京都魔界めぐりの旅(2)

千本ゑんま堂・引接寺(いんじょうじ)>のある千本通りは、かつての朱雀大路で羅城門から朱雀門までを貫いていた。朱雀大路の西側は水はけが悪く、疫病も蔓延し、船岡山の西嶺は<蓮華台>と呼ばれる葬送の地であった。死者を弔う無数の卒塔婆が立てられたことから、千本通りと言われるようになる。都の中心は東に移り、朱雀門も荒廃し鬼の出没する場所となる。

 

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<千本ゑんま堂>のしおりによると、小野篁(おののたかむろ)は、この世とあの世を行き来する神通力を持っていて、昼は宮中、夜は閻魔庁に仕えていた。閻魔法王より現世浄化のため亡くなった先祖を再びこの世へ迎えて供養する「精霊迎え」の法儀を授かり、篁自ら閻魔法王の塔を建立したのが始まりとされる。

旧盆には、水塔婆を流し迎え鐘をついて、その音にのって閻魔様のお許しを得て帰ってこられる「おしょらいさん」を、お仏壇の扉を開いてお迎えするのである。

ここには紫式部さんの供養塔もあり、紫式部さんと小野篁さんのお墓は、北大路堀川に並んであるらしい。不思議なつながりである。

 

 

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そのほか、京都三大念仏狂言の一つ<ゑんま堂狂言>があり、春には花冠のままぼとりと落下して散る<ゑんま堂ふげんざくら>が咲く。堂のおもむきは地域に親しみを込めてにらみを効かす閻魔大王様といった感じである。

今月の歌舞伎座『髪結新三』では「深川閻魔堂橋の場」がある。<深川閻魔堂>へはまだ行っていない。行かなくては。

<白峯神宮>へ行く途中で、<京都市考古資料館>があり入館してみた。係のかたがこちらの時間にあわせて資料の説明をしてくれた。ここでは来館した人で希望者に、一人4コースの、京都歴史散策マップをくれる。40コースあって、選ぶのに迷ってしまった。コースの地域で発掘された遺跡と、裏には散策地図がのっている。近ければすべて手に入れたいが残念である。

白峯神宮> 明治天皇が崇徳上皇の霊を鎮めるために創建された。崇徳上皇は不義の子とされ、父・鳥羽法皇にうとまれ、父の死後、後白河天皇と対立し保元の乱がおこり、後白河天皇に負け、讃岐に流されて亡くなる。

 

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ここは、蹴鞠(けまり)、和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅のあったところで、蹴鞠は落とさない競技なので、球技や学業の神様とされている。蹴鞠がはめ込まれた<蹴鞠の碑>がある。

晴明神社> 安倍晴明さんは陰陽寮の最上位になったのは57歳で、85歳で亡くなっている。当時としては驚異的長寿といえるであろう。初めて訪れたときは他の有名な神社に比べると狭いのでがっかりした記憶がある。一の鳥居の中央には五芒星が掲げられている。五芒星は晴明桔梗とも言われるらしい。晴明が操った式神の石像、五芒星のしるされた石から流れる晴明井戸や晴明像などがある。

 

 

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<千利休聚楽屋敷趾>の碑があった。晴明神社の地に千利休の屋敷があり、晴明の井戸の水を茶湯に使ったとされる。利休さんこの屋敷で切腹したのでしょうか。そうだとすると、利休さんの映画の場面の見方にこの地が加わってくるが。

 

 

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一条戻橋> 葬送の際に遺体を運ぶ橋であった。現世と来世をつなぐ橋といわれ、歌舞伎の演目にもあり沢山逸話が残されている橋である。この橋の上で死からよみがえった人もいて、それから戻橋といわれる。堀川に架かるコンクリートの短い橋でそんな力のある橋とは思えない。晴明さんはこの橋の下に式神を隠していたとも言われている。今はこの橋の下が川に沿って遊歩道となっていて、時間があれば歩いてみたい場所である。どこに通じているのか。

 

 

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この近くに「樂美術館」があった。一度は訪れたいと思っている美術館の一つである。

最終地のは<下御霊神社>である。ここは、桓武天皇の第三皇子・伊予親王が謀反の嫌疑をかけられ、母と共に服毒自殺をされ、その霊を鎮めるために祀られている。

 

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あの世とこの世を行き来するということが異形のことで、それを鎮めたり、あるいは、一年に一度この世にお迎えし、またお送りするといったことには、異形とはならないようにとの願いと祈りがあるようである。

上御霊神社>→<船岡山公園>→<千本ゑんま堂>→<京都市考古資料館>→<白峯神宮>→<晴明神社>→<一条戻橋>→<下御霊神社

 

京都魔界めぐりの旅(1)

雑誌の<京都魔界巡りガイド>に3コース載っていた。2つのコースは行っていない個所が一箇所で、選んだコースは行った個所が一箇所である。

下御霊神社 → 一条戻橋 → 晴明神社 → 白峯神社 → 千本ゑんま堂

すでに訪れているのは、晴明神社である。ただその頃は『陰陽師』に興味がないから、単なる見学である。さらに、最後に 上御霊神社 を加えた。これで、南、西、北と御所を中心として周ることになる。

<京都観光一日乗車券(二日)>を購入。これは京都市バス全線、市営地下鉄全線、京都バスが乗れる。バスだけ、地下鉄だけの一日乗車カードもある。小銭の用意をしなくてもよいのが助かるし、場合によってはお得度も高い。しかし地下鉄など出口によっては進む方向性をつかめなくなるときがあり、出る前に確かめるがそれでも迷うことがある。方向音痴らしい。

上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)>。謀略などで命を奪われた魂は御霊になるといわれ、この高貴なかたが謀略の御霊を鎮める御霊信仰の始まりは<上御霊神社>からで、早良(さわら)親王の御霊を祀ったのがおこりである。早良親王は崇道(すどう)天皇の尊号を追贈されている。その他にも憤死した方々の御霊が祀られている。驚いたことに、ここは<応仁の乱>勃発の地であった。いやはや先人も静かには眠っておられません。

 

 

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そしてここに晴明・心の像がありました。違いました。<清明心の像>でした。中国宋代の学者・司馬温公が子供のころ、一緒に遊んでいた子供が、水の満ちた大甕に落ちてしまった。すぐさま大きな石で甕を割り友人を救ったということから、物より命が大切の心ということらしい。機転の早い子がそばにいてくれて良かった。

 

 

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次に<千本ゑんま堂>に行こうとバスに乘ったところ、<船岡山>という停留所があり下車する。船岡山公園となっていて、その上からは、思いがけず五山送り火の左大文の<大>の字が見えた。こういう出会いは声が出てしまう。

