演劇録画鑑賞『雨』

  • 猿之助さんが亀治郎時代に井上ひさしさんの芝居『』に出演していた。実際には観ていないがテレビの録画があった。一度挑戦したが10分ほどでやめてしまった。猿之助さんは今月は法界坊という汚いなりの役であるが、こうした役は『』以来だという。そうなのである。汚いなりで亀治郎さんは聞き役であまりしゃべらないのでそれで止めてしまったのである。ここから膨大なセリフとなる。江戸から<金物拾いの徳>は、山形に行く。その土地の方言を寝る時間を割いて練習し、違う人物の特性を知り身に着けるために必死となる。その努力は死への道であった。

 

  • 予定外に早く予想しなかった死がやってくるのであるが、或る面では人の生きるということもそういうことであるようにもみえる。ただ怖いのは徳だけ知らないで周りは皆、徳の死のために動いていたのである。自分たちが生きるために。集団の同調する怖さでもあり、そしてそうしてしか生きていけない悲しさでもある。観客はラストになるまでそのことはわからない。その隠蔽さは観客にも見抜けないのである。それがまた怖い。言ってみれば観客もその一員になっているということである。

 

  • 金物拾いの徳>は、自分は生まれながらの金物拾いでこれからもずーっと金物拾いであると思っている。両国橋下で徳は紅花問屋の主人・喜左衛門と人違いされる。徳は相手にしないが、その男は信じて疑わない。あなた(喜左衛門)が急に居なくなって、美しい女房のおたかさんもあなたの帰りを待っているという。<美しい女房>。これに徳はまず魅かれる。ちょっと行ってみようかとでかける。途中徳を悩ませるのは方言である。行く土地、行く土地で違い、語尾になにかをくっつければよいのかなと思えばそんな単純なことではなかったりする。

 

  • 羽前平畠藩に入り、やはり帰ろうとすると乳母が現れ喜左衛門さんだといって大喜びである。乳母が疑わないのならと徳は天狗にさらわれて言葉も頭のなかも奪われてしまったことにする。女房・おたかも喜び、周囲もやんやと騒いで寝屋へと送り出される。ここで人違いとばれるであろうと徳はひやひやするがなんとか通過することができる。最初徳はなり澄まして金目の物を持って逃げようとするが、いやいや待て、おたかのいるこの生活を続けたいとおもいはじめる。疑っているものは多い。そのための努力は惜しまない。このあたりは健気な徳である。

 

  • しかし、正面から邪魔立てする人間があらわれる。徳はその人間を消していく。喜左衛門には深い仲の芸者がいて、徳が喜左衛門でないことを見抜くのである。そしておたかが違う人であると知っていながら自分をかばってくれたことを知る。そのおたかに徳はますます情愛を感じていく。ここも重要な罠の一つだったのである。徳と同じように観客にもその罠はわからない。(わたしだけで他の人はわかっていたかもしれない)紅花の造り方の極意も知り、徳を喜左衛門その人であるとおもう人がほとんどとなる。

 

  • 徳に知らされていなかったことがあった。徳が喜左衛門と会ったとき「俺は殺されない」というようなことを言っていたので、あれ!と思った。徳は気がつかない。それは喜左衛門が切腹することを定められた人なのだという事である。すべてはそこに集約されていたのである。それを知った徳は、自分は喜左衛門ではなく徳だという。ところがそれを証明してくれる人は、徳が自分ですでに消していたのである。

 

  • 喜左衛門(徳)が死んで、弟(喜左衛門)がおたかと結婚することになっていたのである。感想で猿之助(亀治郎)さんが、本物の喜左衛門が死んで徳が生きててもいいかもといわれたが、私もそう思った。徳は努力に努力をして言葉も喜左衛門の頭中も手にするのです。その一途さが愛すべき徳となっているのである。徳がなぜと思うようにこちらも、それはないでしょうとおもってしまった。すべておたかに対する徳の気持ちから端を発していて、おたかの情愛と信じていた徳である。ところがおたかはもっと広い人間関係である藩や農民を集約した代弁者であり実行者だったのである。

 

  • 金物拾いの徳>は金物を見つけるとすかさず拾った。<喜左衛門の徳>は、<金物拾いの徳>の習性さえも捨ててしまっていた。拾わなかった五寸釘に刺されてしまう。たかは死んだ徳を抱きかかえ、あなたのことは一生忘れませんというのである。こちらは徳の気持ちになって、御冗談じゃない、死んでからまであなたに操られたくない思ってしまった。でも、徳はそれで満足するかもしれないなあ。自分では想像もしていなかった人間になれたのだから。能であれば、亡霊がでてきて語るのであるが。徳は<金物拾いの徳>が本物なのか<喜左衛門の徳>が本物なのか。ただ<喜左衛門の徳>は、周囲から上手く誘導されて作られた徳であることは確かである。

 

  • 徳の亀治郎さんは、やはり歌舞伎役者の亀治郎さんであった。もう歌舞伎役者に作られた身体表現なのである。歌舞伎役者がやるものは全て歌舞伎であるというゆえんがわかる。この芝居は江戸時代の話しなので特にそれが顕著であった。しかしそれは良い方に生かされ、世話物の上手さが出ていた。次から次へとためされる場面が続くが飽きさせないだけの巾があった。おたかの永作博美さんは明るくてこんな人がだましたりはしないとたかをくくって騙されてしまった。井上作品の唄とそれに乗った動きも、このにぎやかさにも騙されたことを後で知る。

 

  • 方言が一つの地域の約束ごとでそのことが結束を固めていることも改めて感じる。外から観るとそれは可笑しさも誘うが、中に入るものにとってはバイブルのようなものである。そういえば、徳が死ぬ場面の後ろの梁と柱は十字架のようにもみえた。よそ者を誘い出し中に入らせて犠牲としたのである。色にふけったばっかりには結構あちらこちらにあるわけである。この芝居が気になっていたので片づけられてよかった。徳の双面であった。井上ひさしさんはこの若き新しい舞台を観ておられないのである。残念。(2011年上演)

作・井上ひさし/演出・栗山民也/音楽・山田貴之/出演・市川亀治郎(現・猿之助)、永作博美、山本龍二、山西惇、たかお鷹、花王おさむ、梅沢昌代、etc

 

11月 「国立劇場」「歌舞伎座」

  • 今回はあらすじについて触れるかどうかはいまのところ未定である。自分のなかでこうなってこうなるとすっきりさせたくなれば書くであろう。どちらも歌舞伎音楽に惹きつけられたのである。音楽を言葉で表すのが厄介である。とらえられないのに気にかかる。ジリジリした状態であるが、観劇は楽しかった。時間の前後が目茶目茶なのであるが、ラジオを聴いたことが触発されているかもしれない。

 

  • NHK・FMで金曜日、11時~11時50分『KABUKI TUNE(カブキチューン)』という放送がある。昨年までは『邦楽ジョッキー』であったのがかわったのである。すいませんが聞いてるわけではありません。興味は非常にあるのですが。パーソナリティーが歌舞伎役者の尾上右近さんで、正確には、清元栄寿太夫(7代目)の名前もありまして今月の歌舞伎座では、清元も語られて役者としても出演されるという劇的な登場をされている。

 

  • ラジオの『KABUKI TUNE(カブキチューン)』で、歌舞伎座からの録音中継をするというので今回は興味があり聞いたわけである。それも再放送。朝の5時~5時50分。その日一日の生活時間に狂いが生じ、国立演芸場の「花形演芸会」の申し込みを忘れたというおまけつきである。気が付いていたとしても購入は無理だったと思うが。ラジオのほうは歌舞伎楽屋の臨場感があり聞いた甲斐があった。そのなかで竹本葵太夫さんがしびれるような素敵な声で出演されていた。その時は、国立劇場の『通し狂言 名高大岡越前裁(なもたかしおおおかさばき)』を観たあとであった。葵太夫さんが浄瑠璃を語られる「大岡邸奥の間庭先の場」が見せ場であった。

 

  • 葵太夫さんは、歌舞伎座の『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』でも語られていてお忙しい月である。この舞台の石川五右衛門の吉右衛門さんの大きさと真柴久吉の菊五郎さんが上と下でバランス良く対峙して、内容なんてどうでもいいような歌舞伎の醍醐味であった。そして思ったのは、歌舞伎役者さんは体の中に浄瑠璃の音が入っていないとその動きに大きさと面白味が加わわらないのではということである。ただ観ていてもそれがこうだとはわからないし説明できない。何か息の詰め具合の微妙さがあるような気がする。

 

