京都魔界めぐりの旅(2)

千本ゑんま堂・引接寺(いんじょうじ)>のある千本通りは、かつての朱雀大路で羅城門から朱雀門までを貫いていた。朱雀大路の西側は水はけが悪く、疫病も蔓延し、船岡山の西嶺は<蓮華台>と呼ばれる葬送の地であった。死者を弔う無数の卒塔婆が立てられたことから、千本通りと言われるようになる。都の中心は東に移り、朱雀門も荒廃し鬼の出没する場所となる。

 

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<千本ゑんま堂>のしおりによると、小野篁(おののたかむろ)は、この世とあの世を行き来する神通力を持っていて、昼は宮中、夜は閻魔庁に仕えていた。閻魔法王より現世浄化のため亡くなった先祖を再びこの世へ迎えて供養する「精霊迎え」の法儀を授かり、篁自ら閻魔法王の塔を建立したのが始まりとされる。

旧盆には、水塔婆を流し迎え鐘をついて、その音にのって閻魔様のお許しを得て帰ってこられる「おしょらいさん」を、お仏壇の扉を開いてお迎えするのである。

ここには紫式部さんの供養塔もあり、紫式部さんと小野篁さんのお墓は、北大路堀川に並んであるらしい。不思議なつながりである。

 

 

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そのほか、京都三大念仏狂言の一つ<ゑんま堂狂言>があり、春には花冠のままぼとりと落下して散る<ゑんま堂ふげんざくら>が咲く。堂のおもむきは地域に親しみを込めてにらみを効かす閻魔大王様といった感じである。

今月の歌舞伎座『髪結新三』では「深川閻魔堂橋の場」がある。<深川閻魔堂>へはまだ行っていない。行かなくては。

<白峯神宮>へ行く途中で、<京都市考古資料館>があり入館してみた。係のかたがこちらの時間にあわせて資料の説明をしてくれた。ここでは来館した人で希望者に、一人4コースの、京都歴史散策マップをくれる。40コースあって、選ぶのに迷ってしまった。コースの地域で発掘された遺跡と、裏には散策地図がのっている。近ければすべて手に入れたいが残念である。

白峯神宮> 明治天皇が崇徳上皇の霊を鎮めるために創建された。崇徳上皇は不義の子とされ、父・鳥羽法皇にうとまれ、父の死後、後白河天皇と対立し保元の乱がおこり、後白河天皇に負け、讃岐に流されて亡くなる。

 

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ここは、蹴鞠(けまり)、和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅のあったところで、蹴鞠は落とさない競技なので、球技や学業の神様とされている。蹴鞠がはめ込まれた<蹴鞠の碑>がある。

晴明神社> 安倍晴明さんは陰陽寮の最上位になったのは57歳で、85歳で亡くなっている。当時としては驚異的長寿といえるであろう。初めて訪れたときは他の有名な神社に比べると狭いのでがっかりした記憶がある。一の鳥居の中央には五芒星が掲げられている。五芒星は晴明桔梗とも言われるらしい。晴明が操った式神の石像、五芒星のしるされた石から流れる晴明井戸や晴明像などがある。

 

 

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<千利休聚楽屋敷趾>の碑があった。晴明神社の地に千利休の屋敷があり、晴明の井戸の水を茶湯に使ったとされる。利休さんこの屋敷で切腹したのでしょうか。そうだとすると、利休さんの映画の場面の見方にこの地が加わってくるが。

 

 

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一条戻橋> 葬送の際に遺体を運ぶ橋であった。現世と来世をつなぐ橋といわれ、歌舞伎の演目にもあり沢山逸話が残されている橋である。この橋の上で死からよみがえった人もいて、それから戻橋といわれる。堀川に架かるコンクリートの短い橋でそんな力のある橋とは思えない。晴明さんはこの橋の下に式神を隠していたとも言われている。今はこの橋の下が川に沿って遊歩道となっていて、時間があれば歩いてみたい場所である。どこに通じているのか。

 

 

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この近くに「樂美術館」があった。一度は訪れたいと思っている美術館の一つである。

最終地のは<下御霊神社>である。ここは、桓武天皇の第三皇子・伊予親王が謀反の嫌疑をかけられ、母と共に服毒自殺をされ、その霊を鎮めるために祀られている。

 

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あの世とこの世を行き来するということが異形のことで、それを鎮めたり、あるいは、一年に一度この世にお迎えし、またお送りするといったことには、異形とはならないようにとの願いと祈りがあるようである。

上御霊神社>→<船岡山公園>→<千本ゑんま堂>→<京都市考古資料館>→<白峯神宮>→<晴明神社>→<一条戻橋>→<下御霊神社

 

京都魔界めぐりの旅(1)

雑誌の<京都魔界巡りガイド>に3コース載っていた。2つのコースは行っていない個所が一箇所で、選んだコースは行った個所が一箇所である。

下御霊神社 → 一条戻橋 → 晴明神社 → 白峯神社 → 千本ゑんま堂

すでに訪れているのは、晴明神社である。ただその頃は『陰陽師』に興味がないから、単なる見学である。さらに、最後に 上御霊神社 を加えた。これで、南、西、北と御所を中心として周ることになる。

<京都観光一日乗車券(二日)>を購入。これは京都市バス全線、市営地下鉄全線、京都バスが乗れる。バスだけ、地下鉄だけの一日乗車カードもある。小銭の用意をしなくてもよいのが助かるし、場合によってはお得度も高い。しかし地下鉄など出口によっては進む方向性をつかめなくなるときがあり、出る前に確かめるがそれでも迷うことがある。方向音痴らしい。

上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)>。謀略などで命を奪われた魂は御霊になるといわれ、この高貴なかたが謀略の御霊を鎮める御霊信仰の始まりは<上御霊神社>からで、早良(さわら)親王の御霊を祀ったのがおこりである。早良親王は崇道(すどう)天皇の尊号を追贈されている。その他にも憤死した方々の御霊が祀られている。驚いたことに、ここは<応仁の乱>勃発の地であった。いやはや先人も静かには眠っておられません。

 

 

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そしてここに晴明・心の像がありました。違いました。<清明心の像>でした。中国宋代の学者・司馬温公が子供のころ、一緒に遊んでいた子供が、水の満ちた大甕に落ちてしまった。すぐさま大きな石で甕を割り友人を救ったということから、物より命が大切の心ということらしい。機転の早い子がそばにいてくれて良かった。

 

 

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次に<千本ゑんま堂>に行こうとバスに乘ったところ、<船岡山>という停留所があり下車する。船岡山公園となっていて、その上からは、思いがけず五山送り火の左大文の<大>の字が見えた。こういう出会いは声が出てしまう。

 

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「今より千二百年の昔、京都に都がさだめられる際、船岡山が北の基点となり、この山の真南が、大極殿、朱雀大路となった。これは、陰陽五行思想、風水思想に基づいて、船岡山は大地の気が溢れ出る、玄武の小山であるとされたためである。」

応仁の乱の際にこの山が西軍の陣地となり、この周辺を西陣とよんだ。そうなんだ。西陣織りの生まれたところと思っていたが、元をただせばそいうことなのだ。ここに建勳神社がある。秀吉はここに信長の御魂をまつろうとし、それ以来信長公の大切な地とされ、明治天皇が創建された。<人間五十年 下天の内ををくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか>の織田信長が舞った「敦盛」の一節の碑もあった。

 

 

