信州の旅・塩田平(3)

前山寺』は、木々に挟まれた参道並木が続き、両腕に余る太いケヤキもあり静かでいい感じです。空海上人が開創したといわれるています。本堂が木造の厚い茅葺き屋根で正面に唐破風の向拝がでている美しい姿です。

 

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この向拝の厚い茅葺きの中央に文字が見え、火事から守る<水>かなとおもい入口の受付のかたにお聴きしたら本堂の<本>で、三重塔のある大きなイチョウの木から見ると<水>に見えますと教えてくださいました。近づいてよく見ると言われた通り<本>で、上からは<水>でした。火に強いイチョウの木からみるというのは単なる偶然であろうか。

 

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茅葺の一部上の何センチかは葺き替えたそうで色が変わっていました。それにしても唐破風の向拝の茅葺といい屋根といいお見事です。三重塔は「未完成の完成塔」といわれ、二層と三層に扉も窓も廻廊もなく、横板壁で未完成なのですが、屋根の先のカーブが美し曲線で、その三つの屋根のバランスといい、全体に安定感があり、細部にはこだわらせない力があります。

 

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「クルミおはぎあります」の看板に誘われて、庫裏の塩田平の見えるお部屋でしばし休憩です。庭の土塀には、鉄砲を撃てるように三角の穴がありました。塩田城の鬼門に位置しています。武田勝頼さんが寺領を寄進していて武将たちの信仰も厚かったようです。

 

 

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クルミの練りたれの上に白いはんつぶしのもち米の小さいのが二つで、おはぎというよりお菓子的可愛らしさです。なるほど、上からたれをかけるより、色としては白が美しいなどどと思いつつ賞味。風景といい結構でした。『信濃デッサン館』でのコーヒータイムもよさそうでした。

ここからは塩野神社までは<あじさい小道>を歩きます。小道に入るところで歩いてくる男性に会い、小道を確かめます。親切にそのかた、途中草の繁っているところがあるので、へびに会うといやだろうから杖があるといいといわれ、近くに落ちていた適当な枝の杖になるものを探してくれました。本当に靴が隠れるほどの雑草のところがあり草を払いつつ歩きました。杖にはそういう働きもあるのかと再認識です。幸いへびには会いませんでした。

途中に<塩田城跡>の標識があり、鎌倉幕府の重職であった北条義政が館を構え、塩田北条と称し、その後あの武田信玄に滅ぼされ、さらに上田のヒーロー一族の真田昌幸が支配し上田城ができると廃城となったとあります。(ヒーローとは書いてありませんが・・・)

 

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龍光院』は、北条義政さんの菩提寺です。立派な黒門のまえに樹齢600年の大きなケヤキが。観世音堂も羅漢堂も本堂も閉じられていましたが、寺宝の狩野永琳筆の六曲屏風が本堂に常時展示とありましたので拝見させてもらいました。穏やかな線と色合いでした。外に並んだ干支と赤い帽子と前垂れのお地蔵さんが現代のアニメ風で可愛らしかったです。

 

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次の<塩田の館>は食事処もおわっていて係りの方がお掃除しているようなので、すぐに続きの<あじさいの小道>へ。この道は巾が狭く満開時には両手にアジサイ!の感じで見事なことでしょう。この道の最終が『塩野神社』です。ここで杖を立てかけ、無事のお礼を。古代の公文書「三代実録」「延喜式」にも記されている古い社です。拝殿(勅使殿)や本殿は江戸時代建築で、作者は上田市の名工、末野忠兵衛とありますから、この忠兵衛さん、有名だったのですね。

拝殿は二階建てで、拝殿も本殿も彫刻に力を入れています。沢山の小さな社(八坂社、白山社など)が苔むした石の上や石垣の上などに自然なかたちで自由に並ばれているのが、かえって何者のの束縛も受けず神様たちの語らいの場のようで印象的でした。

 

 

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すぐお隣さんが最後の『中禅寺』です。ここで別所温泉駅行のバスは無くなり、約一時間後の塩田町駅行のバスとなりましたのでゆっくりです。それでいながら列車の乗り換えの関係で長野駅に着く時間は同じなのです。それもまたローカル線の楽しいところです。

中禅寺』も空海さんが開いたといわれ、ここの「薬師堂」は平泉中尊寺の金色堂と同じ形式で東西南北どこからみても4本の柱で柱の間が三間からなっていて、<方三間>と言われ、上から屋根をみると正方形に見えるかたちです。この薬師堂は茅葺ですので、金色堂とは趣が違い、茅葺き独特の曲線の膨らみに素朴な愛嬌があります。残念ながら薬師如来坐像、神将像らは公開しておりません。

 

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手の行き届いた小さな枯山水庭があり、そこから「薬師堂」も見え、休憩場所でしばし一日の終了に満足感を味わいます。これらの寺社は、後ろに独鈷山を控え、その山麓に位置しています。天候も穏やかで、歩く距離もほどほどでゆっくりと鑑賞できる時間をもてました。

 

 

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また少し話が飛びますが、別所温泉の『北向観音』は長野の善光寺と向かい合うように本堂が北を向いているための命名ですが、この愛染明王堂のそばのカツラの木から、川口松太郎さんは『愛染かつら』を思いつき、田中絹代さんと上原謙さんコンビの映画が大ヒット(1938年)しました。ロケ地は、日光市の『中禅寺』と言われています。ところが、『北向観音』ではなく東京谷中の『自性院』の説もあり、ロケ地も東京の池上本門寺説もあります。

映画で驚いたのは、京マチ子さんと鶴田浩二さんコンビの『愛染かつら』(1954年)があったのです。鶴田さんはわかりますが、京マチ子さんはイメージが違います。ただ、応援にかけつけた元同僚の看護婦さんたちの前で、「私事ではありますが・・」と挨拶をされ、それが堂々としていて圧倒され、これもありかと思わせられます。こちらの映画には、カツラの木は出てきませんでした。

 

信州の旅・御代田(4) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

信州の旅・塩田平(2)

さて『無言館』を目指してと調べていましたら、<塩田平ウォーキング>という散策コースが出てきました。上田電鉄の別所線、塩田町駅から別所温泉駅までの塩田平を散策するコースで、<信州の鎌倉シャトルバス>を使うと『無言館』前で降りて、『無言館』→『信濃デッサン館』→『前山寺』→『龍光院』→『塩野神社』→『中禅寺』までが散策としてよさそうです。ゆっくり一日をかけて。上田駅でこのコースを利用できる一日券がありました。

長野から塩田町駅までは三つの鉄道会社を乗り継ぐことになります。

長野駅(JR東日本・篠ノ井線)⇒篠ノ井駅(しなの鉄道)⇒上田(上田電鉄別所線)⇒塩田町駅

篠ノ井駅からのしなの鉄道は軽井沢まで行く線で、長野から乗り入れていますので、長野から軽井沢まで行けることがわかり、三日目の予定が決まったのです。なかなか面白い計画を立てることができました。

上田電鉄別所線は、かつて別所温泉へ行った時、「上田電鉄を守ろう!」というスローガンがあり運営が大変なのだと思った記憶があります。別所温泉は散策にも楽しい場所で、また歩きたいところです。

無言館』と『傷ついた画布のドーム』の二つの展示館があります。前日には小布施で80歳を過ぎても旅をし勢力的に絵筆を持ち、90歳を目前で亡くなられた葛飾北斎さんと対面していたので、志なかばで戦争で亡くなられた若い方達への想いが押し寄せてきます。

