友 遠方より来たる (1)

2014年1月の最大イベントは、遠方より友が来て、東京の町歩きをして、飲み語らうことであった。町歩きは谷中周辺から上野と決めた。谷中・根津・千駄木の谷根千となるとかなり範囲が広くなり、さらに上野に抜けるとなると時間的無理が生じる。

何時ものことながら内田康夫さんのお世話になって『上野谷中殺人事件』を読む。<谷根千>の命名者・森まゆみさんをモデルとしているらしき人も登場する。森まゆみさんは世田谷文学館の『幸田文展』の監修者でもある(堀江敏幸さんと)。世田谷文学館 『幸田文展』 この小説に出てくる江戸川乱歩の乱歩から名前をとった喫茶店「蘭歩」は三崎坂にあることになっていて、三崎坂につながって千駄木にあるのが、団子坂である。団子坂には青鞜社発祥の跡や森鴎外の旧居「観潮楼」跡に森鴎外記念館がある。そして、乱歩もこの辺りに住んでいて乱歩の小説『D坂殺人事件』のD坂は団子坂のことである。『D坂殺人事件』が大正時代に倒錯した性、錯覚の説明などを書き表しているのには驚いた。江戸川乱歩は、エドガー・アラン・ポーからとっているが、ポーの『モルグ街の殺人』を鴎外は『病院横町の殺人事件』のタイトルで訳している。『上野谷中殺人事件』には、谷中銀座、昔藍染川だったよみせ通りが出てくる。

風野真知雄さんの『耳袋秘帖 谷中黒猫殺人事件』は時代物で、三崎坂は三遊亭圓朝作の『牡丹燈籠』の舞台の坂と説明している。三崎坂を上がりきったところに岡場所があり、そこを左に曲がると五重塔で有名な感応寺(かんのうじ)でのちに天王寺となったらしい。今は無きこの五重塔が幸田露伴さんの小説『五重塔』のモデルである。その他、七面坂、千駄木坂、三浦坂、芋坂なども出てくる。時代ものであるから、今は流れていない藍染川が流れている。

谷中・千駄木は数回歩いているが、時間も立っており心もとないのと、地図を見ていると歩きたくなり日暮里から下調べである。日暮里から御成坂を上がって左手の朝倉文夫の朝倉朝塑館を確認。御成坂にもどり右手の諏訪神社をめざしそこから富士山の見えていた富士見坂を下り、適当なところから夕焼けだんだんの谷中銀座へでる。そこを抜けるとよみせ通りにぶつかる。それを左に千駄木方面に向かうと三崎坂にぶつかり右手は団子坂。三崎坂を渡りへび道へ。この道は旧藍染川のながれにそってヘビのようにくねくねと曲がった道である。そこからあかじ坂、三浦坂を探し不忍通りに出て忍ばず池を目指す。不忍池は琵琶湖に見立て、弁天島は竹生島を模している。水上音楽堂をすり抜け下町風俗資料館へ。そこから、不忍通りを渡って森鴎外の『雁』の舞台である無縁坂から岩崎邸へ。これはかなりきつい。検討しなければならない。

谷中を歩くと知った他の仲間が千駄木に指人形のお店があるらしいと教えてくれる。指人形劇もあり、そのお店「笑吉」に電話で尋ねると、三人集まれば人形劇をやってくれるとのこと。4人であるから、それもその時の状況に合わせよう。今回はその時の皆の乗りに合わせることにする。

 

水木洋子展講演会(恩地日出夫・星埜恵子) (2)

星埜(ほしの)恵子さんは美術監督であり、恩地日出夫監督とはご夫婦である。という事を今回の講演で知ったのであるが、一番驚いたのは、千葉県佐倉にある国立歴史民族博物館に展示されている『浮雲』の映画セットを展示するために尽力されたかたである。歴博の現代の展示室に『浮雲』のセットを見たとき、映画の『浮雲』は傑作だが、どうして『浮雲』なのであろうかと不思議に思ったのである。星埜さんはその経過について、物凄い数の現場写真を紹介しつつ報告された。

2005年に世田谷文学館で『浮雲』の再現セットが特別展示された。その時、若い方がよく古い物を探して揃えられましたねと言われ、古い物もあるが、「汚し」という新しいものを古くしていく技術があることを伝えなければと思われたのだそうである。私も国立歴博のセットを見たときは若い方と同じ感想であった。その後、展示できる場所で展示を続け最終的に国立歴博に永久保存となったのである。書いてしまえば数行であるが、その努力と労力と人脈のつながりは膨大である。この仕事に係った沢山の方々の名前と写真が登場した。星埜さんの話を聞いて、国立歴博の『浮雲』のセットの歩みを理解したのである。

