本郷菊坂散策 (1)

友人たちと歩いた谷中から、今度は本郷を歩こうと、湯島天神から始める。梅の三分咲きの頃である。湯島天神となれば菅原道真公であろうが、浮かんでくるのは、<湯島通れば思い出す お蔦主税の心意気>で泉鏡花の『婦系図』で新派である。いつどのようにこの歌の一節を記憶したのか覚えていない。<ちから>が<主税>と書くのも知ったのは随分あとである。

司馬遼太郎さんの『本郷界隈』によると、明治の文明開化の象徴ともいえる瓦斯灯(ガス灯)がこの境内に何基かあったことに触れ、「瓦斯灯があればこそ主税はお蔦をここへよび出せるのである。ふつう、村落の氏神の境内などには夜間灯火がなかった。もし湯島天神もそうだったら、両者は闇の中を手さぐりでにじり寄らざるをえず、芝居にならない。」と記している。なるほどと思いつつ、そこは工夫して石灯籠に火を灯し、背景に月を描き、月明かりとするであろうなどとつまらぬ事を考える。しかし明治という時代性を考えると<瓦斯灯>が似合っている。市川雷蔵さんと万里昌代さんの映画『婦系図』の録画が何処かにあるのでどうなっていたか、そのうち調べてみる。新派の舞台は瓦斯灯だったと思うが。ガス灯も復元されたらしいが、司馬さんの本は今、桜の時期に読み気がつかなかった。

宝物殿へ入館してきたが、ここで思いがけず川鍋暁斎さんの「龍虎図」の衝立一双に出会う。龍も虎も威圧的ではなくどことなく愛嬌がある。意外な出会いである。湯島の梅に因み、奥村土牛、横山大観、川合玉堂、竹内栖鳳等の梅の絵があり、竹内栖鳳の絵に引き付けられた。富くじの箱が展示されていて、司馬さんによると「この神社は幕府から社領をもらわず、そのかわり“富くじ”の興行をゆるされ、経費をそれでまかなっていた。」とある。当殿のパンフによると、目黒不動、谷中の感応寺、湯島天満宮が三富と称されたいへんなにぎわいをみせたらしい。落語の「富久」は深川八幡宮である。

男坂から下りようとすると、<講談高座発祥の地>の碑を目にする。文化4年(1807年)湯島天満宮の境内に住み、そこを席亭としていた講談師・伊東燕晋が家康公の偉業を語るにあたり庶民より高い高座とし、北町奉行小田切土佐守に願い出て認められたとある。なるほど初めから高かったわけではないのである。男坂を下り、美空ひばりさんの「べらんめい芸者」<通る湯島に鳥居はあれど 小粋なお蔦はもう居ない>と湯島天神から春日通りを登る。この切通坂は先にある麟祥院に春日局のお墓がありそれに因んだ名らしい。

ここから少しきつくなる。坂の勾配ではない。ここからのメモをなくしてしまったからである。さあどうなりますか。手さぐり坂である。

映画と新派の『婦系図』が見つかった。

映画『婦系図』(1962年) 監督・三隅研次/脚本・衣田義賢/出演・市川雷蔵・万里昌代の湯島天神はガス灯である。実際にはガス灯の明かるさはどの程度であったのであろうか。電球の街灯でさえ一部分を照らしていたのであるから、ほのかに明るいという感じであろうか。

新派は、新橋演舞場1985年公演の録画である。演出・戌井市郎/脚本・川口松太郎/出演/片岡孝夫(現片岡仁左衛門)・水谷良重(現水谷八重子)・波野久里子・安井昌二・長谷川稀世・英太郎・菅原謙次・杉村春子で、大きな石灯籠の灯りであった。こちらの方が場面としては薄暗い。お蔦が「あなた、いい月だわねえ」の主税の答えは「月は晴れても心は闇だ」である。月の姿はないが、台詞の中に<月>が出てくる。「ほらあの月を見てごらん。時々雲もかかるだろう。まして星ほどにもない人間だ。時には闇にもなろうじゃないか。」(主税)

あの周辺を歩いているので、台詞が立体化する。お蔦が自分が巳年なので弁天様にお参りしてくるという。それは上野不忍池の弁天様である。あそこまで行くのであろうかと距離的にどうかと思ったら、戻ってきたお蔦は仲町の角からお参りしたと告げる。江戸の切絵図でいえば池之端仲町の角ということであろうか。お蔦の別れる際の台詞が「切通しを帰るんだわね。思いを切って通すんじゃない。体を裂いて別れるよう。」

喜多村 緑郎さんのお蔦が良かったので、湯島の場面は泉鏡花さんが新たに書き足した場面らしいが、この辺はよく歩いていたらしく風景を上手く台詞に反映している。ただ、一度、石灯籠ではなくガス灯で舞台をやって欲しいとも思う。お蔦が石灯籠に腰かけての形がなくなるが、どうもあそこで形を作っていると意識され、リアルさから引きもどされるのである。それまでの作られているが、清元の「三千歳」の語りに合わせて動くお蔦の自然に流れるような動きが一瞬、それこそ引き裂かれてしまうのである。新しい明治のガス灯の淡い灯りのなかで、闇に向かう恋路というのもなかなかいいではないかと勝手に思い描いてしまった。ガス灯でも月の台詞は邪魔にはならない。

映画のほうは清元の「三千歳」は流れない。替わりに境内の石畳と下駄が作り出す音である。

 

坂のある町 『常陸太田』 (2)