出征前、自宅に帰り、周囲が声をかけられないほどの真剣さで絵を描いていたというお話。最後に大好きなおばあちゃんを絵に描かれたかた。貧しくて一家団欒などなかったが、それを想像してゆったりと過ごす家族を描いた絵。父母には心配はかけられないという気持ちが強いため本音が言えなくても、姉や妹などには本音をつぶやかれていたりします。その想いをしっかり受けとめられ、作品を守り通されてこの美術館に託された方達もたくさんおられます。

ここの美術館はドアを開けるとすぐ展示場で、出口でお金を払うかたちになっているのですが、ドアが開いて「ごめん下さい。」といって入って来られたご婦人が、「御免なさい。もっと早く来たかったのですが、やっとこれました。」と言われ静かに絵を観始められました。戦争を体験された年齢とお見受けしました。中にいた人々はちょっと驚きましたが、またそれぞれ静かに絵を眺めそれぞれの世界へ。

ご婦人は、ここへ来たいと長い間思われていたのでしょう。たくさんの抑えられていた想いを絵のまえで解放されていかれることでしょう。

絵と言葉に涙が出てきますが、背中を優しく押されるような気配を感じつつ『無言館』(戦没画学生慰霊美術館)を後にしました。

信濃デッサン館』の館主である窪島誠一郎さんは、大正から昭和にかけて活躍しながら、結核や貧しさのため早くに世を去った画家の作品をあつめてこの美術館を開かれました。その後、『無言館』の開館となったのです。途中に分館の『槐多庵』がありました。「ヨシダ・ヨシエの眼展」。初めて眼にする名前です。美術評論家であるらしく2016年1月(享年86歳)に亡くなられています。写真の様子からしますと、自分の意思を通されたかなりユニークで豪胆なかたという印象です。

米軍占領下時代に、丸木位里、俊子夫妻の絵『原爆の図』を抱えて全国巡回展示をしておられます。横尾忠則さん、池田満寿夫さん、赤瀬川原平さんらの作品が展示されていて、こうした方々の作品についても書かれたのでしょう。ヨシダさんの「檸檬」についての文がありましたが独特の解釈です。当然、梶井基次郎さんの名前もでてきました。

 

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そして、ここで『日本近代文学館 夏の文学教室』での堀江敏幸さん(作家)の『檸檬の置き方について』という講演を思い出しました。梶井基次郎が檸檬をどんな置き方をしたのかということを考えられて話しをすすめられて結論を出しました。その結論は、ビリヤードの玉を置くときの感覚です。(このユニークな展開は今はもう説明できません。勝負する前のビリヤードの玉。梶井さんのお母さんがビリヤード店をやっていたことがあります。)

信濃デッサン館』には、夭逝された戸張孤雁さん、村山槐さん、関根正二さん、野田英夫さん、靉光さん、松本俊介さんなどの作品やデッサン、資料があります。「立原道造記念展示室」が併設されていて、なぜここにと思い係りの方にお聴きしました。東京にあった「立原道造記念館」が閉館となり、その作品を預かる形で、この美術館におかれたのだと説明してくださいました。

信濃追分の油屋のことを書いたとき、ここでお会いするとは思っていませんでした。油屋が火事になった時、立原道造さんは泊っておられ、危機迫ったところで助けらています。

立原道造さんの詩の原稿は太いブルーのインクで書かれていて読みやすいです。詩も若い頃の心情が多少甘酸っぱさを含んでいます。絵のほうの『魚の絵』などはパステルで童画のようで、色合いが明るさと楽しさで溢れています。北斎さんの写実なカレイとサヨリとメバルの三匹の魚の絵を観た眼は、ころっと立原道造さんのこの絵に眼がいきました。

館主の窪島誠一郎さんは著作品も多く、『詩人たちの絵』は、立原道造さん、宮沢賢治さん、富永太郎さん、小熊秀雄さん、村山槐多さん5人の短くも激しく生きた姿を絵も掲載されて書かれています。立原道造さんは、その短い一生のなかで信濃追分の風景が重要な役割を果たしていたことがわかりました。でも今は、塩田平を見下ろすこの地が気に入られているとおもいます。

村山槐多(むらやまかいた)さんは、父との確執から京都の家を飛び出し東京へ向かう途中信州の大屋の伯父の家に寄っています。このそばに海野宿がありその古い家なみと信州の風景をスケッチします。本格的な絵を始める心づもりと場所がこの地だったのです。海野宿はしなの鉄道の大屋駅と田中駅の中間に位置します。行きたい場所がまた一つ出現しました。

無言館』から『信濃デッサン館』までの歩く道の間にも、時々塩田平が姿を見せてくれます。

 

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美術館とはお別れして、散策コースの続きですが、なんと『信濃デッサン館』のすぐ前が『前山寺』の参道でした。

 

2017年9月11日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

信州の旅・小布施(1)

今回の信州の旅のメインは『無言館』を訪れることですが、予定を立てているうちに他の方面にもおもいが広がり、『無言館』は一日あてるとして先ず小布施となりました。

小布施は、葛飾北斎さんが岩松院(がんしょういん) の本堂天井画「八方睨み鳳凰図」を描かれている場所です。北斎さんの娘である葛飾応為さん(お栄)をモデルにした朝井まかてさんの小説『(くらら)』を読んだとき、お栄さんが一緒に小布施に行ったのかどうかに興味がありました。『眩』では北斎さんが小布施に行った時お栄さんも一緒だったとは書いていないのです。行かなかったのかと残念な気持ちだったのですが、北斎さんが亡くなったあとでお栄さんが回想するかたちで自分も小布施へ行ったとあり、まかてさんこう来ましたかとその手法にまいったと思って嬉しくなったのです。

事実なのかどうかはわかりませんが、お栄さんがあの鳳凰のどこかに筆をあてたと考えるだけでも、もう一回観に行こうと思ってしまいます。それで小布施を加えたのです。岩松院は長野から長野電鉄で小布施の次の都住駅から歩いて20分とのことで、下りたことのない駅で歩ける楽しさでもあります。<実りの秋>とはよく言ったものです。林檎の木に小ぶりのの林檎が赤かったり青かったりたわわに実り、歩く道から手を差し出せばとれてしまいます。果樹園でない場所で、無造作にこんな近くにリンゴの木が続いている道は初めてです。栗も大きな真ん丸の緑が可愛らしいです。

天井画の鳳凰はあいかわらず色鮮やかな姿を展開しています。かつては寝転がって鑑賞したのですが、今は椅子に座ってです。やはり寝転がって味わいたい鳳凰です。お栄さんの描いたところはどこかなと眺めます。あの赤の色を変えているところか、茶の羽根の濃淡の部分かな、いやいや、北斎さんは目を優しく描くので、「おやじさん、目はあたしに書かせて。」とばかりに、あの睨んでいる目かなと想像しつつ眺めていたら首が痛くなりました。

 

北斎大鳳凰図  (絵葉書より)

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説明の放送もありますが、係りに説明を聴いてくださいとありましたので、お栄さんがここに来たかどうかをお尋ねしました。来たとのこと。この絵は、小布施の豪商で文化人の高井鴻山(たかいこうざん)さんが依頼し、150両の絵の具代がかかっているのです。宝石を砕いて使っており、それだけの金額をかけたからこそ驚くべき色が残ったのかもしれません。初めて観た時は、修復して綺麗にしたのだと思ってしまったほどでした。

 