  • 葵太夫さんがラジオで言われて印象的だったのは、竹本では葵太夫さんが一番上なのだそうである。教えてもらえる先輩がいない。清元は沢山先輩がいていいですねと。そうなのかと驚いた。江戸からの音楽は伝えていかなければならないわけでそちらも大切である。歌舞伎は演者も音楽もナマが本来の形である。その基本を守りつつも新たな試みもしていかなければならないわけで、若い歌舞伎役者さんに求められているのは新旧二刀流の構えである。となると、尾上右近さんは三刀流でなければならないとうことになる。ということは、『ワンピース』のゾロということか。口にも刀。

 

  • 国立劇場の『名高大岡越前裁』は天一坊改行と名乗る男が八代将軍徳川吉宗のご落胤(らくいん)だとして世の中を騒がせそれを大岡越前守が名お裁きをするという話しであるが、実際には大岡越前守はこの事件にはかかわっていなかった。どなたが裁かれたのかしりたいところであるがそれは置いといて、この芝居では、大岡越前守は切腹まで追い込まれるという危機一髪のところで証拠がそろい、お裁きとなる。この切腹場面が「大岡邸奥の間庭先の場」である。

 

  • 白装束の大岡越前守と妻・小沢の間には息子の忠右衛門も自分も切腹をさせてくれと父に頼みこむ。大岡の梅玉さんと小沢の魁春さんに挟まれ、市川右近さんがきっちりと演じられ、その臨場感を守られた。浄瑠璃の語りはあるが、梅玉さんと魁春さんは大げさに演じるわけでもなくむしろ淡々としているのであるが、その覚悟のほどは広い劇場に浸透していく。大岡はすでに将軍の怒りをかい閉門の身でありながら再吟味の場を作り証拠が不十分で覆せなかったのである。立ち回りが一切ない舞台だけにこの場で大岡の窮地を家族の情で伝え、さらなるお裁きへの踏み台としての場面としてよく出来上がっていた。

 

  • 歌舞伎座での『十六夜清心』での清元にのっての極楽寺の僧侶・清心と遊女・十六夜との心中である。清心の菊五郎さんと十六夜の時蔵さんの身体の音楽性の年季が如実であった。自然に心と体が動いて行く。栄寿太夫さんの声綺麗である。ただ清元も詞を聞き取るのは難しい。心中した清心が泳ぎが上手で死ねなかったのであるが、再び死のうとして端唄が聞こえてくる。端唄は聴きやすい。端唄を聴いて清心が死ぬのをやめてしまうのがなんとも可笑しい。浄瑠璃系はむずかしい。若い栄寿太夫さんによって若い方が清元になじまれ、より歌舞伎の深さと楽しさを探られることを期待する。こちらは、曲と離して読むことから始めないとだめなようである。

 

  • 文売り』は清元の舞踏である。雀右衛門さんが一人で踊る舞台はめずらしい。文売りという恋文の代筆業のことであり、それを売って歩く女性が登場する。現れた場所が逢坂の関ということで二つの道が一つになるという恋の成就をかけているのであろう。様々な人物の踊り分けもあり、詞を調べて目を通してから観ると楽しさが増すことと思う。『素襖落』は狂言を舞踏劇にしたもので、太郎冠者がお姫様に素襖をもらって主人らと取り合いになるという喜劇性だけが頭に残ってた。ところが竹本の義太夫と長唄両方の登場となる。松緑さんは最初から愛嬌ある表情で、喜劇性と那須の与一の扇の的を射る踊りもあるというものである。それも酔いつつなので、こんなに大曲の踊りだったのだと思わせられた。

 

  • お江戸みやげ』は、舞台が開いた時、この芝居は歌舞伎座では広すぎるなと思わされた。結城紬の行商人の話しで色彩的には地味な人情物である。お辻の時蔵さんとおゆうの又五郎さんの演技の機微は申し分ないがそれが伝わるには広すぎる。お辻は、お江戸の大切な思い出ともなる人気役者の片袖を貰い。この片袖、『名高大岡越前裁』でも重要な意味がある。法沢(天一坊)が自分が死んだと思わせるために片袖を使うのである。後にこれが命取りの証拠となるのであるが。法沢の右團次さんも好い人とおもわせてさらさらと悪事を働いて行く。それに加担する弁の立つ山内伊賀亮の彌十郎さん。悪事の役者もそろい名お裁きの一件も落着。テレビでの大岡越前といえば加藤剛さんである。(合掌)

 

  • 隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ) 法界坊』は、『ワンピース』の仲間たちが歌舞伎座に集結の感である。ルフィの猿之助さんが法界坊で、いいだけ仲間たちに絡んでいる。一番絡まれているのが手代の要助の隼人さんで実は松若丸で、「鯉魚の一軸」を探している。え!大阪・松竹座で一件落着だったのではなかったの。あれからまた紛失したらしい。絵の鯉はもどったが軸の本体は人の手から手えと移動してのてんやわんや。ルフィの代役をした尾上右近さんのおくみは代役のお礼の意味か、法界坊に言い寄られてしまう。そして文売りが書いた恋文ではなく法界坊本人が書いた恋文が道具屋甚三の歌六さんに読み上げられてシュン。要助は番頭の弘太郎さんにも落とし入れられる。はっちゃんよりはまっている。いい男はひたすら笑わずに耐える。うむ!

 

  • 双面水澤瀉」では、法界坊に殺された野分姫の種太郎さんと甚三に殺された法界坊の猿之助さんの亡霊が合体して、もう一人のおくみとしてあらわれる。肉体の猿之助さんが、常磐津と竹本の掛け合いで野分姫と法界坊の踊り分け。亡霊を退治する観世音像をかざす渡し守おしずの雀右衛門さん。音楽と肉体。肉体と幽霊。三浦雅士さんの講演の話しが重なってくる。(寺山修司展記念講演『ベジャール/テラヤマ/ピナ・バウシュ』神奈川近代文学館)かなりいびつなモンタージュが頭の中を駆け巡る。書き手本人だけが面白がっているのでほっといて自分で観劇するのが一番である。

 

『満映とわたし』に登場する映画『無法松の一生』(3)

  • 岸富美子さんと内田吐夢監督は中国の人々に映画の編集理論と技術を教えることになる。富美子さんにとっては内田吐夢監督と一緒に教壇にたてることは夢のようなことであった。富美子さんは、編集におけるモンタージュを教えるために映画『無法松の一生』(1943年・昭和18年)を選んだ。阪妻さんの無法松である。あの映画の終盤の盛り上げかたを編集によってどう工夫しているか。モンタージュとは何かを語りたいとしている。この映画の撮影は宮川一夫さんで、彼の出世作となった。富美子さんもそれを喜んでいる。宮川一夫さんは、アメリカで亡くなった兄・聡さん(次男)の一年後輩にあたり兄と大変親しかった。家庭の事情もしっていたので日活時代は富美子さんを慰めてもくれた。

 

  • 「映画のクライマックスは、カッティングに次ぐカッティングで、すばらしい臨場感をだしている。坂東妻三郎の演じる車引きの無法松が櫓太鼓を叩くカット、海で波しぶきが上がるカット、祭りに集まる群衆のカットが、打ち鳴らされる太鼓のリズムに合わせて、目まぐるしくモンタージュ(編集)されているのだ。」編集は西田重雄さんでもの静かなかたであったので富美子さんは、そのギャップに驚いたようである。内田監督も賛成され、リズムと音の必要性とそれと画をどうやって組み合わせるかを講義されたらしい。聞く方の真剣さも想像できる。

 

  • かつてテレビで映画と音についての番組があって、ヒッチコック監督の映画『サイコ』で女性が車で逃げる場面を音ありとなしでやっていて、音楽が加わることによる緊迫感とスリリングさが増すことについて解説していた。無しと有りでは全然臨場感が違っていた。反対に音がなくて不気味なのが映画『鳥』である。何事もないように電線だった思うがそこにとまったカラスが映される。ベンチに座っている女性が映され、再びカラスを映す。それが映されるたびにカラスの数がふえているという怖さ。『鳥』についてはちょっと記憶があいまいなのであるが見つかれば観直したい。

 

  • 映画『無法松の一生』は稲垣浩監督で、吉岡大尉未亡人に対し車夫の松五郎が未亡人に対する気持ちを打ち明けた部分が内務省の検閲で削除されてしまう。戦意高揚にふさわしくないということである。そして戦後は、戦勝の提灯行列の場面がGHQに削除される。稲垣浩監督は、完全版として1958年(昭和33年)三船敏郎さんでリメイクしている。小倉祇園太鼓を叩く松五郎は、無学の自分がボン(敏雄)の高等学校の先生の役にたち、さらにボンの役にたったと自信に満ち高揚した場面である。リメイク版から想像するにその高揚感と吉岡未亡人がお化粧したのをみて、高等学校の教師の出現にも少なからず動揺し、秘めていた気持ちをおさえられなくなった。そのあとは、お酒の力のみで生き、死をむかえるのである。

 