太田城跡があるが、今回の旅の目的ではないのでパスさせてもらう。この辺りを一番長く治めていたのは佐竹氏である。町の西側に細い源氏川が流れている。その名前の由来は判らないが、佐竹氏の祖先が清和源氏ということが関係しているのであろうか。私が尋ねた土地の人は若いかただったからか判らなかった。関ヶ原の戦いのあと、佐竹氏は秋田へ国替えとなり、徳川御三家の一つ水戸徳川の統治となる。水戸徳川家墓所があり、二代藩主徳川光圀(黄門さん)の隠居所「西山荘」、さらに光圀の生母の菩提寺「久昌寺」があり、水戸藩にとっても重要な位置を占めていたようである。

「西山荘」の光圀さんが住んだ西山荘御殿は、没後保存されるが、野火で焼失し、規模を縮小し再建される(1819年)。そして震災で傾き現在、半解体修復にかかっている。

「西山荘」に入る前に、水戸黄門漫遊記でお馴染みの<助さん>の住居跡の標識がある。案内に従って上っていくと、竹に囲まれた場所に案内版がある。

助さんー本名佐々介三郎宗淳(むねきよ)- 延宝2年(1674年)35歳のとき黄門さんに招かれ彰考館の史臣となる。全国各地を訪ね貴重な古文書を収集して「大日本史」編纂に力をつくす。元禄元年(1688年)彰考館総裁に任命され同9年、総裁をやめ小姓頭として西山荘の黄門さんに仕える。同11年59歳で亡くなっている。黄門さんが元禄13年(1700年)71歳位で亡くなっているから、助さんは黄門さんの前に亡くなっているわけである。助さんの住んで居た所に当時使用されていた井戸も残っている。現在は池を巡り上って行き竹の音も爽やかな心地よい場所である。ただ近くに道路があるらしく、車の音が時々静寂を破るのである。

そこを下り整備された公園を進むと<ご前田>があり、光圀が自ら耕された水田の一部である。一領民となった証しとして13俵の年貢を納めたとある。

「西山荘」の受付で入場料を払い門をくぐる。<守護宅>でわずかながら御殿に飾られた調度品が見れる。もともと質素に暮らし「大日本史」の編纂をなしとげるための隠居でもある。その中に、<布袋画賛>と題した布袋様が大きな袋に寄りかかっているユーモアな光圀筆の絵があった。その説明に、布袋和尚は中国の定応大師(じょうおうたいし)という実在の高僧のことで弥勒菩薩の化身とあがめられ、世俗をのがれ大きな布を背負っていたとある。こうありたいと思う黄門さんの願望であろうか。

住まいの方は修復中なので見れないが、透明の覆いで囲まれ所どころ中が見れるように穴が開けられているので、修復の様子は見ることができる。そちらは成る程と思いつつ、庭を散策して失礼する。出来れば、時間をきめ、説明してくれるともっと修復にも関心が向くのではと思ったがそこまで手はかけられないであろう。

旅行案内に<太田落雁>とあり、ここから夕景に雁の下りる姿が美しかったところなのであろう。旅行案内所でそのことを聞くと、水戸八景の二つがこの町にはあってもう一つが<山寺晩鐘>でそちらの方が良いかもとのアドバイス。<西山荘>から駅へ帰る道すがら寄れそうでありそちらを目指す。源氏川を左手に沿って歩いていくと、光圀の生母菩提寺の久昌寺の案内があるが、まだこれから登らなくてはならないので失礼する。太田二高を過ぎると西山研修所、山寺晩鐘の案内があり、その道を上って行く。

人に聴くのが一番と西山研修所で<山寺晩鐘>を尋ねる。すぐ裏手にあった。残念ながら木々に邪魔され下の景色はぼんやりである。鐘の音を聞くのであるからそれもいたしかたない。今は碑のみである。案内板によると、光圀が檀林久昌寺の三昧堂檀林として開き、天保14年(1843年)廃され、それまで160年全国の学僧が集まった。天保4年(1833年)斉昭(慶喜の父)が水戸八景のひとつとして命名。ただの風光明美としてだけではなく、藩士弟たちを八景勝地約80キロを1日一巡させ、鍛錬させることを計ったとされるから、めまいを起こしてしまう。斉昭が周囲の寺々の打ち出す音に歌を詠んでいる。 <つくつくと聞くにつけても山寺の霜夜の鐘の音そ淋しき 斉昭>

ここから下に下る道を何か仕事をしていたかたに尋ねると、碑の上の場所の奥に道があるという。「時々転んで尻もちをつく人がいますよ」「暗いから襲われない様に」になど冗談をいわれる。尻もちのもちはいただけませんから気をつけて下る。源氏川にかかる東橋を渡り大きな通りにぶつかり、その前方の左手に下井戸坂への入り口が見える。あの坂だけ、上り下りをしなかった坂である。そのまま駅へ向かう。

西山研修所には雪村の碑もあったらしい。雪村は佐竹氏一族の出で碑の揮毫は横山大観である。<太田うちわ>あるいは<雪村うちわ>と呼ばれる四角いうちわがある。<西山荘>のそばのお土産やさんで見たが水戸八景も描かれていた。紹介では後継者は年配の女性のかたであった。

<天狗党>に関しては、かなり深い歴史性があるようである。直木賞を受賞した朝井まかてさんの『恋歌』は樋口一葉の師、中島歌子さん が主人公の小説で、中島歌子さんは天狗党に参加した水戸藩士と結婚していた。驚きである。

