旧東海道・箱根 箱根湯本~元箱根港

実際にはバスで元箱根港に行きそこから箱根湯本まで下ったのであるが書き込みは上り道順とする。

箱根登山鉄道の箱根湯本駅から本来は早川にかかる三枚橋を渡るところであるが実際には箱根湯本駅を目指してのラストスパートで渡らずに駅に向かってしまった。

後日小田原からの三枚橋を渡る道は歩いた。旧箱根街道を歩いて箱根が身近になり何回か箱根を楽しませてもらう事になった。箱根バス路線での美術館巡りなどの行き方がわかったためである。

上っていれば見どころありの早雲寺なども見学したであろうがそんな余裕はなく前を通過しただけである。

残っている写真からは割石坂となったいる。

曽我兄弟が仇討ちに向かう途中で刀の切れ味をためして路傍の巨石を切り割ったという由来の坂のようである。もし刀が折れたら仇討ちはなかったのであろうか。

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須雲川自然探勝歩道の道標

なかなかいい感じの探勝歩道のようである。旧東海道を抜けこちらを楽しむ人も多いようである。

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旧東海道の大沢坂近くの石畳

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大沢坂は須雲川からわかれた大沢川を渡ったところの坂

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畑宿本陣 旧茗荷屋庭園

旅人たちを感嘆させた庭園のようである。「お吉物語」で有名な幕末の初代駐日アメリカ総領事ハリスも下田から箱根の関所での検査に立腹し役人たちは大変だったようだ。ただ畑宿本陣の日本庭園には大満足している。

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畑宿は寄せ木細工の里でもある。

そして村はずれの23番目の一里塚が復元されていて立派である。

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山の斜面にあるこの一里塚は周囲を整地したあと、直径9メートルの円形に石積を築き小石を積み上げ表層に土を盛って標識樹を植えている。

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そばに芹沢光治郎の歌碑がある。

<箱根路や往時をもとめ登りしに未来のひらけてたのしかりけり>

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石畳の道の説明

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石畳の道の前は雨や雪のあとはひざまでうずめて歩かねばならなかった。毎年竹を敷いていたが調達するのにお金と労力がかかり大変であった。

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西海子坂(さいかちざか)、橿木坂(かしのきざか)、猿滑坂(さるすべりざか)、追込坂など急坂が続くが残っていないため箱根新道いろは坂を渡ったりしながら急な階段を上ることになる。

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<さかをこゆればくるしくて どんぐりほどの涙こぼる>

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<殊に危険、猿候といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす>

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甘酒茶屋  茅葺で風情がある。江戸時代には甘酒小屋として箱根に9軒ありこのあたりはには4軒あったらしい。特に険しい坂道を上ってきた旅人には至福の一服だったであろう。食していないので想像であるのが寂しい。(時間配分の予想で断念)

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隣にある「箱根旧街道資料館」をざっと見学。赤穂浪士が馬喰に因縁をつけられるが討ち入り前なので詫び証文を書いたというエピソードなどが紹介されていた。とにかく名の知れた人から知られていない人まで色んな出来事に出くわしたことでしょう。

六代目菊五郎も箱根に来た時忠臣蔵にゆかりがあるとして甘酒茶屋に寄っていとのこと。

白水坂

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石畳の構造案内板  

これがなかなか面白い。谷川に並木を植え石畳と並木の間に排水路を作ってある。

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以前は竹を敷いていたとあったが箱根に群生するハコネダケという細い竹を使ったらしい。延宝8年(1680年)石畳となる。江戸時代の末期に14代将軍家茂がきょうに上洛する際全面的に改修。やはり将軍様の通る場合はお金をかけますね。

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鎌倉時代は箱根を通らず尾根伝いの湯坂路を使ってこのあたりから箱根峠を目指したが須雲川にそった谷間の道が整備され江戸時代の人は旧東海道を使うようになった。鎌倉時代と江戸時代では道が違っていたのである。

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お玉観音堂

伊豆から江戸に奉公に出ていた娘が勤めがつらく逃げ出し故郷に帰ろうとした関所破りとなり処刑された。その娘お玉や箱根で亡くなった無縁仏をくようしている観音堂。

このそばの坂をお玉坂といい近くにお玉の首を洗ったお玉が池もあるようだ。

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箱根旧街道からお玉が池を巡って国史跡元箱根石仏群まで歩けるようである。

上二子山と下二子山があるがこの二子山から産出される安山岩は硬く加工しにくいが鎌倉時代後期に鎌倉の極楽寺を開いた僧・忍性(にんしょう)が率いる石工集団によって加工されようになり石仏群も造営されたようである。

そして江戸時代には箱根の石畳も硬くて摩滅しにくい二子山の石が使われたのである。

権現坂

昔の旅人がやっと箱根路を登り着いたと実感した場所。

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排水路が残っている。

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天下の剣記念碑

滝廉太郎の「箱根八里」の <箱根の山は天下の剣>からその険しさを表しているようだ。現代に入ってはこの歌をうたいつつ上った若い人もいたのであろう。

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箱根旧街道から芦ノ湖畔へ

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実際には元箱根港バス停から歩き始め芦ノ湖を撮るという余裕もなかった。歩き始めて最初の被写体が興福院であった。フジが咲いていた。

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とにかく芦ノ湖から箱根湯本まで無事歩くことができた。芦ノ湖そばの成川美術館も好きな場所である。途中ゆっくろしたいところもあったが旧東海道を走るバスを利用すれば畑宿や甘酒茶屋などは行きやすい。

色々経路を探して違う旅も楽しそうである。

【 寄り道 】   

後日箱根石仏群へ行く

映画『父ありき』と箱根石仏群

【 続・寄り道 】

初代駐日アメリカ総領事ハリスがでてきたので伊豆下田へ。

芝居などでのお吉さんは許婚がいながら周囲のすすめでハリスのそばに仕える。仕事を辞してから今度は周囲はお吉さんを唐人お吉として忌み嫌らわれる。それを苦にしてお酒を飲みすぎ自殺してしまう。日本のためになどと説得されたのであろう。かなりの報酬をもらい人々は妬みがふくらんでいったようである。

