歌舞伎・書物混合の建礼門院周辺

歌舞伎の『建礼門院』での建礼門院徳子と右京大夫の語らいをもう一度おさらいした。右京大夫は自分が資盛の後をどうして追わなかったのか、母の病を理由にして逃れようとしたのではないか、と自分をさげすむ。それに対し建礼門院は資盛の最後の様子を語る。<資盛は美しく死んでくれました。最後と決まると都の空を眺め、右京と呼んでいるのを私に聞かれ頬を赤らめておりました。><もう一度会いたかったのであろう。>

小説を読んでいる前と後では、台詞の厚みが全然違う。

歌舞伎ではこの場に後白河法皇が御幸されるのであるが、『平家物語』の「大原御幸」には右京は登場しないし、小説「建礼門院右京大夫」では右京は大原を訪ねるが、後白河法皇が大原御幸したという記述はない。北條秀司さんの脚本は、建礼門院と右京、建礼門院と後白河法皇との対話で一層平家一門の悲哀と人間のどうすることも出来ない無常を劇的に強め救済へと導いている。

ここでもう一人<大原>で共通する登場人物がいる。大納言左局(だいなごんすけのつぼね)である。清盛の五男・重衡(しげひら)の正室で安徳帝の乳母であり、壇ノ浦で入水するが彼女も源氏の手で助けられてしまう。夫の重衡は<以仁王(もちひとおう)の乱>の時大将として鎮圧にあたり、その乱に加担した園城寺を攻め炎上させ、さらに園城寺に加担する奈良の東大寺・興福寺を攻め、奈良も炎上させ東大寺の大仏殿の二階に非難していた千余名の人を犠牲にする。

その重衡が一の谷の合戦で生け捕りにされる。彼はそこから京都、鎌倉へと送られ奈良の衆徒の要求で奈良に送られ斬首される。彼は鎌倉へ下る前、彼の希望で法然から戒律を授けられている(『平家物語』)が、実際には法然は重衡とあえるところにはいなっかたようである。(永井路子著「平家物語」)「建礼門院右京大夫」では、隆信が法然に帰依しての出家としており、どちらにせよこの時代に法然がでてきたのかと時代背景が記憶された。

『平家物語』では左局は壇ノ浦で助けられてから姉の所に同居し奈良に送られる重衡に会っている。そして打たれた首と体とを一つにして丁寧に葬っている。それを終え、建礼門院のそばで平家一門の菩提を弔うのである。そして阿波内侍と二人で建礼門院を見取られ仏事は忘れずにいとなみ、最後には二人とも、往生の素懐をとげたということである。

(歌舞伎・平成7年での大納言左局は中村歌女之丞さんが演じられていた。)

 

小説 「建礼門院右京大夫」 

建礼門院右京大夫>(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)という方は、建礼門院に仕えていた女房・右京大夫の事である。建礼門院は、清盛の娘で高倉天皇の中宮・徳子、安徳天皇の母である。院号は実際に出家しなくても与えられるもののようで徳子も出家する前に院号をもらっている。建礼門院と呼ばれるようになるのは出家してからと思うが、この頃の一人の呼び名が色々かわり、主語が変わるので惑わされてしまう。だれだれの娘であったり、結婚しても夫の官職の名前に北の方とついたり、その前誰かに仕えていればご主人の名前や御殿の名前がついたり、あるいは住んでいる場所の名前がついたりと慣れるのが大変である。

<右京大夫>の名も、女房名で後ろ盾となってくれた藤原俊成のその時の官職名から付けられたものである。官職の上下もよく解からないのでこの時代の事が理解できたかどうか疑問であるが、なんとか建礼門院右京大夫の心の流れと、著者・大原富枝さんのこの小説を書かしめた心の芯となっているものは見えたように思う。

この話は、右京大夫と二人の男性との恋の話ともとれるが、そこを取り巻く世界は平家の繁栄と衰退の時間の流れと重なり、権力争い、武士と貴族、当時の男と女の関係、歌の力、自然に対する感じ方等々、豊かに織り成しているので簡単にこうでしたとは言えないのであるが、ここはここで一度整理するためにやらずばなるまい。

