メモ帳 5

  • 箱根神社。芦ノ湖から見える赤い鳥居(平和の鳥居)を数回目にしつつ、訪れていなかったので友人とお参りへ。二人とも今年の初詣。今年は素通りした場所や埋めたかった場所を旅の一つの目的地としたい。湖だけに龍神を祀る九頭龍神社新宮も同じ境内にある。九頭竜神社本宮はもっと奥で、箱根神社元宮は駒ヶ岳山頂にあり、ケーブルで行けるらしいが今回は箱根神社のみ。御朱印も下で預けて番号札をもらい、御参りして帰りにスムーズに受け取れた。参拝客もほどほどで富士山の雲の無い雄姿もみれて空白が埋まる。

曽我神社あり (曽我十郎・五郎之命)

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  • 次に三島大社へ。元箱根港から三島駅までのバスが交通渋滞のため20分遅れ。途中富士山があまりにも美しいので大吊橋のスカイウォークに途中下車しようかと相談したが人が多いため通過。三島大社前で降り、屋台が並び参拝客の数もほど良い。食べるために並ばないのであるが、うなぎを焼く匂いに今回は例外。水の澄んだ源兵衛川。飛び石も配置され心和む散策路。楽寿園の庭園の池はかつてはたっぷりと富士山からの水で満たされていたがその後の開発のため干えあがっている。そのため富士山が爆発のとき流れた溶岩の地肌の池の底がみえる。楽寿館で説明を受け、水の満ちた庭を想像する。東海道歩きで素通りし、見せたかった三島の一部に友人も満足。

 

  • 等々力渓谷(とどろきけいこく)。東急大井町線の等々力駅の近くに渓谷がある。五島美術館から歩こうと思っていつも寄れなかった。昨年の秋、電車移動を決める。等々力渓谷には古墳時代後期から奈良時代の横穴群がある。

 

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一服の清涼感。途中で階段を登って行くと等々力不動尊がある。駅の北側にある満願寺の別院で、満願寺は吉良氏の祈願寺であったそうで驚き。それだけ吉良氏の系図は古いのである。等々力不動尊の「瀧轟山」の山門は大きな交通道路に面しており上と下の風景の違いが面白い。

 

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ここには吉良邸討入りのあとそれに加わった元赤穂藩士十人を預かった毛利家上屋敷邸の跡もある。歩くと驚くことが重なる。

 

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  • 五島美術館。等々力駅からお隣の上野毛駅へ。『光彩の巧み ー瑠璃・玻璃・七宝ー』。装飾の系譜は西アジアから欧州を経て中国から日本へ。日本では仏典の七つの宝にちなんで七宝と呼ばれ座敷の釘隠しなどの飾りや、室内の調度品に。名古屋城本丸のふすまが展示されていて、名古屋城では全体像を見れたが、ここでは眼の前にある。ふすまの引手の細工の緻密さ。タイミング抜群。国分寺崖線を生かした庭園に、いろはモミジの赤さが映えるがススキも灯篭とマッチして古風な雰囲気が似合っていた。

 

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  • 宇都宮城。宇都宮は江戸時代は関東で最も栄えた宿場である。戊辰戦争では、新撰組副長・土方歳三が大鳥圭介軍の参謀として宇都宮城を奪うべく戦さをしかける。近藤勇が流山で官軍に捕まった後である。歳三は城の東南から攻めれば落ちると確信し奇襲をかけ、結果的に落城してしまう。函館の五稜郭への橋を渡った時からそれを確かめたかった。宇都宮城に、ジオラマでそのことがしっかり表示されていた。土方歳三の戦の才は情で語られるよりも冷静である。

 

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宇都宮城の中世 → 藩主奥平時代 → 江戸時代将軍が宿泊する城

 

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旧幕府軍の宇都宮城攻撃

 

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戊辰戦争の宇都宮のジオラマ

 

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宇都宮釣天井」は映画『家光と彦左』で知ったが、そのこともきちんと宇都宮城の歴史の一部に記されていた。2代将軍秀忠が日光参拝の折り往復宇都宮城に宿泊する予定が、帰りは宇都宮城をさけて江戸に帰る。その後、幕府は宇都宮城主・本多正純が留守の時に宇都宮城を取り上げてしまう。真相がよくわからないため伝説の「宇都宮釣天井」がつくられる。「宇都宮城主本田正純が、日光社参の帰り道に宇都宮城に宿泊する予定であった3代将軍家光を、からくり仕掛けの天井をつくって暗殺しょうと企てた。しかし計画は失敗に終わり幕府の裁きをうけ殺された。」

 

宇都宮城忠臣蔵とも関係あり。22代目城主・宇都宮国綱が秀吉に所領を没収追放され、城代となったのが浅野長政で、その三男長重が笠間藩主となり、その後赤穂へ移封となる。松の廊下刃傷事件の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は長重のひ孫にあたる。この事件のあと急きょ「勅使饗応役」をまかされたのが戸田忠真(とだただざね)でこの功績もあって宇都宮城主となり、その後老中にまで出世する。話題性の多い宇都宮城を知る。

メモ帳 4

  • 2018年がやってきた。向かうというより向うからきたという感じ。檀一雄さんの『花筐』を読む。大林宣彦監督の映画を観ていないと感覚がつかめない作品。この作品をひりひりと感じる感性が失せている。その時代の青春を受けとめようとするが、作品だけでは受けとめえない感性の鈍さ。悲しい。時代の空気を感じるとは何んと難しいことか。小説は今命が散る自分を誰に見届けてもらうか。その相関図と思う。異国から波の音が聞こえる町に降り立った榊山(さかきやま)少年が、他の少年、少女たちとひとりの若き未亡人の叔母とにきらきら光る波を映し出す。「感受性の隅々までが何の隠蔽(いんぺい)もなく放置され、五体はわなわなとふるえていた。次第に榊山の体内には光のように峻厳な充実感がみなぎっていた。」

 

  • 檀一雄さんは太宰治さんなどのところを転々としつつ、昭和12年初短篇集『花筐』の刊行直前に動員令で入隊。昭和15年に召集解除。再召集を恐れて満州に渡る。三島由紀夫さんの『私の遍歴時代』に檀一雄さんのことは出てこなかった。三島由紀夫さんにも昭和20年赤紙がくる。気管支炎で高熱を発し、胸膜炎と誤診され即帰郷。檀一雄さん明治45年・大正元年(1912年)生まれ。三島由紀夫さん大正14年(1925年)生まれ。

 