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北斎さんが80過ぎてからの作品で、小布施までよく来たものだとおもいますが、絵だけに集中できる環境だったからでしょう。弟子が何人きたのかどうかは記録にないそうで、お栄さんが一生懸命絵の具を作られ、北斎さんとはどんな言葉をかわししつつ完成させていったのでしょうか。お二人のバトルの姿を、今、鋭い目の鳳凰がお二人に負けじと睨み照らしているような感じがします。

岩松院には、<福島正則霊廟>もあります。

 

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さらに小林一茶さんの「やせ蛙まけるな一茶ここにあり」を詠んだ場所でもあり<蛙(かわず)合戦の池>があります。桜の季節の五日間、大人の手のひらの大きさの蛙がメスの産卵のときオスが手伝うのだそうで、メスが少ないため争奪戦となり、その様子と自分の病弱な初児・千太郎への声援と重ねて詠まれたのだそうです。残念ながらお子さんはなくなります。一茶54歳の時です。

 

 

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シャトルバス<おぶせロマン号>で北斎館前へ移動し、ここで栗の木を小さな正方形にして埋め込んだ<栗の小径>を進むと『高井鴻山記念館』があります。高井家は豪農商家でその子孫である鴻山さんは15歳から16年間、京都や江戸へ遊学していて幕末期ということもあり様々な人々と交流し、屋敷には佐久間象山さんも訪れ畳が擦り切れるまで火鉢を押し合って激論したようです。

もちろん北斎さんにはアトリエを提供し画の師として厚遇し、合作も残しています。晩年は妖怪の絵を多く描き、維新の世は鴻山さんが想像していたのとは違っていたのかなとも思えてきました。妖怪は北斎さんと河鍋暁斎さんの絵から学んばれたようです。「夏季特別展 高井鴻山の妖怪たち」

 

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さらに栗の小径を進むと『北斎館』です。『北斎館』に入る前に栗のアイスクリームを賞味。砕けた栗とアイスが絶妙です。『北斎館』では「企画展 北斎漫画の世界」を開催中で、絵の勉強をする人のための本ともいえるもので、人物、動物、植物などあらゆるものの形が描かれています。北斎さんは見えるものは全て自分の手で描く。北斎さんの手が描かずにはいられないという天才の宿命のようなものを感じます。

肉筆画に鮭の切り身一切れと椿という絵があり、その組み合わせにどうしてこうなったのであろうと可笑しさと不思議さに頭をかかえました。普通では考えられない発想です。たまたま鮭の切り身があり、その身の色に、ぱっと見えた椿の花の色が反応したのでしょうか。笑うしかこちらは反応できず。まいったなあ。

小布施にはかつて祇園祭があって、その屋台の天井絵を二基分描いていてそれも展示しています。一基は<男波>と<女波>、もう一基は<鳳凰>と<龍>です。小布施の人々は、北斎さんという画人をもっと身近なところで、江戸の広さとは違ったかたちで口の端に乗せて語りあっていたように思えます。

驚いたのは、『北斎館』にテレビドラマ『眩(くらら)~北斎の娘~』のポスターがありました。あまりのタイミングに係りのかたに今年の9月の放送ですかと確かめてしまいました。調べてみましたら、NHKテレビで北斎さんの波のようなうねりで北斎関連番組があります。

 

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  • 9月15日 NHK 歴史秘話ヒストリー 『世界が驚いた3つのグレートウエーブ 葛飾北斎』 午後8:00~8:43
  • 9月22日 NHK 歴史秘話ヒストリー 『おんなは赤で輝く 北斎の娘・お栄と名画ヒストリー』 午後8:00~8:43
  • 9月18日 NHK 特集『日本ーイギリス 北斎を探せ!』 午前9:05~9:50
  • 9月18日 NHK ドラマ『眩(くらら)~北斎の娘~』 午後7:30~8:43
  • 10月7日 BSプレミアム 特集番組『北斎インパクト』 午後9:00~10:30
  • 10月9日 NHK 特集番組『北斎 ”宇宙” を描く』 午前9:05~9:55

先のことですので、興味のある方は確認されてください。参考まで。

 

日本橋高島屋8階ホールで『民藝の日本 ー柳宗悦と「手仕事の日本」を旅するー 』を開催しています。改めて日本の人々の手仕事の素晴らしさに豊かな気持ちになりました。展示のし方と民芸の選び方も視点のしっかりさを感じさせてもらいました。(9月11日まで) 劇団民藝『SOETSU 韓(から)くにの白き太陽』

 

信州の旅・塩田平(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

歌舞伎座ギャラリー

歌舞伎座ギャラリーで門之助さんと笑三郎さんのトークショーにおじゃまして、猿之助さんの特別映像『宙乗りができるまで ~新臺猿初翔(しんぶたいごえんのかけぞめ)~』があるのを知りました。さらに<歌舞伎夜話アンコール>ということでトークイベントの短縮の映像もみれるということで、八月末までは隼人さんの映像が見れます。

もう一つ、ドキュメンタリー映画『パリ・オペラ座 ~夢を継ぐ者たち~』も9月1日までですので、これも組み合わせて出かけました。

宙乗りができるまで ~新臺猿初翔(しんぶたいごえんのかけぞめ』は、新しい第五期歌舞伎座2016年6月、『義経千本桜』での初めての宙乗りまでの裏の仕事の様子です。三階席の花道上を取り外し、鳥屋(とや)を作りそこに宙乗りをした役者さんは入り幕が締められ、楽屋にもどるのです。新しい歌舞伎座の座席が軽くなり移動にはその点は楽になったそうです。

見ていますとスタッフのかたは大変だなあと思いました。猿之助さんも宙乗りは死と隣り合わせですからといわれていましたが、その安全の点検も神経が張りつめることでしょう。一度、吉右衛門さんが、石川五右衛門の葛抜け(つづらぬけ)の時、宙で葛が開かず下におろして葛から出て、葛を背負い、花道を飛び六法で引っ込むということがありました。何ごともなく安心しましたが、やはりあたりまえが常にとは限りません。

猿之助さんは正確には、スタッフやお弟子さんが先に宙乗りをしましたが、新しい歌舞伎座でお客さまの前で宙乗りをしたのは自分が初めてなわけで、大変嬉しいですといわれ、さらなる宙乗りの工夫に努めたいと意欲をみせます。

そして出て来ました弥次喜多コンビ。花火の打ち上げの宙乗り。二人を吊るしているワイヤーが絡まらないようにその間隔と速さの調節や、染五郎さんが猿之助さんの足をつかむタイミングとか、空中回転などを試します。下で金太郎さんと團子さんが「ウオッー!」と声を発します。慎重にスタッフ、弥次喜多コンビの息を合わせていきます。

染五郎さんは高所恐怖症なのだそうです。アドバイスをと言われて猿之助さん真面目な顔で「危ないことはしないことです。」には笑いました。それでもやってしまうのが弥次さん気質でしょうか。

この映像のあとに、なんというタイミングの良さでしょうか。『歌舞伎を演じる馬』の映像が映りました。歌舞伎に登場する馬の名場面を集めていました。『一谷嫩軍記 陣門・組討』『近江のお兼』『実盛物語』『馬盗人』『矢の根』『當世流小栗判官』。役者さんに合わせてとその場の空気をつくったり、役者さんを乗せ花道を走ったり、碁盤の上に乗ったりと、大きな映像でみると脚などもしっかり見え、その動きの絶妙さはあっぱれです。映画『旅役者』の表六、仙太コンビに見せてあげたいところです。闘志を燃やすことでしょう。

