伊豆大島 (夜景・夕景)

伊豆大島に行って来た。<伊豆大島復興応援ツアー>の案内を目にして、椿の大島は一度は行かなくてはと思ったのである。友人を誘ったところ都合が悪く、さらに友人は伊豆大島マラソンがあるとの情報を得て、今回は受付が終わったので来年は是非参加するとのことである。そういうことであるならと、こちらは、大島の地図やパンフレットなどを調達してくる。

ツアーの行程は、夜22時に竹芝桟橋を発ち、翌朝伊豆大島の元町港かまたは岡田港に6時に着き、温泉に入り休憩をとり、バスで→火山博物館→大島公園→三原山山頂口→元町港か岡田港から14時30分発ち竹芝桟橋19時45分着である。

大島へは高速ジェット船もあって1時間45分で着いてしまうのであるが、フリーととなるとバスの移動時間なども調べなくてはならないので、兎に角一度行って観る事にする。

竹芝桟橋などはあそこらあたりであろうとの感覚しかなかったが、JR浜松町駅から歩いて10分もかからない。旧芝離宮公園の前を通って信号渡ればすぐである。熱海に行った時に、初島に渡り、大島は東京からは遠い感覚であったが、船の乗り場が解ればどうということもなかったのである。竹芝桟橋からレインボーブリッジが見え、乗船が楽しみになった。

期待した通り、夜遅いので静かに出港するが、周りのビルの灯りや東京タワーの灯りを眺めつつレインボーブリッジの下を潜って行く。デッキは寒さのためもあって人はまばらである。この船は横浜港にも寄るのである。船の案内で聞いたところ、週末は横浜に行きと帰り寄るのだそうで、横浜港着23時20分ころである。23時過ぎに再びデッキに出る。今度は、横浜ベイブリッジである。長くて、巨大な柱である。レンガ倉庫群もボンヤリとした灯りを受けて見えてくる。

桟橋にどう横付けされるのか下を見ていると、船が傷つかない様に大きなスポンジのようなものが岸壁に張られていて、船体はそこにぶつかっては跳ね返されている。帰りは明るいうちに大島の岡田港を離れ、途中富士山の左横に太陽が沈み、横浜港では再び夜景の世界で18時ということもあって、横浜大さん橋で座って船の出入りを眺めている人も結構いる。富士山がレンガ倉庫と倉庫の間からぼんやりと顔を出している。竹芝桟橋に近ずくころは、某テレビ局のビルが色鮮やかに目まぐるしくライトアップしている。夜遅く静かに出港した船もまだ時間が早いので堂々と到着である。

途中の長い乗船時間中は、静かに読書も出来、満足の船の往復であった。たとえば、鎌倉辺りを散策して、横浜港から竹芝桟橋までの船旅を組み込むのも一計である。

大島といえば波浮港と思って居たら、客船の行き来は元町港と岡田港で、その日の海の様子によってどちらの港を使うかが決まるらしい。前日は強風のため出航停止で、大島に着いた日は富士山も見えこんなに良く見える日は少ないとのこと。

今回は、三原山から北側の観光で、南にあたる波浮港の方までは行かないのである。大まかな大島の観光地形は把握出来た。

 

美・畏怖・祈りの熊野古道 (発心門王子から補陀洛山寺)

<発心門王子><水呑王子><伏拝王子>(休憩所あり)<三軒茶屋跡>(休憩所閉鎖)<祓殿王子><熊野本宮大社><大斎原>コースは、半日コースとして時間配分を考えた。新宮にもどって那智の補陀洛山寺も行っておきたかったのである。

バスは、鳥居のある<発心門王子>(ほっしんもん)の場所で停まる。空から雪が舞ってきた。暗い空ではないので、途中で止むであろうが、少し急ぐこととする。<発心門王子>は、格式が高く本宮への入口で、仏道に入り修業によって悟りを得たいという志を起こすことを現しての発心らしいが、悟れるほどの者ではなし、熊野に癒されるほど大層な生き方もしていない。これからも迷いと疑問の先行きである。今年の初めには考えもしなかった熊野に12月に来れたことを感謝して手を合わす。

空を見上げると軽い雪がふわふわと遊んで降りてくる。この美しさも違う形となれば畏怖の対象となる。風がないので傘をさし、雪を避ける。雨と違い濡れ方は少ない。運転手さんのアドバイスを頭に、地図を確かめつつ、バス停、道の駅奥熊野で右の登り坂を登る。<水呑王子>(みずのみ)と刻まれた碑の隣には腰痛のお地蔵様がある。名もなき赤い前垂れをつけた小さなお地蔵さんは菰を被せてもらい可愛らしい。傘地蔵のように、菰を被せた人にお礼には行かなかったようである。じーっと気持ち良い温かさに浸っているようである。果無山脈の案内板があり、その先には現実の山脈が連なっている。

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<伏拝王子>(ふしおがみ)。現在の<熊野本宮大社>は移転していて、もとの本宮跡を、<大斎原>(おおゆのはら)と言い、その<大斎原>をここから伏し拝んだという場所である。残念ながら、木々が育ち<大斎原>は見えなかった。石の小祠の隣にあるのが和泉式部の供養塔である。立ち木に彼女の歌が掲げられている。「晴れやらぬ身の浮き雲のたなびきて 月の障りとなるぞかなしき」。高野山と違い女性も受け入れたため、「蟻の熊野詣で」といわれたほど参詣者が多かったのである。ここには、無料休憩所もある。お手伝いの地元のかたであろうか、温泉談義をしていた。ここで、早めの持参の昼食とする。一息ついて、再び歩き始める。急なアップダウンもないので気持ちよく歩ける。

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閉鎖している<三軒茶屋跡>を通り過ぎると<九鬼ケ口関所跡>がある。その関所門をくぐり進んでいくと展望台があったらしいがどんどん進んで、団地のような家なみを過ぎどうやら終点に近そうである。<祓度王子>(はらいど)の石の小祠がある。ここは本宮のすぐそばであるが、かつてはもう少し先に本宮があったので、今は移転のためお隣さんになってしまった。参詣人はここで禊ぎ(みそぎ)とお祓いをして身を清めたことに由来するらしい。

そしていよいよ<熊野本宮大社>となるのである。こちらは速玉、那智大社と違い、朱塗りではなく、白木である。白木に檜皮葺(ひわだぶき)がおごそかである。大社に関する神々はそれぞれで調べて頂きたい。浄土のこと、本持仏のことなども含め、観光程度以下の知識でこんがらがっている。

