青梅から 映画『トキワ荘の青春』

奥多摩への途中駅、青梅駅は降りたことがなかった。映画『雪女』から、青梅は映画看板の街でもあるので訪れてみようとおもいたった。塩船観音寺は以前から行きたいとおもっていたので調べると、バスは本数が少ないようである。東青梅駅から15分のところに吹上しょうぶ公園があり、そこから20~30分で塩船観音寺まで行けそうなので、青梅から塩船観音寺までの行程とする。

青梅駅の駅舎は三階建ての四角いビルである。山手線の原宿駅が建て替えられるとの情報から、『関東の各駅途中下車ー小さな旅で訪ねたい、いい駅100』(原口隆行著)をさらさら読んだ中に青梅駅もあった。

なぜ三階建ての四角いビルかというと、大正に建てられたその時はJRではなく青梅電気鉄道でその本社が駅のビルとなったからである。それにしても、今の原宿駅がなくなってしまうのは残念である。

青梅駅のホームから入る地下通路に映画看板が並ぶ。駅のそばの観光案内所でまず地図と<雪女の碑>までの経路と青梅の見どころを教えてもらう。

行って歩いてわかったことであるが、青梅駅から映画の看板をながめつつ、<雪女の碑>のある調布橋をわったて、釜の淵公園を散策して多摩川の自然をながめつつ歩いて青梅駅にもどるのがよさそうだということである。

今回は、吹上しょうぶ公園と岩船観音寺を入れていたので調布橋を渡ってUターンしてしまった。調布橋からの両岸を緑におおわれた多摩川はどんよりした梅雨空を払拭する美しさで、大きな街道を消し去って、雪をふらせれば雪女の伝説のうまれた土地と思えてくる。正式には「雪おんな縁の地」の碑である。

 

 

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裏に小泉八雲さんの写真と『怪談』の序文がある。

この「雪おんな」という奇妙な物語は、武蔵の国、西多摩郡、調布村のある百姓が、その土地に伝わる古い言い伝えとして私に語ってくれたものである。

 

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青梅は青梅街道の宿場町で、商店街が旧青梅街道にあり、その建物に映画の看板がすえられている。映画の看板はこの青梅以外ではこれだけの数をみることはできないであろう

昭和を楽しむ三館めぐりというのがあって「昭和レトロ商品博物館」「青梅赤塚不二夫記念館」「昭和幻灯館」がある。

昭和レトロ商品館」には、映画看板絵師・久保板観さんの紹介もある。二階に「雪おんなの部屋」がある。小泉八雲さんの『怪談』序文からの青梅市との関連を展示説明している。

 

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青梅赤塚不二夫記念館」で、昭和31年5月頃のトキワ荘二階の漫画家たちの上から見た部屋のふかん図と赤塚さんの部屋の様子から映画『トキワ荘の青春』をみたくなった。<トキワ荘>というのは、東京都豊島区にあった漫画家たちが住んだアパートである。映画『喜劇役者たち 九八(クーパー)とゲイブル』(瀬川昌治監督、井上ひさし原作、愛川欣也とタモリコンビ)のポスターがあり、こんな映画もあったのかとしばしながめる。

 

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昭和幻灯館」は、小さな灯りのジオラマである。そこで売っていたスターのプロマイドの中に十二代目團十郎さんのプロマイドがあった。新之助さんか海老蔵さん時代であろう。お若い。

青梅の街はそのほか、古い建物やお寺もあり、青梅鉄道公園なるものもあるので、人によって楽しみかたがまだまだありそうである。

青梅駅から東青梅駅に移動し、「吹上しょうぶ公園」で多種類のしょうぶの花をめで、塩船観音寺にむかう。

 

 

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裏からの道でなかなか風情ある道も通った。

 

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塩船観音寺はツツジで有名なお寺であるが、時節がらアジサイであった。仁王門も風格があり、十一面千手観本菩薩も拝観でき、本堂の右側がアジサイ園ということでアジサイを見つつお寺の裏側にまわり、登って上から本堂をながめると、一面まあるく刈り込まれたツツジの緑色の玉が見事であった。これは、ツツジの時期は混みそうである。

 

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帰りは、塩船観音寺前からバスで川辺駅にむかう。このバス、土日は一時間に一本か二本である。

映画『トキワ荘の青春

この映画以前見始めたが気分が乘らずやめてしまったことがある。今回は、じっくり味わえた。

漫画家の寺田ヒロオさんが主人公で、手塚治虫さんがトキワ荘を去ってから、この寺田さんが、つぎつぎ引っ越してくる若き漫画家のリーダーとして均衡をとっていくのである。寺田さんはマンガの絵をみるとこの人だったのかとわかる。赤塚不二夫さんも重要な位置をしめ、記念館でみた、机が買えないのでマンガ本を支えに板を置きその一方を窓の敷居にくぎで打ち付けて固定させ机にしていた。その板がなにかの拍子にとんでもないことになり、赤塚さんらしい場面もある。

売れなくて悲喜こもごもの葛藤の時代であろうが、市川準監督はあくまでも真摯に漫画に向かう青年たちを寺田さんの心棒に合わせ、静かにふっと暗転にしてすすませる。それがかえって効果的である。次第に世の中に認められ、認められる漫画を模索する方向へといき、そうした中で寺田さんは、自分の漫画を捨てることを拒みつつトキワ荘を去って行き、トキワ荘の青春時代の映画は閉じられる。

当時の写真や昭和歌謡曲を入れつつ、そのなかでひたすら時代の寵児となっていく以前の若き漫画家の姿を、商業主義の編集者のつきまとう動きで明暗を色づけしながら、本木雅弘さん演じる寺田さんを通して映像で語る市川準監督である。寺田さんが黙ってバットを振る空気の振動音が言葉よりも深い。現在の個性派俳優さんが多数でていて押さえた演技も見ものであり、子供達を喜ばせていた漫画がその読者層の年齢をあげていく過程をみているようでもあった。

青梅はやはり映画好きを刺激してくれる街であった。

監督・市川準/脚本・市川準、鈴木秀行、森川幸治

出演/寺田ヒロオ(本木雅弘)寺田の兄(時任三郎)赤塚不二夫(大森嘉之)安孫子素雄(鈴木卓爾)藤本弘(阿部サダヲ)藤本の母(桃井かおり)石森章太郎(さとうこうじ)石森の姉(阿部聡子)手塚治虫(北村想)森安直哉(古田新太)鈴木伸一(生瀬勝久)水野英子(松梨智子)つのだじろう(翁華栄)つげ義春(土屋良太)棚下照生(柳ユーレイ)、学童社関係(原一夫、向井潤一、広岡由里子)娼婦(内田春菊)、編集者(きたろう)

 

 

映画『怪談』(2)

怪談』(1965年)監督・小林正樹/原作・小泉八雲/脚本・水木洋子/撮影・瀬川浩/音楽・武満徹

黒髪」 京で武士の夫婦(三国連太郎、新珠三千代)が貧しいながらも仲睦まじく暮らしていたが、夫のほうが貧しさにいやけがさし、遠い任地に一人でいってしまい、新しい妻(渡辺美佐子)をめとる。しかし、新しい妻はわがままで、武士はかつての妻が恋しく、京にもどりかつての住まいをたづねる。妻は夫を優しくむかえ二人は一夜をともにすごす。朝になってみると、妻の黒髪は白髪で、骸骨となっていた。館も朽ちはて、夫はそのおぞましさに恐怖で顔がどんどんやつれはて館をころげまわるように逃げだす。

