旧東海道・箱根から文楽『恋女房染分手綱』

<箱根宿>から<箱根湯本>に下る途中で、小学生が教師に引率されて登ってきた。足袋とわらじを履いている。それも自分で作ったわらじである。湯本から歩いてきたという。予備のわらじを持っている子もいれば、すでに片足ひもが切れている子もある。作るとき先生から、実際に使うのだからしっかり作るようにと指導されていたであろうが、器用な子もいれば、苦手な子もいたであろうし、これを使ったらどうなるかという想像が甘く、手を抜いた子もいたかもしれない。わらじで旧東海道を実際に歩く体験と同時に、物作りの大切さ、使うためにはどうしたら良いかも学んだことであろう。今、学校でこれだけの体験学習をさせるところもあるのだ。

頼もしい。「頑張ってね」と声を掛けつつ通り過ぎたが、私たちのために、道をよけてくれた班もあった。先頭の子がよけてと言うとさっーとそれに習ってくれた。ところが、その後ろ班の一人が、「今のうちに追い抜こう」と言った子がいたらしい。仲間が「私は聞いてしまった。」という。面白い。仲間と、「さてどちらが上手く人生生き抜いていくのかな。」と話す。子供のころから、こうした切磋琢磨があるのである。切れたわらじの紐を見ると、藁と日本手ぬぐいをよって作ってあった。昔は藁だけを綱にして編んだのである。履き良い、悪いがあり、履いた時に旅人は、あっ!これは良いとか早く切れるなとか感じたのであろう。私も友人から布で作ったわらじを貰ったが、スリッパ代わり使ってみたが、親指と人差し指を支える部分がきつすぎたり、太すぎたりで、美しくても履き心地が今ひとつであった。

わらじの話が長くなったが 『文楽』 七世竹本住大夫引退公演 で住大夫が語られた『恋女房染分手綱』はこの後、与之助は三吉と名乗り、馬方となり、母・重の井に合うのである。それが、<道中双六の段>と<重の井子別れの段>である。<沓掛村の段>や<坂の下の段>よりもよく知られている。三吉は乳母が死に、一平(八蔵)は、主人を探しに旅立ち、三吉は在所の人々に助けられ馬方の手伝いをしている。

<重の井子別れの段>で、三吉が母・重の井に 「ほかに望みはなんにもない。父様を尋ね出し、一日なりとも三人、一所にいて下され。見事沓も打ちまする。この草履もわしがつくった。」というところがある。箱根路を歩いて、小学生の会いその部分を思い出した。

そして<道中双六の段>では、三吉は重の井の仕える姫君のために、道中双六をするのである。「道中早めて戸塚はと、急ぐ保土ヶ谷神奈川越え、川崎を越え品川越え、まつ先駆けのお姫様。一番がちに勝色の花のお江戸に着き給う。」お姫様は、江戸へのお輿入れを嫌がっていたのであるが、この双六で江戸へ立つのである。旧東海道を特に箱根峠越えをしてみると、いかに東国が鄙びたところとして想像されていたかがわかる。

重の井は、三吉の父・与作とは、ご法度の中での結びつきであり、死罪のところを、主人に助けられたのであるから、三吉を息子と認めるわけにはいかないのである。ここで、別れたらもう会う事もないであろう子別れとなるのである。

<沓掛村の段>は、住大夫さんの父・先代住大夫さんも引退公演の時語られている。住大夫さんは、この段は、『恋女房染分手綱』を通しでやると伏線の場面であるが、伏線の場を面白く、丁寧に描かなければ、クライマックスが盛り上がらなといわれている。その通りである。<沓掛村の段>でしっかり人間関係の機微を心に留めたので、いつか<道中双六>と<重の井子別>の段に出会った時、住大夫さんの<沓掛村>を思い起こすことであろう。

旧東海道歩き 『箱根の峠越え』 

<箱根の山は天下の嶮>である。箱根の山を、どう越えるかが、当面の問題であった。リーダーが先に、<小田原>から<畑宿>まで歩いて様子を探ってくれ、それから相談し合った。 <小田原宿>→<箱根宿>→<三島宿>は、4分割必要である。

<小田原>→<畑宿>→<箱根宿>→<行けるところまで>→<三島宿>の分割である。<畑宿>→<箱根宿>→<行けるところまで>で、箱根峠を越すかたちである。

リーダーの歩いた感じから、<畑宿>→<箱根宿>までは、下るかたちをとることとする。<箱根宿>→<畑宿・行けるところまだ>のもどるコースは、箱根登山鉄道を使い箱根湯本へ行き、バスに乗り換えて終点の元箱根港で降り、そこから、下るのである。予定としては<畑宿>までとし、余裕があれば、畑宿から少し下ったところに須雲川への散策路があるようなのでそこを歩き、バス道路に出てバスに乘る計画に決まる。石畳の道もあるので、天候の良い時とする。。その為、2回流れて3回目で実行できた。前日の夜に降った雨のため、やはり石が濡れて滑り、雨予報の日は避けるは必須条件であった。この行程は予定通り<畑宿>まで到達できた。さらに頑張って箱根湯本に到達できたのである。

その帰りにリーダーが、暑さを考えると、旧東海道歩きは今月中で秋まで休憩とし、2日後に<元箱根港>から<歩けるところまで>を1人で行ってみるという。私も、できるなら早めに箱根峠を超えたいので、帰ってバス停を検討し同道するかどうか決めることとした。調べると、旧東海道からバス道路へ交差する地点があり、そのバス停で無理な時はリタイアし、リーダーは自分のペースで進む条件で同道することとする。

今度は、小田原から、元箱根港までバスに乗り、<元箱根港>から<箱根峠>へ登り<三島>へ下るコースである。リーダーも歩きつつ、山中新田あたりまで行ければバスに乘るという。そのあとバス道路に出るには距離がある。その辺りが妥当と決める。出たところに山中バス停が近く、そこからバスに乗ったが、その一つ先に、山中城跡バス停があった。このバス停まで歩いても良かったのである。今度はここまでバスで来て、山中城跡まで少しもどり城跡を確かめてから進もうということとなる。バスで三島まで行ったが、結構長かった。旧東海道は、のちに出来た自動道の新東海道より直線に進み、短縮されているので大丈夫と思うが。。