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さて、<千本ゑんま堂>へと思っても道がわからず、地元の人に尋ねて歩いて行くと<長岡温泉>があった。ここであったか。雑誌で、京都の銭湯の一つとして紹介されていて頭に残っていた。銭湯は庶民のお風呂で、京都といえども同様である。ホテルのバスルーム兼トイレの狭さがいやで、近くに銭湯がある知ると利用することがある。猫ぎらいは行けそうにないような、猫だらけ銭湯もあった。バスルーム兼トイレは、東京オリンピックのとき考え出されたそうである。ホテルも大浴場ありだと嬉しい。疲れの取れ方が全然違う。とにかく、<長岡温泉>見つかり、大地の気も踏んだのである。

千本ゑんま堂>無事到着。雑誌のガイドとは反対に進んでいる。深く考えなかったが、こういう魔界巡りの場合、巡る方角など決まりがあるのであろうか。いまさら考えても遅いし、これからも考えないことにする。平安のころは、方角が悪いとして方違い(かたたがい)と称し、出立位置を違う場所に変えて、それから出立したりしている。時々それを言い訳に平安の色男たちは、恋人を訪ねてくるのが遅かった理由にしている。ゑんま様には効き目が無い。

 

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旧東海道の『丸子宿』『宇津ノ谷峠』での話題

JR静岡駅北口から200メートル先に旧東海道がある。そこから丸子宿を目指し、さらに宇津ノ谷峠を越し岡部宿となる。

府中宿は『東海道中膝栗毛』を書いた十返舎一九さんの生まれたところらしく、生家伝承地碑があるが、旧東海道からはそれているので確かめてはいない。駿府城跡地の駿府公園手前に札の辻跡がある。四つ辻にあった高札場である。

 

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七間町  家康が駿府96ケ町の町割りをした時のひとつ。道幅が七間。

 

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一里塚跡

 

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由井正雪公之墓址碑  

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丸子宿に入る前に大きな安倍川がある。安倍川を渡る前には安倍川餅である。柔らかくて美味であった。安倍川餅といえば、黄な粉であるが、黄な粉、あんこ、わさび醤油と三種類に舌づつみである。

 

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 安倍川義夫の碑   ある人夫が旅人の財布を拾った。旅人はお礼をしようとしたが受け取らない。奉行所が代わりに褒美を渡した。

 

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安倍川架橋の碑

 

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一里塚跡

 

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丸子宿の丸子川を渡る手前に<十返舎一九膝栗毛の碑>がある。その手前に<本陣跡><お七里役所跡>がある。西国の大名は江戸と自分の領国の間の通信網として七里飛脚を使っていた。五人一組の飛脚を<お七里所>に配置していた。この丸子の<お七里役所跡>は、紀州徳川家の<お七里役所跡>である。

普通便は8日で、特急便は4日で到着したそうで、毎月三回、江戸からは5の日、和歌山からは10の日に出発した。この日には飛脚が着くという日がわかっていたわけである。それ以外の日につけば、緊急であろうから受けたほうは緊張したことであろう。

 

本陣跡

 

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お七里役所跡

 

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そして丸子宿といえば、とろろ汁である。弥二さん喜多さんはこのとろろ汁が食べられなかったこともあってか<十返舎一九膝栗毛の碑>は、とろろ汁のお店の前にある。この日はそのとろろ汁のお店が休みで、弥二さん喜多さんと同じ運命かと思いきや、他のお店が開いていて無事食べることが出来た。満足。

池波正太郎さんは、岡本かの子さんの小説『東海道五十三次』の中で丸子宿でとろろ飯をたべている場面からどうしても食べたくなり丸子宿を訪れている。とろろ汁もであるが、岡本かの子さんの短編『東海道五十三次』も読めてこれまた満足である。

 

岡本かの子の碑

 

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京方見付跡

 

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丸子宿宇津ノ谷峠は、河竹黙阿弥の歌舞伎『蔦紅葉宇都谷峠』の舞台にもなっていて、是非ここは通りたいと思っていたのである。

 

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お羽織屋   秀吉から陣羽織を与えられた。

 

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歌舞伎の『蔦紅葉宇都谷峠』の紹介記事展示

 

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宇津ノ谷峠は、明治のトンネル、大正のトンネル、昭和のトンネル、平成のトンネルと時代ごとのトンネルがある。明治、大正は散策コースにもなっていて、さらに蔦の細道と幾つかの散策道があるが、こちらは、ひたすら旧東海道である。宇津ノ谷峠への登りがきつく大丈夫かなと思ったが登りが適当なところで終わってくれ、下りが長かったので助かった。

旧東海道を歩いていると距離の単位が<里>になっていて、言葉に何里とかでてくると、その遠さなどがすぐ体感できたりする。一里はなくても、高さがあると時間がかかるということも考慮に入れる。峠は薄暗く、やはり、川と峠は旅人の脅威である。そして、雨も。次の日雨となり、途中で早めに行程をあきらめて、駿府城見学に変えた。その夜、風が猛威を振るい箱根では木が倒れ、箱根鉄道は運休となったようである。

行くとき今回は富士山が全身を現してくれたのであるが、土色で何かぼやけてみえる。風のための土煙の影響であったようだ。

さて、今回、ツッコミを提供してくれたのは、テレビの『陰陽師』と映画『図書館戦争』である。『陰陽師』は、晴明と博雅の関係にブーイング。夢枕獏さんの『陰陽師』ではないとの結論。といっても、こちらは歌舞伎の染五郎さんと勘九郎さんのコンビを最高とおもっているので、原作と比較できない。脚色されるのは仕方のないことではあるが、原作を一冊読んだ。原作よりも、歌舞伎の晴明と博雅の微妙な関係のほうが味がある。やはり原作は読むべきである。『今昔物語』にも出てくる話しが書かれてあった。そして蝉丸さんが出て来た。あの世とこの世の境とされる<逢坂山>に庵を結んだと言われる琵琶の名手である。蝉丸さんが出てきてくれたことだけをとっても原作を読んでよかった。生きた人と人が作り出す芝居や映像は、原作とは違ってしまうのが宿命であろう。

かつては、原作派で、原作の良いものは、映像とか芝居は観る気がしなかったが、近頃は映像などで短時間でその概要を捕らえることが多くなった。原作を読む時間がないということ、集中力が低下して、本を読むのに時間がかかるのである。

映画『図書館戦争』は、原作を読んだ友人から、<図書館の自由に関する宣言>があるのを知っているかときかれ、知らないというと、こういうのがあるのだと教えてくてた。作家の有川浩さんも、<図書館の自由に関する宣言>を知ってそのことから作品の発想が生まれたようである。さっそく、レンタルする。不適当な本として取り締まる側とそれに抵抗し本と読み手の自由を守る人間とが戦争にまで発展してしまうのである。アニメ映画にもなっているらしい。原作は5巻くらいありさらに別冊が2巻あるらしく読むなら貸すといわれたが断る。今、その本を入れるゆとりがない。

映画ではやはり短すぎるが、こういう展開なのかということはわかる。

<図書館の自由に関する宣言>があるということを知っただけでもよかった。今、民間に図書運営を任せ問題点があることが住民から指摘されたりしている。資料として古くなったりしたものや、定説が新しい事が発掘され変更になったものなど、専門家の図書司書の方がきちんと調べてそろえたり、保存していくのが図書館の役目でもあるようである。そういえばこちらが調べたいことを察して、その関係ならこういう本もありますよと言ってくれた図書館の人もいたが、今はそんなこともない。ただし、個人情報として立ち入ることを避ける必要があるのかもしれない。

