映画『父ありき』と箱根石仏群

映画『TOMORROW/明日』(黒木和雄監督)に小津安二郎監督の映画『父ありき』が挿入されている。結婚する花嫁は、病院に勤めている。結婚式といえども、戦時下である。皆が座ってまだかまだかと待っているのになかなか帰って来ない。結婚式に同席する同僚とともに走って帰ってくる。待っているほうは、とにかく空襲警報の鳴らないうちに終わらせたいのである。何とか写真も撮り終わる。

花嫁の同僚の一人が、もう一人の同僚に映画を観に行こうと誘うが、誘われたほうはそれどころではない。妊娠しており、相手と連絡がとれず困惑しており帰ってしまう。彼女は一人で映画を観るのである。

その映画が『父ありき』である。息子が父のお葬式を済ませた後、東京から妻と二人で秋田に帰る車中である。息子はしみじみと良い父であったと語る。妻は涙する。息子は、妻の父と弟を秋田に呼んで一緒に暮らそうと提案する。妻は喜んで笑顔を見せる。若い夫婦の会話とその妻の笑顔のほんの少しの部分である。息子は、幼くして母を亡くし父に育てられるが、父と一緒に暮らす年月も短かった。一緒に暮らしたいとの願いも虚しく父は亡くなってしまい、妻も母がいないので、義理の父と弟と賑やかに暮らしたいと思うのである。その思いを乗せた列車の去りゆく場面で映画は終わる。

父ありき』公開が1942年で、当然検閲を受けている。いま残っているものは、当時の映画をかなりカットされていて、音声も悪い。そのため、辻褄の合わないところもある。黒木監督は、敬愛する小津監督の作品を挿入したかったのであろうか。さらに、作品の内容に挿入したい意味があったのか、その辺が知りたくて観なおしたが、わからなかった。『父ありき』は戦争中とは思えないおだやかさで、父が息子の将来のために学業に専念できる環境を作ってやり、そのために父子離れ離れに暮らし、父が息子を思う心情と、息子が父を慕う心情を細やかに表している。

この細やかな父子の交流は、戦争高揚にとっては、不要のものかも知れないが、一応は検閲を通ったわけである。もしかすると、この息子の不安な気持ちが、精神状態の不安定だった中学生時代の黒木監督の想いと重なっているのかもしれない。

父親役は笠智衆さんで、中学の教師をしているが、修学旅行で生徒を事故死させてしまう。それが、箱根の芦ノ湖である。生徒が禁止しているボートに乗り転覆事故で亡くなってしまうのである。教師は自分がもっと強く注意していたらと後悔し教師をやめてしまう。そこから父子別々の生活となる。

修学旅行の場面で、箱根の曽我兄弟のお墓が映ったのである。箱根登山バスのⒽ路線の国道1号線に<曽我兄弟の墓停留所>があり、バスの中からもそのお墓が見えて、いつか降りたいと思っていたのであるが、先週、そこの一区間を降りて歩いたのである。映画のなかの中学生は、どこから歩き始めたのか~箱根の山は天下の嶮~と歌いつつそこを歩いているのである。三つ五輪塔があり、二つは十郎と五郎で、少し離れた三つ目は虎御前のものと言われている。

箱根湯本からバスで元箱根港へ行き成川美術館により食事をしバスで<六道地蔵停留所>まで。降りると<石仏群と歴史館>がありそばに精進池が出現した。この池はバスからは見えなかったので驚きであった。そこで、地蔵信仰の石仏群があることを知る。

 

<石仏群と歴史観>でのパネル

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<六道地蔵>から<曽我兄弟の墓>のバス停一区間の左右に石仏があり、国道の下に地下道があり、歩けるようになっていたのである。<八百比丘尼の墓>。八百歳の長寿を得た伝説上の女性のお墓である。友人が言うに人魚を食べて長寿を得てあちこちにでてくるとのこと。「『陰陽師』に出てきた小泉今日子。」「天皇に頼まれて亡き親王が出現したら鎮める役目か。そういえば食べてた。この伝説からきているのか。」

3体の地蔵菩薩の磨崖仏の<応長地蔵>。地下道をくぐって<六道地蔵>。大きい。磨崖仏であるが、きちんとお堂で覆われている。岩とお堂とが上手く合わさっている。磨崖仏の地蔵菩薩坐像としては、国内最大級。ちょっとの寄り道が凄い手応えに。地下道を戻って進むと<多田満仲の墓>のこれまた大きな塔。平安時代に活躍した源氏の祖先とか。さらに進むと<二十五菩薩>で岩盤に幾つもの菩薩が彫られている。地下道があり、反対側にも<二十五菩薩>。

 

<六道地蔵>

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<多田満仲の墓>

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<二十五菩薩>

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最後が、<曽我兄弟と虎御前の墓>である。国道を進んだら、お墓の前に降りられない。細い道があったらしいのでもどってお墓へ。

 

<曽我兄弟と虎御前の墓>

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涼しげな着物姿のご婦人と息子さんらしいかたがおられた。後で友人が「浅見光彦とそのお母さん!」とそく思ったそうである。そこまで思わなかったが、暑い中で、すがすがしい感じであった。友人は、頭の中で、吹き出しも作っていたらしい。「箱根六道殺人事件」ができるかもしれない。死体は二十五菩薩の上で、どうやってあそこに運んだのか。

作家の内田康夫さんは病気のため、新聞に連載中の『孤道』が終了してしまった。熊野に行った仲間と回し読みしていたので残念である。療養され、お元気にならて執筆活動が再開されることを願うばかりである。

箱根の石仏群は二子山の石で、非常に硬く、西国からの石工の技術によって加工できるようになり、箱根の石畳もこの二子山の石が使われた。現在では、<旧街道石畳バス停>付近(白水坂付近)の石畳が江戸時代の二子山の石らしい。

しかし、バス停一区間であるが、箱根の地蔵信仰の人々の想いが伝わる場所である。暑かったが箱根の自然の良さが加えられたひと時であった。

そして思う。『父ありき』では、父は息子を男手で一人前にし、満足して息をひきとるのである。『TOMORROW/明日』は、あってはならない死である。父は教師として事故死というあってはならない死の責任をとり教師という仕事をやめるが、教師の道を選んだ息子には、しっかりと責任ある仕事であることを伝えるのである。

戦時中この父の様に順序立てて説得のできる大人は多くはなかったであろう。そうした中で誠実に語る父は、子供にとって信頼できる人であった。息子が子供の頃と大人になってから、同じ川で父子並んで釣りをするが、その釣竿の動かしかたがかつても今も同じペースで、父子の信頼関係は変っていないのである。

