映画館「銀座シネパトス」有終の美 (4) 「君の名は」(一部~三部)

「君の名は」(第一部・第二部・第三部) 1953年~1954年

監督・大庭秀雄/原作・菊池寛/脚本・柳井隆雄/出演・佐田啓二、岸恵子、淡島千景、月丘夢路、川喜多雄二

東京の空襲で出会った二人の男女が、空襲の後、数寄屋橋の上にて半年後に会おうと約束する。もしそれがダメならその半年後に。半年後に女性の氏家真知子(岸恵子)は行けず、1年後に再会。しかし後宮春樹(佐田啓二)は真知子から「明日結婚します」と告げられ成すすべも無く別れる。お互いに名前も知らなかった事から真知子の友人の綾(淡島千景)等の協力で会う前に名前はわかる。さらに真知子の見合い相手の浜口勝則(川喜多雄二)は後宮を一緒に捜してくれる。後宮の姉の悠起枝(月丘夢路)は自分の不幸な結婚と恋人の裏切りから男性不審に陥っており、弟に対する真知子の気持ち程、弟が貴方の事を思っているかどうか解からない、男の気持ちは変わるものであると告げる。それを聞いた真知子は、浜口の親切さと叔父の勧めもあり、浜口と結婚を決意するのである。後に悠起枝はその時の発言を誤るのであるが、この時、自分の意思を変えた真知子の責任でもあり、その事が不幸の始まりでもあり、修正への道のりでもある。

結婚した浜口と真知子の物事に対する考え方の相違が出始め、それは浜口にとって真知子が後宮を忘れられないからだと考え、夫浜口の嫉妬心が増幅していく。おせっかいの綾は、真知子と後宮は運命の二人なのだから一緒になるべきだと考えパイプ役を勝手に引き受けている。この人がいなければ最終的なハッピーエンドは無かったのかもしれないが、静かにしていれば事も無く二人は諦めたのかもしれない。微妙な立場であり、筋立てに変化をもたらす人である。淡島さんならではの役である。屈託なくじれったがったり自分のお節介に呆れたりしていて、嫌味でないのが良い。

真知子と春樹の別れている場所として、佐渡の尖閣湾、北海道の美幌峠・摩周湖、九州の雲仙・普賢岳など観光地も上手く使っている。今見ると自然が自然としての荒々しさが残っている。特に雲仙普賢岳の樹氷は知らなかったので、その氷に覆われた枝々の間からアップで映す岸恵子さんの表情も美しい。

佐渡の尖閣湾では女として押して押しまくり悠起枝から恋人を奪う奈美・淡路恵子さん、じっと耐える月丘夢路さん、自分の生き方を模索する岸恵子さん、自力で生活を切り開いていく淡島千景さん、それぞれの女性像をも菊池寛の原作をもとに大庭監督は冷静に撮っている。さらに、真知子の叔母である望月優子が普通の一般的日本女性でありながら、真知子の環境の変化に伴い真知子の気持ちを代弁していくのが小気味良い。真知子はこの叔母を頼りにしているが、見ている方もこの叔母が出てくると今度は何をいうのであろうかと楽しみであり、その一言に館内明るい笑いとなる。ごく当たり前の事を言っているのだが、ずっと言えないできた一言が効く。

北海道では、アイヌ人であるユミ・北原三枝さんが個性をぶつけ、真知子・岸恵子さんとの馬車で美幌峠を走るそれぞれの表情が興味深い。ユミは真知子に負けじと馬を走らせる。揺られながら真知子は自分の選んだ道を今度は手放さないと覚悟している。北原三枝さんの情念のほとばしりが北海道の自然に負けていない。有名な「黒百合の花」(織井茂子)は歌謡番組の映像では見て聞いていたが、どう映画で使われているのか知りたかったのでそれだけでもこの映画を見た価値がある。映画の中の歌謡曲というものもあるのである。菊池寛という人は女性の個性なり前に進む女性像を上手く書ける人である。甘いところもあるが、突き進ませると成ったら待つ暇など与えない。奈美とユミの自死。

その他、身を売っていた梢・小林トシ子とあさ・野添ひとみの再生。不幸のどん底にいた悠起枝と梢の幸せ。様々の人々の生き方を通過しての真知子と春樹のやっとの春。

古い映画を見ると俳優の層の厚さをいつも感じる。笠智衆、大阪志郎、柳永次郎、須賀不二男なども出ている。さらにこれだけの女優陣を撮る醍醐味もあるであろうが三部作という長さに挑戦した大庭監督の力量もたいしたものである。一回ではあらすじが解かる程度なのでもう一回見たかったが時間的に無理であった。