右京大夫は高倉天皇の中宮徳子の御所へ宮仕えしそこで、清盛の長男・重盛の次男である平資盛の思われ人となり結ばれる。右京大夫の父は名筆家の出で「源氏物語」の研究もされ、母は琴の妙手であり、彼女は文にも書にも音楽にも歌にも造詣が深った。彼女は見るもの聴くものことごとく深く感じ入り、さらに臆することなく自分の気持ちを表現できる力を持っていた。そんな彼女を思う人がもう一人いた。藤原隆信、似絵を見出した方で、神護寺の源頼朝像・平重盛像などは彼の作ではともいわれている。彼は貴族で歌も優れていて右京よりかなりの年上。世の中を斜交いに眺めている所もあり、右京は年下の未熟ではあるがどこかに武士としての定めをいつしか身に付けていた資盛に魅かれて行く。

<あなたは武士の家の子としての私を考えられたことがおありか?ないだろう?武士は宮廷の守護のためにある家柄のもの、命を受ければどちらへなりと忽ち兵を動かさなければならぬ。兵を動かしては勝つか負けるか、二つに一つ。生か死か、名誉か汚辱か、それだけだ。><祖父君は別格にお強い方だ。ときに敢えて法皇の君にさえ否とお応えなされる力がおありだ・・・> これは右京に語った資盛の言葉である。

右京は母の病気のため御所から退がる。安徳帝のお生まれの時も、その後平家一門が戦に破れ西国に落ちていく時も、外からでしか情報を得られない。そんな中、資盛は覚悟を決め、もうたよりはしない、決してあなたをおろそかに思っているわけではない。と伝える。ところが押さえがたくおのれの禁を破り文と歌が届く。このやりとりの箇所で、これはあの昭和の戦争の若者たちと同じではないかと感じた。こうやって文を交わせる者もいれば、その機会も閉ざされて死に立ち向かわなければならなかった者もあった。そんな事なども思って読み終わり作者のあとがきを読む。

<資盛の運命は第二次世界大戦に死を覚悟して出陣した学徒兵たちの心情に重なり合い、彼女の歌集は彼等に愛読されたと申します。><私自身、ある人の戦死を今も胸に刻んで生きており、これがこの作品を書くモチーフともなっています。>

清盛の直系として重盛は平家一門の統帥となるが、大納言成親が鹿ケ谷の陰謀で清盛を裏切る。重盛は成親の妹を娶り、重盛の長男維盛は成親の娘を妻としている。父重盛が亡くなる。東国の頼朝との戦で大敗する維盛。祖父清盛が亡くなり、平家一門は清盛の後添えの時子の息子宗盛たちに中心は移って行く。一族から孤立していく維盛、資盛たち兄弟。維盛が戦局から離脱し入水。右京は西山にこもりつつ資盛を思いやる。生け捕りにだけはならないことを願いつつ。ついに安徳帝も二位の尼(時子)に抱かれ入水。女院(徳子)も入水するが助けられてしまう。そして資盛も兄弟たちと共に入水したと知らされる。彼女の長い長い悲嘆の時間が続く。

大原に建礼門院を訪ねる右京大夫。訪ねるといっても正式には届け出をしなくてはならないらしく、隠れての訪れであった。平家に対してはたとえ出家し山の奥で篭っていてもうるさかったのであろう。それだけ不自由な侘しいくらしであったということか。

その後右京は後鳥羽帝の内裏に宮仕えする。これは想像であるが、右京は不自由な建礼門院のために品物を送り助けていたのではなかろうか。20年仕えるが後鳥羽院も隠岐に流されるという事となり、それを機に御所を退がる。この時代は平家滅亡という後でも何も変わらぬ御所の様子を、かつての心躍らせた時と対比し冷静にみつめている。

そして70代半ばにして、藤原定家から新しく勅選集を編むので歌を見せて欲しいと文がくる。そして名前は何としますかと尋ねられ<「建礼門院右京大夫」の方>と答えるのである。

<あの世とやらがあるものならば、そして死者に魂があるものならば、必ずや資盛の君がそこで、「建礼門院右京大夫」という名でわたくしの歌を残ることを眺め、どんなに喜んで下さることであろうか・・・・・。>

流れとしてはこんな感じであるが、定家の父・俊成と右京の母とは愛し合って子までもうけている。それを年下の右京の父が思い入れ右京の母と結ばれるのである。そして生まれたのが右京。その俊成の後添えに入った方の連れ子が隆信である。隆信は右京の母を理想の女性と見ているところもあり、なかなか趣がある愛の形も描かれていて一筋縄ではいかない。