  • 1943年のほうは、言ってみればズタズタに削除されているが、白黒で風景が明治に近い感じがする。阪妻さんの松五郎に対し吉岡未亡人を演じているのは広島の原爆で亡くなられた園井恵子さんで、松五郎だけではなく支えてあげたくなるタイプである。リメイク版は高峰秀子さんで、もしかすると一人でも頑張っていけそうかなと思わせるが、カラーでもあるし三船敏郎さんの強烈さに対するには好い組み合わせである。脚本は伊丹万作さんで、リメイク版には伊丹万作さんの脚本を守るぞというように稲垣浩監督の名前も脚本に加えてある。この時すでに伊丹万作監督は亡くなられている。

 

  • 1943年版は、松五郎が、かえり打ち、流れ打ち、勇み駒、暴れ打ちと打っていき、そこからモンタージュが使われ、そのまま思い出の場面へとつながり、回っていた人力車の車輪が止まる。そして雪景色が映る。そのあとに松五郎の遺品を整理する場面となるので、松五郎が吉岡未亡人に自分の気持ちを伝える場面は完全に削除されているわけである。松五郎が自分は汚れていると苦悩する場面がなく、竹を割ったようなさっぱりとした人間として締めくくられているのである。吉岡未亡人からもらったお金には手を付けず、さらに少しずつ未亡人とボンの名義で貯金していたのである。無学ながらも自分の生き方を貫いたヒーローとして当時の観客は涙したことであろう。本来の映画は、人間松五郎にも踏み込んでいたわけである。

 

  • GHQに削除された部分は宮川一夫キャメラマンが所有していて、DVDでは、その部分を挿入した映像も観ることができる。ただ音は無しである。なぜ宮川一夫さんが持っていたのか。それは映像の確認用として所有していたのである。提灯行列と花火を重ねて写っているが、それは編集機器が発達していなかったため、キャメラで合成しつつ撮影していたのである。その他、フイルムの感度やキャメラの性能が低いため、夜の撮影は夕景撮影で、そのあとで処理して夜景としたようである。そのため、宮川さんはその撮影具合を自分の目で確認したかったのであろう。当時のスタッフの力量と苦労のあとがかえってわかることとなった。だからこそ満映の映画人は映画機器を守るべく奔走したのである。映画人の想いは、日本にいても、満州にいても変わらなかったのである。

 

  • 『大アンケートによる 日本映画ベスト150』という本がある。初版が1989年であるから昭和から平成に変わった年にだされている。この本を参考に映画を選んだ時期もあったがずーっとご無沙汰であった。久しぶりで観ていない映画を数えてみたら120本は観ていることになる。この本から離れて違う繋がりで観ていた映画もその後たくさんある。『無法松の一生』は8位で観た人の観た時の感想が載っている。

 

  • 「小学生の頃お使いに行く時、阪妻の車夫のかけ足にホレて、あのガニ股的歩きをマネてよく転んだ。」「戦中の中学生に、庶民の男の美しさを教えてくれた。」とあり、広く子供たちにも松五郎は印象に残ったようである。さらに、「学徒出陣でもう映画をみることもあるまいと思いながら見た忘れがたい作品。」「産業戦士慰問映画として感激しながら見たのを覚えている。」当時の人々は、削除されたことなどには関係なく自分の想いを映画の中にぶつけていたのであろう。

 

  • 伊丹万作監督が岩下俊作さんの小説『冨島松五郎伝』を映画化しようとしたが病臥中のため稲垣浩監督が撮ることになったとある。そうであったのか。稲垣浩監督はリメイクして完全版を残し伊丹万作監督に代わって作品を守り通したわけである。松五郎が継母に辛くあたられ4里離れた父の仕事場へ一人行く田んぼの風景は、こんな美しい風景があったのかと見惚れてしまう。そのあと、木々の中をお化けに追いかけられているような怖さを味わう場面などは映像的工夫を凝らしている。リメイク版は削除もないだけに、人力車の車輪の回転場面の映像が松五郎の気持ちを代弁するように何回も登場する。一度止まった車輪がよっしゃ!もう一回走るぞと生き込んでいるようであった。

 

『満映とわたし』に登場する映画『丹下左膳餘話 百萬両の壺』(2)

  • 山中貞雄監督の映画『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)には、富美子さんの兄・福島威さん(五男)が山中監督に指名されるようになり大喜びで参加、福島宏さん(四男)もチーフキャメラマンとして参加している。この映画のユーモアさが好きである。まだ映像にお二人の名前はないが参加したことを知ってさらに裏で頑張る映画人の息を感じる。音楽にも気をつけながら観る。「とうりゃんせ」が色々なバージョンでながれていた。丹下左膳の一作目が大河内傅次郎さんだそうで、それまでの丹下左膳像を見事に変えてコミカルにしている。殺陣も少ない。(古いので完全版なのかどうかはわからない。GHQなどによってもカットされたりしてもいるので。)

 

  • 丹下左膳の大河内傅次郎さんは矢場の用心棒でその経営者の女主人が歌手の喜代三さんで、ふたりのやり取りがいい。大河内さんのコミカルさと歌手の喜代三さんのさらりとした伝法さを上手く引き出しぶっつけている。喜代三さんも三味線を弾きながら『櫛巻きお藤の唄』を歌われていてさりげない粋さをだしている。ただ丹下左膳はお藤の歌を嫌い、熱が出るといって置物の猫を後ろ向きにして抵抗し座をはずす。「お酒がまずくなるなら量が減って結構な事よ」と即、お藤にやり込められる左膳。

 

  • 矢場の客がゴロツキに殺されてしまい、その子を引き取ることになる。お藤は孤児になった子を「こんな汚い子はいやだよ」といいつつ、ぱっと画面が変わるとご飯を食べさせている。「なんでわたしが」といいつつ、パッと画面が変わると一緒に暮らしている。その軽快な転換が上手い。山中監督流で、編集するひとは驚かれながらなるほどとおもったであろう。このテンポがからっとした空気とクスッの可笑しさをさそう。

 

  • 百萬両の壺とは、柳生家の「こけざるの壺」が百萬両のありかを隠している壺と判明する。ところが、この壺は兄が江戸に養子に行った弟に祝いとしてやってしまっていて、それを取り戻そうと家来が江戸におもむく。しかし、あまりにも汚い壺なので弟は屑屋に売ってしまい、屑屋は長屋の子供の金魚入れにやってしまったのである。この子が孤児となり矢場で暮らすことになった安である。この矢場に養子の侍が遊びに来てすったもんだのすえ、壺は安が持ってきた金魚の壺とわかり、養子の手もとに百萬両の壺はもどるのである。しかし呑気なもので養子は壺を探すと言って盛り場で遊んでいられるため、手に入れたことは隠して左膳にしばらく壺を預かってくれといってエンドである。

 

  • 途中、左膳がどうしてもお金が入用になって道場破りにいった先の道場主がこの養子でお互い驚く。左膳は養子に頼まれて負けてやりお金を受け取りお金を作ることができるのである。これも安のためであった。そして道場の弟子たちとの試合が唯一立ち廻りといえる。一歩を大きく飛んで勝負がついているという殺陣である。痛快時代劇としては立ち廻りが少い。左膳とお藤と安の偶然に出来上がったホームコメディーともいえる。教育方針でも二人は対立し、相手の様子をうかがいつつ安のことを心配するのである。左膳は暴漢に襲われるとき安に目をつぶって10数えろといって一刀のもと斬ってしまい二人が通りすぎてから暴漢は倒れる。左膳は自分の腕を見せるのではなく、安に人を殺すところをみせないのである。

 

  • 大河内傅次郎さんの丹下左膳の映画に出演した高峰秀子さんの『わたしの渡世日記』によると、大河内傳次郎さんは強度の近眼で、それでいながら本身の刀を使うので切られ役の俳優さんは大変だったようである。ご本人がチャンバラの最中に縁側を踏み外して庭へ転落したり、石燈籠にぶつかったりするのでまわりの人間はハラハラしながら左膳を目で追っていたという。高峰秀子さんはさらに、大河内さんはセリフおぼえも悪く、運動神経もあまり優れているとは思えない。しかし、「近眼だからこそ、思慮深く見え、セリフを思い出し、思い出ししながらする芝居の「間」が、なんともいわれぬ「味」になっていた。」と書かれている。

 

  • 高峰秀子さんは女人禁制の嵯峨小倉山の「大河内山荘」に招待され、そこで並んでの写真撮影の許可がおりている。それまで「大河内山荘」の内部の撮影は禁止されていた。秀子さん16歳の乙女の時である。気に入られたのであろう。大河内さんの左膳に秀子さんが出演した映画は、『新篇 丹下左膳 隻眼の巻』(1939年・川口松太郎作・中川信夫監督)である。高峰秀子さんは、この前篇は、千葉周作に片腕を斬り落とされた左膳が土手を突っ走って逃げる長いカットは息をのむ名演であったという。前篇とありここがよくわからないのであるが観たいものである。一作目の左膳も観たいがフイルム残っているかどうか。こういう仕事のお金は「大河内山荘」を作り上げるためにつぎ込まれたらしい。