監督・小津安二郎/脚本・池田忠雄、柳井隆雄、小津安二郎/撮影・厚田雄春/音楽・彩木暁一/出演・笠智衆、佐野周二、津田晴彦、佐分利信、坂本武、水戸光子、

小津監督の絵、富士山も曽我兄弟のお墓もお城の石垣も有無を言わせない撮り方です。構図がきっちり決まっている。見ながら背筋を正してしまった。

 

映画『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』

岩波ホールの企画『戦争レクイエム』<戦後70年特別企画 黒木和雄監督4作品+α>のおかげで、観ていなかった『TOMOURROW/明日』と『美しい夏キリシマ』を観ることが出来た。

『紙屋悦子の青春』を観たあとに、『私の戦争』(黒木和雄著)を読んだが上手く頭に入りきらない部分があったが、『TOMOURROW/明日』、『美しいキリシマ』、『父と暮らせば』を観てから読み返すと岩波ジュニア新書版ということもあって、映像と監督の思いが重なって嬉しいほど想像力が加速する。

『TOMOURROW/明日』(1988年)は長崎に原爆か投下された1945年8月9日午前11時12分の24時間前の結婚式に出席した人々の日常が描かれ、その24時間と同時にそこまでつながっていた人々の命が一瞬にして、この世から消えてしまったということである。それぞれの生きてきた道が、光と共に消失してしまう。結婚し、これから、お互いの気持ちが解かり合えると予感させる新婚夫婦。8月9日にやっとこの世に誕生した小さな生命。まだ誕生していないが、そのことを相手に伝えられない女性。毎日、路面電車の運転手の夫にお弁当を届ける妻。赤紙の来た恋人同士。捕虜収容所に勤務する青年。結婚式の写真を撮った花婿のもと父親。その写真に写された人々が写真と共に消えてしまう。長崎弁が、日本という国にそれぞれ存在している生活のなかの言語を主張する。

この写真に写っていた人々を代表者として、生きていた証として黒木監督は映画を撮られたのであろう。物言わぬ人々への鎮魂の一つの形であり、それを観たことによって、鎮魂の一つとして隅のほうに位置できればよいのであるが。

「1945年7月16日、人類史上最初のプラト二ウム爆弾の実験がアメリカのニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で行われたました。7月23日には、広島、小倉(現北九州市)、新潟の順で攻撃目標が選定され、準備が整い次第、気象条件さえ許せば、8月1日以降いつでも攻撃できるということになったのです。」

4番目として京都が候補にあがるが古都ということで、軍需産業の街長崎となる。その日、第1目標が小倉、第2目標が長崎。小倉上空は断続的に雲でおおわれ、2日前の八幡製鉄所を爆撃した硝煙がながれ目視爆撃ができなかった。目標を長崎にかえる。雲の切れ間に三菱長崎兵器製作所をとらえ投下。長崎には、連合軍捕虜が500人収容されていた。アメリカはそれも承知していた。(『私の戦争』より)

 

原作・井上光晴(「明日ー1945年8月8日・長崎」)/監督・黒木和雄/脚本・黒木和雄、井上正子、竹内銃一郎/撮影・鈴木達雄/音楽・村松禎三/出演・桃井かおり、南果歩、仙道敦子、大熊敏志、黒田アーサー、佐野史郎、岡野進一郎、長門裕之、殿山泰司、草野大悟、絵沢馬萌子、水島かおり、森永ひとみ、伊佐山ひろ子、なべおさみ、入江若葉、横山道代、馬淵晴子、原田芳雄、二木てるみ、田中邦衛、賀原夏子、荒木道子

 

『美しい夏キリシマ』(2002年)。題名のようにキリシマの自然は美しい。しかし、霧島連山が邪魔をして沖縄を隠しているとして、孤児になった沖縄の少女は引き取られた遠い親戚の屋根に登って、霧島連山の見えない先を見ようとしている。

この作品は黒木和雄監督の自伝のような映画でもある。黒木監督は満州国からの引き上げ者で、満州国という日本の後押しで作られた国を子供の目から実際に見ている。日本へ帰ってから、登校拒否児の形となり映画ばかり観て、家族と別れ、宮崎県えびの市の祖父母のもとで生活する。国民勤労動員令により、都城市の航空機の工場に動員され寮生活を送る。1945年5月8日米軍機の爆撃で級友が11人なくなってしまう。その時、友人を救うことをしないで逃げてしまった。

「頭が、ざっくりと真ん中割れて、脳漿があふれてくる瞬間を見たような気がします。両手を私のほうにさしのべて、「たすけてくれ・・・・」というようなしぐさをします。眼は空をみつめて放心して・・・・。ただただ恐怖のあまり、私は立ち上がるやいなや、後ずさりすると、そのまま夢中で走り出しました。」

この後この中学生は、学校にいくことができず、いまでいえば、PTSD(心的外傷ストレス)で医師の診断は肺浸潤ということで、家でぶらぶらすることとなる。祖父が、地主で女中さんがいるような、中学生にとっては違和感のある家であった。

この、ぶらぶらした中学生が見た終戦までの自分の周辺の人々の「美しい夏キリシマ」の生活である。どう生きればよいかわからない中学生の主人公を、柄本佑さんが、演技しているのかしていないのか、主人公そのままの中学生として、映像の中に存在している。助けなかった級友の妹が、屋根の上の少女で、彼女にどうしたら兄を見捨てた自分を許してくれるか尋ねると、妹は「敵をとって」という。主人公は、敗戦となり、ジープとともにゆっくり美しい村の道を歩く米兵に竹槍で一人突き進むのであるが、相手にされず道路から下に転がされてしまい笑われてしまう。主人公は叫ぶ「殺せ」と。米兵は、ライフルを上に向けて撃つ。その時、主人公に見えていた蝶が撃ち殺されてしまう。

霧島連山を望む田の稲は青々と優しく風になびいている。

この村にも敗戦までの夏、生きるために人々には様々なことがある。自分自身さえ支えられない主人公は、キリストの絵を自分の部屋に張り、回答を求めているようでもあるが、人の質問にも、そうとは思わないという能動的な回答しかできない。現実の捉え方ができないので、憲兵にも、解からなとしか答えられず鉄拳をうける。主人公だけでなく大人もどう捉えたらよいのかわからない状態だったのである。

 

監督・黒木和雄/松田正隆、黒木和雄/撮影・田村正毅/音楽・松村禎三/出演・江本佑、原田芳雄、左時枝、牧瀬里穂、宮下順子、平岩紙、石田えり、小田エリカ、倉貫匡広、中島ひろ子、寺島進、入江若葉、香川照之

 

黒木監督はドキュメンタリーやPR映画を撮っていて、劇映画の撮影所には入ったことがない 。

「ああ、劇映画というのは誰でも撮れるのだ。文法というのはあまり必要ないのだ。多くの映画を観て、自分が撮りたいものを撮ろうとすれば劇映画はなんとか、できあがるものだ。何も撮影所にはいって巨匠について学ばなくても、劇映画のイロハ、ABCを現場で覚えなくても映画館こそが学校ではなかったのか」