右京が身近に言葉を交わし、歌を差し上げたり、合奏を楽しんだり、舞を見たりし楽しませてくれた平家一門の美しき公達の変わりようは貴族ではなく武士であったという事である。一人一人のしぐさ、口ぶり、冷やかしなど浮かんでくる細かなことから平安から鎌倉への大きな世の中の流れまで喜怒哀楽すべてを歌で表現したのが建礼門院右京大夫なのである。

としたり顔で締めくくろうとしているが、<歌>難しい。小説の流れの中でなんとか汲み取った気にしているが指と指の隙間から逃げていくような感覚である。こちらが先に逃げる事とする。

新橋演舞場11月 『吉例顔見世大歌舞伎』 (夜の部)

熊谷陣屋』。これは今迷走なのである。観る前に、永井路子さんが平家物語を旅した著「平家物語」を読み始めたら序から<『平家物語』は史実を必ずしもそのまま伝えていない>とあり、例として<熊谷直実が一の谷の合戦で平家の公達、敦盛をわが手にかけたことから世の無常を感じ、これが出家の契機となった、というのだが、事実はまったく違う。>とある。

『平家物語』は琵琶法師に語られていくうちに多少変わっていったであろう。『平家物語』で清盛が白河院の皇子であるらしという事も清盛が死んでから、巻の六「祇園女御」で出てくる。「大原御幸」も清盛と後白河法皇の双方の権力争いから考えると有り得ないのではと思ってしまう。《物語》であるからそれはそれとして楽しめばよいとするが、かなり動揺。歌舞伎の『熊谷陣屋』自体が『平家物語』から自立している話で、熊谷は敦盛を助け、自分の子小次郎を犠牲にし、小次郎の菩提を弔うために出家するのであるから、それを組み立てた作者も凄いものである。それだけに観ている内にまたまた混乱。

弥陀六という石屋がいる。実は平家の武将宗清で台詞を聞いていると重盛(清盛の長男)に使えていたようで、重盛に平家一門の菩提を弔う使命を受けさらに重盛の娘小雪をたくされている。あれ、 宗清は頼盛(清盛の弟)に仕えていたのでは。宗清は頼朝を捕らえるが頼盛の母池禅尼の嘆願で頼朝は命を助けられるのである。池禅尼は清盛の継母である。

歌舞伎では、義経はこの宗清の育てている娘小雪への土産として敦盛が潜んでいる鎧櫃を宗清に託すのである。

そもそも歌舞伎では義経は後白河院の落胤敦盛を小次郎を身代わりにして助けるべしとの暗号を出す。それが<一枝を切らば一指を切れ>の制札。熊谷はその暗号を正しく読んだかどうか義経に小次郎の首を差し出し確かめる。小次郎の首を義経は敦盛の首に相違ないと答え熊谷は主君の意を正しく理解した事に安堵する。一方熊谷の妻相模は敦盛が討ち死にしていると思い敦盛の母藤の方を慰めていたが、敦盛と思っていたのが自分の子小次郎と知り動揺する。ここで周囲に小次郎の首と疑われてはならないので熊谷は、相模と藤の方の動揺をしずめる。相模はそれを察しつつ母としての悲嘆を押し殺しつつ熊谷と藤の方と観客に伝える。

それを受けつつ熊谷は出家を決意している。平家の宗清に敦盛を託する事を確認し役目も終わったと旅だつのである。

歌舞伎と書いたがもとは浄瑠璃の義太夫狂言である。色々錯綜したがこうするならこういう人物関係でと話の筋は上手く整えている。それだけに役者の力量が問われるのである。熊谷の松緑さん、よく頑張られた。台詞がよく聞き取れた。まずはそれだけでもあっぱれである。色々な思いで気もせくであろうがよく押さえられ一つ一つなぞられていた。周りもご自分の演技で受けられ魁春さんの相模は出の大きさから次第に悲しみに移行し良かった。

『平家物語』とのコラボだったが、書き終わってみるとしっかり義太夫狂言の中にいる。次の『汐汲』も須磨で、須磨寺と須磨の浜辺を思い出している。

熊谷直実(尾上松緑)・弥陀六(市川左團次)・相模(中村魁春)・藤の方(片岡秀太郎)・義経(中村梅玉)

