<文楽>の言葉から空間へ

文楽>を観ながら<文楽>と名称が落ち着くまでの歴史を知らなかった。

文楽のもとは琵琶法師が平家物語を語る<平曲>までさかのぼり、楽曲が三味線となり表現が増し、人気演目だった浄瑠璃姫物語にちなんで語り物は<浄瑠璃>といわれるようになった。さらに人形が加わり<人形浄瑠璃>となり、江戸時代になって大阪で竹本義太夫が義太夫節を起こしこれが<浄瑠璃>イコール<義太夫>と呼ばれる事もある。近松門左衛門の作品と供に人形浄瑠璃は流行し、一時衰退するが、19世紀初め興行師・植村文楽軒が復興し、いつしか<文楽>が<人形浄瑠璃>の代名詞となる。

浄瑠璃を語る方を文楽では<大夫>と書き歌舞伎では<太夫>と点を入れます。歌舞伎では竹本義太夫の流れをくむという事なのでしょうか。詳しくは解かりません。そういう訳で厳密に正しく文楽を観て感想を書くとなると何も書けなくなりますのでそこの辺りは目を瞑って頂きますよう。

人形と云う事で、北野武監督の映画「Dolls」(2002年)。人形から入ったのではなく桜の美しい映画として何かに出ていたので、DVDを捜したら文楽の人形が出ている。これは次の空間に行くなと直感。「冥途の飛脚」の梅川(桐竹勘十郎)と忠兵衛(吉田玉女)の文楽の人形をここまで美しく撮った映像があるであろうか。ひとめ惚れである。自分の目で見た人形を一番と思っているが、悔しいがちょっと負けているかな。たけしさんのお祖母さんが女浄瑠璃語りで、それが少年時代はイヤであったと言われているが、その音楽性が良い意味でたけしさんの体の中に染み付いている様に思う。

2012年11月6日<浅草紹介のお助け>https://www.suocean.com/wordpress/2012/11/06で少し書いたが、たけしさんは浅草時代タップとの出会いがあり夢中で練習されている。それは、この浄瑠璃からの逃避にも思えるのであるが、反対にこの浄瑠璃の持つ掴まえがたい音楽性が、映像の流れを左右しているのではないかと仮説をたてているのであるが、証明は難しい。

映画「Dolls」は、三つの愛の形から構成されているが中心になっているのは次の話である。松本(西島秀俊)が結婚を約束していた佐和子(菅野美穂)を袖にし、勤務先の社長の娘と結婚式を挙げる。式の直前、佐和子が気が振れたことを知り佐和子のもとに行き、佐和子と供に赤い紐で結ばれた<つながれ乞食>として美しい映像のなかの日本の四季をさ迷うのである。桜は埼玉の幸手の土手の桜らしい。桜も紅葉も雪も佐和子のお気に入りの玩具も小道具の三個の天使の置物も花びらもそれぞれが自分の色で主張していてこれがたけしさんの色彩感覚なのかと曳き付けられる。衣裳が山本耀司さんで、これはその場面場面に溶け込んでいてうるさくない。菅野美穂さんの夢の中にいる様な表情と時々ぴょこたぴょこたんとした歩き方がなんとも言えない白痴的味を出している。最後の二人の死の姿は全く想像していなかったシチュエーションで、こう来るわけかと感服した。二人の道行きの流れの緩慢のリズムと長さが飽きさせないのである。こういう映画の場合どうしても何処かで飽きが来るのであるがそれがない。そこがたけしさんの中にある浄瑠璃なのではないかと思うのである。二人の心中の映像は人形に負けじと美しく描かれている。

もう一つ愛は、アイドル歌手を追っかけている若者の愛。アイドル歌手が事故で顔に傷を負う。彼女が今の自分を人に見られたくないであろうと、若者は考え、自ら失明の世界を選ぶ。しかしこの究極の愛も若者の交通事故死で閉じられる。「春琴抄」が脳裏を掠める。

もう一つの愛は、若い頃お弁当を作ってくれた恋人と別れる際彼女が、いつまでもこの場所でお弁当と一緒に待っているという言葉を確かめに公園のベンチに行ってみると彼女がお弁当を抱えて待っている。彼女は彼が昔の恋人とは気がつかない。そして、もう待つのは止める、あなたがいるからという。この元の恋人でもある彼は今はヤクザの親分になっていて殺されてしまう。この熟年の恋人は松原智恵子さんと三橋達也さん。このお二人の若い頃の映画は沢山見ているので、その若い頃の映画を思い出し、たけしさんはそれも狙ってるなと思ってしまう。

愛は美しくも残酷に閉じられてしまう。