一部の撮影円谷英二さんの名前もあった。空襲の特殊撮影の担当だったのであろう。音楽は古関裕而さんが担当。映画の中の歌は作詞・菊田一夫、作曲・古関裕而。

「君の名は」「黒百合の花」(織井茂子)・「忘れえぬ人」「数寄屋橋エレジー」(伊藤久男)・「君は遥かに」(佐田啓二・織井茂子)・「綾の歌」(淡島千景)

佐田さんと淡島さんの歌声は聞いたような聞かなかったような、はっきりした記憶がない。俳優さんの演技に気をとられ最後まで歌の歌詞は残らないものである。歌謡映画として、メロドラマとして、戦後の女性たちの生き方のダイジェストとして、菊田一夫さんのエンターテイメントの代表として楽しみ方は幾らでもある。

 

数寄屋橋の碑  真知子と春樹が再会を約束した橋は今はない。数寄屋橋公園に橋の遺材を残して碑が建てられました。

 

<文楽>の言葉から空間へ

文楽>を観ながら<文楽>と名称が落ち着くまでの歴史を知らなかった。

文楽のもとは琵琶法師が平家物語を語る<平曲>までさかのぼり、楽曲が三味線となり表現が増し、人気演目だった浄瑠璃姫物語にちなんで語り物は<浄瑠璃>といわれるようになった。さらに人形が加わり<人形浄瑠璃>となり、江戸時代になって大阪で竹本義太夫が義太夫節を起こしこれが<浄瑠璃>イコール<義太夫>と呼ばれる事もある。近松門左衛門の作品と供に人形浄瑠璃は流行し、一時衰退するが、19世紀初め興行師・植村文楽軒が復興し、いつしか<文楽>が<人形浄瑠璃>の代名詞となる。

浄瑠璃を語る方を文楽では<大夫>と書き歌舞伎では<太夫>と点を入れます。歌舞伎では竹本義太夫の流れをくむという事なのでしょうか。詳しくは解かりません。そういう訳で厳密に正しく文楽を観て感想を書くとなると何も書けなくなりますのでそこの辺りは目を瞑って頂きますよう。

人形と云う事で、北野武監督の映画「Dolls」(2002年)。人形から入ったのではなく桜の美しい映画として何かに出ていたので、DVDを捜したら文楽の人形が出ている。これは次の空間に行くなと直感。「冥途の飛脚」の梅川(桐竹勘十郎)と忠兵衛(吉田玉女)の文楽の人形をここまで美しく撮った映像があるであろうか。ひとめ惚れである。自分の目で見た人形を一番と思っているが、悔しいがちょっと負けているかな。たけしさんのお祖母さんが女浄瑠璃語りで、それが少年時代はイヤであったと言われているが、その音楽性が良い意味でたけしさんの体の中に染み付いている様に思う。

2012年11月6日<浅草紹介のお助け>https://www.suocean.com/wordpress/2012/11/06で少し書いたが、たけしさんは浅草時代タップとの出会いがあり夢中で練習されている。それは、この浄瑠璃からの逃避にも思えるのであるが、反対にこの浄瑠璃の持つ掴まえがたい音楽性が、映像の流れを左右しているのではないかと仮説をたてているのであるが、証明は難しい。

映画「Dolls」は、三つの愛の形から構成されているが中心になっているのは次の話である。松本(西島秀俊)が結婚を約束していた佐和子(菅野美穂)を袖にし、勤務先の社長の娘と結婚式を挙げる。式の直前、佐和子が気が振れたことを知り佐和子のもとに行き、佐和子と供に赤い紐で結ばれた<つながれ乞食>として美しい映像のなかの日本の四季をさ迷うのである。桜は埼玉の幸手の土手の桜らしい。桜も紅葉も雪も佐和子のお気に入りの玩具も小道具の三個の天使の置物も花びらもそれぞれが自分の色で主張していてこれがたけしさんの色彩感覚なのかと曳き付けられる。衣裳が山本耀司さんで、これはその場面場面に溶け込んでいてうるさくない。菅野美穂さんの夢の中にいる様な表情と時々ぴょこたぴょこたんとした歩き方がなんとも言えない白痴的味を出している。最後の二人の死の姿は全く想像していなかったシチュエーションで、こう来るわけかと感服した。二人の道行きの流れの緩慢のリズムと長さが飽きさせないのである。こういう映画の場合どうしても何処かで飽きが来るのであるがそれがない。そこがたけしさんの中にある浄瑠璃なのではないかと思うのである。二人の心中の映像は人形に負けじと美しく描かれている。