旅行案内冊子によると、鯨ヶ丘から西山荘に行く途中に<若宮八幡宮>があり、ここの境内にある六本のケヤキが立派で、樹齢650年以上のものもあるらしい。近頃大木に出会うとトントンと肩を叩くように呼びかけたくなる。呼びかけられなかったのが残念である。

 

坂のある町 「常陸太田」 (1)

水戸黄門でお馴染みの水戸光圀公が隠居後の10年を過ごした<西山荘(せいざんそう)>のある場所が、水戸からの水郡線常陸太田駅から歩けて、そこは城下町で坂の町である。旅行雑誌の常陸太田をコピーしていざ出陣。

水戸からの水郡線は途中の上菅谷(かみすがや)で常陸太田方面と郡山方面とに枝分れしている。そのため水戸から常陸太田行きなのであるが、郡山方面からくる列車との待ち合わせで上菅谷で15分列車は停まっていた。ローカル線の楽しさでもあるが、動きだす時になって、あれまあーホームに出て見れば良かったと後で気が付く。水戸から待ち時間もいれて1時間弱の乗車時間である。震災で被害にあったであろうが、屋根なども綺麗になり、ソーラーを設置している家があちらこちらに見える。畑の水のあるところは薄く氷が光っている。長閑である。

常陸太田駅に着くと隣接している観光案内にこちらの旅の目的を告げアドバイスをしてもらう。今、町の一角でお雛様を飾っていて道路からも見え、飾ってあるお店の中にも入って下さいとのこと。坂に面した町並みである。新たに解り易い地図をもらい歩き始める。大きな坂として七つあり<太田七坂>と呼ばれている。その第一の木崎坂を上がってゆく。広い道だが傾斜があるので道のすき間から見える建物がどんどん下に移動する。先ずは目指すのは下井戸坂で左手にそれと分るが、さらに進み杉本坂を目指す。

細い急な坂が左手に出現。表示がないのでその先に進むと立川醤油店があり、お雛様を飾ってある。お店の裏の母屋にも飾ってあり自由に入ってよい。入らせてもらい立派なお雛様たちを拝見する。帯の上に並べられたお人形もかわいらしい。外に出ると、<天狗党の刀傷あとがある>と書かれている。何処であろうともどると、ちょうど商店の奥さんが来られ「飾ってあるお雛様の後ろです」と案内して見せて下さった。鴨居の柱にもあり、そこは判らないように削られていた。天狗党が軍資金集めに来るという情報があり、住んでいる方達は避難して無事で、その頃は造り酒屋さんをしており、その酒樽が壊されて横の坂を川の様に流れたと。それが、杉本坂である。蔵造りの母屋は大火を免れ230年位たち、お店のほうも築180年はたっている。お店も天井に明り取りがあり、障子などもすてきである。震災前に補強していたので難を逃れたそうである。頂いたこのお店を紹介した新聞記事のコピーによると、先祖は東京の立川市周辺を治めていた豪族であったらしい。今のご主人は17代目とある。

お酒の川の話を聞いた後なので急な杉本坂を下るのもお酒に追いかけられるようで印象深い坂となる。途中に小さな山田神社がありその門柱に<杉本坂>と彫られてあった。<杉本坂>を下り下の道を進むと今度は右手に<十王坂>が現れる。この坂は綺麗に舗装され幅も広い。その坂を上り立川醤油店にもどる道すがら、震災で傷んだ網におおわれた郷土史料館分館があり、その隣にレンガ張りの郷土史料館の梅津会館がある。この町出身の梅津福次郎さんが北海道函館に渡り海産物問屋で成功し寄付し、昭和11年まで役場として、昭和35年まで市役所として活躍していた建物である。残念ながら震災のため史料館も現在は休館である。

この町の方々は、お雛まつりを通して震災よりももっと前から続いている町の歴史を一層大切に語られているように思えた。会う方会う方親切に教えて下さるのである。説明書きも丁寧で、満州から戦前送ったお雛様が行方不明となり、戦後届いたお雛様もあるのである。同時にお店の出来た年代も紹介していて古くからのお店が多いのである。この一帯は<鯨ヶ丘>といい、それは鯨の背のような町というところから命名されたようである。立川醤油店の一本向かえの通りの右手には、<板谷坂>が下がっていく。2本の通りに対し左手は<杉本坂>が右手は<板谷坂>が下っていて2本の通りは<鯨の背>なのである。この板谷坂も上から見ると美しい景観の坂で、前方に阿武隈連山が並び、昔はその下に田園が広がっていて、<眉美千石>と言われたと標識に書かれている。若い娘さんが写真を撮っているので旅行者かと尋ねたら「地元で住まいは少し離れていて、初めてゆっくり町を眺めているんです」と。灯台下暗しと言う事であろうか。

創業明治33年の大和田時計店ではお雛様と同時にに110年以上動き続けている大時計を見ることができる。ゼンマイ仕掛けの前の分銅式の時計である。中のは機械はスイス製で木彫りの外枠は日本で作られ、鳳凰と牡丹の模様である。創業当時から時を刻んできたのである。

さらに進むと<塙坂>があり、その坂を下ると<東坂>を斜めに上って行くことが出来る。右手に阿武隈連山を眺めつつ。

太田七坂 <木崎坂><下井戸坂><杉本坂><十王坂><板谷坂><塙坂><東坂>

 

 

『隅田川』 推理小説から歌舞伎まで (2)