新橋演舞場11月 『吉例顔見世大歌舞伎』 (昼の部)

片岡仁左衛門さんが体調不良のため休演である。一番ご本人が気にかけておられると思うが体を労わり大事にされて欲しい。

双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』。今回は「井筒屋」が東京では戦後初めての上演との事。「難波裏」も見ていないのでこの二場面をみてからの「引窓」の台詞がよく理解できる。南与兵衛(なんよへえ)の女房お早(もと遊女都)が姑のお幸から、<ここは廓ではないのだから>とその振る舞いを注意される。そこでお早は遊女だったのだとわかる。与兵衛の家に関取の濡髪長五郎(ぬれがみのちょうごろう)が訪ねてくる。この時お早と長五郎が廓で知っている仲だということがわかる。長五郎は恩のある息子のために人を殺め母親に暇乞いにきたのである。そこでお早はお幸が与兵衛の父の後妻となり、与兵衛は義理の子で長五郎は実の子である事もわかる。

また、長五郎が<同じ人を殺めても運の良いのとそうでないのとがある>と呟くが、これは与兵衛も人を殺めているのであるが、都(お早)の機転から救われるのである。その辺りの事が「井筒屋」と「難波裏」を見ていると納得できるのである。「引窓」だけでもお幸・お早・長五郎・与兵衛の四人の情愛の絡みは解かるがところどころの台詞がやはり鮮明になる。

運の良さから武士に取り立てられながらそれを捨てる人、それを喜びながら苦悩する人、そうさせては義理が立たぬと考える人、間に入って気遣う人それらを引き窓を開けたり閉めたりする事によって明暗を表現する。ベテランならではの舞台であった。

お幸(坂東竹三郎)お早(中村時蔵)長五郎(市川左團次)与兵衛(中村梅玉)

人情噺文七元結(にんじょうばなしぶんしちもっとい)』。円朝さんの噺。本所の長屋に住む、娘が親のために吉原へ身を売ろうとして貸してもらえた金50両を50両取られて身投げしようとした男に、借りた50両を渡してしまう左官屋長兵衛さんの噺。

娘のお久役が清元延寿太夫さんの息子さんで役者になった尾上右近さん。好演である。右近さんが本名岡本研祐さんで舞台に立った舞踊『舞鶴雪月花(ぶがくせつげっか)』は忘れられない舞台である。右近さんが可愛らしく評判になった。三つの踊りからなり、「さくら」が坂東玉三郎さん・「松虫」の親が勘九郎(現勘三郎)さん、子供が七之助さんと研祐さん・「雪達磨」が富十郎さんでそれぞれ味わいのある舞台だった。もう一度見たいので配役を考えた。「さくら」(七之助)・「松虫」(勘九郎・鷹之資・七緒八)・「雪達磨」(勘三郎)。

『文七元結』にもどって、長兵衛と藤助のやりとりが楽しい。長兵衛の性格を知りつつ上手くあしらう客商売の技が藤助から読み取れる。大川端での長兵衛と文七はそれぞれの性格が現れている。その場になると人の意見は消えて自分の感情を優先させる長兵衛。しっかり者ゆえに自分の落ち度に気がつかず突き進む文七。こうなればこうなってこうなるとその場が上手くいけばよいのとこうなれば周囲がどうなるかを考える違い。それゆえ文七は新たな商売方法を考え出す。その辺の違いがよく出ていた。菊之助さんすっきりといい形である。

左官屋長兵衛(尾上菊五郎)・文七(尾上菊之助)・藤助(市川團蔵)

明治座11月花形歌舞伎 

四代目市川猿之助さんの襲名舞台を見ていないので、亀治郎さんから猿之助さんに代わってから初めての観劇である。襲名興行ではないし、<花形歌舞伎>と銘打っているためか、気持ちの上で変わらない。あたりまえに 新猿之助さん を受け入れている。想像していた通り澤瀉屋一門をまとめていて、それでいながら浅草での亀さんであった時の楽しさも残している。