 

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「今より千二百年の昔、京都に都がさだめられる際、船岡山が北の基点となり、この山の真南が、大極殿、朱雀大路となった。これは、陰陽五行思想、風水思想に基づいて、船岡山は大地の気が溢れ出る、玄武の小山であるとされたためである。」

応仁の乱の際にこの山が西軍の陣地となり、この周辺を西陣とよんだ。そうなんだ。西陣織りの生まれたところと思っていたが、元をただせばそいうことなのだ。ここに建勳神社がある。秀吉はここに信長の御魂をまつろうとし、それ以来信長公の大切な地とされ、明治天皇が創建された。<人間五十年 下天の内ををくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか>の織田信長が舞った「敦盛」の一節の碑もあった。

 

 

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さて、<千本ゑんま堂>へと思っても道がわからず、地元の人に尋ねて歩いて行くと<長岡温泉>があった。ここであったか。雑誌で、京都の銭湯の一つとして紹介されていて頭に残っていた。銭湯は庶民のお風呂で、京都といえども同様である。ホテルのバスルーム兼トイレの狭さがいやで、近くに銭湯がある知ると利用することがある。猫ぎらいは行けそうにないような、猫だらけ銭湯もあった。バスルーム兼トイレは、東京オリンピックのとき考え出されたそうである。ホテルも大浴場ありだと嬉しい。疲れの取れ方が全然違う。とにかく、<長岡温泉>見つかり、大地の気も踏んだのである。

千本ゑんま堂>無事到着。雑誌のガイドとは反対に進んでいる。深く考えなかったが、こういう魔界巡りの場合、巡る方角など決まりがあるのであろうか。いまさら考えても遅いし、これからも考えないことにする。平安のころは、方角が悪いとして方違い(かたたがい)と称し、出立位置を違う場所に変えて、それから出立したりしている。時々それを言い訳に平安の色男たちは、恋人を訪ねてくるのが遅かった理由にしている。ゑんま様には効き目が無い。

 

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旧東海道の『丸子宿』『宇津ノ谷峠』での話題

JR静岡駅北口から200メートル先に旧東海道がある。そこから丸子宿を目指し、さらに宇津ノ谷峠を越し岡部宿となる。

府中宿は『東海道中膝栗毛』を書いた十返舎一九さんの生まれたところらしく、生家伝承地碑があるが、旧東海道からはそれているので確かめてはいない。駿府城跡地の駿府公園手前に札の辻跡がある。四つ辻にあった高札場である。

 

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七間町  家康が駿府96ケ町の町割りをした時のひとつ。道幅が七間。

 

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一里塚跡

 

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由井正雪墓碑

 

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丸子宿に入る前に大きな安倍川がある。安倍川を渡る前には安倍川餅である。柔らかくて美味であった。安倍川餅といえば、黄な粉であるが、黄な粉、あんこ、わさび醤油と三種類に舌づつみである。

 

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 安倍川義夫の碑   ある人夫が旅人の財布を拾った。旅人はお礼をしようとしたが受け取らない。奉行所が代わりに褒美を渡した。

 

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安倍川架橋の碑

 

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一里塚跡

 

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丸子宿の丸子川を渡る手前に<十返舎一九膝栗毛の碑>がある。その手前に<本陣跡><お七里役所跡>がある。西国の大名は江戸と自分の領国の間の通信網として七里飛脚を使っていた。五人一組の飛脚を<お七里所>に配置していた。この丸子の<お七里役所跡>は、紀州徳川家の<お七里役所跡>である。

普通便は8日で、特急便は4日で到着したそうで、毎月三回、江戸からは5の日、和歌山からは10の日に出発した。この日には飛脚が着くという日がわかっていたわけである。それ以外の日につけば、緊急であろうから受けたほうは緊張したことであろう。

 

本陣跡

 

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お七里役所跡

 

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そして丸子宿といえば、とろろ汁である。弥二さん喜多さんはこのとろろ汁が食べられなかったこともあってか<十返舎一九膝栗毛の碑>は、とろろ汁のお店の前にある。この日はそのとろろ汁のお店が休みで、弥二さん喜多さんと同じ運命かと思いきや、他のお店が開いていて無事食べることが出来た。満足。

池波正太郎さんは、岡本かの子さんの小説『東海道五十三次』の中で丸子宿でとろろ飯をたべている場面からどうしても食べたくなり丸子宿を訪れている。とろろ汁もであるが、岡本かの子さんの短編『東海道五十三次』も読めてこれまた満足である。

 

岡本かの子の碑

 

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京方見付跡

 

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丸子宿宇津ノ谷峠は、河竹黙阿弥の歌舞伎『蔦紅葉宇都谷峠』の舞台にもなっていて、是非ここは通りたいと思っていたのである。

 

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お羽織屋   秀吉から陣羽織を与えられた。

 

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歌舞伎の『蔦紅葉宇都谷峠』の紹介記事展示

 

 

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宇津ノ谷峠は、明治のトンネル、大正のトンネル、昭和のトンネル、平成のトンネルと時代ごとのトンネルがある。明治、大正は散策コースにもなっていて、さらに蔦の細道と幾つかの散策道があるが、こちらは、ひたすら旧東海道である。宇津ノ谷峠への登りがきつく大丈夫かなと思ったが登りが適当なところで終わってくれ、下りが長かったので助かった。

旧東海道を歩いていると距離の単位が<里>になっていて、言葉に何里とかでてくると、その遠さなどがすぐ体感できたりする。一里はなくても、高さがあると時間がかかるということも考慮に入れる。峠は薄暗く、やはり、川と峠は旅人の脅威である。そして、雨も。次の日雨となり、途中で早めに行程をあきらめて、駿府城見学に変えた。その夜、風が猛威を振るい箱根では木が倒れ、箱根鉄道は運休となったようである。

行くとき今回は富士山が全身を現してくれたのであるが、土色で何かぼやけてみえる。風のための土煙の影響であったようだ。

さて、今回、ツッコミを提供してくれたのは、テレビの『陰陽師』と映画『図書館戦争』である。『陰陽師』は、晴明と博雅の関係にブーイング。夢枕獏さんの『陰陽師』ではないとの結論。といっても、こちらは歌舞伎の染五郎さんと勘九郎さんのコンビを最高とおもっているので、原作と比較できない。脚色されるのは仕方のないことではあるが、原作を一冊読んだ。原作よりも、歌舞伎の晴明と博雅の微妙な関係のほうが味がある。やはり原作は読むべきである。『今昔物語』にも出てくる話しが書かれてあった。そして蝉丸さんが出て来た。あの世とこの世の境とされる<逢坂山>に庵を結んだと言われる琵琶の名手である。蝉丸さんが出てきてくれたことだけをとっても原作を読んでよかった。生きた人と人が作り出す芝居や映像は、原作とは違ってしまうのが宿命であろう。