 

  • 高峰秀子さんがいう「間」は、『丹下左膳余話 百萬両の壺』では喜代三さんに「どうしてよ」とさらさらっと言われると口ごもってしまうあたりがなんともいいのである。左膳がすぐセリフがでないほうが二人のやり取りを面白くさせるのである。大河内さんの不器用さを山中監督は計算に入れて撮っていたであろう。そこがおもしろいのだと。福島威さんは富美子さんにも山中貞雄監督のことは、はすばらしい才能であると話していて喜び勇んで仕事をしていたようである。しかし、その他の仕事も引き受け本人の想いとは反対に身体の方がついていけず肺を患い命とりとなるのである。家族のためと同時に仕事にのめり込んでいった若き映画人の名前が残されたことにより映画や、山中貞雄監督への献花ともなっている。
  • 構成・監督・山中貞雄・(小文字)萩原遼/撮影・安本淳/録音・中村敏夫/音楽・西梧郎/編輯・福田理三郎/出演・大河内傅次郎、喜代三、宗春太郎、沢村国太郎、花井蘭子、深水藤子

 

  • 丹下左膳が映画に登場するのは『新版 大岡政談』(1929年)である。DVD『阪妻 坂東妻三郎』の中にほん少し『新派 大岡政談』の大河内さんの左膳の立ち廻りが映っていた。講談などで大岡越前守の名お裁きが題材とされた話しが多数できあがり、林不忘さんが小説として『新版 大岡政談 鈴木源十郎の巻』のなかに丹下左膳を登場させた。映画『新版 大岡政談』の映画も幾つかつくられ丹下左膳がヒーロー化していって「丹下左膳」が独立したようである。『新版 大岡政談』のなかでも伊藤大輔監督と大河内傅次郎さんの丹下左膳が人気を博した。本来の丹下左膳は斬りまくる。手もとにある『続・丹下左膳』(マキノ雅弘監督)では、大河内さんは大岡越前守と左膳の二役である。

 

  • 続・丹下左膳』(1953年・マキノ雅弘監督)は、続であるので前の続きの映像がスタッフや出演者の字幕のバックに映っている。二人の侍が橋の上で切り合いをしていて回りを捕り方が囲んで御用と叫んでいる。「妖刀乾雲、坤龍の二刀を求めて死を賭して闘う者」と字幕が入る。その一人が川におちる。橋の上の侍は「坤龍」と叫ぶ。これが丹下左膳である。丹下左膳は饗庭藩の武士で藩主に妖刀乾雲、坤龍の二刀を手に入れるよう命じられた。ところが、世を騒がせていると大岡越前守に正された藩主は左膳など知らないと言い切られ左膳は復讐にもえる。最後は大岡越前守に守られながら藩主を倒し妖刀乾雲、坤龍の二刀を投げ出し高笑いする。

 

  • 前篇がないので細かいところはわからないが、この妖刀は別々になると呼び合いその刀を持っている者はその呼び合う力によって人を斬りたくなるようである。その刀に左膳も翻弄される。マキノ雅弘監督は、戦前の丹下左膳の姿を踏襲したらしい。脚本は伊藤大輔・柳川眞一とあり、録音が『丹下左膳余話 百萬両の壺』と同じ中村敏夫とあった。『続 丹下左膳』では、録音助手、撮影助手などの名前もクレジットに記載されている。本来の左膳は悲壮感に満ちた立ち廻りのようである。その中でまったく原作の左膳とは違うパロディ化した左膳なのに、やはり『丹下左膳余話 百萬両の壺』の左膳が魅力的である。どちらの左膳も創り出した大河内傅次郎さんと山中貞雄監督の引き出しかたの上手さに乾杯。

 

『満映とわたし』に登場する映画『会議は踊る』(1)

  • 満映とわたし』には岸富美子さんやその家族が係った映画のことが出てくる。新たな見る視点をもらった。映画『会議は踊る』は、音楽が好きで録音関係の担当になった兄・福島威(五男)が自分も歌い、富美子さんにも教えてくれた主題歌である。威(たけし)さんがドイツ語をカタカナで覚えて教えてくれたのである。このことが後に会うドイツ人の女性編集者・アリスさんと富美子さんとの交流に役立つこととなる。

 

  • 映画『会議は踊る』は、オペレッタ映画の最高峰と言われ、当時の映画人やその後の映画人たちも注目している。大ヒットしたのが主題歌の『ただ一度だけ』で、ウイーンの手袋屋の売り子がひょんなことからロシア皇帝に見染められ酒場で逢瀬を愉しむ。皇帝からの迎えの馬車が来てお城に向かうまでのシーンがワンカットの移動撮影で、その間歓喜の娘がこの歌を歌い続ける。やはり観直さなくてはならない。

 

  • ナポレオンが敗れ囚われ戦争が終わる。ドイツの宰相はヨーロッパの首脳をウィーンによんでウィーン会議を開こうとしている。ドイツの宰相が、寝室の寝床から様々な部屋の盗聴ができるというところで笑ったことを思い出したが、そのあとおふざけすぎた映画だとおもったように思う。今回、時代の技術的なことを考えて見返していると、オペレッタであるが虚々実々の皮肉も効いていて面白い。

 

  • ドイツの宰相はロシア皇帝に色仕掛けで会議を欠席させようと一生懸命である。ところが、ロシア皇帝の部下は、皇帝の身の危険を守るため影武者を用意する。その入れ替わりがさらに娯楽性を増幅させる。さらにロシア皇帝をダンスパーティーに釘付けにするため貴族の婦人が、ロシア皇帝がウィーンの貧しい人々救済のため、チャリティーキスをすると勝手に宣言する。ところがこのことによってロシア皇帝は忘れていた娘と再会できるのである。

 

  • 会議のほうは各首脳はダンスの音楽に誘われて退席してしまう。座っていた椅子だけがゆれている。まさしく <会議は踊る> である。宰相一人で思い通りに決議することができるのであるが、すでに遅し、ナポレオンは脱出しフランスに上陸したとの知らせが入る。各国首脳はあたふたと帰国の途に就くため人々は去り一人取り残されるドイツの宰相。

 

  • 娘とロシア皇帝は酒場でたのしんでいた。ナポレオン脱出の知らせにまた会える日までと娘に告げ帰っていく。娘はもう会えないことを知っている。娘を元気づけるように酒場の人々は『ただ一度だけ』を合唱する。音楽に乗ってロマンスも描かれ、政治を漫画チックに風刺して明るく終わっている。やはり移動撮影は長かった。ロシア皇帝が現れ驚くドイツ宰相。コップに注ぐ水があふれ、それをもう一つのコップが水を受ける。その手はロシア皇帝であったというようなアップの挿入などは、人の感情を代弁していて面白い。ロシアバレェなどもでてきて音楽性もゆたかである。

 

  • 淀川長治さんが、「それまで音楽映画はアメリカのタップが主であった。ドイツのデーットリヒの『嘆きの天使』は音楽はいかにもドイツ的である。ところがこの『会議は踊る』の音楽はヨーロッパ的で驚いてしまった。素晴らしい。」と解説している。映画音楽の流れとしてはそういうことらしいのである。そして日本でも主題歌が大流行するわけである。制作は1931年で、日本公開は1934年(昭和9年である。撮影や編集の面での音楽の豊富さに日本の映画人が感嘆したのがよくわかった。

 

  • アリス・ルートヴィッヒさんは、ドイツ映画『制服の処女』シリーズの一篇『黒衣の処女』の編集をされた方だそうだが残念ながら『黒衣の処女』は観ていない。『制服の処女』は手もとにあった。この映画は、職場の先輩がお姉さんのデートの時監視役でついて行き、お姉さんと彼氏の間に座ってみたという映画で、この話を聞いた時は皆笑ってしまった。先輩は兄弟が多く一番下で、一番上のお姉さんは母親がわりであった。観たのが小学校へあがる前で、字幕の字はよめなかった。それで内容はわかったんですかと聞くと、「観ていればだいたいわかるわよ。」という。そのことがあり有名な作品でもあるので店頭で安いのを見つけた時に購入していたのであろう。まだ観ていなかった。まさかこんな機会があるとは。

 

