『永井荷風展』 (2)

岩波文庫の『摘録 断腸亭日乗 (上)(下)』(磯田光一編)を買い足す。しかし、これも全文から抄出したものなのである。文庫なので扱いやすい。

年譜によると、1916年(大正5)、父の住まい牛込区大久保余丁町の来青閣(この時代の人は自宅に名前をつけるのが好きだったようである。その名ですぐ仲間が共通理解できるからであろうか)の玄関の6畳を断腸亭と命名している。このとき既に荷風さんの父上は他界している。『断腸亭日乗』の書き出しは、1917年(大正6)9月。

森鴎外さんと荷風さんが初めて会ったのは、市村座で小栗風葉さんの紹介である。その後鴎外さんと上田敏さんの推薦で、荷風さんは慶応義塾大学文科の教授になる。(1910年)。1916年3月には、教授職を退く。アメリカ、フランスに行かせてくれた父を一応安心させ、その後は自分の生き方を貫くこととなる。文学者森鴎外さんを敬愛する荷風さんは、鴎外さんによって父の生前中に形を整えられた感謝の気持ちも含まれているのであろう。

1918年(大正7)1月24日には、鴎外先生から文をもらう。「先生宮内省に入り帝室博物館長に任ぜられてより而後(じご)全く文筆に遠ざかるべしとのことなり。何とも知れず悲しき心地して堪えがたし。」

1922年(大正11)7月9日、鴎外先生亡くなる。「早朝より団子坂の邸に往く。森先生は午前七時頃遂に纊(こう)を属(ぞく)せらる。悲しい哉(かな)。

前日、7月8日にも見舞っており、特別に病室に入ることを許される。通夜、葬儀。

鴎外さんに比して、幸田露伴さんとは、近くに住みながら会うこともなく、葬儀は外から見送っている。荷風さんは、全てを焼失してから、鴎外さんと露伴さんの全集だけは揃えている。荷風さんが菅野に来て(昭和21年1月16日)、その後、露伴さんは娘の文さん、孫の玉さんと引っ越してくる(1月28日)。露伴さんは高齢で外に出ることもなく、昭和22年7月30日亡くなられる。

荷風さんは、露伴さんの葬儀には喪服がないからと、外にたたずみお別れをしている。この露伴さんの葬儀の映像が、今回の展示で見る事が出来る。鴎外さんは、私的と公的を区別されていて、私的には親しみやすい方であったが、公的な仕事になると上下関係などをきちんとされたようである。人付き合いの苦手な荷風さんにとって露伴さんは私的に接する人ではなかったのかもしれない。喪服がないからと中に入らなかったのからして、荷風さんにとって露伴さんは鴎外さんとは違う位置に立つかただったのであろう。

さらに、市川市の市民の方が、市川市文学ミュージアムの協力のもと、自分たちで制作した映像『荷風のいた街』(発売)の中で、当時近くに住んでいて人が沢山集まるので露伴さんの葬儀を見に行っており、荷風さんの様子も話されている。さらにその他、荷風さんの日常の様子を知ることが出来る。戦後から亡くなるまで、市川に住まわれていたということは、一人で暮らすには荷風さんの好む街だったのである。

 

『永井荷風展』 (1)

市川市文学ミュージアムで『永井荷風 -「断腸亭日乗」と「遺品」でたどる365日ー』を開催しているのを知る。何んとタイミングの良いことか。<市川文学プラザ>としていた展示フロアーを、<市川文学ミュージアム>としてリニュアールしたらしい。<市川文学プラザ>の時、一度行っている。市川関係の文学者や芸術家の資料を丁寧に保存、収集し、整理されて展示されていた。

今回は「市川市文学ミュージアム開館記念 特別展」で有料であった。荷風さんは昭和21年から亡くなるまで市川市菅野、八幡を終の棲家としている。「断腸亭日乗」の原本も当然あり、清書した時期もあり、その紙の質などからも荷風の心の内、時代の流れなどを分析した解説も面白い。その時々のスケッチや地図もある。亡くなる前日まで書いている。 【昭和三十四年四月廿九日。祭日。陰。】(陰は曇りということである)筆跡も当然変化していき、そこには、荷風さんの生きた証がある。

谷崎潤一郎さんから送られた「断腸亭」の印章が展示されている。その印章は、昭和16年に送られたもので、昭和30年の東京大空襲の時、偏奇館とともに焼失。ところが次の日、従弟の杵屋五叟(きねやごそう)さんが、焼け跡の灰の中から堀リだしたものである。この印は、戦後も、全集の検印や蔵書印として使われている。