下田の宝福寺にお吉のお墓と「唐人お吉記念館」がある。

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お吉の写真

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お吉の生涯

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お吉が持っていた雛人形

この人形を譲り受けた友人から花柳章太郎に進呈され舞台で実際に使いその後宝福寺に寄贈。

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西条八十の「唐人お吉小唄」の色紙

駕籠で行くのはお吉じゃないか 下田港の春の雨

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謁見の間

宝福寺は山内容堂に勝海舟が謁見した場所でもあった。

勝海舟は脱藩した坂本龍馬を許してほしいと願い出、容堂は下戸の勝に酒をすすめそれを勝つは飲み容堂は願いを聞き入れる。

盃と許したという印のひょうたんの描かれた扇がある。

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お吉が経営した料理屋 「安直楼

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お気軽にお入りくださいとあったが入れなかった。

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お吉が淵そばのお堂

お吉は下田近郊の稲生沢川の門栗ケ淵に身を投じ亡くなってしまう(没48歳)。今はお吉が淵と呼ばれお堂が建っている。

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旧東海道・『二宮』から『小田原』を通り『箱根湯本』へ (2)

目標の小田原宿は国道1号を歩き続け<江戸口見附跡・一里塚跡>を見つければ良いのである。道路の右側の舗道を歩く。<東海道小田原宿>の新しい解説つき石柱が迎えてくれる。解説に「おだわらまちしるべ〔山王口〕「江戸口見附」とも呼ばれ、小田原城から江戸に向かう出入り口で、また、ここは東海道小田原宿のいりぐちでもある。」と記され、この「またここは・・・」の書き方が、東海道に対する小田原の特色がある。後で歩きつつ感じるのであるが、小田原には<小田原城>がある。中心はやはりそこなのである。目線の先はそこに集中されている。城下町のなかの東海道である。

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日本橋から約83キロの地点である。江戸の旅人は一日40キロ歩いているわけで、いかに健脚であったかが、今更ながら実感する。

こちらは東海道が主なのでその目線で進む。木柱で<小田原城址江戸口見附跡>とあり、その後ろの盛り土に一本の古い松が、幹を東に曲げ年代を感じさせる。案内板に<江戸口見附跡並びに一里塚>とある。「見附とは、城の枡刑門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を通す際に、枡形が作られた。」とある。

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城を守るための土塁も時代の流れによって東海道という一本の道の入口となったわけである。どこか、<小田原城>を前面に出したいという空気が感じられる。

ここから要注意の国道1号から旧東海道に入る道を見つけなければならない。本には「新宿の交差点を左に入る」と書かれているのに読み込まず、手前の道を入ったのであるが、そこに<新宿町>の石碑があり、東海道が北に移動したらしく旧宿町のあとにできたので新宿町としたとある。もともとの宿場町があったわけである。なるほど、このあたりは<新宿町>なのか。

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新宿交差点にもどり、左にはいる。地図どおり直角に曲がっている。これが旧東海道である。<よろっちょう>と書かれた石柱がある。どういう意味なのかと、後ろを見ると<万町>とある。説明には、「よろっちょう」と呼ばれ、和歌山藩の飛脚継立所もあり、提灯作りの家もあったとある。小田原提灯である。

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左手にはかまぼこ屋さんが並ぶ。車の数も少なく、国道1号とは違う空気がいい。入口に小田原提灯が二つ下げられ「小田原おでん」と書かれている。何であろうかと二人は惹きつけられる。お食事処である。時間的にも、行程の中継としてもベストタイミングである。「鰺寿しランチ」と「牛すじ丼ランチ」に迷うが、鰺に決めた。おでん5品が選べて、その品が別々の小田原のお店の品物で、さすが練り物の産地である。デザートのアイスクリームにかけられた手作り梅ソースが甘酸っぱくて美味。ランチビールも少し飲みたい気分を満足させてくれた。しかしやはり「牛すじ丼」が心残りである。

小田原は、小田原城をはじめ、文学者や政財界関係者の邸園などもあって、見どころが多くあり3回ほど来ているが、この辺りは駅から20分ほどかかり東海道を歩く予定をいれなければ通らない道である。近くに北村透谷の生誕の地もあるようだ。今回は東海道だけへの目線なので、次の東海道を歩き始めるための準備として、箱根登山鉄道の風祭(かざまつり)駅まで行けば楽であると話し合う。暑い時間帯をゆっくり食事ができ気力充分である。

そしてここからの歩きが、また突っ込みの必要な時間帯となった。表示が、東海道というより、城下町の<町>の捉え方のようである。国道1号と合流したのに史跡として最初に見つけたのが、<明治天皇本町行在所跡>明治天皇が東海御巡幸の際に宿泊(明治11年)された<片岡本陣>のあった場所とある。その前に<清水金左衛門本陣跡>がなければならないのである。またまた戻る。左奥に碑がある。近づいて見ると<明治天皇宮ノ前行在所跡>明治元年から5回宿泊されている<清水金左衛門本陣跡>とある。この辺りが宿の中心である。

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小田原宿には4つの本陣があった。残りはどこか。「小田原宿なりわい交流館」で尋ねると、もっと先のビルに一つあり、あとは判らないとのこと。言われなければ判らないビルのところ<小田原宿脇本陣古清水旅館2F資料館>とプレートがあったが、2階に上がれるような雰囲気ではない。

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地図上は「久保田本陣跡」「清水彦十郎本陣跡」とあるが、どうやらきちんとした史蹟はないようで、石碑の<本町>の説明にこのあたりに本陣などがあったというようなことが書かれ、一括りにされているようである。今まで東海道を歩いてきた者としては曖昧模糊としていて残念であった。

歌舞伎でもお馴染みの「ういろう」のお城のような建物のお店を右手に先へ進む。最後の要注意点である。東海道本線、箱根鉄道をくぐると、<板橋(上方)口>周辺の案内板がありここを上方見附跡とする。東海道新幹線をくぐり、ここから国道1号と分れ旧東海道を進み、途中で箱根鉄道国道1号をくぐって国道1号に合流。さらに先で国道1号と分れ箱根鉄道を左に進むと風祭駅が左にみえる。少し進むと<風祭の一里塚>の解説板がある。コブのように国道1号を出たり入ったりする箇所も終わりである。

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ここからは捜す史跡もなく、道祖神に迎えられ道なりに進めばよい。箱根鉄道の「入生田(いりうだ)駅」に到達。もう一駅行けそうと「箱根湯本駅」まで行けたのである。

その夜地震である。教訓。達成感から乾杯をせずに帰ったのが良かった。これだけ歩いて足どめとなったら大変であった。いつ何が起こるか分からないので疲労困憊の手前にしておくこと。ただし、歩いて帰宅できる場所なら乾杯の考慮の余地あり。

旧東海道・『二宮』から『小田原』を通り『箱根湯本』へ(1)

『二宮』から『小田原』まで行ければと思っていたら、『箱根湯本』まで行けた。保土ヶ谷の<権太坂>のリベンジが暑かったので、『二宮』からは、8時には出発できるようにと実行したのが、上手くいった要因の一つである。もう一つは案内本をよく読みこんでいたこと。ただし友人がであるが、私はその場で読んで再確認。これも良かったのかも。思い込みがあるから、違う眼が入ることが、原点に戻れたともいえる。それにしても相も変わらず史跡を捜して行きつ戻りつである。仕方がないので、友人と二人で、本の編者の目から見た、突っ込みの入れ合いをして、楽しんで乗り切った。