  • 昭和12年(1937年)三島由紀夫さんは初めて歌舞伎座で歌舞伎を観劇。羽左衛門、菊五郎、宗十郎、三津五郎、仁左衛門、友右衛門の『忠臣蔵』で、大序の幕があくと完全に歌舞伎のとりこになる。『花筐』には吉良という名前の少年がでてくる。道化者の阿蘇少年が「吉良上野の子孫かい?」とたずね「そうだ」と即答されへこむ。三島さんは、子供の教育に悪いと12歳まで歌舞伎は見せてもらえず、もっと教育に悪いはずの映画は自由に見せてもらったのだから妙だと言及している。

 

  • 三島由紀夫さんが観た『忠臣蔵』は大序とあるので『仮名手本忠臣蔵』の通しでしょう。森繁久彌さん主演の社長シリーズの映画『サラリーマン忠臣蔵』『続サラリーマン忠臣蔵』は『仮名手本忠臣蔵』を下地によく出来上がっていた。現代物のサラリーマンでどう仇討をするのか。株主総会で怨みをはらすとあり、映画『総会屋錦城』が面白かったのでそれではと観る。原案は、井原康夫とあり、実際は4人のかたの一字をとった名前で「康」の戸板康二さんの案が強いようだ。なるほどとうなずける。

 

  • 社長シリーズのメンバーに加え、桃井和雄を三船敏郎さんにし、その部下・角川本蔵を志村喬さんに。本蔵に押さえられる浅野卓也は池部良さん。浅野と深い仲の芸者加代治が新珠三千代さん。加代治に御執心の吉良剛之助が東野英治郎さん。赤穂産業の浅野卓也社長亡き後、新社長として乗り込んでくるのが丸菱銀行頭取・吉良剛之助。専務・大石良雄の森繁久彌さんは当然辞表を提出。同志と新会社設立。艱難辛苦のすえ、赤穂産業の株主総会で吉良剛之助を退陣させる。

 

  • 仮名手本忠臣蔵』を上手く使いつつ、社長シリーズのいつもの雰囲気を合体させる。大石社長の料亭、クラブ通いはお手のものであり、その場を祇園、一力、山科などの名前を使う。原案者の方々はそのアイデアに相当楽しんだであろう。観る方もその組み合わせの同一と相違の変化を愉しませてもらう。堀部安兵衛を堀部安子の中島そのみさんとし、かえって面白くなった。森繁さんが三船さんにもっと骨のあるやつだとおもったと言われるあたりも、ピリ辛でしまる。池部さんはダンディで、野暮な東野さんは悪役の位置そのもの。『サラリーマン忠臣蔵』娯楽映画でありながらなかなかである。

 

  • 京都の東福寺の東奥に皇室と関係の深い泉涌寺(せんにゅうじ)がある。楊貴妃観音と呼ばれる仏像もあり、友人に薦められかつて紅葉の頃、東福寺から歩いて訪れたことがある。泉涌寺の塔頭の一つ来迎院に茶室「含翠(がんすい)軒」があり、思いがけなくも大石内蔵助の作った茶室とあった。ここで赤穂浪士たちとの密談もされたそうで、大石内蔵助の親戚がこのお寺に縁があったとか。一山越せば山科の大石内蔵助宅にも近い。茶室はすこし寂しい感じで、世間の討ち入りの喧騒さとは程遠い静かな雰囲気であった。

 

  • 大石内蔵助旧居跡といわれる岩屋寺のそばに大石神社がある。大石神社は浪曲師・吉田大和之丈(奈良丸)らの篤志により建立。浪曲の義士伝は、桃中軒雲右衛門が完成させ、同時代に吉田大和之丈(奈良丸)も義士伝もので人気を博す。映画『桃中軒雲右衛門』では月形龍之介さんが演じあの独特の声が浪曲師に合っていた。映画『総会屋錦城』の中で志村喬さんが桃中軒雲右衛門の義士伝の一節をうなる場面があり、音源はレコードであろうか。『サラリーマン忠臣蔵』では森繁久彌さんが東野英治郎さんの前で大塩平八郎作「四十七士」で剣舞を披露し、辞表をたたきつける。それよりも「青葉茂れる~」の歌としぐさ、間のはずしかたがやはり森繁節で絶品。

 

大山詣り

大山詣り>は、観光パンフによりますと次のように書かれていました。

大山詣りは、鳶などの職人たちが巨大な木(き)太刀(だち)を江戸から担いで運び、滝で身を清めてから奉納と山頂を目指すといった、他に例をみない庶民参拝である。そうした姿は歌舞伎や浮世絵にとりあげられ、また手形が不要な小旅行であったことから人々の興味関心を呼び起こし、江戸の人口が100万人の頃、年間20万人もの参拝者が訪れた。
大山詣りは、今も先導師(せんどうし)たちにより脈々と引き継がれている。首都近郊に残る豊かな自然とふれあいながら歴史を巡り、山頂から眼下に広がる景色を目にしたとき、大山にあこがれた先人の思いと満足を体感できる。(~日本遺産に認定されたストーリーの概要~)

大山詣りだけが頭にあって、調べずに最寄り駅の伊勢原駅まできましたのでこの解説は簡潔でよくわかりました。手形が不要で<江戸の人口が100万人の頃、年間20万人もの参拝者>というのが納得です。

今回は大宮盆栽美術館からの出発です。JR宇都宮線土呂駅から湘南新宿ラインで新宿へ、そこから小田急電鉄小田原線で伊勢原駅まで乗り換え一回で来れてしまいました。そして、大山はライトアップのためケーブルが時間延長でしたので行きたい所を一日に二つ実行できました。

伊勢原駅から終点大山ケーブルまでのバスも座れました。終点バス停から大山ケーブル駅まで15分位なのですが、ずうっと階段で両脇にお店屋さんが並んでおり、大山名物独楽にちなんでか、こま参道とよばれる楽しい細い道です。

ケーブルはかなり乗客が並んでいましたので、女坂を登り大山寺まで行くことにしました。これがきついです。ほとんど岩石の階段です。トレッキングシューズではありませんので、雨や雨の後なら歩きませんでした。晴れていたので助かりました。女坂に七不思議があり大山寺までは四つあります。弘法の水、子育て地蔵、爪切り地蔵、逆さ菩提樹。そして、そして、大山寺への階段が紅のモミジでおおわれています。

 

大山女坂の七不思議・その一・弘法の水

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その二・子育て地蔵

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その三・爪切り地蔵

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その四・逆さ菩提樹

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大山寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が開山し、元は阿夫利神社下社にありましたが、明治の廃仏毀釈で現在の場所に移りました。ご本尊は鉄の不動明王で、後背の炎の先が烏天狗の口ばしのようでした。