そう思わせたのが、ジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』とアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』である。映画監督となった黒木監督は自分の仕事で亡くなった級友たちの代弁をされ、生き残った者と戦争の犠牲となって亡くなられた人々との交信を映画という媒介を通して教えてくれている。

さらに黒木監督には、撮りたいものがあった。

「じつは私は25年以前から、28歳10カ月戦病死した天才映画山中貞雄を主人公にし、山中の戦友で脚本家の三村伸太郎との友情と確執を描いた企画をあたため続けています。」

残念ながら撮る時間が黒木監督には残されていなかった。

『僕のいる街』は、1989年に撮られた短編である。銀座の空襲で一人だけ亡くなった泰明小学校の少年が、幽霊として現れ、戦争をはさんでの前、中、後、現代の銀座の路地などを歩き走り周るのである。映像と写真の中を。銀座という街が通過した時間がわかる。

長野の棚田、姨捨(おばすて)に行ってきた。青々とした田が観たかったのである。太陽の日を受けて緑が美しかった。美しさと暑さが比例していた。この青さを眼にしたかったのだから仕方がないが、暑さのため棚田は一時間弱しか歩けなかった。映画のキリシマの稲と信州の稲の色が重なる。

 

 

旧東海道・沼津宿~原宿

沼津は旧東海道歩き前に訪れている。目的地は御用邸記念公園、沼津港魚市場、千本公園である。さらに旧東海道を歩いてた友人と再度訪れ散策した。

旧東海道。街道の左右のお寺それぞれに一里塚。沼津に向かって右手に玉井寺(ぎょくせいじ)。こちらにあるのが玉井寺一里塚。左手に宝池寺(ほうちじ)で宝池寺一里塚。写真は宝池寺一里塚。この一対を伏見一里塚というのだそうだ。

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八幡神社の奥に源頼朝と義経が腰かけたという対面石

治承4年(1180)10月に平家軍が富士川の辺りまで進軍してきたので頼朝は鎌倉から出陣しここに陣をかまえる。そこへ義経が奥州からかけつけこの地で感涙の対面。この時頼朝が食べようとした柿が渋柿だったためねじってかたわらにすてたところ後に二本の柿の木が成長した。二本の柿の木は幹をからませねじりあっていたので土地の人はねじり柿と呼ぶようになった。

史実の正確さはわかりませんが凄い場所です。写真左奥の石のそばの二本の木がねじれていたので一応ねじれ柿としておきますがどういうことか。二人の仲がねじれてしまったことを意味するのか。心は離れることなく複雑につながっていたということか。

それぞれの石の下とまわりが面白い。長方形の石と丸い石。何か意味があるのかな。

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亀鶴伝説の潮音寺

子のない長者が観世音菩薩に祈り女の子に恵まれる。名前を亀鶴とつけ美しく成長するが両親は早くに亡くなる。頼朝に召されて応じなかったとか工藤祐経に召され曽我兄弟の敵討ちの後入水したなどの伝説が残っている。

道は旧国道1号線と合流する。この先旧東海道は狩野川の土手に添う細い道に入るのであるがそのまま国道を歩いてしまい平作地蔵の祠を見ずに通り過ぎてしまう。なんたる失態。

平作地蔵の祠。文楽や歌舞伎で同じみの『伊賀越道中双六』の「沼津」「千本松原」での父親平作の地蔵尊がある。

「沼津」。平作は旅人の荷物運びをしていた。一人の客の荷物を運んでケガをした平作は客に手当てしてもらい客を自分の家に泊める。ところがこの客は平作の別れた実の息子であることがわかる。息子は娘の恋人のかたき討ちの相手の居場所を知っている人物でもあった。平作は切腹をして自分の命と引き換えに仇の居場所を息子から聞き出すのである。切腹の場面は「千本松原」である。

平作地蔵は平作の住まいのあったところとされている。

中央公園の中に沼津城本丸跡

戦国時代に武田勝頼が三枚橋城を築城。その後廃城となり江戸時代に沼津城として同じ位置に築城されたようである。明治に入って沼津兵学校として使い廃校。さらに二回の大火を受け堀も埋められ城は姿を消す。

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この先、御成橋、永代橋を左手に右方向に直角にまがって進む。城址近くだからであろうか面白い道筋である。沼津は城下町であったのかと印象が変わる。

間宮本陣跡。沼津宿の中心となる。

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駿河湾方向に進むと千本松原へと続くが旧東海道は永代橋を左手に右折する。

【 寄り道 】

千本浜公園

若山牧水歌碑

< 幾山河こえさりゆかば 寂しさのはてなむ国ぞ けふも旅ゆく >

牧水は宮崎県の生まれである。23歳のとき歌壇に認められる。大正9年(1920年)沼津に移住。千本松原に魅せられ近くに新居を構える。旅と自然に親しみ酒を愛した牧水は昭和3年(1928年)43歳で永眠。

この公園に『若山牧水記念館』もある。気持ちの好い空間である。

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若山牧水のお墓は永代橋のところで右に曲がって左手の乗運寺にある。素通りしましたが。

井上靖文学碑

< 千個の海のかけらが 千本の松の間に 挟まっていた 少年の日 私は毎日 それを一つずつ 食べて育った >

小説『夏草冬濤(なつくさふゆなみ)』に主人公・洪作が中学2年生のとき浜松中学から沼津中学に転向している。下宿先の伯母の家は三嶋大社の門前にありそこから一時間半かけて沼津中学に通っているそうである。

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千本松原

文楽、歌舞伎の「千本松原」の場面にぴったりである。

ここは戦国時代、武田軍と北条軍が激しい地上戦をしたらしい。

旧東海道沼津~原

途中から旧東海道は163号線に入る。そして右手にJR東海道本線。

31番目の松長一里塚跡碑

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片浜駅が右手に。東海道本線を渡り東海道本線は左に。

名僧といわれる白隠禅師ゆかりの松蔭寺

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白隠禅師誕生の地

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< 駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠 >

白隠禅師はこの地で生まれ15歳のとき松蔭寺で出家。19歳から32歳まで全国で修行行脚。33歳で松蔭寺の住職に。84歳で亡くなるまで全国を巡り禅宗の教えを広める。現地は母の生地で屋号味噌屋。その後父が分家し沢瀉屋を名乗った地跡地。

禅師が生まれたとき使用した「産湯の井戸」は今なお清水を湛えている。

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白隠禅師産湯井

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原宿渡邊本陣跡

南側に原駅

渡邊家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫で、代々平左衛門を名乗っていた。明治天皇の行在所でもあった。建坪235坪。