私がDVDで観た歌舞伎『隅田川』(清元)は、斑女の前(はんにょのまえ)が六代目中村歌右衛門さんで、舟人が十七代目中村勘三郎さんである。そして清元が清元志寿太夫さんである。驚いた。歌右衛門さんの動きと志寿太夫さんの清元が見事に合っている。歌右衛門さんが描く世界と志寿太夫さんが語る詞がぴったり重なっている。さらに舟人の勘三郎さんが、全く無駄のない動きで歌右衛門さんに寄り添っている。歌右衛門さんが我が子を探し、その死を知った時の悲嘆と狂気を演じられているそばで、どうする事も出来ずに支えたり、落涙する姿の勘三郎さんは演じているのではなく、演じられている歌右衛門さんの芸の流れに乗っているだけにみえる。それほど演じているとは思えない芸なのである。

斑女の前が花道から、白い小さな花の枝を手にし、打掛の片外しで塗り笠を背負い、尋常では無い姿で登場する。静々と何かに導かれるような出である。京の都の白河から人商人(ひとあきびと)にさらわれた我が子を探し訪ねて隅田川にたどり着いたのである。花道で塗り笠を鏡に見立てて髪を直すあたりなども、如何に苦労してたどり着いたかがわかる。来合わせた舟人との問答になり、飛び交う鳥に対し、業平の <名にし負はば いざこと問わん 都鳥 わが思ふ人は ありやなしや> の歌にかけて母親は問う。舟人は、去年旅の疲れから倒れた子供を人買いが置き去ったと話す。その子の国は都の白河、父の名は吉田、年は十二歳、その名前は梅若丸とわかる。お二人の聴く親と語る舟人の動きが美しい。悲しい話がもっと切々と伝わる。

舟人はその子の埋められた対岸まで斑女の前を舟に乗せ連れて行く。梅若丸の墓は < 今はこの世になき跡に 一本(ひともと)柳枝たれて 千草百草しげるのみ > 母は、ここを掘って亡骸でいいから一目会いたいと嘆く。 舟人はそれを止め、念仏を唱えてやりなさいという。舟人は道端の花を摘み母親に渡す。その土墓に母は自分の打掛を掛けてやり母は自分の髪の乱れを手で撫でつけ気持ちも新たに念仏を唱えるがその念仏の声の中に梅若丸の声があったとして気がふれて梅若を探しまわる。花道で我が子を何度となく抱こうとする母。どうする事も出来ず涙する舟人。勘三郎さんの情が歌右衛門さんの芸を際立たせる。

< 幻の 見えつ隠れつするほどに 空ほのぼのと明けにけり > 土墓に掛けた打掛を撫ぜ、悲しみゆえに身をよじり握りしめる斑女の前に上る朝日の光が紫炎となって射すのである。

隅田川七福神の多聞寺と白髭神社の間の木母寺は梅若伝説のお寺で、境内には梅若塚とガラス張りの梅若堂がある。また、そばの梅若公園には晩年を向島で過ごした榎本武揚像がある。

そして隅田川の対岸には、梅若の母が梅若の死を知り尼となり妙亀尼と称し庵を結んだとされ、その伝説の塚として妙亀塚がある。二つの塚を結ぶ橋としては白髭橋が近いであろう。

 

『隅田川』 推理小説から歌舞伎まで (1)

葛飾北斎の「深川万年橋下」は、深川の小名木川から流れ込む隅田川を前方に描いている。その隅田川は人気者で様々のところで活躍している。

小旅行とかちょっとの電車の行き来ように文庫本を持つ。本の厚さ、字の大きさ、適度に文と文の間に空間、読み返さなくて良いほどの流れのものと、パラパラと開いて検討して持参するのである。そうして選ばれた本がまたしても、内田康夫さんの本『隅田川殺人事件』となってしまった。ああ、隅田川ねの軽い反応を反省させる広がりであった。

先ず、浅見光彦の住んでいる位置と母親の雪江夫人の浅草近辺を戦前、戦中、戦後の見てきた風景が判るのである。浅見光彦の住まいと言うより母と兄のもとに同居させてもらっている住まいは、東京北区西ヶ原で、飛鳥山に隣接している。飛鳥山は八代将軍吉宗がサクラなどを植え、江戸庶民の遊行地としたところである。音無川(石神井川)に掛かる音無橋の下は公園になっていて、飛鳥山からこの橋したあたりが光彦少年の遊びの縄張りだったようである。さらに先へ行くと、王子の地名の由来の王子神社があり、さらに進むと落語の「王子の狐」でお馴染み王子稲荷神社がある。源頼朝が太刀を寄進したともいわれ、関東稲荷総社の格式がある。

雪江夫人は「花」の歌から青春時代に行った隅田川を連想する。 ~春のうららの隅田川 上り下りの舟人が かいの雫も花と散る~  「花」は武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲である。明治33年で内田さんは明治33、34年の学校唱歌として、「荒城の月」「鉄道唱歌」「箱根八里」「おつきさま」「お正月」「うさぎとかめ」「はなさかじじい」などをあげている。参考までに附け加えるなら、滝廉太郎も演奏した上野にある旧東京音楽学校奏楽堂は残念ながら建物が古いため現在は公開されていない。その建物前にある滝廉太郎像は朝倉文夫作である。建物が修復され公開されると良いのだが。