「温故知新」、古きをたずね新しきを知るという言葉があるが、星埜さんの師・吉田謙吉さんの座右の言葉をそのまま使わせてもらっていて、知るだけではなく創る行動まで進むということを実行されている。国立歴博の展示は、人類の登場から順番に見ていくと<現代>の第六展示室は当然一番最後となり、『浮雲』のセットがと思いつつサラサラと見てきたのである。<大衆文化からみた戦後日本のイメージ>とのテーマのところに展示されていてテレビCM映像コーナーなどもあった。今度行くことがあれば、星埜さんの写真や説明を思い出しつつ、よく眺めてくることにする。

略歴を見ると東陽一監督の『サード』『もう頬づえはつかない』の美術助手をされ、『尾崎翠をさがして』『平塚らいちょうの生涯』の美術監督をされている。尾崎翠さんの作品は『第七官界彷徨』だけしか読んでいないが、摩訶不思議な作品である。作品の配置図を作っているのかなと思ったら、作品のあとに<「第七官界彷徨」の構図その他>と付記している。小説でありながら映像的配置図で、屋根の無い模型の中に登場人物を入れて上から操作してそれを側面から移動させて、そこに片恋の交差を言葉で表し、靜物と植物をも小道具として使っている。しっとり水分を含んでいるように見え、触ると乾いている感触で、サラサラしているのかと思ったら、冷たい水分を手に受けてしまうようで、ジトッとした感触でないのが良い。1930年代にこいう作品を書いた女性がいたことが驚きである。<第七官界>を<彷徨>していたのである。映画があることを知ったのが遅かった。『平塚らいちょうの生涯』も羽田澄子監督の演出なので見たかったがこれも遅かりしであった。いつ出会えるであろうか。講演会がなければ、星埜恵子さんの仕事を知ることはなかったであろう。

『水木洋子展』では、関連イベントとして、水木さんの脚本の映画やテレビドラマの上映会を開催してくれている。ドラマは横浜にある放送ライブラリーから借りてこられたようだ。資料だけではなく、脚本の映像が見れるのは設計図から実際の建築物を見れるのと同じことである。

新宿歴史博物館では、『生誕110年 林芙美子展』が ~1月26日まで開催されている。こちらも行かねば。

 

追記 :映画『元始、女性は太陽であった』 2017年7月8日 11時30分からと7月16日 3時から東京国立近代フィルムセンター小ホール(京橋)にてアンコール特集で上映されます。

映画『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』

 

水木洋子展講演会(恩地日出夫・星埜恵子) (1)

市川市文学ミュージアムで『水木洋子展』を開催しているが(~3月2日)、その関連イベントで講演会があった。「「砧」撮影所とぼくの青春」(恩地日出夫・映画監督)、「温故創新ーつながる『浮雲』のセット」(星埜恵子・美術監督)。失礼ながら、恩地日出夫監督の名前は知っているが、配られた略歴を見ても恩地監督の映画もドラマも見ていないのである。ただ、『四万十川』に関してはビデオに録画し途中まで見てその後、他のビデオとともに処分してしまっている。四国に旅し(四万十川 四国旅(3))残念と思ったが、ここで再び残念と言うしかない。

今回、東宝の映画関係者だけのために作制した映像も見せてもらうことができ、監督の言葉ではないが、お得であった。関係者のみの映像という事で、使われた映像も音源も無料で使わせてもらったそうである。立川志の輔さんが、忠臣蔵の説明の時(立川志の輔 『中村仲蔵』)浮世絵を使われたが、勝手に使っているんではありません。きちんとお金を払っています。と言われていたのを思い出す。右下に<国立国会図書館所蔵>とあった。

「「砧」撮影所と僕の青春」は恩地監督の出された本の題名でもあり、本を読んだ方は本と同じ内容ですと話される。「砧」は地名で、大船、蒲田、向島、多摩、太秦(14日テレビで映画『太秦ライムライト』が放映された。現在の東映太秦映画村を使い、時代劇の切られ役を主人公にした視点が面白い)などその他にも地名が入る撮影所が多い。

監督は東宝に助監督として入社してからの見習いから助監督までの可笑しくも楽しい話をされた。成瀬己喜男監督、谷口千吉監督等とのエピソード、堀川弘通監督が師匠だが、岡本喜八監督が助監督チーフできびしかったが、岡本さんに育てられたところが大きい。カチンコは恰好よくやれ。ラブシーンも切り合いも、カチンコによって乗りが違うのだ。谷口監督からは黒澤監督との『馬』で黒澤監督が宿に帰ればいつもシナリオを書いていたといつも同じ話をきかされ、岡本さんもシナリオを書けといい、書いて映画関係の本に載ると、いつも批評を書いて渡してくれた。その岡本監督の批評のメモを持参されていて、読んでくれた。そのお陰で監督になるのも速かったと話しつつ、恩地監督の皮肉なユーモアが入るので監督たちのことが生き生きと浮かびあがる。岡本監督の『肉弾』の原稿を印刷所に持って行き発表したのは恩地監督である。