かつては、原作派で、原作の良いものは、映像とか芝居は観る気がしなかったが、近頃は映像などで短時間でその概要を捕らえることが多くなった。原作を読む時間がないということ、集中力が低下して、本を読むのに時間がかかるのである。

映画『図書館戦争』は、原作を読んだ友人から、<図書館の自由に関する宣言>があるのを知っているかときかれ、知らないというと、こういうのがあるのだと教えてくてた。作家の有川浩さんも、<図書館の自由に関する宣言>を知ってそのことから作品の発想が生まれたようである。さっそく、レンタルする。不適当な本として取り締まる側とそれに抵抗し本と読み手の自由を守る人間とが戦争にまで発展してしまうのである。アニメ映画にもなっているらしい。原作は5巻くらいありさらに別冊が2巻あるらしく読むなら貸すといわれたが断る。今、その本を入れるゆとりがない。

映画ではやはり短すぎるが、こういう展開なのかということはわかる。

<図書館の自由に関する宣言>があるということを知っただけでもよかった。今、民間に図書運営を任せ問題点があることが住民から指摘されたりしている。資料として古くなったりしたものや、定説が新しい事が発掘され変更になったものなど、専門家の図書司書の方がきちんと調べてそろえたり、保存していくのが図書館の役目でもあるようである。そういえばこちらが調べたいことを察して、その関係ならこういう本もありますよと言ってくれた図書館の人もいたが、今はそんなこともない。ただし、個人情報として立ち入ることを避ける必要があるのかもしれない。

ただ、捜してる本の場所を見つけるのが、かつての係りの人はもっと早かったと思わされることは多い。

今夜、テレビで『図書館戦争』放送されるらしい。男女の背の高さが、かなり重要なポイントでもある。

TBSテレビ 21時~

吾妻小富士・鳥海山・月山

吾妻小富士><鳥海山><月山>を、我足で踏みしめることが出来た。ハイキング程度であるが、山の一部を歩けたので満足である。

月山>は、出羽三山の一つである。昨年羽黒山に行ったとき、残りの二山も行かねばと思っていたので、<月山>を目にして、ツアーに申し込む。<月山>の八合目までバスで登り、<弥陀ヶ原湿原>を1時間ほどの散策である。平坦な木道の遊歩道になっておりバスで登ってきた時の景色を思うと好いとこ取りをしているような気分で、修行とは無縁である。紅葉も始まっていた。

 

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弥陀ヶ原湿原

 

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途中に<月山中の宮>(御田原神社)の鳥居井がある。稲田の守護神が祀られている。残念ながら月山の山頂は雲に邪魔をされて望めない。所々に<池塘>と呼ばれる水たまりがある。八合目であるが、広い広い頂上に居る感じである。

 

月山中之宮・御田原参篭所の案内

 

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鳥海山>は行くまでも帰りも、バスの中から<鳥海山>尽くしである。ぐるっと<鳥海山>を周る感じでの道である。夏の間の東海道は、富士山に嫌われ裾野の見える場所でありながら雲に邪魔されたので、今回は<鳥海山>大好きの心境である。富士山は冬にリベンジするつもりである。<鳥海山>は、<獅子ヶ鼻湿原>を2時間ほど歩く。こちらは神秘に満ちた森の中という観じで妖精が出てきそうな雰囲気である。

 

鳥海山・獅子ヶ鼻湿原

 

流れる水は、川などの流れを落下しているのではなく、鳥海山に浸み込んだ雨や雪解けが伏流水としてここで地表に湧き出しています。

 

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異形に育ったブナの木  

燭台と名付けられた巨木ブナ。太い幹と、幹から立ち上がった形が西洋のロウソク立て似ているため。

 

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鳥海マリモ解説

湧水中には<鳥海マリモ>と呼ばれるコケが水の中に浮いているようである。

 

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日本の自然はまだまだ魅力的な所が残っているらしい。途中のパンフで見つけた。象潟<九十九島 >は、芭蕉も魅了され松島のような島々だったのが、地震のため今は水田の間にかつての島々が点在しているのだそうである。陸の松島と呼ばれている。地震国・火山国・日本ならではの変遷する風景なのであろう。

行程を反対に書いているが、<吾妻小富士>は、浄土平の駐車所から登り、火口を1時間ぐるっと歩く。伊豆大島の三原山では時間がなく火口まで行けなかったので、火口散策は<吾妻小富士>で願い叶ったりである。すり鉢のような火口跡を見下ろしつつ、雲間の山々を眺めつつ歩く。吾妻山は活火山である。今は静かに乾ききったような火口である。

 

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火口を巡って下りてから、今度はビジターセンターに隣接する湿原を散策。ここは、20分もあればまわれる。草花は残念ながらエゾリンドウが少々である。しかし、白い苔のハナゴケが頑張って群生していてくれた。その白さが可愛らしい。

 

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ビジターセンターで日本野鳥の会の発行の小冊子があり、ページ数はすくないが、写真と文がなかなか味わい深い。好きな星野道夫さんの写真も載っている。その中で、福島原発の身体に対する影響を心配し、いわき市の主婦らが立ち上げたNPO法人『いわき放射能市民測定室 たらちね』の紹介があった。「β線放射測定ラボ」を立ち上げつつあるという。この冊子は2014年12月発行なのですでに開始しているようだ。放射線のセシウム測定はよく聞くが、β線のほうが横綱級で骨に取り込まれ延々と体内で放射線を出し続けるのだそうで、β線を測定するには多大な費用、技術的な問題があるのであるが、それを稼働し始めるという話しである。

福島にきて原発問題を提起される。若いお母さんたちが、心配するのは母親として当然のことである。一番きがかりのことである。こうした会が生まれ存在してくれることは若いお母さんたちに大いなる力となるであろう。ただ営利目的の団体もできているとのことで、その辺は利用される際には充分確かめられたい。

自然を通して素晴らしい面も破壊される面もはたまた、自然の驚異や横暴さも様々な姿が見えてくる。その中で人はどう生きていくのか。そんなことも想い至る時間であった。処理方法が決まらず何処にも持って行きようのないものは使用しないのが自然の流れと思う。

さて、映画好きとしては、磐梯山と吾妻山の周辺の風景をロケした映画の情報も得たのでその映画と、伊豆大島を舞台とした映画の話しを次には書くことにする。

 