もう一つ愛は、アイドル歌手を追っかけている若者の愛。アイドル歌手が事故で顔に傷を負う。彼女が今の自分を人に見られたくないであろうと、若者は考え、自ら失明の世界を選ぶ。しかしこの究極の愛も若者の交通事故死で閉じられる。「春琴抄」が脳裏を掠める。

もう一つの愛は、若い頃お弁当を作ってくれた恋人と別れる際彼女が、いつまでもこの場所でお弁当と一緒に待っているという言葉を確かめに公園のベンチに行ってみると彼女がお弁当を抱えて待っている。彼女は彼が昔の恋人とは気がつかない。そして、もう待つのは止める、あなたがいるからという。この元の恋人でもある彼は今はヤクザの親分になっていて殺されてしまう。この熟年の恋人は松原智恵子さんと三橋達也さん。このお二人の若い頃の映画は沢山見ているので、その若い頃の映画を思い出し、たけしさんはそれも狙ってるなと思ってしまう。

愛は美しくも残酷に閉じられてしまう。

日生劇場 二月大歌舞伎

口上』『吉野山』『通し狂言 新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』

口上』は幸四郎さんお一人で染五郎さんの復帰の喜びとお詫びとお礼である。情報も途絶え危惧したが、本当に喜ばしいことである。

吉野山』での静御前の福助さんが美しかった。特に花道での笠・杖などの持っている位置がよく綺麗に決まる。自分が待っていた福助さんの美しさで満足であった。義経が初音の鼓を託す位なのであるから古典的な美しさであって欲しいと思った。その想いにピタリとはまり目が離せなかった。染五郎さんもそれに並び美しかった。ただ戦語りの部分は私自身がどうあるべきという姿が描けてないので、その役者さんごとに異なる。染五郎さんの場合は少し線が細いように思われた。平家の大将能登守教経(のとのかみのりつね)が船から義経めがけて放った矢を忠信の兄継信(つぎのぶ)が胸板に受け死ぬ様を物語るのであるが感覚的なだけの捉え方なので、もう少し言葉と動きをしっかり捉えたいと思っている。狐の正体を現すところは押さえ加減がよく邪魔にならず良い形であった。

通し狂言 新皿屋舗月雨暈』。これは、幸四郎さんの魚屋宗五郎の酔っていく変化を期待していたが、期待どうりの面白さであった。「弁天堂」から始まるのでお蔦が嵌められていく過程がよく解かる。旗本磯辺主計之助(かずえのすけ)の染五郎さんがお酒を飲むと人が変わる様子を上手くだし、お蔦の悲劇性を大きくする。宗五郎宅での役者が揃い特に亀鶴の三吉は私の中では一番である。染五郎さん、勘太郎さん、松緑さん、三津五郎さん等観ているが、宗五郎を止めに入った後などの引っ込みで芝居が切れるのであるが、亀鶴さんの場合自然で止まらない。といって出しゃばっているのではない。その場の空気を止めないのである。幸四郎さんの動きに合っているのであろう。女房おはま(福助)、父親太兵衛(大谷桂三)、真相を告げに来る召使おなぎ(市川高麗蔵)。上手く大げさにならずに宗五郎の動きに付いて行っている。安心して宗五郎の変化を楽しむことが出来る。妹が殺されているのに他愛無いと言えばそれまでだが、旗本に対し庶民が一人で怒りをもって手を上げるという事のまかり通らぬ所を酒で通すという儚い抵抗である。それが共感を呼び演じ続けられているのであろう。

無名塾 秘演 『授業』 

仲代達矢役者生活60年記念。

昨年の暮れに80歳になられたそうだから19歳で俳優座養成所に入所した時出発地点とされている。そして80歳にして不条理劇『授業』に挑戦される。カーテンコールで、「今まで辻褄の合う劇をやてきましたが今回は辻褄の合わない劇です」と。

1時間10分程の公演だが膨大な台詞の量である。後半は生徒と関係の無い授業へと突入するので一人芝居になってゆく。場所は仲代劇堂での公演で50席程であるから老教授・仲代達矢の授業を観客も女生徒と一緒に受けることになる。