その他常時放映されている『歌舞伎の華 傾城たち』『白波五人男 稲瀬川勢揃い』の映像もあり見どころ多数ありでした。重い鬘と衣装の出で立ちで、身体をどう動かしているかがわかります。そばには、傾城の衣装も展示され、白波五人男での傘は実際に使うことができ、形をきめての写真もオッケーです。一人でも係りのかたがシャッターを押してくれます。

隼人さんのお話は、浅草歌舞伎六年目で電車通勤にも慣れた事、忠臣蔵の力弥を田之助さんに教えを受けたときにあわてた事、『ワンピース』で大きなお役をもらった事、ラスベガス公演の事など爽やかに話されていました。

歌舞伎ギャラリーに一度行ってみようかなとおもわれるかたは、この映像も予定に入れるとより楽しいものになるかとおもいます。9月の特別映像は染五郎さんの『大物浦』の舞台裏をみせられるようで、「歌舞伎夜話アンコール」は前半は巳之助さんで、後半は米吉さんです。二つを見るためには、それぞれの上映時間を調べて組み合わせて下さい。

帰り際には、しっかり大道具の馬にも乗りました。これをかぶると言いますか、背負うといいますか、そして二人の息を合わせ、さらに役者さんを乗せるのですから、あらためて馬役者さんの技には拍手です。

ドキュメンタリー映画『パリ・オペラ座 ~夢を継ぐ者たち~』については、他のドキュメンタリーバレエ映画と合わせて書ければその時に。

新橋演舞場でOSKの『レビュー 夏のおどり』を観ました。歌舞伎と反対に男役の方の動きが気になり観ていましたが素敵でした。第一部は『桜鏡~夢幻義経譚(ゆめまぼろしよしつねものがたり)』で、高世麻央さんの義経と桐生麻耶さんの弁慶コンビが光っていました。桐生さんに弁慶の大きさがあり、女性でこれだけの弁慶はいないのではと思いました。初めてなので実際のところ比べられないのですが。レビューもこれだけ見せれるのだと感心しました。

出演のかたがたが、舞台装置の移動もして、その動き方が男性的できびきびしていて気持ちよかったです。今回は、高世麻央さんと桐生麻耶さんを中心に観させてもらいましたが、ラインダンスも超元気いっぱいで楽しく、スカッとしました。大人の男性も多かったです。秋めいた夏のおわりのような輝きでした。

 

 

浅草映画『乙女ごころ三人姉妹』

乙女ごころ三人姉妹』は成瀬己喜男監督の浅草の門付け芸人を母にもつ三姉妹のそれぞれの生き方を描いた作品です。原作は川端康成さんの『浅草の姉妹』で、脚本は成瀬己喜男監督です。川端康成さんは一高生時代に浅草で暮らしており、その後も浅草に住み浅草を散策していまして、『浅草の姉妹』も浅草物作品の一つです。

川端康成さんは映画にも興味を持ち、衣笠貞之助監督の『狂つた一頁』では、脚本に参加していまして、この作品は大正モダニズムのアヴァンギャルドな映画です。見た時、これが衣笠監督の映画かと驚きました。

成瀬監督の映画のほうに舵をとりますが、<映画監督・成瀬巳喜男 初期傑作選 >特集の中から『乙女ごころ三人姉妹』(1935年)『サーカス五人組』(1935年)『旅役者』(1940年)と見たのです。『乙女ごころ三人姉妹』の長女が細川ちか子さん、次女が堤真佐子さん、三女が梅園龍子さんで、堤さんと梅園さんは、『サーカス五人組』での団長の姉妹となって登場していました。

乙女ごごろ三人姉妹』 母親が三味線を抱えて民謡や俗曲などを歌って流す門付けの置屋のような商売をしていて、そんな母親に育てられた実子の三人姉妹のそれぞれの生き方をえがいています。実子のほかにも何人か女性の流しの芸人を抱えています。

この仕事はいつ頃まであったのでしょうか。三味線を抱え、浅草の繁華街の飲食店ののれんをくぐり聴いてくれるお客を探して歩きます。三人姉妹のうちこの仕事をしているのは、次女のお染だけで、なかなか厳しい仕事で、くじける妹弟子におこずかいをそっと渡したりします。酔ったお客にからまれたり、お店の女給さんなどから、あなた達に用はないわよとばかりにレコードをかけられたりします。民謡などのレコードも出てきている時代で先の無い仕事にみえます。

妹弟子たちは、母から厳しく稽古をつけられたり、勝手にお金を使ったと叱責をうけたりします。そんな生活をいやがり、長女のれんはバンドのピアノ弾き(滝沢修)と駆け落ちし、三女の千栄子はレビューの踊子になっています。

お染は性格が優しく、姉のことを心配し、妹に恋人(大川平八郎)がいることを喜びます。そんなとき姉と浅草の松屋の屋上で会います。姉はよくこの屋上が好きでそこから下を眺めていました。話しに聞く1931年(昭和6年)にできた浅草松屋の屋上のロープウェイ「航空艇」もしっかり見ることができ、これが見れる貴重な映画です。屋上とその下の生活の違いをうかがわせるように下の風景が映しだされます。れんは下の生活のみじめさをじっと眺めているようです。

れんは浅草の不良仲間では名前を知られていましたが、駆け落ちして夫もバンド仲間からはじかれてピアノの仕事が出来ず胸をわずらい、夫の故郷に行くことをお染に告げます。お染は見送りに行くことを約束しますが、妹の恋人が不良仲間に因縁をつけられているのを見てその場に飛び込み刺されてしまいます。それを隠して姉を見送りに駅に行きます。

姉は汽車賃を得るために、知らずに妹の恋人を不良仲間のところに案内する役目をしていました。お染は何も言わず、妹に恋人が出来たことを嬉しそうに姉に告げ姉夫婦を見送るのでした。

次女の堤真佐子さんと、三女の梅園龍子さんは、創立間もないPCLの売り出し中の新人で、堤真佐子さんは初主演です。見始めたときは、あまりのオーソドックな演技に、ものすごく古い映画を見ているような感じでした。細川ちか子さんのれんに、かつては粋がっていたが今は生活に押しつぶされそうな雰囲気が出ていて、三人姉妹の境遇にもそれなりの厚みが増します。

細川ちか子さんは、演技に対しては一言申しますといった気概があり、お化粧も個性的な新しさがあります。梅園龍子さんは榎本健一さん代表の「カジノ・フォーリー」の踊子さんでもあり映画でも彼女のレビュー舞台姿が映されます。川端康成さんはカジノ・フォーリーに出入りしていて、それが作品『浅草紅団』となります。大川平八郎さんは二枚目で、『音楽喜劇 ほろ酔い人生』『乙女ごころ三姉妹』『サーカス五人組』『旅役者』にも出演されていますが、スターという二枚目ではなくおとなしめです。

藤原釜足さんも出られてました。弟子が民謡を稽古するのをそばの住人が聴いてそれに合わせて仕事をする桶屋です。子供達が、流しの彼女たちを「お客さん、ご馳走して。」とはやし立て、はじかれていく一方で、その歌に調子を合わせるという生活もあったわけで、このあたりの表現の交差は成瀬監督ならではの細やかさです。

お店でレコードがかかる場面で、レコード時代が到来しているときなのであろうかと思ったのですが、タイミングよくテレビで『人々を魅了した芸者歌手』という番組がありまして時代背景がわかりました。

民謡や小唄などをすでにプロとしてお座敷で披露していた現役の芸者さんが、歌手としてレコード録音するのです。藤本二三吉さんの『祇園小唄』が1930年(昭和5年)で、その後、<鶯芸者三羽がらす>の市丸さん、小唄勝太郎さん、赤坂小梅さんが、故郷の民謡と同時に新民謡を広めるんです。

