映画『あすなろ物語』(1)

映画『告訴せず』の特典映像で堀川弘通監督が語られているのを観ていて、映画『あすなろ物語』(1955年)が是非観たくなった。1940年に大学を卒業され、東宝入社。衣笠貞之助監督『続蛇姫様』(1940年)、中川信夫監督『エノケンの誉れの土俵入』(1940年)、島津保次郎監督『二人の世界』につき、山本嘉次郎監督の『』(1941年)で黒澤明さんと出会う。黒澤さんはチーフ助監督で堀川さんはサード助監督である。

撮影の後よく二人で飲んだが、黒澤さんは次は監督をするつもりで時間を見つけては本を書いていた。黒澤明監督の最初の監督映画は『姿三四郎』(1943年)である。堀川さんが助監督として参加した黒澤明監督作品には、『一番美しい』(1944年)、『続 姿三四郎』(1945年)があり、『わが青春に悔いなし』(1946年)、『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)はチーフ助監督として参加している。

七人の侍』が最後の助監督で最初の監督作品には黒澤監督が脚本を書いてくれるということで、会社は青春物なら何でもよいという。二人で色々捜したがいい原作がなく、オリジナルで書いてみたが納得がいかない。そんな時、井上靖さんの『あすなろ物語』に出会いこれを映画化することにした。

というわけで映画『あすなろ物語』が観たくなったのである。『あすなろ物語』は井上靖さんの自伝的作品でもあり、井上靖さん原作の映画『『わが母の記』も観ていたのでその子供時代というのも魅かれる要素であった。さらにその後青春映画で活躍する山内賢さんの子役時代(久保賢)の映画である。お兄さんの久保明さんが高校時代を演じ、山内賢さんは小学生時代を演じるのである。

「黒澤明映画 DVDコレクション43」にこの映画が入っていた。

映画『あすなろ物語』は主人公・鮎太の小学生時代、中学生時代、高校生時代と三話に分かれている。その時代時代に鮎太は自分の行き方を模索する強い美しい女性たちに出会うのである。何かと闘っているこうした女性達に出会うというのもそうある事ではない。

小学生の鮎太(久保賢)はお婆さんと二人で蔵の中で暮らしている。何かわけがありそうだが鮎太は元気である。そこへ町では不良と言われているお婆さんの妹の娘・冴子(岡田茉莉子)が一緒に暮らすことになる。鮎太は冴子から大学生(木村功)に手紙を渡すように命令される。この大学生に「あすなろ」の樹の名前の由来を教えてもらうのである。檜に似た樹で檜に明日なろう明日なろうとがんばっているから「あすなろ」という名前なのだと。

鮎太は大学生が好きになり彼を想う冴子のこともさらに魅かれるのである。そして鮎太はしっかりと二人の姿を瞳に焼き付けようとする。鮎太少年の真剣にみつめる目が何とも言えない。こんな子供の眼差しをみたら、大人は見られていることを意識し、あいまいな生き方が出来なくなる。

その三年後、お婆さんが亡くなり中学生の鮎太(鹿島信哉)は、お寺に下宿することになる。そのお寺の娘さん・雪枝(根岸明美)は自分の考えることに忠実に外に対しても対処する。中学生になった鮎太は雪枝の励ましで「あすなろ」の心構えで外に向かって闘う経験をつむことができる。鮎太は実戦からどう闘うかを見つけ出していく。

その三年後、実践した鮎太であるがそれも役に立たせることが出来ない状況の中に投げ込まれる。高校生になった鮎太(久保明)は、ある家に下宿する。他に下宿人が4人いて、かつては裕福な家であったらしいが今は下宿人を置かなければならない状況であるらしい。その家の娘・玲子(久我美子)は、下宿人たちのマドンナで勝手気ままに見える言動で下宿人たちを翻弄している。鮎太もその一人として加わってしまう。

そしてその玲子とも別れるときがくる。鮎太は玲子に「あすなろ」の話をする。それは鮎太が玲子にできる精一杯のことであった。

鮎太がそのときできる自分の力を集中して冴子、雪枝、玲子に対峙する潔さがいい。思っていたより爽やかな青春映画であった。

一話、二話は原作に基づいているが三話はオリジナルで、堀川監督は、井上さんはおとなしいから何もいわなかったが渋い顔をしていたそうである。

黒澤監督は、ワンカットのフレームに100%盛り込むという精神で、カメラの位置、サイズ、アングル、照明、小道具らすべて自分できめ、その影響はあったと。

「黒澤明映画 DVDコレクション43」のマガジンによると、この映画の後、堀川監督が助監督に降格されている。黒澤方式だったため黒澤監督さえ会社ににらまれていたのに監督一作目で大目玉で、成瀬己喜男監督の助監督となる。成瀬己喜男監督は、製作予算と期間をきっちり守ることで知られていたのである。そうなんだとこれまた面白い情報である。

成瀬組についた堀川監督は、、自分と黒澤監督の資質の違いを改めて感じられたようである。ご自分の手法を見つけるきっかけともなったわけである。

さらに、堀川監督は、映画界に入ってから二回も肺結核で休職していたのである。堀川監督の「あすなろ物語」があったわけである。但し大きく違うのは、あすなろは檜になれないが、堀川弘通さんは明日なろう、明日なろうとして檜の映画監督になられたのである。