『今昔物語』の第三部霊鬼のなかに「死んだ妻とただの一夜逢う話」としてのっている。

雪女」 若い巳之吉(仲代達矢)は年寄りの茂作と山の中で吹雪にあう。逃げ込んだ山小屋に美しい女があらわれ茂作を殺してしまう。女はだれにも話さないようにとつげ消えてしまう。巳之助は旅の美しい女と出逢い母(望月優子)とともに暮らし、母なきあとも子供たちと家族で幸せな日々を過ごす。ある夜、ふっと女房に雪女のことを話してしまう。女房は雪女で巳之吉が約束をやぶったため去ってしまう。

武蔵の国の調布村に雪女の伝説が伝えられ、青梅市の調布橋には『雪女の碑」がたてられている。

耳無芳一の話」 ある寺に盲目の琵琶法師・芳一(中村賀津雄)がいた。ある夜、甲冑姿の男(丹波哲郎)が、高貴なお方のために「平家物語」を語れと言われその屋敷につれていかれる。そこには、建礼門院(村松英子)、尼(夏川静江)など平家の亡霊が鎮座していて、毎夜、毎夜、芳一は語りつづけ次第に昼は眠るといった生活に、寺の住職(志村喬)は心配し、副住職(友竹正則)と寺男(田中邦衛、花沢徳衛)たちに芳一の後をつけさせる。芳一は平家の墓の前で一心に壇の浦の合戦を語っていた。住職は、平家の亡霊から救うため、体中にお経を書くが、耳だけわすれてしまったため、芳一は耳をちぎられてしまう。命の助かった芳一は耳無芳一として琵琶法師としての名声をえる。

義経(林与一)、弁慶(近藤洋介)、知盛(北村和夫)、貴人(中谷一郎)、教経(中村敦夫)そのほか、大勢の新劇団員が壇の浦の合戦の船上場面や、平家の人々として出演していた。

茶碗の中」 ある家臣の関内(中村翫右衛門)が主人の年始廻りの際、喉が渇き用意されていた水をのもうとして茶碗をみると、茶碗の水に人(仲谷昇)の不気味な笑い顔がうつる。ふしんに想い二度目、三度目と茶碗をかえるが人の顔がうかぶ。三度目に関内はかまわずに水をのんでしまう。それから関内は、関内にしか見えない亡霊に悩まされ乱心となる。この話しを書き留めていた作家(滝沢修)を版元(中村鴈治郎)が訪ねてくる。妻(杉村春子)が夫はどこへもでかけていないがとふっと水瓶をみると夫の顔がその水瓶にうつっている。妻も版元も恐怖のあまり叫び声をあげる。

宮口精二、佐藤慶、神山繁、田崎潤、天野英世、奈良岡朋子

「人生には理屈ぬきで怖いと思う瞬間がある。それでいいではないかという頭書がついている。まさに怪談とはそういうものである。しかし、我々の周囲には他人の魂をのんでヌケヌケと暮らしている人間がうようよいる。それも現代の怪談といえるのではないか。」(小林正樹)

怪談』(2007年)監督・中田秀夫/原作・三遊亭圓朝「真景累ヶ淵」/脚本・奥寺佐渡子/撮影・林淳一郎

深見新吉(尾上菊之助)、豊志賀(黒木瞳)、豊志賀の妹・お園(木村多江)、お久(井上真央)、お累(麻生久美子)、お賤(瀬戸朝香)、深見新左衛門(榎木孝明)、皆川宗悦(六平直政)、三蔵(津川雅彦)、講釈師(一龍齋貞水)

『真景累ヶ淵』は因縁話で、最後に謎解きのように登場人物の因果関係があかされる話しである。この映画を見たあとで、桂歌丸さんの『真景累ヶ淵』のDVD1から7巻までをみて聴いた。この話しの全容がわかり、この映画がそぎ落としていった部分もわかった。

一龍齋貞水さんの講釈を挟みつつ、深見新左衛門があんまの宗悦からお金を借りる。その取り立てにきた宗悦を新左衛門は殺してしまう。時はたち、宗悦の姉娘・豊志賀は、富本節の師匠で人気があり弟子も多い。そんな豊志賀に新左衛門の次男である新吉が惚れてしまう。新吉は叔父に世話になりつつきざみたばこを売ってあるいている。

豊志賀と新吉は深い仲となるが、豊志賀のほうが、新吉なしではいられなくなり弟子も減り、三味線のバチで傷した頬が化膿してひどい顔になってしまう。豊志賀は新吉へのおもいをのこし自害する。そこからそのおもいは、新吉に惚れる女性たちにのりうつり、新吉が殺すことになってしまう。

新吉と一緒に羽生村の叔父・三蔵を訪ねるお久。新吉と結婚する三蔵の娘お累。三蔵の囲い者であるお賤。ついには三蔵を殺し、新吉は追われる身となる。豊志賀の妹のお園が新吉を助けようとするが、豊志賀は新吉を死の世界に奪い取り、新吉の首を抱き微笑むのだある。新吉もまた幸せそうな顔をして微笑んでいる。

二回ほどドッキリさせられた。そのタイミングはさすがである。ただ、ラストでは、どうせ新吉を死の世界につれていくのなら、女たちを殺すこともなかったであろうに、さっさと連れて行けばよかったのにとおもってしまった。新吉は豊志賀への想いよりも、怖くて豊志賀から逃げたいという気持ちがあったのでこらしめられたわけであるが、女性達がお気の毒であった。

最後に妹のお園に見せつけるようなかたちととれて、本質はここなのであろうかと、すっきりしないかたちで終わった。因縁話がうすめられてしまった感もある。

『文学』に中田秀夫監督の文もある。『累ヶ淵』は中田監督が敬愛する中川信夫監督も撮られ、溝口健二監督も無声映画で撮られている。溝口監督のは残っていないが、淀川長治さんが大傑作といわれたらしい。中川信夫監督は『東海道四谷怪談』があったからこそ映画で飯を食ってこられたといわれたように、中田監督も自分も映画を生業としていられるのも、円朝のような天才の怪談物のおかげであるとされている。

壮大な怪談が「日本の高音多湿な夏と相まって、落語も、歌舞伎も映画も夏は納涼で怪談物が定着したおかげである。」

八雲さんも、日本に土着している怪談物の日本人の楽しみかたを紹介したわけである。八雲さんの怪談を書きものの文学としてとらえて映像化したのが小林正樹監督の『怪談』であり、江戸時代から人々の生活のなかにあった怖い『怪談』を映像化したのが中田秀夫監督につながる怪談映画のながれの一つということであろう。

中川信夫監督の『東海道四谷怪談』が怖いらしいが、まだみていない。

『真景累ヶ淵』(岩波文庫)では、近頃怪談話はすたれてしまったとはじまる。「幽霊というものは無い、全く神経病だということになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。」

明治の西洋、西洋の掛け声に圓朝さんは一席投じたくなったようである。

 

