銀座再発見

スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』のパンフレットを探していたら、「東京文学探訪~明治を見る、歩く(下)」(井上謙著)が見つかる。NHKラジオのカルチャーアワーのテキストである。2001年であるから、その頃時間があれば訪ね歩こうと思って購入したらしい。ラジオは聞いていない。これが地図つきで参考になる。銀座の朝日ビル前の石川啄木歌碑の写真がある。

本郷菊坂散策 (2) で啄木さんが上野広小路から切通坂を上って貸間の住まいに帰った、その勤め先が銀座の東京朝日新聞社なのである。年譜によるとその以前に生活困窮から、金田一京助さんに助けられ「蓋平館別荘」 (現太栄館で玄関前に<東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる>の歌碑がある) に移り住み、さらに同郷の当時の東京朝日新聞編集長斎藤真一さんの厚意で校正係りとして入社し、切通坂上の「喜之床」二階に引っ越し家族を呼びよせるのである。

当時、銀座四丁目付近は新聞社がひしめき合っていた。東京朝日新聞は銀座四丁目交差点から並木通りに入りみゆき通りを横切り新橋方面にある。現在は朝日ビルとなり、そのビルを眺めるかたちで、啄木碑がある。例の美男子のレリーフつきである。<京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな>。銀座は京橋区であったらしい。この位置とするなら、電車本通線で銀座四丁目から京橋→日本橋→宝町三丁目→須田町まで行き、そこで上野線に乗り換え、須田町→万世橋→上野広小路へと移動し、そこから湯島天神を通り切通坂を登って帰路についたのではなかろうか。

この頃、啄木さんは自虐的な生活でローマ字日記を書いている。24歳。肺結核のため27歳(数え年)で亡くなるが、その頃交流していた土岐善麿さんが自分の生家である浅草にある等光寺で葬儀を行っている。土岐さんは、啄木さんの第二歌集の出版契約に奔走し、啄木さんの死後出版された歌集『悲しき玩具』は土岐さんの命名である。(第一歌集『一握の砂』)土岐さんの第一歌集はローマ字である。

第二の発見は、画家の岸田劉生さんが銀座生まれであったということである。世田谷美術館で『岸田吟香・劉生・麗子ー知られざる精神の系譜』を開催していて、そこで知ったのである。岸田吟香というかたが、「吟香が和英辞典をヘボン博士に協力して完成した礼として水薬の目薬の製法を伝授され、日本ではじめての目薬として売り出したのが精錡水だった。」(『父 岸田劉生』岸田麗子著) この目薬を銀座で売っていたのである。薬舗「楽善堂(らくぜんどう)」を銀座に構え、事業家、出版人、思想家、文筆家として活躍した人である。劉生さんは、東京日日新聞に「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」と題して銀座の生家の思い出を書かれている。それによると、<明治二十四年に銀座の二丁目十一番地、服部時計店のところで生れ、鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代まで育った>としている。鉄道馬車だったのである。麗子さんが訪れた時は、<銀座の本家は、表通りの立派な本家ではなく、表通りの一つ後ろの通りで、越後屋の裏あたり>としている。劉生さんの作品である<麗子像>や<坂道>などは、神奈川県藤沢の鵠沼(くげぬま)時代のもので、銀座などは思いもよらないことであった。ヘボン博士はローマ字を考案した人で、それを啄木さんや土岐さんが使ったのである。

もう一つは発見と言えるかどうかであるが、銀座の山野楽器で歌舞伎関係のDVDを購入したところ、特典として歌舞伎座のポストカードがついてきた。それが、第一期(1889年開場)、第二期(1911年~1921年)、第三期(1924年~1945年)、第四期(1951年~2010年)、第五期(2013年開場)の五枚の歌舞伎座の写真であった。これは嬉しかった。第一期と第二期は白黒で第三期は少しセピア色、第四期は真っ青な空で光の陰影がはっきりしていて、第五期は夜のライトアップされた姿で後ろのビルを闇にそれとなく隠している。歌舞伎座は三月、四月を鳳凰祭として公演している。今年は松竹が歌舞伎経営を始めた大正三年(1914年)から100年を迎えるので、ポストカードはその記念なのかもしれない。今回全ての席から花道七三を観えるようにしたことは画期的である。関西の劇場で二階席から花道が観えなくて信じられない経験をしたことがある。