水木洋子さんの関連では、『裸の大将』の監督が堀川弘通監督であり、恩地さんもついていて、山下清さん担当だったので、山下清さん独特の感性についてのエピソードを三点紹介された。どうしてライトが点くのかと聞かれたので、ライトにつながる太いケーブルの中を電気が通っているのだと言うと、ケーブルの上に乗り、自分が電気を止めたつもりになり、どうして電気が点くのかとまた聞いた。撮影のため臨時に特別に走らせた汽車を見て、あの汽車は人が乗っていないと誰も疑問に思わない事を指摘した。山下清役の小林桂樹さんを指さし、あれは小林さんだろ、これはオレだろ、アレはオレだろ、どうなっているのだ。難しくて説明できないというと、そうか難しいかと言われたそうである。短いエピソードになっているが、山下清さんは何回も恩地監督に聞いたのではなかろうか。水木洋子さんによると、山下清さんは、<彼はあきもせず考え続ける。>と書かれている。恩地監督は山下清さんの感性を浮かび上がらせるため不必要の部分は削るシナリオの手法を使われたように思う。

恩地監督が見習いのころ、撮影所で邦画と洋画を好きなだけ見れる場所がありそこで見た映画で一番感動したのが、山中貞雄監督の『人情紙風船』だそうである。最近、「鞍馬天狗のおじさんは – 聞き書きアラカン一代」(竹中労著)を読み、山中貞夫監督を見つけたのは嵐寛寿郎さんと知り驚いたところだったのであるが、私は山中監督の『丹下左膳餘話 百萬両の壺』の娯楽性が好きである。プロは『人情紙風船』のほうが学ぶことが多いのであろう。

一時間では短すぎる話の内容であった。詳しくは、「「砧」撮影所とぼくの青春」の本でということになろうか。

三浦半島の浦賀 (1)

東海道神奈川宿から保土ヶ谷宿で、台の茶屋跡も残っており仲間達は皆感動したのであるが、そこでこんな会話が。「こちらが横浜の海、黒船に江戸の人は驚いたのよねえ。」「黒船が最初に姿を表したのは?」「浦賀でしょう!」この時インプットされてしまった。そうだ浦賀に行かなくては。おりょうさんを吉田家に世話したのは勝海舟である。徳富蘆花が愛子夫人と新婚生活を始めるのが、赤坂氷川町の勝海舟邸内の借家である。(世田谷文学館と蘆花恒春園)勝海舟という人は色々なところに出没する。

旅行案内本にも浦賀の散策が載っている。ぺリーの黒船は1854年浦賀沖に現れ、久里浜で親書を渡し、次の年1854年横浜で日米和親条約(神奈川条約)を結び、1856年ハリスが下田に着任し日米和親条約付録(下田条約)を結ぶのである。神奈川条約締結で下田と函館の開港を決める。ぺリーはなるべく江戸に近づこうとし、江戸幕府は江戸に近づけさせないようにと苦慮している様がうかがえる。

ぺリーの黒船の上陸したのを記念して、久里浜海岸にぺリー公園とぺリー記念館がある。まずそこに久里浜駅からバスで行く。公園には伊藤博文筆の大きなぺリー上陸記念碑がある。戦争中は倒されていた。黒船は 沖縄に寄ってから浦賀に来航しその6日後に久里浜に上陸している。外国船はその前から通商を求めてきていた。欧米諸国はアジアをに工業原料を求め、それを自国で生産して、その商品を売り込みたがっていた。

帆船ではない車輪のついた黒い蒸気船に江戸の人々は驚いてしまった。それに開国派、攘夷派、尊王派、幕府派の組み合わせが迷走入り乱れ徳川幕府も内と外からの波に翻弄されていく。相模湾、東京湾に挟まれ太平洋に突出している三浦半島も風光明美でありながら陸では様々な事を見てきたのである。再びバスで久里浜にもどり、浦賀に向かう。途中、京急大津駅から10分のところにおりょうさんの眠る信楽寺があるが帰りに寄ろうと思ったが寄れなかった。

司馬遼太郎さんが『街道をゆく 三浦半島記』で次のように書かれている。「山門が、すでに高い。その山門へ上る石段の下にー つまり狭い道路に沿って寺の石塀があり、その石塀を背にー いわば路傍にはみだしてー 墓が一基ある。路傍の墓である。」「りょうの墓碑は、おそらく海軍の有志が金を出しあって建てたものらしく、りっぱなものである。碑面に、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。りょうの明治後の戸籍名である“西村ツル“は、無視されているのが、おもしろい。」

東慶寺から城ケ島へ (3)

