映画 『ジゴロ・イン・ニューヨーク』 『書かれた顔』

坂東玉三郎さんの『書かれた顔』が上映されている。かつて見ているが、よく判らなかったのでともう一度挑戦することにする。その前に、ウディ・アレンの映画も見ておいてと思ったら、その間の時間が空きすぎる。検討の結果、二つの映画の間は戸栗美術館で『涼のうつわー伊万里焼の水模様ー展」で涼を楽しむ。これが涼やかな企画で、水のある風景、雨、雪、富士山と夏向きである。団扇を庶民が使い始めたのは、江戸時代からで、中国から渡って高貴な方々だけが使っていた。庶民が使うようになれば絵柄は多種多様、役者絵も出てくるわけである。扇子は日本で生まれている。では映画のほうへ。

『ジゴロ・イン・ニューヨーク』。見終って、これがアレンなの、随分素直、お歳かなと思ったらアレンは出演だけある。監督・脚本はジョン・タトゥーロ。帰ってからチラシを見て判った。書き込みする前で良かった。余計なことを書くところであった。 ひょんなことから、タトゥーロはジゴロになり、その斡旋人がアレンである。この二人長いつき合いのようで、アレンは本屋であったが閉店に追い込まれ、花屋でアルバイトのタトゥーロをジゴロにしてしまう。この二人何となく揉めるが、何となくまとまる。タトゥーロのジゴロは何となく買われて、何となく幸せにしてしまう。そして何となく恋をして、何となく振られて、辞めるはずが、何となくジゴロに後戻り。あり得ない大人のおとぎ話である。買うほうの女性にシャーロン・ストーンが出ているのも楽しい。皮膚科の医者のストーンがタトゥーロに「あなた恋してるわね」と言うが、心療内科医も務まりそうである。タトゥーロが日本の生け花の手法を花束に使うのも、多民族共存文化のこだわりのなさの地域性か。

『書かれた顔』。監督はダニエル・シュミットで、彼の他の映画は観ていないが難解そうである。1995年に制作され、19年前である。女形に対する玉三郎さんの考え方は変っていないであろうが、表現者としての玉三郎さんは、あの頃と変化していると思う。『鷺娘』から始まって『鷺娘』で終わる。それも、始まりが鷺がくずおれて息絶える『鷺娘』のラストで始まり、そのラストでエンドという構成である。この映画の時、玉三郎さんがどのように感じられていたか判らないが、この時『坂東玉三郎舞踏集1~6』は撮り終えておられ、生身の若さの終盤としての想いがあったように思える。自分を消して女形を造り、生身の年令を越えて芸の女形の美しさを追求していく。その時、意識は様々な分野での女形への挑戦があった。映画、バレー、和太鼓、京劇、他の日本の芸能、そして、泉鏡花の世界など。

この映画で好きな場面は、前回もそうであったが、八千代座で演じる玉三郎さんを、もう一人の玉三郎さんが舞台の奈落へ降りていき音に誘われて歩いていくところである。何があるのと不思議そうに狭い通路を辿って行く。それは、私が玉三郎さんは今度はどんな世界を見せてくれるのと幕が開くのを楽しみにしているこちら側でもある。

監督はその後、女形としても玉三郎さんに切り込んでいく。玉三郎さんは女性でありながら女形であるとして、杉村春子さんと武原はんさんをあげられる。お二人のインタビューも紹介される。玉三郎さんは、足も不自由で背も高過ぎるというハンデを美しさに変えていった。老け役の多かった杉村さんは、美人俳優の中に合って、女の細やかな感情を見事に表現した。踊りに向く体つきではない武原さんは踊りで女を写し出した。そして、映像作品としての玉三郎さんの女形が映し出される。

白塗りに花飾りのついた帽子を被る舞踏家大野一雄さんの港での動きは、その長い指は空を舞い表現しつくしても答えがなく、或は無数にある答えをまだ探し求めているようである。

あの奈落を少し楽しげに彷徨う玉三郎さんが、これからのあの後をどう表現者として映し出してくれるのかが、楽しみである。あれがあの時<書かれた顔>なら、その後も新たな<書かれた顔>を見せてもらった。そして今度、<書かれる顔>はどんな顔であろうか。

『書かれた顔』 オーディトリウム渋谷 8月7日 16時50分~

『ジゴロ・イン・ニューヨーク』よりも混んでいた。