映画 『大忠臣蔵』

12月14日、赤穂浪士討ち入りの日が選挙日である。自分たちの意見を反映するこの一票に何百億円の税金がかかっているのである。政治家がお金を出して、ご意見をどうぞと言っているわけではない。自分たちが納めた税金である。棄権などして税金の使われ損にされてはたまらないからきちんと投票します。

1957年の映画『大忠臣蔵』を見た。『仮名手本忠臣蔵』をもとにしている映画で、文楽や歌舞伎 でやっているものを、映画ではどうなるのか見たいと思っていた。重要な場面を取り入れ、映画的娯楽性も加味されていて楽しませて貰った。

大石内蔵助が、市川猿之助さん(初代猿翁)、大石主税が市川団子さん(二代目猿翁)、矢頭右衛門七が、市川染五郎さん(現・幸四郎)さん、立花左近が松本幸四郎さん(初代白鴎)さん、加古川本蔵が、坂東蓑助さん(八代目三津五郎)等が歌舞伎界から出演している。新派からは大石の妻・お石に水谷八重子さん(初代)。本蔵の妻・戸無瀬に山田五十鈴さん。映画界からも豪華メンバーが出演している。

歌舞伎にはない場面でも出演者の見せ場として作られている場面もある。

仇討が決まり、矢頭右衛門七が年齢が若く参加を認められないが、主税が認められて自分が認められないのは足軽の子ゆえかと主張し認められる。

内蔵助と立花左近との対決は、内蔵助が東下りの際、禁裏御用金を運ぶ役目として関所を通ろうとするが、それを止める関所守を左近としており、勧進帳を重ねて緊迫感を出している。内蔵助はそっと、<道中記 内蔵助>と書かれた道中記の表紙をみせ、左近は納得するのである。

討ち入り前、内蔵助が瑤泉院(有馬稲子)を訪ねそっと連判状を浅野内匠頭(北上弥太郎)の位牌の前に置き、それを、吉良の間者が盗み出す場面などである。

お馴染みの、おかる、勘平は高千穂ひづるさんと高田浩吉さんで、この辺りはきちんとえがき、勘平の切腹までを映画ならではの上手い運びとなっている。おかるが勤めにでる一文字屋の女将の沢村貞子さんと源太の桂小金治さんの雰囲気がよくはまっている。

おかるを請け出す内蔵助との場面、おかると兄・寺岡平右衛門(近衛十四郎)の場面も違和感がない。幇間の伴淳三郎さんのちょっとの出がいい。

そして光るのが、お石と戸無瀬の対決である。女性がやれば、このお二人しかいないと思う。小浪が嵯峨三智子さんで可愛らしい。死ぬ覚悟の時は、刀ではなく短刀であった。戸を外す仕掛けはやらなかった。どうするのかと興味があったが、映画では無理と思う。猿之助さん、蓑助さん、団子さんはよく解っている場面なので、それぞれ印象深い場面に仕上がっていた。

清水一角(大木実)が赤穂浪士に武士の生き方として心情的に魅かれていて、吉良家で茶会があるのを教え、吉良の逃げた先も教えるという形をとっている。

『仮名手本忠臣蔵』をなぞりつつ流れが上手くいくように工夫されていて、歌舞伎特有の節回しもなく、映画の『仮名手本忠臣蔵』として楽しめた。渋みのある初代猿翁さんもたっぷり見ることができた、他の忠臣蔵映画とは一味違う味わいとなった。

監督・大曾根辰保/脚本・井手雅人/撮影・石本秀雄/美術・大角純一/音楽・鈴木静一

 

 

歌舞伎座12月 『雷神不動北山櫻』(2)

『雷神不動北山櫻』の大詰めは、早雲王子の陰謀が明らかとなり、王子を捕らえようと捕り手との大立廻りとなる。この立廻り、大勢が息を合わせて豪華絢爛に見せてくれる。最期は、不動明王(海老蔵)が王子を戒め、左右に童子を従え宙に鎮座するのである。

今、熊野が頭の一部に存在するので、王子とか童子となると、そちらに引っ張られてしまう。童子いえば、東京国立博物館での「国宝になってもいいかな」とでも言いだしそうな『善財童子立像』を思い出してしまう。安倍文殊院で逢ったときは、あの独特の姿が可愛らしいと思ったが、まさか国宝で、東京で再びお逢いできるとは思わなかった。

そして今、某新聞の夕刊で、内田康夫さんが『孤道』を連載されている。その始まりが、熊野古道の中辺路(なかへち)にある「牛馬童子像の首が切られた」という事件からなのである。友人が二回目の熊野古道に行き、牛馬童子像のある道を歩くと聞いたばかりでタイミングが凄い。こちらも可愛らしい像だったようで、後日話しが聞けるであろう。内田康夫さんには『熊野古道殺人事件』もあり、さっそく読み、友人にも古本屋で見つけて熊野に行く前渡す。