<小田原>→<箱根>→<三島>が、合計で、31.2キロであるから、4分割で7.8キロである。7~8キロが少し休み、写真を撮ったり、案内板の説明を読んだりすりには丁度適当な距離である。リーダーの4分割計画は適格でありさらに歩けたのである。

元箱根港まで、二つのルートの道を使ったので、芦ノ湖までの旧東海道を少し加えた箱根観光ルートも考えだせた。箱根は二回くらい来ているが、職場の忘年会的、泊って飲んでのコースと、車でお任せコースだったので、どこがどうなのか記憶されていないのである。これでやっと、箱根の行きたいコースを組み立てることができる。

時間の関係が判らないので、<箱根の関所跡>も無料で通過しただけである。今度は、美術館などもいれつつ、見学コースを考えることにする。

<箱根の山は天下の嶮>の峠越えができたので、一安心である。リーダーは、まだ越えられない仲間が健脚なので、<畑宿>から<箱根宿>を登るコースを考えているようだ。程度を考えて計画してくれるので助かる。そして、1日フリー切符も見つけてくれた。さらに、そのほかの方法は無いか、検討してくれる仲間たちなのである。ただし、自分の体力と財力は自分管理が基本で、集合場所まで集まる道筋はお金をかけようとかけまいと自由である。安く行くためには時間もかかるのである。参加も、不参加も自由。そこが、この仲間の良いところである。

 

五日市と秋川渓谷

JR五日市線の終点武蔵五日市駅の近くに、行きたい食事処何ろがあるがどうかと仲間に誘われる。ふらふらしているのが好きなので、食事だけの誘いには乗り気になれないが、五日市の名前に魅かれて承諾する。

調べてみると、秋川のそばで、秋川沿いの寺めぐりも出来るかもしれない。武蔵五日市駅の一つ手前の武蔵増古駅から歩くのはどうかと提案すると、旧東海道歩きの仲間一人がO・Kで他の二人は1時間遅れの武蔵五日市駅集合となる。

同道する仲間とは、途中何処かの駅か電車の中で会おうということで、拝島駅で会えた。旧東海道の箱根のことが話題となる。日帰りでの箱根越えがやはり皆の可能性が高いので、その方向でと、予定していた<保土ヶ谷から戸塚>の日を、<小田原から行けるところまで>と変更することにする。彼女はすでに小田原に行き、旧東海道の出発位置は確かめていた。さすがである。残念ながら、予定の日は雨となり中止となってしまったが、天候のこともあるので、仕事を休む人のことを考えると、日帰りが望ましいということが実証されたのである。

武蔵増戸駅から<大悲願寺>に行く途中で<横沢入>の看板があった。何であろうとそちらを訪ねる。ガマガエルの声が元気である。里山保全地域で、仕事中の方に尋ねると、夏は蛍も飛ぶそうである。奥まで行きたかったが時間がないので、<大悲願寺>へ脇道から入る。源頼朝の開基と伝えられる古刹で、十五世秀雄僧正は伊達政宗の末弟といわれている。

<伊達政宗白萩文書>の案内板がある。伊達政宗からの当寺への書簡がある。本堂前に白萩があり、政宗がここを訪れたおり、見事な白萩に心奪われ、この白萩を所望してきたものである。本堂は元禄8年(1695年)の建立である。観音堂の彫刻も修復され色あざやかである。重文の木造伝阿弥陀如来三尊像は4月21、22日ご開帳だそうで忘れていなければ来年でも拝観したいものである。映画「五日市物語」のロケ地ともあったが、この映画は記憶にない。車の少ない道の住宅の花々を見つつ武蔵五日市駅である。観光案内でパンフレットを貰い4人合流し目的地へ歩く。

途中、郷土館があるのだが食事を予約しているので寄らなかった。後でこの五日市には<五日市憲法>といわれるものがあり、明治時代に有志で日本憲法の草案を作ったのだそうで、国民の権利を考えたきめ細かなものであるらしい。寄れずに残念であるが、ここに来なければ気にも留めなかったかもしれないので良しとする。

食事何処ろは250年前に立てられた庄屋造りの家で水車が回っている。かつては繭から糸を紡ぐ製糸工場で、大勢の若い女工さん達が糸を紡いでいたのである。静かで瀬音がかすかに聞こえ食事も美味しかった。献立表と照らし合わせながら味わった。山菜で知らなかった、野良坊やコシアブラとも出会えた。誘った仲間は山登りの格好で入るわけにもいかず、一度来たかったのだそうである。皆満足であった。

食事の後は周囲を見てから、少し奥に進み、秋川沿いに歩いて帰る予定が、観光案内の地図に歩きたい道が赤く☓となっている。その後何かの災害で歩けなくなったのであろう。仕方がないので途中まで来た道をもどり、川の方向に道をかえ、秋川をながめつつ駅までもどることにする。奥多摩のイメージでもう少し渓谷だと思って居たが、武蔵五日市駅の周辺は想像していたような田舎ではなかった。もう二つほどお寺に寄りたかったが忙しくてはせっかくのゆったりした時間が逃げるので、皆でのんびりと川の流れと芽吹いた山の木々の色の違いを楽しみつつ帰路についたのである。

 

『源氏物語』から『愛宕信仰』そして『源氏物語』

栄西禅師から明恵上人そして清滝とつながったが、その後の旅で『愛宕信仰』に出会った。予想外にである。京都でそれまでの旅のルートから外れて、行っていないところを訪ねることにした時、『源氏物語』執筆地といわれ、紫式部宅址と言われている<蘆山寺>をまずと思った。

