井上ひさしの『うかうか三十、ちょろちょろ四十』

『うかうか三十、ちょろちょろ四十』は井上ひさしさんが24歳の時の、上演されなかった幻のデビュー作である。井上さんの原点とも云える脚本である。その上演をやっている。

6月2日まで新宿・紀伊国屋サザンシアターにて。(こまつ座第九十九回公演)

チラシの紹介によると 「昭和33年、井上ひさしは24歳。このとき、上智大学に籍を置きながらも、浅草のストリップ劇場フランス座で文芸部員兼進行係として働き、NHKのラジオドラマを書き、作家として戯曲を何本も書き続け、この年の文部省芸術祭脚本奨励賞を受賞しました。それが『うかうか三十、ちょろちょろ四十』です。」

フランス座のことは、井上さんの講演で面白、可笑しく聞かせて貰った事がある。そこできちんと戯曲を書き続けていたのであるから努力の人でもある。

高峰秀子さんが「わたしの渡世日記」の中で、黒澤明監督が助監督の時、映画「馬」の撮影地の宿屋の窓も無い裸電球のフトン部屋で、毎晩脚本を書いていたと書かれている。人に感動を与える人は皆どこかでコツコツと修練を積んでいるのである。

『うかうか三十、ちょろちょろ四十』は、井上さんの初期の作品の原点を感じさせる。東北弁を使っている。井上さんは地方の言語を慈しんでいた。歌。これも井上作品に欠かせないが、この作品では一曲だけである。

弥生のあられ/ 皐月のつゆは/ 働き者の味方ども/ しゃれた女房と/ 馬鹿とのさまは/ 根気がさっぱど/ つづかない・・・・

ある東北の村の娘に殿様が恋をする。ところがその娘には許婚が居り、殿様は振られてしまう。その帰り殿様とお付の侍医は雨にうたれ、殿様は記憶が無くなってしまう。10年後殿様は結婚した娘の住まいの前を通り、亭主が病気なのを知り気ままにいい加減な病気快癒の話をする。殿様は病人があればあなたは病気などではないと病人に信じ込ませて廻っている。

さらに十年後同じ家には娘が一人で住んでいる。殿様が訊ねると、父は急に自分は元気だと働き始めそれが祟って死んでしまい、その後母も父を追うように亡くなったという。

殿様は自分のしたことが記憶に無い。何もしなかったほうが善かったのか。思いつきの政治のもたらす一時的な効果とその後の絶望を表しているようでもある。藤井隆さんが皆に認めらたいと思う殿様の軽はずみさと寂しさを可笑しみを含ませつつ演じている。

井上さんの場合常に希望がどこかに潜んでいるが、この芝居では残された娘が働き者で明るく健康的であることである。

この上演作品を観ると、井上さんがこの作品にその後の作品が幾重にも厚みを付けていく様が想像できる。少しづつ確実に膨らみを持たせつつ沢山の戯曲を産み出していったのである。

 

 

5月 歌舞伎座 『京鹿子娘二人道成寺』

玉三郎さんと菊之助さんの『京鹿子娘二人道成寺』さらに面白くなっていた。驚くほかはない。踊りのレベルが上がれば工夫も増えるということか。

一人の踊り手がいる。その踊り手は自分の中で二人の踊り手を存在させていてその二人の踊り手を操っている。観ている方は一人の踊り手の内面の二人の踊り手を見せられている。一人の踊り手はなぜ内面の二人の踊り手を見せるのか。踊りに対して自分の中で抑制し合ったり、ここはもう少し逸脱しようかなと思う心の動きを見せても踊りは成り立つからである。一人の踊り手はこちらの表現の方が良いかもしれないと思う。しかし一つしか選べない。二つ選べるとしたら。こうなるのであるが。

さらに表面に出てきた二人の踊り手は踊りつつ会話をしている。花道の出は菊之助さんである。途中花道のスッポンから玉三郎さんが登場。「あなた余り気持ちよさそうに踊りすぎてよ」。「だって楽しい恋だったんですもの」。二人顔を見合わせて「おおいやだふふふ」とでも語りあっていそうである。これはこちら観る側の妄想であるが、ただ美しいとかこの表現力には圧倒されたとかの感動を通り越した面白さである。

烏帽子をつけ「さあしっかりいくわよ」。鐘に対する恨みも「それ以上表すと娘らしさが壊れるわよ」。「烏帽子の取り方も変えましょうね」。

手まり遊びも「ちょっと大きく動きます」。「勝手にどうぞ」。「ここはしっとり踊らせてもらうわ」。

そんな事を一人の踊り手が自分の中で楽しみつつ自問自答しているようでもある。菊之助さんが自分の踊りに手ごたえを感じ始めているのか苦しい自問自答ではない。観ているほうも「え、そうなるんだ」「なるほど思いもよらなかった」「玉三郎さんの色香を菊之助さんが押さえてる」「菊之助さんの恥じらいを玉三郎さんが引き出そうとしている」

「そんなに男を怨んじゃだめよ」。「だってあなた」。「さあ憂さを晴らしましょ」。

長唄の詞に乗り、お囃子連中の音に乗り、身体はあくまでも優雅に、観ているほうの指が、鏡獅子の弥生が獅子頭に動かされるように動いている。

「最期は言いたい想いはきちんと伝えましょうね」。「最期はそれぞれの想いでね」。

さやさやと皐月の風が歌舞伎座を吹き抜けてゆく。