『東慶寺花だより』にも、城ケ島がでてくる。『東慶寺花だより』は、見習医者になるか滑稽本の作者になるか未だ定まらない主人公・信次郎の目から見た、縁切りのために東慶寺に駆け込む女人とその関係者、逗留する旅籠の柏屋の人々の様子などが花の名と共に語られる。その柏屋の八歳になる一人娘・お美代に信次郎は話をねだられ昔々おられた東慶寺の梅月尼についてのお話をする。(実在の方なのかどうかは調べていない)

梅月尼様は上総の国の武将の御姫様で、八歳のとき安房の国の武将の若様と婚約する。この二人は一度だけ顔を合わせている。その後、御姫様の父は戦で討死。御姫様が敵に殺されてはと恐れた母がお姫様を東慶寺に預けたのである。母はその後敵に殺されてしまう。御姫様は梅月尼として両親の菩提を弔って20年がたつ。その頃関東に大合戦が起こり、許嫁の安房の国の若君が大将として城ケ島から鎌倉に攻め入り梅月尼を奪い去り、安房の国に連れて行き幸せに暮らすのである。安房の国から若君は三浦半島をいつも眺めていたのであろうか。城ケ島から鎌倉にまっしぐらに進んだ若君の雄々しさが想像できる。お美代もその話に涙し、それから信次郎に話をせがむようになる。信次郎は、大人の汚れた部分をも耳から伝え聞いてしまうお美代の居る環境に対し、御姫様をお美代と同じ年齢から話を設定し作りあげたのである。夢を見る前に現実を感じてしまうお美代の感性に、違う風を吹き込んだである。

この話の後でお美代が語る言葉は八歳の子が言えるとは思えない内容で、反対に大人が言えば空中分解しそうな言葉でお美代ちゃんが言うから可笑しみのある真となる。

「このあいだ、円覚寺のお坊様がお説教で、この世はだれが騙してだれが騙されるか、嘘と噓との寄り合い所帯、確かなものは仏の御教えだけじゃと、そうおしゃっていた。けれど、その噓と噓との寄り合い所帯のこの世に、恋という、もう一つたしかなものがあったのね」

お美代ちゃんの言葉を借りると、白秋さんはそのたしかな恋で名声を失い恋を成就させ三崎で俊子さんと共に暮らすのである。そして様々な思いの中で詩作し、「城ケ島の雨」も作り、俊子夫人の結核療養のため小笠原の父島に渡る。その恋は破たんするが歌集『雲母集』で「兎に角此の雲母集第一巻は純然たる三崎歌集である。而してこれらの歌が全く自分のものであり、私の信念が又、真実に自分の心の底か燦めき出したものに相違ないという事は、自分ながらただ有難く感謝している。」と書いている。恋というたしかなもののほかに、歌というたしかなものもあったということであろうか。

現在の「城ケ島の雨」の一節を刻んだ白秋碑は城ケ島大橋の下に位置する。歌からすると橋よりも雨と舟が似合う。

雨はふるふる 城ケ島の磯に 利休鼠の雨がふる                          雨は真珠か 夜明けの霧か それともわたしの忍び泣き                       舟はゆくゆく 通り矢のはなを 濡れて帆あげたぬしの舟                      ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意氣                    雨はふるふる 日はうす雲る 舟はゆくゆく 帆がかすむ

かつての御姫様と若君様は城ケ島から舟で安房の国へ渡ったのであろう。その時は梅の香るころ、雨ではなく、月の美しい夜。そのほうがお美代ちゃんが喜びそうなので。

 

白秋歌碑

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東慶寺から城ケ島へ (2)

京急の三浦海岸駅からバスで三崎港へ。調べた限りでは三崎口駅よりもバスの本数が多いからであるが、それでも1時間に1本程度である。よく解らぬが予定にないバスが、あまり待つことなく来てくれた。テレビで路線バスの旅をする番組があるが、あそこまでは行かなくともこの辺りも路線バスは少ない。地形的には高い位置をバスは走る。30分ほどで三崎港に着く。

旅行ガイドブックの紹介によると、三崎港から城ケ島渡船「白秋」で城ケ島に渡るルートでそれも気に入ったのである。12人乗りの船で他に乗船者が見当たらない。船を運転する方が乗っていいと言う。お金を払って、乗船し何人か来るまで待つのだろうかと思っていると動き出した。貸し切りである。300円で船を貸し切ってしまった。10分に満たない時間ではあるが。城ケ島に着くと、もし船がいなければそこにあるボタンを押すと10分で迎えに来るからと教えてくれる。成る程そういう仕組みになっているのか。お店のある方向と山には水仙が咲いている事も教えてくれた。

年末暴飲暴食でひどい目に合い、お粥とスープが続いていたので軽くミニマグロ丼を半分食べる。周りは豪華に海の幸を食べているが、我慢である。灘ケ崎の岩棚まで降りもどって丘の上の楫(かじ)ノ神社で平和祈願。航海安全と大漁祈願の漁師さんの神社のようだが今年はどこの社寺仏閣でも願いは全て平和祈願に決めた。