私が「断腸亭日乗」を読んだ箇所に、荷風さんが岡山の谷崎さんを訪ねる前、昭和20年7月27日、岡山駅に谷崎さんから送られた荷物を受け取っている。品物は鋏、小刀、朱肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本、その他である。「感涙禁じ難し」と書き加えている。焼け出された文学者に対する谷崎さんの心遣いである。それは、荷風さんが自分の作品を認め評価してくれたことによる作家として誕生できた谷崎さんの思いであろう。

8月15日、宿屋の朝食(鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚付け焼き、茄子香の物)に、八百善の料理を食べている心地であると書いていたが、その八百善の煙草箱が愛用品として展示されていた。これは、八百善で売っていたのであろうか。煙草箱の中には、ピースが10本。箱の外の絵は、江戸時代山谷にあった時の老舗割烹八百善の絵図である。それでいながら、自炊に使用していた釜は、使わない時は洗面器と兼用である。

森鴎外さんを敬愛し、鴎外さんの子息たちとも交流している。森茉莉さんも荷風さんの菅野の家を訪れている。どんな話をされたのであろうか。茉莉さんの作品と晩年を思うと、自分の好みがはっきりしている荷風さんは、茉莉さんの先駆者だったかもしれない。森於菟(もりおと)さんは、森鴎外記念館設立のための協力を願う手紙をだしている。この展示の図録によると荷風さんは、記念館設立のため高額の寄付をしている。すぐには記念館とはならず、文京区図書館の一部に鴎外記念室として残したりしていたが、2012(平成24)年11月1日に「文京区立森鴎外記念館」として開館した。森於菟さんの手紙が1956年(昭和31年)であるから約56年目である。鴎外記念室の時一度訪ねたが想像と違いがっかりしたことがある。

5月に森鴎外記念館を見学し「特別展 鴎外の見た風景~東京方眼図を歩く~」を見た。今度は記念館として充実していた。鴎外が考案した地図「東京方眼図」。鴎外は与えられた仕事を成し遂げる。それが、小説家森鴎外の痛手であった。鴎外は翻訳、評伝など、さらに軍医としても、多くの仕事をしている。だが一番時間を使いたかったのは小説を書くことではなかったのか。その時間が生涯充分にとることが出来なかった。

荷風さんは、世間から一歩引くことによって維持した自分の小説家としての位置と、森鴎外さんのように世間にいながら小説家としての位置を何とか確立しようと闘っていた人としてへの敬愛であったのであろうか。

永井荷風 『断腸亭日乗』

2012年11月6日<浅草紹介のお助け>で下記のように記した。

【フランス座に関しては井上ひさしさんの講演でも聞いたことがある。警察沙汰の時の一応脚本家としての責任で警察で泊まる役目の話。一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいとか、荷風さんが踊り子さんに差し入れられたカレーを芸人さんが少し頂戴してそれを小麦粉かなにかで量を増やして食べていたなど例のごとく軽妙洒脱に話してくれた。ただそれだけではなく、荷風の日記から日常からみた戦争もしっかり語られていた。】 (一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいとか→この部分は8月24日『永井荷風』(3)2013年8月24日 | 悠草庵の手習 (suocean.com) で訂正しています)

作家達の戦中の記録として永井荷風さんの日記『断腸亭日乗』、井上ひさしさんの話されていた箇所が知りたくなった。それは、荷風さんが昭和20年7月末に東京を離れ岡山から勝山の谷崎潤一郎さんの所に寄った時の事である。

岡山から勝山に行く列車の中。 「この媼(おうな)も勝山に行くよし。弁当をひらき馬鈴薯、小麦粉、南瓜を煮てつきまぜたる物をくれたれば一片をを取りて口にするに味案外に佳し。」

8月13日、勝山の谷崎さんの仮住まい屋にて、 「佃煮むすびを恵まる。」 宿に案内され、 「白米は谷崎君方より届けしもの。膳に豆腐汁。渓流に産する小魚三尾。胡瓜もみあり。目下容易には口にはしがたき珍味なり。」 広島が焦土と化し、この地の配給も停止し、他郷からくる避難民は殆ど食料を得ることに困窮している。(原爆の記述がないので詳しい事は知らないのであろうか)