熊野本宮大社・絵葉書より

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<おがたまの木>があり、漢字で<招魂><招霊><小賀玉>等と書き、モクレン科で花は芳香があり、神木、霊木として神聖視され、神楽舞の鈴はこの木の実を象ったものなんだそうだ。

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<たらようの木>は、漢字で<多羅葉>と書き、葉の裏に古くから針で経文や手紙を書き、「葉書」の語源だとされている。<たらようの木>の下に、八咫烏(やたからす)の乗った黒いポストがあり<八咫ポスト>と名付けられている。このポストに投函すると八咫烏の消印で配達されるそうで、知っていれば投函したのだが。誰宛に。もちろん自分宛に。

「平家物語」に関連することもあるがとりあえず、先を急いで<大斎原>へ。本宮まで乗せてもらった運転手さんも、歩いて10分位ですから帰りには是非といわれたのである。大きな鳥居がもともとはここですと存在感を示している。山々と霞に包まれた鳥居の絵葉書を買う。あの大きな鳥居が玩具みたいである。もしかして、展望台から写したのであろうか。う~ん、心残りがまた一つ。大斎原は熊野川と音無川に挟まれた砂洲に建っていたのである。江戸時代の後期の絵図によると、社殿はこの時も朱塗りではない。鳥居をくぐる時、両脇が川なら、海、山、川と熊野三山に対する想像力ももっと膨らむ。この土地の人達は、自然が崩れてもかつての形を心のどこかに据えている。明治時代の洪水で大社の多くを失ったのである。

新宮にもどり、バスで那智へ。駅前の国道を渡ってすぐのところに<補陀洛山寺>はある。左手に補陀落渡海の船が置かれている。住職さんとお話しすることが出来た。自然崇拝の信仰から始まって、山伏としての修業を積んでいたわけで、今の信仰とは違う形であったと言われる。それは、今回ほんのわずか熊野を回って自然ということを強く感じたのでわかる。住職さんは、文献に渡海を試みた人の気持ちなどは残っていないので、はっきりとこうであるということを控えられておられる。こうであろうとしか言えないのである。中世で世の中が混沌としている時代、自分が浄土へたどりつき成仏する事のみが目的ではなく、人々の願いを浄土に伝えようとしたのではないかとの考えかたも示される。

この浄土への補陀落渡海から逃れようとして無理矢理入水させられた渡海僧金光坊の伝説もある。金光坊は近世の人で、近世に入ると世の中も変わり、信仰の形も変わり、人の思いも違って来たであろう。そして、修業の形態も変化していったであろう。この金光坊のことがあってから、生きながら渡海する慣習はなくなり、亡くなった当時の住職さんを補陀落渡海の形で水葬にしたようである。

そして、本尊三貌十一面千手観世音菩薩を拝見させていただく。ふくよかで、沢山迷い考え、ぶつかりなさいと受け止められたように思った。最後は、自分の都合の良いように受け取った形となったが、そう思わせて下さる観音菩薩であった。

補陀洛山寺と本尊三貌十一面千手観世音菩薩・ 絵葉書より

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那智駅の後ろが那智湾で、熊野灘に続いている。その場所より、新宮に向かう車窓から少しだけ姿を見せた熊野灘が美しかった。その先に何かがありそうな海である。

新宮に着き、駅前の寿し店で、さんまの姿寿しを食べることが出来た。めばり寿しは売れ切れであった。そのお店で新宮には、老舗のお菓子屋さんが多く、京都からも修業に来ると言う和菓子屋さんの話しを聞き、そのお店を教えてもらう。

熊野ともお別れである。あれっ、何か忘れている。駅で荷物をまとめたとき、和菓子を忘れたようだ。超特急でもどり、無事和菓子を手に発車である。この和菓子が美味しかった。車中で3コも食べてしまったが、甘さが柔らかい。

熊野について書き残していることは、まだまだあるが、今年の最後とする。

今年の最後は、2011年の東日本大震災で東京公演を断念され観れなかった仲代達矢さんの『炎の人』の能登公演をDVDにしてくれたので、それを観て年越しとする予定である。

二回目の熊野の旅は ↓ こちらから

2015年3月21日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮から発心門王子まで)

次の行程は、バスで新宮から本宮大社に向かい、乗り換えて<発心門王子>まで行き、そこから歩いて<熊野本宮大社>に戻るというコースである。<発心門王子>から<熊野本宮大社>間は中辺路の初心者コースである。友人の体験から私でも大丈夫と言われているので楽しみな熊野古道歩きである。

新宮から大和八木駅行きのバスに乘る。奈良に行ったとき友人が見つけた、日本で一番長い路線バスである。6時間30分ほどかかる、<新宮>から<本宮>へはこの路線バスの一部の約1時間半のバス旅である。これが予想外の収穫であった。自然について改めて考えさせられ、歌舞伎の舞台にも遭遇したのである。

乗客は一人であり、「右側座席のほうが景色がいいですよ。」と言われ、その言葉に、運転手さんのすぐ後ろの席に移動し、運転に差しさわりのならない程度を考え、お話をお聞きする。右手の山の上に赤い建物の一部が見えたので、尋ねると<神倉神社>とのこと。やはり高い所にある。昨日、80段で止めた話をすると、「それは残念でした。」と言われる。その後色々調べても今でも残念な思いは残るが、無事この旅を終れたことを良とする。

この路線バスに乘るためだけに、九州から来た人もいたという。大和から熊野というのにも魅力がある。右手下は熊野川である。左手は山肌である。川に沿って道はずーっと作られている。本当に山に抱かれて川と道があるという感じである。時々、少し山側が広くなり、左右に家屋が見られる。災害のため、ここは住んで居ないという。美しい山や川なのに、それが暴れ畏怖となる。川底も土砂のため上がってしまい、以前はもっと下に川が見えたそうである。

左に見えた滝は、災害で姿を現した滝だそうである。「何百年かしたら、この滝もまた見えなくなるでしょう。」と言われ、その言葉に一瞬時間が止る。そういうふうに思うのか。自然は再び自然に返すのである。この滝も再び木々に覆われ人間の目から消えるのである。そして、姿をみせていない滝がまだまだあって、美しい姿を見せた時には、私たちに何かを伝えようとしているのである。その言葉をどれだけ深く静かに聞こうとしているであろうか。

ビル風があるように、山々に囲まれた空気の流れや水の流れは様々な様相を呈する。そうした自然の中で修業した修験道の山伏の人々は、山を越える間に空気の流れの違いを感じていたであろう。自然のそうした動きに対し、祈りというのは、封じ込めの意味もあったであろう。古代から自然を信仰の対象としていたのは、その自然の持つ力の封じ込めの祈りであったような気がする。

