無名塾 『バリモア』

『バリモア』のポスターが、中折れ帽を被った仲代達矢さんの横顔である。素敵な横顔であるが、これは、偉大なる横顔といわれた、ジョン・バリモアを演じている仲代さんである。

ジョン・バリモアについては、『グランド・ホテル』の<男爵>を演じた役者さんで、それでしか彼は見ていない。品のある甘さで、ちょっと甘すぎるなというのが、印象であるが、一世を風靡したであろうことは想像できる。『グランド・ホテル』自体面白い映画である。ただ<男爵>があっけなく死を迎えてしまう。何があろうと、グランド・ホテルは何もなかったように次のお客様を迎えるのである。

『バリモア』は、アルコールに犯されているバリモアが、かつて成功をおさめた『リチャード三世』を演じようとして、台詞をプロンプターの力をかりつつ思い出そうとする。映画だけではなく、古典の舞台役者としても成功しているのである。ところが、出てくるのは、かつての自分と今の自分の違いである。大スターが今はその片鱗もないという、バリモアの実人生をバリモアによって、語られるという形をとっている。悲劇の大スターの話しという事になる。

ところが、悲劇ではあるが、仲代さん演じるバリモアには、メディアがよく取り上げる悲劇性はない。バリモアが自分の言葉で語りたかった彼の人生そのものがある。バリモアは、仲代さんに自分を演じてもらい、アルコールを楽しみつつ拍手喝采であろう。「そこは少し違うが、まあいい演じ方だよ。そうか、そういう風に陽気にやればよかったのかも。モンスターの観客にはそう言ってやれば良かったんだ。よく言ってくれた。酒がよりうまく感じるよ。」仲代さんのバリモアを見つつ、もう一人のバリモアの声が聞こえる。

バリモアの兄と姉のこともでてきて、『グランド・ホテル』に兄が出ているという。どの人か判らなかったので調べたら、病気で余命が少ないサラリーマン、最後の思い出に分不相応のグランド・ホテルに泊まる男である。映画は昨日見直しているので、バリモアが、兄である役者ライオネル・バリモアについての想いが納得できる。芝居好きの観客にとって見逃せない芝居である。

仲代さんは台詞を覚えられるのに相当苦労されたようであるが、芝居での仲代さんのバリモアにはそんな苦労が伝わらない。むしろゆとりがあり、楽しんでおられるようである。役者さんにとって、それはどう思われることか解らないが、モンスター観客にとっては、大変嬉しいことである。

姿を見せないプロンプターとの声だけのやりとりも、実際の舞台稽古のように息がぴったりで、シェークスピアの作品の台詞が、バリモアの人生の一断片として重なり、シェークスピアはやはり、普遍的な台詞をちりばめてたのだなあと思ったりする。もったいぶっているようで、意外とどこにでもある日常を差し示しているのかもしれない。

リチャード三世の衣装で出きたバリモアの表情が、観客がその姿を見たときのどう見たらよいのかわからない目をしているのを映しているようで可笑しかった。

虚像と実像の間のその空間を演じることは、役者にしかわからないことで、それが面白くて続けるのか、苦しくて続けるのか、その回答がないからこそ続けるのか、鶏と卵のような関係とも思われるが、モンスター観客もなぜ芝居をみるのか、出たとこ勝負である。

バリモアさんは、アジアのある国で、自分を演じてくれたある役者の名前は、酔っ払いつつも、プロンプターなしで覚えたことであろう。

作・ウィリアム・ルース/翻訳・演出・丹野郁弓/キャスト・仲代達矢(ジョン・バリモア)、松崎謙二(プロンプター)

劇場/シアタートラム

加藤健一事務所『ブロードウェイから45秒』

ニール・サイモン作であるが、名前はよく耳にするが、彼の作品は観ているようでどうも観ていなかったようである。

『ブロードウェイから45秒』。この作品の芝居に関しては、残念だがラストは書けないのである。この作家の手の内で転がされて、ラストを迎えると楽しさが十倍返しで、失敗しない作家の腕の中である。

出てくる登場人物が、超個性的。それも演劇を愛する人々の溜まり場のカフェ、喫茶店である。店には沢山の写真が貼られている。スターの写真ではない。名前を世に出すことの出来なかったスターを夢みた人々の写真である。この店の主人はスターは手を貸す必要はない。手を必要としているのは若い演劇人の卵であるとの主義で、何かとそういう人々を手助けしてきたようである。

常連客には、現役のコメディアン、現役の役者、役者をめざす娘、脚本家をめざす男、プロデュサー、芝居大好きの女性二人、そして芝居には全然関係の無い老夫婦、この店をきりもりする経営者夫婦である。これだけの登場人物の人物像を軽快で自己主張の強い台詞を捉えていくのである。笑いたいのに、笑えず振り回される。

そして、登場人物の人物像、考え方まで把握できたと思ったら、こちらは、昼は歌舞伎、夜は翻訳劇のスケジュールで疲れのためか眠気が少し起こる。そこへ、コメディアンのお兄さん登場。この兄弟の掛け合いが面白い。なんだか、ニール・サイモンにこちらの観劇状況を察知されているようである。今まで笑わなかったのを取り返すように声を出して笑ってしまう。コメディアンとしてのシリアスな話も出てくるが、全然それを理解しないお兄さん。

そして興味深かったのが、観客が芝居に出資金を出すというシステムがあるようで、もし芝居が当たれば配当金があるのであろうか。芝居好きの客が出資金を出した話をしている。その芝居の題名が気に入って出資するのである。ところが・・・