足摺岬から竜串海岸 四国旅(4) で、初めて<補陀落渡海>を知ったが、そのことが『熊野古道殺人事件』では関係してくる。読み始めて、戦中の特攻隊や人間魚雷を思い描いたが、作者もそのことに触れている。道成寺もでてくる。佐藤春夫の詩『少年の日』もでてくる。『佐藤春夫記念館』は、新宮に行ったら是非訪れたいと思っていた場所である。内田さんと、浅見さんは時間の関係で訪れていない。

熊野古道には、「王子」というのが沢山でてくる。熊野三山の御子神(みこがみ)を祀る祠なのだそうである。かつては熊野九十九王子と称されていたらしいが、江戸時代にすでに多くが廃絶となったらしい。

歌舞伎『雷神不動北山櫻』と直接関係ないが、まだ訪れていない想像の世界の熊野と空気が重なるのである。

そしてもう一つ感じたのは、役者さんのことである。現猿翁さんの育てられた役者さん達が、今の歌舞伎界に不可欠の存在となっていることである。歌舞伎役者の血の方、歌舞伎と関係なく飛び込んだ方、その役者さんが育っていなかったら、これだけ、あちらこちらでの歌舞伎上演はあり得なかったと思う。

猿翁さんが舞台から引かれてから、猿之助一門は、玉三郎さんなどにも厳しく指導されていた。様々な風を受けての猿之助一門の成長である。門之助さん(関白基経)、市川右近さん(小野春道)は、位にあった雰囲気をだせる役者さんとなった。笑三郎さん(腰元・巻絹)は出が少なくても、芝居を締めて面白くしてくれる。猿翁さんの功績は大きいと思う。

その他では、右之助さん(秦民部)、市蔵さん(八剣玄蕃)が善悪の脇を固めている。亀三郎さん(白雲坊主)、亀寿さん(黒雲坊主)のコンビも、脇で務めて来た成果がでてきている。尾上右近(秦秀太郎)さんも、11月の成果を無駄にしていない。久方ぶりの道行さん(八剣数馬)も健在。最後は市蔵さんとの童子コンビ。

愛之助さん(文屋豊秀)は、海老蔵さんが濃いから遠慮せずもっと前面に出ても良いのでは。獅童さん(早雲の家来・石原万平)は、歌舞伎的台詞の工夫がほしい。児太郎さん(錦の前)と松也さん(小野春風)は、姫君、若殿のふくよかさが欲しい。

寒さも厳しくなり、筋肉も硬くなるであろうから、これからの時期の役者さんたちは、怪我のないように努められて欲しい。

 

歌舞伎座12月 『雷神不動北山櫻』(1)

通し狂言『雷神不動北山櫻(なるかみふどうきたやまざくら)』は、観る側からすると、単発で観ている『毛抜』と『鳴神』が一つの流れの中の物語であったということの面白さである。ところが、何回も単発で観ているため、『毛抜』と『鳴神』は練に練られてきた演目である。それだけでも成り立ってきた演目である。そのため今回の『毛抜』には納得出来なかった。大きさがないのである。『毛抜』『鳴神』と二つ山を越し、三つ目の山の『不動』の頂上で終わるのである。『毛抜』の山が低すぎる。

陰陽師・安倍清行は早雲王子が皇位を継ぐと世の中が乱れると告げたことにより、女子として生まれてくる子を、鳴神上人は男の子として誕生させる。その子が陽成天皇となる。早雲王子は、鳴神上人を都から追放してしまう。鳴神上人は約束の褒美をもらえず追放され、龍神を封じ込め雨を降らせず干ばつにしてしまう。

陽成天皇に仕える側が、関白基経、小野春道、文屋豊秀であり、小野春道の娘・錦の前と文屋豊秀とは、縁談がまとまっている。ところが、錦の前は病気を理由に輿入れしないため豊秀は家来の粂寺弾正(くめでらだんじょう)に様子を見に小野家に差し向ける。この粂寺弾正の活躍が『毛抜』である。この粂寺弾正は鷹揚で自分流に考え行動する人物で、それでいながら原因はしっかり究明し、弁舌にも長けている。そして大きくなければ時代的面白味がなくなる。現代のただ知恵の回る人物と同じになってしまう。海老蔵さんの粂寺弾正は、時代物的大きさに欠けていた。なぜか。笑いのほうに傾いたのである。

陰陽師・安倍清行が、正体の分からぬ謎めいたことを発しては消えていく摩訶不思議な人物にしている。早雲王子も悪としてつくりもいい。鳴神上人も、雲の絶間姫の玉三郎さんに引っ張られ破戒僧となり、裏切られての怒りの流れもいい。だからこそ、粂寺弾正は時代的大きさを見せてほしかったのである。これに不道明王が加わり、<早雲王子><阿部清行><粂寺弾正><鳴神上人><不動明王>の五役を海老蔵さんが演じるのである。

鳴神上人のところに雲の絶間姫を差し向けるように文屋豊秀に告げるのが阿部清行で、雲の絶間姫は豊秀の恋人で、鳴神上人に聞かせるため夫との馴れ初めを話すが、それは豊秀との事とすると、鳴神上人も踏んだり蹴ったりである。

