神倉神社・道成寺・紀三井寺~阪和線~関西本線~伊賀上野(3)

昨年の旅では登れなかった<神倉神社>に登ることが出来た。美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮) で書いた明治大学での1月11日に行われた『第8回 熊野学フォーラム」にも参加した。<「がま蛙神」はなぜ熊野に出現したのか!> 山折哲夫さん、加賀見幸子さん、林雅彦さん、山本殖生(しげお)さんの4人の方が講演をされ、そのあと4人の方が自由に意見交換されたのであるが、なぜ<がま蛙神>なのかという結論は出なかった。カエルは顔や姿から好かれない面があるが、月には、うさぎではなくカエルが住んで居るというおとぎ話の残る国もあるらしい。

朝、小雨が降っていて、石段の滑るのが心配なので時間的ゆとりをとって予定より早く神社に向かった。三大社派は、本宮の熊野古道を歩くかどうかで時間配分が違うので、昨夜から別行動と決めていた。一度歩いているので道は解っているため今回も歩いて神倉神社下までスムーズに行ける。さて石段である。手すりがなく、不揃い石なので、ゆっくり慎重に登る。途中から石段の幅が広くなる。すると、カエルの綺麗な声が聞こえる。早朝で湿り気があり、石段と大きな<ゴトビキ岩>が反響効果を作ってくれているのか、私にとっては、<ゴトビキ岩>は俺様たちの守り神、ケロ、ケロ、ケロと聞こえる。自然界の調和した象徴のようにとれた。

 

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<神倉神社>に到達すると、眼下には、新宮の町があり、先には、熊野灘が霞んでいる。ここから、松明を持った人々が駆け降りる火祭りは、市内からは、火山が爆発したかのようにも見えるという。自然界の持つ威力を認識し、祈り鎮める。

<ゴトビキ岩>に静かな平和をと思いを込めて手を触れる。帰りの石段で、再びカエルの鳴き声で送ってくれた。神倉神社といえば、カエルしかない。

無事お詣りもでき、荷物を取りにもどり、次の目的地へ向かう。当地の新聞記事に、東くめさんの童謡『はとぽっぽ』が、4月からお昼のチャイムとしてながされるとあった。これで、歌碑の童謡もよみがえるわけである。三重県の亀山駅から和歌山駅までを紀勢本線、途中の新宮駅から和歌山駅までを<きのくに線>と愛称があるらしい。車中の路線案内に<きのくに線>とあり帰ってきてから調べたら、そういう事であった。頭の体操と考えればよいが、ややこしい。二つ名のある路線ということだ。ただあまりブツブツ切って欲しくない。ブツブツ。

電車からの海側の景色がいい。橋杭岩を眺めるのは三度目である。山もいいが、海もいい。山には桜の木が飛び飛びに満開で春の色を添えてくれる。旅の友が多いのも楽しいが、どういうわけか風景が残らないのである。目よりも、口と耳の活躍であるから。紀伊田辺駅前に武蔵坊弁慶の像があるというので降りる。

『義経記』に、熊野別当家の嫡子で幼名を鬼若といったと記述があることから、田辺が出生地とされているとのこと。紀伊田辺駅周辺は賑やかである。この辺りで、一日とってもいいのかもしれない。<まちナビ音声ガイド>なるものも、レンタルしているとある。

 

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田辺から南部(みなべ)、岩代、切目、印南(いなみ)、名田、上野、塩屋をへて日高川河口までを<清姫海岸>というとのこと。<道成寺>の『道成寺絵とき本』に載っていた。紀州路の最も風光明美な路線とある。清姫が裾乱し素足となり安珍を追った場所で、風光明美のなか、清姫の形相は次第に変っていったことになる。その場所であったかどうかは定かではないが、座席のない広い窓からしばし窓外の風景を楽しんだ箇所もあった。ただ、日高川を渡るところを注意していたのであるが、渡った所は想像していた日高川よりずっと細い川であった。

<道成寺>の宝仏殿で、<絵解き説法>を聞くことができた。時間が決まっているのですかとお聞きしたら、ご本尊を拝観したあとで始めますよとのこと。よかった。ここでどの位時間がかかるのかが心配だったのであるが、予定通り進めそうである。奈良時代の初代本尊千手観音菩薩は本堂におられ、平安時代の現本尊千手観音菩薩(国宝)は間近で拝観できる。明るいので、手に持たれている物の一つ一つがよくわかる。身の中心には両手で薬を持たれている。一番下の右手は、何も持たず優雅に優しく手を広げておられる。このお寺の説明をされ、自由に他の仏像もゆっくり拝観したころに声がかかり、別室で<絵解き説法>が始まる。

美しい修業僧・安珍が、熊野詣での途中で泊まった屋敷の娘に惚れられ、帰りに必ず寄ります。想いはその時にと約束するが、寄らずに帰ってしまったので、清姫は蛇に変身して日高川を渡り、安珍が逃げ込んだ道成寺では同情して鐘の中に隠れさせたが、蛇になった清姫は、鐘に巻き付き焼き殺してしまう。今も安珍塚と、鐘巻の跡が残っている。あの世で安珍は清姫と夫婦にされ蛇の姿で、道成寺の住職の夢枕に現れる。住職が弔って二人を邪道から解脱させ、目出度く二人は、天上界で結ばれるのである。説法として、妻を家の宝とすれば家も繁栄し、家庭は妻方極楽の浄土となるという教えである。

昔は、<絵解き説法>をするお寺が多々あったようであるが、今はこの、<道成寺>だけである。絵巻をくるくる回して、解かりやすく楽しい説法の一つの形である。

 

「道成寺絵とき本」

 

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串本・無量寺~紀勢本線~阪和線~関西本線~伊賀上野(2) 