バスは温泉郷へと入っていく。<川湯温泉><渡瀬温泉>。そして、どこかで見たような情景である。「これが、小栗判官が入ったといわれる温泉です。」旅行雑誌で見ていた「つぼ湯」である。しかし、別の経路で行かなければならないと思い調べもしなかったが、このバスがここを通るのかと、思いがけない歌舞伎舞台との出会いである。熊野の<湯の峰温泉>である。ここには、照手姫が小栗判官を乗せて引いた車を埋めた車塚や、元気になったのを試して持ち上げた力石もあるらしい。小栗判官と照手姫の墓所は藤沢の遊行寺にある。東海道 戸塚から藤沢 (2)

思いがけない嬉しい場所を通り過ぎ、バスは目的地<本宮大社前>である。そこから、発心王子まで行くことを話たので、「この同じバス停で待ち、本宮に戻って新宮へ行きのバスは向うに停留場がありますからね。」と教えてくれる。運行バス会社が幾つかに分かれているのであるが、旅人にとっては大助かりである。バスの便の少ない分を、補うようなその親切が嬉しい。

<発心門王子>行きの運転手さんも、このバスに乗る人は歩く人と知っているので簡略に、本宮までの、トイレ、休憩場所などを説明してくれた。<本宮>から<発心門王子>までは、バスで15分ほどである。新宮では、晴れていたのに、<発心門王子>に着くと雪がパラついていた。

つづき→  美・畏怖・祈りの熊野古道 (発心門王子から補陀洛山寺) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮)

那智から無事<新宮>行きのバスに乘れる。バスは、新宮ー那智ー紀伊勝浦は、9時から18時台は、30分おきにある。新宮市街に入り<権現前>とアナウンスがある。新宮駅まで行くつもりでいたが「すいません。<権現前>は速玉大社に近いですか。」「近いです。」ボタンを押す。降りる時「後ろですから。」と一言伝えてくれるのが有難い。「有難うございます。」時間的ロスが減った。ただこの手前に<神倉神社>に近い停留所もあったのである。予定では、荷物を預けてから新宮散策と思っていたので駅に行くことのみ考えていた。友人達には、バスを使う場合の参考コース<神倉神社><速玉大社>として教えることとする。

<新宮>の名は、神倉山に祀られたていた神々を新たな社殿である速玉大社にうつしたことから、地名が<新宮>と呼ばれるようになったともいわれている。<熊野速玉大社>も、朱色の美しい社殿である。

 

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御神木ナギ

 

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熊野御幸の回数

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ここの神宝館に多くの関連宝物があるようだが、時間がないので境内の中にある<佐藤春夫記念館>へ。佐藤春夫さんと高校の同級生である宮司さんが、東京の春夫宅をここに移したのである。二階に上がる階段が二つあって、細い吹き出しの階段は、窓に雨が直接あたるためそれを避けるためにサンルームをあとで付け足したのだそうでそれがかえってモダンな内部構成となっている。二階の角には、狭い六角形の空間があり、そこを書斎としても使っていたらしい。狭いが過ごしやすい空間で、横に成ったり、起きて書いたりしていた姿が想像できる。文机の前に座るが、前の3か所に窓があり、狭いのに圧迫感がない。

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没後50年の企画展は「佐藤春夫と憧憬の地 中国・台湾」である。これはお手上げであった。中国の文学作品の名前はもう記憶から薄れている。魯迅は数作品読んだくらいで、佐藤春夫さんの中国系の作品も読んでいないので、展示物を見ててもよく解らないのである。ただ、関係者のかたが、資料をきちんと検証されておられるのはわかる。そして、佐藤春夫さんが、行動の作家でもあたのだということは、認識できた。記念館だよりに、映画監督大林宣彦監督の講演会が行われたことが載っていて、佐藤春夫さんの『わんぱく時代』を大林信彦監督が映画『野ゆき山ゆき海べゆき』の映画にしたことを知る。これは興味がある。

中学時代には、与謝野寛さんらの文学講演会の前座で「偽らざる告白」と題して談話し、それが問題となり、無期停学となっている。

新宮には、大逆事件の犠牲となった人々もいて、その一人大石誠之助さんは、佐藤春夫さんの父と同じ医者で父の友人でもあり、それに関連する詩も書いている。駅の近くには、大逆事件犠牲者顕彰碑もある。その他、文学者では中上健次さんの生まれた土地でもある。<佐藤春夫記念館>で、中上健次さんの連続講座の冊子を購入してきたが、超難解でこちらもお手上げ。熊野出身ならではの作家とされている。駅前には、滝廉太郎とコンビを組んで童謡を作詞した東くめさんの「はとぽっぽ」の歌碑がある。

 

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与謝野寛・晶子夫妻らとともに、東京神田に「文京学院」を創立した、西村伊作さん設計の自宅が<西村記念館>となっている。この場所を、観光案内所で尋ねたら、近いのであるが、係りのかたが地図をもって、外まで出て説明して下さった。熊野のかたがたは、はっきりしていることは、きちんと説明されるように思う。観光案内で外まで出て説明されたのはまれなことである。<西村記念館>は、もう少しで修理のため閉館するそうである。年配の係りのかたがそのために、絵などがほとんで片づけられて無いことを申し訳ないと言われる。しかし、建物、家具のモダンなシンプルさは解かるのである。西村伊作さんの弟が、佐藤春夫宅の設計者である。

その他、<浮島の森><徐福公園><阿須賀神社><歴史民俗資料館>などもあるが、位置は判ったが行けなかった。上田秋成の『雨月物語』の<蛇性の淫>の舞台は新宮である。

最後に、<神倉神社>に向かう。ところが、時間が食い込み暮れ始めている。古い石段を80段位登ったところで、男性が降りてくる。「まだかなりありますか」と尋ねるとまだまだと言われる。「止めたほうがいいでしょうか」「止めた方がいい」とのこと。帰りが暗くなっては、この石段では足元が悪い。諦めることにする。あまり重要視していなかったが、調べたら538段あって、この神社を寄進したのが頼朝である。この神倉山は熊野速玉大社の神降臨の神域とされている。修験者の行場としても栄えたところである。頂上にある、ゴトビキ(方言で蛙)岩が御神体で古代から霊域とされいる。那智の火祭りが有名であるが、ここでも、2月に火祭りがある。

 

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東京の明治大学で来年1月11日に『第8回 熊野学フォーラム」というのがあって、テーマが<「がま蛙神」はなぜ熊野に出現したか!>である。熊野のどこかでチラシをゲットしたのであるが、神倉神社に注目しなければ気にもかけなかったかもしれない。それにしても、ゴトビキ岩を見れなかったのが残念である。