8月14日、 「事情既にかくの如くなれば長く氏の厄介にもなり難し。」 その夜 「谷崎氏方より使いの人来り津山の町より牛肉を買ひたれば来れと言ふ。急ぎ赴くに日本酒も亦あたゝめられたり。」

8月15日、 「宿屋の朝飯。鶏卵、玉葱の味噌汁。ハヤ附焼、茄子糠漬けなり。これも今の世にては八百善(やおぜん)の料理を食する心地なり。」 終戦を知る。

8月16日には奈良にいる。

8月17日、 「朝稀粥(きしゅく)を啜り(すすり)昼と夕とには粥に野菜を煮込み飢えを凌ぐ。唯空襲警報をきかざることを以て無上の至福となすのみ。」

『断腸亭日乗』は日常のことを細かく書いている。井上さんは、その中の食べ物のことを拾っていくだけでも戦争中の生活が分かると話されていた。谷崎さんの接待は谷崎さんらしいと思った。ある面では居づらい事ともなるであろうが。荷風さんは自分の動きに合わせて、その周辺の風景、接した人々、物の値段、食べた物などを、1917年(大正6)から1959年(昭和34)まで書き綴っていたのである。

私の所持している『断腸亭日乗』は(抄)とあり、ところどころの抜粋であるが、日記の書きようはわかる。荷風さんが、大正9年(1920)から昭和20年(1945)まで独居していた、木造ペンキ塗り洋風二階建ての家<偏奇館>を昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失している。その様子も詳細に記録している。この<偏奇館>跡へは、ある町歩きの会で行ったことがある。六本木一丁目で違う建物が建てられていた。

昭和20年10月には、荷風さんは熱海で、雨宿りした旅館の道を隔てた前に<金色夜叉の碑>を見ている。 「道を隔てゝ一老松あり。金色夜叉の碑を建てたり。小栗風葉の句を刻む。」私の『金色夜叉』の読書は読む速さが遅々としていて、なかなか進まない。少し気張らねば。

もう少し付け加えるなら、<金色夜叉の碑>から荷風さんは次の様に書いている。 「これ逗子の海岸に不如帰の碑を見ると同じく、わが国民衆の趣味を窺ひ(うかがい)知らしむるものなり。予はその是非を論ぜむと欲するも、到底(とうてい)能ふべからざるを知る。唯一種不可思議の感に打たるゝのみ。」 この様に 、自分の思いや感慨なども加えている。

巖谷大四さんは、尾崎紅葉さんの未亡人が重体となり、生活に困窮していることを志賀直哉さんに話したところ、志賀さんと広津和郎さんが発起人となってくれ見舞金を集めることになり、一番先に荷風さんを訪ねるように言われる。荷風さんはにこにこしながらその趣意書を目読し、「一金参万円也 永井壮吉」と書き、その上に手の切れるような百円札を三万円のせ、「よろしく、たのみます」と丁寧に言われた。ある人から「永井先生からお金を引き出すことに成功したのは、あなたがはじめてじゃないですか?」と言われている。

志賀さんが一番先に荷風さんを訪ねるように言ったことなど、文学者の思惑と交流は、その文学的個性と相まってニヤニヤしてしまう部分である。

『従軍作家達の戦争』

NHKスペシャル『従軍作家達の戦争』。

8月は知らずにいた事が明らかになり、考えさせられる時期でもある。

火野葦平さんが1938年に小説『糞尿譚』で芥川賞を受賞する。その時、火野さんは日中戦争のさなか中国の戦地に兵隊として従軍しており、そこで小林秀雄さんを迎えて授賞式となる。以前から報道記者ではない立場の人に、戦場と兵隊の様子を知らせる必要性を感じていた軍部の報道担当官は、これに目をつけ火野さんを報道部に配属する。火野さんは軍事手帳に小さな字で日々の記録をしたため、太平洋戦争末期まで書き続け、その軍事手帳は20冊にもなる。それをもとに「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」の三部作を書き、銃後の人々と兵隊との連帯感を深めベストセラーとなる。しかし、当然そこには軍部の大きな制約があり、火野さんが手帳に書いた全てを小説に書けたわけではない。戦後、火野さんはその事で苦悩する。

作家の従軍記が戦争高揚のプロパガンダとして非常に有効と考えた軍部は菊池寛さんを通じて、多くの作家を戦地に従軍作家として送り出す。普通の日常とは違う戦地である。庶民の生活を冷静に見つめ小説という作品に作り上げていた作家も、戦地を目の当りにすると感情的になり、戦後批判を受けるような従軍記を発表することとなる。

