九度山と映画『娘道成寺 蛇炎の恋』『真田十勇士』(1)

高野山へは南海高野線で終点の極楽橋駅でケーブルカーに乗り換えバスなどで上を目指すのが一般的ですが、南海高野線九度山駅で降りて慈尊院を通り、<高野山町石道>歩き上を目指すという方法もあります。その他、上古沢駅からと紀伊細川駅から歩くというコースもあります。

<高野山町石道>は九度山の<慈尊院>から<根本大塔>までが基本です。赤い<根本大塔>の前で奉納の『娘道成寺』を踊るのが映画『娘道成寺 蛇炎の恋』(2004年)の主人公の福助さんです。こうきますかと思いました。

極楽橋駅からは高野山を一度訪ねています。九度山駅で降りて<慈尊院>を訪れたいとずーっと思っていました。高野山は女人禁制ですから、空海の母は後に<慈尊院>となる庵で息子の空海と逢うのです。空海は母に逢うため月に九度訪れたことから九度山の地名となったともいわれています。<慈尊院>から奥の院へいたる23キロが高野山の表参道でもあるのです。

<慈尊院>は、有吉佐和子さんの『紀ノ川』の冒頭部分に出て来て、映画『紀ノ川』(1966年)の冒頭は、夜紀ノ川を婚礼の舟がゆくとの記憶なのですが、機会を見つけ確かめます。

そしてこの九度山というのは真田幸村が蟄居していた場所でもあります。映画『真田十勇士』(2016年)では、大阪城へ入ってからの戦さが中心ですから、映画では少しだけ一応九度山に居たということで出てきました。

昌幸・幸村父子は最初高野山に蟄居し暮らした場所が<蓮華定院>で、このお寺さんは今宿坊として宿泊することができます。父子はそのあと妻子と一緒に住むことが許されますが高野山は女人禁制ですから、九度山での生活となったわけです。<高野山町石道>を降りてきたのでしょう。<高野山町石道>は、1町ごとに五輪塔形の石塔が180町石立っているのです。

九度山の暮らした屋敷跡が真田庵(善名称院)です。境内には真田宝物資料館があります。その他にも真田ゆかりの場所や真田ミュージアムがありますが、小さな町中の途中真田紐を織っている家がありました。真田紐研究会の工房でまだ新しいのだそうで織っているところを見学できます。紐ですが色取りの組み合わせ美しく日常品として、刀の下げ紐、鎧などの武具に使われ、幸村はこれを家来に全国へ売りに行かせ、生計の糧として、さらに諸国の情報を探ったといわれています。大河ドラマ『真田丸』の出演者の写真もありましたが、すいません大河ドラマ真剣に見ていません。

 

 

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信州上田の真田紬から考案したもので、真田宝物資料館にあったのは地味な巾太なもので、織機も展示されています。

宝物資料館によりますと昌幸はここで11年目で亡くなり、幸村は14年くらしました。映画『真田十勇士』で、その後の即効の流れを把握しました。

九度山には、大石順教尼さんが寄宿した旧萱野(かやの)家が<大石順教尼の記念館>となっています。大石順教尼さんは、1905年(明治38年)大阪の名妓でしたが、舞踊の師でもある養父の狂刀による6人斬りの巻き添えにより両腕を切断されてしまいます。カナリヤがくちばし一つで雛を育てているさまから、口に筆をくわえることに開眼し、国学、和歌、日本画を学び、高野山で得度し、法名順教に改名します。その後6人斬りの犠牲者並びに養父の供養のため京都に<佛光院>を建立しています。

 

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記念館にはボランティアの説明してくれるかたもおられ、ビデオや和歌、絵画、着物に描かれたものなどが展示されています。団体さんと町中で出会いましたが、歴史に興味あるかたが多く訪れるようです。

九度山町自体にも見学するところがあり、さて<高野山町石道>はどこまでいけるであろうかと地元のかたに尋ねました。踏破した友人から地図をもらっていたのですが踏破は健脚コースで、<丹生都比売神社(にうかんしょうぶじんじゃ)>まで<慈尊院>から7キロですが行けたとしてももどって来なければなりません。

お聴きしたかたが、丹生都比売神社近くの生まれで、子供の頃、九度山にお嫁に来たお姉さんのところへ、土曜日に泊りにきて日曜日に帰ったというかたで、今からでは無理と思いますとのことです。神社から高野線の「上古沢駅」に下りる道があるのですが、この道は短いですがかなり急で薦められないとのことでした。

展望台ならどうでしょうとお聴きすると、あそこは景色がいいですから是非といわれ、実行してみて正解でした。まず<慈尊院><丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社><勝利寺>に寄りました。

<慈尊院>は、高野山の事務を統括する政所(まんでころ)で紀ノ川の水運によって必要なものが集められ山へ運ばれました。空海の母・玉依御前(たまよりごぜん)が世を去り空海は弥勒堂を建て、<慈尊院>と称され子授け、安産、子育ての女性の信仰をあつめます。

 

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昭和の終わりに慈尊院の一匹の白い犬・ゴンが現れ、参拝者を高野山の大門まで約19キロの町石道(ちょういしみち)を案内して往復することで知られるようになり愛されます。そのゴンが2002年(平成14年)に6月5日、玉依御前の月命日に亡くなったそうです。境内の弘法大師象の隣に石像が建っています。

空海が修業の道場を探していたとき高野山上へ導いてくれたのも狩人の連れていた2頭の犬でした。

<慈尊院>の南高台に建つのが<丹生官省符神社>で、この<慈尊院>と<丹生官省符神社>を結ぶ石段の途中に180番目の町石が立っています。<丹生官省符神社>では、空海を導いた犬を神の使いとして絵馬に描かれています。社宝の獅子頭の写真もありました。

 

 

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その西側にあるのが<勝利寺>で、空海が高野山を創開する以前からあり、境内には高野紙を漉ける体験資料館の<紙遊苑>がありますが催し事があり入ることができませんでした。そこからの眺めがいいと書かれてあり、高野紙も見たかったので残念でした。

そこから<高野山町石道>に入りましたが地図的には1キロ先くらいが展望台だと思うのですが、思っていたより遠く登りで、途中で下って来た女性に「展望台」からの景色は良かったですかと尋ねると「良かったですよ」しばらく沈黙があり、「もうひと頑張りした先です。」「ウム」言われたことは正しかったです。さすが高野山です。「展望台」からの景色は紀ノ川が蛇行していて最高でした。

 

 

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その先の<丹生都比売神社>はバスでの計画を立て直しもう少し先のことにします。

 

2017年7月19日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)