 

映画『怪談』(1)

『怪談』と題名の映画二本についてである。

1965年、小林正樹監督で原作が小泉八雲の『怪談』の中から「黒髪」「雪女」「耳無芳一の話」「茶碗の中」の四つをそれぞれ短編で撮り『怪談』としているオムニバス形式である。

もう一つは、2007年、中田秀夫監督で原作が三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』である。中田秀夫監督といえば『リング』の監督ということで、これまた縁のないはずであった。ここまで怪談ものをみたのなら尾上菊之助さん出演であるし、『真景累ヶ淵』は歌舞伎とも縁が深いので、うわぁー!とおどろかされるのを覚悟してみた。

その結果、最終的に小泉八雲さんと三遊亭圓朝さんが結びついた。

ちかごろ図書館に、どうぞ自由にお持ちくださいと <リサイクル図書> がおかれている。図書館で保存しておく期間が図書種類によってきまりがあるらしく、それがすぎると <リサイクル図書> としてどなたでもどうぞということらしい。次から次、新書も入ってくるわけで、保存する場所の問題も生じるからであろう。古い書物は図書館で探そうとおもっていると、近くの図書館では、そうした利用のしかたは無理になってきているようである。

その <リサイクル図書> のなかに、雑誌『文学』の2013年3、4月号「特集=三遊亭圓朝」があった。読みやすそうなところをよんでいると次の文がでてきた。

「三遊亭円朝を初めてヨーロッパに紹介したのがラフカディオ・ハーンだということはよく知られているようである。」(マティルデ・マストランジェ)

紹介をしたきっかけが1892年に歌舞伎座で上演された『怪異談牡丹灯籠』で、ハーンさんも芝居をみて、「菊五郎のおかげで、またひとつ新しい恐怖の楽しみ方を知ることができた」と紹介したのである。

ところが、セツ夫人によると、ハーンさんは歌舞伎を見ていないといわれ、そのことをうけて、マストランジェさんは興味深いと書かれている。

面白いことである。歌舞伎で評判となったことで、円朝さんというひとの怪談話は今もこういうかたちで皆さんを楽しませているんですよということを伝えたかったのであろうか。八雲さんは、たくさんの怪談を発掘して書物で紹介したが、芝居などのかたちで楽しむことを怪談の楽しみ方としてより楽しいのだがという気持ちがあったように思えた。

とするなら、映画でとりあげられることは、もし八雲さんが知ったらどんなものになるのかとワクワクされたに違いない。

『怪談』(1965年)にかんしては、日本映画黄金時代の<にんじんクラブ>~三大女優~    で、この映画が赤字で「にんじんクラブ」が倒産したこと紹介したが、「仲代達矢が語る 日本映画黄金時代」(春日太一著)でもそのことにふれていた。仲代さんたち役者もスタッフもノーギャラで頑張ったようである。

さらにカンヌ国際映画祭に出品するが、事務局からながいということで、「雪女」がカットされる。岸恵子さんは、フランスに住んで居たため、いろいろ下準備をして駆けまわってくれていたが、その岸恵子さんの出ていた「雪女」を小林監督はカットしたのである。この映画祭で、『怪談』は審査員特別賞を受賞する。岸さんの胸の内は複雑であったことであろう。

DVDの特典の説明では、『雪女』は1969年ロンドン映画祭短編部門で受賞とある。この一作品だけでも世に認められたわけである。『怪談』の中での怖さからいうと「雪女」がその怖さが薄く美しくおわっている。小林監督がカットした気持ちもわかる。

さらにエピソードとして「黒髪」で、三国連太郎さんが、足の骨に届くようなトゲをさされたそうである。これは、みていてケガをしなかったのであろうかと思うほどの古く朽ちた廃屋での逃げまどう演技である。さもありなんである。

京都宇治にあった大倉庫を借り切っての撮影で、自動車メーカーの倉庫で車を走らすテストコースもあるような広さの倉庫だそうである。かつては飛行機の格納庫だったようで、ふつうの撮影所ではできないような大きなセットだったわけで、それだけでもお金がかかったことがわかる。「雪女」の雪に埋もれた家。「耳無芳一の話」の壇の浦の源平合戦や芳一が連れられて行く平家の亡霊たちの館のセットは幽玄な巨大さである。

「黒髪」の中の市の店の場面があるが、それが奈良の円成寺の境内の中の風景に似ている。ロケをされたか、小林監督は寺社などの知識も豊富なかたなので、もしかするとセットにつくられたのかもしれない。

「茶碗の中」の茶碗も陶芸家のかたに木ノ葉天目茶碗の一種をつくってもらい、小道具にいたるまで手をつくしている。こういう中で撮影できるということは、役者さんもスタッフさんも大変さはあったであろうが、もう体験できない贅沢な時間だったともいえる。

その時代その時代を踏みしめて、映画はつくられていくわけである。

 

歌舞伎座6月「新中納言知盛」「いがみの権太」「源九郎狐」

6月の歌舞伎座は三部制である。8月の三部制はあるが、他の月では初めての経験である。5月の観劇のときほかの観客のかたが、「実質の値上げですよね。」「交通費をかんがえると出費がふえて。」という会話がきこえてきた。実際のところそうである。

なぜ三部制にしたかというと、『義経千本桜』の登場人物の印象を強めたかったようである。歌舞伎座にいくと、三つ折りのチラシができていた。

【第一部】新中納言知盛  碇とともに身を投げる豪快にして悲壮な武将  【第二部】いがみの権太  放蕩の限りを尽くすいがみと呼ばれた無法者 【第三部】源九郎狐  親への情愛一心に鼓と旅する狐の子

新中納言知盛は染五郎さん。いがみの権太は幸四郎さん。源九郎狐は猿之助さん。三人の役者さんを前面にだして『義経千本桜』の三本柱として浮彫にしようということなのであろう。その試みはうまくいったとおもう。一人一人が印象づけられた。しかし、スペクタルな濃厚な味にかけ、腹八文目の健康献立であった。脂分をとりおとされ、形よくさらに盛り付けされたかんじである。その点では観るものは楽をさせてもらったことになる。

もうひとつ感じたことは、自分の見方が、相対評価と絶対評価にわけて観るシステムができているということである。相対評価というのは、ほかの役者さんと比較して観劇していて、絶対評価はその役者さん自身の流れで観劇しているということである。

古典芸能となれば、続いているものであるから、長く観劇をつづけていると、相対的になるのが宿命である。

たとえば、知盛であれば、わたしが最初によいとおもってみた知盛は吉右衛門さんの知盛である。当然、染五郎さんに吉右衛門さんの脳裏の映像で期待する。前半はよい。ところが、平家一門の今、六道のくるしみは、父清盛の非道のゆえかと嘆き安徳帝を義経に託すその心の流れがうすいのである。生きのこって亡霊と思わせてまで義経を討とうとする激しさ。これがずしんとほしかった。

主馬小金吾にかんしては、今の錦之助さんが信二郎時代の小金吾が美しい動きであった。それに比較すると、松也さんの動きの切れがもうひと押しである。

よいとおもったとき、感動したときは実際にはそれほどではなかったのかもしれない。その観たものは増幅されて記憶にのこっているだけかもしれないが、先に感動させたもの勝ちのところがあり、次の人々はそれを打ち破らなくてはならない。