笑っているうちに、話が違う方向に展開し、そうだったのかと思っている間を外さず次の展開へとつながる。観客がこの芝居の中にに入っている心理状況を、ほくそ笑んで操作している作家、それが、ニール・サイモンである。頭を抱えて考えているのかもしれないが、ほくそ笑んでいる方が格好いい。

ただし、下手な役者さん達では、作家の意図するように観客を操作できない。操作できる役者としての技がいる。今回はそれが、そろったということである。今回はではなく、今回もであろうか。こういう騙されかたは大歓迎である。

そして、次の加藤健一事務所の公演ポスターもお店に張られていて、話がうまくそこへ繋がるのである。話せないことの多いお芝居でのお芝居の話しである。時には沈黙は金なり?

 

作・ニール・サイモン/訳・小田島恒志、小田島則子/演出・堤泰之

出演・加藤健一、石田圭祐、新井康弘、天宮良、加藤義宗、加藤忍、占部房子、田中利花、佐古真弓、山下裕子、  滝田祐介、中村たつ

場所/紀伊國屋サザンシアター

 

国立劇場歌舞伎『通し狂言 伽羅先代萩』

『通し狂言 伽羅先代萩』は国立劇場である。仙台藩の伊逹騒動を題材としている歌舞伎であるが、有名なのは山本周五郎の『樅ノ木は残った』であるが、こちらは読んでおらず、伊達騒動となると歌舞伎の『先代萩』のほうしか頭にはないのである。

藩主の足利頼兼(あしかがよりかね)が放蕩にふけり隠居させられ、その子・鶴千代が跡取りとなるが、幼いゆえ伯父や執権仁木弾正がお家乗っ取りを計り、それをさせまいと乳人の政岡が孤軍奮闘し、政岡の子、千松が鶴千代の代わりに悪人側の献上の毒入りの菓子を食べ忠儀を尽くして亡くなる。最後は、鶴千代側の家臣の訴えが認められお家安泰となるのである。

一番の見せ場は、政岡と千松親子の忠儀の場、<足利家奥殿の場>である。足利家の悪人に加担している山名宗全の妻・栄御前が、鶴千代が食が進まないとのことで、菓子をもって訪ねてくる。いつ毒をもられるか判らないので、政岡は自分が作った食事以外は鶴千代の口には一切入れさせない。しかしせっかく持参してくれた菓子を辞退辞退することは出来ない。その時、言い聞かせられていた息子の千松が毒見係りとして菓子を食し苦しみだす。悪事をばれるのを恐れ、八汐は、不届き者として千松を殺すのである。

この場の政岡は藤十郎さんで、いつものしどころと違っていた。ことの急変に政岡はすぐ、鶴千代を打掛の中に入れ守るのであるが、鶴千代を他の部屋に写し、奥殿の柱で身体を支え我が子の最後を見届けるかたちをとられた。観ていてこれは、鶴千代を守りつつ見ているよりも政岡にとっては辛さが違うように思えた。この幼き主君を守るのだという気持ちの拠りどころが薄れ母としての気持ちが出てしまうのではないか。しかし、藤十郎さんはそんなこちらの気持ちを跳ね除けるほどの、耐え方をされ、それをじっと見ていた栄御前の東蔵さんが、今殺されたのが、実は政岡の自分の子千松ではなく鶴千代君で政岡は自分たちの仲間と思い込むのである。自分の子が殺されるのを目の前にして、あんなに耐えられないとの解釈で栄御前は政岡に連判状を渡してしまう。驚く政岡。

栄御前を送った花道での政岡の心の内の推し量れないほどの深さが凄かった。そしてことの成り行きからか、藤十郎さんは懐剣の袋をきちんと被せず紐を巻き、その後皆が去り、千松と二人きりになり母の気持ちとなって千松を褒め讃え、悲しみを現すときも、その懐剣袋の乱れと紐の乱れが、母親の気持ちを表し強い印象を残した。赤の袱紗を、息絶えた千松の首にかけてやるのを、今回初めて気がついた。八汐に抉られた傷口を隠したのであろう。今更ながら見落としていることが沢山ある。今思うに政岡の着物の赤が、派手な赤ではなく、不思議にもっと落ち着いた赤に捉えていたようで、やはり、藤十郎さんの芸のなせる力であろう。

善人と悪人が判り易かった。先ず出の頼兼の梅玉さんの伽羅の下駄の足さばきには恐れ入った。あの下駄が香りの良い伽羅なのだと思って見ていたら、その足さばきに見惚れたのである。足だけが動いているわけではない。身体の使い方が、足の下駄までをも美しく見せていると言うことである。騒動の原因となった藩主は、自分の美意識をきちんと持っていた人なのかもしれないと思わせられる頼兼であった。