今年の新春浅草歌舞伎の男女蔵さん・亀鶴さんもいるし、あの中村米吉さんが驚くべき成長で、市川右近さんに言い寄る若き娘役の発しとした演技にあれよあれよと楽しませてもらった。今、新春浅草歌舞伎はいい流れを作っている。今回、澤瀉屋は半分近く欠けていると思うが、それで興行出来るのであるから三代目猿之助さんが病に倒れてからの一門の精進が土台と成ったのであろう。他の役者さんたちの力を借りながら様々の難関を通ってきた年月の幅は細いがしっかりとした年輪である。これからその年輪の一つ一つの幅を少しずつ大きくして欲しいものである。

[昼の部] 『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』は、今回、<近江国高嶋館の場>があり、いつも<吃又>で出てくる虎がどのようにして描かれたものか気になっていたので流れが解かりすっきりした。自分の肩の肉を引きちぎっての血を吹きかけて描く虎の絵は赤い切り絵のようであり、その美術的効果になるほどと関心した。人が二人入っての着ぐるみの虎の仕草は身体は大きいが猫で、この時代人々はまだ虎を実際に見ていなく、様々の虎の絵を見ても、かなり情けない顔の虎の絵もあり、そんなこんなを思い出しつつ愛嬌さに笑ってしまった。序幕は門之助さん、猿弥さんが手堅く押さえてくれたが<吃又>は物語に入り込むまでにはいたらなった。夫婦の情も薄く右近さんと笑也さん硬く感じられた。

蜘蛛絲梓弦(くものいと あずさのゆみはり)』は六変化の舞踊だが、最初の切り禿 の踊りが良かった。紐を使っての駒に乗る仕草や手綱さばきの表現の手先、足裁きが印象的であった。座頭もお手のものだが今回の振りは杖を足で飛ばす意外性を置いといて、面白みにかけていた。全体としては流れの面白さはあるが一つ一つをみると、ここだ、というところが少なかった。もちろん身体はよく使われていた。そろそろ大曲の舞踏が見たい。

[夜の部] 『通し狂言 天竺徳兵衛新 噺(てんじくとくべいいまようはなし)』。解かりやすくよくまとまっている。『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべいいこくはなし)』と怪談『彩入御伽草(いろいりおとぎぞうし)』とを入り組ませたもので、宙乗り、早代わり、幽霊、など仕掛けの多い芝居である。それを楽しみつつ筋も観客に残さなくては役どころの意味がないが猿之助さんは涼しい顔でこなしていた。どちらかと言えばさっぱり系で、日にちが立つと色合いがかわるのかもしれない。

<泳ぎ六方>を楽しみにしていたが猿之助さんのは優雅で美しい動きで気に入った。

市村萬次郎さんが近頃はよく舞台を締めてくれる。右近さんは役柄のためか、声高の頭から抜けるような口跡が少なくなりしっとりさが加わってきて、これから役の幅が増えるのでは。門之助さんは澤瀉屋の義経役者の品の良さがどんどん加わっている。笑也さんは古典はもう少し力が必要かな。猿弥さんは体重増えたのか上手いがいつもの独特の切れが薄かったような。

劇評家の先生たちがお目見えだったのも影響していたのか、全体的に役者さん皆様、行儀の良い演技だったようにお見受けしました。

浅草紹介のお助け

今夜 8時~9時 テレビBS・TBSでの浅草紹介番組。

関口宏の風に吹かれて「浅草に吹くエンターテイメントの風」(後編)

先週は閉館する浅草の映画館の紹介。ビートたけしさんの浅草時代に寝泊りしていた当時は浅草フランス座、今はつうしょう東洋館の脚を伸ばして寝れないような狭い屋根裏部屋を映してくれた。即座に山田邦子さんが対角線状に寝転んでくれその行動力に立体感覚のあるかたとお見受けした。かつてたけしさん自身が東洋館のエレベターでタップを練習していた事を現地で紹介してくれたこともあるが寝泊りしていた部屋の紹介は初めてと思う。たけしさんの浅草時代は著書「浅草キッド」が面白い。

フランス座に関しては井上ひさしさんの講演でも聞いたことがある。警察沙汰の時の一応脚本家としての責任で警察で泊まる役目の話。一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいとか、荷風さんが踊り子さんに差し入れられたカレーを芸人さんが少し頂戴してそれを小麦粉かなにかで量を増やして食べていたなど例のごとく軽妙洒脱に話してくれた。ただそれだけではなく、荷風の日記から日常からみた戦争もしっかり語られていた。