謎めいたメイドが、いやいや時々謎めいた事を老教授に告げにやってくる。女生徒は楽しげに授業を受ける始める。足し算はできる。ここまでの授業は楽しい。女生徒も目を輝かせたりし老教授も上手に褒めたりする。引き算に入るとこれがつまずくのである。観終わってから思うに、女生徒が引き算を理解しない事が女生徒にとって辻褄のあっていることなのである。例えとして「君の耳は二つある。その一つを私が食べたら残りは幾つ」女生徒は「二つ」と答える。「どうして」。女生徒は両方の耳を手で触り「だって二つあるでしょ」と答える。女生徒にとっては、数の論理より自分の肉体の欠ける事など受け入れられない。学問というものを拒否しつつある。

老教授にとって彼女に対する授業はあくまで学問でなければならない。老教授は道具を使い説明し始める。それでも埒があかないので言語学へ進む。メイドが言語学は止めたほうがよいと伝えに来る。老教授は大丈夫だと主張し、メイドは警告しましたからねと伝え部屋を出る。

時には老教授の授業に満足げだった女生徒は授業に付いて行けず「歯が痛い」と訴える。身体的痛みでしか老教授に訴えることが出来なくなっている。老教授はその訴えを退けその女生徒の存在すら認めなくなっていく。この辺りの難しい言語にまつわる台詞の多さ、だんだんと自分の中にいる出来のよい女生徒と授業をしているようである。そして手に持った見えない道具・ナイフが道具としての役割を果たしてしまう。

メイドは老教授を子どものように扱い、老教授もメイドに全てを任せる。メイドは老教授をコントロールしているようにも見える。このるつぼから老教授を救おうともしない。その方がメイドと老教授の関係は上手く保たれていくわけである。

と、観て今回はそう辻褄を合わせたような合わないような。そう思って再度観るとすれば見事に裏切られるか違う見方も出来るのか。何かによって引き裂かれるものと、保つものがある。その組み合わせは実のところ不条理劇よりも現実の方がもっと意外性に満ちているのでは。そう、不条理劇を観ていると安心している観客のほうがもっと不条理かも。貴方にはどの役が当たるかわかりませんよ。

仲代さんの60年間の演技のしぐさ・間・台詞の抑揚・体の動きを堪能出来る。不条理ゆえにこう運ばなくてはいけないという制約もないことになる。観るほうも不条理劇だから解からないだろうから役者さんの台詞の音と流れとを楽しみましょうでもいいわけでその豊富な技術を身に付けた役者さんであるからその場を楽しむ劇として成り立たない不条理も楽しむことが出来る。

さらに「仲代達矢が語る 日本映画黄金時代」(春日太一著)を帰りに購入し仲代さんを通しての映画人たちの姿を楽しむことも出来てしまうというおまけも頂いた。

一番最初に読んだ項目。<大河ドラマ『新・平家物語』>。出るきっかけは、近所の人にお母さんが、<お宅の息子さん最近出てこないわね。もう落ちぶれたんだね。>といわれ、テレビに出て欲しいと頼まれ、親孝行のつもりがきっかけだそうだ。そんな感じで、あれっと思う間に大物監督さん、大物俳優さんの話がどんどん進む。60年をこうもさらり語れる格好良さ。今までもこれからも敵はやはり台詞なんでしょうか。それを何とかなだめたり組み伏せたりの戦いはまだもうしばらく続けて下さり観客を楽しませてくれる事でしょう。

 

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (3) 「あした来る人」「銀座の恋の物語」

「あした来るひと」(1955年)と「銀座の恋の物語」(1962年)。

「あした来る人」は白黒のフランス映画を見ているようである。原作・井上靖、監督・川島雄三、出演・山村聰/三橋達也/月丘夢路/新珠三千代/三國連太郎。

新珠を中心に人間関係を説明すると、新珠は洋裁店を開いておりパトロンが山村である。新珠はふとしたきっかけから三橋を好きになる。三橋は月丘と結婚しているが三橋は登山が命で、夫婦仲は上手くいっていない。月丘はかじかの研究をしている三國に魅かれる。月丘の父が山村である。山村は関西の財界人で、東京に来た時泊まるのが日比谷交差点にあった日活国際ホテルである。このホテルで新珠は山村の娘が月丘であることを知る。その時三橋と月丘は離婚しているのであるが、新珠は心の整理がつかず三橋のもとへは行けなくなるのである。ラスト、ホテルの廊下を歩く山村が若い者たちがまだ不完全でいつか彼らも完全な人となるであろうと心の中でつぶやく。