ただ、捜してる本の場所を見つけるのが、かつての係りの人はもっと早かったと思わされることは多い。

今夜、テレビで『図書館戦争』放送されるらしい。男女の背の高さが、かなり重要なポイントでもある。

TBSテレビ 21時~

吾妻小富士・鳥海山・月山

吾妻小富士><鳥海山><月山>を、我足で踏みしめることが出来た。ハイキング程度であるが、山の一部を歩けたので満足である。

月山>は、出羽三山の一つである。昨年羽黒山に行ったとき、残りの二山も行かねばと思っていたので、<月山>を目にして、ツアーに申し込む。<月山>の八合目までバスで登り、<弥陀ヶ原湿原>を1時間ほどの散策である。平坦な木道の遊歩道になっておりバスで登ってきた時の景色を思うと好いとこ取りをしているような気分で、修行とは無縁である。紅葉も始まっていた。

 

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弥陀ヶ原湿原

 

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途中に<月山中の宮>(御田原神社)の鳥居井がある。稲田の守護神が祀られている。残念ながら月山の山頂は雲に邪魔をされて望めない。所々に<池塘>と呼ばれる水たまりがある。八合目であるが、広い広い頂上に居る感じである。

 

月山中之宮・御田原参篭所の案内

 

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鳥海山>は行くまでも帰りも、バスの中から<鳥海山>尽くしである。ぐるっと<鳥海山>を周る感じでの道である。夏の間の東海道は、富士山に嫌われ裾野の見える場所でありながら雲に邪魔されたので、今回は<鳥海山>大好きの心境である。富士山は冬にリベンジするつもりである。<鳥海山>は、<獅子ヶ鼻湿原>を2時間ほど歩く。こちらは神秘に満ちた森の中という観じで妖精が出てきそうな雰囲気である。

 

鳥海山・獅子ヶ鼻湿原

 

流れる水は、川などの流れを落下しているのではなく、鳥海山に浸み込んだ雨や雪解けが伏流水としてここで地表に湧き出しています。

 

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異形に育ったブナの木  

燭台と名付けられた巨木ブナ。太い幹と、幹から立ち上がった形が西洋のロウソク立て似ているため。

 

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鳥海マリモ解説

湧水中には<鳥海マリモ>と呼ばれるコケが水の中に浮いているようである。

 

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日本の自然はまだまだ魅力的な所が残っているらしい。途中のパンフで見つけた。象潟<九十九島 >は、芭蕉も魅了され松島のような島々だったのが、地震のため今は水田の間にかつての島々が点在しているのだそうである。陸の松島と呼ばれている。地震国・火山国・日本ならではの変遷する風景なのであろう。

行程を反対に書いているが、<吾妻小富士>は、浄土平の駐車所から登り、火口を1時間ぐるっと歩く。伊豆大島の三原山では時間がなく火口まで行けなかったので、火口散策は<吾妻小富士>で願い叶ったりである。すり鉢のような火口跡を見下ろしつつ、雲間の山々を眺めつつ歩く。吾妻山は活火山である。今は静かに乾ききったような火口である。

 

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火口を巡って下りてから、今度はビジターセンターに隣接する湿原を散策。ここは、20分もあればまわれる。草花は残念ながらエゾリンドウが少々である。しかし、白い苔のハナゴケが頑張って群生していてくれた。その白さが可愛らしい。

 

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ビジターセンターで日本野鳥の会の発行の小冊子があり、ページ数はすくないが、写真と文がなかなか味わい深い。好きな星野道夫さんの写真も載っている。その中で、福島原発の身体に対する影響を心配し、いわき市の主婦らが立ち上げたNPO法人『いわき放射能市民測定室 たらちね』の紹介があった。「β線放射測定ラボ」を立ち上げつつあるという。この冊子は2014年12月発行なのですでに開始しているようだ。放射線のセシウム測定はよく聞くが、β線のほうが横綱級で骨に取り込まれ延々と体内で放射線を出し続けるのだそうで、β線を測定するには多大な費用、技術的な問題があるのであるが、それを稼働し始めるという話しである。

福島にきて原発問題を提起される。若いお母さんたちが、心配するのは母親として当然のことである。一番きがかりのことである。こうした会が生まれ存在してくれることは若いお母さんたちに大いなる力となるであろう。ただ営利目的の団体もできているとのことで、その辺は利用される際には充分確かめられたい。

自然を通して素晴らしい面も破壊される面もはたまた、自然の驚異や横暴さも様々な姿が見えてくる。その中で人はどう生きていくのか。そんなことも想い至る時間であった。処理方法が決まらず何処にも持って行きようのないものは使用しないのが自然の流れと思う。

さて、映画好きとしては、磐梯山と吾妻山の周辺の風景をロケした映画の情報も得たのでその映画と、伊豆大島を舞台とした映画の話しを次には書くことにする。

 

羽黒山 → 東北の旅・慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

旧東海道の言葉遊びとアニメ

井上ひさしさんが文を書き、さしえ絵は山藤章二さんの『新東海道五十三次』という本がある。言葉の好きな井上さんならではの言葉のことがたくさん出てくる。こちらとしては、井上さんと山藤さんの弥次喜多道中と思って購入したが、開いてみたら東京圏内での東海道体験では、つんのめるばかりで先に読み進めない。では府中まで進んだのだからと思って開くと少し楽しめた。

たとえば、江戸の寺子屋では、『都路』というのが教材として用いられていたそうである。どんなのかというと次のような文である。

都路は五十(いそじ)余りに三(み)つの宿、時を得て咲くや江戸の花、波静かなる品川や、やがて越えくる川崎の、軒波(のこは)並ぶる神奈川は、はや程ヶ谷のほどもなく、暮れて戸塚に宿るらむ、紫匂ふ藤沢の、野面に続く平塚も、ものの哀れは大磯か、蛙(かわづ)鳴くなる小田原は、箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や、宿は沼津の真菰草(まこもぐさ)さらでも原の露払ふ、富士の根近き吉原と、ともに語らん蒲原や、休らふ由井の宿なるを、思ひ興津の焼塩の、後(のち)は江尻のあさぼらけ、けふは駿河の府中行く

 

この調子で京まで続くのである。そして、この変形のひとつが明治期の「鉄道唱歌」ということである。この『都路』を覚えて次の東海道歩きのときには、紹介したいものであるが、暗記は苦手。コピーを渡すことになりそうである。

「道中新内節」というのもあって、

日本橋から二人連れ、七つ発(だ)ちにてやつやまをはなし品川いそいそと、磯辺伝いの鈴ケ森、古川薬師横に見て、わたしを越して川崎へ、ひとり行くとは胴欲な、晩に必ず神奈川(かんなかわ)

 

と続くのである。

枕詞東海道などというのもある。それが、戦争中カナダ人修道士が日本の収容所にいれられ、監督官が軍部から軍人勅諭を暗記させろと命令されたがあんなもの覚えても仕方がないから、むかし寺子屋で枕ことばを暗記するのに使ったものを教え、それを習ったカナダ人の修道士から井上さんが教わったのである。