雪江夫人は戦中は空襲のため火を逃れて隅田川に飛び込んだ人々が亡くなった様子を聞き、その無惨さに隅田川に近づくことを頑なに拒否しつづけている。ところが、隅田川での殺人事件に雪江夫人の知人が関係し、光彦と隅田川や浅草を訪れることとなるのである。この殺人事件、吾妻橋から出ている水上バスで行く浜離宮とも関係があり、読みつつ行った所を思い出していた。浜離宮は『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』の御浜御殿である。浜離宮の横を流れている築地川は昭和20年代には新橋演舞場の後ろを流れていたのである。この一冊だけで、再び新旧の東京見物の一部が出来てしまうのである。

~見ずやあけぼの 露あびて われにもの言う桜木を~  隅田川で手を合わせてから、桜の時期の水上バスもいいであろう。飛鳥山公園の桜もいい。もう一つ出てくるのが、能の『隅田川』である。<愛するわが子・梅若丸を人買いに連れ去られて、物狂いになった母親が、都からはるばる東国にやってきて、隅田川のほとりで梅若丸の幽霊に出会う> そう来れば、こちらとしては、中村歌右衛門さんの『隅田川』のDVDを見ないわけにはいかなくなるのである。

 

歌舞伎座2月『花形歌舞伎』 への雑感 (2)

『青砥稿花紅彩画~白浪五人男~』の<白浪>とは盗賊のことである。そのいわれは諸説あるので省略して、<白波五人男>の見せ所、「稲瀬川勢揃い」の場についてである。「雪ノ下浜松屋の場」で風体の良くない男(狼の悪次郎・菊十郎)が、小袖を頼んだらしくその期日の催促にくる。店の中を眺めまわし、何かこの男は企んでいるなと思わせる。この小袖が「稲瀬川勢揃い」で<白波五人男>の着る小袖だったのである。「雪ノ下浜松屋の蔵前の場」の最後、この悪次郎が出てきて日本駄右衛門に罪科がばれ危ない状況を伝える。それを聞いた浜松屋の主人が自分からの餞別として、着物を渡すのである。筋書を読んで、初めて分ったのであるが、日本駄右衛門が、悪次郎を通じて小袖を頼んでいて、その着物は結果的には、<白波五人男>の死に装束でもあったのである。

「稲瀬川勢揃い」の派手な衣装は<白波五人男>を恰好よく目立たせるために考えたものとだけ思って居て、芝居の中にその衣装のことが組み込まれていたとは、今回まで知らずにいた。実際には、衣装は衣装部さんなり役者さんなりが考えだしたのであろうが、芝居の中では、日本駄右衛門がデザインし注文していたことになる。そうなると、「稲瀬川勢揃い」も違う輝きが増してくる。台詞も、黙阿弥さんが考えたものなのだが、この衣装に負けない台詞をいう五人でなければならない。自分たちで設定しているのであるから。黙阿弥さんは格好いい。自分が消える事の恐れなどないのである。むしろ自分が消えて役者の登場人物の光る事を望んでいる。作者に負ける役者は駄目だともいっているように思える。

日本駄右衛門(市川染五郎)・弁天小僧菊之助(尾上菊之助)・忠信利平(坂東亀三郎)・赤星十三郎(中村七之助)・南郷力丸(尾上松緑)は負けてはいなかった。

テープで、日本駄右衛門(七代目松本幸四郎)・弁天小僧菊之助(十五代目市村羽左衛門)・忠信利平(六代目尾上梅幸)・赤星十三郎(市村家橘)・南郷力丸(十三代目守田勘弥)を聞いたが、先輩たちのほうが朗々としているが、花形のほうは声の質の違いが面白かった。それぞれに声に特徴がありそれを楽しんでいた。もう一つは、雪ノ下といえば、鎌倉に残る町名であり、稲瀬川は静岡である。所がこの芝居は江戸の話なのである。役者さんは江戸前で演じる。

<白波五人男>の名乗りの台詞(つらね)には、鎌倉から浜松、そした奈良の吉野、福島の白河まで出てくるのである。江戸の人々は歌舞伎の芝居小屋の中で日本全国あるいは唐天竺までを旅するのを楽しんでいたのである。

駄右衛門では、生まれは遠州浜松、人に情けを掛川、金谷をかけてと雑談から旅での地名が出てきて大喜びである。弁天小僧菊之助は、江の島の岩本院の稚児上がり、髷も島田の由比ヶ浜、悪い浮名も竜の口、八幡様の氏子、鎌倉無宿と解かりやすい。忠信利平は、義経に関係してくる。月の武蔵野江戸育ち、廻って首尾も吉野山、足を留めたる奈良の京、けぬけの塔の二重三重(義経、弁慶、忠信等が頼朝の追手から隠れた場所)。赤星十三郎は、鈍き刃の腰越、砥上ヶ原に身の錆を、月影ヶ谷神輿ヶ嶽、など鎌倉近辺である。最後の南郷力丸は、大磯である。磯馴れの松の曲がり形(大磯東海道の様子)、その身に重き虎が石、覚悟はかねて鴫立沢。

大磯を少し付け加えると、東海道の宿場町で、東海道の松並木がのこっている。澤田美喜記念館。藤村が晩年の過ごした旧島崎藤村邸、地福寺には藤村の墓がある。鴫立庵は西行の歌ゆかりの、日本三大俳諧道場の一つ。新島襄終焉の地であり、宿泊跡地に碑がある。海側には政治家の別荘がある。大磯城山公園には、国宝「如庵」を模した茶室「城山庵」がある。数奇な茶室「如庵」 そんなわけで、現代人も芝居を見つつ旅をしているのである。