羽黒山 → 東北の旅・慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

旧東海道の言葉遊びとアニメ

井上ひさしさんが文を書き、さしえ絵は山藤章二さんの『新東海道五十三次』という本がある。言葉の好きな井上さんならではの言葉のことがたくさん出てくる。こちらとしては、井上さんと山藤さんの弥次喜多道中と思って購入したが、開いてみたら東京圏内での東海道体験では、つんのめるばかりで先に読み進めない。では府中まで進んだのだからと思って開くと少し楽しめた。

たとえば、江戸の寺子屋では、『都路』というのが教材として用いられていたそうである。どんなのかというと次のような文である。

都路は五十(いそじ)余りに三(み)つの宿、時を得て咲くや江戸の花、波静かなる品川や、やがて越えくる川崎の、軒波(のこは)並ぶる神奈川は、はや程ヶ谷のほどもなく、暮れて戸塚に宿るらむ、紫匂ふ藤沢の、野面に続く平塚も、ものの哀れは大磯か、蛙(かわづ)鳴くなる小田原は、箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や、宿は沼津の真菰草(まこもぐさ)さらでも原の露払ふ、富士の根近き吉原と、ともに語らん蒲原や、休らふ由井の宿なるを、思ひ興津の焼塩の、後(のち)は江尻のあさぼらけ、けふは駿河の府中行く

 

この調子で京まで続くのである。そして、この変形のひとつが明治期の「鉄道唱歌」ということである。この『都路』を覚えて次の東海道歩きのときには、紹介したいものであるが、暗記は苦手。コピーを渡すことになりそうである。

「道中新内節」というのもあって、

日本橋から二人連れ、七つ発(だ)ちにてやつやまをはなし品川いそいそと、磯辺伝いの鈴ケ森、古川薬師横に見て、わたしを越して川崎へ、ひとり行くとは胴欲な、晩に必ず神奈川(かんなかわ)

 

と続くのである。

枕詞東海道などというのもある。それが、戦争中カナダ人修道士が日本の収容所にいれられ、監督官が軍部から軍人勅諭を暗記させろと命令されたがあんなもの覚えても仕方がないから、むかし寺子屋で枕ことばを暗記するのに使ったものを教え、それを習ったカナダ人の修道士から井上さんが教わったのである。

おおふねの 沼津。あおやぎの 原。よしきがわ 吉原。あおやぎの 蒲原。さつひとの 由井。みさごいる 興(沖)津 ・・・

そこから、井上さんは枕詞に凝る。

岸恵子さん「いわそそぐ岸の恵子さま」。若尾文子さん「わかくさ若尾のむさしあぶみの文子さま」。五木寛之兄「みずとりのかもめのジョナサンしずたまき数にぞ売れしかきかぞう五木さん」。佐藤愛子さん「しろたえの月の光も照り負くる男まさりの愛子姉さま」などなど。

井上さんと山藤さんに比べようもないのが、こちらの東海道のお遊びはアニメの突っ込みであった。アニメ『バケモノの子』が面白そうというと、細田守監督のアニメ幾つかDVDになっているというので、ネタとして『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』を観る。アニメは実写の映画より突っ込みどころが沢山あり、道中には楽しいなぐさみとなる。時として突っ込みに夢中になり道を間違え暑い中をもどる羽目となってしまったりもした。

『時をかける少女』は、大林宣彦監督のとどう関係するのか尋ねたら、大林監督の続きがアニメ映画で、博物館で修復の仕事をしていた女性が原田知世さんで、アニメの方の時をかける少女はその姪にあたるのである。なるほど。

『サマーウォーズ』の旧家の素敵なお婆ちゃんの声は富司純子さん。『おおかみこどもの雨と雪』の頑固なお爺ちゃんは菅原文太さんの声である。『葛の葉』などは、狐が子供を産むのであるが、『おおかみこどもの雨と雪』は、人間が狐の子供を産み、その子は人間の世界で暮らしてもいいし、狼の世界で暮らしてもよく、子供が成長の段階で選ぶのである。子供が夢中になると、耳が出て狼のように走ったり発想が面白いと思ったが、かなり突っ込まれる。

ネタも必需品だが、テーピングも必需品である。箱根から三島への「下長坂」は「こわめし坂」とも呼ばれる急な長い坂である。あまりにも長く急な坂で、背負っていたお米が、汗と熱でこわ飯になったといわれる坂である。ここで足を痛めてしまった。なんとかテーピングで、次の日も歩くことが出来たのでホッとした。どういうわけかその日はテーピング持参していたのである。カンが働いたのか。ところがハサミがなくて、友人が爪切りを持っていてそれで引きちぎった。旅はなにがあるかわからない。くわばらくわばら旅まくら。

旧東海道と『興津坐漁荘(おきつざぎょそう)』(興津宿・江尻宿・府中宿)

暑さの中、一泊二日の三回の旅で元箱根から箱根峠を超えて三島へ、三島から沼津間は歩いているので、沼津から静岡(府中宿)まで到達した。天候と相談しつつであったが、喜ぶべきか、晴れに晴れてくれた。しかしJR静岡駅まで行けたのである。日本橋から19番目の宿である。旧東海道の三分の一まで来た事になる。

17番目の宿興津宿。

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東海道ぞいにあった、『興津坐漁荘』について書く。

興津坐漁荘』は西園寺公望(さいおんじきんもち)さんの別荘である。本来の『坐漁荘』は、愛知の犬山にある明治村に移築された。その後で、興津に復元され、『興津坐漁荘』として公開されているのである。本来の『坐漁荘』に忠実に復元されているらしい。材料が吟味されていながら、これ見よがしの所が無いシンプルな日本家屋である。時間が早かったため、家屋の雨戸などを開けている途中であったのが係りの方が、快くよく見学させてくれ、もう少しすると詳しく説明できる者が来るのですがと言ってくれたが、先を急ぐ旅人ゆえ、簡単な説明で充分に堪能できた。

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『坐漁荘』は、劇団民芸の『坐漁荘の人びと』(2007年)という芝居を観て、頭の中に残っていた。西園寺公望さんという方は、最後の“元老”と言われた人で、政界を退いても影響力のある人であったようだ。しかし国の行方は彼の思うようには行かず憂いを残して亡くなられたようである。

『坐漁荘の人びと』は、昭和10年(1935年)の夏から、昭和11年(1937年)の二・二六事件を通過した、3月までの『坐漁荘』の中での使用人や警備の人々に囲まれた西園寺さんの登場である。視点はあくまで、一般の人々の目線である。

以前奉公していた新橋の芸者・片品つるが坐漁荘を訪れる。そこで、もう一度女中頭として勤めて欲しいと執事に懇願され、引き受けることとなる。新しい女中頭のつるが、奈良岡朋子さんで、西園寺が大滝秀治さんであった。