おおふねの 沼津。あおやぎの 原。よしきがわ 吉原。あおやぎの 蒲原。さつひとの 由井。みさごいる 興(沖)津 ・・・

そこから、井上さんは枕詞に凝る。

岸恵子さん「いわそそぐ岸の恵子さま」。若尾文子さん「わかくさ若尾のむさしあぶみの文子さま」。五木寛之兄「みずとりのかもめのジョナサンしずたまき数にぞ売れしかきかぞう五木さん」。佐藤愛子さん「しろたえの月の光も照り負くる男まさりの愛子姉さま」などなど。

井上さんと山藤さんに比べようもないのが、こちらの東海道のお遊びはアニメの突っ込みであった。アニメ『バケモノの子』が面白そうというと、細田守監督のアニメ幾つかDVDになっているというので、ネタとして『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』を観る。アニメは実写の映画より突っ込みどころが沢山あり、道中には楽しいなぐさみとなる。時として突っ込みに夢中になり道を間違え暑い中をもどる羽目となってしまったりもした。

『時をかける少女』は、大林宣彦監督のとどう関係するのか尋ねたら、大林監督の続きがアニメ映画で、博物館で修復の仕事をしていた女性が原田知世さんで、アニメの方の時をかける少女はその姪にあたるのである。なるほど。

『サマーウォーズ』の旧家の素敵なお婆ちゃんの声は富司純子さん。『おおかみこどもの雨と雪』の頑固なお爺ちゃんは菅原文太さんの声である。『葛の葉』などは、狐が子供を産むのであるが、『おおかみこどもの雨と雪』は、人間が狐の子供を産み、その子は人間の世界で暮らしてもいいし、狼の世界で暮らしてもよく、子供が成長の段階で選ぶのである。子供が夢中になると、耳が出て狼のように走ったり発想が面白いと思ったが、かなり突っ込まれる。

ネタも必需品だが、テーピングも必需品である。箱根から三島への「下長坂」は「こわめし坂」とも呼ばれる急な長い坂である。あまりにも長く急な坂で、背負っていたお米が、汗と熱でこわ飯になったといわれる坂である。ここで足を痛めてしまった。なんとかテーピングで、次の日も歩くことが出来たのでホッとした。どういうわけかその日はテーピング持参していたのである。カンが働いたのか。ところがハサミがなくて、友人が爪切りを持っていてそれで引きちぎった。旅はなにがあるかわからない。くわばらくわばら旅まくら。

旧東海道と『興津坐漁荘(おきつざぎょそう)』(興津宿・江尻宿・府中宿)

 

17番目の宿・興津宿。

 

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興津宿東本陣址

 

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興津宿西本陣址

 

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江戸の面影のない現在の興津宿

 

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東海道ぞいにあった、『興津坐漁荘』について書く。

興津坐漁荘』は西園寺公望(さいおんじきんもち)さんの別荘である。本来の『坐漁荘』は、愛知の犬山にある明治村に移築された。その後で、興津に復元され、『興津坐漁荘』として公開されているのである。本来の『坐漁荘』に忠実に復元されているらしい。材料が吟味されていながら、これ見よがしの所が無いシンプルな日本家屋である。時間が早かったため、家屋の雨戸などを開けている途中であったのが係りの方が、快くよく見学させてくれ、もう少しすると詳しく説明できる者が来るのですがと言ってくれたが、先を急ぐ旅人ゆえ、簡単な説明で充分に堪能できた。

 

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『坐漁荘』は、劇団民芸の『坐漁荘の人びと』(2007年)という芝居を観て、頭の中に残っていた。西園寺公望さんという方は、最後の“元老”と言われた人で、政界を退いても影響力のある人であったようだ。しかし国の行方は彼の思うようには行かず憂いを残して亡くなられたようである。

『坐漁荘の人びと』は、昭和10年(1935年)の夏から、昭和11年(1937年)の二・二六事件を通過した、3月までの『坐漁荘』の中での使用人や警備の人々に囲まれた西園寺さんの登場である。視点はあくまで、一般の人々の目線である。

以前奉公していた新橋の芸者・片品つるが坐漁荘を訪れる。そこで、もう一度女中頭として勤めて欲しいと執事に懇願され、引き受けることとなる。新しい女中頭のつるが、奈良岡朋子さんで、西園寺が大滝秀治さんであった。

西園寺さんは、軍部に対しても物申す人で、身辺の危険が心配され、坐漁荘の中は女中と西園寺さんだけの世界である。そのため、内なる女達のまとめ役が必要であったわけである。女中頭のつるは、今までの経験を駆使して、ご主人の気の休まるような環境をと、七人の女中をまとめていくのである。

『興津坐漁荘』を見て廻ると、女性達の動線が自分の動きと重なる。兎に角、開け放たれた部屋はどこも明るい光が入り、台所も明るく、暗い場所がない。庭からの景色は風光明媚である。かつては。今は埋め立てられグランドになっていて、野球部の学生が練習に励んでいる。それもまた、主の居ない風景としては理に適っているかもしれない。戦争の足音の聞こえる時代の風景が今は、若者が好きな野球に打ち込んでいる。一部の人々のための風光明媚よりも現代に相応しい明るさと美しさである。

『坐漁荘の人びと』を観ていなければ、政治家の別荘の一つとしてしか見なかったであろう。竹が好きなようで、窓の格子も竹であるが、侵入を防ぐため竹の中には鉄棒が入っていた。そういうところも、きちんと復元したようで、中の網代や外の桧皮壁も質実剛健に見えるのが好ましい。

“元老”は西園寺公望さんが最後でよい。

作・小幡欣治/演出・丹野郁弓/出演・奈良岡朋子、樫山文枝、水原英子、鈴木智、千葉茂則、伊藤孝雄、河野しずか、大滝秀治

 

旧東海道にもどると右手に『清見寺』。徳川家康が人質として今川家にいた竹千代時代時々ここで勉学に励んだと言われている。五百羅漢など見どころが多いお寺である。

 

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延命地蔵尊と常夜灯

 

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旅の途中で倒れた人々の埋葬碑

 

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巴川にかかる稚児橋の河童の像の一つ。稚児橋は家康の命によってかけられた。渡り初めに地元の老夫婦が選ばれ渡ろうとしたらおかっぱ頭の稚児があらわれ橋を渡って府中方面に消えたという伝説がある。

 

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久能山に向かう追分の道標

 

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清水次郎長が森の石松のかたきを討った場所で討たれた都鳥を哀れに思った里人が建てた都鳥の供養塔

 

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東海道の解説版

 

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草薙一里塚  (江戸から43番目の一里塚) 一里塚のそばに大きなタヌキの像があった。笠を首にかけ徳利を持っている。それらには意味があるようなのである。狸八相縁起

 

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旧東海道記念碑。昭和37年国鉄操車場の建設により旧東海道が分断され旧東海道が一部消えたことから記念碑を残す。

 

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西郷・山岡会見跡の碑。江戸城無血開城についての会談。由比の間の宿「望嶽亭藤屋」で山岡鉄舟が助けられなければこの会談も無かったわけである。

 

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東海道も弥二さん喜多さんや、浮世絵の世界だけでなく、時代時代の動きを垣間見せてくれる。時には、出会った人から、市町村合併の理不尽を聞かされることもある。その話しを聴いた後で歩くと、その人の怒りがもっともに思える町並みの風景に出会うこともある。集めるだけ集めて回って来ない置き去りにされる地域が生じることもあることを知る。