登場人物はきちんと言いたいことをいう。何で行き違うかもはっきりしている。その方向で行動する。しかし、立ち止まる人がでる。それが「あした来る人」ということなのか。

可笑しいのは三国が、こんな面倒な人間関係は御免であると、さっさとかじかの世界にもどり東京を後にする事である。。そういう道も作っているのが川島監督らしいし、新珠さんも月丘さんも美しい。この美しさがどろどろした人間関係にならない。この美しい人に余計な台詞は使わない。時として人形に陰影を与えるような表情を映し出す。こういう表情はスクリーンで見てこそである。

新珠さんの洋服は森英恵さんのデザインできりっとしている。月丘さんは着物で後ろ姿の帯の模様がモダンで妥協しなさを表している。川島監督の女性に着せる衣裳はその性格をも表し、おしゃれである。東京生まれのモダンボーイと思いきやそうではないので、彼独特の美意識なのだろう。森さんも監督たちの美意識が師でもあったと言われている。

日比谷交差点前の日比谷公園も噴水などよく使われる。「東京は恋する」では日比谷花壇(花屋さん)の看板描きをしているし、「二人の銀座」では、楽譜を忘れる場所がこの近辺の公衆電話である。

「銀座の恋の物語」でも浅丘ルリ子さんは洋裁店に務めている。妹分として和泉さんもお針子さんとして出ている。恋人が絵描きの石原裕次郎さん。浅丘さんの記憶喪失の時期があるが最終的には結ばれる恋物語である。お金の無い二人のデート場所が夜のビルの屋上でご馳走は屋上からの銀座のネオンである。裕次郎さんに心よせる婦人警官に江利チエミさんがでている。三人娘の映画の時はいつもコミカルな明るい役なのであるがこの映画では地味で脇を固めている。短いが歌う場面はさすが華がある。この映画の衣裳も森英恵さんで貧しい若き二人という事で衣裳の数も少なく地味である。

この映画の出だしは裕次郎さんが人力車で銀座の町を走る。スクリーンで見るとその道路の上とかビルの狭間とかにいる気分にさせてくれる。

撮り方も上空からビルの間を潜り細い通りの道路上で止まり、その時はセットの道路上でそのまま主人公の歩く進行方向に動いて行き主人公の目指す建物の前にいる形となり、実物とセットを上手く組み合わせていく。おそらく俳優も忙しくなり、また、ロケなどでの人の整理も大変になってそういう手法が多くなるのであろう。

「東京の暴れん坊」の第二弾「でかんしょ風来坊」などは<松の湯>なども煙突は実物で中はセットである。こちらの銀座の次郎長の台詞の滑らかさは第一弾より江戸っ子になっている。

 

 

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (2) 「東京は恋する」「二人の銀座」

「夜の蝶」・「夜の流れ」・「河口」・「その場所に女あり」 見たい映画が時間が取れず見事にパス。

和泉雅子さんと川本三郎さんのトークショーを込みで「東京は恋する」と「二人の銀座」。和泉さんの銀座の話は銀座シネパトスのお向かいさんで、江戸弁(しとひの発音が反対でした)ですらすらと2、3歳頃の話から銀座を浮かび上がらせてくれた。あまりにも気さくな方で川本さんも、多くの女優さんをインタビューしているがこれ程映像と違う方はいないと言われる。聞いているこちらは楽しくて、大型店の氾濫する前の銀座の庶民性と銀座を愛する心意気が伝わる。

「東京は恋する」(1965年・監督・柳瀬観)「二人の銀座」(1967年・監督・鍛冶昇)。この日活青春映画と云われる頃から銀座が若者の街として登場する。川本さんは<銀座病>で、銀座というと大人の高級な街というイメージで銀座にコンプレックスがあったと。木挽町(こびきちょう)とか現銀座4丁目は尾張町とか尾張町交差点と呼び名が残っていてそれだけでも時代を感じさせる。今は交差点とか交番に古い町名が残っているそうだ。

江戸は火事が多かったが明治に入ってからも多く、火事から守るために周りに堀を巡らし、関東大震災での瓦礫を処理するために堀は埋め立てられ、さらに高速道路のために埋め立てられ現在に至っているわけである。和泉さんが子供の頃は浅草に水上バスで行った事もあったとか。