満足して、阿夫利神社下社までも登ることにしました。さらに息があがりました。七不思議の残り三つは、無明橋、潮音洞、眼がん形石です。時間的にそれぞれ20分、20分の案内ですが、時間よりも高低差がきつかったです。境内ではもみじ汁が販売され、大山詣りの浮世絵の多色刷りが自分でできる場所もあり両方人気です。遠くに三浦半島、江の島、房総半島が少し霞んでいますが見えます。

 

その五・無明橋

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その六・潮音洞

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その七・眼形石

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最初から阿夫利神社本社までは無理と思っていました。途中の見晴台までが30分で往復一時間。覗くような下りでこれもやめました。ケーブルが並んでいますので、大山寺まで歩いて下りることにし、その前に食事をとりました。食事をするところは二箇所あります。今度山頂の阿夫利神社本社まで登るときは、きちんとトレッキングシューズにし、阿夫利神社下社までケーブルできてそこから登ることにします。

 

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今回ケーブルでの紅葉狩りのつもりでしたが、歩くこととなり大山をより身近にかんじることができました。男坂もありますがこちらは大山寺には行けずにそのまま阿夫利神社下社にいきます。そのため男坂から登られ帰りは女坂を下られ大山寺に到着されたかたはモミジの赤さに感嘆の声をあげられます。

少し薄暗くなりライトが点きました。人が増えています。もう足で下るのはむりですしケーブルの混雑もいやなのでほどほどのところで帰ることに。ケーブルの大山寺駅で降りて大山寺に向かってくる人達も紅葉に歓声をあげています。

 

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ラッキーなことに降りて来たケーブルにすぐ乗れ、バスもすぐ乗れて座れました。紅葉狩りのピーク日に乗り物が上手く行き、歩きの疲れにとっては助かりました。その前に行った昇仙峡の紅葉はモミジが少なかったので、大満足です。

 

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今度はきっちりと大山詣りをするぞ!

古今亭志ん朝さんの『大山詣り』のDVDを観て締めとしました。志ん朝さんのさらさらっとした男と女のしぐさの違いがやはりいい感じです。大山詣りはあっという間に成し遂げられ、山岳信仰さえ気楽なのが落語らしいところです。

名古屋散策と芦雪(2)

長沢芦雪展』では作品の数の多さにびっくり転です。よくこれだけの数を集められたと思います。

 

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名古屋は、<ドニチエコきっぷ>(一日地下鉄・バス乗車券、600円)がありまして、それを試しに見せましたら100円引きになりました。安くなるのも嬉しいですが、こういう手もあるぜというのが楽しいです。地下鉄・バスの両方一日乗り放題ですから名古屋さんやりますね。地下鉄の中にも広告で紹介していました。平日はまた違いますので要注意。

南紀・無量寺のふすま絵を同じ空間で体験してもらうということで、無量寺の方丈と同じ空間を作られたのがこれまた結構な計らいです。虎や龍には、またお会いできましたねです。  串本・無量寺~紀勢本線~阪和線~関西本線~伊賀上野(2)

 

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なめくじが動いた線が一筆書きになっている「なめくじ図」、象の後方に乗ってあまりの高さにしがみついている「象背戯童図」、白象の背中に黒いカラスがとまっていて寝そべる黒い牛のお腹のそばには小さな白犬が座っている「白象黒牛図」。相変わらず芦雪さんは愉しませてくれます。

その他可愛いらしい童の遊ぶ姿、そこに子犬も加わり遊びに夢中の童や子犬たちの元気な声が聞こえてくるようである。ただ絵の左手の子供と犬は後ろ向きで空に向かっているような様子で色も淡くなっていて、友人がこの子たちは死の世界に向かっているのかもといいます。そうともとれる描き方で、芦雪の子供が相次いで死去してるとのことで、その影響なのかもしれない。

『芦雪を殺す』(司馬遼太郎著)の作品の中に出てくる、印形の中に五百羅漢がびっしりと書き込まれたものもありました。さらに、円山応挙さんの高弟で、芦雪さんと二哲と言われた源琦(げんき)さんが絶賛している「山姥図」(重要文化財)も厳島神社から出品されています。司馬さんの小説では芦雪さんはかなりの変人に書かれていますが大胆で小心なのかもしれません。

東京で開催されていたらこんなにゆったりとした状況では鑑賞できないでしょう。まだ次の部屋があると思うほどの作品数で、出品作品リストには、和歌山の徳泉寺、無量寺、草堂寺、高山寺からの出品作品もあり現地に行っても観れないでしょうし、雨に感謝でしょうか。

神の手・ニッポン展Ⅱ』は、手で作られるアートの細やかさと高度さを紹介する展示です。エッグアーティスト・遠藤一恵さん、水引工芸家・内野敏子さん、レザーアーティスト・本池秀夫さん、立体間取りアーティスト・タカマ ノブオさん、ペーパーアーティスト・中山ゆかりさん、墨絵アーティスト・西元祐貴さんの作品が展示され映像もありました。

 

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第一期の代表作品も展示されていましたが、息を詰めて仕事をされているのではないかと思えるほどの繊細さで溜息がでてしまいます。その発想が実物になる過程の時間の経過と失敗と成功のくりかえしが、美しいと思わせてくれるのでしょう。

東京の三井記念美術館での『驚異の超絶技巧! ー明治工芸から現代アートへー』も、その手は何なのだです。恐ろしくなってしまうほどの技です。

 

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高橋賢悟  <origin as a human>  

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初代宮川香山  <猫二花細工花瓶>

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こちらはただただ愉しませてもらい、あーじゃらこーじゃら言わせてもらうだけです。あーじゃらこーじゃら言わなければと言われそうですが、好きかどうかもありますし、守るものは守って変化しなければ気の抜けた炭酸水のようなものです。

ただし時にはこれこそが水だというものもあります。それは全部ではありません。短い時間だったり、組み合わせて作り上げられたりといつ現れるかわからないのです。今日そうだと思っても明日は違うかもしれません。明日が今日になりました。

 

名古屋散策と芦雪(1)

名古屋でのイベント参加で友人と出かけたのですが、イベントがが台風のため中止となり、10月29日の帰る日は予定を繰り上げて午前中に名古屋を後にしました。台風22号は、爪痕を深く残した21号よりも傷をえぐらず通りすぎてくれました。何にせよ近頃の台風や気候変動は予想がつかないので逃げるが勝ちです。