西園寺さんは、軍部に対しても物申す人で、身辺の危険が心配され、坐漁荘の中は女中と西園寺さんだけの世界である。そのため、内なる女達のまとめ役が必要であったわけである。女中頭のつるは、今までの経験を駆使して、ご主人の気の休まるような環境をと、七人の女中をまとめていくのである。

『興津坐漁荘』を見て廻ると、女性達の動線が自分の動きと重なる。兎に角、開け放たれた部屋はどこも明るい光が入り、台所も明るく、暗い場所がない。庭からの景色は風光明媚である。かつては。今は埋め立てられグランドになっていて、野球部の学生が練習に励んでいる。それもまた、主の居ない風景としては理に適っているかもしれない。戦争の足音の聞こえる時代の風景が今は、若者が好きな野球に打ち込んでいる。一部の人々のための風光明媚よりも現代に相応しい明るさと美しさである。

『坐漁荘の人びと』を観ていなければ、政治家の別荘の一つとしてしか見なかったであろう。竹が好きなようで、窓の格子も竹であるが、侵入を防ぐため竹の中には鉄棒が入っていた。そういうところも、きちんと復元したようで、中の網代や外の桧皮壁も質実剛健に見えるのが好ましい。

“元老”は西園寺公望さんが最後でよい。

作・小幡欣治/演出・丹野郁弓/出演・奈良岡朋子、樫山文枝、水原英子、鈴木智、千葉茂則、伊藤孝雄、河野しずか、大滝秀治

旧東海道にもどると右手に『清見寺』。徳川家康が人質として今川家にいた竹千代時代時々ここで勉学に励んだと言われている。五百羅漢など見どころが多いお寺である。

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延命地蔵尊と常夜灯

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旅の途中で倒れた人々の埋葬碑

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巴川にかかる稚児橋の河童の像の一つ。稚児橋は家康の命によってかけられた。渡り初めに地元の老夫婦が選ばれ渡ろうとしたらおかっぱ頭の稚児があらわれ橋を渡って府中方面に消えたという伝説がある。

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久能山に向かう追分の道標

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清水次郎長が森の石松のかたきを討った場所で討たれた都鳥を哀れに思った里人が建てた都鳥の供養塔

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東海道の解説版

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草薙一里塚  (江戸から43番目の一里塚) 一里塚のそばに大きなタヌキの像があった。笠を首にかけ徳利を持っている。それらには意味があるようなのである。狸八相縁起

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旧東海道記念碑。昭和37年国鉄操車場の建設により旧東海道が分断され旧東海道が一部消えたことから記念碑を残す。

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西郷・山岡会見跡の碑。江戸城無血開城についての会談。

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東海道も弥二さん喜多さんや、浮世絵の世界だけでなく、時代時代の動きを垣間見せてくれる。時には、出会った人から、市町村合併の理不尽を聞かされることもある。その話しを聴いた後で歩くと、その人の怒りがもっともに思える町並みの風景に出会うこともある。集めるだけ集めて回って来ない置き去りにされる地域が生じることもあることを知る。

映画『父ありき』

映画『TOMORROW/明日』(黒木和雄監督)に小津安二郎監督の映画『父ありき』が挿入されている。結婚する花嫁は、病院に勤めている。結婚式といえども、戦時下である。皆が座ってまだかまだかと待っているのになかなか帰って来ない。結婚式に同席する同僚とともに走って帰ってくる。待っているほうは、とにかく空襲警報の鳴らないうちに終わらせたいのである。何とか写真も撮り終わる。

花嫁の同僚の一人が、もう一人の同僚に映画を観に行こうと誘うが、誘われたほうはそれどころではない。妊娠しており、相手と連絡がとれず困惑しており帰ってしまう。彼女は一人で映画を観るのである。

その映画が『父ありき』である。息子が父のお葬式を済ませた後、東京から妻と二人で秋田に帰る車中である。息子はしみじみと良い父であったと語る。妻は涙する。息子は、妻の父と弟を秋田に呼んで一緒に暮らそうと提案する。妻は喜んで笑顔を見せる。若い夫婦の会話とその妻の笑顔のほんの少しの部分である。息子は、幼くして母を亡くし父に育てられるが、父と一緒に暮らす年月も短かった。一緒に暮らしたいとの願いも虚しく父は亡くなってしまい、妻も母がいないので、義理の父と弟と賑やかに暮らしたいと思うのである。その思いを乗せた列車の去りゆく場面で映画は終わる。

父ありき』公開が1942年で、当然検閲を受けている。いま残っているものは、当時の映画をかなりカットされていて、音声も悪い。そのため、辻褄の合わないところもある。黒木監督は、敬愛する小津監督の作品を挿入したかったのであろうか。さらに、作品の内容に挿入したい意味があったのか、その辺が知りたくて観なおしたが、わからなかった。『父ありき』は戦争中とは思えないおだやかさで、父が息子の将来のために学業に専念できる環境を作ってやり、そのために父子離れ離れに暮らし、父が息子を思う心情と、息子が父を慕う心情を細やかに表している。

この細やかな父子の交流は、戦争高揚にとっては、不要のものかも知れないが、一応は検閲を通ったわけである。もしかすると、この息子の不安な気持ちが、精神状態の不安定だった中学生時代の黒木監督の想いと重なっているのかもしれない。

父親役は笠智衆さんで、中学の教師をしているが、修学旅行で生徒を事故死させてしまう。それが、箱根の芦ノ湖である。生徒が禁止しているボートに乗り転覆事故で亡くなってしまうのである。教師は自分がもっと強く注意していたらと後悔し教師をやめてしまう。そこから父子別々の生活となる。

修学旅行の場面で、箱根の曽我兄弟のお墓が映ったのである。箱根登山バスのⒽ路線の国道1号線に<曽我兄弟の墓停留所>があり、バスの中からもそのお墓が見えて、いつか降りたいと思っていたのであるが、先週、そこの一区間を降りて歩いたのである。映画のなかの中学生は、どこから歩き始めたのか~箱根の山は天下の嶮~と歌いつつそこを歩いているのである。三つ五輪塔があり、二つは十郎と五郎で、少し離れた三つ目は虎御前のものと言われている。

旧東海道歩きの<箱根湯本>から<畑宿>まで歩きバスで元箱根の芦ノ湖前にきて湖を見つつ食事して、前から気になっていた<曽我兄弟の墓>に行くことにしたのである。映画では芦ノ湖の先に富士山がくっきり見えるが残念ながら霞んでいる。<六道地蔵停留所>で降りると<石仏群と歴史館>がありそばに精進池が出現した。この池はバスからは見えなかったので驚きであった。そこで、地蔵信仰の石仏群があることを知る。