門付けの三味線を抱えての流し芸は、持ちこたえられる時代ではなくなっており、三人の姉妹はそうした変化の中で無理解な母のもとでもがいて各自の道を探すのです。そして、人々は浅草からもっとモダンな銀座へと移って行った時期でもあるのでしょう。

この映画は映画の中だけでなく、出演している俳優さんの経歴の違い、さらに演劇と映画、浅草と文学、浅草の時代性、さらに日本のその後など、様々な切り込みのできる映画でもあるといえます。この時代の浅草を映像で残してくれた貴重な映画でもあります。

話しは飛びますが、市丸さんが浅草橋で住まわれた家が改装され、今は「ルーサイトギャラリー」となっております。このギャラリーの信濃追分店は、「油や~信濃追分文化磁場~」となっていまして、堀辰雄さん、室生犀星さん、立原道造さんなどの文学者にゆかりのあるかつての油屋旅館で、一階はギャラリーで二階は宿泊できるようなったようです。

「油屋」は中山道追分宿の旧脇本陣で、一度火事にあっています。私が訪れた時は、建物はありましたが公開はしていませんでした。思いがけないところで新しい「油屋」さんを知りました。追分宿にひとつ景観がよみがえったわけです。しなの鉄道の信濃追分駅から徒歩20分位で近くには、堀辰雄さんの旧居が堀辰雄文学記念館になっています。

 

川島雄三監督映画☆『箱根山』(俳優・藤原釜足)

藤原釜足さんの脇役で出演されている映画は沢山ありますが、川島雄三監督目的で見に行った『箱根山』に出演されていて、物語の展開からもかなり重要な役どころでした。

箱根山』 加山雄三さんと星由里子さんを主人公にした青春ものといえますが、その周辺の大人たちに演劇力ある俳優さんたちをきちんと配置して、その大人たちをも越える新しさで若い人が自分たちの生き方を目指すというコメディ映画です。

箱根の山は天下の嶮の箱根が観光開発で交通関係会社が二分する争いの中、二つの老舗旅館はもとは血縁同士なのですが150年以上前から犬猿の仲です。玉屋には老齢ながらかくしゃくとした老女将・里、大番頭、若番頭(東山千栄子、藤原釜足、加山雄三)が、若松屋にはアマチュア考古学研究で商売がお留守な主人、女将、女子高生の娘(佐野周二、三宅邦子、星由里子)がおります。

観光開発会社のワンマン社長(東野英治郎)は、箱根にも乗り出し観光化に驀進しています。視察にきた社長に社員が、富士山のすそ野に見える木々を「じゃまですから切りましょうか」と言うと「あれが無くなったらただの山じゃ。そのまま。」と言います。自分は発想が違いそれで成功したのだということを強調しているような発言ですが、富士山をただの山というのが逆説的で可笑しかったです。俺の手に架かればという強気です。

加山雄三さんの乙夫は、父が外国人で本国に帰り、日本人の母は亡くなり玉屋の里に育てられ、里に恩義を感じていますが、今の箱根と旅館の状況をよく分析しています。若松屋の星由里子さんの明日子とはロミオとジュリエットのような関係ですが、明日子は名前の通り、先のことしか考えていません。

なんと乙夫はワンマン社長の会社に就職します。観光化の波に自ら飛び込み学ぼうじゃないかという考えです。明日子も自分も女将業の勉強をして何れは二人で新しい旅館経営を考えようということなのです。

大番頭はそこまでのことを知ってか知らずか、二人の仲を知っていながら里には隠しています。

玉屋が火事にあってしまい里は、若松屋で明日子に優しくしてもらいます。里はお礼を言いつつも、若松屋に助けられた自分が情けなくご先祖様に申し訳ないと寝込んでしまいます。ところが、お金をつぎ込んで温泉を掘っていたのですが、お湯がでましたとの大番頭の報告に、床を上げさせこうしちゃいられない負けてなるものかと闘志を燃やすのです。それを聞いた若松屋の主人も、よしうちも負けられないとご先祖からのいがみ合いはまだまだ続きそうです。

大番頭は、里にごもっともですと仕え、温泉を掘る職人(西村晃)の機嫌をとったり、里の命令通りあちらこちらに気を回しながら忙しく動き回ります。大人たちの思惑とは関係のないところで若い人たちの生き方が、大番頭の苦労をねぎらってくれそうな予感ですが、深く考えてはいなくて、ただその場その場を里のために動く大番頭の藤原釜足さんが番頭そのもの色で好演です。

老政治家の森繁久彌さんがお馴染みの玉屋を訪れ、その扱いかたの東山千栄子さんの老女将がこれまたいい味です。政界から身を引いている森繁さんと東山さんがでてくることで、老舗の格が上がり、老舗旅館の女将とはこういうものであろうという空気が出ています。東山千栄子さんは『紀ノ川』では、孫娘を嫁がせる旧家の祖母としての品ある貫禄で存在感のあるかたです。

ホテルの中で一日遊ぶというリゾート型の新しいホテルの支配人の有島一郎さんなど役者を上手く使う川島雄三監督の手法は、この作品でも生かされています。

原作は獅子文六さんの『箱根山』で、脚本は井手俊郎さんと川島監督です。原作にはモデルがあるようで、場所は箱根の芦之湯で、<芦之湯バス停>から元箱根に向かうバス停一つ先には、<曽我兄弟の墓バス停>があり、されに一つ先には<六地蔵バス停>があり、このあたりは石仏群もある歴史の古い場所です。この辺りのことは 映画『父ありき』 に書いています。

藤原釜足さんは黒澤明監督の常連でもあります。脇役で出られている作品は沢山あります。『天国と地獄』でも、犯人が身代金に入っていたバックを自分の勤めている病院の焼却場で焼きますが、煙突から警察の仕掛けて合った赤い煙があがります。焼却場の仕事をしているのが、藤原釜足さんです。刑事に質問される短い時間ですが、知らないことをマネして演じるというより、そのままの雰囲気を無理なく演じられていて空気のようにふーっと出てふーっと消えます。

黒澤明監督は、今井正監督の『青い山脈』で次のように話されています。

何でも一番最初の作品がたいていよくてさ、すぐ『青い山脈』か『伊豆の踊子』ってなっちゃうんだから。今井監督のこれはとてもハツラツとしているし、釜さん(藤原釜足)の所なんかすごく良いでしょ。 (『黒澤明が選んだ100本の映画』黒澤和子編)

釜さんのでていた所が全然頭に残っていません。録画していないかと探したのですが無いんですよね。釜足さん、濃い色は出されていないと思います。自然にそこにいるんですよ。

『祇園祭』にも、戦いで無くなる大工役で、その意志を息子が継ぐという流れでした。

これからも見る映画のなかで、おっ!釜さん出ましたという出会いがあるでしょう。

監督・川島雄三/原作・獅子文六/脚本・井手俊郎、川島雄三/出演・加山雄三、星由里子、東山千栄子、藤原釜足、佐野周二、三宅邦子、東野英治郎、有島一郎、小沢栄太郎、中村伸郎、藤田進、西村晃、藤木悠、児玉清、北あけみ、塩沢とき、森繁久彌、

 

映画『音楽喜劇 ほろよひ人生』『サーカス五人組』『旅役者』(俳優・藤原釜足)

古い映画を見ていると、この方が主役をやっておられたのかと驚かされたり、その後もしっかり脇を押さえられて、沢山の映画に出られている俳優さんたちがいます。ここ数カ月注目度の高かったのが、このかた藤原釜足さんです。