「そう簡単に制覇できると思うのが甘い!」「そこは上手く行っても、油断させておいて戻らせた!」「これはこちらの責任ではない。当地の東海道への捉え方なのである。」

そして、昼食に美味しいお店に遭遇し満足感が気力と結びついた。さらに、大磯、二宮間の一里塚のリベンジを後回しとしたことも。捨てる計画あれば拾う計画ありである。

JR二宮駅から進んで国道1号から別れ旧東海道に入る道をまず見つけること。旧東海道は短い距離である。その分かれ道に<旧東海道の名残り>と標識があった。

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上手く旧東海道に入れた。右手<藤巻寺>と左手<道祖神>があるはずである。あれ!国道一号が見える。戻るしかない。立派な石の門柱には、<等覺院>とあり、上に小さく<藤巻寺>とある。境内には藤棚があり「将軍家光上洛のおりご覧になり、仁和寺宮が下向の際にもご覧になり、<藤巻寺>の別号を与えられた」と伝わり白い藤であるらしい。

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さて注意していたつもりだが、門柱をしっかり視ていなかった。行きつ戻りつ<道祖神>が無い。諦めて、国道1号線の合流点へ。あった。<天神社>の石碑もあり、もしかする<道祖神>をその後移したのかもしれないと「そういうことにしよう。」と許す。

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次が、<押切坂一里塚跡>であるが、これまた、国道1号を外れ短距離旧東海道である。これも上手く旧東海道に入れ、<史跡東海道一里塚の跡>も見つかる。案内板には、このあたりは旅人目当ての茶店やお店があり「梅沢の立場」と呼ばれて賑わっていた場所である。国道1号と合流し押切橋を渡る。しばらくはJR国府津駅までは国道1号を歩けばよい。

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JR甲府津駅を過ぎたところで行き過ぎてもどり、<真楽寺>と<勧堂>を捜す。<真楽寺>は解かった。<真楽寺>は親鸞さんゆかりの寺であるが、往古は聖徳太子さんの所縁よって建てられたとある。<勧堂(すすめどう)>は親鸞さんの草庵であるとのことだが、土地の人に尋ねてもはっきりせず、「時々人が立ち止まって見ている石碑があるのでそれかも知れない。」と教えてくださる。とにかくお礼を言って戻る。あった!石碑である。<御勧>とあり、その奥に何かある。親鸞さんが滞在されたという庵の跡である。中に何か残っているのかどうか、石作りで囲われていて様子は判らない。その裏に廻って観ると、相模湾が一望で風光明媚この上ない。親鸞さんなかなか風景に関しては贅沢である。

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地図上は些少の差で道を挟み並んでいる場合、こちらも、その些少さのさじ加減が難しい。それで、道の右、左と移動して捜すのであるが、見やすい所に表示があるかどうかはわからない。表示板なのか、石柱なのか、指標なのか。あれかなと検討をつけたり、突然あらわれたりする。

それにしても、お天気の良さが時々富士山の雪の残った頭を見せてくれるのが嬉しい。暑さのなかの一服の清涼感である。

国道左手に<小八幡一里塚>がある。その説明には、一里塚は家康が秀忠に命じて設けたとあり、男塚と女塚が左右にあるとしている。男塚と女塚の名称は初めて出て来た。さらにすすむと、今度は、日蓮さんの旧跡<法船寺>である。このお寺には小さな五重塔があった。

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次が昔は渡し舟であった<酒匂川(さかわがわ)>を渡るのである。今は<酒匂橋>であるが、渡しの位置まで行き、戻って、橋を渡り、渡しの着いた場所まで戻って、着いた場所からの道を進むのである。今回は、東側の渡し場も現在の橋のたもとで、西岸は橋から100メートルほど北側ということなので、楽である。しかし、酒匂橋からの景色がいい。富士山も少し見え、建物等をポンポン飛ばして消してしまう。これが雨や風のときは、川止めで旅人にとっては難儀なことであったのだ。この西岸の渡し場の位置が判らない。なんの表示もない。それらしい2本の道を通て一応通過とする。

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国道1号にでて、再度、超短い旧東海道である。小さなコブのように周って国道1号に出るのである。この道であろうと入ったら<新田義貞公首塚>の道標があり、ここが旧東海道と安心して進んだが首塚が無く国道1号に出てしまう。ももう一回道標までもどる。道標が ↱ 縦横であった。歩きながら見ているので長い横だけが目についた。「安心は禁物。要注意!」と言ってるよ。

ありました。小さな公園の中に。<新田義貞公首塚>の石碑である解説板もなく、この時代のことはよく解らないので、どうしてここにあるのかは不明である。首塚とみると、すぐ平将門さんなどの、首が飛んでくるのを連想してしまう。無事見つかり、国道1号と合流して小田原宿に向かう。因みに小田原宿は日本橋を発った旅人が二泊目の宿の場所である。

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旧東海道つづき → 「二宮~小田原~箱根湯本(2)」  2015年6月1日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

旧東海道 平塚から大磯を通り二宮へ(2)

JR東海道線と交差して進むと<江戸見附>の案内板がある。

左手に日枝神社がみえてきてここから国道1号線と重なる。このあたりから大磯宿となる。左手に<小島本陣跡>の碑と案内板があり、もう一つの本陣跡をさがしていると、中年の男性が、<地福寺>は行かないの。藤村のお墓があるよ。と声をかけられる。左手のすぐ近くにお寺が見える。これなら寄れると、そちらに先に行くことにし、男性に新島襄の終焉の地を尋ねると、解かりやすく教えてくれた。

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一度大磯の町だけは歩いているが、東海道と上手く効率よく廻れるか事前に調べていなかったので助かった。島崎藤村と静子夫人のお墓が梅の木の下に並んでいる。そこから<島崎藤村旧宅>へまわることとする。かつて大磯駅から来た道がわかるが、その時も旧宅まですぐには行きつかなかったので、地図を見つつ進むが、やはり途中で、地元の人に尋ねる。藤村さんはこの家が気に入り、終焉までの2年半を過ごしいる。静子夫人はその後、箱根に疎開するが、最後はこの家で暮らされ亡くなっている。