地下鉄今出川駅を降りたら同志社大学である。素敵なキャンパスである。ここは歩かなければなるまい。眼にも楽しい古い建物を見つつ進んでいくと、同志社の歩みを紹介しているらしい案内の建物があり、そこで一通りの同志社の沿革や新島襄さんの思想などを学ばさせてもらう。さらに、襄さんと八重さんの住んで居た旧宅が公開されているのを知る。是非寄らねば。

京都御所に向かうとき、この同志社と相国寺が近いのに気がつく。特別公開の時期をめざし、お寺のみを駆け足で巡っていたころであろう。大学など眼中になかった。清滝を歩いたのもそのころである。京都御所も『源氏物語』の舞台であるが、予約していないので建物の中には入れない。御苑の中を通り清和院御門を出ると<梨木神社>がある。この説明板に、このあたりは中川と呼ばれ、『源氏物語』で貴族の別荘が多くあった地で、「花散里」や「空蝉」と逢ったのもこのあたりとしている。『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱の母も、中川の近くに住んでいたとある。工事中のところもあったが、ここは京都三名水(醒ヶ井、県井、染井)のうち唯一現存しているところで<染井の水>は、現在も名水を求めて人々が並んでいた。

<梨木神社>の向かいが<蘆山寺>である。このお寺はもとは、京都の北にあったが、応仁の乱、信長の比叡山焼き討ちに遭遇し、現在地・紫式部邸宅址に移転したのである。ここは、紫式部の曽祖父・中納言藤原兼輔の邸宅で、鴨川の西側の堤防に接していたので「堤邸」と呼ばれ、兼輔は「堤中納言」の名で知られていた。その後、息子の為頼、為時(紫式部の父)へと伝えられ、紫式部は、ここで結婚生活を送り、娘・賢子(かたこ)を育て『源氏物語』を執筆したとされる。あれ!では<石山寺>は。あそこは、構想を練ったところでしたかな。

<蘆山寺>の源氏庭と命名された苔と白砂の庭をゆったりと一人占めして眺めた。桔梗の庭としても有名であるが、桔梗は想像の中で咲かせる。そういえば、東福寺の塔頭の一つで桔梗を愛でたなと思って調べたら天得院であった。<天得院>は内輪という感じで、<蘆山寺>は少し余所行きに気取らせて貰いましたという感じである。

寺町通りを<新島襄旧邸>目指して丸太町通りに向かうと、<京都市歴史資料館>がある。覗かせてもらうと、何か難しそうである。「愛宕信仰と山麓の村」。ではさらさらと分かる範囲で。火を防ぐ、火伏せ信仰で、映画で見たような気がするが、京都の家の台所に張ってあるお札の事のようである。あのお札「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれているのだ。この火伏せ信仰として名高いのが愛宕信仰で、その総本社が愛宕山の愛宕神社なのである。

あの鳥居はずっと下であったのか。道理で神社などありそうもなかったのだ。愛宕山は神仏習合の霊山で祭神は天狗である愛宕権現太郎坊と称する火神で、江戸時代には庶民から武士まで信仰したらしい。そのお参りの人々の宿泊所として愛宕山を支えたのが、水尾、樒原、越畑の3村で、愛宕山へのそれぞれの登山口であった。航空写真もあり、愛宕山の下の3村が写っている。博打はしてはいけない、身元の判らない者は泊めてはいけない、病で倒れたら介抱し、亡くなったら村の墓地に葬るなど色々なきまりもあったらしい。それから、日本地図を作った伊能忠敬さんも、愛宕山付近を測量して、越畑から樒原を通過し水尾・清滝へと向かっていた。それらのことを実証する当時のこちらには全然読めない文書が展示されていて、いいとこ取りをさせてもらいまいした。こういう地道な仕事をされているかたがおられるから歴史が残るのである。

東京の愛宕山の方は、町歩きであの急な階段を馬で降りたか登ったかしたという説明を聞いた覚えがある。あそこも火の神様なのであろう。

新島襄旧邸は機能的にハイカラに作られていた。台所も土間ではなく床で、井戸も室内にある。襄さんの両親の隠居所は江戸藩邸にあった住居に準じている。配られた小冊子が写真入りで丁寧なつくりであった。最初に、見学は無料であるが、東日本大震災の支援金300円を帰りにいただきますと言われ、帰り出口にきちんと係りの人が立っておられ、お願いしますと言われ、襄さんが、同志社の為に寄付をお願いして回った精神と似ているように思われた。

最後の『源氏物語』は、東京の<五島美術館>で展示されている源氏物語絵巻である。今回は、「鈴虫一・鈴虫二・夕霧・御法」で、絵の復元もある。この源氏物語絵巻は『源氏物語』が出来てから百数十年後の12世紀に誕生していて、その中でも現存する日本の絵巻の中で最も古い作品とされている物である。気が遠くなるような年数である。詞書と絵は別にしている。絵の方を楽しむ。現存しているのが不思議なくらいである。色は薄くなっているが、構図ははっきりしている。それをさらに原本に近い色使いで復元したものも展示されているので、美しい色使いの絵をながめつつ、心踊らせて読んだ平安の人々の様子が想像できる。

この旅はこの辺で閉じる事とする。

 

国立博物館 『栄西と建仁寺』

<栄西>に関しては知識はゼロに等しい。先ず、<栄西>が<ようさい>と読むことを知った。入ってすぐに、鎌倉寿福寺所蔵の栄西の座像があり、置いてあった目録と展示順番が違うので、係りの方に尋ねたら<ようさい>という。国立博物館では資料から今回の展示での呼び方を<ようさい>と統一している。チラシを良く見たら<ようさい>とひらがなをふってある。そのことに関しても、展示で説明があったが、<えいさい>と思っていたので、知らないことが沢山でてきそうな予感がする。寿福寺と<栄西>も?である。

栄西は吉備津神社の神職の子として生まれている。吉備津神社といえば、旅で訪ねたとき、『雨月物語』の<吉備津の釜>のように、神職の方が釜のお湯を沸かし、その前でお告げを待っているのか畏まっている方がいたので友人と、顔を見合わせたことがあるので忘れられない。