お土産屋さんを通って途中から階段を登り真っ白な城ケ島灯台へ。灯台の後ろには伊豆半島と雪の富士山がうっすらと見える。長津呂(ながとろ)の磯も見える。この千畳敷の長津呂の磯から浸食されて穴のあいた馬の背洞門までが大変であった。岩礁は見ていると美しいが波に削られ起伏があり、平になると砂場で足を取られ歩きずらい大した距離ではないが時間を要した。削られた岩穴から地平線を見るのも海の自然の金魚鉢のようである。馬の背洞門から上の道に上がると両脇に水仙が植えられているがまだ花の数は少ない。水仙まつりは12日からだそうで山の上の散策コースを歩くともっと咲いていたのかもしれない。

ウミウ展望台から眺めるとウミウであろうか鳥が飛び回っている。海に突き出た切り立った崖とその上の緑が広い海に一言物申しているかのようである。道なりに歩いていくと県立城ケ島公園である。展望台からは千葉房総半島、伊豆大島、伊豆半島がパノラマ式に見える。公園の東側に安房崎灯台がある。下までおりて上がってくるのが大変そうなのでそのまま公園の入り口に向かう。風に任せて曲がっている松の下に水仙という取り合わせがなかなか良い。そこから「北原白秋記念館」に向かう。

白秋の三崎時代は短いが凄い時間であったことを知る。「城ケ島の雨」の雨に色をつけ、それも<利休鼠>としたことに感動してしまうが、白秋さんにとってはもっと深い色であったのであろう。記念館で「北原白秋 その三崎時代(抄) 『雲母集』を歩く」(野上飛雲著)を購入。これがとても参考になる。「彼の官能的唯美時代で、この年(明治43年)の二月の強烈な官能美をたたえた作品「おかる勘平」を掲載した『屋上庭園』は、その内容が検閲当局の忌諱に触れて、発禁処分を受けた年であった。」の部分にはどんな「おかる勘平」なのか知りたい。こんな所までおかると勘平が追いかけてくる。頼朝が設けた三つの御所・桜・桃・椿と白秋の関係など場所も訪ねられ歌も調べられて書かれているので、またまた三崎の関連場所を歩きたくなる。帰りはバスで城ケ島大橋を渡ったのであるが、渡ってすぐに「椿の御所」の名前のバス停があった。大椿寺(だいちんじ)が「椿の御所」の跡だそうで、白秋さんが朝な夕な散策したところである。見桃寺は「桃の御所」でここに白秋の歌碑がある。「寂しさに秋成が書讀みさして庭に出でたり白菊の花」上田秋成の「雨月物語」を読んだときの気持ちである。

「ただ一人帽子かぶらず足袋穿かず櫻の御所をさまよひて泣く」 「桜の御所」は本瑞寺で、この歌はノートに記されていながら棒線を引いて消されていて『雲母集』のなかにも収められていづ、世の中に出ていないのだそうである。あまりにも実写過ぎて歌としての空間がないということであろうか。筆者も「白秋が三崎に流離した当時の風姿を知る上で貴重な歌である。」としているが、その当時の白秋さんの姿そのものと思う。そして三崎から城ケ島の木々の緑が雨のベールを通して見た時<利休鼠>だったのである。

 

東慶寺から城ケ島へ (1)

迎春と思って居たら、もう七草である。今年はプチ旅からの出発である。

昨年は何から始めたのであろうと振り返ったところ腕に抱え込んだ継続 (小村雪岱)であった。『平家物語』『日本橋』『「日本橋檜物町』と繋がっていたようである。今回のプチ旅の<東慶寺>も本に関係する。そしてそれは、歌舞伎座新春歌舞伎の新作演目として『東慶寺花だより』が登場したからであり、原作が井上ひさしさんの『東慶寺花だより』なのである。その前に古本屋で鎌倉の旅の本を購入したところ、三浦半島が載っていた。持ち合わせの鎌倉の本には三浦半島は載っていない。最後の案内が城ケ島である。<奇岩と波と島 白秋の詩が聴こえる 絶景の隣には漁港>地図を見ているだけで次はここと決めている。城ケ島に行く前に<東慶寺>と<浄智寺>に寄ろう。

北鎌倉8時半着である。<東慶寺>は8時半開門である。北鎌倉なら円覚寺、東慶寺、浄智寺、明月院、建長寺、そこから鶴岡八幡宮であろうか。あとは健脚次第だが、今回は楽勝である。時間も早いため人もまばらである。北鎌倉駅から東慶寺が近づくと、離縁のために東慶寺に駆け込む女性達を世話した宿がこの辺にあったのであろうかと想像たくましくなる。お寺の前は鎌倉街道。この辺りは山ノ内と言われ山ノ内街道ともいわれる。テレビで新春東西の歌舞伎が紹介され『東慶寺花だより』の中継もあったが、録画してまだ見ていない。芝居の方の観劇は千穐楽に近い日にちになる。それが終わってから録画を見ることにする。