皇位継承、お家騒動、陰陽師と上人との駆け引き、男女の愛の駆け引きと、この芝居もかなり入り組んでいて面白い。

 

歌舞伎座12月『義賢最期』『幻武蔵』『二人椀久』

『義賢最期』は、今年の新春に愛之助さんは演じられていて、今年の末、これで締めるということになる。 浅草公会堂 新春浅草歌舞伎 (第一部)

今回の愛之助さんには、悲壮感が強く表れた。小松の枝で手水鉢の角を割り、下部折平が源氏方の多田蔵人(亀三郎)と見抜いて平氏打倒を打ち明けたときからの決意が、兄の髑髏を踏むことが出来ず、紫の病鉢巻をぱっと投げ捨てる。思った。まだまだ、格好良く伝える工夫はあるのだと。そして、ここで討死にするぞとの意気が湧きたち、その流れの頂点としての<仏倒し>となった。源氏の御印である白旗の行方を見る側も追っていた。平家側の矢走兵内(猿弥)の手にあるのを多田蔵人の妻小万(梅枝)に手渡し<仏倒し>となる。ついに力尽きて倒れたという感じで、生身の愛之助さんのことを心配する余裕を与えない最期であった。義賢の生から死への最期である。亀三郎さんは声が張り過ぎかなという箇所もあったが、良く通る声で声量豊富なので、この声を自由自在に使い、幅広い役に挑めるのがこれからの強みになりそうである。

『幻武蔵』。森山治男さんの新作で玉三郎さんの演出である。森山治男さんは、中将姫伝説をもとに『蓮絲恋慕曼荼(はちすのいとこいのまんだら)』を書かれた方で、期待していたのであるが、武蔵や千姫、淀君が伝説ではなく歴史上の人物として現前としているので、物語としての幻想性を薄めてしまった。 揺るぎなき剣豪宮本武蔵(獅童)は姫路城の天守閣に妖怪が現れるとして、妖怪退治を頼まれる。千姫(児太郎)を脅かす淀君の霊(玉三郎)、坂崎出羽守の霊(道行)、秀頼の霊(弘太郎)が現れそれらから武蔵は千姫を救い出す。しかし、それだけでは無さそうである。天守に祀っている小刑部明神(松也)が姿を現し、宮本武蔵という一人の人間の持っている多面性を、多数の武蔵を登場させ、武蔵の闘ってきた姿を通して語り追求しはじめる。この辺りの台詞は、幸いなことに少し前に映画『宮本武蔵』を見ていたので、その場面が浮かんでくる。しかし、宮本武蔵に興味ない方は苦手な部分となるかもしれない。武蔵はその言葉に耳を傾けつつ、過去の自分と向き合いそこから、脱却するのであるが、その振り下ろされた一刀が、武蔵自身と小刑部明神・実は小刑部姫をも救うこととなる。 小刑部明神が、武蔵が試合に遅れて来たとか、子供まで殺したとか、試合にまつわることを指摘していく。しかし、無勢に多勢の試合であるから戦略は必要であったと考えられる。そういう意味では、武蔵の世界を理詰めに幻想的に捉えるのは無理であるように思えた。歌舞音曲で武蔵をたぶらかせたほうが面白かったように思うのだが。笛の音とか。通俗的過ぎるであろうか。

森山さんは、三年前に亡くなられておられるようである。残念である。新しい作品を生み出され想像の世界を広げて下さったことに感謝いたします。そう言えば、姫路城の天守閣最上階に何かを祀ってあったようであるが、あれが、小刑部明神だったのであろうか。姫路城の伝説など考えもしなかった。

『二人椀久』は、椀久の海老蔵さんが松山を失って心ここに非ずと淋しさに耐えつつの花道での姿がいい。でもあれだけ想い焦がれたのだから、二人が逢った時くらいはもう少し華やかでもいいと思うのだが、流れの緩急もあまり変えず静かに二人の時間を慈しむ。夢の中なのだから幻想的にということなのであろうが、『幻武蔵』でも思ったが、玉三郎さんの<幻想>には、まだまだ到達しえない若い方達である。 『二人椀久』、『鳴神』でも、玉三郎さんの大きさをやはり見せつけられたように思う。『鳴神』は<幻想>ではなく、手練手管である。それは芸の手練手管でもある。千手観音の手のようである。

雑誌『苦楽』の大佛次郎と鏑木清方

10月に鎌倉に行った時、大佛次郎さんが戦後に創刊した『苦楽』という雑誌のことを知った。 鎌倉『大佛次郎茶亭(野尻亭)』

鎌倉の<鏑木清方記念館美術館>と横浜の<大佛次郎記念館>を訪れた。

<鏑木清方記念美術館>は、「清方描く 季節の情趣 -大佛次郎とのかかわりー」であった。雑誌『苦楽』の表紙絵に大佛さんは鏑木さんの絵をお願いした。鏑木さんは目の不自由さもあり、当時の紙の質の悪さからも断られたが、最終的には引き受けられた。その原画と、雑誌『苦楽』の表紙絵が並べられていた。季節に合った12ヶ月の美人画で、基本的に新作を描かれていて、体調を崩されたときのみ既成作品とし、その力の入れようが伺えた。