吉備津神社(0歳)→安養寺(11歳)→延暦寺(14歳)→入宋(28歳)→誓願寺(33歳)→再入宋(49歳)→聖福寺(55歳)→東大寺(60歳)→寿福寺(60歳)→建仁寺(62歳)

こんな流れである。入宋したときにお茶を持ち帰り、お茶の効用を説いた本などを残している。聖福寺ではお茶の種を播いている。寿福寺は北条政子が栄西を招き開山させている。そして、建仁寺は源頼家の庇護のもと建立している。

再入宋の時は清盛が衰退し仲原氏がパトロンとなっている。栄西の年令と時の政治情勢も照らし合わせなければならないのであろうが、その辺は深く興味を持ったときにする。

お茶に関しては、今も建仁寺で一年一回催される、<四頭茶会>が興味深い。茶会の行われる方丈内も再現され、ビデオでも紹介されているので、この場所でこういう風に行われるのだと様子がよくわかる。禅の茶礼ということで、今のお茶の前の形ということになる。

一番引き付けられたのは、栄西が明恵上人へ、南宋時代の<漢柿蔕茶入>に入れて、お茶の種を5粒贈っている事である。柿の形をした渋い茶入れである。高山寺所蔵であるから見たのかもしれないが記憶にない。お茶の記念碑があったのは覚えているが、今回、栂尾(とがのお)の茶の始めとあるから、初めて心に染みついた事柄のようで嬉しい。旅の時は、高山寺は鳥獣人物戯画と開け放たれた廊下からの庭が強い印象であった。

そして、高山寺、西明寺、神護寺と見て、もう一つの大きな目的である清滝川に沿って愛宕神社の鳥居前保存地区まで歩くことであった。自然の中を一人歩くのは清々しい。誰も人がいないというのは怖くないのであるが、前から雨上がりでビニール傘をもった男性が来たときは緊張してしまった。すれ違うほどの細い一本道で、あのビニール傘の先は凶器になる。〇〇サスペンス劇場の世界。<清滝殺人事件>。それからは急ぎ足となり、清々しさも半減したのでもう一度歩きたい道である。紅葉の頃がいいのであろう。さらに、 栄西さんと明恵さんの事も少し調べておいてからがよいであろう。

栄西禅師と明恵上人の交流が実態として明らかになり、実際に展示物をみての実感は嬉しいものである。

俵屋宗達の「風神雷神図屏風」は三回目なので、また逢えたなとの感覚である。初めて見た時は、風を吹かせ、雷を起こす勢いを感じたが今回は冷静であった。

海北友松(かいほうゆうしょう)の絵のほうが面白かった。この絵師も今までインプットされていなかった。線が面白く、「雲龍図」は、ぼかしかたの大胆さが面白かった。

建仁寺の法脈は一つではなく「両足院」が栄西系統の拠点として存続しているとあり、有楽斎が、大坂の陣後、正伝院を再興し隠居所としていたようだ。小野篁(おののたかむら)の像には会ったが六道珍皇寺と六波羅密寺にはまだ行っていないので、気に留めておこう。

建仁寺も再訪したら、違う顔を発見できるかもしれない。

 

『遊行寺』と『東慶寺』と『長楽寺』

藤沢の「遊行寺」は「清浄光寺」と紹介される時もあり、二つの名前を頭に入れておいたほうが良いかもしれない。出会いが「遊行寺」なのでその名前で通すが、この御本尊は阿弥陀如来で公開はされていない。「遊行寺」の宝物館は、土・日・月・祝日開館である。社務所に遊行寺の案内冊子が売られていたようであるが、そこまで頭がまわらなかった。ただ説明板にこの「阿弥陀如来像」が<定朝様>とあった。<定朝様>は「東慶寺」で出会う。

鎌倉の「東慶寺」松岡宝蔵に、<如来立像>がありその説明に<定朝様>とあった。定朝は平安時代の後期の仏師で「平等院」の<阿弥陀如来座像>を造った大仏師である。貴族の間でこの仏師の作風が人気となり全国的に<定朝様>の仏像が造られる、それが鎌倉にも伝わったのであろう。仏像にも時代によって<人気>というものがあったのである。スーパー歌舞伎Ⅱ『空ヲ刻ム者』の若き仏師は、その<人気>の意味にも悩むのである。信仰の対象でありながらそのお姿に時代の好みが加わる。そのあたりから『空ヲ刻ム者』の題名も出てくるのであろう。形があれば人の好みが加わるのは必然であろう。それを超えるものは何であろうか。<空(くう)>をもがくようなのでここまでとする。

京都の「長楽寺」はどう関係するのか。一遍上人尊像を、このお寺の収蔵庫で拝観する。「長楽寺」と言えば、平清盛の娘であり安徳天皇の母であり、壇ノ浦の合戦で入水されたが助けられ、この寺で出家された<建礼門院>のお寺として有名である。八坂神社の南門を左手にしてまっすぐ進むと長楽寺の参道があり、山門がみえる。この下からの眺めも好きである。桓武天皇の勅命によって最澄が開基し、天台宗の別院から室町時代時宗に改まる。<時宗宗祖一遍上人尊像>は重文であり、深淵を見つめておられるようなお顔である。両手をピッタリ合わせ少し前かがみで立っておられる。

山門を入ると拝観料を払い左の建物に建礼門院関係の寺宝がある。花の無い時期で玄関を上がると大振りの活け方で枝葉が飾られている。嬉しいお出迎えである。建礼門院が出家される時、『平家物語』 に次のように書かれている。

、<長楽寺の印誓上人(いんぜいしょうにん)に御布施として、先帝安徳天皇の御直衣を贈られた。御最後の時までお召しになっていたので、その移り香もいまだになくなっていない。><上人はそれをいただいて、なんと申し上げてよいやらわからず、墨染の袖を顔に押し当てて、涙にくれながら御前を退かれたが、のちにこの御衣を旗に縫って、長楽寺の仏前にかけられたということである。>