善人のほうは、政岡の扇雀さん(竹の間の場)。冲の井の孝太郎さん。松島の亀鶴さん。相撲取りの松江さん。男之助と渡辺外記の彌十郎さん、細川勝元の梅玉さん(二役)。

悪人は、八汐の翫雀さん、大江鬼貫の亀蔵さん、黒沢官蔵の松之助さん、忍び者の橘太郎さん、山名宗全の市蔵さん、女医者の秀調さん、仁木弾正の橋之助さん。

竹の間の扇雀さんの政岡は一歩も譲らぬつよさがあり、孝太郎さんが気持ち良いくらい八汐をやり込めて政岡を助けてくれる。松島の亀鶴さんも静かに控えているが身体が大きく、翫雀さんの八汐は三対一で、企みが裏目裏目になるのでもう少しにくにくしさと貫禄で押して欲しい。翫雀さんの頑張りどころであるが、こちらの考えている八汐とは違う八汐を考えられているのかもしれない。翫雀さんは上方歌舞伎を意識されているようで、江戸と上方がまだよく分からない。松江さんは近頃、様々な役に挑戦されている。橋之助さんの仁木弾正は、花道すっぽんからの出と引っ込みまで、不敵なかすかな笑いに悪があっていい。

政岡の連判状を盗み、そこから大詰めの対決と刀傷の場は、適材適所で、女だけの場から、男だけの場へと上手く気分を変えてくれた。若手の国生さん、虎之助さん、新悟さん、梅丸さんも行儀よく勤められた。最近とみに、脇役の役者さん達の台詞が聞きやすく、芝居の内容を知るうえで重要なので助かる。幕開きから耳を澄まして聞いていると、これからの芝居登場人物の様子や、事の成り行きなどを語ってくれているのである。これからも宜しくお願いしたい。

奈良の柳生街道(3)

2日目。滝坂の道コースである。この道は石仏を見て歩くコースである。どんな現れ方をしてくれるのかワクワクである。先ずは1日目見ることの出来なかった<円成寺>からである。思っていた以上に心地よい迎え方をしてくれる。楼門(ろうもん)と本堂を映す庭の池が、これは紅葉の頃はたまらない美しさであろうと溜息が出る。さぞ混雑するであろうと思うが、お寺の方の話しだと、駐車場がバス2台しか入らないそうである。ここは、バスの便を考えるとどうしても避けてしまい、先に他をと思ってしまう場所である。

 

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円城寺>には、 運慶の最初の作品ではないかと言われる、若き運慶作の国宝大日如来像がある。後白河法皇によって寄進されたという多宝塔(現在は三代目)に安置されていて、保護のためにガラス張りである。光の加減から、ガラスに顔を近づけ両手で光をさえぎって観るとよい。写真でしかはっきりと観れないが、均整のとれた姿で、頬がふっくらとしていて、髪の毛一本一本がわかるような彫り方である。

他の女性お二人は、神奈川の金沢八景から来られていて、金沢文庫にこの仏像がきたとき、間近から拝観されたそうである。うらやましい。このお二人から、急に滝坂の道を私たちもこれから行きたいと言われたのであるが、私たちは初めての道で、昨日も道に迷っているので、申し訳ないがご一緒出来ないとお断りする。本堂の阿弥陀如来坐像、可愛らしくて聡明な聖徳太子立像、四天王立像などを拝観し、1時間ほどここで時間を取り出発である。

さっそく石畳の道となり東海道の箱根を思い出す。迷うことなく順調に進む。広い道路から集落に出て、峠の茶屋があるが、茶屋は閉められていた。これからいよいよ石仏群の道に入るかなと思ったら、左手に無理をしないようにと言われた道の入り口にさしかかる。そこで後ろからこられた夫婦連れのかたに挨拶すると、お二人は左の道を進むという。何回か来ていてその道を歩いているということなので、同道を申し入れる。快諾してくださる。やはりアップダウンの道である。

地獄谷石窟仏>を観ることができた。以前は無かったというが、やはり保護のため柵などがあるが、石仏絵には彩色が残っている。途中ご主人が、以前来た時と道の様子が違うからと先に様子を見にいかれる。やはり初めての同道者がいるので気を使ってくださる。大丈夫のようである。盛り土されたような細い道もあり、山道である。お蔭さまで基本の柳生の道に辿りつき、<首切り地蔵>の前にでる。

 

 

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首切り地蔵>は首に亀裂が入っていて、これは石質が軟弱だからなのであるが、荒木又右衛門の試し切りとも言われている。それにしても、お地蔵様の首を試し切りとは、荒木又右衛門も剣豪ゆえの迷惑な言われ方である。荒木又右衛門も、新陰流である。そういえば、武蔵も荒木又右衛門も、12月の歌舞伎座と国立劇場の演目に関係してくる。12月の国立劇場『伊賀越道中双六』はかなり複雑な話となるようで、あぜくら会の集いで、吉右衛門さんをゲストに解説とトークショーがあった。三大仇討ちの一つ<伊賀上野の仇討ち>を題材にしている。12月は仇討ちの月のようである。

 

 

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今はこの<首切り地蔵>の場所は休憩所があり、ここで持参の昼食をとることにする。春日山の原生林の中であるが、何本か道があり、休憩所もあるため、人の通りが一番多い。食事後、ご夫婦がこのまま進みますがといわれ、再び同道させてもらう。川の流れを交叉しつつ歩き、滝坂道弥勒三尊磨崖仏(たきさかみろくさんぞんまがいぶつ)・朝日観音滝坂道弥勒立像磨崖仏(たきさかみちみろくりゅうぞうまがいぶつ)・夕日観音に逢うことができた。木々の間から朝日を浴びることから<朝日観音>、夕日に映えることから<夕日観音>と呼ばれている。

 

朝日観音

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磨崖仏

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この道を通った修験僧は何を思ってこの石仏を彫ったのであろうか。六道のどの道の煩悩に苦しんでいたのであろうか。そして、剣豪たちは、何を思いつつこの石仏の道を歩き、柳生を目指したのであろうか。石仏のその剥落のみが知っている柳生の道である。