日本初のミュージカル映画とされる『音楽喜劇 ほろよひ人生』(木村荘十二監督)に主役で出演されているのが藤原釜足さんです。<音楽喜劇>とあるようにミュージカルというより音楽劇が妥当だとおもいます。

シネマヴェーラ渋谷の「ミュージカル映画特集Ⅱ」のアメリ映画の中に、邦画の『舗道の囁き』と『音楽喜劇 ほろよひ人生』が特別上映されたのです。『舗道の囁き』(1936年)は見ていましたのでパスしました。 映画 『破戒』『乾いた花』『鋪道の囁き』(2)

『音楽喜劇 ほろよひ人生』『突貫勘太』『シンコペーション』と見て、大谷能生さん&瀬川昌久さんのトークショーがありました。別の日にすでに『音楽喜劇 ほろ酔い人生』のあと、矢野誠一さん&瀬川昌久さんのトークショーがあり、この日は『音楽喜劇 ほろよひ人生』のお話は少なかったです。三本続けて大丈夫かなと気がかりでしたが、それぞれに楽しみかたが違い、見たい作品でしたのでゆるやかな疲労感ですみました。

洋画のミュージカル映画に『突貫勘太』(1931年)という題名は驚きます。この映画で歌われる「Yes, Yes, My Baby Said Yes, Yes!」(エディ・キャンター)が『音楽喜劇 ほろよひ人生』(1933年)でも使われています。榎本健一さんの映画でも使われたようです。

音楽喜劇 ほろよひ人生』 実際にあったのかどうかビール会社の宣伝もあったようですが、駅のホームでビールを売っていまして、その売り子・エミ子(千葉早智子)に恋するアイスクリーム売りのトク吉(藤原釜足)が、お金はないけれど一生懸命で、エミ子が人気の「恋の魔術師」の歌が好きと言えば練習したりするのです。ところが、彼女は「恋の魔術師」の歌を作った男性(大川平八郎)と結婚してしまいトク吉はふられてしまいます。

ルンペンになり、偶然泥棒が元恋人の新婚家を狙っていること知り、侵入する泥棒たちを退治します。トク吉は、その後ビアホールで成功し、彼女の写真を飾っています。元恋人は夫と何も知らずその前を通り過ぎてしまうという話です。

駅のホームの様子、泥棒たちの動き、泥棒退治騒動などを可笑しくえがき、歌も入るといったもので、音楽学校校長の徳川夢声さん独特の台詞や、古川緑波さんが意味もなく歌ったりして花をそえています。見ていて藤原釜足さんが主役なのには驚きましたが、喜劇で釜足さんがひょうひょうとしたコミカルさをだしていて違和感がありませんでした。

洋画『突貫勘太』の方が、パン製造工場の女子工員がレビューさながらの衣装で軽やかに働いたり踊るのと比べると何んとクラッシクなのかと思えてしまいますが、当時の日本としては、大正時代のモダニズムの流れが感じられる作品です。

『日本近代文学館 夏の文学教室』で川本三郎さんが(一日目、二講時)関東大震災のあと驚くべき速さで復興し、歓楽街は浅草から銀座に移ったと言われましたが、トク吉のビアホールも銀座なのかもと思えます。

映画会社のPCLに藤原釜足さんを紹介したのは、丸山定夫さんで、この映画では丸山さんはルンペンで出演しています。後に丸山定夫さん、藤原釜足さん、徳川夢声さん、薄田研二さんの4人で劇団「苦楽座」を立ち上げています。

藤原釜足さんの喜劇性は、『サーカス五人組』(1935年、監督・成瀬己喜男)や『旅役者』(1940年、監督・成瀬己喜男)でも発揮されています。

サーカス五人組』 五人の楽団が催しものがある町を回っていますが、頼まれた運動会が無期延期となり、仕事にあぶれてしまいます。巡業中のサーカス団の団長が横暴のため団員はストライキとなり、団長はこの五人組の楽団を雇います。サーカス団長の娘などとの交流も加わり、音楽だけではなく得意芸も見せ、五人の人物像も照らしだされます。旅回りという不安定な境遇の悲哀を可笑しさで包む作品です。五人の一人藤原釜足さんは女好きでドジで、捨ててたきた女性の清川虹子さんに追いかけられ捕まるという、皆を笑わす愛嬌者を引き受けています。

芸達者がそろう成瀬監督の旅芸人もので、原作は古川緑波さんの『悲しきジンタ』で、<ジンタ>という言葉も大正時代につくられた造語です。今では死語になってしまいました。雰囲気のただよう単語です。

五人組(大川平八郎、宇都木浩、藤原釜足、リキー宮川、御橋公)、団長(丸山定夫)、団長の娘・姉妹(堤真佐子、梅園龍子)

旅役者』  成瀬己喜男監督(原作・宇井無愁「きつね馬」)も旅芸人もので、こんどは旅回り一座の馬の脚専門の役者が藤原釜足さんです。これが研究熱心な馬の脚役で、本物の馬をみては研究し、弟子(柳谷寛)に教えるのに余念がありません。このコンビの関係もほのぼのとしていて良い具合です。映画では藤原釜足さんが主役です。

劇団の名前は「中村菊五郎一座」で、田舎の人々は、菊五郎が来るのかと驚きます。このあたりからもう怪しい雲行きです。馬の脚役者は、町へ行っても、かき氷を食べながら、座敷では芸者(清川虹子)に馬の脚の重要性を話して聞かせ、関心も持たれてしまいます。そのあたりが嫌味がなく、自分の脚役に自信をもっています。それも、この一座の一番の出し物は『塩原多助』なのです。

ところが、興行者をめぐるいざこざから、かぶり物の馬の顔が壊されてしまい、舞台には本物の馬を使うことになり、馬脚役者には、本物の馬の世話が回ってきます。舞台に出なかったことを芸者に言われ、それでは見せてやると修繕してキツネのような顔になった馬をかぶって走り回り、馬小屋を壊し逃げる馬を追いかけるのです。まるで、本物の馬が芝居の馬の勢いにおびえて逃げるようで、馬脚役者の一世一代の舞台でした。

前と後ろ脚のコンビの馬の脚のことしか考えない真面目さが、肩に力の入らない自然さで、そこがまた共感できる可笑しさでもあるのです。藤原釜足さんのテンポになぜか巻き込まれているのです。

リアルとも違い、演技をしているという感覚をこちらには与えず、こういう芸人もいるかもなあと思わせてくれます。

この三本が、藤原釜足さんの主役と主役級のこの数カ月で出会った作品です。その他にあるのかもしれませんが、それは今後の出会いにまかせます。

 

歌舞伎座八月『野田版 桜の森の満開の下』

野田版 桜の森の満開の下』は、観劇するのが楽しみであると同時に解るであろうかの疑念がありました。

<野田版>とあるように、下敷きの坂口安吾さんの『桜の森の満開の下』と『夜長姫と耳男』です。その二作品は読み、篠田正浩監督の映画『桜の森の満開の下』も見ておきました。

坂口安吾さんの『桜の森の満開の下』は、山の中に住む男が、桜が満開の森の中に入ると気が変になってしまうことを知り怖れていますが、美しい女を手に入れ、その女の欲望のままに動き、女の望み通り山から京に出ます。美しい女のために生首を集めてきますが、男にとっては何の意味もありません。次第にあの桜の下の魔力が思い出され男は山へ帰ると言います。思いがけず、女はそれじゃ私も一緒にいくといい、男は喜んで女を背負って満開の桜の下に入っていきます。女がいれば桜の下も怖くないと。しかし、背中の女が自分の首を絞め、鬼になっていました。思わず男は女を絞め殺します。そこには美しい女の顔がありました。