「銀座化粧」で三原橋も出てくるが、出だしが服部時計店の時計台が写り子供がそのあたりで大人に時間を聞き駆け出して家に帰る。川本さんは「銀座裏の子どもには銀座が遊び場所になっているのだろう」(「銀幕の東京」)とあるが、和泉さんはあの映画の坊やそのままのお嬢ちゃんで3歳頃からデパートが遊び場だった。三越は迷子にならないのだが、松坂屋に行くとよく迷子になり、配達の自転車の後ろの駕籠に乗せられて帰った。迷子になるのに松坂屋をめざしたのは松坂屋の屋上の滑り台の上から富士山が見え、それが見たかったそうで、どうやら冒険家の血は幼い頃からのようである。

銀座の商店(和泉さんは食堂屋さん)にはお風呂がなかったので東京温泉にもよく入りにいき、小さかったので男女両方のお風呂を経験。東劇の5階にはストリップ劇場もあり、出前にくっついて行きキョロキョロ。銀座のあらゆるところに出没していたようだ。

名門泰明小学校の話で役者さんでは殿山泰司さんと中山千夏さんもいましたがと川本さんがフルと中山さんは芸術座の「がめついやつ」に出ていて、泰明小に転向してきてお友達だそうだ。やはり泰明小学校は凄い。

銀座の商店は二階が住まいになっているので、お店を通って二階に上がるが、途中でお客さんにこましゃくれて「いらしゃいませ」などとは云わず、そうっと下を向いて静かに通ったそうである。ここは大人の領分と云う不文律があったのであろうか。

「東京は恋する」の主人公舟木一夫さんは看板屋さんでアルバイトをしつつ芸大を目指している。看板屋さん自体が今どれだけ残っているのであろうか。ビルの上に掲げる大きな看板や銭湯の絵を描いたりしているが、もうあの時代にしかない風景かもしれない。ビルの屋上を使う映像も多くなり、この映画は職業がら上手く取り入れている。またエレキバンドの最盛期で、「東京は恋する」にも素人バンドがプロを目指す話が加わり、「二人の銀座」は素人バンドが一枚の楽譜とめぐり合う事から話は始まる。「東京は恋する」よりも「二人の銀座」のほうが後の公開なのに、「二人の銀座」は白黒である。和泉さんは映画にもA面とB面があって、「二人の銀座」は歌が流行ったので映画も作ることになりB面だから白黒と言われていた。

「二人の銀座」の字幕に美術・木村威夫さんの名前が。ライブハウスや事務所の壁にビートルズの白黒の大きな写真。和泉さんのお姉さんが経営する洋裁店の住居との境のドアにはレイモン・ペイネの絵が。こういうのを見ると楽しくなる。白黒を狙っている。映画の作り手はA級B級に左右されないように思う。見えなくてもどこかで自分の発想や工夫を押し込んでいる。ライブハウスの尾藤イサオさん歌うアップの光加減も白黒ならではである。

この二本の映画で地方の若者たちも映画館の中で東京の銀座を闊歩したのであろう。

しまなみ海道  四国旅(7)

四国には本州へ橋を渡って行くルートが三つある。鳴門から淡路島を通って明石へ。坂出から岡山へ。今治から尾道へ。今回は今治から来島海峡大橋、伯方・大島大橋、大三島橋を渡って大三島までで四国に引き返すコースである。須磨・明石に行った時、明石海峡大橋と淡路島が見えて感動したが瀬戸内海は本当に島が多い。景観から云うとどちらがよいか難しいところであるが、船の経路が道路の経路に変わってしまったのである。とにかくもしまなみ海道を楽しませてもらった。

大三島(おおみしま)で大山祇神社(おやまずみじんじゃ)の国宝館に鎧と刀が展示されているという。鎧と刀、興味が薄いが重盛や義経の奉納した刀があると聞けば見たい。重盛の螺鈿飾太刀(らでんかざりたち)は朝廷の重要な儀式につけた太刀で螺鈿飾りの鞘に収まっている。平家一門が栄えていた頃この太刀も輝いて人々の目に触れていたのだと思うと時間の流れにふっと戦慄を覚える。義経の奉納の刀は鞘から出されていてとても美しいカーブをしていた。今まで刀を見ても感じなかったが正式には刀のそり具合を何というのか、刀にも美しい形というものがあるのだと知った。