時々振り返りつつ、柳生の石畳みの道との別れを惜しむ。

 

 

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そして、春日大社の若宮神社のそばでご夫婦とお別れする。お二人のお蔭で、2日目はスムーズに滞りなく、柳生街道を愛でることができた。そして、二人では無理と思っていた<地獄谷石窟仏>への道も歩くことができた。途中で、新薬師寺に行くならこちらですよと言われたのであるが、友人にはまたの機会にささやきの小道から志賀直哉旧宅、新薬師寺、百毫寺、ならまち、元興寺のコースを別枠で回ってもらいたと考え、春日大社、東大寺の方を勧める。

そして、二人は、次の道をお互いに想い描いていて、帰ってからすぐ、その計画は迅速に進んでいる。

 

奈良の柳生街道 (2)

柳生の里までたどり着くまで、幾つかの<六地蔵>に出会う。<六地蔵>は、六体のお地蔵様が立っていたり、一つの石に彫られていたりする。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道を生命は輪廻しつつ生き変わることを現しているらしい。 <天乃立石神社><一刀石>の森から<芳徳寺>へ向かう。

芳徳寺>は、柳生宗巌石舟斎の屋敷跡で、柳生宗矩が父の菩提寺として、沢庵和尚が開基し、宗矩の末子列堂和尚が初代住職である。史料室に、沢庵和尚、列堂和尚、宗矩の像があり、石舟斎による「新陰流兵法目録」も展示されている。

 

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このお寺の裏に柳生一族のお墓があり、そのお墓の入口にも<六地蔵>の石碑がある。墓地で柳生十兵衛のお墓を探すが無い。十兵衛は三巌(みつよし)の名もあり、後になってそれを知り、友人とお互いに<柳生三巌>ならあったような気がするとメールし合う。字の読みづらい碑もあり、読めないと軽く素通りしたら、山岡荘八さんの文学碑であった。大河ドラマ、「春の坂道」の原作を書かれている。なんともいい加減な旅人である。<芳徳寺>への違う道で、この石段から上りたかったと思う風情のある石段が見つかるが下から眺めるのみ。下りながら<正木坂道場>へ。今でも使われている。外国の方も修業に来ているらしく、私たち不思議そうな目をしていたのであろうか。「私フランス人。合気道やってます。」と言われて道場に向かわれた。

やっと昼食。要望のお粥定食に。赤米と黒米の古代米のお粥に黒米の小さなお餅が二つ入っていて香ばしい。素朴な味である。旅の時など胃も疲れているので、胃に優しいのがいい。例のフランス人の修行者が入って来られ、いっときの息抜きであろうか。茶屋を出る時、「頑張って下さい。」と声をかけると、「頑張ります。」と言われ出口まで歩いてこられ見送ってくれた。さすがフランス人。それぞれの国の習慣の違いであろう。

史跡公園となっている<旧柳生藩陣屋跡>。柳生藩は将軍の剣道指南役で家康、秀忠、家光三代に信任も厚かったが、江戸定府大名で江戸常駐のため、城はなく城下町としての発展がなかった。それだけに、柳生の里という神秘的な意味合いを含むのである。

 

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石垣の立派な<家老屋敷>は、江戸後期の家老小山田主鈴(おやまだしゅれい)の屋敷である。米相場で柳生藩財政の立て直しに貢献している。この家老屋敷は、昭和39年に作家の山岡荘八さんが購入し、ここで『春の坂道』の構想を練ったそうで、大河ドラマの写真も展示してあった。その後、奈良市に寄贈され史料館として公開している。

 

 

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柳生の里も散策し終わり、暗くならない内に予定通り奈良ゆきのバスに乘ることができた。バスの本数が少ないため、混雑時期は、奈良まで立つ場合もあると旅行雑誌にあった。時々出逢う団体さんがバス停にいないので不思議に思っていたら、先にもう一箇所バス停があって、すでに乗られていた。二つ席は空いていたのでほっとする。1日目満足。

帰って来て、映画『宮本武蔵』(原作・吉川英治/監督・内田吐夢/主演・中村錦之助)を見返す。5本のうちの三部にあたる『二刀流開眼』から見始める。武蔵が柳生石舟斎を訪ねるのである。武蔵が柳生の庄を見下ろす場面があるが、私たちが行かなかった<十兵衛杉>のある場所からなら、柳生の里が見渡せる。<十兵衛杉>は十兵衛が諸国修業の旅に出る時に植えたとされ、落雷のため枯れ、今は二代目がその横に育っている。帰りのバス停から見えたが、そこまで上る元気はなかった。武蔵は石舟斎の切った花のしゃくやくの切り口から腕の凄さを知り、是非会いたいと思うが、会う事出来なかった。しかし、その門弟たちと斬り合うかたちとなり、そのとき二刀流に開眼するというものである。そのあと、吉岡清十郎(江原真二郎)との蓮台寺野の決闘がある。

石舟斎は、現芳徳寺の位置に住んでいたことになる。石舟斎は剣人とは誰とも合わず、藩主は江戸におり留守であると門人に伝えさせるが、なるほど宗矩はずーっと留守なわけである。藩陣屋敷へも武蔵は行くが、その時の見上げた石段は、現在残っている石段の雰囲気がある。同じ風景を当てはめたのであろう。石舟斎は薄田研二さんで、この役者さんは悪役も、こういう深見のある役もこなせる不思議な方である。沢庵和尚は三国連太郎さんである。『二刀流開眼』『一乗寺の決斗』『巌流島の決斗』『般若坂の決斗』『宮本武蔵』と気ままな順番で見直したが、面白かった。『一乗寺の決斗』のカラーでありながら決斗場面はモノクロというのが、素晴らしい効果であった。

