチ・コード』に関しては映画だけでは、流れが速くよくわからない部分があり、これは原作を読まなければとの結論になり本をよむことになったわけです。

『ダ・ヴィンチ・コード』のダ・ヴィンチさんは、宗教的な解釈の違いから異教者としての道標なっているようです。宗教に関しては深みには入る力もありませんので、キリスト教の解釈としてそういうこともあるのかという程度で、小説としての展開材料として読みました。

天才ゆえに、自分の才能を認めさせようとの積極的な行動もあり、色々な隠し味も作れる才のあるかたであったと思います。

映画『ダ・ヴィンチ・コード』のラストのラングドン教授が、ルーブル美術館の上から逆三角形を眺め降ろすのは、ここから始まってここで終わるということなのでしょうか。小説には無い場面ですので、その捉え方にとまどっていますが、<聖杯>に自分は包まれているともとれます。

 

東京国立博物館『禅 心をかたちに』 映画『禅 ZEN』

11月27日に終わってしまった国立博物館での特別展の『禅 心をかたちに』へ行ったのですが、捉えどころがなくて書きようがなく気にかかっていたのです。

劇団民藝『SOETSU 韓くにの白き太陽』の登場人物、浅川巧さんの映画『道~白磁の人』(監督・高橋伴明)から高橋伴明監督の映画『禅 ZEN』が出現。勘九郎さんが勘太郎時代の映画で、今は観たくないの枠に入っていたのですが、特別展の『禅 心をかたちに』がぼやけているので見ることにしました。

宗教家の伝記映画は、命をかけて修業をし仏の教えを受けて伝導するもので、ほとんど泣かされてしまうパターンとしてわかっているので避けていたのですが、少し解りやすい形で禅を伝えて欲しいとの想いもあったのです。

特別展の『禅 心のかたち』は臨済宗とその流れをくむ黄檗宗(おうばくしゅう)で、京都の萬萬福寺へ行った時には聞きなれなかった黄檗宗がわかりました。萬福寺はJR奈良線黄檗駅から近いので行きやすいお寺で、山門も建物も中国風でお腹の大きな布袋像があって<まんぷく>と重なって親しみやすさがあります。

東博にも来られていましたが、羅怙羅尊者(らごらそんじゃ)像は、お腹のなかを手でばーっと引き裂いて見せていまして、中に仏さまの顔があり、自分のなかに仏がいるのだということを示しています。最初みたときは驚きます。この黄檗宗は江戸時代に中国から伝わっています。

禅宗が中国から伝わり広まるのは鎌倉から南北時代で京都五山といわれていますが、南禅寺はその五山の上の別格で、そういう意味でも石川五右衛門と南禅寺の山門には劇中の権威に対する思惑が含まれています。この件、かなりしつこいですが。

臨済宗での功名な祖師たちの肖像や肖像画などが多くありましたが、そのあたりはよくわかりません。書や教本などもさらさらとながめました。一応音声ガイドは借りたのですが。

禅のはじまりは<達磨(だるま)>です。インドから中国に渡来します。雪舟さんの絵には、座禅する達磨に自分の腕を切り達磨に入門を願う僧の絵がありました。国宝です。たとえ腕がなくなったとしてもという決意をあらわしているのでしょうが、白隠さんの絵のほうがユーモアがあっていいです。

白隠禅師は日本臨済宗の教えを完成させた祖といわれているんですが、殴り書きみたいに多くの禅画を描かれていて人気のあるかたです。大きな顔のみの達磨の絵。「富士大名行列図」には、<参勤交代は庶民を苦しめる浪費>と書かれてありまして、ユーモアがあるのに鋭さもあります。

臨済宗の祖は、中国唐代の臨済義玄(りんざいぎげん)で、絵によると恐ーいお顔をされています。「喝(かつ)!」と一声を発した荒っぽさもあったとか。

気に入った禅僧の肖像画は、愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)さんです。出世をのぞまず質素な生活をされたそうで、その姿絵は、右腕を挙げた手は頭頂にあてられ熊谷直実の花道での嘆きの姿ですが、直実とは違って、こまったなあ本当に絵にするのといった感じです。座っている椅子は節だらけで、下に置かれている沓はわらでできているようです。<こころをかたちに>がわかりやすい絵姿でした。

こんなのもありました。源実朝が二日酔いのとき、栄西(ようさい)が茶と「茶徳の書」を献上したという逸話があると。

源実朝を暗殺し、三浦一族に殺されてしまうのが実朝の甥の源公暁ですが、この公暁が映画『禅 ZEN』の道元の友人として出てくるのです。となるとなんとなく時代はわかるとおもいます。さて、映画のほうに移ります。

道元は禅宗のなかの曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖です。

原作が小説なので、史実のほどはわかりませんが、道元にとって、公暁はいつも心のなかにいたことがラストでわかります。流れの筋はわかりやすく流れています。道元は留学僧として中国の宋に渡ります。そこで自分が教えを受けたい師をもとめついに巡り合い悟りをひらきます。

日本にもどり自分の学んだ禅宗の布教を共に修業した僧とはじめます。さらに宋で公暁と似ていて、道元が公暁!と呼びかけた僧も日本に渡ってきてくれます。ただひたすら、座禅による修行です。そして、そのままを受け入れる修業でもあります。