歌舞伎などでも蛙が出てくる。確か『児雷也』などは、ガマ蛙の上に立って巻物咥えて例の忍術のスタイルだったような。『天竺徳兵衛』にも出てくる。蛙には神がかった怪しい力があるのもこういうことと繋がるのかもしれない。

 つづき→     美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮から発心門王子まで) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

美・畏怖・祈りの熊野古道 (那智山)

計画しながら、行くまでの日々に疲労が堆積し、こうなったら定期観光バスで熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を制覇としようと考える。定期観光バス会社に電話し、予約のことなど尋ねる。この対応の方が適切にアドバイスをしてくれ、とても気持ちが良く元気をもらえた。そういうことは信じないのであるが、熊野パワーがきたのであろうか。熊野に行っても感じたことであるが、熊野の方々は、不便なだけにその情報の伝え方が意を得ている。最初から計画を練り直す。練り直し始めると、友人のアドバイスなども加味され、はまって短時間でまとまる。

一日目午前を那智山にして、午後を新宮にする。二日目中辺路の<発心門王子から本宮>とし新宮にもどる。これで三宮に行けて初めての熊野三山としてはベストである。実際に歩くうちにこのベストが、ベストとは異なる、自然の美しさ、怖さ、神々しさ、その中で暮らす人々が旅人を自然に受け入れるてくれる大きさに包まれたのである。

新宮から電車で、那智へ。那智駅に日本サッカーの始祖<中村覚之助顕彰碑>がある。日本サッカー協会のシンボルマーク<八咫烏(やたがらす)>は、中村覚之助さんが、那智の出身で、熊野那智大社の八咫烏からの発想である。

 

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那智駅から那智山行のバスで、10分ほどの<大門坂>で下車。勝浦、那智からの那智山行きのバスは一時間に一本である。友人は、那智駅から歩いて那智山への熊野古道を行く予定であるが、歩くと<大門坂>までが、1時間半かかるようなので、そこをバスにして、熊野古道の大門坂から那智山に向かって登る。若者たちは車で<大門坂>手前の<大門坂駐車場前>の駐車場に車を置き、大門坂、那智山、那智の滝と歩き、帰りは<那智の滝前>から駐車場までバスで降りるコースをとるようである。観光バスであると、大門坂から苔むした古道を眺めるだけということになる。

バスの運転手さんが、大門坂口を少し通り過ぎたところに停留所あるので、「ここから登りますからね」と事前に知らせてくれる。すぐ歩き始める人にとっては心強い。すこしもどって<大門坂>の大きな石碑から始める。和歌山には、南方熊楠(みなかたくまぐす)さんという菌類の研究をされた方がいて、その熊方さんが研究のため三年間滞在したという大坂屋旅館跡がこの大門坂入口のそばにあった。劇団民芸で『熊楠の家』(作・小幡欣治/演出・観世栄夫)を上演したことがあり、南方熊楠役が今年8月に亡くなられた米倉斉加年さんであった。(合掌) 昭和天皇に熊楠の採集した粘菌の標本献上と説明をするとき、貧しさのため標本箱がキャラメルの大箱であった。周囲は当惑したが、なんの差しさわりも無く、むしろ熊楠の研究者としての生き方に、昭和天皇が心動かされたという話しが盛り込まれている。再上演されてもいい舞台である。大門坂で熊楠さんに出会えたのも嬉しい。

 

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熊野古道は、まず大門坂から始めることとなった。俗界と霊界の境目の橋・振ケ瀬橋を渡ると夫婦杉がそびえ、熊野参詣道中辺路にある最後の<多富気王子(たふきおうじ)跡>の石碑がある。江戸時代には社殿があったらしいが、明治になって、現熊野大社境内に移されたある。杉に囲まれて苔むした石段をゆっくりと登って行く。坂を登りきると那智山でそこから熊野那智大社、那智山青岸渡寺へと向かうのである。登り切ったところに、<清明橋の石>というのがあり、花山天皇にお供した安倍清明が庵を結びその近くにあった橋の石らしい。駐車場が出来、橋はなくなり、石だけ少し移動して残したらしい。途中に<実方院跡>として、上皇や法皇の御宿所跡があり、さらに進み右手奥に広場が見えたので進んでいくと、那智の滝が見えた。那智の滝を見るとやはり来たという想いがつのる。

 

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熊野那智大社は、そもそも那智の滝を神として崇めていたところに、仁徳天皇の時代、社殿を作られたとされている。大変美しく立派な熊野那智大社をお参りし、宝物殿へ。徳川吉宗と水野忠幹が奉納したそれぞれの、銘刀・助宗が展示してあった。中世には、大社の主神・夫須美大神と千手観音と同体であると考えられていたとあり、これは興味深いことである。西行、実朝、後白河院らの古歌もあり、それぞれの深い思いが残されている。那智山青岸渡寺、そして、三重塔那智の滝の見える位置へ。

 

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那智山青岸渡寺は、仁徳天皇時代、インドから漂着した裸形上人が那智の滝で修業しているときに、滝壺で観音像を見つけ、庵にこの像を安置したのが始まりとされている。本堂は織田信長の焼き討ちにあい、豊臣秀吉によって再建されている。そこから下って那智の滝へとむかう。バスを<那智の滝前>で降りて那智山を回り、大門坂に降りて来ようと思ったが、そうするとこの下りを登ることとなるので、大門坂出発のコースにした。

那智の滝<飛龍権現>と呼ばれ、那智の海岸に着いた神武天皇が、滝を発見して滝を神として祭り、霊長の<八咫烏>に導かれ大和に入ったと言われる。ここに<八咫烏>がでてくるのである。そして、この地では<八咫烏>と何回もお逢いするのである。出羽三山から熊野と今年は大活躍をしていただいた。 慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡

 

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ずっとずっ昔の彼方から静かに美しい姿と飛瀑音を轟かせていた那智の滝は、その裾もに虹を作っていた。緑の木々の衣をまとい、しめ縄の冠をかぶられ、真っ青な空を後ろに従え威厳をもって佇まれている。この美しさは優しくもあり、畏怖もあり、祈りをも秘めている。そしてなんという残酷さを具えた自然の美しさであろうか。

 

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飛龍神社を通り、<那智の滝前>のバス停からバスに乘る。バス関係の人が、「駐車場行きの方はいますか。ここから3つめの停留所ですから。」と声をかける。若い人が「はい。ありがとうございます。」と答える。気持ちが良い受け答えである。この那智駅までは15分程度。さて新宮へもどろうと駅へ行くと、11時12時台の電車がない。1時間に一本はあると思っていたのが迂闊である。