鎧にも一つ発見が。詳しく調べてはいないのだが、戦国時代大三島を守る戦いに勝利をもたらした鶴姫という女性がいて、この鶴姫が着用していた日本唯一の女性用鎧があった。女性用なので胸囲が広くウエストが細い鎧である。鶴姫の本があり心動かされたが買うのはやめておいた。

木曽義仲奉納、頼朝奉納、弁慶奉納などの品々もあり、神様も色々困られたこともあったであろう。皆、船でこの大三島に渡ってきたのである。私たちは鉄道や道路で考えるが、あの頃は海路と徒歩あるいは馬である。いや<汽笛一声新橋を>までそうなのである。それが陸路より近かったり、他所の土地の文化が伝わるルートが今と違っていたことを知らないと、どうして其処へ飛ぶのという事も出てくる。しまなみ海道で尾道まで行きたかった。

 

道後温泉  四国旅(6)

道後温泉は内子町内子座に文楽を観に来たとき、夏目漱石と正岡子規を中心に松山・道後温泉と回ったので懐かしい。今回は坊ちゃんの湯には浸らなかった。

宿の売店で小冊子<伊豫むかしむかし>を見つける。昔話である。題名は「鵺(ぬえ)」。平家物語にも出てくるが源頼政の鵺退治の話である。頼政は源氏をうらぎり平家にねがえったと人々にうとんじられる。それを悔しく思う頼政の母は、家臣の猪野早太を伴い伊豫の山奥に隠棲し頼政の武運を祈る。ある日、早太を供に矢竹の群生地でよい竹を見つけ弓矢の名人に頼み<水波(すいは)><兵波(ひょうは)>の二本の矢を作る。その矢に母の祈りを込めたので仕損じることはないから手柄を立てるようにと草太に託す。母はふたつの山の山頂にあるあぞが池の竜神に自分の命と引き換えに頼政の手柄を祈った。

京の都ではうしみつ刻(二時)になると黒い雲が御所を覆い不気味な鳴き声をあげ、それがもとで天子様はご病気になられた。平氏の面々は誰も退治できず、頼政に命が下った。頼政は母からの二本の矢で見事に化け物を退治した。頭は猿、体はたぬき、四本の足は虎、羽があり、しっぽは蛇という奇怪なものであった、鳴き声がぬえ(とらつぐみ)に似ていることから鵺と名がついた。天子様は頼政に名剣・獅子王を下された。その時、ほととぎすが高う鳴いて飛び立った。宇治の左大臣が「ほととぎす名をも雲居にあげるかな(ご所の上にほととぎすが鳴いて頼政の名をいっそうあげましたよ)」。頼政が下の句を「ゆみはり月のいるにまかせて(これも、ひとえに弓矢が良かったおかげです)」天子様は頼政が歌にもすぐれているので、土佐の国も合わせて下された。

伊豫のあぞが池は夜ごと池の中から黒い霧がわき、異形のものを包んで東に飛び、明け方近くもどって、池に消えていたが、ある日池がまっかになっていた。頼政の母は住まいの小屋で骨と皮になり、顔は微笑みをうかべ死んでいた。頼政は母が化け物退治に力添えしてくれたことがわかった。

それからどれくらいたったか、宇治の平等院で諸国行脚の僧が、夢枕に老武将が現れ、昔鵺を退治したが、それはわが母の化身であった。もったいなや母の恩。自分の罪に成仏できません。どうぞ菩提をとむろうて下され、と告げた。僧が目を覚まし土地の人に聞いてみると、鵺の話もここで頼政が腹を切ったのもまことの事だった。

母の子を思う心もあわれ、知らずに恩愛の母を討ち取り、いまだに暗闇をさまよう頼政の苦しみもさらにあわれ。僧は望みどおりねんごろに経を手向けた。

平家物語に関係する事が何かあるであろうと思ったら、民話のむかし話としてめぐり会った。

 

宇和町・大洲町散策  四国旅(5)

愛媛でふるさとの風景として内子町、大洲町、宇和町に力を入れているようである。内子町は内子座に文楽を観に行き、その時町並みを歩きしっかり江戸から明治にかけての町を楽しんだ。もしかするとその時から町歩きが好きになったのかもしれない。今回は内子町は入っていない。しかし、残念ながらツアーの悲しさで時間が限られ、心密かにもう一度来る事を誓う。