原画の寸法と雑誌の寸法が違うので、原画よりも雑誌の人物の顔などが、細面になってしまう。そういう事も承知されて、受けられたのであろう。

2月は、泉鏡花の『註文帳』に登場する吉原の二上屋の寮のお若(紅梅屋敷)。6月は、歌舞伎『生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)』の深雪と宮城野曽次郎が逢う場面(宇治の蛍)。新年号には『道成寺』、その他、『堀川波の鼓』のお種、『たけくらべ』の美登利などもあった。清方さんの『苦楽』のために描かれた最後の絵は『高野聖』で、清流で身体を洗ったあとの婦人図で、バックに馬の絵が影のように描かれていて、薬売りが馬にされたことを暗示している。

横浜の<大佛次郎記念館>では、「大佛次郎、雑誌『苦楽』を発刊す」のテーマ展示である。

この雑誌『苦楽』は、大正時代大阪のプラント社で出していた雑誌『苦楽』を受け継いでいて、大正時代の雑誌『苦楽』の編集に携わっていたのが、川口松太郎さん、小山内薫さん、直木三一五さん等である。『空よりの声ー私の川口松太郎ー』(岩城希伊子著)に、川口さんが、大阪の小山内薫さんの家に住みそこからプラント社に通ったことが書かれている。展示品の中には、大阪から川口松太郎さんが、大佛さんに出した手紙があった。川口さんは自分の作品を、大佛さんが執筆している博文館発行の『ポケット』に掲載して欲しいとの依頼をしている。川口さんは、まだまだ、物書きとして認められていない頃である。大佛さんの出した『苦楽』には、川口さんは、直木賞も受けられた作家で、小説『さのさ節』を載せられている。

清方さんは、表紙絵のほかにも、『日本橋』や『金色夜叉』の名作物語の一文に絵を描かれている。

今回は、大佛次郎さんと鏑木清方さんの関連するところが、雑誌『苦楽』という共通のテーマで展示されていたため、『苦楽』という雑誌が、如何に絵画的な分野にも力を入れ、そこから視覚的にも楽しめるように考慮していたかが解った。清方さんの原画に多数見れたのも嬉しかった。さらに、第十三回大佛次郎論壇賞として『ブラック企業ー日本を食いつぶす妖怪』(今野晴貴著)が<大佛次郎記念館>の閲覧室に紹介されていて、これは読まなくてはと思った。若者たちを犠牲にするブラック企業と思っていたが、日本をもくいつぶすのか。良い物を見たあとは、少しは社会的思考も加えなくては。

 

 

立川談志さんの『芝浜』

談志さんは人情噺をやりたくないといわれ、それなのになぜ『芝浜』をやるのであろうかと、考えつつ言われたことがある。他のに比べれば私の『芝浜』は上手いよと、当然自画自賛も忘れない。

年末に有楽町のよみうりホールで、『芝浜』を語るのが定番となっていたようで、談志さんが亡くなる何年か前に、最初で最後の年忘れの『芝浜』を聴いた。

酒好きの魚屋が女房に諭され久しぶりに魚河岸に魚の仕入れに行く。ところが、おかみさんが時間を間違え、まだ誰もいない時間に河岸についてしまう。煙草を一服しながら、ひょいと紐を引っ張ると財布が出てくる。慌てて魚屋は家に帰り、財布の中身を調べてみると42両入っている。これで遊んで暮らせると、近所の者をよんでどんちゃん騒ぎである。ところが眼を醒ましてみると、おかみさんは、財布など見た事もない、夢を見ていたのだろうと素っ気ない。さあ大変である。お金もないのにどんちゃん騒ぎ。私が切り盛りするから、働いてちょうだいというので、お酒をぷっつりやめ仕事に精を出す。

三年後には、長屋の裏から表に出れるまでになる。大晦日、畳も新しくしておかみさんは財布をだし打ち明ける。大家さんに相談して、お前さんには夢だったことにして噓をついたのだと。怒る亭主。しかし、考えてみれば、財布をひろった事は世間にも知れ、つまらぬ生き方したであろうと、魚屋はおかみさんに頭を下げる。そして、すすめられたお酒を飲もうとして、「やめた、夢になるといけないから。」ときめる。

談志さんは、この女房が嫌いだと言う。どうしてかは言わない。話し方によっては、出来過ぎた女房になり過ぎるということなのか。名作というのは、様々な人がやっているので、それを超えるというのが難しい。この人のこういうところの『芝浜』はいいと言われなくては、また『芝浜』かと思われてしまう。

私が聴いたときは、畳が新しくなった大晦日、魚屋の家が新しい明るい家に代わっていた。そして、おかみさんが可愛いのである。あの談志さんの顔を思い出すと、信じられないが、噺にずーっと聴き入っていると、「おまえさん、あたしお酒呑みたくなった。おまえさんも呑もうよ。」「おれも呑んでいいのか。」「呑んじゃいなさい。べろべろに酔っちゃいなさいよ。」の誘い掛けが真に愛らしいのである。今まさに仲良く飲みかわすその寸前で、こちらの夫婦に入れ込んだ夢は壊されてしまうのである。