前にあるのは国道であろう。バス停がある。折よくバスが来たので、運転手さんに尋ねる。「新宮行のバスありますか。」「このバス停の反対側の後ろに新宮行のバス停がありますよ。」「ありがとうございます。」あわてふためく旅人に落ち着いておしえてくれる。まずは時間を確かめる。30分後にある。安心して、近くの道の駅を覗き休憩タイム。ところが、後になって、ここからすぐの、補陀洛山寺に寄らなかったことに気づくのである。自分で自分に納得がいかなくて、2日目の最期に、新宮からバスで再び那智にきて補陀洛山寺を訪れるのである。思うに、全てをまわってからのこのお寺を訪れたことが巡り合わせだったのかもしれない。

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熊野古道の話題増殖

<熊野古道>の話題が増殖している。歌舞伎座12月 『雷神不動北山櫻』(2) で、く熊野古道>に触れたが、他の仲間からある本を紹介される。『RDG レッドデータガール』(荻原規子著)である。RDB<レッドデータブック>というのがあるらしく、何かというと、絶滅のおそれのある野生生物の情報をとりまとめた本ということである。<レッドデータガール>は、それにかけて、特殊な能力のある少女を周囲が守っていくというファンタジー小説らしい。

その主人公の少女・泉水子(いずみこ)の育てられた場所が、玉倉神社で、熊野から吉野への大嶺奥駈道(おおみねおくがけみち)と呼ばれる修験者の道に沿っているのである。おそらくこの玉倉神社は、玉置山にある玉置神社がモデルと想像するのであるが。この小説は全6巻あるらしいが、主人公はこの後、東京の高校に進学するということで、熊野の様子の出てくる1巻のみを借りることにしたのである。途中であるが、泉水子を助けるであろう中学三年生男子の深行(みゆき)が登場し、中一の時、羽黒山で蜂入りをはたしたとある。羽黒修験の行を済ましたらしい。今年の夏 慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡 を訪れていて、羽黒山で蜂子皇子の尊像を拝観しているので、次第にはまってきている。

本の内容を聞いていると、陰陽師も出てきて、戸隠も関係し、歌舞伎関係の人も登場するらしい。一応は、1巻だけとしているが、読後状況によっては次も借りることになるかもしれない。彼女も春には熊野に行く計画なので、ではということで、『熊野古道殺人事件』(内田康夫著)を貸すことにする。

私はファンタジーやSF物は読んでいないので、何からそちらに入ったのかを聞いたところ、子供用に書かれていた『古事記』で、あれはまさしくファンタジーであるという。となれば、スーパー歌舞伎の『ヤマトタケル』のDVDを貸してみようと思う。

『陰陽師』は、歌舞伎でも上演されている。歌舞伎座 『九月花形歌舞伎』 (2) 彼女が夢枕獏さんの『陰陽師』を読んで気にいっていたところは、安倍清明(あべのせいめい)と源博雅(みなもとのひろまさ)との絶妙な関係だという。それは、解かる。安倍清明の染五郎さんと源博雅の勘九郎さんの受け答え、やり取り、台詞のキャッチボールが何とも言えない二人の繋がりを描いてくれたのである。原作が読みたくなる。安倍清明が博雅を「おまえはいい男だ」というのであるが、この<男>が<漢>と記されていて<おとこ>と読むのだそうである。漫画などではよくでてくるらしいが、私はまだ目にしていない。

それから『ターザン』の話しが出て、原作者のエドガー・ライス・バローズに飛ぶ。自分とは違う世界観に浸っていて、話しも微に入り感心してしまう。面白さの壺は、それぞれの感じ方の壺である。入り込んでいるが、かなりのこだわりもあり客観的でもあるので、突っ込んでも面白い回答が帰って来る。さらに、固定化されている部分があるので、私はそうは思わないと言っても一向に構わないのが楽である。ただ原作にあたっていない分こちらは不利である。

熊野は道が沢山あり、電車とバスを使っての旅は頭を使う。行った友人の話を聞き地図をみて、歩く距離と時間を検討し、そこへバスの時間を組み込んでとやっていると、松本清張の推理小説的頭の体操となる。準備体操段階で疲れてしまう。

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奈良 山の辺の道 (2)

『旧柳生街道』もそうであるが、この『山の辺の道』も<東海遊歩道>の一つであるらしい。東海遊歩道というのがよくわからないが、そう指定されている道が東京から繋がっているらしい。『山の辺の道』の標識は判りやすい。どちらかなと思ったところに標識がある。今までで一番判りやすい親切な道標である。そのためか、平日でも人が歩いている。皆さんこの地域の農産物を買われ、ビニール袋を下げている。季節によっては、土日、祭日などは人が多いのかもしれない。

途中駅から歩かれるかたもいて、巻向(まきむく)からと言われた方もいた。次は<長岳寺>なのであるが、時間の関係で中には入らなかった。少し心残りであったが先へ進む。大きな<崇神天皇陵>(天皇陵として最も古いもの)<景行天皇陵>(ヤマトタケルノミコトの父)を右手に眺めつつ歩く。歌舞伎襲名興行スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』で云えば、現猿之助さんがヤマトタケルで現中車さんが父の景行天皇ということになる。この辺りの歌碑の筆者が文学者や名前の知れた方々となる。中河與一さん、武者小路実篤さん、山本健吉さん、岡潔さんなど。

<桧原神社>到着。崇神天皇が天照大神を祀った社とされ、天照大神は、伊勢神宮に移されたのでここを、元伊勢とも呼ぶ。大神(おおみわ)神社の摂社で本殿はない。鳥居の間から、ラクダの背のコブような二上山に沈む夕日が見えるそうである。二上山は少し霞んでいるが鳥居の間にしっかり見えた。二上山の右側の雄岳には、悲劇の皇子である大津皇子のお墓があるという。

ここの茶店で昼食とする。にゅうめんセット、三輪そうめんである。美味しい。ご主人に、この辺りの桜の美しい場所を尋ねると、ここから5分ほどの池の辺りだという。山の辺の道から少しはづれるので、聴かなければ通り過ぎたであろう。

この井寺池にも歌碑がある。「大和は国のまほろば たたなづく青垣山ごもれる 大和し美し」 筆者は川端康成さん。歌に関して余計なひと言の二人。「あまり字は上手いとは言えないね。」そしてありました。「かぐ山は畝火(うねび)ををしと耳成(みみなし)と相あらそひき 神代よりかくなるらし いにしへもしかなれこそ うつせみつまをあらそふらしき」 筆者は東山魁夷さん。その位置から左から畝傍山、耳成山、香久山と大和三山が並び、そして二上山が並ぶ。明日香村ではこの反対に見ていたのである。お腹も満たされ自然もゆったりした気分で眺められる。そして茶店にもどる途中に、柿本人麻呂の歌碑が。「いにしへにありけん人もわが如(ごと)か 三輪の桧原にかざし折りけむ」 昔の人も、私が今するように、この三輪の桧原で髪飾りを折ったことだろうか。筆者は吉田富三さん。