この<安徳天皇御衣幡>やこの幡を収めるための箱を織田信長の弟・有楽斎が寄付しており、その複製が見れる。本物は特別展覧の期間に展示のようである。ここから相阿弥作の庭を眺めることが出来、静かな時間をもらう。本堂、収蔵庫、建礼門院毛髪塔、頼山陽の墓などをみていると、誰が突いたか鐘の音がする。良い響きである。この音が祇園一帯まで響くのであろうか。鐘を突きたいと思い、入口のお寺の方に誰が突いてもいいのか尋ねたら、駄目であった。時々勝手に突いてしまう人があるそうで、年越しには除夜の鐘として突かせてくれるそうである。鐘も突き方があって、突き方が悪いと長い間にひび割れたりするそうで鐘にも扱い方というものがあるのである。

このお寺の特別のお花はなく自然に任せているとのこと。玄関に活けられた枝葉が素敵だったことを伝えると、定期的に活けられているそうで、目に留まって嬉しいですとのお返事。それから少しお話しさせてもらうと、<一遍上人>は一生涯お寺を持たずに旅に暮らされたことを教えていただいた。そうであったか。あの像のお姿からすると納得できる。そんなわけで、この「長楽寺」で<一遍上人>の生き方を知ったのである。

「遊行寺」から「東慶寺」「長楽寺」へ鎌倉から京へと思いは飛んだのである。長楽寺宿坊のお名前が<遊行庵>である。

 

旧東海道 戸塚から藤沢 (2)

信号のあるところで渡ろうと信号の前に立つと見えました。浅間神社の石塔が。道路と並行の形で上っていく。古い神社なので樹齢600年の椎の木があるという。しかし、この椎の木、根本に近い幹はもう少しで小さな子供が座れるくらい空洞で、これからどう伸びればよいのやらの状態である。案内板も曲がって上の方は折れている。頑張れ頑張れと撫ぜてあげる。他にも太い椎の木がある。境内に上がると、道路は上着を脱ぐ暑さである。東海道を歩くのも今月末くらいであろうか。境内の緑の中は涼やかで気持ちが良い。

リーダーは焦っている。箱根越えをなんとか早めにしたいと。ただ彼女、夏は陽が長いからと登山に忙しいのでその前と思っていたらしい。小田原から箱根が16.5キロ。箱根から三島が14.7キロ。箱根は二泊の電車つきフリーの安いのを見つけて、これはどうかと案を出したが、これのどの日にするか。皆が3日間、日にちを合わせるのが難しい。でも2日ではきついと頭を悩ませていたようである。こちらはバスの通っていない道の距離と高低が問題である。脱落の場合を検討しておかなければ。今日の戸塚から藤沢が7.8キロである。

藤沢まで半分は来たであろうからと昼食とする。﨑陽軒のレストランがありここにしようかと立ち止まったが、ここに入ったらゆっくりしてしまいそうと隣のとんかつ屋さんへ。予定は終わってはじめて実行結果となるので、途中の油断は禁物である。帰りの電車は通勤時間帯を避けるので、早めに終了としなければならない。美味しくて、適当な値段で、頼んだものが迅速に出てきて、気持ちよく食事ができること。合格点であった。疲れが出ないうちに食事も終わり歩きも快調。

左側舗道に、<道祖神・馬頭観音>があるはずであったが、来る途中ところどころに道祖神があり、<馬頭観音>と思いこんでいたのでどうやら道祖神の中に<馬頭観音>があったようである。観音様の頭の上までゆっくり眺めなかった。<諏訪神社>。

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ここの椎の木が元気で立派であった。囲いがあり幹に触ることができなかった。さてここから先で国道1号線と分れるのであるが、それがどこなのか。途中で地元の人に尋ねる。どうやらこのまま進めばよいらしい。私よりも、他の仲間の尋ねた人のほうが詳しい説明であった。「これから下る道場坂は地元では遊行寺坂と言っている。右手に一里塚跡の案内板があり、左手にもう一つ別の諏訪神社があり、その向かいに遊行寺があり、そのお寺はひろいので、小栗判官・照手姫の墓は、遊行寺の中にあるかもしれない。ゆっくりお寺を散策するといいですよ。」との説明。言われた通りであった。尋ねかたも上手だったのであろう。

舗道には色々の種類の花々が開花して歩く者の目を楽しませてくれる。八重桜も風に揺れている。仲間に教えてもらった<べにばなときわまんさく>の木も桜に負けてはいない。白の花もあり、緑の葉と同化して白に近い薄みどりなのも品がある。楽しんで歩いているがなかなか一里塚跡がない。右手前方に木々が密集している。あそこが遊行寺であろう。とすると一理塚跡は見落としたか。「あった!」突然現れた。

安心して<遊行寺>へ向かう。道路左側にもう一つの<諏訪神社>の旗が見えるが、<遊行寺>を先とする。右手に関所のような門がある。藤澤山無量光院清浄光寺が正式な名前であるらしい。この藤澤山の号からこの地域が藤沢になったという。一遍上人の開いた時宗の総本山である。境内の一本の八重桜が満開である。咲く花に優劣をつけるのは申し訳ないが、八重桜は可愛いいのであるが色が強かったり、ボテボテッとしていたりする。ところが、この八重桜は色も淡い淡いピンクで一つ一つ花も小ぶりで、柔らかく優雅に寄り添って咲き、それが全体に木をおおっているのである。三人とも「お見事!」と感嘆する。今年はこの一本に出会えて満足である。

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仲間の一人はすでに藤沢から平塚まで歩いていて、この<遊行寺>から始めたらしい。大イチョウの木を見て思い出したようである。樹齢660年、30m以上あったらしいが台風で一部分折れてしまったらしい。<小栗判官・照手姫の墓>は本では点で示されているので<遊行寺>の中とは思わなかったのであろう。探さなかったらしい。小栗判官墓所入口と彫られた石柱があった。