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原宿一里塚

東海道線がどんどん近づく。

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浅間愛鷹神社前に改称記念碑

この辺りは浮島ケ原と呼ばれ低湿地帯であった。開墾に貢献した二代目鈴木助兵衛の名をとり助兵衛新田と呼ばれていた。明治に入りスケベエはよくないと桃里に改称したらしい。

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浅間愛鷹神社の狛犬

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東田子の浦駅前で旧東海道は東海道線を南に渡り旧国道一号線となる。

田子の浦

< 田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける > (山部赤人)

富士は見えませんでした。

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原宿と吉原宿の間の間宿柏原本陣跡案内

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間宿柏原案内

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立圓寺

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増田平四郎の像・一里塚跡案内

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増田平四郎像

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増田平四郎の案内

天保の大飢饉と水害から村民を救うため浮島沼の大干拓を計画。代官所へ12回、勘定奉行に駕籠訴6度で計画発案から27年目に着工。明治2年現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成。人々は「スイホシ(水干)」と呼んだ。ところがその年の8月の高波で跡形もなく壊されてしまった。しかし彼の志はその後に受け継がれた。

不屈の精神です。それだけ災害は悲惨だったのでしょう。

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一里塚跡石碑

昭和放水路を渡ると一里塚。

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JR東海道線吉原駅まで。

『画鬼暁斎展』幕末明治のスター絵師と弟子コンドル

鹿鳴館の設計者であるジョサイア・コンドルと絵の師である河鍋暁斎のジョイント展覧会である。開催されている<三菱一号館美術館>はコンドルの設計したときの建物の解体後に再建されたレプリカである。

展覧会には、鹿鳴館の階段の一部が切り取られた形で展示されており、暁斎の<河竹黙阿弥作「漂流奇譚西洋劇」パリ劇場表掛りの場>の行灯絵があり、明治の一部分も見せてくれる。

河鍋暁斎さんのこと、そして、ジョサイア・コンドルさんとの関係を知ったのは  河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (1)  からである。

そのあと、埼玉県蕨市にある『河鍋暁斎美術館』も訪ねた。今回の展覧会は、師弟二人の作品が観れるわけである。

コンドルさんは建築家でもあるので設計された図もあるが、こちらの興味は絵と、日本舞踊家であった奥さんと踊られた時の『京人形』の時の写真などである。京人形の扮装のくめさんの指に三つほど指輪をしているのが面白い。コンドルさんも彫り師の扮装である。『鯉の図』の鯉の目を見て、金目鯛の目を思い出す。これは、谷崎潤一郎さんの『春琴抄』のことに関係するのであるが、後日書くこととする。暁斎さんの<鯉>の絵は口を開けていてその口の強調と詳細さ、水を動かして泳ぐ律動感ある水面の描き方などに惹きつけられるが、コンドルさんは、穏やかな絵である。

暁斎さんと旅を共にし師の絵を描く姿を描かれているが、絵も描書き方もスケッチということもあるのか、絵の中の暁斎さんも力の抜かれたもので、狂画師の趣きはない。

暁斎さんのほうは、才能のほとばしりが感じられ、展覧会での解説でもかつては評価が難しかったとある。美人画なら、美しく描けばそれで評価の高い作品となる腕があるし、そうした作品もある。ところが、それだけでは暁斎さんはあきたらない。美人の眺める先には沢山のカエルが描かれていたり、美人のそばに飾りものではない動物の姿が加わっていたりする。美しい太夫も『閻魔と地太夫図』となる。

鳥花図や自然の中の動物も、生きて行くための狩りや弱肉強食の世界がある。花が美しく咲き、うさぎがそれを愛でていると思ったらその下には蛇が頭を持ち上げて待ち構えている。鷲がゆうゆうとその雄姿を誇っていると思うと、その下では、猿が頭を抱えて震えている。赤い柿を狙う鴉。蛙を口に咥える猫。戸隠神社の中社の帰りに出会ったという生首を加えた狼の絵。

そうかと思うと、楽しい鳥獣戯画的作品がある。『風流蛙大合戦之図』『猪に乘る蛙』など。

さらに、『鷹匠と富士図』は、鷹を手に、富士を眺めている穏やかな鷹匠の後姿。子供が盥に入れた金魚と遊びその後ろで木に縛られた亀が何んとかして逃れようとしている絵。あらゆる感情を喚起してくれる絵の数々である。

コンドルさんは、噺家の圓朝さんの落語を書き起こしていたが、暁斎さんの幽霊の絵は『牡丹灯籠』の新三郎にまとわりつく幽霊のお露さんを見たという伴蔵の話しから想像する幽霊を思い出す。美しいのとは反対のあばら骨の見える恐ろしい姿である。こちらも『牡丹灯籠』は読み終わったのだが、新三郎の住んで居た根津の清水谷はどの辺りかと思っていたところ根津神社のすぐそばらしい。本に地図があったので、森鴎外さんの作品散歩の時、二つ合体で楽しむこととする。

鴎外さんが大正6年に総長となった帝室博物館の東京帝室博物館はコンドルさんの設計で、この時はまだ現存している。関東大震災で崩壊してしまう。この大正6年に竣工したのがコンドルさん設計の、古河虎之助邸で、現在の旧古河庭園にある洋館である。

暁斎さんもコンドルさんも多くの現物が失われているが、残されているもので今も、まだまだ楽しませてくれている。暁斎さんは観るたびに、どうしてこの作品からこの作品に飛ぶのかと、その腕と想像と創造力に呆れさせてもらっている。分類、分析などを超えたところに暁斎さんの楽しみ方があるように思う。

 

 

新橋演舞場 『もとの黙阿弥』

井上ひさしさん原作の『もとの黙阿弥』である。場所を強調するためか、小さく<浅草七軒町界隈>とある。浅草七軒町にある大和座という芝居小屋を軸に芝居は展開される。男爵の相続人と政商の娘の縁談がきまり、鹿鳴館の舞踏会で踊ることに取り決められていた。その西洋踊りの指導をすることになったのが、大和座の座長である。本人に相談もなく勝手に取り決められ、男爵の相続人・隆次は、書生の久松と入れ替わり相手をじっくり観察することにする。 政商の娘・お琴も同じことを考え、女中のお繁と入れ替わる。

同じ事を考えるわけで、これは相性が良いはずである。入れ替わった書生(愛之助)と女中(貫地谷しほり)は相思相愛となってしまう。このお二人苦労したことがないから、愛一筋である。一方、隆次(早乙女太一)とお琴(真飛聖)に入れ替わった二人にも恋が芽生えるが、お琴から女中のお繁に戻ることができなくなってしまうという、思いもしない結果が生じてしまうのである。