所どころに<山邊道>の石標があるが、小林秀雄さんの字である。さて歩き始める。<玄賓庵(げんぴあん)>玄賓僧都の庵で、世阿弥さん作の『三輪』にも登場するそうである。この辺りから道も石畳となり雰囲気のよい小道が続く。何となく、デザートが欲しくなる気分。タイミングがよすぎる。居心地よさそうな外での椅子とテーブル。「わらび餅がいいね。」と入ってメニューを見たら、栗のアイス。柿大好きの友は栗も大好き。信州の小布施まで特別限定の栗のスィーッを食べに行っている。早朝から並ぶらしい。このお店の奥さんが丹波の出身で丹波の栗を送ってもらっているという。

これは大当たりであった。大きな栗の渋皮煮がアイスの横に。今年初めて渋皮煮に挑戦。レシピも見ずに実行。人には勧められない出来。実行力は自画自賛。しかしプロとの違いに深くカクン。来年はきちんと挑戦する予定。アイスの中にも栗が練り込まれている。陽が西に傾き始めている。満足と悠久の時間が過ぎてゆく。

美味しいもの後は、道を間違い大神(おおみわ)神社までの道を、大回りしてしまう。三輪山をご神体とする神社で、檜皮葺きの美しい拝殿である。お酒の神様も祭神としていて、全国からのお酒が奉納されている。酒屋で見られる杉玉(新酒が出来た印)は三輪山の杉で作られているそうだ。歌舞伎では、 『妹背山婦女庭訓』の<道行・三笠山御殿の場>が関係している。

さて、書き手は急ぐ。<平等寺>を通り、<金屋の石仏>二枚の泥版岩に釈迦如来像と弥勒如来像が浮き彫りにされているものが収蔵されている。<喜多美術館>を通り過ぎようとすると、友が、「佐伯祐三の絵がある。ごめん。彼の絵だけ見てもどってくる。」「この際だから急がなくていいわよ。」。彼女興奮して絵ハガキ片手にもどる。「一枚あって見たことのない絵だった。まだ所蔵があるらしい。」「絵に呼ばれたのね。展示の時連絡してくれるよう頼んだ。」「住所と名前書いて来た。」

<海柘榴市観音堂>。海柘榴市(つばいち)とは、この辺りは椿の林があったらしいい。山の辺は読み方の難しい漢字の出てくる道でもある。長谷寺へ向かう初瀬街道、飛鳥への磐余(いわよ)の道、大阪への竹ノ内街道、大阪からの舟もつく、交易市のあった場所である。観音堂は民家の間にひっそりと二つの観音様を祀っている。そして最後が初瀬川の流れをのぞむ<仏教伝来之地碑>である。

ただし、ここからJR桜井駅まで、1.5キロほどある。これが長かった。無事到達、あとは、奈良にもどっての乾杯のみ。飛び込みの友も、仕事と親の通院の介助もあり、違う日常に大満足。驚いたことに、そのお父上が池部良さんの同級生で「あいつは、本当にいいやつだった。」といわれているそうである。予定外の好きな画家の絵にも会え、良かった。

次の日、『正倉院展』も見れ、京都、東京、奈良国立博物館三館を訪れることが出来た、2014年の秋であった。

 

 

奈良 山の辺の道 (1)

奈良の『山の辺の道』も長い間のあこがれの道であった。柳生街道を歩いた時、次は山の辺にしようと旅の友と話ていたのだが、思いの外、とんとんと話が決まった。その話を聞いた仲間が一人、歩き通せないときは途中から電車かバスにするのでと参加を希望。旧東海道を一緒に歩いたこともあり、私より大丈夫である。三人での『山の辺の道』となる。JR桜井線と思ったら、JR万葉まほろば線となっている。通じる間は桜井線で押し通す。

桜井線の天理駅から桜井駅まで15.9kmである。アップダウンも無さそうだし、7時頃から歩き始めるというので、桜井駅を3時から3時半として、桜井駅から奈良駅に向かい奈良駅の一つ手前の京終(きょうばて)駅で降りて、ならまちへ向かう。私はならまちは散策済みなので、国立奈良博物館の『正倉院展』が6時までなのでそちらへ行き、二人でゆっくり散策して近鉄奈良駅前で落ち合うという計画であったが、桜井駅についたのが4時半近くであった。最初から最後まで歩くペースは変えずスローペースのほうで、昼食以外に甘味処に入ってしまったのも、時間のかかった原因でもあるが、栗のアイスは大当たりであった。という事で、一日たっぷりの『山の辺の道』であった。

天理駅から石上(いそのかみ)神宮をめざす。先ずはアーケード街の長さに驚く。それから、帰りに電車から天理駅前のイルミネーションが見えた。そうである。帰りの天理はもう陽が落ち真っ暗であった。<石上神宮>は日本最古の神社である。ただここで注目は、その中にある古い建物である。男性がその建物の床下を覗いて回っている。柱の下は、新しいコンクリートが敷かれている。何を見られていたのか。私たちもその後覗くが解らない。この古い建物は、先に出てくる、内山永久寺跡の、内山永久寺にあった、拝殿を移築したもので、国宝<出雲建雄神社拝殿>であった。国宝と知ると、ほうーと感心する三人である。

内山永久寺跡はその前にある本堂池と萱の御所跡の碑(後醍醐天皇が吉野遷幸のおり立ち寄ったとされる)が往時を偲べる自然である。まだ紅葉には早いが、池に色づき始めた木々を映す。ここは桜の名所でもあるらしく、芭蕉が、<うち山や とざましらずの花さかり>、よその人はしらないであろうが、ここは素晴らしい桜だ、とよんでいる。よそ者も知ってしまった。

このあたりから、見つかれば歌碑も目にしていく。先導の友が、パンフレットで意味を読み上げてくれる。残りの二人の解釈に疑問を投げてのことである。<月待ちて 嶺こへけりと聞くままに あわれよふかき 初雁の声>  「月の美しいよる、男女が一夜を共にし、明けがた初雁の声を聴いたのよ。」「そんなこと全然書いてない。月の出を待ってあの嶺をこえてきたんだな、この夜更けに初雁の声がしていると書いてある。」「万葉だとそんな味気ない歌じゃないんだけどなあ。」「山でさえ、恋の争いをするのにね。」それ以降、二人は歌の解釈は御法度である。