談志さんは、『芝浜』を語る前に一番いい『芝浜』はすでに三鷹でやってしまったと言われた。どんな『芝浜』なのか聴きたいとおもっていた。談志さんの一周忌に『映画 立川談志』が出来た。その中で、三鷹での『芝浜』が入っていた。おそらく、これが談志さんの言っていた『芝浜』と思う。

よみうりホールで聴いたのとは違う。あくせくしていない。ゆったりと構え、その動作も丁寧である。飲んべいで、その日暮らしの魚屋である。そこに突然お金が舞い込む。しかし、それは夢である。おかみさんに、後押しされ魚屋は働きはじめる。おかみさんはずーっと、亭主に噓を言ってきたことを気にかけていたようである。大家さんの考えとは言え、噓のうえに亭主を乗っけておくのが忍びないのである。すべてを打ち明けて、そこからの出発にしたいのである。<噓>にこだわるおかみさん。怒る魚屋。「ねえ、おまえさん別れないで。」と頼むおかみさん。魚屋はそんなことが言えた義理ではない。「えっ、許してくれるの、おまえさん。おまえさん、わたしお酒呑みたくなった。」

おかみさんが呑みたくなる気持ちがわかる。<噓>と<お金>の必要が無くなったのである。おかみさんにとって、恐いものはもう何もないのである。亭主さえいてくれれば。

おかみさんの手柄にはしていない。それでいながら、そのおかみさんへの魚屋の返答が、「夢になるといけないから。」なのである。

これが、好き勝手なことを言われている談志さんの『芝浜』である。悔しいが、ほろりっときて、見事に裏切ってくれた。談志さんは、落語は<一期一会>と言われていた。

 

 

『談志まつり 2014』 (夜) 

テーマは 「談志の遺言~俺を超えてゆけ~』 であるが、談志さんを超えれるかどうかは別として、立川流の落語家さんは常識を超えている方々もおられ、皆さん落語家としてやっていくための、突然ですがの訓練はされているので心配ご無用である。

落語家として二枚目が邪魔をする志の八さんが『初めてのお弔い』。らく里さんが基本に則った『安売り』。話題にされていたキウイさんは、本を出されて真打の許可を貰った落語家さんのようだ。その時の談志さんとのやり取りを話される。圓蔵さんに習われたという『反対車』。談笑さんは、『がまの油』。四方を鏡で囲い自分の姿の醜さにたら~り、たら~り、と油汗を出したのを煮詰めたがまの油売りの口上。スペイン語バージョンと酔っ払いバージョンも。談志さんの『がまの油』を初めて聴いたときは、大道売りの輪の中に立っている気分にさせられた。

トーク  山藤章二さん、吉川潮さん、高田文夫さん、ミッキーカーチスさん、(司会)立川談笑さん

ミッキーさんは日劇でロカビリーを歌われていたとき、あの日劇で落語をされたのだそうで、それを談志さんは聴きに行かれたらしい。想像できない面白い情景である。山藤章二さんの奥さんが古いレコードを持っていて、その中の講談の伯山のレコードを見つけこれが聴きたかったんだよと言われたとか。芝居の『鶴八鶴次郎』の中での名人会の中の出演者に伯山も入っており、時代的にその頃の伯山なのであろうかと、ふっと思った。談志さんの中には、そのレコードの伯山さんの名調子も収まったことであろう。落語協会を抜けられてからも、その前に予定されていた落語会に、師匠の小さんさんと一緒に出演されたときも、楽屋ではいつも通りであったそうで、周囲からでは計り知れない師弟関係だったと思われる。

これだけの方々が集まられたのであるから、もっと聴きたかったが残念ながら時間が短すぎた。

ぜん馬さんは、談志さんと同じ病気にかかられている。談志さんは自分の病気から起こる肉体的、精神的な影響を高座でも映像でも話され、生の自分をさらけ出された。ぜん馬さんは、事実のみ話され、落語『夢金』を粛々と語られた。

スタンダップコメディの松本ヒロさん。今度は原発のことなども加えつつの熱き弁舌である。

『談志まつり 2014』のトリは、志の輔さんの『新八五郎出世』でる。前に聴いたのと何が違うか。八五郎は殿様に何でも望みを叶えてやると言われ、母親の医療費のために、自分の仕事道具を質屋に入れたのでそれを出して欲しいと願う。その後で、妹・鶴の産んだ子供を見て、道具はどうでもいい、母親に一度でいいから孫を抱かせてやって欲しいと願い出る。殿様は八五郎の願いを叶える。

八五郎は酔いつつそこで不満を述べる。「さっきから見ていると、鶴がそばからコソコソと何か言うと、殿様は<許す>という。なんか気に食わない。」「許せ。鶴の一声である。」と締めくくる。この、なんかおかしい~!の八五郎の庶民感覚が浮き上がった。八五郎は酔っているし、欲もない。鶴が出世しても、それが鶴の倖せならそれでいいのである。そのことによって自分が出世するなどとは考えて居ない。妹は妹。兄は兄なのである。さら、八五郎の庶民感覚は、一人の人間によって左右される、為政者、殿様を、な~んか可笑しいと投げかけるのである。そこに、八五郎の生きてきた庶民感覚の確かさが出た。こう説明してしまうと詰まらなくなってしまうが、ふっと納得できない八五郎が酔いつつ感じる様がいいのである。