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国道1号線に出て<本陣跡>方向にもどる。先ず<鴫立庵>に立ち寄る。西行法師の「こころなき身にもあわれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮」の歌にちなみ、小田原の崇雪が草庵を結び、鴫立沢の標石を建てたという。この庵室に初めて入庵したのが、俳諧師でもあった大淀三千風(おおよどみちかぜ)さんで、今の庵主さんは二十二代目である。俳諧道場もあり、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び三大俳諧道場の一つである。円位堂には西行法師の座像があり、法虎堂には、虎御前の十九歳の時の姿の木像がある。観音堂には、中国革命家・孫文の持仏(二千年を経た化石仏)であった観音菩薩像が本尊としておさめられている。

この日も句会が行われていた。庵の前に置かれたお茶をいただき、ホッとする。

同志社創設者、新島襄が病に倒れて亡くなった旅館百足屋の一部だけのこっている場所に徳富蘇峰の筆による碑がある。志し半ば47歳で亡くなる。

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さらに東に進み、虎御前が曽我兄弟をしのんで庵を結んだ跡といわれる<延台寺>。ここに、虎御石と呼ばれる石がある。山下長者が子宝を願い虎池弁財天に願いをかけると子供が授かり、虎と名前をつける。長者の枕元には小さな石も置かれてあり、その石を大切にしていたところ、虎女とともにその石も大きくなる。十郎が虎御前の家で工藤祐経の刺客に襲われた時、十郎に放たれた矢を身代わりとなって受けたといわれる石である。石はお堂の中で見学は予約が必要のようである。大磯では虎御前の人気は高いようである。広重の大磯宿の浮世絵が「虎が雨」で雨が降っていて、虎御前の十郎を想う雨なのであろうか。

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さてふり出しに戻り、もう一つ<尾上本陣跡>があるはずだがと捜す。これは案内板がなく、碑のみであった。もうひとつ、石井本陣があったようであるが、この碑はない。本陣が三つあったのである。再び西に向かうと<高札場跡>の案内板があり、ありがた味を加えるために高い位置に高札があったとあり、皆が見上げている絵がある。見やすさが肝腎であろうと思うが、いつの時代も上のお方は見上げられるのが重要な事なのであろう。

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<鴫立庵>を過ぎて西に向かうと見事な松並木が続く。海の潮風でかなり曲っている松もある。今は排気ガスに嘆いている。海側にも行きたいが海までは遠いので迷っていると、友が<こゆるぎ緑地>への小路を見つける。よさそうな小道なので海に向かう。この海岸地帯は明治の名士たちの邸宅や別荘が並んでいる場所である。海のかなり手前にこれから育つ松を植えた緑地があり、それを、西に進む。海も見え良い進み方である。

適当なところで国道1号線にもどり進むと、右手に城山公園があり、左が吉田茂さんの旧邸である。建物は焼失し、再建しているところである。庭をまわるが広い。海が広がりこの庭を歩くだけでもかなりの運動量になりそうである。

後は、、<一里塚>を見つけてJR二宮駅に向かえば良いだけである。今日は、かなり上手くいき充実した内容だったと友と話し合い、「いつも一つくらい見つからないのよね。」と言い合う。変な予感。<六所神社>まで2キロの表示が見える。「このへんから左手の<一里塚>に注意しよう。」「もう出てきてもいいはずよね。」「おかしい見落としたかな。」右に<六所神社>が見える。納得できないまま、JR二宮駅となり、電車の中で地図を広げる。地図の左下の囲みに城山公園周辺図があり、城山公園前の信号から、旧東海道の道筋とある。本を取り出す。「旧東海道はこのあたりから国道1号と分れる。」とかいてある。地図は丁度綴じ込みの部分で、よくみると国道からそれている。これである。大磯の途中から小田原までは、国道で面白くないとの仲間の感想が二人ともインプットされていた。

きちんと文章を読み込まなかったのがいけないのである。これは、またリベンジである。これから先、何回もリベンジしているわけにはいかないので、旧東海道に入る部分を厳重チェックと二人で戒めた。

この日のお昼は、仲間たちが寄ったという水車のあるお蕎麦屋さんで、冷たい天ぷらそばとシラスどんぶりセットでエネルギーは充分だったので、次のリベンジの意欲も残っていて、メラメラと計画を練った。

 

追記: 一里塚跡リベンジ

江戸から17番目の国府本郷一里塚跡

 

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実際には現地点より200メートル江戸よりにあった。

 

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旧東海道つづき → 「二宮~小田原~箱根湯本(1)」  2015年5月31日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

旧東海道 平塚から大磯を通り二宮へ(1)

「平塚」~「大磯」~「二宮」までが目標である。ただし、「平塚」と「大磯」での見学場所が多いので、目的地が見つかるがどうかによる。今回は、仲間一人が同道である。

JR平塚駅から、先ず<お菊塚>からにする。友は探しあてられず今回リベンジである。他の仲間は三回目で見つけたり、情報を得て一回で見つけたりという手強いお菊さんである。駅から紅屋町の表示が見える町内に入り、小さな公園と思ったが、あれ!違う。待ってくださいよ。こんなに近くはないか。友が、この辺りは私たちも捜していてもっと先にあったと言っていたよと。地元の人に尋ねる。そんなに駅から離れていたのかなあという位置にあり、無事に到達。経験の生かされない二回目の<お菊塚>である。

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東海道に出る。前回ゲットした平塚市の地図も出す。<馬入一里塚>あたりで道路が分れ、右手国道1号線、左手東海道となっていて、その延長線の道である。<馬入一里塚>近くに「榎木町」とあるが、一里塚に榎木が植えられていてその地区を「榎木町」と言ったのであろうかなどと想像するのも楽しい。右手に<平塚の江戸見附跡>。宿場の入口が判ったところで、お菊さんのお墓に向かう。「見附町」の名前がある。墓地の中を捜したが無い。地図からいうと端なので、道路脇から捜すとあった。真壁家墓所の中に。そして新しく<番町皿屋敷 お菊の眠る墓>の墓石があり、裏に父・真壁源右衛門さんの詠んだ歌が彫られている。「あるほどの花投げ入れよすみれ草」

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現場にもどれで、東海道にもどり、<脇本陣跡>。宿場の中心である。道路反対側に<東組問屋場跡>。戻って、<高札場跡><本陣旧跡><西組問屋場跡>。東西の問屋場があるが、仕事が大変なので、十日目交替で執務していたとある。ここから北へ入り、おたつさんの墓に向かう。<平塚の塚>のそばである。

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<平塚の塚>は、「ひらつか」の地名の由来の場所である。桓武天皇の三大孫高見王の娘・政子が東国の旅の途中逝去しこの地に埋葬され塚が築かれ、その塚が平になったので、里人が『ひらつか』と呼びそれが「平塚」の起こりとある。