火野さんはその後、戦中と戦後の価値観の違いや、自問自答の狭間の中で自らの命を絶つこととなる。火野さんの遺品の中に、『麦と兵隊』の原稿があり、そこには書く事の出来なかった、手帳に書かれた事実の記録文章が貼り付けられていた。作家であれば多くの作家が受けたいと思う<芥川賞>。その文学的権威ゆえに翻弄される事になった一人の作家の苦悩と、本当に書きたかった作品の原型が静かに伝わる。

戦争は芸術も庶民の楽しみも、お国のためとして規制し、統制していくのである。

 

 

八月納涼歌舞伎(歌舞伎座) (2)

八月納涼歌舞伎の、雑感を加える。

『野崎村』のを観るのは久し振りのような気がする。六月の『助六』。海老蔵さんの助六、実は曽我五郎のヤンチャぶりが面白く、それを支える福助さんの揚巻がしっかり者で、そのコントラストが舞台を生き生きとさせていた。それがあったので、今回のお光はどうなるであろうかと楽しみであった。この作品、前半のお光が久松との祝言の浮き浮きした様子、久松の奉公先のお嬢さん・お染が出現して焼きもちをやく様子と可笑しみの場面に捉われて、お光が久松とお染を結ばせるため尼になるところが弱くなる事がある。福助さんはその辺りも心して演じられ、可笑しみが悲恋へと変化する流れを上手く演じられた。駕籠と舟で別々に帰る久松とお染の旅路もいずれは一つと成る喜びを含ませているのに、お光にとっては、そこにとり残されながら一人旅となる悲しさを押さえつつしっかり表現していた。友人は、何年振りかの歌舞伎なのでお染・七之助さんが、一つ一つの仕種と表情が丁寧で成長したのに感動していた。

『梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)』(髪結新三)は、名場面は沢山あるが、今回は、新三・三津五郎さんと弥太五郎源七・橋之助さんとのやり取りに緊迫感があった。新三は小悪党で弥太五郎源七は乗物町の親分である。新三は親分が事を大きくしたくないために我慢しているのを良い事に言いたい放題である。新三の子分の勝奴・勘九郎さん、これがまた小憎らしい。観ている方も弥太五郎源七の顔を潰され刀に手をかけたくなるのが分かる。それほど三津五郎さんはキリキリと親分を嘲弄し、大きく構えてきた橋之助さんもドンドンプライドを潰されていく。そのため、深川閻魔堂での親分の仕返しが納得でき、この新三は何時かは誰かに殺される小悪党である事が宿命と思える。その小悪党が苦手な大家・彌十郎さんとのお金のやり取りも程々で気を抜いてくれる。

『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』(かさね)は、因縁が分からないと理解しがたい踊りのように思える。単にお岩さんのように醜くなりその恨みと思うが、そうではなく、与右衛門が殺したかさねの父親がかさねに憑りつくのである。かさねはその為に本来のかさねではなくなり、与右衛門はかさねを殺すことになる。殺しの美学的所作事が、今回は暗すぎ気が乗らなかった。福助さんと橋之助さんのコンビ、息が合うはずなのにしっくりしなかった。こちらの見方が悪いのかも知れない。五月の『廓文章(くるわぶんしょう)』(吉田屋)の仁左衛門さんと玉三郎さんコンビが良く映らなかったので、ショックを受けており、自信がない。

『狐狸狐狸ばなし』は可笑しさと同時に、シリアスな話でもあると思った。いつも笑わせられるだけでなのであるが、伊之助・扇雀さんと又市・勘九郎さんが浮気な伊之助の女房おきわ・七之助さんを仕返しに気をふれさせ、<「狐狸狐狸ばなし」だねえ>と言いながら花道を去る時、本当に狐と狸の化かし合いだと思わされる。さらにもう一つの化かし合いが加わり、終わることのない『狐狸狐狸ばなし』である。適度のダマし合いは笑いで済まされるが、これが際限なく続くとなると笑いでは済まない『はなし』となる。扇雀さんと勘九郎さんが体の動きで笑いを誘ってくれる。

 

八月納涼歌舞伎(歌舞伎座) (1)