色々な談志さんに纏わる本や映像がでているが、八五郎の感覚を忘れずに、自分の談志さんをこれからも楽しむだけである。

菅原文太さんが亡くなられた。高倉健さん達に変わり、次の実録物に挑戦された俳優さんでもある。その後、名声に驕ることなく、一生活者として、一庶民として生きられたかたでもある。文太さんの庶民感覚は八五郎に通じる飾り気のない大地を踏まれた生き方であったと思う。一握りの土をそっと文太さんの上にかけさせてもらう。

合掌!

 

 

『談志まつり 2014』(昼)

落語家・立川談志さんの11月21日の命日から3日間、『談志まつり 2014』が開催され、その23日の昼夜に行く。談志さんの落語に行くようになったきっかけが何だったのか覚えていない。小噺などが、ポンポンと続いて、半分くらいはついてゆけたのと、亡き落語家の名人たちの話しや、その他の色物のことなどが、とにかく凄い量が、談志さんの頭の中に入っていて、その芸のまま出すことが出来るということへの驚きであろうか。

その場になってみないと何が飛び出すか分からない。落語をされる時もあるが、されない時もある。ただ、様々の方の話にも触れるが基本的には、人の裏話には興味なくて、とにかく芸人さんのことであれば、その方の芸について話される。こちらもそのほうに興味があるので面白かった。

昼の部、最初の落語家さんが、私は医者だったのですが、落語家になりたくて落語家になり、今は両方を仕事にしていますと言われた。見たことがある。もしかして、ドキュメンタリーで談志さんの二つ目の昇進試験を受けていたあの方かな。次の落語家さんが出て、二つ目昇進試験の話をする。らく朝さんと志ら乃さん。あの時の前座さんが、こんな上手い噺家さんになったのだ。らく朝さんは、「真珠の誘惑」。志ら乃さんは「時そば」。

談志さんはお酒を飲みながらの二つ目昇進試験である。厳しい。次々要求していく。出来る噺をあげてみろ。じゃこの話のこの部分をやってみろ。踊ってみろ。知っている民謡を歌ってみろ。お弟子さんたちは、タジタジである。談志さんの想う事は、芸として必要なことであるが、それよりも、噺をやっているとそれに関連した違うことにも好奇心が働くはずだ。そしたら、それも手に入れろという事のようである。噺に使おうと使うまいと吸収して、落語だけでなく俺を楽しませてみろというのである。これが大変である。すべて、精通しているから、楽しませることなど出来るわけがない。噺にしたって言葉のイントネーションの違いを自らやって指摘する。だからこそ怒られても、注意されても、小さくなっても、着いてこられたのであろう。あの試験の結果がしっかり出ているのである。

志の輔さんは「バールのようなもの」。落語のようなものは落語ではないよ、とも言える。日本語の解釈は難解である。だから、イエス、ノーはっきりしない腹芸があるのか。

柳亭市馬さん、落語協会の会長さん。年末、掛け取りにくる人の好きな事をやってヨイショして帰してしまう。川柳とか芝居とか。ラストに松岡の旦那の談志さんが来る。談志さんの好きだった三橋美智也さんの替え歌を次々と唄う。談志さんも苦笑いして帰る。声がいい。

トーク  柳亭市馬さん、談四楼さん、志の輔さん、司会・談之助さん

「立川流誕生秘話~30年目の真実~」 真打の昇進試験のことから談志さんが、落語協会を出て立川流を作ったのであるが、その渦中の人が談四楼さんであった。その前に三遊亭園生さんの落語協会脱会があり、その辺のことが今回はっきりした。真打の話しのところで、やたらキウイさんの名前がでてきて、そういう噺家さんがいるのだと思って居たら夜の部に出てこられた。

談之助さんは、本も出していて演題は「立川流騒動記」であった。この話に関しては立川流落語家一番と自負されているようだ。

スタンダップコメディの松元ヒロさんは、政治にたいしても、庶民の言いたいことを笑いと力強さとアップテンポで聞かせてくれる。談志さんに、ネタを取られて談志さんのほうが自分の時よりもどかんと受けていたと話される。

騒動の張本人の談四楼さんは、「明烏」を手堅い語り口で。その当時は解らないが、この方を落とすなんて・・・。

志の輔さんは、立川流誕生によって、寄席経験のない落語家一号である。立川流誕生によって、寄席が無くても落語が劇場でもやれて、落語家も育つ見本を作ってしまったわけである。あれから30年、立川流は落語のすそ野を広げたわけである。

今では、寄席も少なくなり感覚的にしか解らないが、30年前は、席亭の力も強かったのである。寄席は毎日開いていますからね。

夜が「談志の遺言~俺を超えて行け~」。

 

 