2日目の朝、なばなの里派と別れる。

新宮駅で熊野三大社派は那智へと向かい、フリー孤独派は、串本の<無量寺>に向かうがその前の空き時間に<徐福公園>にダッシュ。

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<無量寺>を訪ねようと思ったのは、前回の熊野の旅の時、「佐藤春夫記念館」で手にしたチラシである。大きな虎の半身図の墨絵の横に<芦雪寺>とある。正確には<無量寺>でそこに<応挙芦雪館>があり、そこでこの虎図に会えるらしい。龍図もあり、筆は長沢芦雪である。チラシは虎の大きな顔の前に大きな爪を立てた前足があり目は獲物を狙う睨みがある。ところが、なぜかその顔は「何やってるのよ」と、頭をポンと叩きたくなるような雰囲気なのである。長沢芦雪も記憶にない名前である。いつか行けたらと思っていたら、早くに実現した。

串本は、本州の最南端であった。<無量寺>は紀勢本線串本駅から徒歩10分であるが、人に道を尋ねる。原画は収蔵庫に保管してあり、雨の日は見せてもらえない。雨が降りそうなので、先に収蔵庫の原画を見せてもらう。

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<無量寺>は、富士爆発の直前、南紀に大津波があり、この無量寺も流されてしまい、40年後に愚海和尚が本堂を再建し、友人である円山応挙に襖絵を頼む。多忙の応挙は自分の作品を持たせ、弟子の芦雪を代わりに行かせるのである。芦雪が本堂の中の間の左右のふすまに描いたのが、虎図と龍図である。龍図も龍の顔と爪を伸ばした大きな前足だけ描かれ、身体の部分は墨をふすまを立てて流し、激しい風を巻き起こしているような感じである。

絵葉書入れの龍と虎

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虎図の裏側に猫が何匹か描かれ、その一匹が池の魚を狙っているような、ちょっと脅かしてやろうかというような襖絵になっていて「薔薇図」としている。そう言われれば左上に薔薇が描かれている。しかし猫に目がいく。何か芦雪に遊ばれているような気がする。師匠である円山応挙の緻密な絵と比べると、明らかに長沢芦雪の絵には、応挙には無い枠を超えた自由さがある。

収蔵庫のあと、<応挙芦雪館>を見せてもらう。そこで芦雪を取り上げたテレビ番組のビデオを見ていると、虎図は、裏側の襖絵の魚を狙っていた猫を、魚側から見た図であると解説していた。<見た目>の手法である。<見た目>は岡本喜八監督の映画の撮り方でも出て来たので納得できた。たとえば、引き出しを開けるのを、引き出しの中から撮るという手法である。そうなのである。あの虎の構図は狙われたものから見たと思えば納得できるのである。

この館でもう一つ楽しませてもらったものがある。それは、熊谷守一さんからの前住職さんへの年賀はがきが展示されていたのである。

このあと本堂で、デジタル再生画の虎図龍図の襖絵を見せてもらうのである。良い状態で長く保存するために、色々なことを考慮しなくてはならない訳である。

芦雪さんは、南紀ではこの<無量寺>だけではなく、幾つかのお寺にも襖絵を描いている。南紀での画作は師匠の応挙さんの名代として、それでいながら芦雪さん自身の絵を見つける旅であったように思える。円山応挙さんの虎図『遊虎図』が、四国の金刀比羅宮で見れるが、芦雪さんのほうが面白さがある。

この芦雪さん司馬遼太郎さんの小説になっていた。『芦雪を殺す』。今回実際に芦雪さんの絵を見て、遊び心があり、これは苦しんで苦しんで到達したという絵ではなく、どこかゆとりがあり、才に任せるところがあると思えた。芦雪さんは、旅先の大阪で急死しており、殺されたという説もある。司馬さんは、小説で芦雪さんの死を手の込んだ形で死の原因を作っていて想像していない設定でそうくるのかと感心する。そして、最後は、芦雪の女房のつもりのお里の<見た目>で結んでいる。

<無量寺>のあと、串本駅から歩いて25分位の海に突き立つ<橋杭岩>(はしくいいわ)を見に行こうと思ったが、雨が降り始めたので止めて電車の中からの見学とした。新宮へもどるので、車中から2回見れたわけで良しとする。<橋杭岩>まで行けば新宮へは遅く着くから、こちらのことは気にせずそちらだけで夕食はどうぞと伝えておいたが、新宮駅に着くと、見慣れた人達が前を行く。どうやら那智から同じ電車だったようだ。那智の滝を下りたところで雨となったようで、なんとか雨を避けて歩けたようである。

食事をしつつ、次の日の雨の場合の予定を検討している。こちらは、神倉神社に行くために新宮までもどる予定にしたので、早朝に<神倉神社>に行き、<道成寺>に向かうこととし、そこで別れを告げる。

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なばなの里~紀勢本線~阪和線~関西本線~伊賀上野(1)

<なばなの里>のウインターイルミネーションを見に行きたいという希望があり、2年ほどたっての実現である。どうせなら、熊野の三大社も行きたいとの希望もあり、<なばなの里>まで派と熊野の三大社派と熊野からフリー派と八咫烏の足のごとく三本足となる。熊野からフリー派は三大社を拝観済みの私一人である。

<なばなの里>へは、JRか近鉄の長島駅そばからバスが出ている。<なばなの里>に関しては全て友人がセットしてくれ何も考える必要がなくおんぶである。ただ寒いであろうと思ったら20度で、夜はこういう時期は風が出て寒くなるのよと、用意周到な防寒グッズの出番を待ったが、出番がなかった。寒い方がイルミネーションは綺麗なのよねと強がり言っても、点灯されればなんのそのである。混み具合が解らないので入場券もコンビニで先に購入しておいてくれた。入場券プラス金券が付いていて、とにかくこの金券を使ってしまおうと、お土産派と飲食派に分れる。飲食のところは並んでいたので飲物と軽食をゲット。ところが、会場の中にはお洒落なレストランもあった。お花も咲いていないだろうし、寒空で点灯までどうすりゃいいのと案じていたが、予想外のプレゼントあり。