では、猿之助さんの源九郎狐はどうか。動きもいい。身体全部で表現している。あきさせない。菊五郎さんが演じられたとき、年齢も高く動きも猿之助さんにはかなわないのであるが、狐の親にたいする情は、菊五郎さんのほうが伝わったのである。猿之助さんは、狐の言葉としてセリフを工夫している。そこをつきつめすぎて、聞きづらく肝心のところでジーンとこないのである。

絶対評価。すし屋での弥助が維盛になるところの染五郎さんである。これは今までみたことのない変化の面白さである。弥左衛門の錦吾さんにまずと手を差し上げられ、上段にあがってくるっと正面をむくと高貴の維盛である。空気が動く。

猿之助さんの渡海屋の女房お柳から大物浦の典侍の局へのかえし。この役は猿之助さんで観ていない気がする。早変わりに忙しいかただから、こうしてゆっくりと演じるのは新鮮味がある。初お目見えの市川右近さんの子・武田タケルくんのお安と安徳帝がきちんと姿勢をたもちがんばった。猿之助さんとタケルくんコンビが平家の悲哀をひきうけた。

門之助さんの義経が大きく存在感が増し、笑也さんの静御前が、義経に代わって狐忠信の正体を詮索するという心構えがしっかりしていた。猿弥さんは、逸見藤太役さらに手中でころがしている。

いがみの権太の幸四郎さんは相対的にも絶対的にも、前半はゆすりたかりのいがみを納得させる展開をみせられる。これは、『不知火検校』でのお市役をこなしての型のあるいがみの権太に重ねあわせてつくられた感がある。いがみの権太の愛嬌や花道での足さばきなどで権太をうまくつくりあげられた。女房小せんの秀太郎さんとの息もあってどうしてこうなったかのくだりの流れがよい。

終盤の父親に刺されてからも、周囲の役者さんがそろい考えもしなかった悲劇へとつなげてくれる。三人の人物ではやはり一番印象に残った。

知盛には悲劇的勇壮さを、狐忠信には情をもうすこし色づけしてほしかった。今回は逸見藤太からも推奨される染五郎さんと猿之助さんコンビは、屋根の上の染五郎さんの竜馬と亀治郎さんのおりょうが焼き付いているが、さらに新たなコンビを楽しませてもらった。

そして「染五郎さんの知盛もいいですね。」「いやあ楽しかった。上ばっかり見ていて首が痛くなった。」と言われて宙乗りを楽しまれたかたがたがいたことも付け加えておく。

こちらは、さらに来月の相対評価と絶対評価が、どう面白く表れてくれるかをはや期待している。

 

 

 

『四谷怪談』関連映画 (1)

怪談映画は観ないほうなのであるが、木下恵介監督の『新釈 四谷怪談』<前篇・後編>を観たところ、鶴屋南北さんのとは登場人物の名がおなじでも、設定がちがいそのあたりが面白かったので、その後6本ばかり観てしまった。

怪談ものとあって、おどろおどろした映像には閉口したが、伊右衛門、お岩、お袖、直助、与茂七、宅悦、伊藤喜左衛門にあたる人物が商人だったりして、人物構成の相違などに頭がいき、お岩さんの怖さなど薄れてしまった。

『新釈 四谷怪談』(1949年)監督・木下恵介/脚本・久板栄二郎、新藤兼人

伊右衛門が上原謙さんで、お岩の田中絹代さんが妹のお袖の二役である。『愛染かつら』コンビが、四谷怪談である。上原謙さんの伊右衛門は悪になりきれず、迷いに迷う伊右衛門で最後は毒を飲んで死んでしまう。田中絹代さんのお岩は、かつて茶屋女で武士の妻として努めるが、仕官できない伊右衛門につらくあたられ、ついにはむなしい最後となる。顔の傷は、伊右衛門に行水をさせるための熱湯で火傷をし、火傷にきく薬と渡されたのが悪化させる薬であった。妹のお袖の田中絹代さんは、姉の死に不審におもい、岡っ引きの親分に調べてもらうというしっかりした妹である。

お袖の夫の与茂七が宇野重吉さんで、この二人がお岩の死をきちんと弔うこととなる。直助は、滝沢修さんで、しっかり伊右衛門をあやつる悪人である。お槙が杉村春子さんで、まわりを新劇俳優でかため演技力もたのしめる。江戸時代の怪談でありながら、近代人の人物描写も伝わってきて、木下監督らしい解釈の四谷怪談である。

『四谷怪談』(1959年) 監督・三隅研二/脚本・八尋不二

長谷川一夫さんが伊右衛門である。ファンへの配慮はおこたらない。御家人の役付きも賄賂を使っての世界で、そんなことまでして役付きになどなりたいとは思わない伊右衛門である。直助の高松英郎さんや仲間内にはかられての展開とし、最後はそれらの悪人を切り倒し、仏堂で岩に謝っての死となる。さらにお袖がくれた岩の美しい着物がどこからともなくふわっと飛んで来て伊右衛門を包み込むのである。美しい大スター好みを裏切らない終わり方としている。お岩は中田康子さんである。

『四谷怪談 お岩の亡霊』(1969年)監督・森一生/原作・鶴屋南北/脚本・直居欣哉

原作・鶴屋南北といれている。<お岩の亡霊>とつけ加えているのは、佐藤慶さんの伊右衛門が根っからの悪人だからであろう。岩の父は殺すし、札差伊勢谷の娘梅を悪漢から助けてやるがはじめから段取りをして悪漢をやとってのやらせである。

自分には能力があり、士官さえすれば実力を発揮できるとする自己顕示欲の強い伊右衛門である。そんな伊右衛門であるからお岩が邪魔であるとはっきりおもっていて沢村宗之助さんの宅悦にお岩に言い寄るように命令する。沢村宗之助さんは時代劇の悪役のうまい役者さんでこの宅悦もなかなか味がある。

お岩の稲野和子さんは蚊帳で生爪をはがすが、この場面は観た映画の中でこの映画だけであった。その傷の薬を買ってお岩に渡し喜ばせ、そのあとで、毒薬を飲ませる伊右衛門である。最後に伊右衛門、「首がとんでも動いてみせる」のセリフをはく。

先ごろ亡くなられた、演出家名でお客さまを呼べた蜷川幸雄さんの監督映画を二本。舞台でも『四谷怪談』を演出されているが観ていない。

『魔性の夏 四谷怪談・より』(1981年) 監督・蜷川幸雄/原作・鶴屋南北/脚本・内田栄一

伊右衛門が萩原健一さん、岩が高橋恵子さん、袖が夏目雅子さん、与茂七が勝野洋さん、直助が石橋蓮司さん、宅悦が小倉一郎さん、梅が森下愛子さんで、若者たちの「四谷怪談」という印象である。

筋としては鶴屋南北に近いが、どこか現代風の感覚である。かたき討ちなどする気のないくせに、かたき討ちには金がかかるという伊右衛門の言葉が結構きいている。かたき討ちのためには情報がひつようである。情報をえるためには動きまわらなくてはならない。たしかにお金が必要である。全体の発想としては、それほど過激ではない。他の注目点では伊右衛門と岩と梅が歌舞伎を観にいく。演目が「かさね」で、役者さんは市川左團次さんと先代の嵐芳三郎さんであった。