旧東海道・蒲原・油井

旧東海道もしばらくはJR東海道本線に添ってなので歩く計画も立てやすい。

一里塚跡

元禄12年(1699)の大津波で蒲原宿は移転しそれにともない一里塚もここに移された。

駿河湾がありますからね。後ろに小さな祠。

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東木戸・常夜灯

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常夜灯  文政13年(1831)のものだそうです。写真がないので蒲原の商工会が出したパンフレットから使わせてもらいます。

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諏訪神社  しっかりと石垣が組まれている。

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なまこ壁 (パンフレットより)

吉田家・塗壁造りなまこ壁(低く迫りだした瓦屋根と、塗壁が特徴)

佐藤家・塗家造りなまこ壁(家のまわりを黒漆喰で塗り固めた塗り家造りでモダンな白と黒のコントラストが印象的)

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広重の『蒲原夜之雪』の案内板

歌川(安藤)広重は天保元年(1829)幕府の内名を受けて「八朔御馬献上(はっさくおうまけんじょう)」の式典のようすを描くために、初めて東海道五十三次の旅を体験した。実際に旅したのは、天保三年(1832)のこととされている。「八朔御馬献上」は、江戸の幕府から京都の朝廷へ御料馬二頭を献上する年中行事の一つであった。

その時のスケッチや印象をもとにして、広重が五十五図のうち特に「蒲原夜之雪」「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに役物(やくもの)と称され中でも最高傑作といわれている。錦絵に使用する奉書紙の地色を巧みに生かした夜の雪、二人の駕籠屋と一人の按摩を配した里の情景など抒情豊かに構成された名作との評価が高い。

東海道は家康が江戸から京都までとし五十三次でした。大阪には淀君と秀頼がいたからだといいます。豊臣家が滅びると二代将軍秀忠は大阪までのばし、三代将軍家光は庄野宿を加え五十七宿としたそうです。

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夜の雪記念碑

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さらにパンフレットに「蒲原夜の雪」について面白いことがのっていました。<真夏のミステリー> 「蒲原夜の雪」は、静かな雪景色の町として描かれているが広重は真夏に京都に向かっている。天才広重のイメージ風景という説や風景に起伏をもたせるためのアイデアという説など諸説あると。

人物が駕籠屋と按摩というのも確かに仕事を終わった駕籠屋と夜仕事の按摩で夜を印象づけるなあと感心しました。風景だけではなく人物の配置にも怠らない広重さんです。

本陣跡・佐藤家  これは西本陣のあとで100m先に東本陣があったようだ。

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向かいの和泉屋の二階から見た本陣

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旅籠「和泉屋」(鈴木家)

江戸時代の上旅籠屋で天保年間(1830~44)の建物で安政の大地震でも倒壊しなかった。

一部はお休み処として中を見学させてもらえる。

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高札場跡

正徳元年(1711)に出された五高札が有名。 ① 伝馬に関する定 ② 忠孝を奨励する定 ③ 毒薬や贋金銀買売の禁止の定 ④ 切支丹宗門禁制の定 ⑤ 火付(放火)重罪の定

また貨客運搬の駅馬や人足の賃金も改定のたびに掲げられる。 

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御殿道跡(ごてんみちあと)

かつてこのあたりに「蒲原御殿」があった。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するため徳川家康が建てた小規模なものだった。二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され大きくなった。

正確な位置はわからない。背後の山を「御殿山」、ここを下る道を「御殿道」と呼んでいる。寛永11年(1634)の家光上洛以降使用されなくなった。

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旧五十嵐歯科医院  

大正時代に建てられました。中は町屋の特徴を残した和風で外観は洋風です。見学することができ講演会や催し物を行われている。

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由比宿を抜け薩埵峠に向かう

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写真のピントが合っていませんが39番目の一里塚址

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由比宿東桝形跡案内   

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御七里役所之跡碑

江戸時代、西国大名が江戸屋敷と領国との間に七里飛脚という特別の通信機関をもつものがあった。

ここは紀州徳川家の七里飛脚の役所跡。江戸・和歌山間584キロの間に28キロ(約7里)ごとの宿場に中継ぎ役所を置き、5人1組の飛脚を配置した。主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。これには剣道弁舌すぐれたお中間が選ばれた。

昇り竜と下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち腰に刀と十手を差し御三家の威光を示しながら往来した。普通便は毎月3回、江戸は5の日和歌山は10の日に出発。道中8日を要した。特急便は4日足らずで到着した。

幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所などとあるのは由比駅おける紀州家のお七里役所のことである。この裏に大正末年までお七里衆の長屋があった。

とても詳しい説明でした。飛脚の走っている姿が浮かびます。さすが紀州徳川家の感も。

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由比本陣案内板

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本陣跡   今は本陣公園となっていて東海道由比宿交流館、静岡市東海道広重美術館、記念館「御幸亭」(みゆきてい)などがあります。 御幸亭は明治天皇がご小休された離れの館を復元。付属の庭は松榧園(しょうひえん)といい山岡鉄舟が命名したもの。 

本陣井戸

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御幸亭と庭  右側の四角い建物が広重美術館。時間の関係で残念ながら見学していない。

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正雪紺屋

この紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より400年近く続くといわれ屋内には土間に埋められて藍瓶(あいかめ)等の染物用具や天井に吊られた用心籠は火事等の時貴重品を運び出すもので昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。

400年とは驚きである。

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由比正雪生家の写真は地元のパンフから使わせてもらいました。

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慶安事件について正雪紺屋で出されているパンフから補います。

慶安4年(1651)4月、三代将軍家光が死去すると、その7月、由比正雪らにより幕府転覆が企てられた。7月29日を期して、江戸、駿府、京都、大阪で一斉に事を起こし、全国の浪人を蜂起、糾合。正雪は、久能山において東西の指揮にあたるという計画。しかし直前に訴人す者があり失敗。7月26日、由比正雪は駿府城下の梅屋で同志と共に自刃。

大名の取りつぶしにより浪人がふえその窮状と政治を改めさせるための訴えでした。

正雪紺屋の奥には正雪遺品を埋めた祠がある。

間の宿本陣跡 

ここ川島家は江戸時代慶長から天保年間凡そ230年間間の貫目改所の中心をなし大名など休憩したので村では本陣と呼んだ。

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間の宿の脇本陣柏屋  

ここは江戸時代から柏屋と称し茶店を営んできた。明治元年及び11年明治天皇ご東幸のみぎりご小休所にあてられた。また静岡県令・大迫貞清が療養のため逗留。郷里の九州の気候風土とが似ているため田中びわの種子をとりよせ栽培をすすめ当地の田中びわが普及した。

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間の宿・藤屋・望嶽亭

薩埵峠の東登り口の位置していることから坂口屋ともいわれ茶店を営んでいた。ここより富士山の眺望がよいので「望嶽亭」とも称し文人墨客が好んで休憩した。

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望嶽亭山岡鉄舟ゆかりの家

素通りしてしまったのですが山岡鉄舟をかくまった家でした。駿府にいる西郷隆盛に江戸総攻撃中止の談判に向かう途中で官軍に見つかってしまい「望嶽亭」の扉をたたきかくまってもらい漁師に変装し舟で逃がすのです。送り先は清水の次郎長のところでした。ここで逃がしてもらわなければ江戸城無血開城はなく江戸は血と火の海だったかもしれません。

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パンフからの写真ですと建物は一階ですが実は二階で、一階の床の間に隠し階段があり蔵の一階に下りられるようになっているそうです。扉を開けると前は浜辺。いやはや映画のような場面が浮かぶ。