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その近くに歌舞伎『鏡山旧錦絵』のモデル松田たつ女のお墓と顕忠碑がある。おたつは平塚宿松田久兵衛の娘で、萩野山中藩大久保長門守の江戸屋敷の中臈(ちゅうろう)岡本みつ女のもとに奉公にあがる。主人みつ女が年寄沢野から侮辱をうけ自害。たつ女は、沢野を討ち主人の仇をとったのである。歌舞伎では「お初」となり、この役で印象に残っているのは芝翫さんのお初である。年齢に関係なく主人を想う健気で一途な娘役が見事であった。御主人の尾上は雀右衛門さんであったと思うが、とすると、岩藤はどなたであったのであろう。後で調べてみることにする。

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これで安心、東海道にもどり、<上方見附跡>。解説板に広重の平塚宿の「縄手道」の浮世絵が紹介されている。平塚も空襲や区画整理で正確な東海道史跡が分らない部分もあるが、前方の高麗山(こまやま)から考えて、広重の絵もこの辺としている。絵は前方にこんもりとお椀のような山があり、山に向かう道の両脇は海である。不思議な絵であると思っていたが、このあたりは埋め立てられたのであろうと想像すると誇張しているとは思うが納得できる。平塚宿も終わりである。国道1号線と合流する。大磯に入る。

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花水川に架かる花水橋を渡り、大磯宿をめざす。右手に高麗山のふもとにある高来(たかく)神社の入口がある。この「高麗」も「高来」も朝鮮半島の高句麗(こうくり)に由来する。唐・新羅軍に敗れ国を追われた高句麗の王族関係の人々が日本各地に渡来し、大磯の高麗山ふもとに住み、開墾に尽力したという。海からこの高麗山が見えたのであろう。大磯は彩色の当時の様子を描いた解説板となる。

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虚空蔵堂

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化粧坂(けわいさか)あたりから国道1号線と分れ旧東海道に入る。松が少し残る道である。左に<虎御前の化粧井戸>がある。鎌倉時代は、大磯の中心はこの化粧坂あたりであったという。曽我兄弟の兄十郎の恋人虎御前は、この近くの山下長者の娘でこの井戸の水を使って化粧したであろうとの名前である。

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右手に<大磯一里塚跡>があるのを見落とし、戻って捜す。<化粧坂の一里塚>の絵入り案内板があった。市によっ史跡の解説・案内板は違い、石碑のところもあれば案内板だけのところもある。大磯の表示に慣れず、石碑的表示を捜していて見逃したらしい。

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JR東海道線の下の道を通る。友は一度ここを歩いていたが、時間が遅くなり暗く化粧井戸の案内板など何も見えず、ひたすら大磯駅を目指したのだそうである。保土ヶ谷の<権太坂>を私たちは旧東海道ではなく、大学駅伝の権太坂を歩いたのであるが、そのリベンジをしてから歩いたのでおそくなったらしい。私もリベンジしなくてはならないのであるが、一応、「保土ヶ谷」「戸塚」間は歩いているのである。

旧東海道つづき → 「平塚~大磯~二宮(2)」 2015年5月13日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

旧東海道 茅ヶ崎から平塚

茅ヶ崎から平塚は4キロくらいと思う。藤沢から平塚までが約13・5キロくらいである。茅ヶ崎駅近くに一里塚があったので、平塚付近にも一里塚があるはずだが、地図には無い。昔あった位置が不明なのであろうか。とにもかくも、今日は楽勝とJR茅ヶ崎駅から出発で国道1号線にでる。先ず最初は右手に<第六天神>がある。

 

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さらに進むと鳥井戸橋があり、<南湖左富士之碑>の石碑がある。京に向かう時、常に右に富士山が見えるがここでは左に見える<左富士>の地点である。

 

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静岡県の吉原にも<左富士>の地点があるが仲間の話しだと、今は建物があって見えないとのことである。JR吉原駅で降りると、正面に富士山があり、ひたすら富士に魅せられて突進して行ったため、東海道からどんどん遠ざかり、地元の方に<左富士>の位置を尋ねたところ、すぐ教えてくれたそうである。同じような尋ね人が多いのかもしれない。とにかくそれくらい素晴らしい富士山だったようである。道に迷ってもいいからそんな富士山にめぐり会いたいものである。

神奈川のほうの<左富士>は霞んで見えなかった。右手には大きな鳥居が見え、<鶴嶺神社>の入口である。参道が1キロあるという。それも両側がずーっと松並木である。往復2キロであるが、今日は歩く距離も短いので、本殿まで歩く。 <鶴嶺神社>にも大イチョウがあった。前九年の役の戦勝祈願に源義家が植えたものといわれている。このあたりの歴史はよくわからない。鶴の首のように長くて美しい松並木の参道であった。鳥居までもどり西を目指す。

 

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小出川を渡ろうとする手前の左に公園のようなものが見え案内板のようなものも見える。近づいてみると、水が張ってあり杭のようなものが出ている。これは、関東大震災のとき、源頼朝が渡ったといわれる橋の橋脚が出現したのだそうで、それを保護して守り、後に埋めてその上に、再現模型を作ったのが現在の形である。写真などが掲示されていて、木をどのように保護して埋めているかの図もあった。八王子城での礎石を思い出した。それにしても、地震の被害の大変な時によく遺したものである。歴史的知識のしっかりした人がいたのであろう。<旧相模川橋脚>とあり、相模川の流れの位置が変わったことを表している。頼朝は、この橋を渡った帰り道に落馬しており、その後この落馬が原因であろうか亡くなっている。

 

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史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」|茅ヶ崎市 (city.chigasaki.kanagawa.jp)

 

もう少し進むと現在の相模川があり、昔は馬入川とも呼ばれたのであろうか、橋は馬入橋とある。この橋はかなり長い橋である。時間があったので、平塚に着いてから平塚市博物館に寄った。そこでジオラマミニチュア模型の相模川のランプを押したら、赤い電気のランプが凄い範囲に広がり、幾つもの川が河口に集まっている様を目にして驚いた。相模湖からも流れてきているのである。 馬入橋の南側の海寄りに鉄橋が見え、橋の上では撮り鉄さんであろう、東海道線の電車を撮っているようである。撮ることに夢中のあまり、ヒンシュク者の撮り鉄さんもいるようである。

馬入橋を渡って少し行くと<東海道馬入一里塚跡>の石碑が建っていた。新しいので近年建てたのであろう。これで納得である。ここまで来ればJR平塚駅はもう一息である。

 