柳生の里も、なぜか、<柳生と宮本武蔵>の旗がひらめいていた。

 

奈良の柳生街道(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

奈良の柳生街道 (1)

「奈良の柳生の道を歩きたいのよね。」と旅仲間の友人に話したところ、「いつにしようか?」とトントンと決まる。決まってから、奈良のアンテナショップへ行き、奈良関係のパンフと柳生の地図をゲットして、柳生街道の様子を尋ねる。案内の方は、一日で柳生の里まで奈良からバスで行き、そこから剣豪の里コース、滝坂の道コースを歩いてもどったといわれる。バスの本数が少ないので、バスの時刻表もパソコンで調べ印刷してくれた。

私の足では、円成寺を真ん中として2日に分けることを提案。友人も、ゆっくり見つつ歩くとそのほうが良いと判断して、2日コースとする。円成寺の前が忍辱山(にんにくせん)バス停で、バス停と柳生街道が合流しているのはここだけと言ってよい。どの程度のアップダウンの道かは行ってみなければ分からない。案内の方の様子だと、ほどほどの高低さと思われる。一つだけ注意されたのは、滝坂の道で途中脇道があり地獄谷石窟仏が見れて滝坂の道にもどる道があるが、そこは、アップダウンがあるので雨の時は避けた方が良いとのアドバイスであった。

一日目と二日目の行程をどう取るかである。私が、柳生の里にある、茶店で赤米のお粥を食べさせるところがあるらしいので、そこで昼食にしたいと希望を出す。彼女は検討してくれて、1日目は、奈良からバスで忍辱山(にんにくせん)バス停まで行き、円成寺には寄らず柳生の里を目指し柳生街道を歩き、「柳生茶屋」で昼食をして、柳生の里の見るべきものをみて、バスで奈良にもどる。2日目は、忍辱山バス停まで行き、円成寺を見て滝坂の道を奈良に向かう。後は、見学の時間を調整しつつ、バスの時間に合わせての行動である。

どうなることかと思った台風も過ぎ、一日目の行動開始。近鉄奈良から忍辱山バス停まで30分位である。そこでバスを降り、バス道路から柳生街道の道に入る。地図は柳生の里から忍辱山バス停までへの書き方なので、私たちは逆コースであるから、地図で上りなら実際は下りと反対に考えなければならないのである。友人がしっかり地図を見て進んでくれるので心強い。川の水音がし、木々に囲まれ嬉しくなる。梵字を彫った石碑なども道端に立っている。柳生の地で最も格式高い<夜支布山口神社(やぎゅうやまぐち)>。ここの神の分霊は、大柳生の二十人衆が一年ごと交代で預かる習慣があるらしい。こういうのを「回り明神」というらしい。この本殿の北側には、<立磐神社(たていわ)>もあり、巨岩が御神体である。この辺りは巨石信仰が多い地である。

 

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そこから大柳生の集落に出るための道に入っていくのであるが、途中で道を間違え聞くにも畑には人もいない。戻って道標をもう一度確かめ、木々に覆われた道を進む。台風の後で、道に水たまりがある。しかし、山栗も落ちていて 「いいね。忍者がでてきそう。」 人里に出る。柿の木は、たわわにびっしり実をつけている。誰かいないであろうかと人を探し、一個だけ柿を所望する。するとその方、その柿は渋柿だからと、車に積んだ取ってきたばかりの柿をくださる。ほのかに甘い柿を食べつつ民家の間の道を歩いていたら、大きなバス道路が見える。これはおかしいと引き返す。柿に夢中で道標を見ずに進んでいた。帰りのバスがこの辺りのバス停で、通学の子供達がこちらのバスから違う方向のバスに乗り換えていた。通学の子供用に、学校の開校日のみ運行するバスがあり、路線バスがスクールバスを兼ねているのである。

大柳生を過ぎると、坂原の庄で、その先に<南明寺>があり、本堂は鎌倉時代のものであるが、中は予約制のため見れない。<南明寺>の裏の石垣の下には、<お藤の井戸>がある。柳生但馬守宗矩(むねのり)と側室お藤の方が出会った場所である。洗濯をしていた娘に「桶の中の波の数は」と尋ねたところ「波(七×三)は二十一」と答え、「ここまでお出でになった殿様の馬の足跡の数は?」と問い返した機知が気に入ったようである。ここで、20人ほどの団体の方達と出会う。私たちは道に迷ったりしたが、この団体のかた達の世話役のかたは、事前に歩いて下調べしていた。ここから先は上ったり下りたりして阪原峠(かえりばさとうげ)を越えると巨岩に彫られた<疱瘡地蔵(ほうそうじぞう)>が迎えてくれる。疫病神から守ってくれるのが疱瘡地蔵である。

 

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そこから、<天乃石立神社(あまのいわたち)><一刀石>へのうっそうとした森に入っていくのであるが、<天之石立神社>と<一刀石>を見てきた二人の女性が、「良かったですよ。十兵衛杉は枯れていました。円成寺までどれくらいかかりましたか。」など情報交換である。「円成寺からここまで4時間ちょっとかかっています。途中道に迷いましたので。」このお二人は円成寺のバス停で4時のバスにのられたので、円成寺を見学されたとすると、私たちのように、柿など食さず道に迷うことなくたどり着かれたようである。