布教が広まると比叡山の僧に迫害を受け、越前に移りそこでつくられたのが永平寺なのです。生活のために身を売る女との問答、時の天下人・北條時頼との問答など、勘九郎さんの道元は台詞に落ち着きと信念があって涼やかです。時頼に鎌倉に残るようにいわれますが、越前の小さな寺が自分の場所であるとしてことわります。

台詞の声を聞きつつ、勘三郎さんの響きが時々あり、そのへんで押さえておいてと思いました。勘三郎さんの響きが多くなると、動きが違ってくるような気がするのです。自分の領域を多くしておいて欲しいです。『二人椀久』も『京鹿子娘五人道成寺』もこの道元の静かな表情が基本でいいのかもしれません。

座禅の時へその前で手のひらを上にむけて両手を重ね、親指の先を接する印相は禅定印(ぜんじょういん)といい、その空間に仏さまがいるのでそうです。子供が手のひらを毬を上と下ではさむような形にしていて、「それは違いますよ」と注意されるのですが、「雨が降っていますから」といいます。そこには小さな道元がいました。

人の進む道はそれぞれの空間に生じるわけで、それぞれの修行の道です。到達点はなく、とどいたと思ったらまた進まなくてはいけないのです。

体験しましたが座禅をして無になるのは大変です。感じて考えてあちらにふらふらこちらにふらふらしているのが今はいいです。

なんとか<禅>もつたないまま終わらせられました。

監督・脚本・高橋伴明/原作・大谷哲夫(「永平の風 道元の生涯」)/音楽・宇崎竜童、中西長谷雄/出演・中村勘太郎(現勘九郎)、内田有紀、藤原竜也、テイ龍進、高良健吾、安居剣一郎、村上淳、勝村政信、鄭天庸、西村雅彦、菅田俊、哀川翔、笹野高史、高橋恵子

 

 

『日本の伝統芸能展』

日本橋の「三井記念美術館」で国立劇場開場50周年記念の特別展として『日本の伝統芸能展」が開催されています。

これから先の開催予定に、2017年4月15日から『奈良西大寺展』があるのです。タイミングの良さに驚いてしまいました。「愛染明王像」も来られます。魔法の壺から魔法のジュウタンをだされて飛んでこられるのでしょうか。

いとうせいこうさんの西大寺の恋仏の文殊菩薩さまも、そしてなんと、みうらじゅんさんの恋仏の浄瑠璃寺の吉祥天さまもいらしゃいます。いとうせいこうさんとみうらじゅんさんの恋心の引力でしょうか。こちらは、その引力のおかげで再会できるのですからありがたやありがたやであります。お二人の『見仏記』を読みますと、恋する仏さまにたいする、その切なくも可笑しいお二人の様子がわかります。原文で読まないとちょっと微妙な表現を味わうことができませんので興味のある方は是非お読みください。

私が吉祥天さまにお会いした時のことはこちらにあります。お二人の発想からみると味わいの無いつまらなさの一例です。 亀山宿~関宿~奈良(4)

嬉しくて前置きがながくなりました。

本題の『日本の伝統芸能展』ですが、「雅楽」「能楽」「歌舞伎」「文楽」「演芸」「琉球芸能・民族芸能」の6つを柱としての展示ですが、基本的には「歌舞伎」が中心になってしまいました。

舞楽の陵王(りょうおう)の面がまじかに見られました。中国で武将が美し過ぎて兵士の士気があがらないため、恐ろしい仮面をかぶって戦いに挑んだという陵王にちなんだ舞楽に用いる面で目をかっと見開いて迫力があり、舞楽用ですので豪華絢爛という感じです。

小鼓の胴の部分が蒔絵になっていてその包みに<大和法華寺伝来>と墨書してあるという説明書きの<法華寺>の文字には、こちらも目をぱちっと開きました。今は三井記念美術館所蔵です。

興味ひかれたのは、阿国歌舞伎から始まる歌舞伎図屏風です。囲いの無かった舞台に能舞台を踏襲していたのが、竹矢来で周囲が覆われ、入口がねずみ口となり、三味線が加わり、やぐらも出来、京都の四条川原から江戸にも広がり「上野花見歌舞伎図屏風」(伝菱川師宣)では、中村屋のやぐらがあがり、やぐらの垂れ幕には<きょうげん 中村かんざぶろうつくし>と書かれています。この流れがわかる歌舞伎図屏風の展示でした。

このあたりから浮世絵になり絵師もはっきりしてきます。「中村座内外の図」(初代歌川国貞)定式幕が左端にまとめてつるされていて、黒御簾が下手にあり、舞台では <対面>が演じられ、五代目幸四郎の工藤、七代目團十郎の五郎、三代目菊五郎の十郎です。

役者浮世絵には初代右団次の佐倉宗吾の妻の霊の幽霊が描かれているものもありました。楽屋での役者たちの様子もあり、三代目三津五郎が所作事の振りつけを教えているところなど、役者の素顔がかいまみれます。

衣裳もあり、六代目菊五郎着用の松王丸の衣装は黒綸子(くろりんず)ですが、紫に変色していましたが、その紫も美しいというのはは品物が良いからでしょうか。今月の歌舞伎座の勘九郎さんの松王丸は銀鼠(ぎんねず)綸子の音羽系でした。七代目幸四郎着用の工藤の衣装は黒の木綿地にびっしりの錦糸の刺繍は織物のようです。琉球芸能の紅型(びんがた)の衣装の色が明るくて艶やかで、沖縄舞踏で使われる花笠の赤も綺麗でした。

なるほどなるほどと納得して楽しんで見てきました。