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行く途中幾つか武家関係の墓や説明がある。お墓の中にも枝垂れ桜がある。枝垂れ桜は、桜の中でも儚い寂しさがある。墓所の上に小栗堂があり、その正面側面に<小栗判官公墓所へ>の表札と板戸の門があり片側が開いている。

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そこを入り狭いお堂の脇を入っていくと、お堂の裏側に庭のようなあつらいになっているところに、小栗判官、照手姫、荒馬の鬼鹿毛のお墓がある。お墓の後ろにはツツジが咲いており、説教伝説としての一つの空間を作り上げている。

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歌舞伎にも「當世流小栗判官」「スーパー歌舞伎『オグリ』」として上演されている。

「貴種流離譚(きしゅりゅりたん)といわれるもので、高貴な生まれの男女、小栗判官と照手姫が、諸国を流浪し、すれ違い、大変な辛苦の末に熊野権現の霊験により、ようやく結ばれるという大ロマンです。」「第三幕では、照手姫が足腰のたたなくなった小栗判官を車(木の箱に木車のついたもので手綱で引っ張るようなもの)にのせて熊野の湯に向かい、そこで出会った遊行上人の奇特で元の体に戻り、念願の敵を討ちます。」(「猿之助の歌舞伎講座」三代目猿之助著)

照手姫建立厄除け地蔵尊もあり、照手姫は小栗判官の死後ここで尼となり、判官と家来の菩提を弔ったとされている。

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境内にもどり散策する。放生池そばにも桜があり、池の面は散った花びらが細い花筏を作っている。驚いたことに金色の鯉が二回水面からジャンプしたのである。仲間たちと、あれは、花びらを虫だと思ったのではないかと想像する。きっと今頃は、俺としたことが二回もジャンプしてしまって、一回で気が付きそうなものをエネルギーを使ってしまったと後悔しているよ、などと勝手に鯉の吹き出しを作る。その庭の外門が古そうで、門の前の立派な蘇鉄に朱色を少し薄くした実がなっていた。その回りにフェルト布のような薄茶のギザギザしたものが実を囲っていた。

境内に上るもう一つの石段は急であるが両脇に桜が咲き上から見ていても美しい。しかしこの階段を下りると浅間神社まで多少遠くなるので、その元気はない。ゆっくり散策できたのも、あそこで昼食にしたのが良かったと話す。<浅間神社>は上までどうしようかと迷ったが、上ることにする。高いので木々がなければ見晴しもよかったであろうが、森の鎮守の神様にそれを言うのは失礼である。

そこからJRの藤沢駅に向かう。藤沢駅から遊行寺まで20分くらいあるので駅から旧東海道まではたどり着くのは半信半疑だったようである。駅から旧東海道までをもう少し詳しく調べておくほうが良いかもしれない。

 

旧東海道つづき → 「藤沢から茅ケ崎」 2015年5月10日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

旧東海道 戸塚から藤沢 (1)

いつになったら京にたどり着くのか、弥二さん・喜多さんよりも覚束ない東海道の旅である。この前に、三島から沼津を歩いているのであるが、違う事を書いているうちに時間がたってしまい記憶の新しいほうからにする。この戸塚から藤沢は、歌舞伎の演目にも縁のあるところがあるのである。さらに、岸田劉生さんが住んで代表的作品を残したのもこの藤沢の鵠沼時代なのである。鵠沼には行かなかったが、坂の多さから<坂道>を題材として取り上げた劉生さんの心の風景が少し見えたような思いがした。

東海道歩きで一番問題なのが、駅から旧東海道を見つけることである。大きな駅であればあるほど駅構内から方向を定めても出口が多く、外に出ると駅の回りはショッピング街やビルであったりする。今回は三人。先ず<清源院>を探す。崖上に木々の緑が集まっている。先ずは当たりである。清源院長林寺は徳川家康の愛妾、お万の方ゆかりの寺である。葵の紋である。朱色のツツジが眩しい。芭蕉句碑 <世の人の見つけぬ花や軒の栗>。何があったのか 心中句碑 <井にうかぶ番(つがい)の果てや秋の蝶>。境内を下り、さてと方向を定めるとなんとなく旧東海道と思いたい道に小店あり。ふらふらと行きかけるが、違う違う、今回は国道1号線なのである。

この清源院から保土ヶ谷方面にもどった吉田大橋の辺りからかまくら道があるらしい。<東慶寺>を目指す人は、ここから東海道からかまくら道に歩みを進めたのであろうか。ただもっと先でも、かまくら道が東海道を横切っていたので、戸塚宿を目安として鎌倉に向かう道が数本あったのかもしれない。

歩道のマンホールの絵がマラソン走者である。箱根駅伝の通過道である。上り坂である。沢辺本陣跡の案内板あり、そばのお宅の表札が澤邊さんとあるので、本陣関係のかたであろうか。道路反対側に<戸塚地区センター>があるはずで資料を調達しようと予定していたが、標識が見えないのでパスして進む。<八坂神社>。<お札まき>の案内掲示板あり。

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<江戸時代中期、江戸や大坂でさかんだった踊りで、今ではこの戸塚宿にだけ残っている。7月14日の夏祭りに男十数人が女装して音頭取りの歌に唱和して踊り、踊り終わると音頭取りが五色の神札をまき、人々はそれを拾い、家々の戸口や神棚に張る。歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」とあり、祇園祭と同様な御霊信仰にもとづく厄霊除(やくりょうよ)けの行事である。>

仲間の一人が「ドラマの<仁>もコロリにかかって点滴をしたんだよね。」 残念ながらこのテレビドラマは見たり見なかったりでその場面はみていないが、江戸の人々にとってはコロリは<厄霊>で封じ込めるか、除くかで身を守ることを考えたのであろう。