 

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<天乃石立神社>は平安前期に記録のある古い神社で、三つの巨岩が御神体である。<一刀石>は、幅八メートルほどの巨岩の真ん中が一太刀入れたように割れているのである。ある夜、柳生宗厳(むねよし・石舟斎)が天狗を切り、次の朝見ると巨岩が裂けていたというのである。見事な裂け方である。ここから剣豪柳生一族の住んでいた場所の見学へと続くのである。

 

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2014年11月2日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

『ダニール・トリフォノフ ピアノリサイタル』と『馬と歌舞伎』

『ダニール・トリフォノフ ピアノリサイタル』と『馬と歌舞伎』

二つの関連性は何もありません。プロのクラシックのピアノだけの音楽会は生まれて初めてと思う。学校教育での音楽の時間の音楽鑑賞は、今日こそ眠りに勝つぞと思ってもいつも睡魔には勝てなかった。ピアノだけとなるとなおさらである。それゆえ、感想など書くどころではないので、<と>ということで二つのことで字数を増やそうとの魂胆である。

苦手なピアノ・リサイタルになぜ行ったか。映画 『パガ二ー二 愛と狂気のヴァイオリ二スト』 『不滅の恋 べートーヴェン』 から 映画 『楽聖 ショパン』 『愛の調べ』 の映画へと音楽家の映画が続いたが、その時、ピア二ストでもあるフランツ・リストの技巧的なピアノ術に興味をもった。クラシックの場合、技巧的に走るのを嫌煙しているように思って居たのである。ダニール・トリフォノフさんという方がどんな方か全く知らないのであるが、チラシの演奏曲目の一つに注目した。 <F・リスト:超絶技巧練習曲集 S.139/R.2bより> 暗号みたいである。<リスト>と<超絶技巧練習曲> ここだけに注目である。ピアニストの指の動きを見たいがすでにそういう席は無し。

東京オペラシティコンサートホールである。驚いたのは、ピアノの音がおおげさに言うとぼあ~んと響くのである。CDなど聞いていると、ポンポンと切れるのにポンのあとに響きがあるのである。生演奏はやはり微妙な音域があるのであろう。

始まってすぐ、困ったことに、空調のため、喉が咳を要求する。両手で口を押さえ、口の中で舌を動かし唾液を分泌させ、何んとか難関を切り抜ける。静か過ぎてバックからハンカチも取り出せない。マスクを持参したほうがよさそうである。それからこういうところでは、靴音のしない靴がよい。何かで急に退出するとき歩けなくなってしまう。

演奏のほうは素晴らしかった。ピアノも体力勝負の格闘技に思えた。やはり技巧的であった。技巧的をわかって言っているのではない。指の動きが速い演奏も加わり、何かを表現しているのであろうと思うがその風景は観えない。しかし帰ってから、ピアニストのグレン・グールドの録画を見たくなって見たのであるから、相当の刺激を受けたことは確かである。自動ドアを開く位置には立ったようである。

『馬と歌舞伎』は日本橋三越でやっているイベントであるが、JRA60周年記念で、海老蔵さんがイベントの案内人ということで、歌舞伎の馬に関しても展示があったのである。競馬は興味がないので、歌舞伎の馬を見てきた。人が入り動かす馬である。競馬の馬も今日は走りたくないと思うこともあるであろう。歌舞伎の馬は競争はできないが、そういう時は戯人化して伝える能力がある。歌舞伎演目『寿三升景清ー関羽-』で海老蔵さんが乗られた白馬が展示してあり、なかなか立派である。馬の前の首のところから、前足担当の役者さんは舞台を見ることが出来ることがわかった。

下座音楽で使う<馬子唄鈴>も触ることができ、沢山鈴が付いていて軽やかな鈴の音を出す。竹でできた<馬のいななき笛>、街道や宿場を現す<駅路>と名のつく鳴りもの道具もあった。馬の足音を出すものも。『助六』が身につける印籠も展示されていて、黒地に真っ赤な牡丹で葉が金地である。助六さん、なかなかオシャレで派手な印籠を下げている。『勧進帳』の巻物は軸が水晶である。さすが、さすが、歌舞伎の小道具である。<超絶技巧>的である。

二つ、少しつながったようなのでこの辺で。

 

『北斎 ボストン美術館 浮世絵名品展』 上野の森美術館

京都国立博物館の「国宝 鳥獣戯画と高山寺」展で 音声ガイドナビゲーターが、佐々木蔵之介さんであったが、その時思い出した。猿之助さんのナビゲーターもあるのだと。 太田記念美術館 『葛飾応為』 で、まだまだと思っていたら、上野の森美術館で、9月から始まっていたのである。11月9日で終わりである。並ぶのが嫌いな私も開館1時間前から並ぶ。

天才というものは、頭の中から湧きあがるものが、その人を押しつぶしてしまわないかと心配になるほど、次から次へと出てくるものだと呆れてしまう。北斎は90歳まで生きたわけで押しつぶされはしなかったが、その発想と技量は凡人には気が遠くなるような膨大さである。