名古屋の散策は、名古屋城、中村公園、明治村にしましたが、二日目は雨のため明治村は中止として、美術館としました。

名古屋城についてはパンフを改めて読みました。まとめますと、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は豊臣方への備えとして名古屋城の築城と、清須から新城下への街まるごとの引っ越しを決定。普請(土木工事)は、加藤清正、福島正則ら西国大名20家に命令。慶長17年(1612年)に完成し、尾張初代藩主は家康九男の義直。以降名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城となります。

昭和20年(1930年)の名古屋空襲で本丸のほとんどが焼失。昭和34年(1959年)天守が再建。

そして今回は、本丸御殿の再建中で一部が公開されていました。来年の2018年には全て完成する予定です。公開されているのは<玄関><表書院><対面所>で、黒の漆が目に映る建物内で襖絵、壁画と同時に天井がみどころです。

東門から入ると<清正石曳きの像>があり、天守の石垣は清正が任せられ大きな石の上に乗り音頭をとった像です。本丸御殿見学のあと進むと石垣に<清正石>があります。大きな見やすいところにあるのをそう名付けたのかなとも思ったりします。以前来たときよりも見学時間がかかりました。その時は、そこから徳川美術館へいったのですが、今回は中村公園です。

友人の御朱印のためにと探していましたら、中村公園に行きあたりました。名古屋中村区中村町は、豊臣秀吉さん、加藤清正さん、そして初代中村勘三郎さんの生まれた土地なのです。

豊國神社(御祭神 秀吉公、摂社 清正公)があり、秀吉公誕生の地として常泉寺があり、清正公誕生の地として妙行寺があります。

 

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そして初代中村勘三郎さんの踊っている像がありました。解説文には次のようにあります。この地で生まれて、京都で大蔵流狂言を学び、京から江戸に下ってのちは猿若勘三郎と名乗り、現在の日本橋付近で「猿若座」を開設、江戸で初めての常設の芝居小屋で、初代中村勘三郎が江戸歌舞伎の開祖といわれる由来です。その後堺町に移転。その際、中村勘三郎を名乗り、猿若座の名前も中村座と改めました。

 

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2006年(平成16年)には、区内同朋高等学校で十八代目中村勘三郎の襲名披露公演も行われています。9月24日から27まで、同校の体育館を改装して行われていました。11年前ですね。

初代中村勘三郎像の除幕式は今年の5月だったのですね。体育館襲名はテレビで特集のとき見ていますが、除幕式は知りませんでした。本来であれば、名古屋に行くからには初代勘三郎像をまず見なくてはと言わなければならないのでしょうが、思いがけない出現だったのです。

豊國神社では、季節限定の御朱印と通常御朱印、清正公の御朱印が頂けたらしく、その他のお寺もありますから、この公園で御朱印が増え友人はニンマリでした。こちらも、初代中村勘三郎さんの生誕の土地に立つことが出来、名古屋中村区は印象に残る土地となりました。文化プラザの中には秀吉・清正記念館もありましたが時間的にパスです。

次の日は雨模様ではっきりしませんので、観光案内で美術館などのチラシをゲットして呑気にいきましょうと検討し、友人が『神の手・ニッポン展』(テレピアホール)に行きたいというので、もう一箇所は近い場所の『長沢芦雪展』(愛知県美術館)にしました。

気になるチラシがありまして、「文化のみち二葉館」(旧川上貞奴邸)での『江戸川乱歩と人形』でした。あの建物と江戸川乱歩さん合うと思います。でもどうして名古屋なのと不思議でしたが、乱歩さん、生まれは三重県名張市ですが、お父さんの仕事の関係で3歳から18歳(愛知県立第五中学校卒業)まで名古屋で育ったのです。

最初からここまでという意気込みがなく、二箇所まわった時点で、今日はこのぐらいでということになってしまいました。今から考えるとちょっと残念でした。名古屋での乱歩さんに御目通りしておけばよかったと。

 

能登半島から加賀温泉郷への旅(番外篇)(5)

化生の海』を書かれた内田康夫さんと浅見光彦にありがとうです。そして、この本を置いてくださっていた<北前船主屋敷蔵六園>にもです。

化生の海』は今回の旅をさらに膨らませてくれました。内田康夫さんは歴史的な裏付けをされるので、それを読むだけでもそうなのだと新たな知識を頂きます。浅見光彦は雑誌『旅と歴史』のルポライターということもあり、内田康夫さんに劣らずよく調べてくれ、さらにソアラに乗って動いてくれます。今回も北海道の余市に住む男性が加賀の橋立で死体で発見されるのですから、加賀に話しが移動するであろうし、こちらの旅と重なるのかどうか楽しみでした。

殺された三井所剛史(みいしょたけし)は、家族に松前に行ってくるといって出かけ、発見されたのは加賀の橋立漁港の近くの海中です。娘の園子は余市のニッカウヰスキーの工場見学案内係りをしていて、受付の女性が浅見光彦の友人の妹で、5年たっても進展のない事件を浅見光彦が調べることになるのです。

松前城の資料館で、三井所剛史が持っていた箱に入った土人形と同じ人形を発見します。函館では、三井所剛史が中学2年の時作文コンクールで最優秀になった作文をみつけます。浅見光彦は北海道へは取材旅行としてきていますから、「北前船の盛衰」でもテーマにして雑誌社に一文を送ろうと思っています。そのことから橋立が北前船と関係ある土地だと知るのです。江戸時代から昭和27年まで、「江沼郡橋立村」は、大阪と松前を結ぶ不定期回船北前船の根拠地の一つであると。

函館の「北方歴史資料館」も訪ねていて、高田屋嘉兵衛の記念館でもあるらしく、彼は函館の廻船問屋で財をなした函館の中興の祖なのですが、ニシンを獲るだけ獲ってそれを肥料にして儲けたのです。生の魚(塩づけとか乾燥にもしますが)と違い肥料は日にちがもちます。二代目の時ロシアとの密貿易の嫌疑をかけられ闕所(けっしょ)に処され、所領財産を没収され、所払いとなっていますが、四代目の時闕所が解かれていますので、いいがかりだったとの説もあるようです。こちらは、函館を旅した時、名前だけでしたので、今回その様子を知ることが出来ました。

いよいよ加賀の橋立に向かいます。読みつつわくわくします。そして山中温泉につながっていきます。山中節の歌詞に「 山が赤うなる木の葉が落ちる、やがて船頭衆がござるやら 」というのがあり北前船の帰りを待っているわけです。