森鴎外さんが、二つの歌舞伎座を知っていたのであるが、それが、第一期と第二期であることがわかった。鴎外記念館でそのことを書かれていて何時の歌舞伎座か失念していたので大したことではないが、気になっていた。これですっきりした気分になれた。

映画『日本橋』と本郷菊坂散策 (3)

 

朝倉彫塑館にて朝倉摂さんを偲ぶ

神楽坂散策 (2) で、朝倉文夫さんの住まわれていた<朝倉彫塑館>へ行こうと言っていたのであるが、ちょうど桜の時期と重なった。皇居の坂下門から乾門の通り抜けができると云う事で、ではそちらを先にして、最後は浅草寺の伝通院の庭も公開しているから最後はそうしようと予定したが、あまりにも皇居は待ち時間が長いようなのでそちらを止めて朝一を谷中とする。この友人達は予定通りが通用しないので、予定は立てるが未定である。

日暮里で待ち合わせ、少し早いので夕焼けだんだんの階段から谷中銀座へ。その前に経王寺で幕末の上野戦争のとき彰義隊を匿い砲撃をうけた弾のあとを山門の扉で確認し教えることができた。お店はまだ準備中であったがお酒屋さんの店頭にコップ酒を売っていて、すでにビールを飲んでいる若いカップルもいる。日本酒の好きな友人はさっそくゲットして、散策しつつの飲酒である。それも大目にみてくれる谷中銀座である。安い高いと値踏みしつつ、よみせ通りにぶつかったので引き返し<朝倉彫塑館>へ。そこで友人が「朝倉摂さんが亡くなったのよね。」「えっー!」である。「91歳。高校時代から好きで彼女に憧れてその頃舞台裏の手伝いしていたのよ。」初耳である。私はいつからであろうか。何かのコメントか対談かで、この人は素敵な人であると思ったような気がする。そして舞台美術にかける情熱が男女関係なく人として伝わってきたのである。さばさばされていて、大袈裟なことは言われない。そこも気に入り、どこかで仕事をされておられるであろうと思うだけで心強くなれる方であった。大きな劇場の舞台も小さな劇団の舞台も同じように面白がられて仕事をされていた。

彫塑館の中でスタッフの方に亡くなられた事を尋ねると、とても気さくな飾らない方で、父上のお墓に来られた時はこの彫塑館にも寄られて長居はせず、こちらに気を使わせない方であったそうである。テレビの紹介番組でも、年齢に関係のない色使いのカジュアルな洋服で肩に力が入らず前を見つめる方であった。素敵な生き方の女性先輩がまた一人旅立たれてしまった。笑顔を残されて。

それぞれ発見することが違うので面白い。一階の和室で池に面して座ると、その池が窓の下を通って流れているように見えると友人がいう。そういう風に作られていると。座ってみると本当に池は軒下で終わっているのに、軒下をも水が流れているように思える。そうみえる窓の高さなのである。人の目の錯覚は面白いものである。ここにも縁側の廊下の一部に畳敷きがある。これを<入側>という。これは、世田谷の瀬田四丁目の旧小坂邸でボランティアの方から教えてもらったのである。静嘉堂文庫美術館へ行ったとき、小さな門がありここから美術館に行けるのであろうかと樹木の中を上って行くと一軒の家があり入れるらしい。声をかけるとボランティアの方が出てきて家の中を案内してくれたのである。この高台は国分寺崖線沿いで、かつて多摩川を眺め多摩川で遊ぶ別荘地であったらしい。その文化財も立派であるが、飾られているお花に季節感があって古い家に合っている。桃の節句に合わせて活けて有り、無料で生け花を教える試みもしているそうである。こういう日本家の光の中で花を活けるのは心が落ち着くことであろう。といいつつ、なんとか言うのよと、<入側>が思い出せず後でメールで友人達に知らせたのである。

良く晴れた屋上庭園に白い清楚でありながら可愛らしい花の咲く木があった。何であろうか。解らないので帰りにスタッフの方に聞くと<梨の花>であった。朝倉摂さんを偲ぶに相応しい花のように思えた。<梨の花>