東慶寺>の歴史に関しては興味深いことが沢山あるが説明は省く。お寺にも『東慶寺歴史散歩』の小冊子が置いてあり購入した。「会津四十万石改易事件」などという項目があったのである。その冊子の最後に詳しくお読みになりたい方は有隣新書『東慶寺と駆込女』をお求めくださいとある。井上ひさしさんの『東慶寺花だより』(文春文庫)にも「特別収録 東慶寺とは何だったのか」があり、解り易く解説されている。

東慶寺に小さくて可愛らしい観音菩薩がある。<水月観音菩薩遊戯座像>である。いつも拝観できるわけではない。予約が必要である。10年ほど前、上野の国立博物館で『鎌倉ー禅の源流』展がありその時お逢いしている。今年は2月4日~4月13日まで東慶寺で公開のようである。(再確認されたし)東慶寺でお逢いしたいのでまた訪れねばならない。花としては蝋梅がまだですがせっかくですから少しだけと奥ゆかしく咲いていた。岩壁にイワタバコと書かれていたが岩肌に群生する花の名前のようである。これも見てみたい。いつ頃咲くのであろうか。本堂の屋根の線が美しい。松ヶ岡宝蔵は時間が早く開いていないので次の機会とする。

 

 

水月観音菩薩遊戯座像     (絵葉書より)

 

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今回は周囲の雰囲気を想像したかったので次の、浄智寺へ。山門への石段の感じがいい。石段の薄さ、ゆるくデコボコしているのが優しい。大正12年の震災で破損し昭和の初期に復元された南北期の観世音菩薩が裏の方にひっそりと佇ずまれているのが印象的である。古くて大きな高野槇がありやぐらも多く、トンネルの先のやぐらの中の布袋尊がユーモアがあり福がきそうである。お腹をなでると元気がもらえるそうで、もちろん元気をもらってきた。鎌倉・江の島の七福神の一つである。浄智寺の横の出口を抜け山に向かっていくと少し竹林があり、道が細くなり登り道となる。源氏山公園に続く道である。こちら方面に錢洗弁財天、佐助稲荷神社がありそこから大仏坂を下って行くと大仏の高徳院そして長谷寺へと続くのである。長谷方面からこの道で東慶寺へ入る女人もいたのである。寿福寺から長谷まで裏大仏の道を歩いたことがあるので、その辺りのことが小説『東慶寺花だより』に出てくると様子が浮かんでくる。東海道の宿場の名前が出てきたりすると嬉しくなり読んでいてとても楽しかった。

山道は途中で引き返し北鎌倉駅に向かい久里浜を目指す。反対に駅からこちらに向かう人の多さに驚く。早い出だしで正解であった。

 

『菅野の記』と白幡天神社

「菅野の記」は幸田文さんが、千葉県市川の菅野での父・露伴さんと娘・玉さんと暮らし、露伴さんを看取ったことを書かれた作品である。生半可な情緒的な文ではない。その町の人々をも観察し、介護の事、そこで生じる人間としての葛藤、ふと目にする自然のことなど、細部に神経が鋭く自分にも他人にも家族にも動いていて文学者の神経であり目である。

その中で、白幡天神社のことが出てくる。この神社の裏にあたる所に住まわれていたのである。「白幡神社の広場の入口に自動車がとまっている。いなかのお社さまはさすがに、ひろびろと境内を取って、樹齢二百年余とおぼしい太い榎が何本も枝を張っていた。海岸が近いから若木のときには相当揉まれて育ったのだろう、皆それぞれに傾斜をもって節だっていた。ものはその収まるところどころによる。榎はこんな広い処ではなかなかよかったし、枝のふりにはおもしろい趣きがあった。」「小石川蝸牛庵の前にも二百何十年とかいわれる大榎があった。」「小石川伝通院の榎は孤独で焼け傷んでいた。」白幡神社の榎から三か所の榎について語られる。

白幡天神社は、もとは白幡神社といい、源頼朝が源氏の御印の白幡を掲げたことに由来し、祭神は竹内宿禰(たけのうちすくね)で菅原道真を合祀して、白幡天神社と称された。幸田文さんが住まわれたころは、白幡天神社となっていたが、土地の人は古い呼び方で親しんでいたのかもしれない。この神社は永井荷風さんも出没したところで、水木洋子市民サポーターのかたも子供の頃そこで荷風さんを見かけたと言われていたので、訪ねてみた。