  • 制服の処女』は、母を亡くし感情の起伏の激しい少女が、叔母に連れられて寄宿舎つきの学校に入学する。その学校での少女の体験が描かれている。規律と清貧がモットーの学校で学生たちはお腹を空かせている。少女はお世話係の生徒に学校を案内される。案内されるバックには生徒たちの合唱の歌が聞こえる。そしてぱっとアップの歌う生徒が映される。その口と歌詞が合っている。なるほどこれが編集かとおもった。できあがったものを勝手に編集されたらそれは困る。もしかすると、この口の動きと歌が合わなくなる。そうするとまた編集し直すわけであるが、事前に言われていれば意見交換ができ仕事もスムーズにいくであろう。

 

  • アップされる歌う生徒は、その歌詞をお腹が空いたと替え歌にして歌っているのである。主人公は皆があこがれる女教師に特別の感情を抱き、そのことが校長に知られ厳しい指導を受け自殺を試み未遂となる。校長は皆の批判の目にうなだれて歩いていく。たしかに字幕がわからなくても内容は何んとなくわかりそうである。場所は学校と寄宿舎で、登場人物の厳格そうな校長、感情の激しい主人公、優しくも凛とした女教師などである。あの少女は今喜んでいる、泣いている、あの校長はやっつけられたのだと。なるほど。

 

  • 黒衣の処女』は『制服の処女』で助監督だったかたが監督され、女生徒と教師役の役者さんが二人そのまま主演されている。アリスさんの編集の能力は、富美子さんが生涯の編集の恩師と思うほど編集能力が高かったと想像できる。編集の目で観ていると細かいところまで目がいく。『黒衣の処女』は、1933年に公開されている。富美子さんがルイスさんと一緒に仕事をした『新しき土』は1937年公開である。『制服の処女』は1931年公開である。

 

ふたたび『三峯神社』と『秩父』

  • 早々と『三峯神社』への再挑戦である。解ったことは、やはりバスがかなり気力を奪われてしまう。行きも帰りも、あのカーブを登って下りるのでバスの車体だと振りが大きいのである。帰りは三峯神社で頂いた気をかなり使いきった感じであった。平日とあって先日より少しは人は少ないが、紅葉は見ごろなのでやはり人気である。

 

  • 三峯神社』では、しっかり「遥拝殿」から「奥殿」のある山にむかって手を合わすことができた。遥拝殿もっと距離があると思っていたが階段を少し登るだけであった。もともと高い場所なので見晴しがよい。この「奥殿」へ歩いて登るツアーも見つけたが期間がきまっている。乗り物の席が保証されているのが魅力である。スーパー歌舞伎でかなり身近になっている日本武尊像にもおそばから右手を挙げて挨拶できた。日本武尊は東国に来たおりこの地にのぼり、周囲のあまりの美しさに、イザナギノミコトとイザナミノミコトの二神をお祀りし、国の平和を祈られたのが始まりだそうである。

 

  • 拝殿へ向かう階段の脇に並ぶ石塔は東京築地市場講とありお店の名前が記されてあった。拝殿の横には水をまくと龍が現れるという石畳あり、小教院という古い建造物はコーヒーハウスとなっていた。先日見落としていたものを確認できた。拝殿への道も、隋心門を通らずに歩く楽な道があり、多くの摂末社が祀られている。早めにバス停にむかったので無事座ることができた。座っていても身体がゆれるカーブなのである。紅葉は綺麗であった。穏やかな自然体である。陽の光が当ったところだけが色づいている。その素直さは、あの大災害と同じ自然とは思えない。

 

  • 今回は『ちちぶ銘仙館』と『やまとーあーとみゅーじあむ』に行く予定を立てていた。秩父銘仙は、平織りで裏表がなく色があせれば裏を使って仕立て直しができ、明治後期から昭和初期まで人気があった。秩父銘仙は「ほぐし模様」といわれる変化に飛んだ斬新な模様で喜ばれたのである。「ほぐし模様」というのは、タテ糸に型紙を使って模様を染め、これを「ほぐし捺染(なっせん)」という。大正ロマンでは竹久夢二さんの描く女性の着物が明るい太い縞や植物、幾何学模様で銘仙であったとされている。当時の女性たちへのあこがれの相乗効果をもたらしていたようにおもえる。普段のおしゃれ着として開放的な可愛らしさを楽しめたのである。

 

  • 先に糸を染めて織りつつ模様を出していくものはしっかりめの硬さがあり、織ってから染めたものは手触りにも柔らかさがある。秩父銘仙はそのどちらでもない特徴を考案したものです。先にタテ糸で型染するのでタテ糸が柄を作り、横糸は一色で織り「ほぐし織」という。「ほぐし捺染」で大胆な柄を描くことができ、柄を簡略に織り込むことができ、さらにこの技法は光線の加減で玉虫色に光るという効果をも生み出したのである。「ほぐし」というのはたて糸だけではばらけてしまうので仮の横糸を織り込み、それは本織りのときにはほぐしてとってしまうところからきているのようである。秩父の織物は神話の時代にさかのぼる。

 

  • 秩父の織物は、神話時代、崇神(すじん)天皇が国造りのため知々夫彦命(ちちぶのひこのみこと)をつかわされ、知々夫彦命が秩父地域に養蚕と機織りの技術を伝えたのが始まりと言われている。このかたが秩父の祖神を祀ったのがはじまりで知知夫国の総鎮守としての『知々夫神社』があるわけだ。織物にもどすと、盆地で石灰質の強い土で稲作に向かず養蚕による絹織物が盛んになる。盆地というのはよくわかります。

 

  • 江戸時代、出荷できないような繭をあつめ作ったのが「太織(ふとおり)」。丈夫で江戸で評判になり「鬼秩父」と呼ばれ、いまでいうデニム感覚で歌舞伎役者や江戸っ子が着こなして秩父の織物が世に知られるようになる。歌舞伎役者の着るものは江戸ファッションのさきがけである。この「鬼秩父」は残念ながら展示されていなかった。見たかった。そのあとで『秩父銘仙』を作りだすわけである。

 

  • 秩父銘仙の歴史の年表が掲示されているが、上のほうで字も小さいのが残念。江戸時代の寛政の改革では、秩父夜祭の曳きまわしが禁止されている。そんな事まで目が届いていたのである。12年後に復活する。現『ちちぶ銘仙館』は秩父工業試験場として建ち、その後、繊維工業試験場となり変遷があって廃止となる。建物は、建築家ライト氏が考案した大谷石積みを使い、三角屋根の工場棟は渡り廊下になっており、市民運動によって残され『ちちぶ銘仙館』として開館する。

 

  • 最盛期には約7割の市民が織物関係に仕事にたずさわっていたという。おしゃれ着から、座布団や寝具などの製品としても送りだすが、時代の波は変わってしまった。「ほぐし捺染」に関しては、映像があって20分位かかる。案内チラシでは現在、毎週第2土曜日にすべての設備が稼働して、繭から秩父銘仙になるまでの工程がみれ、体験コーナーもあるらしいが確認が必要とおもう。銘仙は、秩父、足利、桐生、伊勢崎、八王子が関東の五大産地と呼ばれていた。

 

  • 同じ方向の先に『やまとーあーとみゅーじあむ』がある。ここは、棟方志功さんの作品を中心とした美術館ということである。羊山公園の北側の端にあって、南側の端が芝桜で有名な場所となる。今回芝桜の位置もわかったので来年は芝桜観にくるである。途中に「牧水の滝」という小さな憩いの場所があった。案内板の文字が薄れてしまっているのが残念である。ここの道を登って行けば美術館に行く道に出るのでできれば書き直して欲しいものである。若山牧水さんと奥さんの貴志子さんの比翼歌碑がありそこには記されてあった。

 

  • 牧水さんは、大正9年に秩父鉄道の秩父駅で下車し、徒歩で妻坂峠越えて名栗に向かっている。そのとき片側町の家並みから機織りの音がして、男女が声を合わせて唄う家もあると、紀行集『渓(たに)より渓へ』に記しているとある。牧水さんの歌は 「秩父町 出はづれ来れば 機をりの うた聲つづく 古りし家並に」。貴志子さん歌は、夫の歌碑のお礼として詠んだ歌で 「のび急ぐしたもえ草の あさみどり あやふくぞおもふ 生ひ立つ 子等を」。牧水さんの歌では、旅したころの秩父の様子がよくわかる。

 

  • そこからも秩父市街がみえるがさらに登ったところに『やまとーあーとみゅーじあむ』があり、お隣には『武甲山資料館』がある。資料館のほうは寄れなかった。武甲山は秩父市街の南にそびえる石灰岩質の山はだをみせる名峰である。秩父神社とも関係が深く、秩父観音霊場はこの武甲山への信仰が基盤なのだそうである。隣駅の横瀬駅から近い『横瀬町歴史民俗資料館』にも信仰と祭りというコーナーがあるらしく興味ひかれる。

 