宇和町では、最初に入った「宇和民具館」がその並べ方・展示のし方が綺麗に整頓されていて感心した。この地に残る<五ツ鹿踊り>というのがあって一つだけが女鹿でその頭に赤い鳥居が飾られている。この赤い鳥居は、歌舞伎「夢市男伊達競」の七福神の弁財天の頭にもあり驚いたのであるが、何かいわれがあるのであろうか。

昭和48年まで栄座があり町民の娯楽の場であったらしい。栄座の模型もあり、そこに小さな幟もある。長谷川一夫一座、広澤虎造一座、高田浩吉劇団など。木で作られた上演看板には、市川右太衛門一座や片岡千恵蔵一座もある。演目は長谷川一夫さんが「鷺娘」「恋の勘太郎」、高田浩吉さんが「花嫁の発言」「天狗に拾われた男」「プレゼントアルバム」(歌も歌われたのであろう)、市川右太衛門さんが「旗本退屈男」とある。

シーボルトの娘さんの楠本イネさんが西洋医学を身につけるのもこの町である。シーボルトの弟子である二宮敬作がこの町で開業していたので、イネ13歳から18歳まで医業を手伝いつつ学んだのである。二宮敬作は同じシーボルトの門弟である高野長英をかくまったこともあり、この町は「花心」「長英逃亡」「おらんだおイネ」「ふぉん・しいほるとの娘」など歴史小説の舞台にもなっている。

山田屋まんじゅう本店もあった。突然の出現。

大洲町でのもう一つ突然の出現は「おはなはん」。テレビ小説「おはなはん」のロケ地でおはなはん通りがある。大洲で見学したのは「臥龍山荘」のみ。そこ一つで時間を取られてしまった。臥龍院、知止庵、不老庵の三建築からなり桂離宮、修学院離宮などを参考に選り抜きの名工たちによって10年かけて作られている。熱心な説明でまだ話たりなさそうであった。何も聞かずにぼーっとしているか、説明を聞いた後でぼーっとしている時間があるのがベストであるが、それは望めない。

来なければこんな町があるのも気がつかないわけで、もう一度ゆっくり歩きたい町としておく。

 

足摺岬から竜串海岸 四国旅(4)

足摺では海に沈む夕陽と日の出が見れた。元旦に日の出を見ていないので手を合わせて無病息災を。手抜きであろうか。あしずり温泉は弘法大師が金剛福寺を建立したさい疲れを癒したとされる。

足摺岬にはジョン万次郎の像がある。14歳の時、出稼ぎに出た万次郎は足摺沖でシケにあい、漂流、アメリカの捕鯨船に救助され、ホイットフィールド船長の好意で勉学に励み様々な西洋知識を学び日本に持ち帰る。バスガイドさんが龍馬に比べると知名度が低く、龍馬たちもこの人の先がけがあったからこそ次のステップを踏めたのだからもっと知ってもらいたいと熱く語られた。土佐清水出身の方だろうか。ジョン万次郎さんには大変興味があります。時間が無いだけで。足摺岬は寺田寅彦の短編「足摺岬」で有名になったとか。知りませんでした。観光の地名としてインプットされてますので。太平洋が270度見渡せる。

すぐ近く札所38番の金剛福寺がある。そういえば37番の岩本寺から38番までが一番遠いと云っていたような気がする。金剛福寺は弘法大師が千手観音を刻んで開基し、足摺岬は補陀洛(観音様の住む山のことで、観音浄土として崇拝されている理想の世界)に最も近いとされ、嵯峨天皇より「補陀洛の東門」の勅願を賜っている。和泉式部の逆修塔(生前に建てる墓)もあるらしい。

かつて「補陀洛渡海」という宗教儀式があり、小舟にのり補陀洛を目指すのである。有名なのは那智勝浦(和歌山)における補陀落渡海であるが、これは補陀洛に向かうのみで帰ってきてはいけないのである。今の時代から考えると残酷なことである。足摺にもそれがあり足摺の名の由来もそれに関係しているようである。

地平線のその先に補陀洛がありそうな気持ちにさせる美しい海の色と光である。

足摺岬から竜串海岸へ。竜串でグラスボートに乗りサンゴの群生とその周りを泳ぐ熱帯魚を覗き見る。海に潜りたくなる人の気持ちが解かった。もっとはるか下に見えるだろうと想像していたのに船底がサンゴに当らないのか心配するほど近い真下に見えた。難所で弘法大師さえも見残したと言われる場所を遠めに眺め引き返した。自然はそうっと静かにいつまでも残っていて欲しいものである。