 

<石仏群と歴史観>でのパネル

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<六道地蔵>から<曽我兄弟の墓>のバス停一区間の左右に石仏があり、国道の下に地下道があり、歩けるようになっていたのである。<八百比丘尼の墓>。八百歳の長寿を得た伝説上の女性のお墓である。友人が言うに人魚を食べて長寿を得てあちこちにでてくるとのこと。「『陰陽師』に出てきた小泉今日子。」「天皇に頼まれて亡き親王が出現したら鎮める役目か。そういえば食べてた。この伝説からきているのか。」

3体の地蔵菩薩の磨崖仏の<応長地蔵>。地下道をくぐって<六道地蔵>。大きい。磨崖仏であるが、きちんとお堂で覆われている。岩とお堂とが上手く合わさっている。磨崖仏の地蔵菩薩坐像としては、国内最大級。ちょっとの寄り道が凄い手応えに。地下道を戻って進むと<多田満仲の墓>のこれまた大きな塔。平安時代に活躍した源氏の祖先とか。さらに進むと<二十五菩薩>で岩盤に幾つもの菩薩が彫られている。地下道があり、反対側にも<二十五菩薩>。

 

<六道地蔵>

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<多田満仲の墓>

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<二十五菩薩>

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最後が、<曽我兄弟と虎御前の墓>である。国道を進んだら、お墓の前に降りられない。細い道があったらしいのでもどってお墓へ。

 

<曽我兄弟と虎御前の墓>

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涼しげな着物姿のご婦人と息子さんらしいかたがおられた。後で友人が「浅見光彦とそのお母さん!」とそく思ったそうである。そこまで思わなかったが、暑い中で、すがすがしい感じであった。友人は、頭の中で、吹き出しも作っていたらしい。「箱根六道殺人事件」ができるかもしれない。死体は二十五菩薩の上で、どうやってあそこに運んだのか。

作家の内田康夫さんは病気のため、新聞に連載中の『孤道』が終了してしまった。熊野に行った仲間と回し読みしていたので残念である。療養され、お元気にならて執筆活動が再開されることを願うばかりである。

箱根の石仏群は二子山の石で、非常に硬く、西国からの石工の技術によって加工できるようになり、箱根の石畳もこの二子山の石が使われたらしい。現在では、<旧街道石畳バス停>付近(白水坂付近)の石畳が江戸時代の二子山の石らしいが、違いなど判らずに歩いてしまった。

しかし、バス停一区間であるが、箱根の地蔵信仰の人々の想いが伝わる場所である。暑かったが箱根の自然の良さが加えられたひと時であった。

そして思う。『父ありき』では、父は息子を男手で一人前にし、満足して息をひきとるのである。『TOMORROW/明日』は、あってはならない死である。父は教師として事故死というあってはならない死の責任をとり教師という仕事をやめるが、教師の道を選んだ息子には、しっかりと責任ある仕事であることを伝えるのである。

戦時中この父の様に順序立てて説得のできる大人は多くはなかったであろう。そうした中で誠実に語る父は、子供にとって信頼できる人であった。息子が子供の頃と大人になってから、同じ川で父子並んで釣りをするが、その釣竿の動かしかたがかつても今も同じペースで、父子の信頼関係は変っていないのである。

監督・小津安二郎/脚本・池田忠雄、柳井隆雄、小津安二郎/撮影・厚田雄春/音楽・彩木暁一/出演・笠智衆、佐野周二、津田晴彦、佐分利信、坂本武、水戸光子、

小津監督の絵、富士山も曽我兄弟のお墓もお城の石垣も有無を言わせない撮り方です。構図がきっちり決まっている。見ながら背筋を正してしまった。

 

新宿区落合三記念館散策

新宿中村屋のビル三階に<中村屋サロン美術館>がある。この案内チラシもどこかで手にしたのであるが何処であったのやら。そして、この<中村屋サロン美術館>で、<佐伯祐三アトリエ記念館>のチラシを手にした。そのチラシの裏に、落合記念館散策マップが載っており、<中村彝(つね)アトリエ記念館><佐伯祐三アトリエ記念館><林扶美子記念館>の三館をまわるマップである。

中村屋サロンというのは、明治から大正にかけて、中村屋が若き芸術家のサロンのような役割を果たしていたのである。中村屋の相馬愛蔵の郷里である穂高の後輩・荻原守衛(碌山)が、中村屋の近くにアトリエを作り、そこに彼を慕う若き芸術家が集まってきた。このサロンの中心は萩原守衛さんであるが、それは置いておく。その中に、画家の中村彝さんがいた。

佐伯祐三さんの足跡を訪ねてパリまでいった、佐伯祐三大好きの友人が、山梨県立美術館の『佐伯祐三展』に行けなかったので、この散策に誘うと是非という。

佐伯祐三さんは大阪生まれで、大阪の中之島に佐伯祐三の専属部分を持つ美術館を建設したいとして、その準備機関が資金調達の意味もあって『佐伯祐三展』を開催しているようである。大阪でも開催され、その時は友人も大阪まで出向いたらしい。大阪の中之島では、大阪市立東洋陶磁美術館は好きである。良いところなので、新しい美術館が出来、佐伯祐三の常設もできるなら喜ばしいことである。

山手線の目白駅から先ず中村彝さんのアトリエに行く。中村彝さんは、中村屋の長女俊子さんを好きになるが、反対され、失意のもと下落合にアトリエを建て、肺結核のため若くして亡くなってしまう。俊子さんは、中村屋がお世話していたインド独立革命家と結婚するが、彼女も20代で亡くなっている。このあたりの事情は中村屋サロン美術館で知っていたので、ここが、彝さんの孤独に苛まれたアトリエなのだと光の入り方などを確かめる。アトリエの庭に椿が咲いていて、係りの人に尋ねると、彝さんは椿が好きで大島にも行っているとのこと。調べたら彼の記念碑が大島にあった。大島ではそんな情報は何も掴まなかったので驚きである。

ここでだったと思うが、佐伯祐三さんが中村彝さんにも影響を受けていたとあり、繋がって友人には喜んでもらえた。

次に佐伯祐三さんのアトリエに向かう。友人は佐伯さんの絵は頭に入っているので、この周辺の風景画と現在の写真が載っている資料に感動していた。ボランティアの方の手によるものであろう。映像やパネルなどから、友人の解説を聞き、一通りの絵は見ていたので良く理解できた。佐伯さんも結核のためフランスで亡くなるが、神経も侵されてしまう。