大和座の座長・飛鶴(波乃久里子)が、自分の現実がみじめすぎて、入れ替わった華やかさからもどれなくなったと説明する。では、そのみじめな現実に隆次とお琴は身を置くことができるのであろうか。

時は明治である。浅草七軒町周辺から、オペレッタが生まれ、隆次の姉で男爵未亡人(床嶋佳子)と飛鶴の演劇改良劇と黙阿弥先生の劇とが一騎打ちとなる。条件は、物を食べ、実は何々であった、取込みを入れるのが設定条件である。

庶民の生活から、大きな問題を提起するのが、井上ひさし戯作者の手である。ここがおざなりになっては、何の必要があったの、あの芝居の中の芝居場面となってしまうのである。

後半のこの部分が見ものである。演劇改良劇のリアルさの可笑しさと、歌舞伎を演じたことがない人々が演じる黙阿弥歌舞伎。歌舞伎役者が演じる、歌舞伎を演じたことのない人に成りきっての歌舞伎。それも、その身は男爵を引き継ぐ立場の若者である。このあたりの演じ分けは、愛之助さんの腕である。それを受けての貫地谷さんも恐れをしらぬお嬢様としての度胸がいい。

明治の価値観の混沌を上手く出していた。ただ、もうすこし泥臭さ、バタ臭さがあってもよかったと思う。周囲にもう少し色が欲しい。オペレッタ。座長と姉君との言葉による演劇論の対決など。周囲の人々の個性が薄い。原作者の役づけは用意周到であり台詞も多い。それに乗っているだけでは、原作者に押しつぶされてしまう。国事探偵さん(酒向芳)は儲け役であったが、お繁に匹敵する久松の生い立ちが上滑りで追跡の緊迫感からの可笑しみとまではいかなかった。

大きな劇場で通用する井上さんの戯曲であるが、一人一人の姿が霞み気味なのが残念である。しかし、ラストの照準は外さずしっかり合わせて見せてくれたのは見事である。実は ・・・

浅草七軒町というのは、現在の元浅草だそうで、都立白鴎高校のあたりであろうか。大和座は実際にあった小屋でモデルがあったわけである。新橋演舞場の場内には、花道の上に大和座と書かれた大きな提灯と、<もとの黙阿弥>と書かれたの舞台幕が迎えてくれる。

 

原作・井上ひさし/演出・栗山民也/出演・片岡愛之助、貫地谷しほり、早乙女太一、真飛聖、渡辺哲、床嶋佳子、浜中文一、大沢健、酒向芳、石原舞子、前田一世、浪乃久里子

8月1日~8月25日

 

 

映画 『父と暮せば』

原爆を主題とした映画の中で、多くの会話で構成されている映画が『父と暮せば』(2004年)である。井上ひさしさんの原作で舞台化され舞台のほうは観ている。これを映画にしたのが、黒木和雄監督である。

黒木監督は、『私の戦争』(岩波ジュニア新書)の本も出され、自分の戦争の体験と映画への想いを語られている。今、岩波ホールで黒木監督の戦争を題材とした映画が四作品と劇場初公開の短編が上映されている。そのチラシにも載せられているのが次の文である。

これは大事なことですが、私たちの現在の日常の中に「戦時下」のあの日々の姿が形を変えて、再び透けて見えてくるような危機感を私はいだきます。これが「昭和ひとけた世代」特有のとりこし苦労であることを願います。(「私の戦争」より)

 

黒木監督が映画化されたのは、舞台『父と暮せば』を観られ、海外でも公演されているが映画のほうがもっと多くの人々にこの作品を観てもらえると考えたからで、井上ひさしさんも自由に撮って下さいといわれている。

広島原爆から3年たち、1948年夏の火曜日から金曜日までの四日間の父と娘の交流である。実はこの父は広島原爆投下の日に亡くなっているので、幽霊ということになるが、途中で観客はそれに気がつく。なぜ幽霊なのか。戦争や大きな災害などを体験された方は、その現実を共有した人とではなければ、そのことを語ることが出来ないほどそれぞれの心に大きなものを抱えておられる。原爆病との闘いをしつつである。

娘は恋をするが、同じ原爆の体験をして亡くなった方達に、生き残ったことへの罪悪感や後ろめたさがあり、倖せになることを拒否してしまう。その娘の気持ちの解かる亡くなった父は、恋の応援団として登場し、娘の気持ちを全て話させるのである。

終戦から70年、話すことを拒まれてきた方々も、忘れられる戦争について、これではいけないのではと、思い出したくない気持ちを抑えられ話し始めておられる。

原爆投下から3年目の設定で、話し相手を父の幽霊としているのが、井上ひさしさんの被爆者されてこれから生きて行かれる方々への想いがある。

娘の恋する心から父は胴体が出来、手足が出来、心臓が出来て姿を現すのである。日常生活を共にしつつ、娘と父は語り合う。この会話は、井上ひさしさんが2年かけて調べ、被爆された方々の手記を読まれ、それらをもとにして組み立てられた言葉の数々である。舞台はその息遣いが伝わるが、映画は、その言葉が頭の中で、文字となってひと言ひと言が浮かぶ。

原爆の熱は、すぐ頭の上で太陽が二つあった熱さであり、爆風は音より速い。原爆かわら。熱さのためにかわらが溶けて毛羽立ってそれが冷えてトゲのように表面に残っている。水薬ビンが溶けてぐにゃぐにゃになりそれが冷え固まった形となっている。爆風でことごとく窓ガラスなどが割れ飛び散り人の身体に刺さったガラスの破片。これは、原爆記念館から借りて来られたのかと思わせるが、小道具係りの方が苦心して作られたもので、映像でみることにより想像を実感に近づける。

娘の恋人は、こうした品物や原爆の資料を収集し保存することの必要性を感じている。当時進駐軍の目が光り、図書館に勤務する娘は原爆の資料を集めることが、困難なことを知っている。

娘の恋人は岩手出身で、娘は民話の語り聞かせのボランティアを女専の学生時代からやっており、宮沢賢治が好きで特に詩が好きで、父に「星座めぐりの歌」を歌って父に聞かせる。父はエプロン劇場と称して一寸法師が、赤鬼のお腹の中で、原爆かわらでおろし器のようにお腹を傷つけ、人の身体に食い込んだガラスの破片で攻撃する。そして、自分で作った星の歌などを歌い、娘に様々の考え方のあることをそれとなく教える。

娘は、父との最後の別れから自分が生きて来た3年間を語り、父から、亡くなった者はその問題は解決済みで納得していることを語る。父の死後3年間、自分の生きてきた事を認めてもらい 娘は踏みだせるのかもしれない。