勘九郎さんの『春興鏡獅子』、勘九郎さんのものになっていた。
勘三郎さんの弥生の愛らしさが頭の中にあるので、その姿とだぶるのではと危惧していたが、全く勘九郎さんの弥生であった。体形が違うので、勘九郎さんは自分の体形で美しく見える形を追求し、その身体的美しさに惚れ惚れしてしまった。相当身体的負担を自分に課していたことと思う。扇に余り気を使い過ぎない方が良いらしいが、二枚扇も綺麗であったし安定していた。そして眼が良い。視線が無理なく体の動きに合わせて涼やかすうーっと伸びる。迷いや力みがなく、江戸城の御殿で指名されて素直に踊りの世界に入っている弥生である。その為、獅子頭が蝶と戯れて動き出す時の驚きも、踊りの世界に入っているその世界で起こったことのように、現実に戻る前にすーっと引っ張っていかれたようで最後までその身体は美しく花道を消えていった。
獅子になって出てきたときが立派で、やはり、弁慶役者に成れると思った。大きく、ジャンプ力もあり、膝を痛めたことがあるのに大丈夫なのだろうかと心配になったほどである。友人が、涙するのではないかとハンカチを用意していたが、大丈夫であったようである。彼女は、勘三郎さんを勘九郎さんを通して思い出すと思ったようである。私は、勘三郎さんを自分の回りから消し、勘九郎さんの『春興鏡獅子』にした練磨に涙した。これからさらに、どんな『春興鏡獅子』にしてくれるのであろうか。今はただ<勘九郎>その人の『春興鏡獅子』であった。これを観て、これは『棒しばり』が面白くなると、心が踊る。期待した通りであった。
三津五郎さんが、やはり上手い。手を棒に縛られていても、下半身と足さばきはさすがである。勘九郎さんも対等に自分の踊りを披露する。狂言舞踊ということで楽しい踊りであるが、腕が固定されているだけに、身体のバランスと動きがあからさまにもなる。それをやはり優雅さも加味しつつ楽しさへともっていかなければならない。程良い次郎冠者と太郎冠者の明るさと連れ舞いの息の合い具合。主人が帰ってきて<お酒を飲んだであろう><わたしは知りません>の最終やり取りも、二人が存分に飲み踊りあかし、それを楽しませて貰った観客も、<知りません>と一緒に言いたくなる可笑しさである。
勘三郎さんと三津五郎さんコンビの『棒しばり』は忘れることはない。だが、新しい組み合わせで前進する役者さんの心意気には拍手を惜しまない。

志の輔さんの『牡丹燈籠』

『牡丹燈籠』は大変ややこしい話である。歌舞伎でも観た事があるが、カランコロンと美しい娘お露さんと乳母のお米さんが牡丹燈籠をもって恋しい恋いし新三郎さんに会いに来るということがすぐ目に浮かぶ。ところがこの話は敵討ちの話でもありながら、怪談話として一番印象的でゾクゾクする部分を話されることが多い。と同時に長すぎて1、2時間で話せるような内容ではないのである。それを、志の輔さんは2時間半ほどでやってしまおうという企画である。行ってみて初めて知ったのであるが。

始めに『牡丹燈籠』の全てをお客様に判ってもらう事を説明され、その複雑な人間関係を先ずおおきなボードと磁石の付いた名前札で説明に入った。それをここで説明することは出来ないが、よく理解出来た。『塩原多助一代記』に出てくるようなイヤーな継母も出てくる。圓朝さんはこういうタイプの女性に会った事があるのであろうかと考えてしまう。志の輔さんは圓朝全集でこの『牡丹燈籠』を読んだとき、聴きなれているお露さんやお米さんなどの名前が幾ら立っても出てこないのに驚いたそうであるが、そうであると聴いているので、こちらの方はなるほどと思って志の輔さんの解り易い講義を受ける。頭の中で複雑な人間関係が整理されていく。今でもボードの名札が浮かぶのであるからなかなかの工夫である。志の輔さんの出演されているテレビ番組のスタッフの力ということであるが事実のほどは解らない。ここまでは一人の男の仇討に到る経緯であるが、その仇討の相手は討たれる事を覚悟している。ところが違う人間に理不尽にも殺されてしまい、その男は、さらなる仇討に向かうのである。

ここで休憩となり、その前に休憩のロビーの様子も再現する。「<これから話にはいるのよね。あなた聴いていく。あれだけ説明されたんだから聴いていったほうがいいんじゃない。そうお、あなたが聴いていくなら、私も聴いていこうかしら。>などという会話がこれからロービーで交わされることでしょう。」そういう会話はありませんでした。今の登場人物がどう話と繋がるか楽しみであった。90分の長丁場である。実際にはもう少し時間がかかったが。