土人形は、裏に「卯」の字があり浅見光彦は<北前船の里資料館>で全体の感じが似ている土人形を見つけます。その人形の裏にも「卯」の字がありました。そして光彦の母から、自分が若い頃旅で見た「卯」の字がついた人形は「津屋崎人形」だと教えてもらいます。九州福岡市から少し北の小さな港町で、もちろん、浅見光彦は行きます。ところがその間にまた一人行方不明となり、その車と死体が発見されるのが、九谷焼窯跡の先の県民の森のさらに先なのです。地図をみつつここあたりなのだと確認しました。

いよいよ事件は佳境に入って来て、北海道の余市から、三井所園子と母もやってきます。その後は書きませんので興味があればお読みください。

函館の五島軒のカレー、港の倉庫群、行ってはいませんが山中温泉のこおろぎ橋、無限庵などもチラッとでてきます。九谷美術館、山中塗と輪島塗の違いなどもあり、登場人物の父と兄が船の事故で能登の義経の舟隠しあたりで見つかったなどという話しも出て来て地理的にもわかり、文字が身近な事として生きてきました。そういう意味でも楽しい内田康夫ミステリーワールドを充分味わわせてもらいました。

能登演劇堂は能登の中島町の町民の方達のボランティアが大きな力となっていますが、映画『キツツキと雨』(2011年)は、映画ロケに協力するロケ地の木こり職人と新人映画監督との交流、村人や映画スッタフの撮影現場の様子を描いている佳品です。

真面目一筋の木こり職人・岸克彦(役所広司)は、妻を二年前になくし、息子(高良健吾)と二人暮らしですが、この息子が無職で一人立ちできないのです。そんなことに構わず木を切る仕事をしているとチェンソーの音がうるさいから少し仕事を止めてくれと言われます。何かと思って様子をみますと映画のロケらしいのです。

人の好い克彦は、撮影場所に案内したりするうちに、このロケに次第に協力体制に入ってしまいます。ワッオー、映画のロケだ!などのノリは無く、いつのまにかそうなっていくのが、とぼけているわけではないのになぜか可笑しいのです。よく判らないのだが、助けなくてはならないのかなあの感じです。

新人監督の田辺幸一(小栗旬)は自分の脚本にも自信がなく、ベテラン助監督に引きずられるような感じで、これで映画が完成するのであろうかの様そうです。ところが、克彦が加わってから、すこしづつ空気がかわっていきます。言われたことをするだけなので、自分を主張するわけではないのですが、村の人を巻き込むとなると俄然力を表すのです。

そして、監督の幸一でさえ面白いと思えない脚本を読んで面白いと真面目にいうのです。田辺監督も次第に撮影に自分の意見を言い始め、克彦も監督用の木の椅子を提供したり、ゾンビとなって村人と映画に出演したりして盛り上がっていきます。

ザーザー降りの雨に克彦は木こりの勘で晴れるといいます。さてどうなりますか。

ほのぼのとしていて、克彦に衒いのない真面目さと、監督の幸一の自信の無い影の薄さのコントラストがコミカルさを発散しています。村人がゾンビになって撮影する場面も笑ってしまいます。

どうやら克彦と息子の気持ちにも同じ風が吹き始めたようで、どうなるかと思った撮影も大物俳優(山崎努)から田辺監督は認められたようです。

この映画、役所広司さんが『無名塾』出身だからというわけではありませんが、紹介したくなりましたので書いておきます。

監督・沖田修一/脚本・沖田修一、守屋文雄/出演・役所広司、小栗旬、高良健吾、臼田あさ美、古舘寛治、黒田大輔、森下能幸、高橋務、嶋田久作、神戸浩、平田満、伊武雅刀、リリィ、山崎努

 

 

能登半島から加賀温泉郷への旅(4)

那谷寺>は、泰澄禅師が開創され今年は開創1300年で33年に一度の秘仏・御本尊・十一面千手観音菩薩の御開扉でした。バスのガイドさんが今月の31日までですからよかったですねと教えてくださいました。那谷寺を一番にしながら事前に調べていなくて、帰ってから五木寛之さんの『百寺巡礼』の那谷寺の録画を見直しましたら、ここには若宮白山神社もあったのです。頂いた案内には載っていなかったので見過ごしてしまいました。またいらっしゃいということでしょう。

もう少しお天気の好い日に再度訪れたいお寺さんです。白山信仰のお寺で、岩屋寺ともいわれ、太古の噴火の跡といわれる岩が風雪をへて奇岩の姿をみせ、景勝になっています。五木寛之さんは、この「奇岩遊仙境」の階段を登られていましたがさえぎられていました。今回は雨は降っていませんが、足元がぬれていてすべり歩ける状態ではありません。晴れた日には歩けるのかどうか、今はどうなんでしょうか。本殿も岩窟内にあり、胎内をあらわし、この世の罪を洗い流し新しい白山のように生まれ変わる聖地とされています。

芭蕉さんが残された句が 「石山の 石より白し 秋の風」 です。本殿、三重の塔、護摩堂、鐘楼堂、庫裡書院が重要文化財で、一つ一つの建物が見どころありで、特別拝観の庭などもあり今回計画を実行してやはりよかったです。

 

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そこから加賀温泉駅にもどり今度は海まわりのキャン・バスで橋立へ向かいます。北前船は北海道から日本海側の港に寄り、下関を通って瀬戸内海から大阪までを行き来して商品を売りさばいた船程度の知識でした。

船主は荷物を運ぶ運賃を稼ぐのではなく、品物を買い付けては売るという動く商店なのです。危険な航海なのに凄い利益を生み出していたのは、今のように情報が北から南まで伝達していませんから、本来の物の値段が北と南ではわかっていないのです。ですから安く買って高く売ってもだれも不当であると思わなかったわけです。運んできてくれなければ手にはいらないのですから。商売に長けた近江商人が関係したようです。

ところが次第にそのことが知れ、船主の儲けが少なくなり、それでなくても航海は命がけで、板子一枚下は地獄です。次第に他の商売に転じたりします。その一つに、保険会社などがあります。自分たちが経験していますから、海難事故などがあった場合の損失をよく知っていたわけです。

江戸時代から明治にかけて橋立には多い時には42名船主がいたとされ、日本でも1、2位を競う富豪村と呼ばれたそうです。現在残っている屋敷を公開しているのが2つあり、一つが<北前船主屋敷蔵六園>です。酒谷家屋敷で蔵六園の由来は、大聖寺藩主が庭にある石が亀そっくりなので命名されたのです。蔵六とは亀のことで、亀は頭、手足、尻尾の六つを甲羅の内にしまうので蔵六というのだそうです。