京成八幡駅ホームから荷風さんがかつ丼を食べに通われた大黒家が見える。踏切を渡ると荷風の散歩道として小さな荷風さんの顔が並ぶ京成八幡商美会通りである。狭い道幅に車と人が通り、その横を自転車が慣れているのかスイスイ通って行く。水木洋子さんが利用したうなぎ屋さん。荷風さんが利用した文房具屋さん。幸田文さんが利用し「菅野の記」にも出てくる魚屋さんなどが今も商売をされている。荷風さんが通われた銭湯の高い煙突も見える。文さんが利用したお酒屋さんを左に入ると白幡天神社である。文さんや荷風さんが住まわれた頃は田舎であったのであろうが、今はびっしり住宅があり、神社もこじんまりとしていて、掃除が行き届いて落ち葉も掃き清められていた。

鳥居を潜った左手に幸田露伴さんの文学碑があり、裏には<幸田露伴は小説「五重塔」「運命」等の作者である。昭和12年第1回文化勲章を受章、同21年に白幡天神社近くに移り住み菅野が終焉の地となった。露伴の晩年の生活をしるした娘の幸田文の「菅野の記」には当時の白幡天神社が描かれている。 平成22年8月吉日>とある。

東側の入口の左手には永井荷風さんの碑もあり、永井荷風の名の右側に<松しげる生垣つづき花かおる 菅野はげにも美しき里>とあり、左には<白幡天神社祠畔の休茶屋にて牛乳を飲む 帰途り緑陰の垣根道を歩みつゝユーゴーの詩集を読む 砂道平にして人こらず 唯鳥語の欣々たるを聞くのみ(断腸亭日記)>と記されている。こちらも建立されたのは平成22年夏吉日である。

同じ白幡天神社でも文さんと荷風さんとではその位置関係は相当違うであろう。文さんは露伴さんの介護のために氷を求めたり、食材やその他のものを求めて何回このそばを通られたことだろう。それは荷風さんの散歩とは違うのである。

文さんは文化勲章をもらい、文豪と奉られている露伴さんを介護しているが人はそのことに目がいっている。そのことは解ってはいるが、私は父を看ているのであると言うことを主張される。その世間の目からくる重圧。なにかがあると全て自分に係ってくる責任。そのことをしっかり受け、吐き出しつつ日々の仕事をされている。さらに露伴の名前を出せば便利を図ってくれることは解っていることでも、それを潔しとはしない。そんな中でも榎を見ると、三か所の榎を思い描くのである。

菅野での住まいの長屋のあったところには違う住宅が建ち、入り組んだ住宅街の道となっている。そこから駅まで歩きもどりつつ、何度も仕立て直した浴衣に男帯を締め父のために氷を求めて歩く文さんの姿と、人とは違う生命を感じて木を見つめている文さんの姿が前を歩いているように思えた。やはり凛とされていた。

 

 

 

『小石川の家』 

「小石川の家」は、幸田露伴さんのお孫さんであり、幸田文さんの娘さんである、青木玉さんの著書である。

幸田文さんが離婚され、玉さんを伴われて小石川の露伴さん宅へ戻られてからの、祖父・露伴さんと母・文さんと玉さんとの三人の生活から書き始められ、文さんの死で終わっている。文さんは露伴さんから愛されていないとずーっと思われていて、それでいながら父と博識の文豪としての露伴さんと正面から受けて立っている。(露伴さんとの最後の会話で文さんは自分が父のいとしごであったことを確信し歓喜する) 玉さんはそんな間に居られながら、祖父・露伴さんの孫としての甘やかしではなく、一人の人間として対峙してくる勢いに、母の背中に隠れたり、その母からも援助してもらえない状況のなかで、祖父・露伴さんに対し、それは無理というものですと心の内を子供の時の感覚に戻して書かれている。

たとえば、「風邪ひき」では、露伴さんが風邪の症状が出て、文さんから薬を持っていくよう頼まれ持ってゆくと、それは何か、お隣の先生がよこした薬かと尋ねられ、はいと答える。

「何のためのものか、おっ母さんは言っていたか」「いえ、お上げしてくるようにって」「うむ、それでお前は何も聞かずに持ってきたのか」

「申し訳ありません、聞いて来ます」「何を申し訳ないと思っているんだ、お前は何も考えないで、ただふわふわしている、申し訳などどこにもありはしない。薬というものは恐ろしいものだ、正しく使われれば命を救うが量をあやまてば苦しみを人に与える。何の考えも無しに薬を良いものとだけ信じて人にすすめるとはどういうことだ。昔、耆婆(ぎば)は釈迦の命が危うかった時に秘薬を鼠に投げて釈迦の元へ走らせた、なのにバカな猫がその鼠を食ってしまったから間に合わず釈迦は亡くなったというが、しかし薬は劇薬でそれを飲んだために命を縮めたという説もある。そもそも釈迦が死ぬような目に逢ったのは、信心深い婆さんが托鉢の鉢のなかへ献じた食物の中に毒きのこが入っていて、釈迦はそれを知っていながら承知で食べて、苦しみ死したとも言われている。愚かな者は、自分がよいことをしたつもりで恐ろしいことを平気でやってのける、お前は自分のしていることを、どう考えているのだ」