『嗤う伊右衛門』(2003年)監督・蜷川幸雄/原作・京極夏彦/脚本・筒井ともみ

原作が京極夏彦さんの『嗤う伊右衛門』で、鶴屋南北さんの原作や他の書物をからめあわせて作品化しているので発想の基盤が異色である。まず、岩が、伊右衛門と会うまえから顔に疱瘡のあとがある。じつは疱瘡のあとではなく父の思惑から薬をのまされてのことである。

お岩の小雪さんが顔の醜い右と美しい左を見せ、さらに正面をみすえて、心は凛としているさまをあらわす。しかしそれを支えているのは、民谷家の武家の総領としての自分の立場である。ところが、お岩のすべてをみとめてくれる夫があらわれる。それが、唐沢寿明さんの伊右衛門で、民谷家に養子に入り岩の夫となる。それをあっせんするのが、又一の香川照之さんで、この又一が世間のしくみに精通している。ようするに情報をもっている。しかし乞食同然である。

幸せになるはずのお岩さんは、父の上役の伊藤喜左衛門の椎名桔平さんによって伊右衛門と別れるようにしむけられる。お岩さんの民谷家をまもる意地を利用されてしまう。この映画では伊藤喜左衛門が悪の権化である。つらぬいているのは岩と伊右衛門の愛の物語である。伊右衛門は岩を殺し、蚊帳の中の長持ちの上に座り、笑ったことのない伊右衛門がはじめて笑い、喜左衛門を切るのである。「首が飛んでも動いてみせるわ」のセリフをいうのは喜左衛門である。後に長持ちをあけてみると、岩と伊右衛門の亡骸が寄り添って横たわっている。周囲には幸せそうな二人の笑い声が響いている。

おどろおどろしい映像ではなく、もう少しすっきりした美しい映像にしてほしかった。こういうときは、原作を読んで、あらたに映像を自分で作りなおすしかない。どれも耐え忍ぶお岩さんだが、事実を知って怒りを爆発させる小雪さんのお岩。すべてのお岩さんの怒り、くやしさを一気に吐き出している感がある。

『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994年) 監督・深作欣二/脚本・古田求、深作欣二

この映画は、発想が飛んでいる。そしてテンポが深作監督ならではのリズムである。忠臣蔵でよく知られた面々が登場し人数も多いが、それぞれの役どころを抑え配置して、俳優さんの個性もいかしている。浅野家の家臣となって日の浅い佐藤浩市さんの伊右衛門を内匠頭の切腹の場に位置させ、伊右衛門が義士のひとりでありながら、脱落していく過程をわかりやすくしている。

岩は、湯屋で娼婦をしているが、その登場場面の高岡早紀さんの笑顔がなんともあいらしい無垢さである。このお岩さん、伊右衛門に裏切られるが吉良家の侍に殺されることもあって、死んだあとは、雪女のように雪を噴き上げ赤穂の義士たちに加勢する。この映画は見直しであるが、発想の面白さに再度ひきこまれた。琵琶も効果的である。

伊右衛門とお岩さんは、幽霊になって赤穂浪士の本懐をとげた姿をみとどけ、ふたり仲睦まじく死後の世界を歩み始めるのである。最終的にはラブストーリーとしている。出会ったときの二人である。

喰女ークイメー』(2014年)監督・三池崇史/原作・脚本・山岸きくみ(『誰にもあげない』)

『四谷怪談』の舞台稽古と重ねて、その芝居の伊右衛門役の市川海老蔵さんと、お岩役の柴咲コウさんとの関係を描いている。『四谷怪談』同様、海老蔵さんが柴咲さんを裏切り、柴咲さんが海老蔵さんの首を自分だけのものとするという話である。

発想は面白いが、舞台稽古が暗く、スローテンポで退屈してしまった。おもわせぶりがながすぎる。こういう部類の映画はテンポが必要である。残念である。

好んで選ばない映画をみてしまったが、今後、ほかに『四谷怪談』系の映画がみつかれば観るであろう。

 

2017年2月20日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

前進座 『東海道四谷怪談』(2)

その後は『四谷怪談』どうなるのか。砂村隠亡掘りで、釣りにきた伊右衛門と直助がであう。直助は薬うりであったのが今はうなぎとりとなっている。そこで、非人となった伊藤家のお弓と召使のおまきとも遭遇するが、ふたりとも堀に落ち無惨な最後となる。

お岩と小仏小平(こぼとけこへい)の死骸が裏表に打ち付けられた戸板が流れてくる。小平も塩谷家につながるもので病の主人を助けるためにと伊右衛門から薬をぬすみ責め殺され、あげくのはては、お岩と不義密通者として戸板にうちつけられ流されたのである。

戸板に死骸を打ち付け流すというこれまた猟奇的な場面であるが、これは実際にあったことで、南北さんはこのほかにも実際の事件から集めとりこんでいる。当時の人々は、そういう情報も混ぜあわせつつ、これはあのことだと思わず「待ってました」と声をかけたかもしれない。

「深川三角屋敷の場」。伊右衛門とお岩の流れと、もう一つ、直助とお袖の流れがどうなるのか。直助とお袖は一緒に暮らしている。お袖は、夫与茂七の仇をとるまではと見せかけの夫婦として暮らしている。

この場でもお岩の幽霊は登場する。直助がうなぎとりとなりお袖は古着を洗う内職をしている。そのことが、お岩と小平の着ていた着物が古着やに渡り、それを洗って古着屋が店に出すというながれの途中でお袖のもとに流れてくるのである。そして直助によってお岩の櫛もお袖のところに流れつく。上手いながれで、お岩がここで出現できる設定もつくられている。洗い物のたらいからお岩の手がのび、直助が隠亡掘りでかきあげたお岩の櫛を取りあげたり、かえしたりするのである。ここは怖いというより可笑しさがある。直助の矢之輔さんの役の幅がひかる。

お袖は、直助に仇討ちのためとあれこれ言いよられついに身をゆるしてしまう。そこへ与茂七があらわれる。

お袖は知らずとはいえ二夫に交えたことから、直助と与茂七に殺されるようにしむけ死をえらぶ。死ぬまぎわお袖が直助に渡したへそのをの書き置きで、お袖は直助の実の妹であり、さらに自分が殺したのはのは主人の息子であったことを知る。畜生にもおとると直助は自刃してしまう。直助とお袖のほうは、自分で命をたつのである。ここに「深川三角屋敷の場」の伊右衛門とお岩とは違う直助とお袖のもう一つの層ができあがる。抜擢の若い臣弥さん期待に答える。

そして、もうひとつが与茂七によって義士の層が重なる。与茂七の菊之丞さん、義士の雰囲気をかもしだし、三角屋敷の場は終わる。

伊右衛門が隠れ住んでいる蛇山庵室の最終の場になるのであるが、そのまえに<夢の場>がある。ここは美しい場面からはじまり、気分をかえてくれる。この場は原作を変え演出上の工夫である。七夕に出会う伊右衛門と美しい娘。しかし抱いた娘は、お岩の骸骨であった。