「おとったん、ありがとありました。」

広島弁が、何とも切なく、優しく、特別の響きがある。

娘の宮沢りえさんが、思いを込めて丁寧に丁寧に演じ、父の原田芳雄さんは、娘の細い美しい線を、いびつでもいい、太さが違ってもいいと介入していくところに父親の想いを込めている。恋人の浅野忠信さんの物静かさも、父と娘からの言葉で形作る人物像を浮き彫りにさせる。

美術監督が、木村威夫さんで、『紙屋悦子の青春』も木村さんであるが、台詞を邪魔せず、登場人物の位置関係の流れを生かす配置で、心も写す。

撮影/鈴木達夫、音楽/松村禎三

岩波ホール 8月1日~8月21日 <戦争レクイエム 黒木和雄監督>

『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮せば』『紙屋悦子の青春』 (18時30分上映は『ぼくのいる街』併映)

 

松竹歌舞伎 『河内山』『藤娘』『芝翫奴』

松竹歌舞伎の地方公演ということになる。幾組かの役者さんの組み合わせで地方を」回られているが、こちらのコースは、橋之助さんを中心に児太郎さん、国生さん、錦吾さん、秀調さん、友右衛門さん等である。

『河内山』。江戸の末期に無頼に生きた6人を六歌仙に準え、<天保六花撰>といい、講談から歌舞伎に取り上げその中心がお数寄屋坊主の河内山宗俊である。ユスリもなんのそので、悪を美しく描くのが歌舞伎であり、スカッと恰好良くなければならない。そろそろ橋之助さんに乗り移るのではと期待していたら、形となった。色気もあるし、大きさも出た。悪の妖しい凄みには少し弱いが、上々である。

質屋の上州屋の場面で娘を難儀から救おうとするが番頭に難癖をいわれ、じゃ、俺は降りるよというあたり、話が決まり花道で算段を思案して思いつくあたりがいい。花道がないので気の毒であったが充分観客を納得させた。ただ、肝心のもし失敗すれば命がないというところがあっさりして薄味であった。

朱の衣もよく似合い品もある。山吹の小判を所望し、それを確かめる仕草も、時を告げる時計の音にびっくりするあたりの崩しかたも崩し過ぎずに気持ちよく収めてくれた。玄関前での啖呵も楽しませてくれる。死と背中合わせ悪事の無頼さの光はこれからであろう。数馬の国男さんは若すぎで浪路の芝のぶさんとのバランスがとれていなかった。大膳の橋吾さんが頑張った。秀調さん、芝喜松さん、錦吾さん、友右衛門さんがツボを押さえられた。

『藤娘』の児太郎さんは踊り込んだとの印象である。身体をよく使って覚え込んだ身体であると思って観ていたら、左右中央と挨拶をされる。観客に媚びづに静かに挨拶されるのも今の児太郎さんには合っている。何か舞台に落ちた。何がどこから落ちたのかは不明。舞台上に落下物がある。どうされるか意地悪く観察していた。身体の形が崩れる恐れもあるから、無視されるか、それとも処理さえるか。観客に気がつかれるなら手を付けないほうが良い。伊勢音頭のあと、座って自分もお酒を飲むところで、左手に落下物のある良い状態の位置につく。立ち上がる寸前、左手で落下物を隠す。隠すといっても、自然にそこに手がいった。立ち上がった時には落下物は無かった。袖にいれた様子の手の動きも見えない。余りにも自然であった。落下してから、児太郎さんの視線も動きも不自然な個所は一つも無かった。

児太郎さんは、器用なかたとは思えない。外野からの音に惑わされず一つ一つを身体で覚えていかれる。と思っている。これからもその様に進んでいかれてほしい。そして、そろそろかなと思う時、自分の息のあった色をさし、自分の色香として欲しい。急がないでじっくりと。

『芝翫奴』。『供奴』は、二代目芝翫さんが初演されたことから『芝翫奴』とも呼ばれる。踊られた国生さんが七代目芝翫の孫ということもあってであろうか。『芝翫奴』の題名で観たのは初めてである。若さ溢れ、国生さんもしっかり身体をを目いっぱい使われる。花道での左右の足を前で反対の足の膝まで上げ、そのあと爪先をさらに跳ね上げる所作があり、この足さばきも初めてである。主人を迎えにいく逸る気持ちや、仲之町への心の浮立ちであろうか。足踏みも元気であった。愛嬌が出るまでのゆとりは無かったが、これからもっと欲がでてくることであろう。

暑い夏には、演目の選び方もよかった。初めて歌舞伎を観られるお客様も楽しまれたことであろう。こちらも、溜飲が下がり、涼やかな美しさを味わい、元気の気を頂いた。

 

日本近代文学館 夏の文学教室 (5)

荒川洋治さん「伊藤整『日本文壇史』の世界」

伊藤整の死により、伊藤整の『日本文壇史』は18巻で終わっている。この文壇史はA君が何年にどこで誕生し、B君は何年にどこそこで誕生、A君が10歳のときこのようなことがあり、B君はそのとき8歳でこういうことがあった。その時C君はどこそこで生まれた。A君はその時、小説家A男になり、B君は学生でこういうことをしていた。B君はB夫となり小説を発表したが認められなかった。A男は次第に文学界から置き去りにされ、B夫は文学界の中心となり、その時C雄は、文学界の寵児と言われていた。こいうふうに作家が時代と共に年齢を重ね文壇で並ぶときはそれぞれどういう状態であるかが解るように書かれている。(実際には実名入り例だったのであるが、島崎藤村だったか、国木田独歩だったか忘れたので私が勝手にA、B、Cにした。)尾崎紅葉の一番弟子が泉鏡花で、弟弟子の徳田秋声と仲が悪かった。鏡花の弟豊春も作家になったが芽がでず、豊春が困っているので秋声は自分の貸家に住まわせたがほどなく亡くなってしまう。葬式で鏡花と秋声が顔を合わせ和解する。それが、秋声の小説『和解』である。

高見順の文学碑の除幕式の時、高校生の僕は、来ていた伊藤整に彼の本にサインをしてもらった。僕がお辞儀をすると、伊藤整も丁寧にお辞儀してくれた。高校生の僕にですよ。丁寧にお辞儀してくれたんです。(実演入り)『日本文壇史』は後世のための仕事です。

〔 実演も入るので楽しく聴いていたら正確さに欠け、A、B、Cになったが、同時進行で進んでいくように書かれているようで面白そうである。ただこの書き方は大変な作業である。偉いかたもきちんとお辞儀をされたほうが、後世に作品を読ませるように説明して貰えそうである。