江戸と設定するよりも、辻褄が合わなくても、観客がもっと遠くまで想像を巡らし遊び楽しむ世界観を後押ししてくれている。盗賊が主人公という事もそれに一役かっている。

 

雑談から旅

ちょっとした雑談で驚くような事を聞くことがある。以前にも聞いていたのであろうが、そのことの引っ掛かりを掴めていないこともある。

かつてご近所に居たかた達と集まり話をしているうちに、彼女のお母さんがもう亡くなられておられるが、銀座生まれでお蕎麦屋さんの娘さんであったと。「銀座のどこだったのですか。」と尋ねると、「金春湯の向かい。」 え~!である。「私、銀座の銭湯には是非入らねばと思い金春湯に入ってきましたよ。」周囲の人が「銀座に銭湯があるの?」「そうなんです。あるんです。」彼女が生まれたときは、もうお母さんの実家もそこにはなかったそうである。お孫さんと銀座に行った時「おばあちゃん生き生きとしていたよ。」と娘さんが彼女に報告したそうで、やはり若い頃の自分を銀座で取り戻したのであろう。

静岡出身の仲間と冬は富士山が綺麗に見えるよねの話から、清水港から土肥までフェリーが出ていて富士を見るには良いと教えてくれる。駿河湾を富士山を見つつ横切るわけである。静岡から伊豆ね。それは素敵である。清水駅からエスパルス行きの無料バスに乗ると清水港に行ける。市内のバス停はちびまる子ちゃんの絵が描かれている。そうか、清水は次郎長さんもいるが、ちびまる子ちゃんの町でもあるのか。親戚の近くがちびまる子ちゃんの漫画家の家があり今は住んで居ないみたいだけど、ちびまる子ちゃんの漫画の町が残っているよ。いいな。漫画の町が残っているなんて。でも悲しいかな登場人物は思い出せても<町>が全然思い出せない。そこを通っても気が付かないだろう。

たまたま私が旅行パンフの切り抜きを持っていてここへ行ったことがあるか尋ねる。<加茂花菖蒲園(加茂荘)>と<花庄屋 大鐘家>である。<加茂花菖蒲園(加茂荘)>は江戸後期に菖翁(しょうおう)と称された旗本・松平定朝開発の古花が咲き誇り、<花庄屋 大鐘家>は300年以上の歴史をもち、母屋と長屋門は国の重要文化財の庄屋屋敷でアジサイの時期が良いらしい。<花庄屋 大鐘家>は彼女の実家の近くだという。行ったことはないが、看板を見た事があるよ。彼女は牧之原市出身であった。静岡県牧之原は私の頭の中に無かったので、以前にも彼女から聞いていたのだろうが聞き流していたのであろう。電車の走っていないところで、海沿いを走る国道150号線である。その先が浜岡原発。さらにその先に<ねむの木子ども美術館>がある。美しいところに原発が陣取っているのか。駿河湾と遠州灘を両脇に従えて御前崎である。山側に東海道の金谷があり、大井川鉄道である。<加茂花菖蒲園(加茂荘)>は掛川からの天竜浜名湖鉄道の方角にある。この天竜浜名湖線は「秋野不矩美術館」へ天竜二俣駅で降りて行ったので記憶に残っている。

バスも良い。東海道線真鶴駅からバスで中川一政美術館に行ったときはバスに揺られながら「岬めぐり」の歌が出できた。ツアーは楽なのであるが、記憶の中で道が切れてしまい、さらにツアーよりも安くいく方法は無いかと考える。時間を換算すると、安いかどうかは実際のところ分らない。雑談からまた、旅の青写真が増え何処かで使えそうである。

東海道神奈川宿から保土ヶ谷宿を読んでくれた友人が、<台之景>のおりょうさんが住み込んで働いていた料亭「田中家」の特別会席とお話つきのお食事の案内が横浜地域新聞に載っていたと新聞を送ってくれた。これうれしやと思ったが残念ながら予定ありの日にちであった。

情報は多いから、そこから取捨選択して自分の気に入った旅にする時間がこれまた、楽しくもあり、他の必要時間を奪う形にもなる。

 

 

神楽坂散策 (2)

私の要望で「宮城道雄記念館」へ。宮城道雄さんの胸像が朝倉文夫さん作である。ハ歳の時に失明している。邦楽に西洋音楽を取り入れ現代化した人である。一通り館内の展示を見てから建物の外に出ると、作曲や著作の時使用した「検校の間」があり、更に進むと宮城喜代子記念室がある。玄関を入った角に、アケビと思われる銅製の置物があり、三人とも気に入る。部屋には着物と帯が掛かっており、それぞれの感想が飛び交う。その畳敷きの廊下に座りしばし休憩。友人が茨城の岡倉天心の再建された六角堂に行った話から、釣竿を持った岡倉天心像が平櫛田中の作品で驚いたという。、彼女を小平市にある平櫛田中彫刻美術館に誘ったことがあり満足であったようだが、茨城の天心記念五浦美術館で天心像「五浦釣人」をみたのであろう。