話のほうは、お露さんと新三郎さんの出会いから始まる。お露さんは会えない新三郎さんを恋焦がれて死んでしまうのである。『四谷怪談』のお岩さんとここが違うのである。<恋しい>と<恨めしい>は。なるほどと思った。ここからは歌舞伎でも観ていながら忘れていた部分が蘇ってきた。そうだ、そうだったんだよなあ。お蔭さまで『牡丹燈籠』の全容が判明しました。

志の輔さんの目的はそこにあると理解しました。それが判ると、『牡丹燈籠』のどの部分の話を聴いたとしても、その噺家さんの語り口の違いが分かるとおもいます。今度は、話だけではなく、噺家さんを味わう事ができます。そんなわけで、後日、圓生さんの『牡丹燈籠』のテープを聞きました。「栗橋宿」と「関口屋のゆすり」です。面白い。話の中のこの場面だなと思うから圓生さんの上手さもであるが、どう圓生さんがその場面を現したいかが微力ながら分かるのである。すご~い!さらに有料放送で放映された志の輔さんの『牡丹燈籠』を友人に頼んで録画してもらっていたのである。実は忘れていたのであるが、他のものを探していて発見。すご~い!すごすぎる!しっかり聴き直しました。

これで『牡丹燈篭』どの部分が出てきても完璧です。ただし時間は強いですからね。忘却とは忘れ去ることなり。こういう場合も<恋しい>でいきます。

 

小三治さんの『道潅』と『船徳』

一年振りであろうか。小三治さんの生落語は。『道潅』と『船徳』の二席である。

『道潅』は、落語の中に出てくる<隠居>の存在がいい位置を占めている事に気がつく。何気なく聴いているが<大家>は家賃を払わなくてはならないので金銭的関係が付きまとうが、<隠居>は生活圏の中の生き字引きみたいな人で、さらに思いもよらない知識を与えてくれる存在である。八つあん、熊さんが自分の知らない世界の知識を得てその知識を仲間に伝授しようと試み、どういうわけか不首尾に終わってしまうことが多い。それほど有難がらずに素直に受け入られるのが<隠居>の話で、この<隠居>の存在は、どこかの世界の黒幕よりよっぽど値のある人である。こちらも隠居の話を、八つあんと同じように素直に耳を傾けられる雰囲気を造りだしてくれる。(太田道潅が山中で雨にあい、近くの村娘に雨具を借りようとした。娘は山吹の枝を差し出した。<七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき>の古歌になぞらえたもので、みのと蓑をかけて雨具が無いと伝えた。それを家来に説明され、道潅が歌道に精進したと隠居は教えてくれる)

『船徳』は、若旦那が真面目である。親から勘当された道楽息子であるからどこか抜けてはいるが、自分なりに一生懸命な若旦那である。そう思わせる為であろうか、あまり若旦那に話させない。若旦那を預かっている船宿の親方が若旦那の語りを代弁する。「船頭になりたいですって。あなた無理を言っちゃいけません」のように若旦那の台詞とこちらの当惑を語っていく。そのため、この話のときは、始めからチャラチャラした若旦那でその辺から笑わせるかたちのものが多いが、聴いていると、若旦那が存外真剣なのが分かる。若旦那は若旦那なりに自分の力を試したいと思っている。『船徳』のこんな若旦那は初めてである。

若旦那の徳さんにお客がつき、船頭として船を漕ぎ出す。小三治さんの徳さんは一生懸命漕ぐのである。聴いている方は漕ぐわけではないが、小三治さんの漕ぐ様子を見ていると次第に力が入ってくる。最初に「今日の話は涼しくありませんからね。」と言われたのが思い出される。船がグルグル回るのも、石垣に船が寄ってしまうのも、一生懸命なんだけれども、何処か力の入れ方が違うんだろうなあと思わせる。「こつと言いますけどね、先ずはやってみて、さらに無駄なことを沢山やって見なければ、そう簡単にこつなんてものは掴めるものじゃありませんよ。」と、一生懸命の徳さんの後ろで小三治隠居さんが事もなげに涼しい顔で言われているように見えてくる。

小三治さんの『船徳』のテープがあったので聴き直してみたら、基本は同じであるがもう少し若旦那が自ら語っていて軽いところがある。今回の若旦那は<船頭徳さん>に成りきろうとかなり固い決心の若旦那であった。落ちに、客が船を下りる時「大丈夫かい」と尋ねられ「船頭を一人雇って下さい」と伝えるのが、自分はプロではありませんのでと認めているかたちとなる。でもこの徳さんは、まだまだ船頭になることを諦めなさそうである。この徳さんの存在は、きちんと船の漕ぎ方が出来るからである。そう話を持っていこうとしても、その形ができなければ、中途半端な腰の座らぬ話で終わってしまう。その辺りが長年努めてこられた力であろう。