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平塚駅を背中に北へ向かい立派な<平塚八幡神社>と<平塚市博物館>に寄る。すぐそばの平塚市美術館には一度来たことがある。バスを使ったが歩ける範囲であった。 <番町皿屋敷>のお菊さんの塚があるので、それだけは見つけて帰ろうと思うが、仲間が苦労したというので、市民センターに寄り平塚の地図をもらい、<お菊の塚>を聞いたが詳しい位置を知る人はいなかった。市民センターの手前に<平塚見附跡>があり、ここからが<平塚宿>となる。

 

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お菊の塚>は商店街の間に挟まるような小さな公園にあり、それも、背の低い草木に囲まれ見落とすところであった。解説板があった。

お菊は平塚宿の役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため、江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主膳の意のままにならなかったため、家来が憎み、お菊が皿を紛失させたと主膳に告げ口し、手打ちにかけられる。死骸は長持ちに積められ馬入の渡し場で父親に引き取られる。源右衛門は、死刑人の例にならい墓を作らずセンダンの木を植えて墓標にしたと。

 

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今は、真壁家の墓所にお菊さんのお墓がある。このお墓は、次の「戸塚」から「二宮」での東海道歩きで探し行くことが出来た。さらに、歌舞伎『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』のお初のモデルとなった松田たつさんの<義女松田たつ女顕忠碑>もありちょっと驚いた。

お菊さんの塚が見つかり、目的達成の「茅ヶ崎」から「平塚」である。

 

旧東海道つづき → 「平塚~大磯~二宮(1)」 2015年5月12日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

旧東海道 藤沢から茅ヶ崎

旧東海道歩きも、気ままさゆえに自分でもどこまで歩いたか混乱している。飛んでいるから間を埋めなくてはならない。というわけで一人、藤沢から平塚までの予定であったが、茅ケ崎までとなった。

藤沢での旧東海道を見つけるのが大変であった。戸塚から藤沢までの時、遊行寺の後、浅間神社に寄って一応おしまいとしてJR藤沢駅に向かったため、遊行寺の出口を参道の階段ではない方の黒門から出ていたので遊行寺橋を渡っていなかった。地図に<遊行寺橋>とあるのに、実際にある<藤沢橋>を名前が変わったのだと勘違いしたのである。地図には<藤沢橋>の名前がなかったのである。北側にもう一本道があり迷ったが<藤沢橋>を背にして進んでしまった。そろそろ右手に<藤沢公民館>が出てきてもいいはずだが出て来ない。人に訪ねると道が違うと思うとのこと。仕方がない。迷ったところまで戻るしかない。<藤沢橋>を右手に北に向かうと旧東海道の案内板がある。完全に間違っていた。さらに進むと右手奥に赤い<遊行寺橋>があった。

 

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昨年はこの参道の階段から見事な桜を眺め見降ろしたのである。遊行寺の境内まで上がる。あの美しかった八重桜も、今年は終わりを告げていた。その分、銀杏の木が青々と元気な姿を誇っている。一度この銀杏の秋の色も堪能してみたいものである。

 

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心機一転、階段を下り、旧東海道に向かう。出てきました。右手奥に<藤沢公民館>が。この辺りが藤沢宿である。<蒔田(まいた)本陣跡>の標識、左手の消防署の前に<坂戸町問屋場跡>の標識。<問屋場(といやば)>というのは、幕府の公用の役人の旅のお世話をする事務所である。人足や馬を手配したり宿を世話したりと役人相手の仕事なので気を使い大変だったようである。

 

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消防署の裏手の常光寺のさらに裏手に<弁慶塚>があるというのである。結構探すのにてまどった。裏とあったので、お寺の脇からまわり裏から入ったが、本堂側に降りてきたところにあった。文章と文庫本の地図で探すので距離感が予想になる。この本の編纂にかかわった方の一人が、保土ヶ谷駅近くのお蕎麦屋さんのご主人で、偶然そのお蕎麦屋さんに寄り、その事実を知る。「この本だけで歩いてるの。」と驚かれ、それからは手に入ればパンフレットなども使うが、私たち仲間はこの文庫本が好きである。「迷って地元の人に聞くのも旅を感じるよね。」「言葉と会話の理解の幅も感じるし。」古いことは年配者がよく知っているが、道のみに関しては若い人のほうが、簡潔に説明してくれる事もある。

旧東海道にもどり、先の右手奥に、源義経を祀った<白旗神社>がある。白旗神社に向かう前に<義経首洗い井戸>があり、奥州で亡くなった義経の首が首実検のため鎌倉に送られ、そのあと片瀬の浜に捨てられたと「吾妻鑑」にある。その首が境川をのぼりこの地に着き、里人によってこの井戸で首を洗ったと伝えられている。

 

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<白旗神社>には、その石に触ると健康で病気にならないというに<弁慶の力石>があり、芭蕉句碑もある。「くたびれて宿かる比(ころ)や藤の花」。藤はまだであったが、藤が風にゆれているのを想像したら、くたびれたというため息が似合っている。ただし句碑の上の藤棚には「弁慶藤」とあった。元気がよさそうな藤である。白旗神社のお祭りには、義経と弁慶の二基の神輿が出るとのこと。

 

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<白旗神社>から旧東海道にもどり、道路の反対側の奥に<永勝寺>があり、このお寺には、<飯盛女>と呼ばれていた旅籠で給仕と同時に遊女の側面をもっていた女性たちのお墓もあった。彼女たちを抱えていた旅籠小松屋が、39人の墓を建て供養したのである。悲しいかなこのように供養されたのは珍しいことである。東京には、投げ込み寺というのもある。

 

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小田急線の「藤沢本町駅」を右手に進むと、道路左手に<見附跡>がある。道路左右に史跡があるので、横断歩道を右に左に渡り歩きつつ進まなければならない。<見附>があれば、藤沢宿のはずれである。引地川に架かる引地橋を渡りひたすら西に歩く。このあたりは国道一号線と旧東海道が一緒なのであるが、のちに気が付くが、この引地橋手前で国道一号線を外れて旧東海道を歩く部分があった。それを見逃していた。このうかつさは、大磯から二宮での歩きで経験する。

西へひたすら進むと、東海道と大山詣でへの道とに分かれる分岐点にぶつかる。小さな<四谷不動>の堂があり、右手には大山道に向かう道で石の大鳥居が立っている。この鳥居を潜って、大山詣でに向かうのである。関宿の伊勢路への鳥居を思い出す。

 

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大山も行ってみたいとおもうが、こちらは東海道を進む。そして<一里塚跡>がある。JR辻堂駅と並ぶ位置である。松並木が少し残っている。<茅ヶ崎一里塚>に至る。一里約4キロ。街道の両側に盛り土をして、その上にエノキなどが植えられた。この木の木陰で行程の検討をつけホッと一息ついたのである。近頃では私たちも、この一里塚の跡などで行程を考える。藤沢から茅ヶ崎で約8キロである。