明治座 11月 『四天王楓江戸粧』

『四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどぐま)』は、四世鶴屋南北作で、これを観てすぐは、すっきりとしていたのであるが、時間がたってみると、あのすっきり感はどこへ。そして、現猿翁さんの国立劇場で復活上演された録画を観直したら益々混乱状態。これから構築しなおすことにする。原因は、記憶力の低下ではなく、もともとの記憶力の弱さである。

観ていた時は、なるほどそういうことになるわけかと芝居に付いていったのである。猿弥さんと弘太郎さんは、今回は罰ゲーム体制かな。竹三郎さん昼夜大活躍。和泉式部が出てくるんだ。尾上右近さん、次に観るのが怖いほどの出来。猿之助さん、右近さんの力を引きだした。右近さんもよくそれに答えた。市川右近さんの荒事はいい。團子さんもきちんと立ち回りを演じている。名剣の名が子狐丸だからその狐の精がでてくるんだ。小鍛冶を連想する。作り物の蜘蛛の動きもいい。亀三郎さんにしては珍しいもて役。明治座は舞台の奥行が狭いと思うが、上手い舞台設定とし、相当、考慮されたであろう。筋を追いつつそんな事が頭の中を駆け巡っていた。

<四天王>というのは、源頼光の家来の、渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、ト部季武(うらべすえたけ)の4人である。その他、藤原保昌という優秀な家来もいる。碓井貞光→碓井定光、藤原保昌→平井保昌となっている。

善人が、源頼光側で、悪人は亡き平純友側である。純友の妻・辰夜叉はすでに亡くなっているが、その弟の左大臣高明(亀三郎)が辰夜叉(猿之助)を蘇生させてしまう。そこへ来合わせた渡辺綱(市川右近)に対し、辰夜叉は大蜘蛛となって追い払い、辰夜叉に戻り空を飛んで行く。

一條戻橋では、辰夜叉によって御所から追い出された貴族が男夜鷹(猿弥、弘太郎)となり、さぼてん婆(竹三郎)が取り仕切っている。評判の男夜鷹が、平井保昌の弟・保輔(猿之助)で、母(秀太郎)が現れ屋敷に連れ戻す。ここは笑いを取る場面で、猿之助さんと竹三郎さんが、台詞にはない冗談を交えたりする。

平井保昌の館では、辰夜叉の命で、頼光に紛失の宝剣を詮索をするように、それに従わないなら切腹して首を差し出すように言って来る。夫の赴任先に呼ばれていた保昌の妻・和泉式部(笑三郎)は、梅の枝を携えて帰って来る。保輔は、刀を見ると恐れのため体が硬直する奇病を持っている。その為、兄は梅の枝の切り口を持たせ、頼光に似ている弟に身替りとして、その枝で死んでくれるよう暗示したのである。保輔の奇病は母が気性の荒い保輔のためにそのままにしておいたので、それを解いてやり、保輔は刀で切腹する。

和泉式部は、辰夜叉に頼光の首を差し出す。頼光の許嫁・花園姫(笑野)に首実検を命じる。そこへ、保輔を想う式部の妹・橋立(笑也)が現れ、その様子から頼光の首は偽物と解ってしまう。辰夜叉は、式部達の首を討つよう命じる。そこへ「暫く」といって、碓井定光(市川右近)が花道から現れる。ここに『暫』の簡潔な形を入れる。そして、辰夜叉が土蜘の精と合体していることが判明。ト部の妹(春猿)、ト部の弟(團子)、主君頼光(門之助)、公時(弘太郎)、定光らが 土蜘(猿之助)を退治するのである。

これで終わりではない。ここから、もう一つの話が入る。そのあたりが再演は無理と言われた要因のように思える。かつての再演の時は、昼夜での通し狂言である。今回は夜の部だけでの再演である。いかに簡潔にしようとしたかがわかる。読むほうは全部読む気にならないと思う。しかし、観ている時は、こんな感じではない。休憩も挟んでトントントーンと進む。

次は、<地蔵堂の場>なのであるが、相模国と武蔵国の境にある地蔵堂とある。旧東海道の戸塚から保土ヶ谷へ下りの形で歩いた途中に、<武相国境之木>と書かれた木の標が立っていた。そして、権太坂の頂点には、地元の信仰があつい境木地蔵尊があることになっているのだが、この<権太坂>の道を、ずれて歩いてしまったらしいのである。ここだけを歩き直すことにしていたが、雨となり中止となる。おそらく、芝居の<地蔵堂>とは<境木地蔵>のことと思うのだが。

この場では、小鍛冶宗近が打ち上げたという名剣小狐丸が登場する。この刀の精・小女郎狐(猿之助)、ト部季武(猿弥)、逃れて来た高明、平将門の遺児・良門(猿之助)、良門の妹・七綾姫(尾上右近)などが登場し、ここからは、将門関係の者と純友関係の者、頼光関係の者が、からみ合う。七綾姫の持っていた将門の繋馬の赤旗は高明に渡り、小狐丸は良門の手に渡る。