今夜は後編で先週の予告では大里洋吉さんが出られるらしい。10月17日/映画『夢』2012年10月17日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)で「アミューズ ミュージアム」の事をかいたが、田中忠三郎さんの仕事を今 <美しいボロ> として表舞台へ後押しされたのが大里洋吉さんで、「アミューズ」の創設者である。

今夜は浅草コシダカシアター(浅草ROX)でのシアタターレストラン・昭和歌謡レビューの話かと思うが。

(上記 <一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいとか> の部分は記憶違いが判明し、2013年8月24日 『永井荷風展』(3)2013年8月24日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)で訂正しています)

【池部良の世界展】 (早稲田大学演劇博物館)

俳優の池部良さんが亡くなられて三回忌ということで、早稲田大学演劇博物館で「~不滅の俳優~池部良の世界展」が開催されている。チラシに中村歌右衛門さんの楽屋でのお二人の写真が載っていたのでこれはお珍しいと近寄って見させてもらった。

歌右衛門さんとの写真は池部さんが初めて歌舞伎座の楽屋を訪ねたときのもので、1951年2月、4月に歌右衛門さんは六代目を襲名するので襲名の2ヶ月程前であろうか。3枚あって2枚は歌右衛門さんが八橋(「籠釣瓶花街酔醒」かごつるべさとのえいざめ)の花魁姿である。歌右衛門さんはほんのりとした品を秘めた美しさで、池部さんは若かりし頃もダンディーである。もう一枚は楽屋部屋でお二人火鉢の前で。大切に保存されていたようで歌右衛門さんの署名もあり素敵な記念すべき写真である。この時のことは、池部さん「銀座百点」(2010年10月号 銀座八丁おもいで草紙)に書かれている。

三島由紀夫さんが池部さんを絶賛していたという文章も読むことができた。

『映画芸術』(1971年2月号)「対談 三島由紀夫・石堂淑朗 戦争映画とやくざ映画」

『日本残侠伝 死んで貰います』の池部さんに対し <他人のためにやっていることを、自分のこととしている・・・・何というか、自分の中に消えていく小さな火をそっと大切にしているようなあの淋しさと暗さが何ともいえない> と語っている。

やくざ映画に出るきっかけとなったのは、篠田正浩監督の『乾いた花』のやくざ役を俊藤浩滋プロデューサーが見て懇願して『昭和残侠伝』に出てもらったそうだ。『乾いた花』は加賀まりこさんの衣装が森英恵さんのデザインで、虚無的な若き女性の着こなしを見たいと思っていた作品である。その作品が池部さんの次のスッテプとなった作品とは、早く出会いたいものである。

その他、池部さんへのインタビューの録音テープも流されているが、落ち着いて聴けないのが残念である。ポスターも近頃映像ではみれないであろう珍しいものもある。池部さんは前面に出て個性的に演じるタイプではない。女優さんの相手役というイメージもある。無理となればさりげなく身を引く引き方が上手い。そういう人がスウッーと前に出たときの男気が絵になるのかもしれない。

演劇博物館なので、映画関係の展示はまれである。時代別演劇関係の展示や『八代目市川団十郎展』もあり、いつも幾つかはパスしている。金~日曜日の1時から4時までは解説して下さる方がおられとの事。一度利用してみたい。

 

 

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歌舞伎映像 【平家物語 建礼門院】

もぐらさんたちの増える勢いが速くて追いかけていられないので、もぐらさんたちは勝手にさせておいて気の向くままに。

歌舞伎名作撰 DVD 『平家物語 建礼門院』。これは平成7年11月歌舞伎座にて収録したものである。

建礼門院・中村歌右衛門/後白河法皇・島田正吾/右京太夫・中村魁春/          阿波内侍・中村 時蔵/

京の都大原の寂光院に、壇ノ浦で入水したが助けられてしっまた安徳帝の母君徳子が髪を下ろし尼(建礼門院)となって亡くなった人々の菩提を弔いなが暮らしていた。そこへかつて建礼門院に仕えていた女房・右京太夫が尋ねてきて最後までお供できなかった事など胸の内を語り、平家一門の最後の様子や源氏の兄弟不和の事など世の中の無常をしみじみと思いめぐらす。そこへ、後白河法皇が訪ねて来られる。建礼門院は、この悲しみのを創られた法皇には会いたくなっかた。やっとどうにか御仏の力で自分の気持ちを押さえているのに、また乱されるのは耐えられなっかた。法皇のたっての願いから後白河法皇と建礼門院の対面となる。