この場の一瞬が、お岩のはかない夢の一瞬ともうつる。國太郎さんと芳三郎さんコンビが浮き彫りとなり、芳三郎さんの時としてかげりのある伊右衛門像に反映される。

伊右衛門の最後。お岩の亡霊と捕手とに囲まれ、与茂七と小平の女房お花によって伊右衛門はとどめをさされる。四谷の仇討ちはたされるのである。

創立85周年は、歌舞伎の『東海道四谷怪談』と決めていたのであろうか。第三世代を中心にして歌舞伎演目を上演してきた。前進座の劇場を閉じ、落ち着いて舞台に専念できる状況とはいえないなかで、ここまでに至ったということは喜ばしいことである。

梅之助さんは亡き人となられてしまったが、次の世代への手渡しを確信されていたことと思う。責任をはたされた。

パンフレットの整理の途中で、どういうわけかその一山の一番うえに、前進座公演の『法然と親鸞』のパンフレットがありそのままになっていた。『東海道四谷怪談』を観劇したあとにそれが目にはいった。中村梅之助さんが法然で嵐圭史さんが親鸞である。私のなかでの梅之助さんの最後の主役は、この作品ということになる。

『東海道四谷怪談』のパンフレットに黒柳徹子さんの「なつかしい前進座」という一文が載っている。その中に『巷談本牧亭』『天保の戯れ絵ー歌川国芳』『面倒な客』の上演名がある。歌舞伎以外にも、前進座で観たい舞台はたくさんありそうである。前に進むこれからの舞台にも期待したい。

原作・鶴屋南北/脚本・小野文隆/演出・中橋耕史/出演・河原崎國太郎(お岩、小仏小平、おもん、お花)、嵐芳三郎(民谷伊右衛門)、藤川矢之輔(直助権兵衛)、忠村臣弥(お袖)、瀬川菊之丞(佐藤与茂七)、武井茂(四谷左門)、柳生啓介(按摩宅悦)、松涛喜八郎(伊藤喜兵衛)、山崎辰三郎(お弓)、早瀬栄之丞(お槇)、本村祐樹(お梅)、姉川新之輔(伊右衛門母お熊)、益城宏(秋山長兵衛)、清雁寺繁盛(関口官蔵)、寺田昌樹(中間伴助)、渡会元之(奥田庄三郎)、中嶋宏太郎(利倉屋)

 

前進座 『東海道四谷怪談』(1)

前進座 創立85周年記念 中村梅之助追悼 5月国立劇場公演

今回の前進座公演『東海道四谷怪談』には「深川三角屋敷の場」もはいっている。この場面が入ると入らないでは、『東海道四谷怪談』の厚みが違ってくる。

<東海道>がどうして前につくのか、東海道を歩くものとしては気になり、あれこれ考えてしまった。<東海道>は赤穂浪士の<義士に至る道>である。赤穂城を明け渡し、仇討をきめ、江戸へ義士としてはいるための道である。<四谷怪談>のほうは、江戸にありながら、義士たちから外れたものたちのはなしである。

鶴屋南北(四世)さんは、市井の人々のなかで実際に起こった事件を組み込みながら、義士を表とするなら裏を面白くみせる芝居を考えたとおもわれる。それも怪談という、まさしく裏街道のはなしである。四谷には四谷大木戸があったがこれは東海道ではなく、甲州街道と青梅街道につながっていて東海道からずれている。青梅とお梅。これまた面白い。お梅にほれられて、伊右衛門の方向性が全く変わってしまうのである。考えすぎであるが。お岩の父が四谷左門であるから、そのあたりともいえる。色々詮索したくなる南北作品である。

『東海道四谷怪談』は初演の時、忠臣蔵が一番目の狂言でありそのことがわかっていて南北さんは、忠臣蔵に関連づけてかかれたのが定説のようである。なんにせよ、臨機応変の南北さんである。

前進座にとっては、三回目の上演で、34年ぶりである。河原崎國太郎さんがお岩で、嵐芳三郎さんが民谷伊右衛門を受け持つ。おふたりは前進座第三世代の中心である。そして、「深川三角屋敷の場」を、藤川矢之輔さんが直助権兵衛、忠村臣弥さんがお袖、客演の瀬川菊之丞さんが佐藤与茂七である。

伊右衛門は、お岩とお袖の父であり自分の舅でもある四谷左門を殺す。直助はお袖の夫の与茂七を殺し、自分たちが仇をとるとお岩と妹のお袖をそれぞれの家に連れて行く。この時の上手の伊右衛門と下手の直助の悪人としての姿がはっきりと描かれ次への足掛かりとなった。じつは与茂七と思って殺したのが人違いであったが、顔の皮をはがしわからなくしてしまい、与茂七とおもわせるあたりも猟奇的悪をつよめる。

四谷左衛門と与茂七は赤穂浪人で与茂七は塩谷判官のかたき討ちに参加している。その二人が亡くなったわけで、お岩とお袖は親と夫の仇をとってくれるという伊右衛門と直助を頼るしかない。ここに、ウソの仇討ちができあがる。伊右衛門も直助ももとは塩谷家につながるものたちなのである。そこを断ち切る。<仇討ち>という表と裏がチラチラと見え隠れである。

お岩は子供を産み産後がおもわしくない。そんなお岩が伊右衛門はうっとうしくなっている。そこへ、隣の伊藤家から出産のお祝いと、産後にきく薬をお岩においていく。お岩に言われ伊右衛門は伊藤家にお礼にいく。

薬を飲んだお岩は顔をおさえ苦しみもだえる。伊藤家は孫娘のお梅が伊右衛門に一目惚れしてお梅を輿入れさせるためお岩に毒をわたしたのである。

ここからお岩の醜い顔となり髪の毛が抜ける場面であるが、照明が暗くわかりずらい場面であるが、今回照明があかるく一つ一つの動作がみやすく、変貌のさまがわかった。國太郎さんのお岩はやつれてはいるが美しく、伊藤家が伊右衛門のお岩に対する気持ちを絶つために考えた陰謀のねらい目が納得できた。

ただ、柱に刺さった刀にお岩が誤って首を刺し亡くなる場面は明るすぎてしどころが見えすぎてしまうのでここまではすこそづつ照明を暗くしたほうが意外性がでるであろう。

伊藤家の狙いは見事功を奏した。伊右衛門は、お岩をみかぎり質いれにと蚊帳まで持ち出してしまう。江戸での蚊帳は生活環境から必需品である。それも幼子にとっては。蚊帳まで持ち出す伊右衛門は、その非情性を増幅させる。南北さんかためていく。

伊右衛門は、伊藤家のおかげで塩谷家にとって仇の師直への仕官の道もひらけ、お梅と祝言の運びとなるが、お岩の亡霊によって、お梅もその祖父をも殺してしまう。お岩の反逆がさく裂する。

『四谷怪談』の映画のポスターなどは、この殺しの場面の伊右衛門の顔とお岩の顔が大写しとなり<怪談幽霊映画>のイメージをアピールしていた。それだけで観たい観客と観たくない観客にわかれた。観たくない観客にはいるが、今回は数種観させてもらった。

 

旧東海道・舞坂宿・新居宿・白須賀宿から二川宿(2)