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街道には様々の歴史が隠されていて驚き。

間の宿西倉沢の一里塚跡

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薩埵峠  お馴染みの風景を見ることができました。富士山は残念。残念が続いているような。東名高速、国道一号線、JR東海道線が交差している。

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「薩埵峠」 薩埵峠の開通は明暦元年(1655)とおそかった。峠道は上道、中道、下道の三道があり、上道が江戸後期の東海道本道である。

「風光明媚な絶景の地」 現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいる。万葉の歌人・山部赤人の有名な歌はこの付近から詠まれた歌ではないかと伝えられている。

田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にそ 不二の高嶺に 雪は降りける

さらに享和元年(1801)狂歌師・蜀山人(太田南畝)が峠の茶店で休息した時、小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った狂歌が薩埵峠の名を有名のした。

山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ

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薩埵峠から下ってから途中の道が旧東海道なのかどうかよくわからなかった。友人とまあいいことにしようと歩きすすんだ。

瑞泉寺と常夜灯

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興津川の渡し場跡

旅人は両岸にあった川合所で「越し札」を買い連台または人足の肩車で川を越した。水の深さで値が変わり連台は札4枚を要した。深さが四尺五寸を越すと「川止め」。

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興津川を渡れば興津宿に入ります。

髭題目の碑と常夜灯   この右手の道が身延山道となっていて身延山久遠寺への信仰の道です。

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一里塚址  JR東海道本線の興津駅までもう少し。

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旧東海道・吉原宿

JR東海道本線の吉原駅から始める。このすぐそばから岳南電車の吉原駅が始まる。

JR吉原駅手前に元あった吉原宿でかつて津波の被害があり中吉原宿へ。さらに新吉原宿へと移転している。新吉原宿は岳南電車の吉原本町駅あたりである。

先ずはそこまで目指すこととする。吉原は工場地帯で先に歩いた仲間は左富士は見えなかったと言っていた。

酒屋の看板に < ちょっと一息 左富士 > とある。

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左富士神社のあたりが中吉原宿であった。

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名勝・左富士の案内板

東から西に進とき今まで右手に見えていた富士が左手にみえることから名勝となった。安藤広重の道中日記 < 原、吉原は富士山容を観る第一の所なり。左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一丁ばかりの間の松の並木を透かして見るまことに絶妙の風景なり。ここの写生あり。>今は工場や住宅で当時の風情はないが一本だけ老松が残っていて貴重であると。

えっ! 広重の道中日記があるんですか。読んでみたい。

残念ながら左富士も富士山そのものも見えなかった。

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名勝・左富士の碑

左脇の広重の絵の説明が詳しい。

右方に見える黒い山は愛鷹山である。左に富士山を眺めながら馬に乗った旅人が行く。前方の馬は背の両脇に荷物を入れたつづらを付け(37.5kgずつ)その上にふとんを敷いて旅人を載せる。この方法はのりじりといい賃料がかかった。手前は馬の鞍の左右にこたつのやぐらのようなきくみを取り付けそれに三人の旅人が乗っている。これを「三宝荒神」といっていた。

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平家越えの碑

この場所であったのかと驚き。

治承四年(1180)十月二十日。富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙した。その夜半、源氏の軍勢が動くと近くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立った。その羽音に驚いた平家軍は源氏の夜襲と思い込み、戦い交えずして西へ逃げ去りました。源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのはこの辺りといわれ「平家越」と呼ばれている。

この頃、八幡神社で頼朝と義経が石に座し対面しているのである。

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平家越えの橋

この下を流れているのは和田川

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平家越の石碑

これはかなり古いですね。横に東海道の道標

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東木戸跡

いよいよ新吉原宿である。

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身代わり地蔵さん

昔、寺町(今の東本通り付近)に悪性の眼病がはやった時、町の人々がこのお地蔵さんに願をかけると、たちまち潮が引くように治った。その時お地蔵さんにはいっぱい目やにがついていたので「身代わり地蔵」というようになった。その後もはしか、おでき等身体の弱い子に霊験あらたかと信仰を集めていた。

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商店街を歩くが本陣など吉原宿の印は何も見つけられなかった。

清水次郎長と山岡鉄舟が泊まったという宿「鯛屋」がありました。今も営業されているようです。

間宿・本市場案内板

本市場の名物は、白酒、葱雑炊、肥後ずいきなど。

広重の絵には旅人が「名物 山川志ろ酒」の茶店で休んでいる。浮世絵には「吉原」と。広重は旧東海道の浮世絵を20種類くらい出している。右の本市場の地図には旅館が並んでいるが芝居小屋もある。川止めのときはかなりにぎわったのであろうか。

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鶴芝の石碑

かつてこの辺りに「鶴の茶屋」があった。ここから見える冬の富士山は中腹に鶴が一羽舞っているようにみえたという。

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一里塚石碑

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猿田彦大神石碑

きちんとお水と果物が供えられている。

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札の辻跡案内

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道標と常夜灯

JR身延線の柚子の木駅近くの線路を渡った先。JR東海道本線富士駅から山梨県甲府に行きつく身延線が出ている。

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水神の森と富士川渡船場の説明版

富士川は船で渡った。家康の交通政策によるものである。渡船は岩淵村と岩本村との間でおこなわれた。東側の渡船場は上船居、中船居、下船居の三か所あり、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいた。水神ノ森には安全を祈願し水神社を祀った。

用いた船には定船に定渡船、高瀬舟、助役船があった。定渡船には人を三十人、牛馬四疋を乗せ船頭が五人ついた。

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松岡水神社

境内に富士山道の道標富士川渡船場跡碑がある。

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富士川

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富士川を渡ると間宿・岩淵渡船場跡

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秋葉山常夜灯

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岩淵一里塚

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【 寄り道 】

広重殺人事件』(高橋克彦著)という推理小説を読みました。軽い気持ちで読み始めたがハマってしまった。特に甲府の「酒折の宮」が出てきて驚きました。

甲斐の善光寺に行ったとき、近くに何か観る所はないかと調べたら「酒折の宮」が歩いて行けることを知り訪ねたのです。ご祭神が日本武尊ということで興味をひいたのは連歌発祥の地ということでそうなのか程度でした。

身延線の善光寺駅から甲斐善光寺へ。そこから酒折の宮へ行き、帰りは中央線の酒折駅から。

甲斐善光寺

長野の善光寺以外にあるのを知りました。それでは行かなくてはと。

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酒折の宮」の万葉仮名で彫られた連歌の碑

日本武尊と御火焼の翁(おひたきのおきな)の歌

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連歌発祥の由来

ここ酒折の宮は古代、日本武尊が東国の蝦夷を征伐しての帰途立ち寄った伝承の地として有名。

尊が、酒折の宮に着いた時「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」(筑波から甲斐の国に来るまでいく晩寝たであろうか)と歌で問われた。その時、そばにいた御火焼の翁が受け「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」。尊はこれをたいそうお誉めになり東の国造(あずまのくにつくり)の位をさずけたということです。

この話は「古事記」や「日本書紀」に書かれていて後に連歌の発祥の地として全国に知られるようになった。

 

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酒折宮古天神の説明

江戸時代から多くの学者、文人の参詣が絶えなかったと。

本居宣長と山縣大弐の名があります。

山縣大弐という人物が全然わかりません。ところが『広重殺人事件』では重要な人物で「明和事件」と関係していました。この事件も小説で初めて知りました。というわけで俄然、酒折の宮が身近となりました。行っておいてよかったと。