それでは、今度は谷中の朝倉彫塑館に行こうとの話になり、廊下から見える屋根瓦を見るとお琴の琴柱(ことじ)のような飾りがある。朝倉彫塑館の瓦にも取っ手のようなものがついていた。あれは飾りなのだろうかと疑問を投げると、テレビで雪止めといっていたような気がする、近所にもあれがついている屋根瓦があるから聞いておくと言って聞いてくれたところ、<雪止め>であった。なるほど、朝倉彫塑館では互い違いになっていたりしていたが、役目があったのである。朝倉彫塑館は庭もあり、屋上庭園もあるから、彼女たちはそこの植物も気に入るであろう。

とにかくお昼にしようと宮城道雄記念館を出る。早稲田まで歩きたかったが、午後から雨ということで今回は辞めにして、<黒龍あります>のお蕎麦屋さんにする。一人は下戸で私は今飲むのを控えているので、見つけた人だけが飲む。お蕎麦は美味しかった。その後は喫茶でお茶とおしゃべりである。

天気がよければもう少し歩きたかったのである。大久保通りから早稲田通りに抜ける外苑東通りに、和算学者関孝和のお墓がある浄輪寺と、松井須磨子のお墓がある多聞院がある。

関孝和は映画 『天地明察』 (改暦1)では私は触れていないが、市川猿之助さんが関孝和をされている。 映画の役の印象としては、渋川春海より才能があるようであるが、名声を得るタイミングが遅れたような感じであった。誰でもが和算の問題を出しても良い場所があり、その問題を一番に解き、算哲の出した問題自体が間違っている事を指摘した人でもあり、算哲に有効な刺激を与えた人として登場する。思いもかけないところで名前をみる。松井須磨子にかんしては、島村抱月に出会う事によって実力よりも人気を博してしまった人と思う。今はそう思うのであって後に違う捉え方をするかもしれない。

ここを通り早稲田の演劇博物館にでも行こうと考えたが、またの機会とする。

神楽坂散策(1)で狛犬ならぬ狛虎の毘沙門天の善国寺のことを書いたが、JR日暮里駅で調達したパンフレット<川越・さいたま>に中山道の宿場町・浦和に兎の置かれている調(つき)神社の紹介があった。平安時代の全国の神社名簿である『延喜式神名帖』に記載がある神社なのだそうである。これまた珍しい狛兎である。色々あるものである。

 

神楽坂散策(1)

どちらかと言えば今回も超プチ散策である。友人三人で会う事となり何処か散策しようという事になり、神楽坂と決まった。神楽坂の細い路地はまだ歩いていなかったので好都合である。

JR飯田橋駅西口集合。行く途中の電車の中で違う仲間たち四人に会う。早稲田の穴八幡神社に行くという。ここで貰うお札を節分に張ると金銭的ご利益があるらしい。調べてみると冬至から節分までの2か月だけ授けられる、お札に「一陽来復」と書かれている。冬至、大晦日、節分の3回、夜中24時ちょうどに天井近くの壁にその年の恵方に向けて張るのだそうである。

その一人と話していたら隅田川の七福神めぐりの話となり、彼女の実家が鐘ヶ淵だという。『剣客商売』の小兵衛の住んでる所ねと言ったが通じなかった。今年の隅田川の七福神めぐりは17人連れて歩いたそうである。常磐津の『乗合船』を思い出すが、隅田川の七福神は文化文政期に、大田蜀山人や、谷文晁(たにぶんちょう)、酒井抱一といった文人たちが有名な谷中の七福神になぞらえてはじめたのだそうである。私が回った時は三囲神社から始めて多聞寺で終わったのだが、最後が淋しい感じだったと話すと、反対に回って賑やかなほうに進むのよと言われる。なるほどそうか、終わって一休みは浅草に近いほうが都合も良い。

友人達と神楽坂を歩き始める。地図の感覚よりも町並みは狭く、あれっと思うと通りを過ぎてしまい、またもどったりと説明のしようがない。最初の路地のお蕎麦屋さんに<黒龍あります>の張り紙に一人の友人は即反応を示し、このお酒なかなか出会えないとのこと。ではあなたの好みに合わせてランチの候補にしようという事になる。石畳の路地にお洒落なお店があったり、路地の奥に椿の美しい住宅があったりする。夜はまた雰囲気が変るのであろう。こちらに進みあちらに進み、毘沙門天の善国寺へたどり着く。狛犬が狛虎である。私が珍しいと言うと友人が京都にもあったよ、どこだったか忘れたけど凄く良かったよとの事。後で調べてメールをくれ、建仁寺の両足院とわかるが、思い出せない。建仁寺は京都めぐりの初期段階で行くから記憶も薄れているし、見る目が違っていたかもしれない。調べたら3月初め頃が冬季公開のようである。この善国寺は新宿山手七福神の一つでもある。由来など読んでお参りしてもどると一人の友人の姿がない。もどってくるとパンを抱えている。そういえば、あそこのパン屋さん美味しそうと言っていた。一切れづつ手渡され、お参りに来ていた男性にもおすそ分けしている。いつもの彼女らしい行動である。

そこから光照寺に向かう。途中でたわわな赤い小さな実の木が玄関脇に良い具合に覆っている。この二人は木や植物に強い関心があり、関心はあるが、名前を憶えられない者にとっては助かる。名前はピラカンサスと教えてくれる。家のかたが玄関前を掃除されていて、友人が鳥が食べに来ないんですかと尋ねると、鳥は飛びながらでは食べれないので止れる枝の回りの実を食べるので枝の近くの実は食べられますと答えてくださり、なるほどである。光照寺は歴史の古いお寺のようであるが、ここは牛込城跡でもある。牛込氏は赤坂、桜田、日比谷付近まで領有していたこともあったと説明版がある。そして地蔵坂の由来となった、木造地蔵菩薩坐像と荒削りの木像十一面観音座像の写真がある。この十一面観音坐像が良い。作者は円空と並び称された像仏聖・木食明満である。公開はされていないようである。鐘楼のそばにあるこの木は梅か桜か。枝垂れ桜に決定。