お釈迦様の話にまでいくのであるから、玉さんも答えようもない。文さんが入ってきてそこから逃れることができたが、今度は文さんからもぐずぐずしているからよと小言をもらう。玉さんは自分の部屋で気が納まるまで泣く。そして、毒と知りつつ釈迦はきのこを食べるなんておかしい。薬だって鼠ではなく千里を走る虎の首につけてやればよいのに。でも虎は他の生き物を食べたくなってお使いを忘れるから駄目かなどと露伴さんの説教を負かそうと子供なりに考えるのが微笑ましい。露伴さんは時として気に染まぬ時、玉さんにもその気持ちをぶつける。しかし、結果的には考えさせる機会を与えている。文さんと玉さんは年齢的な違い、感性の違いからそれぞれの考えを培われていかれ、露伴さんの手の内で育てられたように思われる。それは結果的には素晴らしい手の内であった。

 

 

『張り込み』『ゼロの焦点』の映画

映画『張り込み』の原作は短編であった。推理小説としても異色である。映画を見ると原作は心理小説かと思ってしまうほど、張り込みをする刑事の描き方が丁寧であり、見張られている殺人犯の元恋人役の高峰秀子さんが、淡々と日常をの生活を営み、それが、見張りの刑事を翻弄しているようにも思えてくる。映画のほうが原作を超える面白さである。

原作では張り込みの刑事は一人であるが、映画は二人で、ベテランと若手という設定も定番ながら膨らみを持たせた。若い方の刑事が自分の恋人との関係をこの張り込みで考えるという伏線にもしている。そのことが、張り込む相手の女性の心理にひかれていく過程が面白い。この女性は幸せなのであろうか。そして、殺人犯を捕まえた後、元恋人が飛ぼうとして失墜する危機から救ってやり、もとの日常へと戻してやり、自分の恋人には、窮状から自分のもとに飛び立たせるのである。なかなか現れぬ殺人犯を焦りながら待ちつつの心理劇も加わり、さらに、1960年代の長距離急行列車三等席の旅の様子も描かれていて秀作である。

東京発であるが、新聞社記者の目を逸らせるため横浜から列車に乗り込む。三等席は混んでいて座れない。仕方がないので通路に新聞などを敷いて座る。若い頃の旅でありました。ユースホステルに泊って乗り込んだ列車はデッキまで人が立っている。こちらは遊びだから良いけれど。でもこの原作の出だしが、映像としてさらに効果的なのである。まずはここで引きつけられてしまう。張り込みをする宿屋の人々が、ラジオから流れる実況の歌謡番組で美空ひばりさんの「港町十三番地」を聞くのも庶民と歌謡曲の密接さがわかり1960年代の風を伝える。

『ゼロの焦点』。1961年版。何が印象的かというと、能登に行きたくなったのである。観光地能登は積極的に行きたいと思ったことがない。この映画を見た途端行きたいと思った。白黒の力でもあろう。久我美子さんのきりっとした佇まいもよい。ヤセの断崖での久我さんと高千穂ひづるさんの対決も見ものである。久我さんの夫・南原宏治さんの元妻の有馬稲子さんも久我さんと違う色気である。結婚して一週間、夫は元勤務先の金沢へ引き継ぎを兼ねて出張にでて、約束の日が来ても帰らず連絡も取れない。妻・久我さんの捜索が始まる。その金沢行きの走る列車の風景がいい。雪の能登金剛。特典のシネマ紀行。赤坂漁港、鷹の巣岩、義経四十八隻舟隠し、機具岩、関野鼻、ヤセの断崖・・・・。

能登金剛の巌門には<ゼロの焦点の歌碑>がある。それは、この映画が出来る一年前小説に影響されて若き女性が自殺したのだそうである。そのことを悼み松本清張さんの自筆碑である。「雲たれてひとりたける荒海をかなしと思えり能登の初旅」。

2009年版映画『ゼロの焦点』も見たのであるが、こちらは風景よりも、戦争に翻弄された人間の悲しみとそこから這い上がろうとする生きざまを描いていて、社会派推理小説の原点からいえば正統なのかもしれないが、1961年版が好きである。2009年版は、セットも小道具もその当時を再現すべく努力を惜しまない。見ていてそれは凄くわかるのであるが、なぜか退屈なのである。

1961年版は高千穂さんが恐らく死を選ぶべく車で立ち去るが、その時後ろから追いかける夫の加藤嘉さんが追いつける速さとわかる。シネマ紀行によると地元の人が後ろから押していたのだそうである。そんな完璧でないところも当時の時代の味となって映像から風がくるのである。風に乗って匂いも貧しさも運ばれてくる。

『点と線』の青函連絡船の乗船名簿を探すところとか、常磐線回りの青森行きとか、清張さんの映画作品は古い方がワクワクさせてくれる。