篠田監督の映画『桜の森の満開の下』は原作に少し京での男の行動を膨らませていますが、基本的に原作を映像化しています。

野田版では、女がもてあそぶ生首の場面などは無く、そこに『夜長姫と耳男』を挿入しています。

『夜長姫と耳男』は、<耳男><小釜><青笠>の三人が夜長の長者に仏像を彫るように命ぜられます。夜長の長者には美しい娘の夜長姫がおります。耳男と夜長姫が会ってからは、この二人の物語となります。夜長姫はとてつもない理解しがたい美意識と感性の持ち主で、耳男は名前の通り大きな耳を持っていますが、その耳を女奴隷のエナコに斬り落とさせるのです。

足かけ三年、耳男は姫の笑顔に魅かれる自分に対抗するようにモノノケの像を彫ることにします。自分の意識を覚醒させ、蛇の生き血を飲み、残りはバケモノの像にしたたらせ姫の笑顔と闘います。この像が姫に大層気に入られます。姫はバケモノの像の力を試し、その力が無くなると姫は耳男に命じ蛇を捕まえさせ、自分がその生き血を飲み、人々がきりきり舞いをして全て死すことを祈り眺めていたのです。

耳男は姫の無邪気な笑顔とミロクとを重ねて彫っていましたが、そんなものが何の意味も無い様に思え、姫を殺す以外に人間世界は維持できないことを知り、耳男は姫をキリで刺し殺してしまうのです。

刺された姫の最後に残した言葉は・・・・。

さて、『野田版 桜の森の満開の下』では、どうなるのでしょうか。『桜の森の満開の下』に挿入された『夜長姫と耳男』は、登場人物が多くさらに鬼が加わります。仏像を彫る男三人は、耳男(勘九郎)、マナコ(猿弥)、オオアマ(染五郎)の三人で、耳男はわかります。オオアマも鬼を使って国盗りをするという人物です。

マナコがわからなかったですね。カニになったりもするのです。野田芝居特有の言葉あそび、パロディが散りばめられていますから、わからないなりに笑わせてもらいます。その笑いの多いマナコがよくわからなかったわけです。カニ軍団のカニ、カニ、カニの動きも意味もわからず可笑しいのです。

鬼も人間になりたいと人間になったりもします。人間に利用されているだけなのか、鬼そのものの力があるのかあたりもわかりません。鬼の中心はエンマ(彌十郎)そして赤名人(片岡亀蔵)、青名人(吉之丞)、ハンニャ(巳之助)。

これまたよくわからない人で作る遊園地はお見事でジェットコースターなど動きも抜群です。ところどころにこうした流動的躍動感が舞台一面に広がるのですから細部はまあいいかと楽しませられます。

夜長姫(七之助)だけではなく、早寝姫(梅枝)もでてくるのです。たしかに夜長姫があれば、早寝姫があってもいいわけで、この名前を見ているだけでも可笑しいです。二人の娘に翻弄される親のヒダの王(扇雀)。早寝姫は、歌舞伎ならではの国盗りに手を貸し、ここは歌舞伎を意識しての挿入でしょうか。それだけではない地図の広さを感じます。

その上には空があり、空が下がってきてしまうという恐怖感もあります。おそらく野田さんは世界を意識されているのでしょう。

夜長姫は人々がきりきり舞いをするところで、「いやまいった。まいったなあ。」といい、その軽さにもっていくのが印象的だったのですが、最後の耳男のせりふが、「いやまいった。まいったなあ。」でしたので、やはりここにくるのかとおもったのですが、今の世界を表しているのでは。自然界も人間界もその根の深さがむくむく首をもたげ異常な噴出を始めているようです。

『桜の森の満開の下』だけのことならいいのですが。その上の青い空がおりてきたら・・・・。

いやまいった。まいったなあ。

まいっている暇のない、野田ワールドの沢山の笑いと役者さんの動きも愉しまれてください。

 

神保町シアターで、三代目猿之助さんが襲名のときの映画『残菊物語』を上映しています。溝口健二監督の花柳章太郎主演の映画はDVDにもなっており見ることができますが、大庭秀雄監督の三代目猿之助さんの映画はつかまえられず、やっと見ることができました。舞台場面も多く若い猿之助さんと岡田茉莉子さんが一見です。(23日19時15分~、24日16時40分~、25日12時~)

 

 

歌舞伎座八月『修禅寺物語』『東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帳』

修禅寺物語』は彌十郎さんのお父さんである初代坂東好太郎さんとお兄さんの二代目吉弥さんの追善公演でもあります。

吉弥さんは観ていまして、独特の声質で頭の中にその響きが残っております。好太郎さんは、溝口健二監督の映画に出ておられて、『歌麿をめぐる五人の女』はビデオテープを持っていまして今回見直しました。歌麿が六代目蓑助さんで、その歌麿に反感を持ちますが、歌麿の絵の力に敬服し、武士を捨て絵師になるのが好太郎さんの役です。一途に女の愛を貫き愛人をも殺してしまう田中絹代さんもからんで描きたい女をも畳み込む溝口監督ならではの相関図が展開されます。

見たい作品は溝口監督の『浪花女』で、好太郎さんが主役ですが残念ながら残っていないようなんです。

修禅寺物語』は、伊豆の修禅寺に住む面(おもて)作り師夜叉王(彌十郎)が時の将軍源頼家(勘九郎)から頼家自身の面を頼まれますが、納得のいく面が打てません。それは、似てはいるのですが面に生がこもらず死んでいるのです。こんなものは後の世に残せないと自分の腕に苦悩しますが、後にこれは、頼家の死を暗示していたのだとわかり、自分の腕に自信をとりもどし瀕死の姉娘・桂(猿之助)の顔を描くのでした。

些細な幸せを願う妹娘・楓(新悟)と許嫁・春彦(巳之助)の対極に、田舎に埋もれることをきらい頼家に見初められ、頼家の面を付け頼家の身代わりとなる桂。頼家に付き添う修禅寺の僧(秀調)など所縁の方々を配しての上演です。

夜叉王という芸術至上主義者を通して、鎌倉源氏の権力の危うさを映し出した岡本綺堂さんの作品で、彌十郎さんは信念を動かない腹を示めされました。勘九郎さんの声が勘三郎さんそのもので、もてあそばれる運命にあがなう気品をだされ、猿之助さんと新悟さんが性格の違いをはっきりさせ良い彫りの舞台でした。

東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帳(こびきちょうなぞときばなし)』。宙乗り下りで、あの弥次喜多が木挽町歌舞伎座に帰ってきました。再び歌舞伎座での黒子のアルバイト。この二人がいる場所には、かならず何かが起こり、またまた舞台はとんだことになりますが、今度は殺人事件勃発です。

それが『義経千本桜』の<四の切り>の練習場面で起こるのです。座元、その女房、役者、その家族、弟子、大道具、女医、同心、若君と家来、そして、竹本の少掾と三味線などなどなど・・・なぞなぞなぞ・・・

弥次さん喜多さんのドジぶりは相変わらずですが、役者さんこの舞台で実舞台のうっぷん晴らしかもと思わせる熱演もあったりで可笑しいのなんの週刊誌よりも歌舞伎界のスクープ性ありかも。もちろん瓦版の取材もあります。