色はくすんでいますが、全館紅がら漆塗りで、やはり広いです。建具、調度品なども立派ですが、一番素敵だったのが、飾られている植物です。庭から切って生けられたのでしょうが、その草木に名前が紹介されていましたが、知らないものが多く種類の多い庭の植物を大切にされておられるようでした。ご近所の集まる場所でもあるようで来客もあり、すいません自由に見て行ってくださいとのことでした。

 

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入館するとき、路地の狭い空間と板塀の感じが映画のロケに使えそうな好い感じで奥に神社があり、そのことをお話ししましたら、「帰りに神社に上がって見てください。狛犬が石ではなく、木でできているのです。沈まないように。」ということで、出水神社の階段を上りました。今は社殿のそばに木の狛犬が鎮座していまして、朽ちないようにでしょうか、前面は透明のアクリル板で覆われていました。俺たちも潮風を受けつつ頑張ってきたのだぞという姿で、沈まないようにとの願いを全身で受け止めたのがよくわかります。

 

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北前船の里資料館>は、小説『化生の海』(内田康夫)のなかで浅見光彦が今まで見た北前船の資料館の中で一番充実していると褒めていました。北前船の模型、航路、船箪笥、船乗りの衣裳、解説パネル、音声ガイドなどがあります。

 

 

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大小の立派な夏用冬用の仏壇があり、北前船は冬は休み、春から秋まで活動したので当主がいる間は冬用の小さな仏壇を開け、海に出ている時は夏用の大きな仏壇を開けたそうで、残された家族は大きな仏壇で安全をご先祖様にお願いしていたのでしょう。

船乗りの一年は、3月には徒歩で大阪へ。船の修繕、買い積み荷(酒、木綿、古着など)して4月上旬には出帆  ⇒  中国、四国の港で買い積荷(塩、紙、タバコ、砂糖、ロウなど)  ⇒   日本海にまわり境、小浜、敦賀で買い積荷(鉄、縄、ムシロなど)  ⇒  福浦、輪島、佐渡、新潟、酒田、深浦、鰺が沢から函館、江差、松前、小樽、厚田各地で荷物を売り払い、買い積荷(ニシン、〆粕、数の子、コンブなど)  ⇒  (上り)9月上旬までには瀬戸内海に入るように出発   ⇒   瀬戸内海の港で売りまわり  ⇒  晩秋か初冬には終点大阪  ⇒  徒歩で郷里へ帰るのは年末。そして次の出発まで山中、山代、粟津の温泉地へ行くのです。

 

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北前船によって物資と同様に文化、民謡、お土産品の工芸、人形などが行き来し、寄港した港のにぎわいが浮かんできます。

印半纏(しるしはんてん)は、江戸時代一般庶民は羽織の着用は許されず半纏をきたようで、江戸後期になって大工、職人、船頭なども外着として着るようになったそうで、羽織、半纏で時代がわかるわけです。

 

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敷地面積は1000坪で明治9年に酒井長兵衛さんが建てた屋敷で6隻の船を所有していました。資料が多くてざーっと流し見でしたが危険と隣り合わせで巨額の富を得たことはわかりました。

ここの家々は赤の瓦屋根が多く、橋立漁港バス停までに船の駐車場の船留めがあり、自動車道からは上に向かう細い階段の路地があり、地図によるとその上は迷路のような細い道があるとのこと。海側には蓮如上人の碑もあるようです。そろそろ五木寛之さんの蓮如、親鸞関係の小説の出番でしょうか。

ここは夕日の綺麗なところだそうですが残念ながら見られませんでした。バス停の前が魚屋さんでその上に食事処があり、バスの時間まですぐできるものをと頼み、やはり生ものが美味しかったです。

 

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能登半島から加賀温泉郷への旅(番外篇)(5) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

能登半島から加賀温泉郷への旅(3)

加賀温泉郷は、片山津温泉、山代温泉、山中温泉で、今回は温泉好きにとっては残念なのですが、<那谷寺>が第一で、<魯山人寓居跡>が第二なのです。過去何回か計画したのですが、金沢と組み合わせることになり時間切れで挫折していました。一応金沢は満喫し終わっていますので、<那谷寺>を軸に計画しましたら、素敵なバスを発見しました。<加賀周遊バス/キャン・バス>です。

JR加賀温泉駅前から山まわり・海まわりのバスが出ていたのです。時刻表をながめつつ至福の時です。さあどう回るか。

山まわりで<魯山人寓居跡いろは草庵>→<九谷焼窯跡展示館>→<那谷寺>→JR加賀温泉駅前にもどり、海まわりで<北前船主屋敷蔵六園>→<北前船の里資料館>→JR加賀温泉駅前

北前船のほうも回れるとは思っていませんでした。雨と時間の関係でひとつ、ふたつ変更を入れておきましたが、予定通りまわれました。キャン・バスには、車掌さんとガイドさんを兼ねたかたが乗られていて、乗る人が何処で降りるかによってその場所の案内や解説を加えて下さり、その他切符の利用方法も教えてくれます。パスポート券もありまして加賀温泉に宿泊した方用のクーポン券もありで選択肢が乗られた方に聴かれ適切にアドバイスされます。

山中温泉の自然を歩きたいという方達には、CMで吉永小百合さんの立っている「こおろぎ橋」などもいいのではと話され、そうですよねとお客さんもうなずかれていました。なかなか面白い試みのキャン・バスです。

最初に乗った山まわりのバスとJR加賀温泉駅前で海まわりのバスが同じバスで、パスポート券を出そうとすると車掌さんに、顔パスで大丈夫ですと言われてしまいました。<北前船主屋敷蔵六園>から<北前船の里資料館>は近いので歩いて行けて、もし時間があったら<北前船の里資料館>から<橋立漁港>バス停まで歩いて雰囲気を楽しんでくださいとのアドバイスありで、地図も渡してくれましてその通りにしました。

北前船主屋敷蔵六園>に内田康夫さんの『化生の海』の文庫本があり、どうやら北前船のことが関係しているようです。今読んでいますが、死体が浮かんだのが<橋立漁港>だったのです。

魯山人寓居跡いろは草庵>は、山代温泉にあり2002年から一般公開されました。旅館「吉野屋」の主人・吉野治郎さんが自らの別荘・いろは草庵を北大路魯山人さんに提供し、他の旦那衆が集まり文化サロンとなりました。