枝垂れ梅のコーナーがあり、これが見事。あんなに沢山の枝垂れ梅を見たのは初めてである。梅といえば可憐ではあるが、どこか淋しさがあるが、まとめて植えてあり、白、薄紅と垂れ下がっているのでほど良い華やかさである。この通路も通ろうと歩いているうち二周してしまった。

 

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そこを出ると暗くなってきて、河津桜が夜桜となってくる。伊豆まで行く必要がなかったと皆満足。人工池であろうか水辺にイルミネーションが点灯される。次は光の通路である。少し並ばされたがゆっくり進むので待たされる感覚がない。

 

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どうも、このあたりから、仲間は二つに分かれたようである。こちらが4人いるということは、あちらは3人だからまあ良いであろうとこちらのペースで進む。いよいよ今年バージョンの<ナイヤガラの滝>である。これまたひとサイクル終わると前の人は自然に後退してくれるので、問題なく一番前で観れる。こちらもひとサイクル終わると後退する。なかなかよく出来ていて楽しめた。下一面のブルーも美しい。

 

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階段を上がり上からもどうぞということらしい。眺めつつ進み階段を降りる。帰りの道は、来た時の隣の違う光の通路を通る。人の流れもスムーズで快適である。

 

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土日はそうはいかないのかもしれない。桜をライトアップで水に映す<鏡の桜>は紅葉の時もそうであるが、水底から手招きされているようで、サラッと見るのが良い。鏡の自分の顔と同じである。

もっと広くて、時間を持て余すと思ったが、飽きさせず楽しませてくれた。仲間たちが合流するまでゆっくりグラスを傾け、皆、金券も使い果たし、疲れも程々、満足の夜であった。この様子では、お花の時期も楽しませる工夫をしてくれそうである。

 

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伊豆大島 (三原山)

バスで移動中、<赤穂義士 間瀬久太夫次男定八の墓>という案内があった。赤穂義士切腹のあと、遺児が大島に遠島になっていて、定八は大島で病没している。

さらに、保元の乱で活躍して破れ伊豆大島に遠島になった<源為朝>関係の案内もあった。<源為朝コース>とした散策コースもあるようだ。源為朝は弓の名手で曲亭馬琴の『椿説弓張月』のモデルである。三島由紀夫さんが馬琴の原作をもとに歌舞伎の脚本にしている。この芝居観ているが、よく解らなかった。今度観る時はもう少し身近なものとなるかもしれない。

三原山は三原山口までバスで行き三原山頂上まで登る時間がなかった。ここで昼食で、昼食を希望をされない方もいて、その方は三原山の頂上まで登って来られたようだ。道はアスハルトになっているので時間さえあれば登れる。頂上のお鉢巡りをして2時間ほどあればよいであろう。途中まで歩いたが、溶岩の黒い塊りなどがあちらこちらにあり、山頂から溶岩の流れたところは山肌に黒い線となって残っている。火山国日本を改めて感じる。

山頂近くの三原神社は溶岩が丁度避けた感じで流れて被害に遭わなかったようである。この火口一周巡りのお鉢めぐりはしたいので次の予定に入れることとする。三原山口の展望台からは、元町港と元町の町並みが見え、富士山も見える。もう一つの展望台からは、三原山の内輪山が見える。そこで観光も終わり、岡田港へと向かったのである。

岡田港の観光案内でサイクル自転車のことを尋ねた。元町港から海に沿って、道路<サンセットパームライン>が走っていてこの道は自転車で走りたい道である。岡田港にはレンタルサイクルがなく、元町港に二軒あるとのこと。

次の時のために、三原山、波浮港、サイクリングの三つの行程を調べることにする。それも、岡田港と元町港との二つからの行程が必要である。高速ジェット船を使えば、天候次第で、明日行こうと思えば行けるのである。友人曰く。帰って来て資料がそばにあるうちに次の計画を立てるべし。その勢いで友人は、熊野の中辺路をあれよあれよという間に歩き終えたのである。

では伊豆大島第二弾の計画だけは立てることにする。

 

伊豆大島 (椿)

朝6時に岡田港に着き、路線バスで御神火温泉に向かい入浴、食事、休憩をとる。<御神火>というのは、火山を神聖化しての呼び方で三原山を指しているらしい。伊豆大島は火山の噴火でできた島なので、島誕生の神とも言える。そして活火山でありかなり若い元気な火山である。この御神火温泉も1986年の噴火のあとで見つかった温泉だそうで、この時は島民の方全員が島から一時離れたのである。2013年には台風による大雨のため、御神火温泉に近い元町地区が大きな被害をうけている。

今度は観光バスで、火山博物館へ。伊豆大島には、数多くの地震観察計器が設置されていた。前方の海の向こうには富士山が見え、風が冷たいが穏やかな風景であるが、この辺りも台風の爪痕が残っていた。そこから島を横切る形で椿の名所大島公園へと向かう。途中オオシマサクラと呼ばれる白い色の桜が見られた。葉の緑が、白の花を清楚に見せてくれる。大島公園の椿資料館で、思いもかけない椿の出会いがあった。

一つは、水天宮の神紋が椿ということである。水天宮は壇の浦での、安徳天皇、母の建礼門院、祖母の二位の尼を祀っている。御座所に咲いていた椿を見て、安徳天皇が元仕えていた玉江姫を思って歌を詠まれたのに由来して椿を神紋にしたとあった。子供にまつわる安産と子宝の神様としか認識がなかったが「平家物語」につながってしまった。