友人が思うに、佐伯さんは結核を遺伝性の病気と思い、自分の命の短いことを感じていて生き急いだのではないかという。娘さんも幼くして結核で亡くなっている。感染してしまったのであろう。奥さんの米子さんは二人の遺骨を抱え、佐伯さんの絵とともに帰国するのである。その後画家として生きられる。友人と米子さんの絵を観て、なかなかよね!と感嘆する。友人は持っていない図録を購入。こちらもかなり、佐伯祐三さんに精通してきた。志し半ば亡くなられていて、これが佐伯祐三だというところに到達する前に思える。到達点などはないのであろうが。

昼食を済ませ林夫美子記念館へ。私は何回か来ている林夫美子記念館であるが、説明されるボランティアのかたが変わると、また新しい発見があって楽しい。入口に昭和初めの新宿駅前の地図があり、友人のお父さんは田舎から出てきたとき、新宿の駅前に住んだということで、父に帰りに地図を買って行こうかなと言っていたが、帰りに何も言わないので買わないのだなと声もかけなかった。帰り路途中で、急に、地図を買って来るから待たないで先に行ってていいわよという。

彼女は、どこかうわの空だったのかも知れない。きっと佐伯祐三さんの世界の中だったのであろうなと感じたので、待たないで帰ることを告げる。何かにこだわっている時は、一人もいいものなのである。

後日、他の行きたくて行けなかった友人に地図を渡したら、かなり早い段階で行ってきたという知らせを貰った。この散策は手頃でよい企画であった。

驚いたことに、劇団民芸が10月頃、中村彝さんを中心にした『大正の肖像画』(作・吉永仁郎)を上演するらしい。新作のようである。忘れないでいれば良いが。

もう一つ、気がついたことがある。萩原守衛さんが、<文覚>像を作っているのである。文覚とは、袈裟御前を夫と間違えて殺めてしまう遠藤盛遠である。<碌山美術館>では気が付かなかったが、<文覚>の作品を通しての萩原守衛さんの心のうちも透かし見ることができる。映画「地獄門」や「平家物語」に接していなければずーっと気がつかなかったであろう。

 

旧東海道・『二宮』から『小田原』を通り『箱根湯本』へ (2)

目標の小田原宿は国道1号を歩き続け<江戸口見附跡・一里塚跡>を見つければ良いのである。道路の右側の舗道を歩く。<東海道小田原宿>の新しい解説つき石柱が迎えてくれる。解説に「おだわらまちしるべ〔山王口〕「江戸口見附」とも呼ばれ、小田原城から江戸に向かう出入り口で、また、ここは東海道小田原宿のいりぐちでもある。」と記され、この「またここは・・・」の書き方が、東海道に対する小田原の特色がある。後で歩きつつ感じるのであるが、小田原には<小田原城>がある。中心はやはりそこなのである。目線の先はそこに集中されている。城下町のなかの東海道である。

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日本橋から約83キロの地点である。江戸の旅人は一日40キロ歩いているわけで、いかに健脚であったかが、今更ながら実感する。

こちらは東海道が主なのでその目線で進む。木柱で<小田原城址江戸口見附跡>とあり、その後ろの盛り土に一本の古い松が、幹を東に曲げ年代を感じさせる。案内板に<江戸口見附跡並びに一里塚>とある。「見附とは、城の枡刑門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を通す際に、枡形が作られた。」とある。

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城を守るための土塁も時代の流れによって東海道という一本の道の入口となったわけである。どこか、<小田原城>を前面に出したいという空気が感じられる。

ここから要注意の国道1号から旧東海道に入る道を見つけなければならない。本には「新宿の交差点を左に入る」と書かれているのに読み込まず、手前の道を入ったのであるが、そこに<新宿町>の石碑があり、東海道が北に移動したらしく旧宿町のあとにできたので新宿町としたとある。もともとの宿場町があったわけである。なるほど、このあたりは<新宿町>なのか。

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新宿交差点にもどり、左にはいる。地図どおり直角に曲がっている。これが旧東海道である。<よろっちょう>と書かれた石柱がある。どういう意味なのかと、後ろを見ると<万町>とある。説明には、「よろっちょう」と呼ばれ、和歌山藩の飛脚継立所もあり、提灯作りの家もあったとある。小田原提灯である。

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左手にはかまぼこ屋さんが並ぶ。車の数も少なく、国道1号とは違う空気がいい。入口に小田原提灯が二つ下げられ「小田原おでん」と書かれている。何であろうかと二人は惹きつけられる。お食事処である。時間的にも、行程の中継としてもベストタイミングである。「鰺寿しランチ」と「牛すじ丼ランチ」に迷うが、鰺に決めた。おでん5品が選べて、その品が別々の小田原のお店の品物で、さすが練り物の産地である。デザートのアイスクリームにかけられた手作り梅ソースが甘酸っぱくて美味。ランチビールも少し飲みたい気分を満足させてくれた。しかしやはり「牛すじ丼」が心残りである。

小田原は、小田原城をはじめ、文学者や政財界関係者の邸園などもあって、見どころが多くあり3回ほど来ているが、この辺りは駅から20分ほどかかり東海道を歩く予定をいれなければ通らない道である。近くに北村透谷の生誕の地もあるようだ。今回は東海道だけへの目線なので、次の東海道を歩き始めるための準備として、箱根登山鉄道の風祭(かざまつり)駅まで行けば楽であると話し合う。暑い時間帯をゆっくり食事ができ気力充分である。

そしてここからの歩きが、また突っ込みの必要な時間帯となった。表示が、東海道というより、城下町の<町>の捉え方のようである。国道1号と合流したのに史跡として最初に見つけたのが、<明治天皇本町行在所跡>明治天皇が東海御巡幸の際に宿泊(明治11年)された<片岡本陣>のあった場所とある。その前に<清水金左衛門本陣跡>がなければならないのである。またまた戻る。左奥に碑がある。近づいて見ると<明治天皇宮ノ前行在所跡>明治元年から5回宿泊されている<清水金左衛門本陣跡>とある。この辺りが宿の中心である。

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小田原宿には4つの本陣があった。残りはどこか。「小田原宿なりわい交流館」で尋ねると、もっと先のビルに一つあり、あとは判らないとのこと。言われなければ判らないビルのところ<小田原宿脇本陣古清水旅館2F資料館>とプレートがあったが、2階に上がれるような雰囲気ではない。

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地図上は「久保田本陣跡」「清水彦十郎本陣跡」とあるが、どうやらきちんとした史蹟はないようで、石碑の<本町>の説明にこのあたりに本陣などがあったというようなことが書かれ、一括りにされているようである。今まで東海道を歩いてきた者としては曖昧模糊としていて残念であった。