魯山人さんを旦那衆に紹介したのが、金沢の細野燕台さんで、自分の書いた吉野屋看板を魯山人さんの彫った看板のほうがよいと自分のを下ろして魯山人さんの看板を掛けさせたそうで、両方展示されていました。魯山人さんのは刻字看板で力強いですが、細野さんの看板の字も優しい味わいあるものでした。

他の所ではよく喧嘩をしていた魯山人さんも山代では一度も喧嘩をしたことがなく、書家、篆刻家に加えて、茶、美術、骨董、陶芸、食などに精通した場所でもあり、山代は魯山人さんも大切に想われていた場所です。いろは草庵の建物の中も心静かに落ち着ける場所で、茶室もそれとなく気取らずに位置していて好い感じで、出されたお茶を庭を眺めつついただきゆったりゆらゆらです。

 

 

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九谷焼窯跡展示館>は、明治に九谷陶磁器会社が設立され高い生産量をあげていました。魯山人さんが、自分の師とする初代・須田菁華さんなど多くの陶工さんが関わっていましたが、その事業期間は短く、そのあとも志は引き継がれてました。昭和15年まで使われた大きな登り窯跡があり燃やす薪の量がいかばかりであったか想像するだけで溜息がでます。

昭和15年から40年頃まで使われた九谷焼としては最古の本焼窯があります。小規模でも一回の窯詰めで1000個入ったそうです。

 

 

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体験もでき、店の間は展示室にもなっています。囲炉裏がありまして陶芸家さんがお茶を入れてくださり、ずうずうしくもお話しを聞かせていただきました。

成形と絵付けの両方をされていて、どうして両方なんですかとお尋ねしますと、「形あるものは置くという前提がありますが、絵は飛べるんです。シャガールの絵は人が飛んでいますよね。」 「九谷は有田の土に比べると不純物が多いため真っ白ではないので、それを隠すために絵付けしたのかもしれません。」有田の土は使われたことありますかとお尋ねすると「使いました。でも九谷の土のようには上手く成形ができないのです。やはり九谷の土にもどりました。」

こんな感じで拙い質問にも真摯に答えて下さり、物を作り生み出すかたの想いに触れさせていただき、大変貴重な時間を過ごさせていただきました。時間があったらもっとお話をお聴きしたかったです。

 

2017年11月1日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

能登半島から加賀温泉郷への旅(2)

能登演劇堂での無名塾『肝っ玉おっ母と子供たち』の観劇を決めてから、能登半島と加賀温泉郷の旅の計画をしました。さてどう回るか。

能登演劇堂へは金沢駅、七尾駅、和倉温泉駅からの予約制の送迎バスがあり、七尾は長谷川等伯さんの生誕地です。

 

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駅の近くに明治から昭和初期に建てられた商家が残る一本杉通り商店街があり、送迎バス時間までの約2時間をこの商店街散策にあてました。

七尾には前田利家さんが小丸山城を築いていて、北前船の寄港地でもあったのです。駅前には長谷川等伯さんの像がお出迎えです。といっても等伯さんは何を目指されているのか笠を上に持ち上げ遠くを眺めておられます。

「高澤ろうそく店」では、絵ろうそくやこんな風なろうそくもあるのかと眺めているだけで楽しかったです。「花嫁のれん館」では、お嫁入りの日に婚家の仏間の入口に花嫁がくぐる花嫁のれんが展示されていて解説もしてくれます。加賀藩の領地で幕末から明治にかけて始まったということで、もっと古くからの習慣と思っていましたので意外でした。お婿さんに入られるときには、花婿のれんもありました。紋は実家の紋で、一生に一度だけ使われるのです。

 

お嫁さんの縁側からの旅立ち

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婚家に入る前に生家の水と婚家の水を合わせて飲み盃を割る

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毎年、花嫁のれん展の時期には、一本杉通りの商家や民家に花嫁のれんが掛けられるそうで、美しいのれんですので、一度だけというのは勿体なさすぎますので多くの人に愉しまれるほうがいいとおもいます。金沢からのJR七尾線には、花嫁のれん列車というのも走行しているようです。

仏壇も立派で、七尾仏壇といい、利家さんが地元の産業起こしを考えて奨励したようです。

 

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「花嫁のれん館」のそばに利家さんとまつさんの像があり、小丸山城址公園に上がって行けますが、時間の関係で上までは行きませんでした。

能登演劇堂での観劇感想はこちらで。能登演劇堂・無名塾『肝っ玉おっ母と子供たち』 

次の日は、能登半島の観光ですが、行きたいところが含まれている定期観光バスが和倉温泉バスターミナル出発の「おくのと号」なのです。

輪島朝市輪島キリコ会館白米千枚田道の駅すず塩田村→珠洲ビーチホテル(昼食)→見附島<軍艦島>→のと里山空港→輪島ふらっと訪夢→和倉温泉バスターミナル→和倉温泉駅

一番行きたかったのが<揚げ浜式>で塩づくりをしている「すず塩田村」です。東京の墨田区にある「たばこと塩の博物館」で塩の作り方と生産地の変遷の講演をきいたことがあり、能登に<揚げ浜式>が残っていることを知ったのです。ものすごく大変な作業で、天候に左右され、行った10月20日は曇りで時に雨で、数日前の天気の日で今年の塩作りもお終いなのかもしれませんと言われていました。海水を汲んできて塩田に海水を撒くのですが実際にやってくれましたが、均等に遠くまで広く撒かなくてはならないのです。お見事でしたが、名人になると虹がみえるのだそうです。

 

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この定期観光バスはガイドさんがつかず運転手さんが、歴史的なことは案内の録音を流してくれるのですが、地元のかたなので、実際の生活のエピソードなどをまじえてくれて、ではこの町につて案内しますと録音をながしてくれますので、親しみと客観性が相まって楽しい観光でした。

行くところそれぞれが興味深く、輪島なども廃線で鉄道がなくかつての駅は、道の駅になっていました。輪島の朝市も楽しかったです。見ていませんが朝ドラ「まれ」のロケ地だったのですね。何かなと思って入ったところに、「まれ」に出て来たのでしょう理髪店などのセットの一部があり、さらに映画のロケ地案内がありました。『能登の花嫁』(見ていません)『幻に光』『君よ憤怒の河を渉れ』(見ていますが『君よ憤怒の河を渉れ』は意外でした)そして、5月に公開されたという『追憶』がありました。11月にDVDの新作として出るようなので見ることにしますが、富山に渡る広範囲のようです。

輪島キリコ会館では、神様の道を照らす大きな細長い奉灯(キリコ)が展示されています。ぐるっと上からも眺めることができ、本当に日本には様々な様式のお祭りがあるものだと感心します。お祭りの映像もありましたが、暴れ祭りといって、御神輿を川へ投げたりふみつけたり、火の中へいれたりとまさしく暴れまわります。そうした幾つかの祭りを総称してキリコ祭りというようです。