  • やまとーあーとみゅーじあむ』の棟方志功さんの作品たちよかったです。個人の方が収集されたそうです。「大和し美(うるわ)し」もあり、三峯神社でヤマトタケルノミコト殿に挨拶したばかりなので嬉しい。よくこれだけの文字を彫ったものである。秩父の夜祭りの版画もあった。観ているとしぼんでいた<気>が膨れ上がってくる。書も恰好良くて元気がもらえる。棟方志功さん、やはり爆発している。熊谷守一さんの絵も三点あった。アリとネコである。爆発なんのそので、これまた可笑しくて素敵である。帰りの電車、爆睡であった。秩父また行くよ~。

 

『秩父神社』と『三峯神社』

  • 和太鼓を習っている友人から、演奏会があるが興味があったら観に来てといわれる。解禁になった。今まで見られたくないと言っていたのである。いつの間にか、普通の和太鼓クラスに屋台囃子クラス、エイサークラスにも参加していて出演が増えていた。これだけやる体力があるのだから大したものである。変化に飛んでいて退屈しなかった。この演奏会をみて体験教室でやってみたいと希望が多いのはエイサーだそうである。なるほど、動きもあって楽しそうに打っているのでやりたいとおもうのであろう。屋台囃子は秩父夜祭りで演奏する秩父屋台囃子であった。

 

  • 秩父に行かなければ。行きたいとおもっていたが実行まで時間を要した。どう行こうかと迷っていた。ツアーは目にしていたが自力で行きたかった。三峯神社へ西武秩父駅からバスが出ている。秩父神社三峯神社が行ける。西武秩父駅から秩父神社は歩いて15分。三峯神社はバスで三峯神社下まで行き、歩いて15分である。楽勝である。机上のことであった。

 

  • 出発してみたら、電車乗り換えでは人身事故のため電車が止まっている。復旧は不明。仕方がない遠回りで西武池袋へ。特急に間に合ってこれで西武秩父からの10時05分の三峯神社行きのバスに乗れる。安心したのもつかの間、何かおかしい。停車ボタンが押されましたので確認のため遅れがでていますとのこと。ウムッ!15分の遅れ。次のバスは11時がなく12時15分なのである。では秩父神社へ先に。

 

  • 観光案内に寄る。友人が、そこで、秩父が舞台のアニメ『あの日見た花の名前を僕はまだ知らない。』(なが~い。通称『あの花』。)と『心が叫びたがってるんだ。』関連の展示をみつけて「これこれ!」という。テレビで特集で放映されていたらしい。泣かせるアニメらしい。秩父神社への道をきく。すぐそばに温泉施設があった。

 

  • 秩父神社』。扁額には「知知夫神社」とある。色あざやかな彫刻がなされていて左甚五郎作の「つなぎ龍」と「子宝 子育ての虎」がある。「つなぎ龍」は彫られた青い龍に鎖がまかれている。天ヶ池に住みついた龍が暴れた際、必ずこの彫刻の下に水溜まりができ、彫り物の龍を鎖でつなぎ止めたところ、龍が現れなくなったという伝説に基づいているらしい。

 

  • 「子宝 子育ての虎」は徳川家康にちなんでいる。戦国時代、武田信玄の手によって焼失し、それを徳川家康が再建。徳川家康は寅の年、寅の日、寅の刻生まれで拝殿前は四面全て虎の彫物で、子虎とたわむれる親虎の彫刻が左甚五郎作。当時の狩野派は虎の群れの中に必ず一匹の豹を描くことが定法で、母虎が豹としてあえて描かれているのが特徴だそうである。どうしてそう決められたのであろうか。

 

  • 神社のお隣には、『秩父まつり会館』があり、笠鉾と屋台が飾ってあり暗くなって秩父夜まつりの雰囲気となる。綺麗である。一度はと思うが今年も予定があって来れそうもない。3Dシアターで秩父の祭りが紹介されていて一番前の席。飛び出す画面に視力が追い付かない。どうも好きDはない。秩父には色々なお祭りがあるのだ。「龍勢祭」にはロケット花火があがって、この花火を「龍勢」といい、友人によると『あの花』では、誰だかがこの龍勢のアルバイトをしているとのこと。

 

  • 今朝、『秩父神社』で奉納してきたばかりという秩父屋台囃子を地元で聴くことができた。秩父のお囃子は、笠鉾であれば神様の下ということで幕が張られた見えない場所の一番下で演奏し、屋台であれば歌舞が演じられる後ろの襖を閉めた中で、これまた姿をみせないで演奏するとのこと。そこが他の祭りのお囃子とちがうところだそうで、おくゆかしい。聴き終わって急いでバス停へ。並んでいる。なんとか座れてホッとする。ところがこのあとまた一波乱。

 

  • 『三峯神社』までバスで75分である。どんどん登って行く。少し紅葉している。『三峯神社』は高いところにあるのだと思っていたら駐車場まで1キロ弱で渋滞で急ぐ方は歩かれたほうが良いとのこと。駐車場が満車で出る車があると入れるという状態らしい。紅葉の時期であることが頭から抜けていた。安全を確認しつつ降車させてくれた。道は平に近く降車させてくれてよかった。時には木々の葉が真っ赤に染まっている。

 

  • 駐車場からは、友人には御朱印のため先に行ってもらう。鳥居が面白い形である。中心の鳥居の左右に小さな鳥居がついていて一つが三つの鳥居の合体である。拝殿までの道は意外と人が少なく静かであった。彫刻の立派な門があり、さらに進むと日本武尊の像の案内があるが遠くからながめる。そばまで行く気力がない。日本武尊がここに寄られたらしい。拝殿の彫刻の色取りも静かな木々の中を通て来た眼を愉しませてくれる。

 

  • 神楽殿の説明に三峯の神楽は霧の流れる境内にひびく笛と太鼓の調和よく、その巧妙なバチさばきによって宮本武蔵が二刀流に開眼したと吉川英治著『宮本武蔵』にあるとしている。映画ではそんな場面なかったと思うが、小説にはあるのだ。小説のその場面読んでみたいものである。二本の御神木があって触れることができる。触れたところの木肌が光っている。ここはオオカミが守り神らしく狛犬もオオカミなのである。途中狛犬も見て来なかった。注意力散漫。

 

  • 帰りの渋滞を考えると早めに下りたほうが好いであろうとバス停にむかう。バスに乗るひとがずらーっと並んでいる。何んとか乗ることができたが次第に気分がよくない。通勤電車のラッシュなみである。三峯入口で降りる人がいて座ることができた。これはまずいなと思い西武秩父駅ですぐに特急があったので帰ることにした。池袋までに何とか落ち着いてくれて無事に帰れたのである。休日の紅葉と電車の事故と体調不良により机上での計画は大幅に崩れてしまったがなんとかクリアできた。

 

  • 友人が言うには、三峯神社は気が強いので元気な状態で行くのが良いのだそうである。弱いと負けてしまうこともあり、元気だともっと気をもらって元気になるという。そうなのか。少し風邪気味かなの体調であった。高い所にあるので気圧の関係などもあるのであろうが、奥殿を拝する遙拝殿へも行かなかったので体調の好いとき再度訪れたい。境内には宿泊所もあり日帰り湯もあった。

 

  • 電車の特急券購入では面白いことがあった。行きの特急券購入場所は改札の中にも自動販売機があるというので入って急いで購入。急いでいるのに一人一人別々に購入。続けて購入しているのに前後の席である。そうか別々のお客と判断しているのである。二人で購入すると連れと判断するのだ。帰りの西武秩父駅では有人の切符売り場の購入であった。特急券が残りわずかで通路をはさんでの席である。席があって助かった。一応秩父方面へのアクセスも体験できたし良しとする。

 

『満映とわたし』の嵯峨野時代

  • 満映とわたし』(岸富美子・石井妙子共著)は、劇団民藝『時を接ぐ』の原作である。岸富美子さんが15歳で映画の編集助手として働き始め、そこで出会った映画関係の人々との交流で今まで知り得なかったこともかかれてある。富美子さんは、原節子さんと李香蘭さんと同じ年で、二人の作品の仕事もしている。岸さんの姿勢はおそらく色々な噂も耳にしていたのであろうが、自分で眼にしたことのみ書いている。そして仕事柄、自分と大スターとは違うというところをきちんと踏まえられている。

 

  • 活動写真『ジゴマ』を見た少年に後の伊丹万作監督が紹介されていた。(『怪盗ジゴマと活動写真の時代』永嶺重敏著) 伊丹万作少年は、『ジゴマ』の内容よりも弁士駒田好洋の説明ぶりやポーラン探偵のしぐさのほうが印象に残る映画だったといわれている。その伊丹万作監督が『満映とわたし』にも登場した。

 

  • 伊藤大輔監督伊丹万作監督と松山中学で同窓で親友だったらしい。三十代後半の伊藤大輔監督は兄たちが次々病気で倒れ、15歳の少女が一家を支えなければならない事情もわかっていたのであろう。富美子さんに優しく接してくれた。家が近いため夜遅く帰宅する時は歩いて送ってくれたりもした。その時の様子が映画の名シーンのようである。