高見順さんの文学碑ということは、東尋坊の荒磯遊歩道入口近くの碑であろう。福井に行った時、路線バスで東尋坊入口まで行き、そこから東尋坊に向かい、日本海の荒海を見つつ遊歩道を歩いた。高浜虚子、三好達治等の文学碑があり、こちらの歩き方からすると、遊歩道の終わり近くに高見順さんの文学碑があった。海を眺めるかたちで立っていた。遊歩道入口のバス停は広いのに何もない所でこんなところで置いてけぼりは困ると思ったものである。あの文学碑の除幕式に伊藤整さんと一人の高校生との劇的出会いがそこであったわけである。

バスがきちんと来てくれて、三国駅まで乗るつもりが、途中で高見順さんの 生家跡の町名のバス停がありあわてて降り、それが正解であった。そんな思い出の高見さんであるが、近代文学館の秋季特別展は『高見順という時代ー没後50年ー』である。

2015年9月26日~11月28日

記念講演会  ①9月26日14時~池内紀「高見順の蹉跌」             ②11月3日14時~荒川洋治「高見と現代」

伊藤比呂美さん「古典を読んで訳してその同時代を生きること」

今、座禅にはまっています。雑念が多いので絶対ダメだと思って居たら驚く速さで時間が通過したりします。『説教節』とか『日本霊異記』を訳していて、面白いので原文と訳文を読みます。『安寿と厨子王』『小栗判官』なども説教節からです。説教節の女性達は良く働きます。安寿にしろ照手姫にしろ、奴隷のように働きます。男は役立たずです。お経の一字一字に入り込んでいきます。四季には仏教感があり、それが無常にも繋がっていたりします。

〔カリフォルニア在住で、九州に実家があり、以前に聴いたときは、遠距離介護の話しをしておられたのを思い出す。玉三郎さんが出た時で、もう少し我慢して下さいね、お目当てはあとに控えていますからとも言われていた。興味のあることには分け入って進み何かしら面白いものを見つけるぞと突進して行きそうなかたである。それにしても、説教節とか日本霊異記とか、分け入ってできた道を後からついて行きたくなるような話ぶりであった。〕

対談 「「あの日」の後に書くことについて」 いとうせいこうさんと高橋源一郎さん

これは、聞いた方からのみとする。前半は高橋さんがいとうさんに聞くかたちで、後半はいとうさんが高橋さんに聞くかたちであったが、それぞれの話が交差したりするので、上手く書けないのである。お二人とも小説を書けないときがあって、いとうさんは15年くらい高橋さんは7年くらいあったそうで、書こうとすると吐き気をもよおしたりするのだそうである。もう一人の自分が書かせてくれない。

いとうせいこうさんは、みうらじゅんさんとの見仏記でDVD映像とか本でお目見えしているが、その頃は書けなかった時期であろうか。関西と関東のカキ氷談義など楽しかった。

いとうさんは東日本大震災のあとで書けるようになり、もう一人の自分が書けといって書かせてくれているようなのだと。書ける書けないはもう一人の自分に左右されているらしい。高橋さんは、詩は書こうとすると書けないのであるが、小説の主人公に詩を書かせると書けるそうで、小説を書くという行為は複雑怪奇である。

浅田次郎さんが、泣かせの作家と言われているが、泣かせようと思って書いてはいない。作家というのは冷徹でなければ書けないと言われていた。人が一人一人いるように詩人や作家もそれぞれである。聞いたことは、ほとんど忘れているが、どこかで聞いたなと思い出すこともあるであろう。

忘れるということは、今必要ではないこととする。雪が降って、自分の木の興味ある枝だけにふんわりと雪を残していってくれた感じである。解けない内に雪を固めて時間を稼ぎ、興味あることに水分を吸収してしまいたいものである。頭のなかでは想像できる雪も、現実の暑さは何んということか。関西のカキ氷をいつか経験しよう。

 

日本近代文学館 夏の文学教室 (4)

川本三郎さん「終戦前夜の永井荷風」

永井荷風は3回の空襲にあっている。人付き合いのしない荷風で老人(66歳)であり単身者である。空襲による孤独感と恐怖は大きかったであろう。(1回目)昭和20年3月10日の大空襲で麻布自宅偏奇館焼失。杵屋五叟宅へ。(2回目)5月25日、菅原明朗の紹介で住んで居た東中野の国際文化アパート空襲で焼失。菅原明朗と永井智子と明石へ向かい、岡山に移動。(3回目)6月28日岡山での大空襲にあう。この三つの空襲の体験は、その後の荷風の様子から考えて、トラウマとなり心的障害をきたしていたのではないか。荷風を支えていたのは、言葉である。

荷風を助けた人々。クラッシク音楽家の菅原明朗、声楽家の永井智子、菅原の弟子・宅孝二。明石に向かったのは宅の実家があったから。(訂正:菅原の実家である)永井智子は作家・永井路子の母である。菅原と永井は8月3日から3日間広島でコンサートがあり、5日の夜岡山に残した荷風が心配で泊まらずに岡山に向かう。泊っていたら被爆していたであろう。菅原はドイツ音楽ではなくフランス音楽を研究しフランス好きの荷風と好みが一致した。宅孝二はクラッシクからジャズに転向し、戦後、映画音楽を手掛けている。森繁久彌の社長シリーズなども。荷風の詞、菅原の作曲、智子の歌、宅のピアノでの演奏会もあった。

〔 資料もあり、広島原爆の後、荷風さんと谷崎さんとの岡山での再会のことなど『断腸亭日乗』から調べたことがあるので、長くなってしまう。市川市文学ミュージアムでの『永井荷風展』での講演でも、荷風の空襲によるトラウマとする考えは聴いているが、テーマは違っていたので少し触れただけだが、今回はきちんと日記をひいてなので説得力はある。フランス仕込のおしゃれな荷風さんには考えられない晩年の姿と行動の原因と考えておられるのである。価値観が変わったことは確かであるがそのトラウマの程度や影響は荷風さんの言葉、文章から読み解くことはできないのであろうか。それが知りたいところである。

永井智子さんという声楽家がいてその方が、永井路子さんのお母さんであるということを初めて知る。古河市に永井路子さんの実家があって、古河文学館の別館として公開されている。私が古河と『南総里見八犬伝』の関係から古河市を訪れたのは、東日本大震災の後だったので、非公開であったが、再公開されているようである。その旧永井家は智子さんの育った家でもあったわけである。古河城の櫓が歌舞伎『南総里見八犬伝』での<芳流閣屋上の場>の芳流閣のモデルとされているが、その痕跡はない。代わりに古河市の文学関係者のことを知る結果となったわけである。

その一人が子供雑誌『コドモノクニ』の編集者・鷲見久太郎さんである。映画『小さいおうち』の男の子の枕元にもこの『コドモノクニ』が置かれていて、奥さんの好きになる青年が男の子に読んであげる場面がある。『コドモノクニ』は大正から昭和初めにかけて出版された、贅沢で、子供たちの情操を深く考慮した本で、この男の子が大変幸せな環境にいることがわかるし、ここにこの本を出し子供文化の豊富な時代の先駆けであった時代の停止も感じとれる。