 

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千枚田は海に面した想像していたよりも狭い段上の田んぼでした。狭い段差のある土地ゆえの工夫です。夜はLEDの明かりが観光写真のように美しく輝き、その姿を照らしだすのでしょう。

 

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珠洲(すず)では、黄色い標識のようなものがあり、運転手さんが説明してくれました。珠洲市は能登半島の最先端で今では不便なところなのですが、<奥能登国際芸術祭スズ>というのを開催(9月3日~10月22日)していて、色々なアートを展示したり、掘り起こしたりしてそれの案内板にそって自分たちで捜しあてていく催しなのだそうで、若い人が集まり予想以上の集客力となったそうです。

 

珠洲焼は平安末期から始まっています。

 

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見附島<軍艦島>のところにも、その芸術品がありますから見つけてくださいとのことでしたが、見つけた人はガラクタの様でよくわからなかったと言っていました。私は海の中の見附島を方角を移動しつつ眺めていましたので、場所の違う砂浜に置かれたアートには気がつきませんでしたがバスを降りるとありました。面白い試みだとおもいます。探してアートと思うかどうか、ケンケンガクガクもいいのではないでしょうか。

 

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さらに源義経さんが兄・頼朝さんの追っ手から船を隠したという場所もあり、能登は平時忠さん(平清盛の義弟)が流されたところでもあり、平家の郷があり、歴史的にも興味深い地でありました。

和倉温泉から能登島大橋を渡り能登島を通り、ツインブリッジで能登半島に入り輪島へ進み、そして奥能登を周遊するコースで満足感たっぷりでした。このコースを選んだ甲斐がありました。

 

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2017年10月31日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

 追記: 長谷川等伯が七尾を離れ京に上ったころ狩野永徳は織田信長の安土城の障壁画を描いていた。

 

安土城 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

京都の旅 ・京都の建具、工芸術(4)

地下鉄丸太町までにの間に『護王神社』があり寄りました。<足腰の守護神 いのししの護王神社>とあります。ここは狛犬ではなくイノシシが相対峙しています。

 

 

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祀られているのは和気清麻呂公で、怪僧弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が皇位を奪おうとして対立し南国大隅(おおすみ)(鹿児島県)に追いやられる途中で豊前国の宇佐八幡へお参りの際道に迷ったが、300頭の猪が現れて案内して守ってくれたので、足の病気や怪我、旅の安全や災難などから守ってくれるということです。公を救った霊猪として拝殿前に公の随神として雌雄一対の猪の石像があります。

 

 

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かりんの木が御神木で、ぜんそく封じとしてかりん水飴なども売っていました。参拝のひとが奉納されたのでしょうか、沢山の猪の置物やお人形なども置かれていました。

 

 

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今回は神社仏閣めぐりは少ないのですが、前の夜、<ロームシアター京都>の帰りがけ烏丸通りから姉小路を東に入った所にある『高松神明社』に寄りました。真田幸村さんと縁のある神社ということでした。神社には珍しいお地蔵さんがお祀りしてあり、そのお地蔵さんが真田幸村さんの念持仏で、寛政6年(1794年)紀州九度山の伽羅陀山、真田庵より拝領したとあります。「幸村の知恵の地蔵尊」として信仰されているのだそうです。

 

 

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白い鳥居が二つあって、平安中期に源高明さんが邸宅高松殿の鎮守社として創建したそうで、小路の建物に挟まれた神社で、遅い時間にお勤めの帰りらしい男性がお参りしていましたから、地域の生活の中に密着したお社なのでしょう。夜の灯りの中でそんな感じをうけました。こちらにも知恵を授かっていると良いのだがと期待してしまいました。護王神社での足腰とご利益が叶えば百人力です。

京都文化博物館』での映画『おぼろ駕籠』については、もう一本見たい映画とつながれば書きます。伊藤大輔監督で超豪華俳優陣なのですが、少し流れた感じがしました。

京都文化博物館』の展示室には<祇園祭>の展示があり、映画『祇園祭』を見に来たときには<山鉾巡行の歴史と文化>で今回は<白楽天山の名宝>で、<祇園祭>は奥が深すぎという感があります。さらさらーっと見て、型絵染作家の伊砂利彦作品展でその斬新なデザインに古さと新しさを想い、それから遅い昼食をしつつ、さてこの後どうしようかと考え、そうだ琳派とアニメに行こう。

高島屋は四条河原町ですから近いですし、帰りの京都駅へも地下鉄ですから時間が予測できます。「ぼくらが日本を継いでいくー琳派・若冲・アニメー」。これは、日本の文化を若者たちに継承してほしいという願いが込められていて、『細見美術館』の館長・細見良行さんが監修のもと、アートディレクター・山田晋也さんと友禅絵師・平尾務さんが『細見美術館』の所蔵している作品と人気キャラクターを組み合わせてプロジェクト制作されたのです。それをー琳音ーと名付けられていました。

人気キャラクターは<リラックマ><初音ミク>、手塚治虫さんの<鉄腕アトム><ブラックジャック>などなどです。<リラックマ>の絵と一文は、時々開くとお茶をしたくなります。<リラックマ><コリラックマ><キイロイトリ>の関係も絶妙です。ただ、琳派の絵の中での<コリラックマ>はかなり体を張って無理をしているようで窮屈でした。きっと、やりつけないことをしたあとはお風呂!と言っているとおもいます。

<初音ミク>は、よく知らないのですが、獅童さんと歌舞伎をされている映像を見ましたがあまり好きではなく、あの長い揺れる髪の毛がワカメに見えてしまうのです。キャラや色も強いので個性強い若冲さんの鶏などと組み合わせていましたが、ミクちゃん強すぎです。

その点では、火の鳥などは上手く収まっていました。鉄腕アトム君が僕こんなところに居ていいのかなという恥ずかしそうな姿と表情は個人的にうけました。アトム君のブーツの赤が絵の中でいい具合いです。富士烏とブラックジャックも上手くはまっていました。

好き嫌いの感情を呼びますが、実験的な面白い試みで、『細見美術館』で見た絵を再びよみがえらせてくれ、もう一回原画の全体像を見たいと思わせます。締めは東京の『出光美術館』の「江戸の琳派芸術」 とします。

 

 

 

真田庵 →  2017年7月18日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

映画『おぼろ駕籠』と『大江戸五人男』(1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)