 

郡上八幡での<郡上おどり> (3)

夜、7時から活動再開始。宿泊所は掃除が行き届き、高野山の宿坊を思い出した。規則を守ればご自由にという感じも気に入った。ただ門限10時は、踊りが10時半までなので最後まで踊りたい方には適しないかもしれない。

今回は初めての参加なのでジーンズと靴の参加である。ポシェットを忘れたので、小銭や小物を収納するためポケットの多いジーンズとする。宿泊所に夕食が付いていないため、近くの飲食店に飛び込む。出来あがっているお客さんも居て、気さくなお上さんが話の輪に入れてくれる。ここが、地元の方と触れ合う短いが楽しい時間となった。やはり踊るなら宵越しの期間が良いと言われる。今日は何処が会場?と反対に聞かれてしまう。城山公園ですと答えると、やはり街中で踊るのがいいわよと。初めての経験ですから、先ずは踊って次の機会の楽しみにします。来年もおいでね。もちろんですと答えお店を後にする。(来る要領を伝えれば仲間の何組かは勝手それぞれに計画するであろう)

通りでは何やらお囃子の音がしている。何のお神楽であろうか通りを練り歩ている。岸剱神社関係のお祭りらしい。多種のお祭りや慰霊祭があってその為に踊るらしいのであるが、獅子やそれを刺激する子供もいて、襲ってくる獅子から逃げて太鼓を叩いたり、鼓を打つ子供もいたり、大人と子供が一緒になって練り歩く。地元の人達中心のお祭りである。しばらく後を着いて眺めつつ、道を別れて城山公園に向かう。次第に郡上おどりのお囃子と歌う声が聴こえてくる。そのまますぐ踊りに参加である。お城の天守閣がライトアップされ見下ろしている。

中心に、移動できる屋形がありその上でお囃子と歌い手がおり、その周りを適当に輪になり踊るのであるが、参加型なので丸くはなっているがいびつな丸である。参加した人は輪の中心方向のこの人の真似をしようと思う人を見つけ、真似をし覚えていくので、綺麗な輪にしようなど気を廻すゆとりはない。だから隣の人と手と手がぶつかったりするのであるが、それが踊っていくうちに自分がどうすれば良いかが分かってくる。伸ばす手を真横から少しづらしてぶつからないようにするとか、出入り自由であるからその間隔を踊りつつぶつかりつつ、分かってくるのである。それに気がつくとその気の配り方も踊りの楽しさになる。目をつけた先輩の踊り手が視界から消えると次の師匠を捜す。<春駒>などは踊り易くてどんどん気持ちがエスカレートして行く。でも疲れてくると飛び跳ねるのをやめて息を整える。人に見せるためではないから自分で自由に調節できる。そうすると掛け声もあることに気が付き、その掛け声を出すのが楽しくなる。リードするお囃子さんが、踊る人々の様子を見ていて<やっちく>のような語りものに入り、踊り手は単純な動きをしつつ、その語りに耳を傾け掛け声をかける。踊っているうちに、郡上おどりの楽しみ方が次々見つかっていく。この流れも病みつきになる原因かもしれない。今度は歌を口ずさめるようにしようと、次の目標も決まる。

毎回、上手に踊れた人に保存会から「免許状」が渡されるようで、今回の課題曲は<猫の子>のようである。何回も参加される人にとってはそれも楽しいお土産かもしれない。<かわさき>の足が難しく練習した時も四苦八苦であったが、すでに忘れていて誤魔化し続け終わりころにやっと合い始めた。足は誰も見ていませんであるが、手も誤魔化しである。

<かわさき>は郡上おどりの代表歌で、伊勢古市の里で唄われた川崎音頭が流れてきて郡上に伝承されたといわれている。伊勢音頭など伊勢古市はこうし歌と踊りを生み出したメッカである。伊勢音頭というと歌舞伎の『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』を思い浮かべてしまう。