次が<冨塚八幡宮>でこの地区の<戸塚>の名のもととされている。かつてこの辺りを冨塚郷といい、冨塚一族の人々が住んで居たらしい。<富塚八幡宮>は源頼義・義家が奥州へ向う途中、社殿を造営したといわれ、富塚、戸塚名の方々の守護神となっている。

ここで八百万の神の話になり、仲間の一人が、「日本人は祟りを恐れて人を神様にして、その祟りを封じこめたから神様が多い。」という。なるほど、この世に変な形で出現せずに、見守っていて下さいという鎮魂の意味が強いのであろうが、かつては、私は何々の生まれ変わりだと名乗る武将達もいた。武勇や戦勝を祈るのは神様にとって迷惑なことかもしれない。神様たちも時には、あっちむいてプイをされておられるかもしれない。判らんなら、勝手に殺し合いなさい。ただ八百万の神といえども、神々の世界に次々送りこまないでいただきたなどといわれておられるかどうか。

『千と千尋の神隠し』の話になり、「ジブリは戦記物のほうが映画としては面白い。」と私。つかさず「戦記ものは全て<駿さん>になってしまうのよね。原作と違うのが不満。」と反論される。なるほど、原作を読んでいる人には不満なのか。「映画にすると盛り上がりを作ってしまって方向性が違ってくる。」それはそうであろう。アニメ映画となれば、盛り上がりをつくるか、ほのぼのさせるか、近頃は懐かしがらせるというのもあるからして。原作を読んでいないので退散。

<上方見附跡>が左側歩道にあるので反対側に渡る。見附は宿場の始めと終わりにある。戸塚宿の終わりで上方方面からの参勤交代の一行が戸塚宿に向かって来るのを見つける場所である。<上方見附跡>の案内板も無事みつかる。ここから坂が急になり大坂である。

目指すは<お軽勘平道行の碑>である。散りかけた桜をみたり、背の高いタンポポに、やはりタンポポはあのギザギザの葉に程よい背丈で咲くのが本当のタンポポなどと互いに講釈をしつつ歩く。ありました。<お軽勘平戸塚山中道行の碑>。

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なかなか立派である。歌舞伎の道行に関しては、『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎座12月) (2) の拙い文で参考にされたい。(本当は次の東海道は、保土ヶ谷から戸塚なのであるが、諸事情によりまだなのである。)高い位置に道があり眼下を見下ろせるすき間も少しある。<お軽勘平>が見たであろう富士は、夜中人目を忍んで歩いたので、薄墨富士というのだそうである。薄墨富士、なかなか良い。今日は遠くは霞んでいて霞富士も何もみえない。道の分岐路には松並木の名残の松があるが、ずーと先で当時の松は松くい虫のために枯れてしまったと説明があった。道でさえ今は車の多い道に変ってしまうのである。今、生き残っていること自体が素晴らしいことである。そして<原宿一里塚跡>があり、今度は右側歩道にある<浅間神社>である。

旧東海道 戸塚から藤沢 (2)

銀座再発見

スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』のパンフレットを探していたら、「東京文学探訪~明治を見る、歩く(下)」(井上謙著)が見つかる。NHKラジオのカルチャーアワーのテキストである。2001年であるから、その頃時間があれば訪ね歩こうと思って購入したらしい。ラジオは聞いていない。これが地図つきで参考になる。銀座の朝日ビル前の石川啄木歌碑の写真がある。

本郷菊坂散策 (2) で啄木さんが上野広小路から切通坂を上って貸間の住まいに帰った、その勤め先が銀座の東京朝日新聞社なのである。年譜によるとその以前に生活困窮から、金田一京助さんに助けられ「蓋平館別荘」 (現太栄館で玄関前に<東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる>の歌碑がある) に移り住み、さらに同郷の当時の東京朝日新聞編集長斎藤真一さんの厚意で校正係りとして入社し、切通坂上の「喜之床」二階に引っ越し家族を呼びよせるのである。

当時、銀座四丁目付近は新聞社がひしめき合っていた。東京朝日新聞は銀座四丁目交差点から並木通りに入りみゆき通りを横切り新橋方面にある。現在は朝日ビルとなり、そのビルを眺めるかたちで、啄木碑がある。例の美男子のレリーフつきである。<京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな>。銀座は京橋区であったらしい。この位置とするなら、電車本通線で銀座四丁目から京橋→日本橋→宝町三丁目→須田町まで行き、そこで上野線に乗り換え、須田町→万世橋→上野広小路へと移動し、そこから湯島天神を通り切通坂を登って帰路についたのではなかろうか。

この頃、啄木さんは自虐的な生活でローマ字日記を書いている。24歳。肺結核のため27歳(数え年)で亡くなるが、その頃交流していた土岐善麿さんが自分の生家である浅草にある等光寺で葬儀を行っている。土岐さんは、啄木さんの第二歌集の出版契約に奔走し、啄木さんの死後出版された歌集『悲しき玩具』は土岐さんの命名である。(第一歌集『一握の砂』)土岐さんの第一歌集はローマ字である。

第二の発見は、画家の岸田劉生さんが銀座生まれであったということである。世田谷美術館で『岸田吟香・劉生・麗子ー知られざる精神の系譜』を開催していて、そこで知ったのである。岸田吟香というかたが、「吟香が和英辞典をヘボン博士に協力して完成した礼として水薬の目薬の製法を伝授され、日本ではじめての目薬として売り出したのが精錡水だった。」(『父 岸田劉生』岸田麗子著) この目薬を銀座で売っていたのである。薬舗「楽善堂(らくぜんどう)」を銀座に構え、事業家、出版人、思想家、文筆家として活躍した人である。劉生さんは、東京日日新聞に「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」と題して銀座の生家の思い出を書かれている。それによると、<明治二十四年に銀座の二丁目十一番地、服部時計店のところで生れ、鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代まで育った>としている。鉄道馬車だったのである。麗子さんが訪れた時は、<銀座の本家は、表通りの立派な本家ではなく、表通りの一つ後ろの通りで、越後屋の裏あたり>としている。劉生さんの作品である<麗子像>や<坂道>などは、神奈川県藤沢の鵠沼(くげぬま)時代のもので、銀座などは思いもよらないことであった。ヘボン博士はローマ字を考案した人で、それを啄木さんや土岐さんが使ったのである。