旧東海道にもどり新居宿を通り国道1号にぶつかり西に曲がると、源頼朝が茶の湯につかったといわれる<風炉の井>。国道1号から旧東海道にはいると、室町将軍・足利義教(あしかがよしのり)が紅葉をめでたといわれる<紅葉寺跡>。

さらに西に進むと元町(元宿)である。ここに白須賀宿があったのであるが、1707年(309年まえ)の地震による大津波により潮見坂の上に白須賀宿は移されるのである。

潮見坂>は西国から江戸への道程で、初めて太平洋と富士山がみえる景勝地とされている。大海原はみえたが富士山はみえなかった。

潮見坂の上に無料休憩所をかねた展示館「おんやど白須賀」がある。ここで昼食である。

食事処がないので、朝、駅弁を買ってリュックにいれてきた。普通の幕の内の駅弁である。深く考えもせず、リュックにたてに入れたのに弁当の中身がずれていなかった。途中、駅弁のことなど気にもかけずゆさゆさと歩いてきたのに、横にして持ち歩いたようにそのままの状態であった。日本の駅弁を見直してしまった。

おんやど白須賀」の展示室にある和紙でつくられた、潮見坂をいきかう旅人を配置したジオラマに感心した。旅人は小さいのであるがさらに細かいところまでよく表現されていて、男性の旅人のかぶっている手ぬぐいのかぶりかたが全部違えてあったりする。あれあれなどと次々と発見があった。

歌舞伎の写真もあった。説明によると地元のかたがたでの公演のようであるが、「忠臣蔵外伝 東海道白須賀宿の場」とある。

元禄8年に浅野内匠頭と吉良上野介が白須賀宿の本陣に宿泊したという史実より白須賀を舞台にした脚本を「湖西歌舞伎保存会」と市川升十郎氏により書かれたとある。「赤穂の塩」「吉良の塩」「潮見坂」と塩づくめでまとめられ、白須賀に関する人物や名物もでてくるとのこと。

内容は「時は元禄13年、白須賀本陣に浅野内匠頭が宿泊、吉良上野介は参勤交代の途上急に腰痛になり白須賀に泊まることに、そこで塩づくりの秘伝を聞く良い機会と浅野を訪ねたが話は・・・・」で、その後、潮見坂を早飛脚が通り江戸城での刃傷が知れ渡るということらしい。

原因として塩が関係していたということを聞いたことがあるが、それと白須賀を組み合わせたようで、地元ならではの脚本化である。

ゆっくり食事、休憩をさせてもらい歩きはじめると潮見坂公園跡がある。徳川家康がここに茶室を作り、武田勝頼を破って尾張に帰る織田信長をもてなしたということである。明治天皇も行幸のさいここで休憩されている。海のみえる位置にテーブルとベンチがあり、休憩地としては最適である。そばに中学校があり、何かのときは避難所となるのであろう。

本陣や脇本陣はのこってはいないが、道の両側に火防樹のマキがのこっている。津波をさけるため坂の上に移ったが、冬の西風で火事の回数が多く、火事の広がるのをくいとめるために土塁の上に植えられる。昔はどこの宿場でも植えられていたようで、静岡でのこっているのはここだけである。静岡県には53宿のうち22宿あり、そのなかでのこっているのであるから希少価値である。

いろいろな災害を経験し、それを防ぐ方法を江戸時代のひとびとも一生懸命考えたのである。

わたしたちも無事坂をこえることができほっとしたのであるが、境川の境橋をこえ三河国の豊橋にはいり二川宿で押せ押せの行程となった。

交通の便のない白須賀宿が頭にあり、二川宿は小さい宿場なので簡単に考えていたが、江戸時代は小さくても現代のみどころとなると違ってくるのである。

二川宿 < 本陣・旅館・商家の3か所を見学できる日本唯一の宿場町 > とある。

商家「駒屋」に寄り、カフェもあるので一服とおもったら、次の本陣のほうが大きくて見る時間がかかると教えられる。5時までなので見学をして一服はやめる。米ジュースとやらが呑みたかった。商家は主屋があり奥に奥座敷がありさらに奥に土蔵があり奥へ奥へと進み最後に蔵があるという細長いつくりである。

二川宿資料館には、本陣と旅籠屋「清明屋」が移築され、さらに資料館もありたっぷりと江戸を味わうことができる。二川宿も1707年と1854年の大地震には大きな被害があり、その間4回の大火にみまわれている。1863年には14代将軍家茂が上洛のため、1865年には長州征伐のためこの二川宿で休憩している。江戸幕府の終焉のあしおとも聞いていたわけである。

関所、旅籠、商家、東海道のもろもろのことに興味があるなら、JR東海道線の新居町駅と二川駅で下車して見学すると歩かないで江戸時代の旅をおもいえがけるであろう。ワークシートがそれぞれあって、関所、高札に書かれていること、江戸時代の旅の心得、宿場の人口、本陣の数、旅籠の数などきちんと整理されている。

軽くみていた二川宿で、小気味よく押さえこまれてしまった。

 

旧東海道・舞坂宿・新居宿・白須賀宿(1)

江戸より30番目の舞坂宿から新居宿そして白須賀宿と続く。白須賀宿は、江戸時代前からの地震のあとを残している。熊本地震の前に歩いたのでその時は、遠い昔の地震のこととの印象があったが、熊本地震後は、日本の地下活動と地上の時間間隔が重なりあう時期ということを強く実感することとなった。

JR東海道線の舞坂駅から南に松並木があり旧東海道にでる。見付け、常夜灯、一里塚跡をすぎると「旧脇本陣の茗荷屋」が復元されて見学できる。

実際には、旧東海道歩き3日目の雨の日にJR高塚駅から舞坂宿を通り浜名湖の国道1号を歩きJR新居駅までとしたのである。国道1号を歩くため、地図をみる回数が少なくてすむからである。雨の日地図を見つつ歩くのは大変である。

旧脇本陣茗荷屋」に着いたときは、ポンチョに雨のしずくがたまっていた。脇本陣としては旧東海道でただひとつ残されていたもので、書院棟を解体、修理して復元したものである。舞坂の本陣二つは跡だけの標識である。係りの女性のかたが、浜名湖の今切(いまぎれ)のことを説明してくれた。

浜名湖は湖の南側が陸つながりだったのである。1499年(517年まえ)の大地震でその陸の部分が切れ、淡水湖だった浜名湖に海水が流れこむ。そして、江戸時代に整備され新居宿までは船で渡ることとなる。船がないので私たちは国道1号線をあるくわけである。浜名湖は風が強いが今日はおだやかだといわれる。なんとか傘をさせる状態なので助かる。

湖岸には当時の船着き場「北雁木跡(きたがんぎ)」の石碑がある。雁木というのは階段状になっている船着き場のことで、舞坂宿には3つの渡船場があり、「北雁木」は大名や幕府役人用、真ん中は「本雁木」とよばれ旅人用、南は荷物の積み下ろしに使ったとある。

赤い弁天橋をわたると道は国道1号線に合流し車道とは分れた歩道があるので雨の中でも歩きやすい。湖の南をみると今切口がみえる。浜名バイパスの浜名大橋がかかり切れたところの橋脚がしっかりと太くなっている。JR弁天島駅のまえを通過しそこからJR新居町駅までで終了し食事とする。