もう一つは、奈良東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)で使われる造花の椿が展示されていた。修二会は、二月堂の下にある閼伽井屋(あかいや)の井戸から水(香水)をくんで十一面観音に献上することから「お水取り」とも呼ばれている。今ちょうどその時期である。三月一日から十四日まで行われる法要で、「十一面悔過(じゅういちめんけか)」ともいわれ、本尊の十一面観音に、<天下泰平><五穀豊穣>らを祈り、人々に代わって懺悔の行をするのである。十一面観音の須弥壇の回りに飾られる一つに、椿の生木につけられる造花の椿があり、これが修二会の椿である。白と花弁と赤い花弁は紅花、「におい」と称する黄色い蕊(しべ)はクチナシで染められ、芯はタウラ(たら)の木を削って作られる。この芯が見れたのである。

「お水取り」というと、燃え盛る松明をもった童子が二月堂の欄干を火の粉を振りまいて走る姿が浮かぶし、中で行われていることは見れないのでそれだけが、外から見れる行の一部である。柳生へ一緒に行った友人にお水取りも一度機会があったら見ておくといいよと話したら、今回行くとのことで、参考の本などとともに、歌舞伎舞踊のDVD『達陀(だったん)』も貸したのである。今回『達陀』を見直したが、複雑な<お水取り>ことをよく捉えて創作されたと改めて驚嘆した。二世松緑さんが構想創作した舞踏である。そんなこともあり、思いがけないというか、縁あるとでもいうか、修二会の椿との出会いであった。

もちろん伊豆大島の椿も美しかった。オオシマサクラの白色が赤系の椿を見下ろしている。温室も椿が満開で、種類も多く、<源氏>という名前だけは記憶にある。<侘助>は見なかったなあ。

伊豆大島 (夜景・夕景)

伊豆大島に行って来た。<伊豆大島復興応援ツアー>の案内を目にして、椿の大島は一度は行かなくてはと思ったのである。友人を誘ったところ都合が悪く、さらに友人は伊豆大島マラソンがあるとの情報を得て、今回は受付が終わったので来年は是非参加するとのことである。そういうことであるならと、こちらは、大島の地図やパンフレットなどを調達してくる。

ツアーの行程は、夜22時に竹芝桟橋を発ち、翌朝伊豆大島の元町港かまたは岡田港に6時に着き、温泉に入り休憩をとり、バスで→火山博物館→大島公園→三原山山頂口→元町港か岡田港から14時30分発ち竹芝桟橋19時45分着である。

大島へは高速ジェット船もあって1時間45分で着いてしまうのであるが、フリーととなるとバスの移動時間なども調べなくてはならないので、兎に角一度行って観る事にする。

竹芝桟橋などはあそこらあたりであろうとの感覚しかなかったが、JR浜松町駅から歩いて10分もかからない。旧芝離宮公園の前を通って信号渡ればすぐである。熱海に行った時に、初島に渡り、大島は東京からは遠い感覚であったが、船の乗り場が解ればどうということもなかったのである。竹芝桟橋からレインボーブリッジが見え、乗船が楽しみになった。

期待した通り、夜遅いので静かに出港するが、周りのビルの灯りや東京タワーの灯りを眺めつつレインボーブリッジの下を潜って行く。デッキは寒さのためもあって人はまばらである。この船は横浜港にも寄るのである。船の案内で聞いたところ、週末は横浜に行きと帰り寄るのだそうで、横浜港着23時20分ころである。23時過ぎに再びデッキに出る。今度は、横浜ベイブリッジである。長くて、巨大な柱である。レンガ倉庫群もボンヤリとした灯りを受けて見えてくる。

桟橋にどう横付けされるのか下を見ていると、船が傷つかない様に大きなスポンジのようなものが岸壁に張られていて、船体はそこにぶつかっては跳ね返されている。帰りは明るいうちに大島の岡田港を離れ、途中富士山の左横に太陽が沈み、横浜港では再び夜景の世界で18時ということもあって、横浜大さん橋で座って船の出入りを眺めている人も結構いる。富士山がレンガ倉庫と倉庫の間からぼんやりと顔を出している。竹芝桟橋に近ずくころは、某テレビ局のビルが色鮮やかに目まぐるしくライトアップしている。夜遅く静かに出港した船もまだ時間が早いので堂々と到着である。

途中の長い乗船時間中は、静かに読書も出来、満足の船の往復であった。たとえば、鎌倉辺りを散策して、横浜港から竹芝桟橋までの船旅を組み込むのも一計である。

大島といえば波浮港と思って居たら、客船の行き来は元町港と岡田港で、その日の海の様子によってどちらの港を使うかが決まるらしい。前日は強風のため出航停止で、大島に着いた日は富士山も見えこんなに良く見える日は少ないとのこと。

今回は、三原山から北側の観光で、南にあたる波浮港の方までは行かないのである。大まかな大島の観光地形は把握出来た。

 

美・畏怖・祈りの熊野古道 (発心門王子から補陀洛山寺)

<発心門王子><水呑王子><伏拝王子>(休憩所あり)<三軒茶屋跡>(休憩所閉鎖)<祓殿王子><熊野本宮大社><大斎原>コースは、半日コースとして時間配分を考えた。新宮にもどって那智の補陀洛山寺も行っておきたかったのである。

バスは、鳥居のある<発心門王子>(ほっしんもん)の場所で停まる。空から雪が舞ってきた。暗い空ではないので、途中で止むであろうが、少し急ぐこととする。<発心門王子>は、格式が高く本宮への入口で、仏道に入り修業によって悟りを得たいという志を起こすことを現しての発心らしいが、悟れるほどの者ではなし、熊野に癒されるほど大層な生き方もしていない。これからも迷いと疑問の先行きである。今年の初めには考えもしなかった熊野に12月に来れたことを感謝して手を合わす。