 

  • 伊藤監督は蝙蝠傘をいつも持っていてその蝙蝠傘で蛍をつかまえ、チリ紙に包んで持たせてくれた。富美子さんはその蛍を仏壇の花のところにはなすと父や兄の位牌をほの白く照らしてくれた。富美子さんには5人のお兄さんがいて長男はアメリカで一歳半で亡くなり、三男は満州にいる時伯母の養子となっている。富美子さんは満州で生まれている。同じくして父を失う。母と四人の子は日本にもどってくる。次男は映画の仕事でアメリカに行き家族の星であったが肺結核で亡くなってしまう。五男も映画の音楽担当であったが結核で療養中で母が付き添い、四男は徴兵検査に合格して入隊してしまうのである。(『時を接ぐ』では次男、四男、五男の三人の兄が出てくる)

 

  • 伊藤大輔監督はある日近道があるからと細い路地を入って行った。田んぼの中のある家の前で立ち止まり、伊丹万作監督の家で、今彼は病気なんだと教えてくれる。伊藤大輔監督は声はかけずじっと見つめて帰るだけであった。富美子さんは、その後、その道を通って家の様子をそっとのぞきながら仕事に通った。大好きな伊藤監督が心配している伊丹監督の様子を知っておきたかったとある。元気なようすであればお元気そうでしたよと伊藤監督に伝えたかったのでしょう。

 

  • 富美子さんは、勤めていた第一映画社が倒産し、日独合作映画『新しき土』の編集助手となる。この映画の日本側の共同監督が伊丹万作監督であった。共同監督とは名ばかりでアーノルド・ファンク監督の助監督のような立場で伊丹監督は降りるというのを周囲が伊丹監督にも編集権を与え伊丹版も作るということになった。これは知りませんでした。私が観たのはどちらだったのでしょうか。感じとしてはファンク監督版のような気がするのですが。比べて観てみたいものです。

 

  • 最初、富美子さんはファンク監督の映画の編集助手であったが、伊丹監督の編集助手にまわされる。伊丹監督の編集現場は仕事が過酷で次々と編集助手が倒れてしまうのである。一緒に仕事をして親切に教えてくれたドイツ人のアリスさんも困ると反対してくれたがどうにもならなかった。伊丹監督は病気が治ったのであろうかと顔をみるとやはり病人にしかみえなかった。編集助手と口をきく様なかたではなかった。そしてついに富美子さんも倒れてしまうのである。伊丹版で倒れた編集助手の5人目だった。伊藤監督のところではウルウルしたのに、映画監督の絶対的権力に唖然としてしまった。

 

  • それが当たり前だったのであろう。この過酷さを乗り越えなければ良いものは作れないとの想いが映画人にはあって、あの監督の映画のためならと思う映画人も沢山いたであろう。しかし末端の仕事をする者には過酷であった。幸いお兄さんが除隊となり富美子さんはほっとする。しかし、富美子さんも映画人気質が身についていて、元気になると、兄にどこの会社が良いであろうかと相談している。富美子さんはお兄さんと同じ日活の京都撮影所に入社する。

 

  • 『満映とわたし』であるからこれからが本題でもあるのだが、富美子さんが一人の映画人となっていく過程も魅力的である。人との出会いによってどんどん仕事にのめりこんで行くのである。若さの輝きとでもいうのであろうか。ここでは嵯峨野時代を少し紹介するにとどめる。

 

  • 満映のあった南新京についた町の様子が書かれていて、新京神社があり、西本願寺があったと書かれてあり、そうか神職に仕えるひとやお坊さんも行っていたのだと愛知県一宮の妙興寺の歌碑を思い出した。歌碑には「親のなき 子等をともない荒海於 渡里帰らん この荒海を」 妙興寺の十八世老師は旧満州の新京の妙心寺別院に布教のためにいかれ終戦をむかえられた。多くの孤児がさ迷っているので禅堂を改造して孤児を収容するため慈眼堂を開園。この歌は孤児三百名と共に帰国乗船の折り詠まれたとあった。岸富美子さんの家族もよく生きて帰られたと思われるような状況がこのあとやってくるのである。映画人の貴重な資料ともなっている。
  • 劇団民藝『時を接ぐ』

 

  • 少しつけ加えると、満映から日本にもっどた映画人の受け皿が東映であったとくくられるのはこの本を読んで違うなと思った。最後まで中国に残った内田吐夢監督が復員後東映に入り活躍するが、それは特例で岸富美子さん等は門戸を閉ざされ独立プロなどに入る。そのあたりは、この本を読んでもらうほうがよい。内田吐夢監督の苦悩とその後の映画作品にどう反映したかなども考察できるかもしれない。民藝『時を接ぐ』でも最後は岸富美子(日色ともゑ)の長いエピローグで締めくくるという形でなんとかおさめた。

 

『ジゴマ』の大旋風

  • 浅草六区の映画関係をさぐると、活動写真『ジゴマ』のことがでてくる。もう少し知りたいと思っていたら良い本にめぐりあえた。『怪盗ジゴマと活動写真の時代』(永嶺重敏著)である。読みやすくよく調べられている。活動写真の『ジゴマ』が、活動写真だけではなく小説本としても出版され、映画、出版の力で『ジゴマ』人気は爆発的となる。

 

  • 活動写真のほうは弁士というものがつき、それがまたまた『ジゴマ』に魅力を加えたようである。さらに『ジゴマ』は子供たちにも人気でそのことから、教育上好ましくなく、犯罪を誘発するということで、上映禁止となる。さらに映画の検閲というものがそれまでいい加減であったものが『ジゴマ』によって確立されていくのである。それらの流れが順序だてられながら明らかにされている。

 

  • 活動写真『ジゴマ』は明治44年11月に浅草公園「金龍館」で公開される。フランス映画で、凶悪な盗賊ジゴマと探偵ポーランの活劇探偵映画であるが、この悪い方のジゴマが主人公となって暴れまわるようである。それが弁士によってさらに色を加えて語られ観客は惹きつけられる。驚くのは、明治天皇が崩御され明治45年7月30日に明治から大正と改元される。地方映画館では、明治天皇の『御大葬実況』の映像と『ジゴマ』が併映されてもいたのである。

 

  • この本で面白いのは、弁士の活躍も書かれている。活弁の創始者・駒田好洋さんは、巡業隊を組んで『ジゴマ』を持って地方都市をまわっている。それを、江戸川乱歩さんは名古屋の「御園座」でみている。その体験が乱歩さんの作品に影響を与えるのである。後に映画監督となった伊丹万作さんも松山でみている。

 

  • 駒田好洋巡業隊はブラスバンドつきで駒田好洋が燕尾服にシルクハット、白手袋で指揮をとっての行進である。そのパフォーマンスにも人気があった。想像しただけでも人々のどよめきが聞こえる。幕間の休憩には、長唄の『勧進帳』『吾妻八景』を駒田好洋さん自ら他の弁士と演奏したとある。これが三味線演奏なのかどうかはわからない。京都では「歌舞伎座」(新京極にあった歌舞伎座であろう)、南座でも上映している。

 

  • 活動写真は配給だけだったのが次第に映画製作→配給→専属映画館での封切などと変わってくる。活動写真のほうは特に小学生に人気があった。出版界は活動写真の『ジゴマ』を忠実に文字にしていたが、小説版の新しい『ジゴマ』作品に乗り出しこれが中学生に人気を博す。さらに日本版の『ジゴマ』の活動写真も制作され、その内容が俗悪化していく。そこで、東京朝日新聞が『ジゴマ』映画が犯罪を招くと記事を連載。このことがきっかけで大正元年10月9日に」『ジゴマ』上映が禁止される。そしてこの処分の混乱から映画検閲方法が一本化されていくのである。

 

  • 『ジゴマ』のまえから、活動写真館の館内が子供の健康に悪いという事は問題視されていたようだ。窓を開けてのわずかな換気での空気の悪さ。ほこり、タバコの煙、人の吐く息、さらにフイルムの劣化による映像の悪さによる視覚に対する悪影響など。そこにきて『ジゴマ』の犯罪者が逃げのびてしまうのである。その旋風は子供たちをも巻き込みながら、ジゴマブームは一年間で終わってしまうという呆気ないようなみじかさであった。

 

  • 映像と活字メディアは、『ジゴマ』から集客ということでは、その方法論を学んだことであろう。活動写真は映画と言われるようになるのが大正中期だそうで、添え物の映像が自立する過程でもある。『ジゴマ』は流行りものは浅草から始まるという一つの象徴でもある。『ジゴマ』の三文字が、なかなか実体として思い描けなかったが、その実態を浮き彫りにしてくれたのが『怪盗ジゴマと活動写真の時代』である。状態のよいフィイルムで見せて貰った気分である。