新居町駅から新居宿、そして白須賀宿は路線バスがなくなっているので二川宿まで一日で行けるように、晴れる2日目をあてた。

新居宿は船着き場に新居関所がある。今切関所とも呼ばれていたようである。徳川家康が天下統一をしたのが1600年である。新居に関所がつくられたのも1600年(416年まえ)で、その後地震や津波で移転をくりかえし、現在の位置に落ち着いたのは1708年(308年まえ)で、1854年(160年まえ)に大地震があり1855年から5年かけて建て替えられた関所が現在ものこっている建物である。解体修理され全国でただひとつのこっている関所である。渡船場跡も再建され、新居関所資料館もある。

さらに、近くには紀州藩の御用宿で一般客も利用した「紀伊國屋」も資料館として公開しており、見どころが多い。この建物は明治に火事で焼失し江戸後期の旅籠の様式をのこして建て替えられ昭和30年代に廃業する。「旅籠紀伊國屋」をでるとき係りのかたが、この建物の裏を少しいくともうひとつ古い建物があるので無料ですから時間があったらみていってくださいといわれる。

元芸者置屋「小松楼」(小松楼まちづくり交流館)。ここがまたおもしろかった。新居関所は、明治でお役目ごめんであり、そのあと小学校や役場として使われる。この南側にあたる地域は明治末から昭和初期まで歓楽街としてにぎわっていた。芸者置屋兼小料理屋をしをしていた「小松楼」が残って空き家だったのを、有志がはたらきかけ国の有形文化財に指定され公開にいたったのである。

ふすまの下張りにお客の勘定書きなどが貼られていて、この地域の人たちがそれをみて、遊び人だと聞いていたがやはりそうだったのかと、縁続きのひとの名を証拠としてみつけたりするそうである。ここのご主人の商売人としての顔は、芸者さんがお客の座敷にはいる北側の廊下にあった。そこは表とは違う少しささくれだったすき間のある廊下であった。客にみえるところとみえないところの差がはっきりしていた。こんなに差があるのをみるのは初めてである。

長唄の師匠をしていたご主人もいて、その娘さんが、長唄の本を切りとり、住まいの部屋のふすまにおもしろく張りつけてあった。老松の唄などもある。当時の芸者さんたちの写真もあった。戦後は数年下宿屋としてもつかわれたらしい。

江戸から明治、大正、昭和と時代の変化に対応してきた新居宿の歴史が想像できる。

旧東海道の話しから、「小松楼まちづくり交流館」の係りのかたが、本を引き出しからだして見せてくれる。静岡県の東海道のマップ「さすが静岡東海道」で、パソコンで検索していて見つけたマップである。静岡県の観光課でだしていてそれを頼まれてつくられたかたであった。本になっているとは知らず、マップをダウンロードして使わせてもらっていた。それも三島から白須賀まであるのを知らず、小夜の中山峠から使わせてもっらていたが残念ながら白須賀でお終いである。本は品切れだそうである。

時々歩かれて、直したい箇所があるといわれる。わたしたちも、箱根から三島への工事中でとぎれていた旧東海道が気になっていたが、あれは三島大橋の工事で三島大橋ができてなくなってしまったとのこと。近頃旅の広告で目にする観光名所である。そうかあの巨大なコンクリートの柱は三島大橋につづくためだったのである。もうあそこは国道を歩くしかないのである。

旧東海道を歩く人の数はしれているし、経済効果はうすいですからね。

「小松楼」を残すためにも尽力され、新居宿が充実しているのは、こうした人々の隠れた力があってこそである。今書きつつ、税金のがれをするお金持ちや、公費と私費の区別のない人たちのあさましさをフッーとふきとばす。

すすめてくれた「旅籠紀伊國屋」の係りのひとにもお礼を言って白須賀宿にむかう。

DVD『江戸ゆかりの家の芸 坂東三津五郎』

3月以来、歌舞伎について書き込みをしていない。3月の書き込みも中途半端である。なぜか。

それは『金閣寺』にある。この前に観た『金閣寺』が、2015年1月 歌舞伎座1月 『金閣寺』  である。雪姫が七之助さん、松永大膳が染五郎さん。、此下東吉が勘九郎さんである。今年の3月が、雪姫が雀右衛門さん、松永大膳が幸四郎さん、此下東吉が仁左衛門さんである。前者と後者では、芝居の厚みと深さが違うのである。後者を観て、こんなに違いがでてしまうのかと唖然とさせられた。

後者の厚みと深さを表す言葉がみつからなく、歌舞伎の書き込みができなかったのである。

その後も楽しく拝見はさせてもらっているが、そこから回復していない。そんな時、芸の真髄シリーズの『江戸ゆかりの家の芸 坂東三津五郎』のDVDを観たのである。十代目三津五郎さんの踊りで、最初の『楠公(なんこう)』の武張った踊りの形の美しさにくぎ付けになってしまった。素踊りで体の線がはっきりしている。

楠正成と息子・正行の別れと、後半は正成の湊川での足利軍との合戦の様子である。踊りでありながら、芝居の型の一つ一つを見ているような流れである。初めて観る踊りで、最後に三津五郎さんのインタビューがあり、この企画ために初めて踊られたとのこと。今まで身体に蓄積されていたものが、あらためて一つ一つ構築されてできあがった身体表現の美しさにスカッとした気分にさせられた。三津五郎さん56歳の時である。

型にはめられてはめられて、そこから出てくる<気>であり<芸>である。

『大江戸両国花火』、三津五郎さんの振り付けで、武蔵と下総に両国橋が架けられての川開きの花火の様子で、雰囲気がよく映し出されていた。

『流星』『喜撰』は洒脱な踊りでお家芸として得意とするものである。『流星』は、やっと会えた牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)の前に流星が現れ、同じ長屋に住む雷夫婦の喧嘩の様子を面白おかしく知らせるのである。この流星は悦に入って四役をこなして踊りで説明するが、牽牛と織女にとっては邪魔をしてるだけのようで最後にその可笑しさも加わった。

『喜撰』は、先ごろ歌舞伎シネマでもみていたが、DVDのお梶は菊之助さんである。

牽牛は巳之助さんで織女が尾上右近さんで、今月の歌舞伎座がよみがえる。今月の夜の部最後が「男女道成寺(めおとどうじょうじ)」である。白拍子花子が菊之助さんで、白拍子桜子が海老蔵さんという娘二人道成寺の部分もあり、玉三郎さんと菊之助さんの『京鹿子娘二人道成寺』のDVDも見直してしまった。

夜の部の最初の演目『勢獅子音羽籠』では、菊之助さんのお子さんの寺嶋和史くんが、初お目見得である。ものすごく恥ずかしがりやのようで、それでいて舞台に立つのは嬉しいようである。今は僕これしかできないよと菊之助さんに抱かれて手をふる素の和史くんも、これから少しずつ型の世界に入っていくのであろう。

若手は若手で頑張っているなと思う反面、先輩たちのを観ると落差を感じることは、これからも遭遇することと思う。DVDで所化の役者さんの短いセリフの声でも、今のほうがトーンがよくなっているなと感じられるということは、時間が解決していってくれるということである。