もう一つは発見と言えるかどうかであるが、銀座の山野楽器で歌舞伎関係のDVDを購入したところ、特典として歌舞伎座のポストカードがついてきた。それが、第一期(1889年開場)、第二期(1911年~1921年)、第三期(1924年~1945年)、第四期(1951年~2010年)、第五期(2013年開場)の五枚の歌舞伎座の写真であった。これは嬉しかった。第一期と第二期は白黒で第三期は少しセピア色、第四期は真っ青な空で光の陰影がはっきりしていて、第五期は夜のライトアップされた姿で後ろのビルを闇にそれとなく隠している。歌舞伎座は三月、四月を鳳凰祭として公演している。今年は松竹が歌舞伎経営を始めた大正三年(1914年)から100年を迎えるので、ポストカードはその記念なのかもしれない。今回全ての席から花道七三を観えるようにしたことは画期的である。関西の劇場で二階席から花道が観えなくて信じられない経験をしたことがある。

森鴎外さんが、二つの歌舞伎座を知っていたのであるが、それが、第一期と第二期であることがわかった。鴎外記念館でそのことを書かれていて何時の歌舞伎座か失念していたので大したことではないが、気になっていた。これですっきりした気分になれた。

映画『日本橋』と本郷菊坂散策 (3)

 

朝倉彫塑館にて朝倉摂さんを偲ぶ

神楽坂散策 (2) で、朝倉文夫さんの住まわれていた<朝倉彫塑館>へ行こうと言っていたのであるが、ちょうど桜の時期と重なった。皇居の坂下門から乾門の通り抜けができると云う事で、ではそちらを先にして、最後は浅草寺の伝通院の庭も公開しているから最後はそうしようと予定したが、あまりにも皇居は待ち時間が長いようなのでそちらを止めて朝一を谷中とする。この友人達は予定通りが通用しないので、予定は立てるが未定である。

日暮里で待ち合わせ、少し早いので夕焼けだんだんの階段から谷中銀座へ。その前に経王寺で幕末の上野戦争のとき彰義隊を匿い砲撃をうけた弾のあとを山門の扉で確認し教えることができた。お店はまだ準備中であったがお酒屋さんの店頭にコップ酒を売っていて、すでにビールを飲んでいる若いカップルもいる。日本酒の好きな友人はさっそくゲットして、散策しつつの飲酒である。それも大目にみてくれる谷中銀座である。安い高いと値踏みしつつ、よみせ通りにぶつかったので引き返し<朝倉彫塑館>へ。そこで友人が「朝倉摂さんが亡くなったのよね。」「えっー!」である。「91歳。高校時代から好きで彼女に憧れてその頃舞台裏の手伝いしていたのよ。」初耳である。私はいつからであろうか。何かのコメントか対談かで、この人は素敵な人であると思ったような気がする。そして舞台美術にかける情熱が男女関係なく人として伝わってきたのである。さばさばされていて、大袈裟なことは言われない。そこも気に入り、どこかで仕事をされておられるであろうと思うだけで心強くなれる方であった。大きな劇場の舞台も小さな劇団の舞台も同じように面白がられて仕事をされていた。

彫塑館の中でスタッフの方に亡くなられた事を尋ねると、とても気さくな飾らない方で、父上のお墓に来られた時はこの彫塑館にも寄られて長居はせず、こちらに気を使わせない方であったそうである。テレビの紹介番組でも、年齢に関係のない色使いのカジュアルな洋服で肩に力が入らず前を見つめる方であった。素敵な生き方の女性先輩がまた一人旅立たれてしまった。笑顔を残されて。

それぞれ発見することが違うので面白い。一階の和室で池に面して座ると、その池が窓の下を通って流れているように見えると友人がいう。そういう風に作られていると。座ってみると本当に池は軒下で終わっているのに、軒下をも水が流れているように思える。そうみえる窓の高さなのである。人の目の錯覚は面白いものである。ここにも縁側の廊下の一部に畳敷きがある。これを<入側>という。これは、世田谷の瀬田四丁目の旧小坂邸でボランティアの方から教えてもらったのである。静嘉堂文庫美術館へ行ったとき、小さな門がありここから美術館に行けるのであろうかと樹木の中を上って行くと一軒の家があり入れるらしい。声をかけるとボランティアの方が出てきて家の中を案内してくれたのである。この高台は国分寺崖線沿いで、かつて多摩川を眺め多摩川で遊ぶ別荘地であったらしい。その文化財も立派であるが、飾られているお花に季節感があって古い家に合っている。桃の節句に合わせて活けて有り、無料で生け花を教える試みもしているそうである。こういう日本家の光の中で花を活けるのは心が落ち着くことであろう。といいつつ、なんとか言うのよと、<入側>が思い出せず後でメールで友人達に知らせたのである。

良く晴れた屋上庭園に白い清楚でありながら可愛らしい花の咲く木があった。何であろうか。解らないので帰りにスタッフの方に聞くと<梨の花>であった。朝倉摂さんを偲ぶに相応しい花のように思えた。<梨の花>

路地で見かけたお蕎麦屋さんでたっぷり時間をとり、地図も見ず千駄木方面へ気の向くまま歩き、三崎坂にさしかかると空模様が怪しい。雨の時は国立博物館に逃げ込む事にしていたら、バス停があり人が待っている。そのバスが上野公園にいくというので乗り込む。国立博物館は春の庭園公開時期なので、傘をさしつつのお花見である。常設展の小袖と打掛の色、刺繍などにみとれ、休憩場所で取り留めない話に花を咲かせる。思い起こすにこの友人達とはよく雨に合う。それも一時的な雨である。町歩きよりも口歩きなのでお日様が気をもまれて水撒きされるのであろうか。