空を見上げると軽い雪がふわふわと遊んで降りてくる。この美しさも違う形となれば畏怖の対象となる。風がないので傘をさし、雪を避ける。雨と違い濡れ方は少ない。運転手さんのアドバイスを頭に、地図を確かめつつ、バス停、道の駅奥熊野で右の登り坂を登る。<水呑王子>(みずのみ)と刻まれた碑の隣には腰痛のお地蔵様がある。名もなき赤い前垂れをつけた小さなお地蔵さんは菰を被せてもらい可愛らしい。傘地蔵のように、菰を被せた人にお礼には行かなかったようである。じーっと気持ち良い温かさに浸っているようである。果無山脈の案内板があり、その先には現実の山脈が連なっている。

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<伏拝王子>(ふしおがみ)。現在の<熊野本宮大社>は移転していて、もとの本宮跡を、<大斎原>(おおゆのはら)と言い、その<大斎原>をここから伏し拝んだという場所である。残念ながら、木々が育ち<大斎原>は見えなかった。石の小祠の隣にあるのが和泉式部の供養塔である。立ち木に彼女の歌が掲げられている。「晴れやらぬ身の浮き雲のたなびきて 月の障りとなるぞかなしき」。高野山と違い女性も受け入れたため、「蟻の熊野詣で」といわれたほど参詣者が多かったのである。ここには、無料休憩所もある。お手伝いの地元のかたであろうか、温泉談義をしていた。ここで、早めの持参の昼食とする。一息ついて、再び歩き始める。急なアップダウンもないので気持ちよく歩ける。

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閉鎖している<三軒茶屋跡>を通り過ぎると<九鬼ケ口関所跡>がある。その関所門をくぐり進んでいくと展望台があったらしいがどんどん進んで、団地のような家なみを過ぎどうやら終点に近そうである。<祓度王子>(はらいど)の石の小祠がある。ここは本宮のすぐそばであるが、かつてはもう少し先に本宮があったので、今は移転のためお隣さんになってしまった。参詣人はここで禊ぎ(みそぎ)とお祓いをして身を清めたことに由来するらしい。

そしていよいよ<熊野本宮大社>となるのである。こちらは速玉、那智大社と違い、朱塗りではなく、白木である。白木に檜皮葺(ひわだぶき)がおごそかである。大社に関する神々はそれぞれで調べて頂きたい。浄土のこと、本持仏のことなども含め、観光程度以下の知識でこんがらがっている。

熊野本宮大社・絵葉書より

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<おがたまの木>があり、漢字で<招魂><招霊><小賀玉>等と書き、モクレン科で花は芳香があり、神木、霊木として神聖視され、神楽舞の鈴はこの木の実を象ったものなんだそうだ。

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<たらようの木>は、漢字で<多羅葉>と書き、葉の裏に古くから針で経文や手紙を書き、「葉書」の語源だとされている。<たらようの木>の下に、八咫烏(やたからす)の乗った黒いポストがあり<八咫ポスト>と名付けられている。このポストに投函すると八咫烏の消印で配達されるそうで、知っていれば投函したのだが。誰宛に。もちろん自分宛に。

「平家物語」に関連することもあるがとりあえず、先を急いで<大斎原>へ。本宮まで乗せてもらった運転手さんも、歩いて10分位ですから帰りには是非といわれたのである。大きな鳥居がもともとはここですと存在感を示している。山々と霞に包まれた鳥居の絵葉書を買う。あの大きな鳥居が玩具みたいである。もしかして、展望台から写したのであろうか。う~ん、心残りがまた一つ。大斎原は熊野川と音無川に挟まれた砂洲に建っていたのである。江戸時代の後期の絵図によると、社殿はこの時も朱塗りではない。鳥居をくぐる時、両脇が川なら、海、山、川と熊野三山に対する想像力ももっと膨らむ。この土地の人達は、自然が崩れてもかつての形を心のどこかに据えている。明治時代の洪水で大社の多くを失ったのである。

新宮にもどり、バスで那智へ。駅前の国道を渡ってすぐのところに<補陀洛山寺>はある。左手に補陀落渡海の船が置かれている。住職さんとお話しすることが出来た。自然崇拝の信仰から始まって、山伏としての修業を積んでいたわけで、今の信仰とは違う形であったと言われる。それは、今回ほんのわずか熊野を回って自然ということを強く感じたのでわかる。住職さんは、文献に渡海を試みた人の気持ちなどは残っていないので、はっきりとこうであるということを控えられておられる。こうであろうとしか言えないのである。中世で世の中が混沌としている時代、自分が浄土へたどりつき成仏する事のみが目的ではなく、人々の願いを浄土に伝えようとしたのではないかとの考えかたも示される。

この浄土への補陀落渡海から逃れようとして無理矢理入水させられた渡海僧金光坊の伝説もある。金光坊は近世の人で、近世に入ると世の中も変わり、信仰の形も変わり、人の思いも違って来たであろう。そして、修業の形態も変化していったであろう。この金光坊のことがあってから、生きながら渡海する慣習はなくなり、亡くなった当時の住職さんを補陀落渡海の形で水葬にしたようである。

そして、本尊三貌十一面千手観世音菩薩を拝見させていただく。ふくよかで、沢山迷い考え、ぶつかりなさいと受け止められたように思った。最後は、自分の都合の良いように受け取った形となったが、そう思わせて下さる観音菩薩であった。

補陀洛山寺と本尊三貌十一面千手観世音菩薩・ 絵葉書より

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那智駅の後ろが那智湾で、熊野灘に続いている。その場所より、新宮に向かう車窓から少しだけ姿を見せた熊野灘が美しかった。その先に何かがありそうな海である。