 

歌舞伎座(平成26年)新春大歌舞伎 夜の部(2) 

『乗合船恵方万歳』(のりあいぶねえほうまんざい) 苦手の常磐津の舞踏である。ところが、常磐津林中さんのCDが出てきたのである。いつ買ったのか記憶が定かではないから、かなり前であろう。もしかするとその時も苦手と思い名人ならと思って買ったのかもしれないが、レコードのSP盤のCD化であるから雑音が入っていて聞きずらい。その為もあってしまい込んでしまったのかもしれない。林中さんのレコードのなかでも通人や萬歳と才造の掛け合いなどの軽妙な芸でこれが一番売れ、『将門』は、林中さんのレコードによって愛好者を広げたようである。『将門』は物語性があるので常磐津でもついていけたのである。『乗合船』は江戸の隅田川風物詩で詞は分らないところもあるが、雰囲気はわかる。

船に、女船頭(扇雀)、白酒売(秀太郎)、大工(橋之助)、通人(翫雀)、田舎侍(彌十郎)、芸者(児太郎)が乗り合わせている。それに萬歳(梅玉)、才造(又五郎)が加わり、それぞれの踊りを披露するのである。それぞれの役者さんの役柄にあっていて、林中さんの萬歳と才造のやり取りの調子の良いリズム感は伝わっていたので、梅玉さんと又五郎さんの二人の踊りの軽さには乘ることが出来た。この踊り七福神にもかぶせているお正月らしい出し物である。

『東慶寺花だより』どうなるかと楽しみであった。話の前と後は滑稽本作者の信次郎(染五郎)の売れた滑稽本から始まり、駆け込みの人々を観察して新しい滑稽本が出来上がり目出度し目出度しで終わるのであるそ。おせん(孝太郎)の登場で江戸時代の妻の持参金は夫から離縁申し立てのときはそのまま妻のもので、妻からの離縁申し立ての場合は夫のものとなることや東慶寺に入ってからのしきたり、2年間勤め上げれば女は誰と結婚してもよいなど、駆け込み寺の仕組みが説明される。駆け込み女性や関係者を預かる宿柏屋に、信次郎はその仕事を手伝いつつお世話になっているのである。その宿の主人(彌十郎)も、もめ事をまとめる人であるから穏やかで宿の使用人も心得ているから信次郎も居心地がよい。さらに年頃の娘・お美代(虎之介)が信次郎を好いている。(原作では八つであるが、芝居では年頃の娘とした)おぎん(笑也)の話が加わり信次郎は東慶寺の中へ入り、信次郎が医者の修行中であることがわかる。おぎんは囲われる者でそのご隠居から自由になりたいのである。信次郎はそのご隠居(松之助)に意見をしたりもする。そこに男の惣右衛門(翫雀)が駆け込んでくる。東慶寺は男子禁制でそれはかなわない。惣右衛門の妻(秀太郎)が追いかけてきて、一悶着あるが、惣右衛門は妻に丸め込まれて渋々帰って行く。そのことから信次郎は、男と女、あべこべの世界の滑稽本の題材を思いつくのである。

原作の面白さは薄められたが、説明しなくてはならない部分を考えると上手くまとめたかなと思う。信次郎の世間に対する修行の身と言うことも加わり、完全でないところが人に好かれる原因でもあり、愛嬌でもあり、染五郎さんは楽しんで役にはまっておられた。そして有能なコンビが、キャリーバッグである。机にもなり本当によくできていた。ただ、滑稽本の粗筋の説明のとき、声が高く早口になり聴こえずらのが難点であった。染五郎さんの明るさ、宿に係る人々で駆け込みという題材に温かさが加わり、翫雀さんと秀太郎さん夫婦で笑いをとった。駆け込みの仕組みの説明がそれとなくわかる方法があれば、また違う題材の『東慶寺花だより 〇〇編』も可能である。

信次郎は円覚寺の僧医の代わりに代診したのであるが、お寺には専門の医者が居たようで、龍馬のお龍さんの父も医者であり、京都青蓮院の医者であった。

長唄舞踊『小鍛冶』 と 能『小鍛冶』で、<粟田神社、鍛冶神社、三条通りを挟んで相槌稲荷神社あたりにその痕跡があるらしい。粟田神社は行きたいと思っていた場所でいつも青蓮院どまりなので、是非行く機会を作りたい。>と書いたが、その後行く機会があった。栗田神社、鍛冶神社、相槌稲荷神社を参り、三条通りの 地下鉄東西線の東山駅へ青蓮院側の通りを歩いていると、「阪本龍馬とお龍結婚式場跡」の案内表示版がある。そこは、青蓮院の旧境内で塔頭金蔵寺跡で1864年8月初旬仮祝言とある。さらに、お龍さんの父が青蓮院宮の医師であった関係でそうなったとあった。お龍さんの父がお医者さんとは知っていたが、青蓮院のお医者とは驚いた。反対側を歩いていれば見つけていないのである。相槌稲荷神社は、住宅の路地奥にあり個人のお稲荷様かと思うような雰囲気で残されていた。そっと住人のかたの邪魔にならないように静かにお参りさせてもらった。