夜都伎(やとぎ)神社を過ぎると、<せんぎりや>と看板のある無人の無料休憩所&販売所。有料の飲料水、果物などもある。お茶の用意もあって、なんかお遍路さんになった気分。インスタントコーヒーを頂きつつ、新鮮な野菜や果物に嘆息。柿が大好きな友は、悔しがる。途中で食べれるからと小粒のみかんを買う。軽いからと、カラカラに干した切干大根、カリンのチップ、小豆、などをそれぞれ購入。裏では、年配の女性のかたが、柿を剥いて干し柿を作られている。友はさっそく、ここの干し柿は何月頃ですかと尋ねる。「12月です。」

紅葉はまだだが、柿の葉は赤く美しい。この辺りからが無人販売所があれば、全て覗いていく。もう一人はあまい<万願寺とうがらし>を探していて探しあてることが出来た。真っ赤な唐辛子は、飾って置きたいような赤である。リュックの空がなくて幸いかもしれない。大きければ買い出しスタイルの名演技賞となったであろう。稲刈りあとには、小さな稲ボッチが並び、木には蜜柑と柿。秋の里山満喫である。道は竹之内・萱生(かよう)環濠集落へと続く。環濠(かんごう)集落とは、南北朝の乱世のころ、自分たちの暮らしを守るため村の周囲に濠を張り巡らし自衛した集落である。

萱生集落で、柿だけ売っている家があった。その家のかたが、みかんと柿を作っていたが、今は柿だけで、この柿は特別甘いと言われ試食させてくれた。本当に甘かった。ついに柿好きの友は陥落である。そのご主人が、この山の辺の道について教えて下さった。講演会があってそこで聞いてきたのだそうである。どしてこの辺りに古墳が多いのか。古墳を造るために道が必要である。石材などもそうであるが、大きな古墳には、多くの人々が係っていたわけで、その人たちの食糧を運ぶためにも道は必要だったわけである。その道が『山の辺の道』なのだそうである。そしてこの道が出来たことによって、この辺りに沢山の古墳が作られることになったというわけである。この萱生集落のそばにも西山塚古墳がある。この先には大小様々の古墳があるから、眺めて行きなさいと教えてくださる。古いお家なので、何年位立つのですかとお尋ねすると、自分が生まれた時に建てたから80年ということである。80歳になられても、好奇心をもたれ、美味しい柿を丹精込められて作られているのである。この柿が萱生の刀根早生(とねわせ)である。

「つまらぬことを話しました。」「いえいえ大変参考になりました。有難うございます。ご馳走さまでした。」

労役という税金もあったわけであるからと、<労役>を調べたら、奈良の高取町には土佐の名前が残っていて、四国の土佐から労役で渡って来た人々の町とある。そうか、労役は、都近くの人々だけではなく、遠方の人々も都に 来ていたのである。教科書で習ったときの実感がいかに薄いかがわかる。そして、この辺りから、柿本人麻呂の歌が多くなる。

奈良の柳生街道(3)

2日目。滝坂の道コースである。この道は石仏を見て歩くコースである。どんな現れ方をしてくれるのかワクワクである。先ずは1日目見ることの出来なかった<円成寺>からである。思っていた以上に心地よい迎え方をしてくれる。楼門(ろうもん)と本堂を映す庭の池が、これは紅葉の頃はたまらない美しさであろうと溜息が出る。さぞ混雑するであろうと思うが、お寺の方の話しだと、駐車場がバス2台しか入らないそうである。ここは、バスの便を考えるとどうしても避けてしまい、先に他をと思ってしまう場所である。

 

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円城寺>には、 運慶の最初の作品ではないかと言われる、若き運慶作の国宝大日如来像がある。後白河法皇によって寄進されたという多宝塔(現在は三代目)に安置されていて、保護のためにガラス張りである。光の加減から、ガラスに顔を近づけ両手で光をさえぎって観るとよい。写真でしかはっきりと観れないが、均整のとれた姿で、頬がふっくらとしていて、髪の毛一本一本がわかるような彫り方である。

他の女性お二人は、神奈川の金沢八景から来られていて、金沢文庫にこの仏像がきたとき、間近から拝観されたそうである。うらやましい。このお二人から、急に滝坂の道を私たちもこれから行きたいと言われたのであるが、私たちは初めての道で、昨日も道に迷っているので、申し訳ないがご一緒出来ないとお断りする。本堂の阿弥陀如来坐像、可愛らしくて聡明な聖徳太子立像、四天王立像などを拝観し、1時間ほどここで時間を取り出発である。

さっそく石畳の道となり東海道の箱根を思い出す。迷うことなく順調に進む。広い道路から集落に出て、峠の茶屋があるが、茶屋は閉められていた。これからいよいよ石仏群の道に入るかなと思ったら、左手に無理をしないようにと言われた道の入り口にさしかかる。そこで後ろからこられた夫婦連れのかたに挨拶すると、お二人は左の道を進むという。何回か来ていてその道を歩いているということなので、同道を申し入れる。快諾してくださる。やはりアップダウンの道である。

地獄谷石窟仏>を観ることができた。以前は無かったというが、やはり保護のため柵などがあるが、石仏絵には彩色が残っている。途中ご主人が、以前来た時と道の様子が違うからと先に様子を見にいかれる。やはり初めての同道者がいるので気を使ってくださる。大丈夫のようである。盛り土されたような細い道もあり、山道である。お蔭さまで基本の柳生の道に辿りつき、<首切り地蔵>の前にでる。

 

 

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首切り地蔵>は首に亀裂が入っていて、これは石質が軟弱だからなのであるが、荒木又右衛門の試し切りとも言われている。それにしても、お地蔵様の首を試し切りとは、荒木又右衛門も剣豪ゆえの迷惑な言われ方である。荒木又右衛門も、新陰流である。そういえば、武蔵も荒木又右衛門も、12月の歌舞伎座と国立劇場の演目に関係してくる。12月の国立劇場『伊賀越道中双六』はかなり複雑な話となるようで、あぜくら会の集いで、吉右衛門さんをゲストに解説とトークショーがあった。三大仇討ちの一つ<伊賀上野の仇討ち>を題材にしている。12月は仇討ちの月のようである。

 

 