新宮に着き、駅前の寿し店で、さんまの姿寿しを食べることが出来た。めばり寿しは売れ切れであった。そのお店で新宮には、老舗のお菓子屋さんが多く、京都からも修業に来ると言う和菓子屋さんの話しを聞き、そのお店を教えてもらう。

熊野ともお別れである。あれっ、何か忘れている。駅で荷物をまとめたとき、和菓子を忘れたようだ。超特急でもどり、無事和菓子を手に発車である。この和菓子が美味しかった。車中で3コも食べてしまったが、甘さが柔らかい。

熊野について書き残していることは、まだまだあるが、今年の最後とする。

今年の最後は、2011年の東日本大震災で東京公演を断念され観れなかった仲代達矢さんの『炎の人』の能登公演をDVDにしてくれたので、それを観て年越しとする予定である。

二回目の熊野の旅は ↓ こちらから

2015年3月21日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮から発心門王子まで)

次の行程は、バスで新宮から本宮大社に向かい、乗り換えて<発心門王子>まで行き、そこから歩いて<熊野本宮大社>に戻るというコースである。<発心門王子>から<熊野本宮大社>間は中辺路の初心者コースである。友人の体験から私でも大丈夫と言われているので楽しみな熊野古道歩きである。

新宮から大和八木駅行きのバスに乘る。奈良に行ったとき友人が見つけた、日本で一番長い路線バスである。6時間30分ほどかかる、<新宮>から<本宮>へはこの路線バスの一部の約1時間半のバス旅である。これが予想外の収穫であった。自然について改めて考えさせられ、歌舞伎の舞台にも遭遇したのである。

乗客は一人であり、「右側座席のほうが景色がいいですよ。」と言われ、その言葉に、運転手さんのすぐ後ろの席に移動し、運転に差しさわりのならない程度を考え、お話をお聞きする。右手の山の上に赤い建物の一部が見えたので、尋ねると<神倉神社>とのこと。やはり高い所にある。昨日、80段で止めた話をすると、「それは残念でした。」と言われる。その後色々調べても今でも残念な思いは残るが、無事この旅を終れたことを良とする。

この路線バスに乘るためだけに、九州から来た人もいたという。大和から熊野というのにも魅力がある。右手下は熊野川である。左手は山肌である。川に沿って道はずーっと作られている。本当に山に抱かれて川と道があるという感じである。時々、少し山側が広くなり、左右に家屋が見られる。災害のため、ここは住んで居ないという。美しい山や川なのに、それが暴れ畏怖となる。川底も土砂のため上がってしまい、以前はもっと下に川が見えたそうである。

左に見えた滝は、災害で姿を現した滝だそうである。「何百年かしたら、この滝もまた見えなくなるでしょう。」と言われ、その言葉に一瞬時間が止る。そういうふうに思うのか。自然は再び自然に返すのである。この滝も再び木々に覆われ人間の目から消えるのである。そして、姿をみせていない滝がまだまだあって、美しい姿を見せた時には、私たちに何かを伝えようとしているのである。その言葉をどれだけ深く静かに聞こうとしているであろうか。

ビル風があるように、山々に囲まれた空気の流れや水の流れは様々な様相を呈する。そうした自然の中で修業した修験道の山伏の人々は、山を越える間に空気の流れの違いを感じていたであろう。自然のそうした動きに対し、祈りというのは、封じ込めの意味もあったであろう。古代から自然を信仰の対象としていたのは、その自然の持つ力の封じ込めの祈りであったような気がする。

バスは温泉郷へと入っていく。<川湯温泉><渡瀬温泉>。そして、どこかで見たような情景である。「これが、小栗判官が入ったといわれる温泉です。」旅行雑誌で見ていた「つぼ湯」である。しかし、別の経路で行かなければならないと思い調べもしなかったが、このバスがここを通るのかと、思いがけない歌舞伎舞台との出会いである。熊野の<湯の峰温泉>である。ここには、照手姫が小栗判官を乗せて引いた車を埋めた車塚や、元気になったのを試して持ち上げた力石もあるらしい。小栗判官と照手姫の墓所は藤沢の遊行寺にある。東海道 戸塚から藤沢 (2)

思いがけない嬉しい場所を通り過ぎ、バスは目的地<本宮大社前>である。そこから、発心王子まで行くことを話たので、「この同じバス停で待ち、本宮に戻って新宮へ行きのバスは向うに停留場がありますからね。」と教えてくれる。運行バス会社が幾つかに分かれているのであるが、旅人にとっては大助かりである。バスの便の少ない分を、補うようなその親切が嬉しい。

<発心門王子>行きの運転手さんも、このバスに乗る人は歩く人と知っているので簡略に、本宮までの、トイレ、休憩場所などを説明してくれた。<本宮>から<発心門王子>までは、バスで15分ほどである。新宮では、晴れていたのに、<発心門王子>に着くと雪がパラついていた。

つづき→  美・畏怖・祈りの熊野古道 (発心門王子から補陀洛山寺) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮)

那智から無事<新宮>行きのバスに乘れる。バスは、新宮ー那智ー紀伊勝浦は、9時から18時台は、30分おきにある。新宮市街に入り<権現前>とアナウンスがある。新宮駅まで行くつもりでいたが「すいません。<権現前>は速玉大社に近いですか。」「近いです。」ボタンを押す。降りる時「後ろですから。」と一言伝えてくれるのが有難い。「有難うございます。」時間的ロスが減った。ただこの手前に<神倉神社>に近い停留所もあったのである。予定では、荷物を預けてから新宮散策と思っていたので駅に行くことのみ考えていた。友人達には、バスを使う場合の参考コース<神倉神社><速玉大社>として教えることとする。

<新宮>の名は、神倉山に祀られたていた神々を新たな社殿である速玉大社にうつしたことから、地名が<新宮>と呼ばれるようになったともいわれている。<熊野速玉大社>も、朱色の美しい社殿である。