路地で見かけたお蕎麦屋さんでたっぷり時間をとり、地図も見ず千駄木方面へ気の向くまま歩き、三崎坂にさしかかると空模様が怪しい。雨の時は国立博物館に逃げ込む事にしていたら、バス停があり人が待っている。そのバスが上野公園にいくというので乗り込む。国立博物館は春の庭園公開時期なので、傘をさしつつのお花見である。常設展の小袖と打掛の色、刺繍などにみとれ、休憩場所で取り留めない話に花を咲かせる。思い起こすにこの友人達とはよく雨に合う。それも一時的な雨である。町歩きよりも口歩きなのでお日様が気をもまれて水撒きされるのであろうか。

 

 

東慶寺の水月観音菩薩

桜もおしまいなのに、梅の時期の話である。東慶寺から城ケ島へ (1) で、東慶寺の<水月観音菩薩半跏像>正式名は国立歴史博物館のほうが正しいのかもしれないが、遊戯は観音様としては軽すぎるということであろうか。岩にもたれかかり、水面に映る月を眺められているのである。個人的には観音様も全ての慈悲を放出され、ふっと水に映る月に心をうつしほっとされているようで心温まり好きなのである。今回は松岡宝蔵での公開であった。水月観音菩薩の背後に背を合わせて、同じようにくつろがれている<観音菩薩半跏像>があった。この二つの形は、中国では観音は補陀落(ふだらく)に住むといわれ、それと仙人が結びついていると考えられているそうで、<人>の風が吹いているのであろうか。鎌倉周辺にしか見られない形で、京都では菩薩として相応しくないとして受け入れられなかったのではとある。なるほどそいうこともあるかもしれない。仏様のお姿も、同じ仏様であっても、同じ人間が拝見しても、その心持によってその時々で変るものであり、そこがまた違う感覚を呼び覚まされるから拝見しに行くのである。

<聖観音菩薩立像>(木像)の土紋の装飾も記憶からは初めてである。衣の部分に<粘土を型に入れて作った花形をはりつけ、表面に彩色したもので<鎌倉地方独特>とある。鎌倉には鎌倉独特の仏の捉え方があったのであろう。

縁切り寺として、その資料も展示されている。さらに第二十世住持天秀尼は、豊臣秀頼の側室の子で、秀頼には別の側室にもう一人国松という男の子がいた。大阪城落城により二人の子は捕らえられ、国松は殺されてしまうが女の子は秀頼の息女として家康の許しのもと、天秀尼として東慶寺に入寺している。この天秀尼の遺品なども展示されている。今回は『天秀尼』・永井路子著(東慶寺文庫)を購入できた。

夏目漱石の和辻哲郎へ、マツタケをもらったお礼の書簡もあった。東慶寺に<漱石参禅百年記念碑>がある。長い文が刻まれているので、眺めるだけで詳しくは読まなかったのであるが、「資料紹介 漱石と縁切寺東慶寺」(高木侃著)の「続」と二冊(小冊子)あったので買わせてもらった。それによると、漱石さんは明治27年に円覚寺塔頭帰源院にて、釈宗演管長と宗活のもとで参禅し、大正元年に東慶寺を訪れ宗演師と再会されている。

円覚寺での参禅については、小説『門』に書かれている 。「宗助は一封の紹介状を懐にして山門をはいった。」で始まり「 「少しでも手がかりができてからだと、帰ったあとも樂だけれども。惜しいことで」 宗助は老師のこの挨拶に対して、丁寧に礼を述べて、また十日前に潜った山門を出た。甍を圧する杉の色が、冬を封じて黒く彼の後ろに聳えた。」で終わっている。碑のほうは、宗演老師の書簡と漱石さんの二十年振りに老師に会ったときの「初秋の一日」の文章の一部が刻まれていた。

宗演師も漱石さんも知らない事であるが、漱石さんの父親が名主をしていたところ住居していた女性が東慶寺に駆け込んでいたのである。小冊子にはそのことを詳しく書かれてある。

漱石さんは大正5年50歳で亡くなられている。漱石さんの希望で、葬儀の導師は宗演師であった。

少しかたい話になってしまったが、東慶寺のお花は梅とその根元に可愛らしく可憐に咲く黄色の福寿草であった。梅と福寿草。なかなか相性の合う組み合わせであった。

 

 

映画『日本橋』と本郷菊坂散策 (3)