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今はこの<首切り地蔵>の場所は休憩所があり、ここで持参の昼食をとることにする。春日山の原生林の中であるが、何本か道があり、休憩所もあるため、人の通りが一番多い。食事後、ご夫婦がこのまま進みますがといわれ、再び同道させてもらう。川の流れを交叉しつつ歩き、滝坂道弥勒三尊磨崖仏(たきさかみろくさんぞんまがいぶつ)・朝日観音滝坂道弥勒立像磨崖仏(たきさかみちみろくりゅうぞうまがいぶつ)・夕日観音に逢うことができた。木々の間から朝日を浴びることから<朝日観音>、夕日に映えることから<夕日観音>と呼ばれている。

 

朝日観音

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磨崖仏

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この道を通った修験僧は何を思ってこの石仏を彫ったのであろうか。六道のどの道の煩悩に苦しんでいたのであろうか。そして、剣豪たちは、何を思いつつこの石仏の道を歩き、柳生を目指したのであろうか。石仏のその剥落のみが知っている柳生の道である。

時々振り返りつつ、柳生の石畳みの道との別れを惜しむ。

 

 

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そして、春日大社の若宮神社のそばでご夫婦とお別れする。お二人のお蔭で、2日目はスムーズに滞りなく、柳生街道を愛でることができた。そして、二人では無理と思っていた<地獄谷石窟仏>への道も歩くことができた。途中で、新薬師寺に行くならこちらですよと言われたのであるが、友人にはまたの機会にささやきの小道から志賀直哉旧宅、新薬師寺、百毫寺、ならまち、元興寺のコースを別枠で回ってもらいたと考え、春日大社、東大寺の方を勧める。

そして、二人は、次の道をお互いに想い描いていて、帰ってからすぐ、その計画は迅速に進んでいる。

 

奈良の柳生街道 (2)

柳生の里までたどり着くまで、幾つかの<六地蔵>に出会う。<六地蔵>は、六体のお地蔵様が立っていたり、一つの石に彫られていたりする。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道を生命は輪廻しつつ生き変わることを現しているらしい。 <天乃立石神社><一刀石>の森から<芳徳寺>へ向かう。

芳徳寺>は、柳生宗巌石舟斎の屋敷跡で、柳生宗矩が父の菩提寺として、沢庵和尚が開基し、宗矩の末子列堂和尚が初代住職である。史料室に、沢庵和尚、列堂和尚、宗矩の像があり、石舟斎による「新陰流兵法目録」も展示されている。

 

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このお寺の裏に柳生一族のお墓があり、そのお墓の入口にも<六地蔵>の石碑がある。墓地で柳生十兵衛のお墓を探すが無い。十兵衛は三巌(みつよし)の名もあり、後になってそれを知り、友人とお互いに<柳生三巌>ならあったような気がするとメールし合う。字の読みづらい碑もあり、読めないと軽く素通りしたら、山岡荘八さんの文学碑であった。大河ドラマ、「春の坂道」の原作を書かれている。なんともいい加減な旅人である。<芳徳寺>への違う道で、この石段から上りたかったと思う風情のある石段が見つかるが下から眺めるのみ。下りながら<正木坂道場>へ。今でも使われている。外国の方も修業に来ているらしく、私たち不思議そうな目をしていたのであろうか。「私フランス人。合気道やってます。」と言われて道場に向かわれた。

やっと昼食。要望のお粥定食に。赤米と黒米の古代米のお粥に黒米の小さなお餅が二つ入っていて香ばしい。素朴な味である。旅の時など胃も疲れているので、胃に優しいのがいい。例のフランス人の修行者が入って来られ、いっときの息抜きであろうか。茶屋を出る時、「頑張って下さい。」と声をかけると、「頑張ります。」と言われ出口まで歩いてこられ見送ってくれた。さすがフランス人。それぞれの国の習慣の違いであろう。

史跡公園となっている<旧柳生藩陣屋跡>。柳生藩は将軍の剣道指南役で家康、秀忠、家光三代に信任も厚かったが、江戸定府大名で江戸常駐のため、城はなく城下町としての発展がなかった。それだけに、柳生の里という神秘的な意味合いを含むのである。

 

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石垣の立派な<家老屋敷>は、江戸後期の家老小山田主鈴(おやまだしゅれい)の屋敷である。米相場で柳生藩財政の立て直しに貢献している。この家老屋敷は、昭和39年に作家の山岡荘八さんが購入し、ここで『春の坂道』の構想を練ったそうで、大河ドラマの写真も展示してあった。その後、奈良市に寄贈され史料館として公開している。

 

 

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柳生の里も散策し終わり、暗くならない内に予定通り奈良ゆきのバスに乘ることができた。バスの本数が少ないため、混雑時期は、奈良まで立つ場合もあると旅行雑誌にあった。時々出逢う団体さんがバス停にいないので不思議に思っていたら、先にもう一箇所バス停があって、すでに乗られていた。二つ席は空いていたのでほっとする。1日目満足。

帰って来て、映画『宮本武蔵』(原作・吉川英治/監督・内田吐夢/主演・中村錦之助)を見返す。5本のうちの三部にあたる『二刀流開眼』から見始める。武蔵が柳生石舟斎を訪ねるのである。武蔵が柳生の庄を見下ろす場面があるが、私たちが行かなかった<十兵衛杉>のある場所からなら、柳生の里が見渡せる。<十兵衛杉>は十兵衛が諸国修業の旅に出る時に植えたとされ、落雷のため枯れ、今は二代目がその横に育っている。帰りのバス停から見えたが、そこまで上る元気はなかった。武蔵は石舟斎の切った花のしゃくやくの切り口から腕の凄さを知り、是非会いたいと思うが、会う事出来なかった。しかし、その門弟たちと斬り合うかたちとなり、そのとき二刀流に開眼するというものである。そのあと、吉岡清十郎(江原真二郎)との蓮台寺野の決闘がある。

石舟斎は、現芳徳寺の位置に住んでいたことになる。石舟斎は剣人とは誰とも合わず、藩主は江戸におり留守であると門人に伝えさせるが、なるほど宗矩はずーっと留守なわけである。藩陣屋敷へも武蔵は行くが、その時の見上げた石段は、現在残っている石段の雰囲気がある。同じ風景を当てはめたのであろう。石舟斎は薄田研二さんで、この役者さんは悪役も、こういう深見のある役もこなせる不思議な方である。沢庵和尚は三国連太郎さんである。『二刀流開眼』『一乗寺の決斗』『巌流島の決斗』『般若坂の決斗』『宮本武蔵』と気ままな順番で見直したが、面白かった。『一乗寺の決斗』のカラーでありながら決斗場面はモノクロというのが、素晴らしい効果であった。

柳生の里も、なぜか、<柳生と宮本武蔵>の旗がひらめいていた。

 

奈良の柳生街道(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)