 

  • 『ジゴマ』時代にも問題視された浅草の不良少年。大正時代の中期頃からエンコ(浅草)の不良として登場するのが、サトウ・ハチローさんである。とにかくすったもんだの問題児であった。『実録 ぼくは浅草の不良少年 サトウ・ハチロー伝』(玉川しんめい著)によると不良でも女性ぬきの硬派だったとしている。映画館で男女がイチャイチャしていると、警察の者だがちょっと外へと連れ出し、後で調べるからちょっと待って居なさいといって男女を置き去りにし、存分に映画をたのしんだとある。

 

  • 『怪盗ジゴマと活動写真の時代』によると大正6年(1917年)に「活動写真興行取締規則」ができ、男女客席が区別されるので、サトウ・ハチローさんが男女を映画館から追い出したのはその規則ができるまえであろう。さらに、『サトウ・ハチロー伝』では当時の変わり者警視総督で、文人である丸山鶴吉に宛てた訴えの中に、映画館の男女席の撤廃は風紀を乱されるとして反対したとある。これは、昭和6年(1931年)に規則が撤廃され、男女席が同じになった時のことであろう。

 

  • サトウ・ハチローさんは、浅草公園の興行師・根岸吉之助さんにビール代をもらい事務所でごろごろしている時期があった。「金龍館」の表事務所に用があり行くと以前よく顔を合わせて苦笑いをした刑事としばらくぶりで合った。話しを聞くと根岸の三館共通館に刑事をやめて勤めていたというような話も書かれている。『サトウ・ハチロ―伝』のほうは、ハチローさんをとりまく不可思議な知り合いがチラホラと多数でてきて噴き出してしまう。その後よく知られるようになった人の名もある。浅草にはあだ名だけの有名人も存在していた。不良だからこそ接することができた世界がそこにはある。

 

大衆演劇散見

  • 浅草木馬館から始まった大衆演劇散見は、10劇団は観劇したと思う。大阪は新世界にある朝日劇場がデビューである。『合邦辻閻魔堂』に参ったのでここから移動も面倒なので新世界の朝日劇場にした。劇団名は頭の中で混乱しており調べるのも手間なので記さないこととするのであしからず。座長さんが「数ある大阪の大衆演劇劇場の中でここを選んでくださりありがとうございます。」の挨拶。大阪は大衆演劇の激戦区らしい。災害の影響か、新世界も観光客の人数は減っているように思う。

 

  • 大衆演劇を観て思うには、股旅物は大衆演劇が継承してくれるであろうということである。もう大衆演劇しかないともいえる。まだその形を身体に残していてくれる役者さんが多く残っていてくれるからである。ただ大衆演劇の場合毎日、昼夜芝居の演目が代わることが多いので気に入った芝居にあたるかどうかはわからない。いつも飛び込みなので当って砕けろである。新たな劇団、できれば新たな劇場を目指しての散見である。大衆演劇の劇場を訪ねると名所仏閣とか美術館とはまた違った思わぬ風景と出会う。

 

  • 愛知一宮の妙興寺駅の近くの一宮芸能館SAZANもそうであった。駅から近いらしく駅の反対側には妙興寺がある。無人駅である。駅前には大きなスーパーだけ。まわりには何もない。本当に劇場があるのであろうか。あった。公演しているとのこと。では、妙興寺へ。これがなかなかのお寺さんで、正式には『妙興報恩禅寺』と称し禅寺の修業の道場のためのお寺さんなのだそうであるが山門も大きい。拝観の釈迦三尊像の大日如来像のお顔がすっきりとしている。脇の普賢菩薩と文殊菩薩もいい。考えたら久方ぶりの仏像拝観である。お寺のかたのお話では確か3月から11月までの公開で寒い時期は閉まっているらしい。

 

  • お隣の一宮市博物館にはもっと古い時代の仏像がありますと教えていただいたが、博物館は工事のため閉館していた。残念である。駅近くまでもどろうとして線路を越えたら、和風の大きな建物がありお蕎麦屋さんかと思いきや珈琲専門店であった。周りは何もない。車や自転車が並んでいる。中は広いので、お客さんが良い具合にくつろいでいる。名古屋ならではのモーニングでシナモントーストをつけてもらう。おいしい。棟方志功さんの版画が何か所かにかかっている。野の草花が生けてある。お店の人によると、専門の人が生けにきて、このお花の写真を撮りに来る人もいるらしい。納得。『らんぷ』。チェーン店らしい。経験したことのない土地の様子である。

 

  • 芝居のほうは、これまた挨拶で「今日は午前中風が強かったようですが、私たちは大災害などにならない限りお客様が一人でも開演しますので安心して足をお運びください。」と。誰かさんに嫌味に聴こえそうであるが、その前のことである。これが芸人さんだとおもう。あのかたは、ご自分が大アーティストと思っておられるのであろう。それはさておき、こんな具合に、その土地の面白い風景に出会ってしまうのが醍醐味でもある。

 

  • 昨夜、NHKテレビ『探検バケモン』(再放送・10月31日午前4時02分~)で東京北区の十条銀座商店街と篠原演芸場が紹介されていたが、この十条銀座商店街に行った時、アニメの中の商店街が突然出現したような驚きであった。横浜には小さいがこんなところに商店街がと思う場所が三吉橋通商店街。商店街に入ると上に「歌丸さんありがとう」の横断幕があった。歌丸さんが亡くなられたとき、テレビでこの風景が映されていた。まさかその商店街に立つとは思わなかった。この場でそっと合掌させてもらった。ここに歌丸さんも愛した三吉演芸場がある。

 

  • 劇場の中は様々で、どんな場所であっても役者さんたちは、そこでどうしたらお客さんに楽しんでもらえるか工夫されている。設備の問題、照明の問題、音響の問題などこちらから観ていてもハラハラする時もあるが、それも大衆演劇のご愛嬌となる。家内工業的に、役者さんのおばちゃんが照明をされていたりもする。舞台が近いので、上手い、下手もよくわかる。三度笠一つとっても若いのに綺麗な扱い方をしていたり、やはり、立ち姿に年季が入っているなど一目でわかる。近いだけにそういう怖さもある。

 

  • 何が飛び出すか分からないのも大衆演劇の楽しさでもある。ゲストの役者さんが来ている日は、劇団の人数では出来ないような芝居をされたりするようでもある。名作と言われる芝居も、その芯はとらえつつ笑いを入れ、お客さんが飽きないように工夫し、そこが上手くいくとお見事とおもってしまう。笑いから芯に引き戻す力量がいる。ラストショーがメチャクチャ盛り上がったりする。それらと出会えるかどうかはなんとも保証のかぎりではない。こうだからこう楽しいとは限定できないのである。

 

  • 一回の観劇では、演目も踊りも変わるのでその劇団の特色がわかったことにはならない。大衆演劇が観たいという友人を連れていって、あの踊りがもう一度観たいのだがといわれたが、それがいつ出るのか保証の限りではないと伝える。一緒に行った人はほとんどが値段の安さに驚く。それと、終演後の役者さんによるお見送り(送り出し)。こちらが10劇団ほど観させてもらったのも、お値段と一か月は公演しているからである。もう一度観たいと思っているのは、同性のよしみでお名前をあげさせてもらうと、橘鈴丸座長である。最初女座長とは知らず少し線が細いなとおもったが、踊りの発想がおもしろく、なるほどと思う。女子高校生が好みそうである。大衆演劇はなんでもありでいいと思う。

 

  • 温泉につかってお芝居や舞踏ショーを楽しむなどとは、日本の庶民ならではの文化であろう。ずーっと働き続けて、時々息子さんがここに送って来てくれ、ゆっくりここで一日過ごすことができるのが楽しみであるという方のお話を耳にすることもある。遊びかたが多様化して大衆演劇も大変のようであるが庶民の楽しみの場は元気であってほしい。

 

  • 〔追記〕 思い通り、女座長・橘鈴丸さんを観にいく。武蔵野線の吉川駅から5分。場所がわかれば帰りはもっと近い。駅のこんな近くに温泉がある。よしかわ天然温泉ゆあみ。大衆演劇つき。温泉好きが、大衆演劇の力に負けて温泉にも入らずに退散とはこれいかに。芝居は母もので泣かせてくれる。長い台詞なのにくどいとは思わせない。怒りが情に変わる。舞踏ショーでは、がらりとかわってやさぐれた男(中性的)を現代バージョンでおどる。そう!鈴丸座長のこういう雰囲気見たかったのです。今後の予定で、怖いのをやりますと言ってました。つつつーと引っ張られた。怖いのいいと思う。いつかまたの機会にである。楽しかった。ファイト!