永井路子さんは、家の方針で、絵本を眺めることなく、すぐさま本を読むことを習慣づけられ目にしていないといわれ、郷里の大先輩の鷲見先生を後になって知ったことを残念に思われている。鷲見さんは、古河藩江戸詰家老で洋学者鷲見泉石の曾孫にあたり、鷹見泉石の住居も残っていて公開している。文学館に併設しているレストランはお薦めである。

音楽家の宅孝二さんが、映画音楽に携わり、市川崑監督の映画『日本橋』も担当をしており、永井荷風さんの交際する限りある周辺からは興味深いことが出現した。次の日、原爆が落とされることなど全く知らずに、音楽を聴き一時の倖せを享受していた人々もいたのである。移動演劇の桜隊の演劇人、丸山定夫さんや映画『無法松の一生』の吉岡夫人役の園井恵子さんなども被爆し亡くなられている。荷風さんが言葉を捨てなかったことによって、その日記をもとに様々な見分ができるわけである。〕

追記: 上記文章の中に<明石に向かったのは宅の実家があったから。>とありますが、宅氏の実家ではなく菅原氏の実家とのコメントをいただきました。調べますと確かにこちらの間違いでした。荷風は5月25日の夜、駒場の宅孝二氏宅に泊めて貰っています。6月2日、菅原氏夫妻とともに宅氏兄弟に渋谷駅で送られ、東京駅から罹災民専用大阪行の列車に乗り、3日に明石に到着。「菅原君に導かれ歩みて大蔵町八丁目なるその邸に至り母堂に謁す。」とあります。菅原氏の実家でした。訂正させていただきます。

日本近代文学館 夏の文学教室 (3)

黒川創さん「漱石と『暗殺者たち』のあいだで」

日露戦争後1905年から10年位。夏目漱石の『坊ちゃん』が1906年。この頃東京は路面電車が走り、その後電燈がつく。日露戦争後、清国からの留学生が多い。科挙が廃止され日本での勉学を目指す。さらに辛亥革命の芽が出ていて逃亡してくる人々もいた。孫文や黄興など。黄興は映画でジャッキー・チェンが演じている。(映画『1911年』)日本では1911年「大逆事件」で、大逆事件の犠牲者として新宮の  大石誠之助などがいる。ただ一人死刑になった女性が管野スガである。伊藤博文の暗殺。伊藤博文は幕末と明治に入ってからの伊藤博文は違っている。

〔 『坊ちゃん』は、四国松山を勝手気ままに評するが、東京を認めているわけでもない。坊ちゃんの気に入る町が日本にあるかどうか。破天荒の坊ちゃんを主人公にした漱石さんのふつふつしている胸の内が分るような気がしてきた。「祝勝会で学校はお休みだ。」とあるが、これは日露戦争のことであろう。うらなりの送別会で、野だが「日清談判破裂して・・・と座敷中練りあるき出した。」とあり、「まるで気違いである。」としている。『坊ちゃん』の違う切り口がありそうである。

大石誠之助さんについては新宮の『佐藤春夫記念館』で知った。黄興の名前は初めて耳にした。孫文に関しての映画は『宗家の三姉妹』しか見ていないので『1911年』など観ておこう。大逆事件は政府の無謀な権力行使であった。〕

堀江敏幸さん「沈黙を迎えることについて」

仮面ライダーの変身ベルトは蓄電地で回って変身すると思っていたら、仮面ライダーの乗っているサイクロン号は原子力で動いていて、サイクロン号の走行する風力エネルギーで仮面ライダーは変身するのであると教えてくれる人がいて驚いた。自分の子供の頃から身近なところに原子力が組み込まれていたのである。1972年に帰国した横井正一さんへの戸惑い。

〔 仮面ライダーの件は、変身に科学的根拠など考えもしないし、特殊な能力ある者が変身すると思っていた。原子力って凄いんだよということしか考えていなかった頃の発想であろうか。<猿島>の展望広場に展望台があり、古いため中には入れないが、仮面ライダーの敵、ショッカーの初代基地として活躍している。建物の外観映像だけ使われ基地の中はセットでの映像であろう。横井さんは、どんな怒りや理不尽さを語られても良い立場の人であるが、大きな波風を立てることはなかった。〕

町田康さん「多甚古村とか」

井伏鱒二の『多甚古村』は日中戦争の頃の四国徳島を舞台にした、巡査が観察した人々の様子。巡査の観察と巡査の行動のづれが面白い。大阪弁なら忙しなくなるところが、徳島弁だと違って、その辺の井伏の方言の使い方によるリズム、さらに、あえて徳島弁でないイントネーションを使う井伏の手法。

〔 『多甚古村』はそんなに面白いのかと思わせてくれたので、これは読まねばと思った。本文から引用して読み上げてくれるのであるが、おそらく引用の文のあるページかメモされているのであろう。そのメモを見て、文庫本からのページを捜す。これがしばし時間がかかり、沈黙となり、次に探すときに「沈黙です。」と言われる。その町田さんの姿を眺めつつ、インデックスでも張って置けば良かったのではと思ったが、この時間の流れも井伏さんの『多甚古村』の時間と合うのかなと余計なことを考えた。そんなわけで、時間が立ってみると、井伏さんの思惑の原文の部分を忘れてしまった。読めば思い出すであろう。『多甚古村』の映画の代わりに『警察日記』の録画を観た。〕

山﨑佳代子さん「旅する言葉、異郷から母語で」

セルビア(旧ユーゴスラビア)の首都ベオグラード在住。旧ユーゴスラビアに留学したが、留学するとは思わなかった時に印象に残っていた映画が1970年に観た『抵抗の詩』である。原題が『血まつりの童話』。ナチスによってセルビアで一日で何千人もの人が殺された事実をもとにした映画である。ドイツ人が一人死ねばその何倍もの人を殺すとして数が増えていった。大人だけではなく子供にまでおよぶ。日本語とセルビア語で詩を書いている。そして、難民の人々の聴き書きをしている。

〔 ユーゴスラビアという国が幾つかの国に分れてセルビアという国が出来たようであるが、セルビアという国がもっと昔から過酷な歴史を担ってきたらしいということである。山崎さんが説明してくれた、映画『抵抗の詩』に描かれたナチスによる子供達の時代は第二次大戦ではあるが、その他の時代や現代のセルビア周辺のことはどう理解すればよいのか正直私には判らない状態である。ただ、山崎さんは多民族の人々の中で、ご自分は日本語とセルビア語を交差させ、日常と詩を通して語り続けておられるということである。争いの中に置かれた人々の普遍的な共通となる問題ということであろう。〕