役者絵から始まって、富嶽三十六景、諸国瀧廻り、花鳥、お化け、百人一首、さらに、切り取って組み立てる組立絵、押し絵のように裏に詰め物をして重ね張りをして厚みをだすようにできるもの、お客の要望の店の包装紙や張り箱絵などの個人的刷り物など、その都度、新しい構図、それぞれの特徴を生かす工夫をしている。それも斬新にである。

そもそも、フェノロッサによって、1892年から1893年にかけ、ボストン美術館で、アメリカで初の日本美術展覧会が開かる。フェノロッサの日本美術に対する貢献度は計り知れないものがある。保存状態も良く、藍色をはじめ実物を見れた満足感に浸れるそのものの色である。次第に館内も混雑してきて一つの作品を長く見つめて居られないし、天才のものを見たからと言ってこちらが天才になるわけではないから、感嘆し、感動し、感心し、どんどん忘れていくしかない。そして、どこかで、またお会いしましたねということになる。その一つが「富嶽三十六景 深川万年橋下」であったりする。

「東海道五十三次 」では日本橋、志な川、川さき、かな川、程がや、戸つか、ふじ沢が展示されている。広重と違い、旅をする人物が主となっている。

花鳥では、花に向かって突進していく鳥類(とんぼ、蝶、つばめ、すずめ等)が印象的であった。枝に止る鳥たちも身体をひねり、ただ鳥を花に対する添え物とはしていない。花は風にゆれるだけであるが、羽のある生き物の風を起こす力も表現している。

歌舞伎の演目に関係したものもあり、「忠臣蔵」(初段から十一段目)などが目を引く。

さてさて、葛飾応為の「三曲合奏図」である。最後に展示されている。<琴><胡弓><三味線>を演奏する女性三人の姿が描かれている。琴を演奏する女性は正面で後ろ向きで顔はわからないが、着物の柄が黒地にすそに蝶が舞い散り鮮やかな色使いである。左上の胡弓の女性は顔は正面で着物は濃い鼠色に黒の格子縞でそでから覗く襦袢に赤を使っている。右上の三味線の女性は横向きで、着物は一番地味で背景の色と同系で色名は表せない。左の女性から考えると、娘、華やかな恋をしている女性、妻女という設定も考えられる。楽器を操る手の指が楽器の違いもあるが、娘は左右しっかりと胡弓を握っていて、恋する女性の指は細く長く踊っており、妻女は右手はバチを握り左の指は三本の糸を押さえ、落ち着きがある。母と二人の娘という設定もなりたつ。これだけ絵はがきを購入したが、眺めているとそれぞれの楽器の音が聞こえてくるようである。それにしても、正面の女性を後ろ向きとは、斬新である。そのことによって、合奏に無心なのか、心ここにあらずなのかなど、色々に想像が働く。応為は面白い。

メナード美術館に問い合わせたところ、葛飾応為の「夜桜美人図」は常設されているのではなく、展覧会の趣旨に合わせて展示されるようである。また、<異才>に会える楽しみが先にのびた。

猿之助さんのガイドナビゲーターは、絵を見つつ、そして、休憩しつつで2回聞いてしまった。一つだけ書いてしまうと、あの有名な高い浪の遥か彼方富士山の「神奈川冲浪裏」を見て、ドヴィシーは「海」を作曲し、ロダンの恋人のカミーユ・クローデルは「波または女たち」の作品をつくったのだそうである。「神奈川冲浪裏」は北斎が72、3歳ころの作品と推定できる。晩年は号を<狂画老人卍>としていたようであるが、<狂>だけでは描けない<真>のあった天才と思う。

 

 

国立劇場10月 『双蝶々曲輪日記』(2)

『引窓』は、京都の八幡の里での話である。明るい下座音楽で始まる。この里の家は息子が嫁を連れて帰り倖せな時を過ごしている。嫁は元遊女の都でお早と名を改めている。「笑止」と廓言葉を使い、姑のお幸から注意されたりするが屈託がない。濡髪は大阪から逃れ、この母の嫁ぎ先の家でお早(都)とも再会する。与兵衛とお早が夫婦となったのを知り、「同じ人を殺しても運のよいのと悪いのと」とつぶやく。与兵衛も人を切っていたのである。与兵衛は幇間(たいこもち)佐渡七を殺していたが、グルになっていた若旦那の山﨑屋の番頭・権九郎は贋金師(にせがねし)で、相手が悪人であるゆえに罪にはならなかったのである。<新清水の場>で悪人たちのことは明らかにされているので、濡髪の言葉の意味がわかるし、お早が遊女だったこともわかる。

さらに与兵衛の亡くなった父は、庄屋代官で、与兵衛もその役を引き継ぐことになり名も父の十次兵衛を継ぐ。喜ぶ継母のお幸とお早。十次兵衛はさっそくお役目を仰せつかる。十次兵衛が同道した侍は、濡髪に殺された者の関係者で十次兵衛も共に濡髪を捕らえる立場となる。

それを知ったお幸とお早の驚き。喜びは束の間であった。二人の様子にいぶかる十次兵衛。お幸は十次兵衛に、自分の永代供養のために細々と貯めたお金で濡髪の人相書きを売ってくれと頼む。そこまでしてでも欲しい人相書き。十次兵衛は二階にいる濡髪が、継母が養子に出したという実の子と悟る。生さぬ仲の義理人情。次第に事の次第を理解していくの十次兵衛の様を染五郎さんは浮彫にする。夜になったら自分の役目で科人を捕まえなくてはならないと、逃げ道を教え立ち去る十次兵衛。

