映画『ナスターシャ』・フランス映画『白痴』・黒澤映画『白痴』(3)

黒澤映画『白痴』に関しては前に書き込みしているが、三作品と比較するうえで便宜上こちらにも移すことにする。そして再度観たので少し書き足す。

その前に、字幕で解説が映し出されるのでその最初を部分を紹介しておきます。

「原作者ドストエフスキーは、この作品の執筆にあたって、真に善良な人間が描きたかったのだと云っている。そして、その主人公に白痴の青年を選んだ。皮肉な話だがこの世の中で真に善良であることは “白痴(ばか)” に等しい。この物語は、一つの単純で清浄な魂が、世の不信、懐疑の中で無慙に亡びて行く痛ましい記録である。」

人物設定は、ムイシュキン公爵は亀田、ラゴージンは赤間、ナスターシャは那須妙子、アグラーヤは大野綾子、ガーニャは香山、エパンチン将軍家は大野家で、大野家には娘がふたりで綾子は次女である。

【 映画『白痴』(1951年、黒澤明監督)は、ドストエフスキーの小説 『白痴』をもとにして場所を日本の札幌にし時代を戦争の終わった後にしている。主人公は亀田(森雅之)と赤間(三船敏郎)が北海道に渡る青函連絡船のなかで出会う。亀田がうなされて奇声を発したのである。

亀田は沖縄戦で戦犯となり銃殺寸前に人違いとして助かりそのショックから神経がおかしくなりアメリカ軍の病院に入院し退院して札幌の知り合いの家に行くところであった。赤間はこの亀田が気に入り自分のことも話す。好きな女がいて父のお金を盗み彼女にダイヤの指輪をプレゼントして勘当になっていた。その父が亡くなり遺産が入ったので札幌に帰るところであった。

二人は札幌で写真館に飾られている赤間の彼女の写真をながめている。圧倒させるような美しさの那須妙子(原節子)である。亀田は、この人はとても不幸せなひとであるとつぶやく。さらに妙子の目にこの目をほかのどこかで見た目であるとおもう。

亀田は父の友人である大野家をおとずれる。大野家は那須妙子と関係があった。妙子は妾の身であったが、大野家の秘書の香山(千秋実)に持参金付きで結婚させるという話ができあがっていた。香山は大野の次女・綾子(久我美子)が好きであったがお金も必要であった。亀田の出現でこの仕組まれた動きが大きく変わっていくのである。

誰も見ぬけなかった妙子の心の中を亀田の純粋さが感じとっていた。妙子にとって同じ感性それは光であった。亀田は妙子の目と同じ目をおもいだす。処刑されるとき自分は助かるが処刑される前の若いまだ少年のような青年の目であった。自分はどうしてこんな苦しいめにあわなければならないのかと目は語っていたのである。その目と妙子の目が重なった。

この映画は非常に長くて2時間45分である。第一部が「愛と苦悩」、第二部が「恋と憎悪」である。妙子は亀田を選ばずに赤間を選ぶ。亀田は二人を追いかける。赤間は妙子の心が自分に無い事を知って亀田を殺そうと考えたこともあった。綾子が現れて亀田は綾子に恋をする。妙子への愛とは違うものであった。妙子はそれを感じていて綾子を天使として亀田を傷つけずに一緒になってくれる人として希望をもった。

しかし、綾子は妙子が亀田の理想の女性で自分と亀田の間に入って邪魔をする者と思われ、妙子と対決するのである。亀田の妙子に対する愛は、処刑の時何もできなかったあの青年と同じ妙子を傷つけないで救えないか、いや妙子の魂をじぶんが守り救わなければという愛であった。綾子への愛とは別物であった。

心のねじれは悲劇へと向かわせる。残った綾子は「私が白痴だったわ」とつぶやく。亀田の白痴は純粋さで、綾子の白痴はおろかという意味である。

出演者の個性がきわだっている。原節子さんの存在が強烈でそれでいながら心はガラスのように壊れやすく、いやすでに壊れていて、森雅之さんはそのかけらを集めて修復しようとしているようにもみえる。

この札幌のロケでは有島武郎さんの旧宅が使われていた。ロケをした家は1913年(大正2年)に建てられた家でこの家で森雅之さんは幼い頃を過ごしたことになる。『札幌芸術の森』に保存されている。森雅之さんが生まれたのが1911年で有島武郎さんの文学年表からすると、『北海道開拓の村』にある旧有島邸が森さんが生まれた家ということになりそうである。

映画のクレジットには美術工芸品提供がはっとり和光とあるのも興味深い。 】

映画『ナスターシャ』のところで、ムイシュキンがてんかんの発作を起こすところがリアルであると記したが、ラゴージンは、ムイシュキンが舌をかまないようにナイフを口に挟むので印象にのこったのである。黒澤映画『白痴』でも赤間にナイフを振りかざし亀田は発作を起こすが雪の中に倒れ、赤間はそのまま逃げてしまっていた。

妙子の写真はやはり強烈である。妙子と亀田が直接顔を合わすのが、フランス映画『白痴』と同じ香山の玄関であった。映画『ナスターシャ』での馬車から降りての登場が異彩を放っているかも。赤間は香山宅に早々と再登場するのである。

その夜の妙子の誕生祝いの席でお金によって値段を付けられる妙子の苦悩と自暴自棄の様子に心配になった亀田は妙子を引き取るとつげる。皆は無一文の亀田を笑う。亀田は子供のような純真さだけで言葉を発している。その真剣さに大野(志村喬)は懺悔する。亀田には父の残した牧場があり、それを黙っていたと。

妙子が赤間の持ってきた100万円を暖炉の火に投げ込み香山に欲しければ拾いなさいという場面はフランス映画同様圧巻である。小津監督映画の原節子さんのイメージであるからなおさらである。赤間と去っていき、ここからしばらく妙子は出現しない。

亀田と赤間、亀田と綾子の関係が描かれていく。赤間とは十字架の交換でなく、お守りの交換をしている。亀田のお守りは、銃殺から逃れられてあの青年が銃殺された時発作を起こしその時手に握られていた小石である。赤間は母が持たせてくれたお守りである。

そして妙子が現れるのが、スケートのカーニバルの夜であり、亀田と綾子の結婚を信じて別れを言う時であり、さらに綾子がどうしても妙子に会わなくてはと亀田と赤間の家をたずねたときである。

この妙子と綾子の対面が結果的に亀田にどちらかを選ばせる対決の場となってしまう。原さんと久我さんの演技の対決の火花もすばらしいものです。二つの三角関係がからみあっていてそのため、最初から綾子の存在も意識して構成されている。

亀田、妙子、赤間の関係は死を持ってしか解決の道はなかったようで、妙子を殺した赤間は雲に乗ってくる妙子の幻覚を見て、「さあ、あの雲に乗ろう。」と言って目を見開き身体を硬直させる。その赤間に寄りそう亀田。亀田は言葉で表現するのが上手くできないが、寄り添う心がある。ローソクの灯も消え、極寒の時間だけが過ぎてゆく。

綾子は「私が白痴だったわ。」とつぶやく。

最後の亀田と赤間からしても、もう一つの三角関係を主軸にした映画『ナスターシャ』が生まれるのも自然の成り行きであろう。

三作品みるたびに重なり合ったり、独自の発想であったり、あのセリフがこう使われるのかなど新しい発見があり充分満喫させてもらった。と同時に上手く結び付けられない点もありますが、時間がたって観直せばそうであったかと気がつくかもしれませんのでそれを期待して、エンド。