歌舞伎でもお馴染みの「ういろう」のお城のような建物のお店を右手に先へ進む。最後の要注意点である。東海道本線、箱根鉄道をくぐると、<板橋(上方)口>周辺の案内板がありここを上方見附跡とする。東海道新幹線をくぐり、ここから国道1号と分れ旧東海道を進み、途中で箱根鉄道国道1号をくぐって国道1号に合流。さらに先で国道1号と分れ箱根鉄道を左に進むと風祭駅が左にみえる。少し進むと<風祭の一里塚>の解説板がある。コブのように国道1号を出たり入ったりする箇所も終わりである。

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ここからは捜す史跡もなく、道祖神に迎えられ道なりに進めばよい。箱根鉄道の「入生田(いりうだ)駅」に到達。もう一駅行けそうと「箱根湯本駅」まで行けたのである。

その夜地震である。教訓。達成感から乾杯をせずに帰ったのが良かった。これだけ歩いて足どめとなったら大変であった。いつ何が起こるか分からないので疲労困憊の手前にしておくこと。ただし、歩いて帰宅できる場所なら乾杯の考慮の余地あり。

旧東海道・『二宮』から『小田原』を通り『箱根湯本』へ(1)

『二宮』から『小田原』まで行ければと思っていたら、『箱根湯本』まで行けた。保土ヶ谷の<権太坂>のリベンジが暑かったので、『二宮』からは、8時には出発できるようにと実行したのが、上手くいった要因の一つである。もう一つは案内本をよく読みこんでいたこと。ただし友人がであるが、私はその場で読んで再確認。これも良かったのかも。思い込みがあるから、違う眼が入ることが、原点に戻れたともいえる。それにしても相も変わらず史跡を捜して行きつ戻りつである。仕方がないので、友人と二人で、本の編者の目から見た、突っ込みの入れ合いをして、楽しんで乗り切った。

「そう簡単に制覇できると思うのが甘い!」「そこは上手く行っても、油断させておいて戻らせた!」「これはこちらの責任ではない。当地の東海道への捉え方なのである。」

そして、昼食に美味しいお店に遭遇し満足感が気力と結びついた。さらに、大磯、二宮間の一里塚のリベンジを後回しとしたことも。捨てる計画あれば拾う計画ありである。

JR二宮駅から進んで国道1号から別れ旧東海道に入る道をまず見つけること。旧東海道は短い距離である。その分かれ道に<旧東海道の名残り>と標識があった。

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上手く旧東海道に入れた。右手<藤巻寺>と左手<道祖神>があるはずである。あれ!国道一号が見える。戻るしかない。立派な石の門柱には、<等覺院>とあり、上に小さく<藤巻寺>とある。境内には藤棚があり「将軍家光上洛のおりご覧になり、仁和寺宮が下向の際にもご覧になり、<藤巻寺>の別号を与えられた」と伝わり白い藤であるらしい。

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さて注意していたつもりだが、門柱をしっかり視ていなかった。行きつ戻りつ<道祖神>が無い。諦めて、国道1号線の合流点へ。あった。<天神社>の石碑もあり、もしかする<道祖神>をその後移したのかもしれないと「そういうことにしよう。」と許す。

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次が、<押切坂一里塚跡>であるが、これまた、国道1号を外れ短距離旧東海道である。これも上手く旧東海道に入れ、<史跡東海道一里塚の跡>も見つかる。案内板には、このあたりは旅人目当ての茶店やお店があり「梅沢の立場」と呼ばれて賑わっていた場所である。国道1号と合流し押切橋を渡る。しばらくはJR国府津駅までは国道1号を歩けばよい。

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JR甲府津駅を過ぎたところで行き過ぎてもどり、<真楽寺>と<勧堂>を捜す。<真楽寺>は解かった。<真楽寺>は親鸞さんゆかりの寺であるが、往古は聖徳太子さんの所縁よって建てられたとある。<勧堂(すすめどう)>は親鸞さんの草庵であるとのことだが、土地の人に尋ねてもはっきりせず、「時々人が立ち止まって見ている石碑があるのでそれかも知れない。」と教えてくださる。とにかくお礼を言って戻る。あった!石碑である。<御勧>とあり、その奥に何かある。親鸞さんが滞在されたという庵の跡である。中に何か残っているのかどうか、石作りで囲われていて様子は判らない。その裏に廻って観ると、相模湾が一望で風光明媚この上ない。親鸞さんなかなか風景に関しては贅沢である。

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地図上は些少の差で道を挟み並んでいる場合、こちらも、その些少さのさじ加減が難しい。それで、道の右、左と移動して捜すのであるが、見やすい所に表示があるかどうかはわからない。表示板なのか、石柱なのか、指標なのか。あれかなと検討をつけたり、突然あらわれたりする。

それにしても、お天気の良さが時々富士山の雪の残った頭を見せてくれるのが嬉しい。暑さのなかの一服の清涼感である。

国道左手に<小八幡一里塚>がある。その説明には、一里塚は家康が秀忠に命じて設けたとあり、男塚と女塚が左右にあるとしている。男塚と女塚の名称は初めて出て来た。さらにすすむと、今度は、日蓮さんの旧跡<法船寺>である。このお寺には小さな五重塔があった。

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次が昔は渡し舟であった<酒匂川(さかわがわ)>を渡るのである。今は<酒匂橋>であるが、渡しの位置まで行き、戻って、橋を渡り、渡しの着いた場所まで戻って、着いた場所からの道を進むのである。今回は、東側の渡し場も現在の橋のたもとで、西岸は橋から100メートルほど北側ということなので、楽である。しかし、酒匂橋からの景色がいい。富士山も少し見え、建物等をポンポン飛ばして消してしまう。これが雨や風のときは、川止めで旅人にとっては難儀なことであったのだ。この西岸の渡し場の位置が判らない。なんの表示もない。それらしい2本の道を通て一応通過とする。

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国道1号にでて、再度、超短い旧東海道である。小さなコブのように周って国道1号に出るのである。この道であろうと入ったら<新田義貞公首塚>の道標があり、ここが旧東海道と安心して進んだが首塚が無く国道1号に出てしまう。ももう一回道標までもどる。道標が ↱ 縦横であった。歩きながら見ているので長い横だけが目についた。「安心は禁物。要注意!」と言ってるよ。

ありました。小さな公園の中に。<新田義貞公首塚>の石碑である解説板もなく、この時代のことはよく解らないので、どうしてここにあるのかは不明である。首塚とみると、すぐ平将門さんなどの、首が飛んでくるのを連想してしまう。無事見つかり、国道1号と合流して小田原宿に向かう。因みに小田原宿は日本橋を発った旅人が二泊目の宿の場所である。

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旧東海道つづき → 「二宮~小田原~箱根湯本(2)」  2015年6月1日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)