 

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御神木ナギ

 

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熊野御幸の回数

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ここの神宝館に多くの関連宝物があるようだが、時間がないので境内の中にある<佐藤春夫記念館>へ。佐藤春夫さんと高校の同級生である宮司さんが、東京の春夫宅をここに移したのである。二階に上がる階段が二つあって、細い吹き出しの階段は、窓に雨が直接あたるためそれを避けるためにサンルームをあとで付け足したのだそうでそれがかえってモダンな内部構成となっている。二階の角には、狭い六角形の空間があり、そこを書斎としても使っていたらしい。狭いが過ごしやすい空間で、横に成ったり、起きて書いたりしていた姿が想像できる。文机の前に座るが、前の3か所に窓があり、狭いのに圧迫感がない。

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没後50年の企画展は「佐藤春夫と憧憬の地 中国・台湾」である。これはお手上げであった。中国の文学作品の名前はもう記憶から薄れている。魯迅は数作品読んだくらいで、佐藤春夫さんの中国系の作品も読んでいないので、展示物を見ててもよく解らないのである。ただ、関係者のかたが、資料をきちんと検証されておられるのはわかる。そして、佐藤春夫さんが、行動の作家でもあたのだということは、認識できた。記念館だよりに、映画監督大林宣彦監督の講演会が行われたことが載っていて、佐藤春夫さんの『わんぱく時代』を大林信彦監督が映画『野ゆき山ゆき海べゆき』の映画にしたことを知る。これは興味がある。

中学時代には、与謝野寛さんらの文学講演会の前座で「偽らざる告白」と題して談話し、それが問題となり、無期停学となっている。

新宮には、大逆事件の犠牲となった人々もいて、その一人大石誠之助さんは、佐藤春夫さんの父と同じ医者で父の友人でもあり、それに関連する詩も書いている。駅の近くには、大逆事件犠牲者顕彰碑もある。その他、文学者では中上健次さんの生まれた土地でもある。<佐藤春夫記念館>で、中上健次さんの連続講座の冊子を購入してきたが、超難解でこちらもお手上げ。熊野出身ならではの作家とされている。駅前には、滝廉太郎とコンビを組んで童謡を作詞した東くめさんの「はとぽっぽ」の歌碑がある。

 

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与謝野寛・晶子夫妻らとともに、東京神田に「文京学院」を創立した、西村伊作さん設計の自宅が<西村記念館>となっている。この場所を、観光案内所で尋ねたら、近いのであるが、係りのかたが地図をもって、外まで出て説明して下さった。熊野のかたがたは、はっきりしていることは、きちんと説明されるように思う。観光案内で外まで出て説明されたのはまれなことである。<西村記念館>は、もう少しで修理のため閉館するそうである。年配の係りのかたがそのために、絵などがほとんで片づけられて無いことを申し訳ないと言われる。しかし、建物、家具のモダンなシンプルさは解かるのである。西村伊作さんの弟が、佐藤春夫宅の設計者である。

その他、<浮島の森><徐福公園><阿須賀神社><歴史民俗資料館>などもあるが、位置は判ったが行けなかった。上田秋成の『雨月物語』の<蛇性の淫>の舞台は新宮である。

最後に、<神倉神社>に向かう。ところが、時間が食い込み暮れ始めている。古い石段を80段位登ったところで、男性が降りてくる。「まだかなりありますか」と尋ねるとまだまだと言われる。「止めたほうがいいでしょうか」「止めた方がいい」とのこと。帰りが暗くなっては、この石段では足元が悪い。諦めることにする。あまり重要視していなかったが、調べたら538段あって、この神社を寄進したのが頼朝である。この神倉山は熊野速玉大社の神降臨の神域とされている。修験者の行場としても栄えたところである。頂上にある、ゴトビキ(方言で蛙)岩が御神体で古代から霊域とされいる。那智の火祭りが有名であるが、ここでも、2月に火祭りがある。

 

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東京の明治大学で来年1月11日に『第8回 熊野学フォーラム」というのがあって、テーマが<「がま蛙神」はなぜ熊野に出現したか!>である。熊野のどこかでチラシをゲットしたのであるが、神倉神社に注目しなければ気にもかけなかったかもしれない。それにしても、ゴトビキ岩を見れなかったのが残念である。

歌舞伎などでも蛙が出てくる。確か『児雷也』などは、ガマ蛙の上に立って巻物咥えて例の忍術のスタイルだったような。『天竺徳兵衛』にも出てくる。蛙には神がかった怪しい力があるのもこういうことと繋がるのかもしれない。

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美・畏怖・祈りの熊野古道 (那智山)

計画しながら、行くまでの日々に疲労が堆積し、こうなったら定期観光バスで熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を制覇としようと考える。定期観光バス会社に電話し、予約のことなど尋ねる。この対応の方が適切にアドバイスをしてくれ、とても気持ちが良く元気をもらえた。そういうことは信じないのであるが、熊野パワーがきたのであろうか。熊野に行っても感じたことであるが、熊野の方々は、不便なだけにその情報の伝え方が意を得ている。最初から計画を練り直す。練り直し始めると、友人のアドバイスなども加味され、はまって短時間でまとまる。

一日目午前を那智山にして、午後を新宮にする。二日目中辺路の<発心門王子から本宮>とし新宮にもどる。これで三宮に行けて初めての熊野三山としてはベストである。実際に歩くうちにこのベストが、ベストとは異なる、自然の美しさ、怖さ、神々しさ、その中で暮らす人々が旅人を自然に受け入れるてくれる大きさに包まれたのである。

新宮から電車で、那智へ。那智駅に日本サッカーの始祖<中村覚之助顕彰碑>がある。日本サッカー協会のシンボルマーク<八咫烏(やたがらす)>は、中村覚之助さんが、那智の出身で、熊野那智大社の八咫烏からの発想である。