 

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今回は平塚まで行く予定であったが、道を間違え時間的ロスもあったので茅ケ崎までとしてJR茅ヶ崎駅に向かう。折角であるから、志ん朝さんの『大山詣り』のDVDを楽しむことにする。

 

旧東海道つづき「旧東海道・茅ケ崎から平塚 → 2015年5月11日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

大山詣り → 大山詣り | 悠草庵の手習 (suocean.com)

八王子城跡

小説『RDG レッドデータガール』に<八王子城>が出てきて初めて八王子市にお城があったのを知る。ただし山城である。天守閣のある城ではない。

『RDG レッドデータガール』では、( 熊野古道の話題増殖 ) 主人公の泉水子(いずみこ)が東京の高校に入学するが その高校が八王子にあるらしいことがわかる。そして、泉水子たちは肝試しに夜、<八王子城跡>に登るのである。ここで初めて<八王子城>とその歴史を知る。<八王子城>に行かなくてはと仲間うちで話しつつ、行こうとすると雪が降ったりして延び延びになってしまった。

仲間の一人が、高尾山で春限定の精進料理があり、それも行きたい のだがということなので、高尾山と八王子城の二つを組み合わせることにする。雨の時は中止なので予約しなくてよい精進料理とし、11時からなので10時半に高尾山薬王院での待ち合わせとする。元気な人は先に、高尾山入口から山頂まで登り、降りてきて藥王院で待ち合わせである。

<八王子城>が本命であるから、体力温存組はケーブルカーで上がり、薬王院に向かう。ご本尊の随身は大天狗と子天狗(烏天狗)である。今回で高尾山は三回目であるが、全てケーブルを使っていて次の機会には、下から登ることにしよう。一度はダイヤモンド富士を見るために一人で来たが、期待していたよりもダイヤモンド富士は地味であった。

精進料理は、これから行動するものにとっては胃に優しかったが、これからが本番という気持ちも薄めてくれて、さあこれからと気合を入れる。

JR高尾駅北口からバスが出ていて、平日は八王子城跡まではバスは出ていない。霊園前でバスを降り歩きとなる。途中に北条氏照と家臣の墓がある。氏照はここでは死んでいない。

八王子城は、三代目の北条氏康の三男氏照が築いた山城である。豊臣秀吉は小田原城を取り囲み、他の北条氏の城は配下の大名たちに攻めさせる。氏照は小田城で徹底抗戦の構えでこもっていた。八王子城は、前田利家と上杉景勝らの連合軍に猛攻撃で攻められ、城主なきまま一日で落とされて、多くの犠牲がはらわれる。この八王子城の落城が小田原城開城のかなめとも言われ、氏照は小田原城で切腹している。小田原にも墓があり、ここは、氏照の百回忌に建てられたものである。樹木の間にひっそり建っている墓は無念そうである。

脇道のお墓からもとの道にもどり進むと、ガイダンス施設があり、映像「八王子城物語」が見れる。ここでパンフレットなどを手にし、管理棟まで行きガイドボランティアをお願いする。お願いして正解であった。山城の知識などないので、見学しただけでは想像力が働かない。

普段住居としている御主殿部分と闘うための本丸とは離れていて、管理棟を軸に道が違うのである。まずは御主殿跡を案内してもらう。石垣ではなく<土塁>で周囲をかこんでいる。これが石垣よりもすべって登りづらいのである。それも関東ローム層の粘土質である。ただ雨などで崩れやすいので、間に石を挟む形にしている。関東が石垣の城が出来たのが遅く城作りが遅れていたと言われるがそんなことはない。自然の力を生かしたのであると強調される。上の方に古道があり、そこから橋が架かって御主殿へ入るかたちとなるが、今その橋は架かっていない。新しくするため古い橋は外されてしまっていた。

<御主殿の滝>。多くの人々が滝の上流で自刃して身を投じたため、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったと伝えられる滝である。「今、小説やアニメの影響で心霊スポットとして知られています。」「私たちも小説組です。」「見ての通り、飛び込むような滝ではありません。城は焼かれますから、ここに逃げ延びて自刃したとは考えられます。」確かに想像していたより小さな滝であった。

御主殿跡には礎石の後に石が並べられているが、一度掘り返してまた埋めたそうで本物ではない。その礎石には、柱の焼け跡が残っているそうで、仲間が、「ガラス張りか何かにして見えるようにするといいですよね。勿体ない。」という。「そうなんですよね。一つでも本物をね。」なるほど。跡が残るほど火の勢いが激しかったということか。御主殿は、役所や争い事の仲介のような仕事の場でもあった。客殿が北向きなのは、その前の庭が南向きで、植物や花などが南を向くから良い姿を眺められるということで、北向きなのだそうだ。なるほどそういうふうにも考えられる。「庭の奥の小屋は茶室ではなかったかと想像するんですがね。」ここから、ヴェネチア産のレースガラスや中国産の皿も見つかっている。

解説を聞くと、次第に御主殿が想像の世界に表れてくる。というわけで、時間がオーバーしてしまい、本丸まで4、50分はかかるため往復する時間が無くなってしまった。ここは自然に恵まれ、12月には鬼女蘭という白い鬼女の髪の毛のような花が咲くと言う。それを食するアサギマダラという海をも渡ってしまう蝶が飛ぶのだそうである。本丸は再度12月に訪れよとのことと判断し、帰路につくことにした。

連休前の暑い日で、これから本丸まで登る気力が失せてもいたのである。新緑のこの自然の中で凄まじい戦さがあったのである。年に数人道に迷うかたや、違う方向に下りてしまうかたがいるという。「精進料理食べてる場合ではなかったね。」と提案者がいうが。「いいわよ。魔女蘭に会いに来よう。」「違う。鬼女蘭!」

 

 

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(7)

地図を見て確認していたのであるが、奈良県庁と東大寺の間の道を真っ直ぐ北へ進むと佐保川にぶつかり、そこで二俣に別れ、直進が般若寺方面、右が柳生方面で、その柳生方面の道も途中で、柳生方面と浄瑠璃寺方面へと別れるのである。ただし、<旧柳生街道>は別に位置する。

私が、<般若寺>の帰りバスに乗ったのは、東之阪町バス停であろう。もしそのまま歩いてもどるなら、左に<転害門>をみて、右手の西方向に進むと<聖武天皇・光明皇后陵>があり、佐保路の一部である。御領を背に近鉄奈良駅方面の南に向かうと、<奈良女子大>がある。ここは、奈良奉行所の跡地で、本館と校門は明治時代の建築物である。そこから近鉄奈良駅へもどれば、行きとは違う道を戻れることとなる。