建礼門院は押さえがたく自分の法皇に対する恨み辛みを全てを法皇にぶつける。法皇はその刃を受けるためにきたのだと伝える。自分は武士と武士を争わせ、兄と弟を争わせその勢力を弱らせ、かつての貴族による摂関政治を夢見たのだと告げ、おのれの罪深さを恥じ入る。

その時建礼門院は阿弥陀の声を聴く。許しなさいと。建礼門院はその事を法皇に告げ、浄土で御会いしましょうと微笑むが、法皇は、私はあなたと同じ所にはいけない、地獄にて皆の責め苦を受けましょうと語り別れをつげるのである。建礼門院は穏やかなお顔でいつまでも法皇の去り行くお姿に静かに手を振られるのである。

歌右衛門さんと島田さんの『建礼門院』は実際に観ている。歌右衛門さんは魁春さんたちに手を借りての立ち居振る舞いであったが建礼門院の気持ちは、その手先から顔の動かしかたから、島田さんの法皇の台詞に対する間合いからじわじわと伝わってきた。人とそこに積み上げてきた演技の技術というものが溶け合うとこうなるのであろうかと思った。それを<芸>とも呼ぶのであろうが。新歌舞伎という事もあってか島田さんは島田さんの演技で受けられてお二人の台詞劇は見事であった。後白河法皇と建礼門院だけの空間ではなくもっと広い空間に思えた。

ところが「平家物語」を読み、映像をみたら、許せるだろうかと疑問に思ってしまった。「平家物語」の平家一門の最後は、悲惨である。実際に受けた身にしてみればそう簡単にはと考えてしまった。北條秀司さんが10年を費やして書かれたそうで、どの辺を苦慮されたか解からないが、この許せるかどうかではないだろうか。

ただ「平家物語」を読んでいたので、出てくる人物の名前がどういう人かはすぐ想像できた。舞台では、建礼門院と右京太夫の会話が無意味に流れていたのであるが、法皇の訪れる前の重要な台詞だと解かった。阿波内侍が信西の娘である事も。「平家物語」では阿波内侍が法皇をお迎えし法皇が変わり果てた内侍に気がつかず名乗るのである。右京と資盛の事は書かれてあったかどうか記憶にない。このあたりも小説になっているようである。

もう少し時間をおいて映像は観てみたいと思う。今度はどう感じるか。

もぐらさんたち 【新・平家物語】

古典の「平家物語」を読み終わる。そこで、 映画『新・平家物語』とNHK大河ドラマ『新・平家物語』(総集編/上の巻・下の巻)を観る。吉川英治著「新・平家物語」を原作としている。

映画『新・平家物語』(大映・1955年)は三部作の一作目と知る。残念ながら一作目しか観ていない。

[ 二作目『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』(1956年)/三作目『新・平家物語 静と義経』(1956年)]

一作目の『新・平家物語』は、若かりし頃の平清盛(市川雷蔵)を描いていて、清盛の一生からすると物足りない感じがする。映画派であるが「平家物語」を読み終わってみると、映画では時間が足りない。大河ドラマも総集編ということで、合計3時間ほどではあるが若き日から<清盛の死><大原御幸>と後白河法皇が建礼門院徳子を尋ねるところまで描かれているので一応の到達感はある。
大河ドラマの『新・平家物語』は、新劇界・歌舞伎界・映画界・新派の役者さん達が入り組み、この方がこの役でと、役と役者さんの組み合わせも楽しませてもらった。 今年の清盛(松山ケンイチ)と後白河院(松田翔太)の対決も良いが、仲代達矢さんと滝沢修さんの対決は演技的にも深みがあり見所である。 次の台詞まで少し間がありその次にくる予想だにしない演じかたは、こうくるのかと感じいってしまう。それは、双六ではなく碁の打ち合いの音がする。