品川宿近くの紅葉ヶ茶屋では、季武が町人に成りすましている。そこの居候の高明も彦左(亀三郎)と名乗っている。彦左は、お七(尾上右近)を名乗る七綾姫とおのぶ(猿之助)を名乗る小女郎狐の二人に想われている。季武の仲裁で彦左を挟んで二人は酒を酌み交わす。ここで、それぞれの素性がばれる。兄良門と再会した七綾姫は小女郎狐に小狐丸を渡し、小女郎狐は喜んで空を飛んで帰って行く。

ここから、良門と七綾姫の立ち回りがある。猿之助さんと尾上右近さんで、尾上右近さんの軽快な立ち回りをたっぷり見れるとは思っていなかった。花道に二本の梯子が立てられる。一本は舞台近くで猿之助さんが上り、もう一本は二階席に届かせていて尾上右近さんが上る。劇場の特質を生かした工夫であり、お客様へのサービスである。照明も色々考えたことであろう。猿之助さんの、今立つ劇場に何が出来るかを考える回線の一部を見たようであった。

全てが明らかとなり、季武は良門を逃がすと告げ、高明は七綾姫と妻に迎えると告げ後日の再会をと大団円となる。

平将門には、七人の影武者がいたとの伝説から、良門や七綾姫の影を七つにしたりと、奇想天外ではあるが、様々な言い伝えが織り込まれており、源頼朝の四天王を使い、登場人物を重複させることによって、芝居の厚みを出そうとしている。そこに、猿之助さんが四役勤めるのである。今回はその芝居の厚みと今まで見れなかった役の役者さんの厚みを楽しませて貰ったように思う。

 

 

 

明治座 11月 『夏姿女團七』

『夏姿女團七(なつすがたおんなだんしち)』は、大阪での『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』の書き換えで、場所も江戸、団七を女に替え、義平次も義母とし、殺しの場が<浜町河岸>である。

女団七を、<團七縞のお梶>と名称していて、あの茶系の弁慶縞の衣装であるが、<團七縞>としているのも、格好よく、粋と義侠心を感じさせる。團七縞の色、柿色というのだそうで、浜町と柿色、明治座と秋の設定も憎いことである。『夏祭浪花鑑』での團七の女房がお梶、一寸徳兵衛の女房がお辰で、『夏姿女團七』では、二人は、一人の女として登場し、両国橋の髪結床で出会う。止めに入るのが、釣船の三婦である。団七縞のお梶の猿之助さんと一寸のお辰の春猿さん、伊達なやりとりを見せてくれる。猿弥さんの釣船の三婦が止めに入るが、斬り合いとなり、お辰の梶右衛門(欣也)から手渡された刀がお梶の探していた宝刀と分る。お梶とお辰が仕組んだ刀探しであったことが判明する。二人は仲間であった。この場面は二幕目である。

一幕目で、場所は柳橋。磯之丞と琴浦が登場し、お局様に変装したお梶の継母とらが、琴浦を姫君として迎えに来るが、お梶の出現でそれが、おとらの狂言で梶右衛門に頼まれてのことであった。磯之丞の門之助さんはこういう役は仁で、芸者の琴浦の尾上右近さんがいい芸者姿となった。そして、女団七だけにお梶の出も考えられていて、猿之助さんもそれに答える。芸者・団七縞のお梶として登場。伝法さの雰囲気もある。狂言がばれる竹三郎さんのおとらの変化が妙味で、お梶とおとらの浜町河岸の場面が楽しみになる。書き換えとして、原作との比較だけでなく、芝居として、どう楽しませるかの工夫がある。

磯之丞の刀も見つかるが、その磯之丞をおとらはおびき出して連れ去ってしまう。そのおとらに磯之丞の行先をたずねるお梶。それが、浜町河岸である。女同士の殺しの場面である。ここが、歌舞伎の女形の強みである。きちんと形となっていく。これが生身の女だと、<女>が前に出てきて様式美にならないと思う。本水を使い、雨が降り、その雨の直線はまるで、浮世絵である。劇場によって、舞台装置も変わるので、その限られた中での工夫もあったであろうが、上手くクリアしていた。書き換えの面白さを満喫させ、予想以上に楽しませてもらった。

作・三世桜田治助/補綴・演出・石川耕氏士

歌舞伎座 7月歌舞伎 『夏祭浪花鑑』 (1)    歌舞伎座 7月歌舞伎 『夏祭浪花鑑』 (2)

<浜町河岸>は、川口松太郎原作の『明治一代女』にもでてくる。そして、歌謡曲『明治一代女』の歌詞にも 「 浮いた浮いたと 浜町河岸に 」 と出てくる。両国橋から明治座方面に隅田川に添っている道を浜町河岸通りという。柳橋は、隅田川から神田川に入る最初の橋である。

大阪から江戸へ、男から女へ書き換えるだけに、場面設定もいい。『夏姿女団七』気に入った。

『明治一代女』を唄われた喜代三さんが、私の好きな映画、山中貞雄監督の『丹下左膳餘話 百萬両の壺』に矢場の女将として出られている。少年を挟んでの大河内傅次郎さんとのコンビが良い。