このことを、<般若寺>に行った友人に、こういう道もあったと教えると、「帰りはその道で帰ってきたよ。」とのこと。さすが調べていったようだ。完璧である。

友人は二月堂の<お水取り>を、上の回廊の方で見たそうで、今度は下から見たいとのこと。反対に私は機会があれば上で、見たいものである。あの下駄の音が聞きたい。

他の仲間が、「失踪したお兄さんを捜すため、妹が奈良を探し求め、奈良のほとんどが出てくる小説がある。」と言う。彼女の本の紹介には、なぜか乗りやすい。行ったところばかりなので、風景にのせた登場人物の動きなり、心理を追って行けばよい。ところが、一つ行っていない所があった。名前は出て来ないがある庭が出てくる。

そこは思いかけず雄大な風景が広がっていた。庭自体はそんなに広くないのだが、若草山や東大寺がすっぽり借景となって庭に深い奥行きを与えているのでだ。

この庭は、<旧大乗院庭園>と思われるのである。この小説に出てくる奈良で、ここだけは行っていない場所なのである。小説でも「五、答ふるの歌」の章で、かなり解明が深まるところである。小説に関係がなくても、訪れたい庭園である。次に訪れる時は、心して置こう。

小説名は『まひるの月を追いかけて』(恩田陸著)である。小説のほうは、兄を中心に二人の女性が、兄を通過しての心模様が映し出される。妹は旅を通して二人の女性のことを知り、そのことを通して幼い頃の記憶を紡ぎ出す。兄の中に存在する、遥か彼方にいるもう一人の女性との思いがけない巡り合わせとなる。奈良の風景が映像のように流れていく。

どちらも、近鉄奈良駅から歩いて行けるところなので、<奈良女子大>から<聖武天皇・光明皇后陵>までの道と<旧大乗院庭園>の空白部分を、埋められるであろう。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(6)

二月堂のお水取りを友人に勧め、あと何処がお薦めかと聞かれる。<般若寺>をあげる。友人の時間的配分から考えると、近鉄奈良から歩いて30分なので、その後お水取りまで、食事の時間もとれる。薦めていながら私はまだ行っていないが訪れたいお寺なのである。

花のお寺でコスモスが有名のようであるが、友人が行った時は水仙が咲いていていたそうである。そのお寺の先に、<奈良豆比古(ならずひこ)神社>があり、この神社では、神事としての『翁舞』が秋には毎年舞われているとの情報を持ち帰ってくれた。説明を読んでも上手く捉えられないが、三人の翁が登場するのが、この『翁舞』の特色であるらしい。猿楽の初期の形が残っているということであろうか。

今回の旅の締めはには是非ともこの二箇所をと思い、訪ねることができた。<般若寺>はバスでも行けるが、30分ならバスを待つなら歩きとする。<般若寺>に向かいつつ、<お水取り>のツアーで来た時、夕食をとったお店の前を通る。夕食の後、ガイドさんが、二月堂まで連れて行ってくれたのである。<お水取り>が終わると、自力でこのお店前のバスまで戻ったのである。この食事処は、かつて旅館で正岡子規さんが泊られ、この旅館で柿を食べられたということで、<子規の庭>と句碑が整備されていた。なるほどここであったかと地理的確認ができ<般若寺>に向かう。

 

 

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道が二俣になり、<般若寺>の道標がある。もう一つの道は、柳生の方に向かう道らしいが詳しくわからない。バス停もここまでもどればいいのだと検討をつける。途中で、夕日地蔵がある。<般若寺>の前を通り過ぎ、神社に向かう。道路からすぐの神社である。

 

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中の敷地も広くなく、本殿のすぐ前に舞台があり、神様もすぐ前で奉納舞をご高覧になるわけである。

 

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翁舞を舞うかたは決まっていてその方々が順番で舞うようだ。今では広く知られるようになり10月8日は境内狭しと見学者があるらしい。かつてあった高札場も新たに設置され、今は人通りは少ないが、ここが、いかに人々の集まるところであったかが伺える。裏が森でここからは入れなくてぐるっと周るといわれ周ってみたが入口が無い。どうも違う周り方をしたようである。反省。きちんと確認すること。鵜呑みにしないこと。

先日友人と交番で道をたずねた時のことを思い出す。「駅の反対側に交番がありますから、そこでもう一度聞いて下さい。」二人とも「駅の反対側のすぐの交番ですね。」と理解。「いえ、すぐではありません。その交番の位置をこれから教えます。」ここは、そんなそばに交番が二つもあるのだとちょっと疑問に思ったのだが、勝手に、交番を作ってしまった。

諦めて、<般若寺>に戻る。来た時よりも、この坂道が時代を超えて見つめていた空気を感じる。

 

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<般若寺>の受付で、疑問に思っていたことを質問する。「『宮本武蔵』の般若坂の闘いとこの道と何か関係がありますか。」「この坂が般若坂です。昔はこの道が京へ行く道だったんです。」そうなのか。映画で若草山と思える場所で僧兵と闘うので、般若坂はその近くなのだろうと思ったがそうか、ここなのか。握りこぶしである。

これから庭の手入れをされるようで、沢山の土などの袋が置かれている。桜と椿が少し色をそえる。お寺の大きさに似合わないほど大きな十三重石宝塔が見える。この宝塔の東側に薬師如来、西側に阿弥陀如来、北側に弥勒如来、南側に釈迦如来がほられてある。

ここの楼門が凄いのである。鎌倉時代の日本最古の貴構で、屋根の先端が鳥の翼のように反っているのである。これは道路から眺めたほうが良い。この楼門の内側に、<平重衡公供養塔>があった。平清盛さんの五男で、奈良を治めようとして闘いとなり南都を焼け野原にしてしまうのである。東大寺に避難していた人々もその猛火のため多くの人が亡くなり、重衡さんは斬首され、、南都の人々によって<般若寺>の門にさらされたとも言われている。

お寺の方の話しだと、ここは平城京の北の鬼門にあたり、そのために建てられたとされ、高台にあり、いつも戦場の場所となり、折から北風に煽られ下まで火が走ったのであろうとのこと。色々な戦を見て来た場所なのである。今は、コスモスなどのお花の寺として、北に位置している。

本尊は、逞しい獅子に坐している凛々しい小ぶりな文殊菩薩様である。秘仏が白鳳時代の阿弥陀如来様で4月29日から5月10日まで公開される。

来た時の二俣の道の合流するところのバス停に人が待っているので、そこからバスに乘り駅に向かう。かつては京から、京へと人々が賑やかに行き来した古の道もわかり充実した旅であった。