噂に聞いていた現七代目清元延寿太夫さんの源頼朝の少年時代(岡村清太郎)を観れたのは、これかと嬉しかった。上手だったとは聴いていたが想像以上であった。

総集編では出てこないが、佐藤義清(西行)が蜷川幸雄さんであったようで、これは観たかった。

遠藤盛遠(文覚)が近藤洋介さん。総集編では、清盛が白河院の子であることを清盛に告げたのが盛遠であると話の中だけにその名が出て来る。

平家物語」で盛遠が出家後(高雄神護寺の僧文覚上人)、頼朝の挙兵を促したと <巻の五・文覚の荒行>に書かれてあった。ただ「平家物語」には、なぜ盛遠が出家したかについては書かれていない。その後盛遠は清盛の長男重盛の子・維盛の若君・高清(六代)を助けようとしたり、頼朝が亡くなってから後鳥羽天皇に反旗をひるがえしたり映画『地獄門』のラストとの寂滅さとは違う、政治的活動をする。

<大原御幸>は「平家物語」をしっかり締めている。歌舞伎の『平家物語 建礼門院』を改めて映像で観ようと思う。

新派 『葛西橋』 (2)

葛西橋」は北條秀司戯曲撰集によると今回の上演とは違う筋になっている。
おぎんと友次郎は友次郎が樺太に逃走する前に、ふたたび結ばれてしまう。その事をを菊枝は知ってしまい荒川放水路に飛び込むのである。菊枝は助かり、おぎんは友次郎に菊枝の事は任せておいてと葛西橋から友次郎を見送る。
昭和35年2月に明治座での初演は戯曲撰集の筋のままで上演されている。
昭和50年5月 新橋演舞場での公演では台本も全改訂と明記され今回の形となっている。

北條さんは花柳章太郎さんの芸を意識して書かれたのであろうが、15年を経過して大幅に改訂したのは時代の流れをも考慮したのであろうか。3役を一人で演じる変化の妙。そして、菊枝を姉の呪縛から自からの力で解き放つ女性として描く新しさ。昭和初期を回顧するだけではない新派の手探りがそこには見えるのだが。

横道にそれるが、菊枝が一時行方をくらました時泊まっていたのが<霊巌島(霊岸島)の舟宿>である。この霊巌島は現在の中央区新川一丁目・二丁目である。江戸時代埋め立てられそこに霊巌寺が建立され霊巌島と呼ばれるようになったようだが、【本所の灯り(3)】(8/23)2012年8月23日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)で出てきた霊巌寺と同じ寺である。

>霊巌寺は江戸六地蔵の一つで、寛政の改革を行った松平定信の墓がある。

明暦の大火で焼失し、現在の深川に移転したのであるが霊巌島の地名は残ったのである。深川だと永代橋を渡ると霊巌島につく。霊巌島には、霊岸島汽船発着所があり、房総・伊豆半島、大島、八丈島などへ船が通っていた。

菊枝はそこから伊豆に渡り友次郎のために身を売ろうとしたのである。誰にも知られないようにと考えたのであろう。新派全盛のころは、霊巌島と聴いただけでまだ観客はその地が浮かびあがったことだろう。

このあたりも北條秀司さんの東京に対する思いがあるようで、「東京慕情」三部作の『佃の渡し』『葛西橋』『百花園裏』は墨田川の東にあたり、埋め立てられた地に住む人々のしたたかさと悲哀を新派の芸で残そうとしたのである。

久保田万太郎さんの小説「きのうのこと」にふれ、喜多村緑郎らしき役者とただプラプラと深川界隈をあるいてまわっただけのことを書いたものだが北條さんは久保田さんの代表作品の中に指折っている。葛西橋・洲崎遊郭もよく歩かれたようでその 風景に馴染んでいる人々の生活を残そうとしている。洲崎遊郭に関しても、新派の長老の役者さんたちから話を聞いている。

『佃の渡し』『百花園裏』も台本で読んだが、『佃の渡し』などは、佃島を歩き、映画「如何なる星の下に」を観ていたので、その風景も加味してそこで育ったお咲の自分でも押さえきれない伝法なところが近い位置で感じる事ができた。

そんな事をつれづれ考えると歌舞伎役者春猿さんのおぎん・菊枝は艶やか過ぎるかなと考えたりもする。ただ澤瀉屋一門の息の合った三人であるのでそこはそこ、上手く納まったともいえる。新派の役者さんも三人に負けることなく奮戦していた。こうした経験のもとにこれからの新派の伝統と新しさを創造していって欲しい。