濡髪は、自分が十次兵衛に捕らえられなければ義理が立たないと思う。逃がしたいと思う母とお早。前髪も剃り落とし変装させるが、未来のある十次兵衛の人生を潰してしまうのかとの濡髪の言葉に考え直すお幸。自分は実の子を捨てても、継子に手柄をたてさせてやらねばならぬ立場であったと濡髪によくいったと言って、引窓の細縄で濡髪を縛る。この時のお幸は、幸せであったと思う。養子にだしていた我が子が、しっかり自分に意見するまでに成長していたのであるから。十次兵衛があらわれ、その縄を切ると引窓が開き、自分の役目は夜だけで夜が明ければ役目も終わったと濡髪を逃がしてやる。継子の自分に対する思いやり。お幸は、かけがえのない二人の息子を手にしながら別れなくてはならない悲しさ。この天井の明り取りの引窓の開け閉めで、夜と夜明けを解釈するところにこの作品の人の心がある。

母親の心を通して、それぞれの立場としての兄弟愛を描いているともいえる。深く思う人々の心の動きを、染五郎さん、東蔵さん、芝雀さん、幸四郎さんが情感をもって構成していった。

<新清水の場>は、桜が満開で華やかな場面となっている。与兵衛は、鳥笛売りで、傘に鳥笛を下げている。その傘で、清水の舞台から飛び降り、空中散歩である。角力場では、濡髪と放駒の衣装の対比もあり、目を楽しませてくれる。そして次第に家族の話しに移って行き、<引窓>でその奥深さを見せてくれるのである。歌舞伎はこのように華やかさと、心理描写を兼ね備えた作品もあり多種多様である。

出演 / 高麗蔵さん、松江さん、廣太郎さん、廣松さん、宗之助さん、錦吾さん、友右衛門さん 他

 

国立劇場10月 『双蝶々曲輪日記』(1)

『双蝶々曲輪日記(ふたわちょうちょうくらわにっき)』。歌舞伎の演題は、読むのも、漢字で書きなさいと言われても難しい。この『双蝶々曲輪日記』も、その中でよく上演される『引窓』と言えば通じるのである。

国立劇場の歌舞伎は<通し狂言>を基本にしているので、<新清水の場><堀江角力小屋の場><大宝寺町米屋の場><難波芝居裏殺しの場><八幡の里引窓の場>となっている。『角力場』『引窓』が単独での上演回数が多く、<新清水の場>は初めてと思う。双蝶々とは、濡髪(ぬれがみ)長五郎と放駒(はなれごま)長吉の二人の力士の<長>をかけて、<双蝶々>としているのである。力士が蝶とは、歌舞伎の発想は、実に蝶のようにヒラヒラと飛んでいる。であるから、わからない時は、また勝手に飛んでしまった、と思うことにしている。

芝居としては、最後の『引窓』へ引き込まれていく。通しなので、『引窓』での台詞一つ、一つに、そういうことかと納得させられるのである。

遊女・吾妻と、豪商の若旦那・与五郎とは深い仲。もう一組、遊女・都と与兵衛も深いなかである。双蝶々にはこの<与>も暗示しているのかもしれない。『引窓』では、<長>の濡髪と、<与>の与兵衛の話しとなるのである。

吾妻に横恋慕する侍・郷左衛門がいて、この侍が贔屓とするのが、放駒である。一方、濡髪は恩ある人の息子の与五郎のために働くので、相撲だけではなく、濡髪と放駒は敵対することになる。濡髪は関取で、放駒は素人で飛び入りのような形で関取と勝負して勝ってしまう。濡髪は、わざと放駒に負け、放駒を見方につけようとする。それが、『角力場』で、濡髪の関取としての大きさを幸四郎さんが見せ、放駒のやんちゃな若者ぶりを染五郎さんが見せ、その違いを楽しく堪能させてもらう。

放駒は米屋の倅でいながら力があるゆえ喧嘩に明け暮れ、姉が一人で店を切り盛りしているが弟に手を焼き、仕事仲間にうその芝居をしてもらい、弟を諭す。その場に濡髪もいて、姉の弟を思う心持ち、肉親の愛に感じ入り姉に加担する。放駒も納得し濡髪と義兄弟の契りを結ぶ。魁春さんが、親のいない姉のしっかりさを見せる。

与五郎と吾妻は駆け落ちするが、郷左衛門らに見つかってしまう。濡髪が駆けつけ二人を助けるが、ひょんなことから郷左衛門らを切ってしまう。遅れて駆けつけた放駒に後をまかせ逃走するのである。

濡髪は一目、八幡に住む母に逢いたいと訪ねる。母お幸は、長五郎を養子に出し、後妻としてこの地に嫁に来ていたのである。喜んで迎える母。力士などやめ、ここに一緒に住めと勧める母。実は、お幸は、与兵衛の継母であり、今は、与兵衛の嫁となっているお早(都)の姑なのである。芝雀さんの遊女と女房お早の違いの見せ所であり、東蔵さんの二人の息子への母の立場の見せ所である。

染五郎さんは、与五郎、与兵衛、放駒の三役で、それぞれの心根の違いをきちんと演じ分けられた。与五郎で若旦那のぼんぼんの柔らかさ。飴売りに身をやつしているが筋を通す与兵衛。濡髪と張り合う精一杯の外目の姿と、一歩も引かぬ男の意地を見せる放駒。さて、『引窓』はいかに演じられるか。