<四の切り>の舞台装置が、謎解きの展開で公開され、舞台装置の断面図の実際の作りも出てくるのですから大道具さんも大変です。三代目猿之助(現猿翁)さんの舞台から、本の写真でその仕掛けを知った者としては、嬉しいサプライズでもあります。役柄上は大道具・伊兵衛の勘九郎さんが造ったことになります。

<四の切り>で舞台正面の三階段から狐忠信が現れますが、染五郎さんの弥次さんが吹っ飛んで飛び出してきて大爆笑です。大丈夫です。知っていても笑えますから。ところが、これが笑わせるだけではないんです。この時の役者がどう出てくるかが、重要な謎解きのひとつでもあり、さすが狐忠信役者猿之助さんならではの手が混んだ脚本です。

大詰めで、謎ときのバージョンが観客によって決めます。座元の女房児太郎さんと隼人さんの芳沢綾人の弟子・小歌の弘太郎さんバージョンからの二者択一でした。

書きたいことは沢山ありますが、観てのお楽しみで控えますが、歌舞伎ギャラリーでのトークショーで門之助さんと笑三郎さんのお話を聞きましたのでそこから少し。

門之助さんは竹本の鷲鼻少掾(わしばなしょうじょう)で、笑三郎さんは三味線の若竹緑左衛門の役でして、実際に床に座し語り、弾かれるのです。門之助さんと笑三郎さんの不満なところは、最初はお客さんが観てくれるのですがどうしてもお客さんの目が舞台の正面にもどってしまうことだそうで、わかります。お二人を観ていたいのですが、舞台上ではそう簡単には観れない場面をやっているわけで、どうしても舞台に目がいきます。ただ耳はそばだてていまして、時々、本当にお二人がやっておられるのか確かめはするのです。そんな観客の想いもわかってくださり、実際に語り、弾いてくださいました。見台にはカマキリの紋が入っています。

座元の中車さんが釜桐座衛門でして、昆虫の解説をされるのですが、それが毎日違う解説をされているそうです。洒落かなと思っていまして真面目に聴講していませんで不覚を取りました。

義経と静なら明日やれと言われればできますが、まさかこんなお役がくるとは思わなかったと言われるお二人。しかし、猿之助さんの役の振りあてお見事で、やると聞くとでは大違いと言われつつ、お二人のプロ根性はさすがです。猿翁さん、猿之助さん、巳之助さん、それぞれの狐忠信の間の違いも感じられておられました。

皆さんと一緒にでているのに仲間はずれのようでさみしいとのことでしたので、役者としても観てあげて下さい。

歌舞伎ギャラリーでのトークショー、30分という時間でしたが、中身の濃い充実した楽しい時間でした。

とにかく目と耳を使い切る訓練の必要な演目で、日頃表立って出られない役者さんたちもいてもっと注目したいのですが、残念ながらとらえきれません。シネマ歌舞伎を期待することにしましょう。

こちらも弥次さん喜多さんに刺激を受け、旧東海道歩きのその後を見てきました。三島スカイウォーク・日本一のつり橋です。歩いていた時、何か工事があり旧東海道は歩けず国道一号を迂回することになった場所です。巨大なコンクリートの土台がありなんであろうとぶつぶつ文句を言いつつ歩いたのです。友人と三島スカイウォークの入っているツアーでリベンジです。文句言っていないで、じっくり橋の無かった風景を脳裏に残しておけばよかったと反省。

テレビで紹介されたとかで、添乗員さんも驚く混みよう。一列になっての橋上ウォークは少し興ざめでしたが、よくこういう場所につり橋を作ることを考えて観光にするものだと、その思考と技術に驚きを感じます。この時期は富士山は無理です。見えれば絶景だと思います。

弥次さん喜多さんより高いスカイウォークだと思いましたが、あの二人は花火で打ち上げられてもどってきたのでした。負けです。

 

歌舞伎座八月『刺青奇偶』『玉兎』『団子売』

刺青奇偶(いれずみちょうはん)』は長谷川伸さんの作品で、勘三郎(18代目)さんの半太郎、、玉三郎さんのお仲で観ていますが、今回は玉三郎さんが演出のほうで、七之助さんが玉三郎さんのお仲そっくりで驚いてしまいました。

声の調子、身体の線、しどころなどよくここまで受け継がれるものだと思って観させてもらっていましたが、勘三郎&玉三郎コンビでは無かった涙が、中車&七之助コンビでは、出てしまいました。

七之助さんのお仲には捨て鉢ながらも儚なさがあり、飛び込んだ川から半太郎に助けられ、行くところもなく半太郎という男に賭けてみようという最後にすがるよりどころを見つけた必死さがありました。同じに見えてもそこから出てくるそれぞれの役者さんの色というものがあるのを改めて感じました。

中車さんは、棒杭にもたれて江戸の灯を見るしどころがよく、ゆっくりではあるが一つ一つ身体に叩きこんでおられるなというのがうかがえました。他の歌舞伎役者さん達が小さい頃から見て教えられてきた時間の違いがあるわけで、そのしどころの数は中車さんにとっては大きな山が目の前にそびえているのです。ところが、他の役者さんはさらに先へ進むのですからたまりません。自分の中に少しづつ収めたものを大切にされ進まれてほしいです。

博打しか頭にない半太郎は、死ぬしか先がなかったお仲を助けます。自分の体しか用のない男たちを見て来たお仲にとって半太郎の無償の行為は、かすかな光でもありました。そんな二人が夫婦になりますが、半太郎の博打好きはなおりません。

病身で自分が助からないと悟ったお仲は、半次郎の右腕に刺青をさせてくれと頼むのでした。この場面思いがけず涙でした。お仲は、自分の亡きあと、半次郎が身を滅ぼさないことを願ったのです。ここまでは許すがここからは許さないよというお仲の戒めでした。その間、きっと目を見開いている半太郎。

場面変わって半太郎。ここは勘三郎さんのときは、やはり半太郎にはお仲の想いは通じなかったのかと思わせました。そう思わせてこそのその後の展開となります。あらすじがわっかているためか、中車さんはそう思わせてくれる雰囲気がありませんでした。政五郎親分(染五郎)がでてからの半太郎の台詞は聴かせます。どう語ろうかと工夫に工夫を重ねたであろうという語りで心の内を聴かせます。政五郎にぽっーんと紙入れを投げさせる力がありました。

この雰囲気が魔物でして、勘三郎さんの絵は頭に残っていますし、天切り松の松蔵を見たあとですので中車さんには不利ですが、『吹雪峠』のときよりもずーっと前に進まれています。政五郎の染五郎さんも声の出し方、雰囲気が大きさを見せてくれ、半太郎をしっかり受けておられ、中車さんも幕切れはしっかりきめられました。

玉兎』の勘太郎さん、勘太郎の名前を背負っての一人踊りです。「可愛い!」で終わらせることを拒否しての踊りに挑戦していました。観ていますと、<腕が伸びていない><真っ直ぐ><足がちがう><早い><音をよく聴いて>など、誰かさんの叱咤激励が聞こえてきそうです。でもこうした歌舞伎ならではの五線譜ではない間と流れをつかんでいかなければならないのが歌舞伎役者さんの修業ですから、可愛いらしさを返上しての第一歩、真摯に受け止めさせてもらいました。

団子売』。勘九郎さんと猿之助さんの団子売りの夫婦の仲の良さを見せつけられて、こんなに短かったかしらと思わせられるほどの速さで終わってしまいました。

もっと短いのが『野田版 桜の森の満開の下』の感想です。

いやまいった。まいったなあ。

<『野田版 桜の森の満開の下』贋感想>が書けるかどうか。その前に第二部があります。