映画『ナスターシャ』・フランス映画『白痴』・黒澤映画『白痴』(2)

フランス映画の『白痴』(1946年・ジョルジュ・ランパン監督)に入るが、ジェラール・フィリップの人気が出る兆候はこの映画でも予想できる。無邪気な表情と哀愁に満ちた目が物語る表情のコントラストがいい。人物設定が原作に近いのではと思ったが読んでいないので正確なことはわからない。

ムイシュキン公爵とロゴ―ジン(映画の字幕による)の車中での出会いがないのである。そして、ナスターシャの愛人である資産家のトーツキイが、後にムンシュキンと相思相愛となるアグラーヤと婚約しているのである。これには驚きで、やはり原作を読まなくてはとおもってしまう。はめられてしまいそうである。そのことは別にして、先ず映画の方を進める。

頭の方の病気がありスイスで療養していたムイシュキンは、親戚にあたるエパンチン将軍夫人を頼り、将軍邸をたずねる。将軍、トーツキイ、将軍の秘書のガー二ャはトーツキイが将軍の三番目の末娘・アグラーヤと結婚するため愛人のナスターシャを持参金付きでガーニャと結婚させる相談をしており、それぞれが自分の得るお金のために動いていた。そして今夜ナスターシャの返事をもらうことになっていた。その部屋にナスターシャの写真があった。

そこで、ムイシュキンはナスターシャを知るのである。アグラーヤは汚らわし人と言い、ムイシュキンは哀れな人だと言う。「一目で君は幸せな人だとわかる彼女は違う。私と似ている。」

そのナスターシャとムイシュキンの初めての出会いは、ガーニャの家でムーシュキンがドアを開け彼女をむかえるかたちとなりみどころである。ムイシュキンはガーニャの家に下宿することになったためである。ナスターシャは結婚するガーニャの家族に会いに来たのである。ガーニャの妹に侮辱を受けナスターシャは公爵も今夜私の家に来てと告げて去る。

ナスターシャの家に関係者があつまる。そこに持参金より多額のお金を持参して現れたのがロゴ―ジンである。ナスターシャは皆の前でトーツキイが自分の後見人であったが16歳の自分を犯し、それが8年も続いたと具体的に自分の体験や意見を主張する女性である。ムイシュキンは叔母の遺産が入り、僕と結婚しようというが、ナスターシャはロゴ―ジンと去っていく。

ここで将軍は「登場人物は狂女と乱暴者と白痴」と自分たちと彼らをわける。自分たちは拝金主義であると自ら分類したのである。ロゴ―ジンも拝金主義であったがナスターシャが現れてお金の力でどうすることもできない事を知り苦しむのである。

ナスターシャとロゴ―ジンたちの祝宴の席に酔っぱらいが酒のため本を売りにくる。買ったその本は清書でナイフが挟まれていた。一つの暗示となっている。

トーツキイとアグラーヤの婚約式でムイシュキンは、「打算のために神を利用するな」といって自分の考えを主張する。ムイシュキンは神を崇める者のひとりとして自分の意見をいうのである。この映画のムイシュキンはちょっと聖職者のような雰囲気もある。アグラーヤも両親の意に従っていただけだったので、このことからムイシュキンに愛をかんじるようになり、ムイシュキンと相思相愛の関係となる。

ナスターシャは心のよりどころがなくムイシュキンを呼び助言を求める。ここでもムイシュキンは聖職者のような答えをだしナスターシャを支えようとする。そこへロゴ―ジンが現れ嫉妬するが、ムイシュキンは、十字架を買った話をする。ロゴ―ジンは兄弟の契りにと十字架を交換する。この十字架は、ロゴ―ジンがムイシュキンを殺そうとしたときムイシュキンが胸の十字架をみせ、思いとどまらせる。解りやすい宗教色の濃い展開となっている。

ナスターシャはムイシュキンとアグラーヤを結ぶ手助けをしようとし、トーツキイと将軍一家がいる場所で、トーツキイの手形をロゴ―ジンが買ったと伝える。トーツキイの資産があやしくなったと知り、将軍夫人は娘の結婚に反対する。

アグラーヤは、ムイシュキンのナスターシャに対する愛を断ち切るためナスターシャに会いにいきあなたの力は借りないと断言し、ムイシュキンにどうなのとせまる。ムイシュキンは愛の種類が違うが答えられない。アグラーヤを純真で賢い人と思っていたナスターシャは怒りから、ムイシュキンがかつて結婚すると言ったことを実行すると告げ、アグラーヤは去ってしまう。

ウエディングドレスのナスターシャ。それをながめるムイシュキン。ナスターシャが語るが、ムイシュキンは上の空である。「何を考えているの。」「アグラーヤのこと。」これはナスターシャにとっては残酷なことである。ナスターシャは姿を消す。

ムイシュキンはロゴ―ジンの家に行く。彼女はベットに横たわっていた。殺されていた。

ロゴ―ジンは静かにいう。「自由になるために彼女はここに来た。俺とお前のことを解放するために。」

野卑なロゴ―ジンとは思えない言葉である。善を主張していたムイシュキンでさえもが正直なだけに彼女を救うことができなかった。ロゴ―ジンは悪で彼女を自由にしたことになるのか。ムイシュキンの魂が抜けたような表情で映画はおわる。

映画『ナスターシャ』で他を排除してナスターシャ、ロゴ―ジン、ムイシュキンの三人をとりだし照明をあて映像化したくなることも何となくわかるのである。

将軍が切り離してくれたおかげで、拝金主義者にはそれ以上の物語性はないのである。お金に着いていくだけだから。そしてもしかして救い得た天使であったかもしれないアグラーヤは天使ではなかった。いや天使にできなかったのかもしれない。ナスターシャは天使がいなくなった話もしていて、それに対し何かの暗示かしらとムイシュキンにたずねている。暗示かもしれないとムイシュキンは答えている。

三人は迷える子羊だったのであろうか。しかし、言うべきことは言って何とか道を探そうとしていた。そのことはよくわかる。

さらにムイシュキンは、外国でロシアの時代の流れにも期待していた。「改革が進み、誰もが幸福な社会になるはずと。だがそれは口だけで誰も真剣に考えていない。偽善と卑小さと無関心だけ。誰も気づいていないのか。足元の薄い氷の下には深い穴が口を開けて破局が待っている。」三本の映画の中で、このムイシュキンの思考過程は、世の中の人よりもまともである。それがゆえに人々から白痴といわれるのであるが。

この時代のロシアというのはどんな時代だったのかという興味もわくのであるが今はここまでとする。