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本居宣長の「酒折宮壽詞」

隣に山縣大弐の「酒折祠碑」があったのですが本居宣長の碑も難しいので写真を撮らずです。

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酒折の宮の御祭神は日本武尊で御神体に火打嚢(ひうちぶくろ)があります。あの伊勢神宮で叔母の倭姫命より賜った草薙の剣と火打嚢のそれです。

不老圓塚古墳

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酒折の宮の写真はありません。甲斐善光寺のあとなので由緒のわりには地味だなあとの感想でした。観光気分が強く。でも勤皇思想の人々にとっては重要な宮だったようです。

それと旧東海道の富士川の岩淵の渡しは甲州までの舟運がありました。家康が年貢米などの物流のため京都の豪商・角倉了以(かどくらりょうい)に命じ開削工事をさせていました。横だけではなく縦にも船は通っていました。

その後、東海道線、中央線、身延線の開通で物流も鉄道でとなり舟運は終わりました。

広重も浮世絵もどんどんつながって広がってさらに近くなっていく。

映画『父ありき』と箱根石仏群

映画『TOMORROW/明日』(黒木和雄監督)に小津安二郎監督の映画『父ありき』が挿入されている。結婚する花嫁は、病院に勤めている。結婚式といえども、戦時下である。皆が座ってまだかまだかと待っているのになかなか帰って来ない。結婚式に同席する同僚とともに走って帰ってくる。待っているほうは、とにかく空襲警報の鳴らないうちに終わらせたいのである。何とか写真も撮り終わる。

花嫁の同僚の一人が、もう一人の同僚に映画を観に行こうと誘うが、誘われたほうはそれどころではない。妊娠しており、相手と連絡がとれず困惑しており帰ってしまう。彼女は一人で映画を観るのである。

その映画が『父ありき』である。息子が父のお葬式を済ませた後、東京から妻と二人で秋田に帰る車中である。息子はしみじみと良い父であったと語る。妻は涙する。息子は、妻の父と弟を秋田に呼んで一緒に暮らそうと提案する。妻は喜んで笑顔を見せる。若い夫婦の会話とその妻の笑顔のほんの少しの部分である。息子は、幼くして母を亡くし父に育てられるが、父と一緒に暮らす年月も短かった。一緒に暮らしたいとの願いも虚しく父は亡くなってしまい、妻も母がいないので、義理の父と弟と賑やかに暮らしたいと思うのである。その思いを乗せた列車の去りゆく場面で映画は終わる。

父ありき』公開が1942年で、当然検閲を受けている。いま残っているものは、当時の映画をかなりカットされていて、音声も悪い。そのため、辻褄の合わないところもある。黒木監督は、敬愛する小津監督の作品を挿入したかったのであろうか。さらに、作品の内容に挿入したい意味があったのか、その辺が知りたくて観なおしたが、わからなかった。『父ありき』は戦争中とは思えないおだやかさで、父が息子の将来のために学業に専念できる環境を作ってやり、そのために父子離れ離れに暮らし、父が息子を思う心情と、息子が父を慕う心情を細やかに表している。

この細やかな父子の交流は、戦争高揚にとっては、不要のものかも知れないが、一応は検閲を通ったわけである。もしかすると、この息子の不安な気持ちが、精神状態の不安定だった中学生時代の黒木監督の想いと重なっているのかもしれない。

父親役は笠智衆さんで、中学の教師をしているが、修学旅行で生徒を事故死させてしまう。それが、箱根の芦ノ湖である。生徒が禁止しているボートに乗り転覆事故で亡くなってしまうのである。教師は自分がもっと強く注意していたらと後悔し教師をやめてしまう。そこから父子別々の生活となる。

修学旅行の場面で、箱根の曽我兄弟のお墓が映ったのである。箱根登山バスのⒽ路線の国道1号線に<曽我兄弟の墓停留所>があり、バスの中からもそのお墓が見えて、いつか降りたいと思っていたのであるが、先週、そこの一区間を降りて歩いたのである。映画のなかの中学生は、どこから歩き始めたのか~箱根の山は天下の嶮~と歌いつつそこを歩いているのである。三つ五輪塔があり、二つは十郎と五郎で、少し離れた三つ目は虎御前のものと言われている。

箱根湯本からバスで元箱根港へ行き成川美術館により食事をしバスで<六道地蔵停留所>まで。降りると<石仏群と歴史館>がありそばに精進池が出現した。この池はバスからは見えなかったので驚きであった。そこで、地蔵信仰の石仏群があることを知る。

 

<石仏群と歴史観>でのパネル

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<六道地蔵>から<曽我兄弟の墓>のバス停一区間の左右に石仏があり、国道の下に地下道があり、歩けるようになっていたのである。<八百比丘尼の墓>。八百歳の長寿を得た伝説上の女性のお墓である。友人が言うに人魚を食べて長寿を得てあちこちにでてくるとのこと。「『陰陽師』に出てきた小泉今日子。」「天皇に頼まれて亡き親王が出現したら鎮める役目か。そういえば食べてた。この伝説からきているのか。」

3体の地蔵菩薩の磨崖仏の<応長地蔵>。地下道をくぐって<六道地蔵>。大きい。磨崖仏であるが、きちんとお堂で覆われている。岩とお堂とが上手く合わさっている。磨崖仏の地蔵菩薩坐像としては、国内最大級。ちょっとの寄り道が凄い手応えに。地下道を戻って進むと<多田満仲の墓>のこれまた大きな塔。平安時代に活躍した源氏の祖先とか。さらに進むと<二十五菩薩>で岩盤に幾つもの菩薩が彫られている。地下道があり、反対側にも<二十五菩薩>。

 

<六道地蔵>

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<多田満仲の墓>

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<二十五菩薩>

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最後が、<曽我兄弟と虎御前の墓>である。国道を進んだら、お墓の前に降りられない。細い道があったらしいのでもどってお墓へ。

 

<曽我兄弟と虎御前の墓>

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涼しげな着物姿のご婦人と息子さんらしいかたがおられた。後で友人が「浅見光彦とそのお母さん!」とそく思ったそうである。そこまで思わなかったが、暑い中で、すがすがしい感じであった。友人は、頭の中で、吹き出しも作っていたらしい。「箱根六道殺人事件」ができるかもしれない。死体は二十五菩薩の上で、どうやってあそこに運んだのか。

作家の内田康夫さんは病気のため、新聞に連載中の『孤道』が終了してしまった。熊野に行った仲間と回し読みしていたので残念である。療養され、お元気にならて執筆活動が再開されることを願うばかりである。

箱根の石仏群は二子山の石で、非常に硬く、西国からの石工の技術によって加工できるようになり、箱根の石畳もこの二子山の石が使われた。現在では、<旧街道石畳バス停>付近(白水坂付近)の石畳が江戸時代の二子山の石らしい。

しかし、バス停一区間であるが、箱根の地蔵信仰の人々の想いが伝わる場所である。暑かったが箱根の自然の良さが加えられたひと時であった。

そして思う。『父ありき』では、父は息子を男手で一人前にし、満足して息をひきとるのである。『TOMORROW/明日』は、あってはならない死である。父は教師として事故死というあってはならない死の責任をとり教師という仕事をやめるが、教師の道を選んだ息子には、しっかりと責任ある仕事であることを伝えるのである。