 

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那智駅から那智山行のバスで、10分ほどの<大門坂>で下車。勝浦、那智からの那智山行きのバスは一時間に一本である。友人は、那智駅から歩いて那智山への熊野古道を行く予定であるが、歩くと<大門坂>までが、1時間半かかるようなので、そこをバスにして、熊野古道の大門坂から那智山に向かって登る。若者たちは車で<大門坂>手前の<大門坂駐車場前>の駐車場に車を置き、大門坂、那智山、那智の滝と歩き、帰りは<那智の滝前>から駐車場までバスで降りるコースをとるようである。観光バスであると、大門坂から苔むした古道を眺めるだけということになる。

バスの運転手さんが、大門坂口を少し通り過ぎたところに停留所あるので、「ここから登りますからね」と事前に知らせてくれる。すぐ歩き始める人にとっては心強い。すこしもどって<大門坂>の大きな石碑から始める。和歌山には、南方熊楠(みなかたくまぐす)さんという菌類の研究をされた方がいて、その熊方さんが研究のため三年間滞在したという大坂屋旅館跡がこの大門坂入口のそばにあった。劇団民芸で『熊楠の家』(作・小幡欣治/演出・観世栄夫)を上演したことがあり、南方熊楠役が今年8月に亡くなられた米倉斉加年さんであった。(合掌) 昭和天皇に熊楠の採集した粘菌の標本献上と説明をするとき、貧しさのため標本箱がキャラメルの大箱であった。周囲は当惑したが、なんの差しさわりも無く、むしろ熊楠の研究者としての生き方に、昭和天皇が心動かされたという話しが盛り込まれている。再上演されてもいい舞台である。大門坂で熊楠さんに出会えたのも嬉しい。

 

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熊野古道は、まず大門坂から始めることとなった。俗界と霊界の境目の橋・振ケ瀬橋を渡ると夫婦杉がそびえ、熊野参詣道中辺路にある最後の<多富気王子(たふきおうじ)跡>の石碑がある。江戸時代には社殿があったらしいが、明治になって、現熊野大社境内に移されたある。杉に囲まれて苔むした石段をゆっくりと登って行く。坂を登りきると那智山でそこから熊野那智大社、那智山青岸渡寺へと向かうのである。登り切ったところに、<清明橋の石>というのがあり、花山天皇にお供した安倍清明が庵を結びその近くにあった橋の石らしい。駐車場が出来、橋はなくなり、石だけ少し移動して残したらしい。途中に<実方院跡>として、上皇や法皇の御宿所跡があり、さらに進み右手奥に広場が見えたので進んでいくと、那智の滝が見えた。那智の滝を見るとやはり来たという想いがつのる。

 

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熊野那智大社は、そもそも那智の滝を神として崇めていたところに、仁徳天皇の時代、社殿を作られたとされている。大変美しく立派な熊野那智大社をお参りし、宝物殿へ。徳川吉宗と水野忠幹が奉納したそれぞれの、銘刀・助宗が展示してあった。中世には、大社の主神・夫須美大神と千手観音と同体であると考えられていたとあり、これは興味深いことである。西行、実朝、後白河院らの古歌もあり、それぞれの深い思いが残されている。那智山青岸渡寺、そして、三重塔那智の滝の見える位置へ。

 

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那智山青岸渡寺は、仁徳天皇時代、インドから漂着した裸形上人が那智の滝で修業しているときに、滝壺で観音像を見つけ、庵にこの像を安置したのが始まりとされている。本堂は織田信長の焼き討ちにあい、豊臣秀吉によって再建されている。そこから下って那智の滝へとむかう。バスを<那智の滝前>で降りて那智山を回り、大門坂に降りて来ようと思ったが、そうするとこの下りを登ることとなるので、大門坂出発のコースにした。

那智の滝<飛龍権現>と呼ばれ、那智の海岸に着いた神武天皇が、滝を発見して滝を神として祭り、霊長の<八咫烏>に導かれ大和に入ったと言われる。ここに<八咫烏>がでてくるのである。そして、この地では<八咫烏>と何回もお逢いするのである。出羽三山から熊野と今年は大活躍をしていただいた。 慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡

 

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ずっとずっ昔の彼方から静かに美しい姿と飛瀑音を轟かせていた那智の滝は、その裾もに虹を作っていた。緑の木々の衣をまとい、しめ縄の冠をかぶられ、真っ青な空を後ろに従え威厳をもって佇まれている。この美しさは優しくもあり、畏怖もあり、祈りをも秘めている。そしてなんという残酷さを具えた自然の美しさであろうか。

 

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飛龍神社を通り、<那智の滝前>のバス停からバスに乘る。バス関係の人が、「駐車場行きの方はいますか。ここから3つめの停留所ですから。」と声をかける。若い人が「はい。ありがとうございます。」と答える。気持ちが良い受け答えである。この那智駅までは15分程度。さて新宮へもどろうと駅へ行くと、11時12時台の電車がない。1時間に一本はあると思っていたのが迂闊である。

前にあるのは国道であろう。バス停がある。折よくバスが来たので、運転手さんに尋ねる。「新宮行のバスありますか。」「このバス停の反対側の後ろに新宮行のバス停がありますよ。」「ありがとうございます。」あわてふためく旅人に落ち着いておしえてくれる。まずは時間を確かめる。30分後にある。安心して、近くの道の駅を覗き休憩タイム。ところが、後になって、ここからすぐの、補陀洛山寺に寄らなかったことに気づくのである。自分で自分に納得がいかなくて、2日目の最期に、新宮からバスで再び那智にきて補陀洛山寺を訪れるのである。思うに、全てをまわってからのこのお寺を訪れたことが巡り合わせだったのかもしれない。

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