9時半過ぎに輪から離れ帰途につく。体調も持ち、楽しい気分で帰れるのが嬉しい。

次の朝は雨。

郡上のナ 八幡出てゆくときは   雨も降らぬに 袖しぼる

袖を濡らさぬ恵みの雨であった。と思ったら地域によっては集中的に降ったらしい。東海道線も昼の落雷で大幅に電車が遅れたり運転中止だったようだ。途中から東戸塚の友人にメールすると会えるということで途中下車。久しぶりに歓談。雨のため隅田川の花火は中止になったとか。自然の動きが今一番分からない分野である。これを考えると少しでも分かる分野は補修可能と思うのだが。

 

 

郡上八幡での<郡上おどり> (2)

吉田川の川べりに下り、川に落ちる小さな滝の水音を聴きつつ、ほう葉に包まれたほう葉寿司を食する。小さな子供たちが石を拾い、川に投げ込んでいる。重い石を選び体のバランスを失い尻もちをつき水浸しである。新橋からは若者が洋服のまま橋の欄干に登りあがり吉田川に飛び込んでいる。こう遊ぶものという制約がなく長閑である。

かつて勤めていた会社の上司がランチに牛肉のほう葉みそ焼きをご馳走してくれたが、この地方で考えられた料理であったのか。小さなお店の手作りしたおかみさんは、時間を置いたほうがほう葉の香りがお寿司に染み込むと教えてくれるが、川に並ぶ古い家並みも自然の川風も水音もほう葉寿司には最高の味付けである。

寛文年間に作られたという用水路の〔いがわこみち〕の水の流れとその中で悠々と泳いでいる鯉などを眺めつつ慈恩禅寺に向かう。境内も寺院内も静かである。障子が三方開け放たれ全面庭である。後ろは山。京都の円通寺や高山寺を思い出す。借景が木々であり、それが見る者を庭と一緒に包み込んでくれるようで安心して呼吸している。小さな二つ上から流れ落ちる水の音が、その距離の違いから時間の違う共鳴をしている。セミが奏でそれと遊ぶように小鳥がすぐ近くの枝の間をぴょんぴょん止まって遊んでいる。それを誘うようにもう一羽小鳥が遊びに来て、自由に飛び回る。トンボが来て、蝶々が来て、造られた自然の中を楽しんでいる。ただそれをぼーっと眺めている止まっている時間。

止まった時間から動きだし二箇所の床の間の書と花を眺める。庭を邪魔しない清々しい飾りつけである。それだけでもきちんと主張しており、それでいながらゆかしい。アジサイのくすんだ花色も良い。庭に花がないだけに目が行ったとき、目立ち過ぎないように活けられてるのも活けた人の心ばえが伝わる。川や雲の流れに合わせた書の詞である。ここでかなりの時間を取らせてもっらた。本当は一日一か所の寺社巡りが良いのであろうが、どうしても回り過ぎてしまう。そうして気に入ったところを探し当てる時間も必要なのであるが。中庭へ向かう角の手水ばちが水琴窟になっていて幽かな音を地上に伝えていくれる。釈迦如来の御本尊をお参りし中庭を眺めつつ玄関へと進む。御住職が是非11月の紅葉の時期にお越しくださいと声をかけて下さる。きっとあのもみじが色ずくのであろう。山門を出ると、さらに、雪の時期にもきたいものであると欲が出る。世俗にすぐもどっている。

そこから〔やなか水のこみち〕へ行き、郡上八幡旧庁舎記念館で冷たい白玉ぜんざいを食べ、新橋を渡り裏側から郡上八幡城に向かう。これが結構きついのである。昨年来た時は、お城の掃除の日で中に入ることが出来なかった。がっかりして下る途中で、博覧館で決まった時間に郡上おどりの実演があるのを知り、大急ぎで下ったのである。何が縁になるか分らないものである。お城に入ると外は、俄か雨である。天守に登り、雨の郡上を眺める。展示の所に<家康の鷹狩にお供した郡上藩主の青山忠成が貰った赤坂のにれから渋谷まで、もともと原宿といっていた土地が青山と呼ぶようになった>(「お江戸の地名の意外な由来」中江克己著)のだそうである。

東京では6月に郡上八幡藩主青山氏の菩提寺「梅窓院」(南青山)の境内でおこなわれていたが、近年は秩父宮ラグビー場駐車場( 地下鉄銀座線 外苑前駅下車 出口 徒歩1分)で行われている。

今回の郡上での踊りの場所は城山公園でお城から下って行くと山内一豊と千代の銅像のある城山公園を通る。場所が城山公園というのも気に入った。町歩きも終わり、後は踊りの時間までゆったりするだけである。