戦時中この父の様に順序立てて説得のできる大人は多くはなかったであろう。そうした中で誠実に語る父は、子供にとって信頼できる人であった。息子が子供の頃と大人になってから、同じ川で父子並んで釣りをするが、その釣竿の動かしかたがかつても今も同じペースで、父子の信頼関係は変っていないのである。

監督・小津安二郎/脚本・池田忠雄、柳井隆雄、小津安二郎/撮影・厚田雄春/音楽・彩木暁一/出演・笠智衆、佐野周二、津田晴彦、佐分利信、坂本武、水戸光子、

小津監督の絵、富士山も曽我兄弟のお墓もお城の石垣も有無を言わせない撮り方です。構図がきっちり決まっている。見ながら背筋を正してしまった。

 

旧東海道・沼津宿~原宿

沼津は旧東海道歩き前に訪れている。目的地は御用邸記念公園、沼津港魚市場、千本公園である。さらに旧東海道を歩いてた友人と再度訪れ散策した。

旧東海道。街道の左右のお寺それぞれに一里塚。沼津に向かって右手に玉井寺(ぎょくせいじ)。こちらにあるのが玉井寺一里塚。左手に宝池寺(ほうちじ)で宝池寺一里塚。写真は宝池寺一里塚。この一対を伏見一里塚というのだそうだ。

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八幡神社の奥に源頼朝と義経が腰かけたという対面石

治承4年(1180)10月に平家軍が富士川の辺りまで進軍してきたので頼朝は鎌倉から出陣しここに陣をかまえる。そこへ義経が奥州からかけつけこの地で感涙の対面。この時頼朝が食べようとした柿が渋柿だったためねじってかたわらにすてたところ後に二本の柿の木が成長した。二本の柿の木は幹をからませねじりあっていたので土地の人はねじり柿と呼ぶようになった。

史実の正確さはわかりませんが凄い場所です。写真左奥の石のそばの二本の木がねじれていたので一応ねじれ柿としておきますがどういうことか。二人の仲がねじれてしまったことを意味するのか。心は離れることなく複雑につながっていたということか。

それぞれの石の下とまわりが面白い。長方形の石と丸い石。何か意味があるのかな。

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亀鶴伝説の潮音寺

子のない長者が観世音菩薩に祈り女の子に恵まれる。名前を亀鶴とつけ美しく成長するが両親は早くに亡くなる。頼朝に召されて応じなかったとか工藤祐経に召され曽我兄弟の敵討ちの後入水したなどの伝説が残っている。

道は旧国道1号線と合流する。この先旧東海道は狩野川の土手に添う細い道に入るのであるがそのまま国道を歩いてしまい平作地蔵の祠を見ずに通り過ぎてしまう。なんたる失態。

平作地蔵の祠。文楽や歌舞伎で同じみの『伊賀越道中双六』の「沼津」「千本松原」での父親平作の地蔵尊がある。

「沼津」。平作は旅人の荷物運びをしていた。一人の客の荷物を運んでケガをした平作は客に手当てしてもらい客を自分の家に泊める。ところがこの客は平作の別れた実の息子であることがわかる。息子は娘の恋人のかたき討ちの相手の居場所を知っている人物でもあった。平作は切腹をして自分の命と引き換えに仇の居場所を息子から聞き出すのである。切腹の場面は「千本松原」である。

平作地蔵は平作の住まいのあったところとされている。

中央公園の中に沼津城本丸跡

戦国時代に武田勝頼が三枚橋城を築城。その後廃城となり江戸時代に沼津城として同じ位置に築城されたようである。明治に入って沼津兵学校として使い廃校。さらに二回の大火を受け堀も埋められ城は姿を消す。

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この先、御成橋、永代橋を左手に右方向に直角にまがって進む。城址近くだからであろうか面白い道筋である。沼津は城下町であったのかと印象が変わる。

間宮本陣跡。沼津宿の中心となる。

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駿河湾方向に進むと千本松原へと続くが旧東海道は永代橋を左手に右折する。

【 寄り道 】

千本浜公園

若山牧水歌碑

< 幾山河こえさりゆかば 寂しさのはてなむ国ぞ けふも旅ゆく >

牧水は宮崎県の生まれである。23歳のとき歌壇に認められる。大正9年(1920年)沼津に移住。千本松原に魅せられ近くに新居を構える。旅と自然に親しみ酒を愛した牧水は昭和3年(1928年)43歳で永眠。

この公園に『若山牧水記念館』もある。気持ちの好い空間である。

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若山牧水のお墓は永代橋のところで右に曲がって左手の乗運寺にある。素通りしましたが。

井上靖文学碑

< 千個の海のかけらが 千本の松の間に 挟まっていた 少年の日 私は毎日 それを一つずつ 食べて育った >

小説『夏草冬濤(なつくさふゆなみ)』に主人公・洪作が中学2年生のとき浜松中学から沼津中学に転向している。下宿先の伯母の家は三嶋大社の門前にありそこから一時間半かけて沼津中学に通っているそうである。

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千本松原

文楽、歌舞伎の「千本松原」の場面にぴったりである。

ここは戦国時代、武田軍と北条軍が激しい地上戦をしたらしい。

旧東海道沼津~原

途中から旧東海道は163号線に入る。そして右手にJR東海道本線。

31番目の松長一里塚跡碑

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片浜駅が右手に。東海道本線を渡り東海道本線は左に。

名僧といわれる白隠禅師ゆかりの松蔭寺

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白隠禅師誕生の地

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< 駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠 >

白隠禅師はこの地で生まれ15歳のとき松蔭寺で出家。19歳から32歳まで全国で修行行脚。33歳で松蔭寺の住職に。84歳で亡くなるまで全国を巡り禅宗の教えを広める。現地は母の生地で屋号味噌屋。その後父が分家し沢瀉屋を名乗った地跡地。

禅師が生まれたとき使用した「産湯の井戸」は今なお清水を湛えている。

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白隠禅師産湯井

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原宿渡邊本陣跡

南側に原駅

渡邊家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫で、代々平左衛門を名乗っていた。明治天皇の行在所でもあった。建坪235坪。

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原宿一里塚

東海道線がどんどん近づく。

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浅間愛鷹神社前に改称記念碑

この辺りは浮島ケ原と呼ばれ低湿地帯であった。開墾に貢献した二代目鈴木助兵衛の名をとり助兵衛新田と呼ばれていた。明治に入りスケベエはよくないと桃里に改称したらしい。

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浅間愛鷹神社の狛犬

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東田子の浦駅前で旧東海道は東海道線を南に渡り旧国道一号線となる。

田子の浦

< 田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける > (山部赤人)

富士は見えませんでした。

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原宿と吉原宿の間の間宿柏原本陣跡案内

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間宿柏原案内

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立圓寺

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増田平四郎の像・一里塚跡案内

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増田平四郎像

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増田平四郎の案内

天保の大飢饉と水害から村民を救うため浮島沼の大干拓を計画。代官所へ12回、勘定奉行に駕籠訴6度で計画発案から27年目に着工。明治2年現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成。人々は「スイホシ(水干)」と呼んだ。ところがその年の8月の高波で跡形もなく壊されてしまった。しかし彼の志はその後に受け継がれた。

不屈の精神です。それだけ災害は悲惨だったのでしょう。

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一里塚跡石碑

昭和放水路を渡ると一里塚。

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JR東海道線吉原駅まで。