2012年締めの観劇 『日本橋』で、観劇の感想を書いたが、映画『日本橋』(舞台公演を映画としてのこしたもの)を観る。時間がたってみると、かつて自分はこのように観ていたのかと意外とかつての自分に対し冷たいものである。今回は、<瓦斯灯>が気になって仕方が無い。一石橋で、お孝がガス灯の陰に隠れて佇み、葛木と巡査のやり取りを聞いていてガス灯の光を受けて姿をあらわす。照明の具合がいい。ガス灯はこんな具合に柔らかく照らすのであろうかと感じ入ってしまった。実際はどうあろうと私の中でこれがガス灯の灯りとインプットしてしまった。映画の場合、アップになる。舞台の場合は自分が好きなようにアップにしたり、全体を見たりと自在にやっているので、舞台の録画中継のとき、納得できなくて、ただ粗筋を理解しただけという場合もある。

さすが映画も作られている玉三郎さんである。重要な台詞のとき、聞かせどころ、観させどころを心得ておられる。アップが効果的で台詞がリアルに伝わってくる。そして涙しつつ、現実にこのような美しさはあり得ないが創造することは出来るのだと考えさせられる。汚れているはずのお孝がよごれをきちんと引き受ける潔さが伝わる。自分で播いた種を綺麗に刈り取って、次の種を播くためのさらな地を残していく。葛木はその時気がついたのではなかろうか。自分が作った美しさを人に求める時それは消えていくことを。彼が求める理想の人はこの世にはいないのである。しかし、鏡花さんは自然主義の自分をさらけ出して許しを請うことは文学の世界として相容れないものであった。消えても違う世界に美しくとっておきたいのである。触れることができなくなっても。

音がよかった。下駄の音。雪を踏む音。流れてくる長唄など(と思うが)。そこが舞台と違ってはっきり聞こえ映画の平板さを補ってくれた。

日本橋のコレド宝町は凄い人である。『日本橋』の映画を上映していたので行ったので何があるのかよく分らないが、こういうのは苦手なので早々に本郷菊坂散策の取りこぼし拾い作戦に移る。

上野広小路から仲町通りを歩く。現在は様々の歓楽のある通りである。通りの横道の空間から桜と不忍池の弁財天の屋根が見える。お蔦のころはもっと姿を現していたのであろう。その方向に手を合わせる人の姿も美しいものがある。そこから湯島天満宮の下を通り、切通坂を上る。瓦斯灯がきになったが時間がないので寄らない。しばらくは舞台映画のガス灯で十分である。啄木さんの案内板、壺の最中の壺屋さんもどんどん通り越し、本郷三丁目交差点へ。

申し訳ないが、再び交番で、「文京ふるさと歴史館」を尋ねる。春日通りをそのまま、信号3つ過ぎた右手の横道の左である。途中通り向かいに啄木さんの下宿していた床屋さん、理容院アライが見えた。一つ拾う。「文京ふるさと歴史館」についたのが4時40分過ぎ。5時閉館なので資料を買い、周辺地図をもらい、地図で<坪内逍遥私塾跡><宮沢賢治旧居跡>を教えてもらう。ゆっくり再訪することを告げ館の前の道を進むと炭団坂で急な階段である。その横に<坪内逍遥旧居跡>の案内板。メモする時間はない。炭団坂を下りて右手にいくと何人かの女性グループが<宮沢賢治旧居跡>の案内板をよんでいる。まずは三つ拾ったので安心。

地図を観て菊坂に上がり、菊坂を言問通りまで進む。今回は近道をしようとはせず、確実性を重視する。そこから新坂を上り、啄木ゆかりの旅館「大栄館」があり地図どおりに行くと、<徳田秋声旧宅>が見つかった。現在も人が住まわれているので案内板を静かにながめ元来た道をもどり、白山通りに出て<樋口一葉終焉の地>を目指す。そこは3回ほど行きつもどりつしてしまった。反省として旧東海道を歩いているわけではないのであるからして距離感覚を短くである。無事拾い集められたようである。歩いている途中で、明日の町歩きの問い合わせがくる。皇居の乾通り抜けは混雑しているようでやめることにする。

まずは何とか本郷菊坂散策は拾い集めることが出来た。詳しいことは後日何かの折に。

 

 

本郷菊坂散策  (2)

菊坂に行く前に石川啄木さんも歩いた道としての案内板があり、メモを無くしてしまったので何んと書かれていたか探さねばと本をめくっていたら出た来た。(「東京文芸散歩」坂崎重盛著) その前に本に載っている地図から池之端の仲町通りが見つかる。春日通りに平行して不忍池側の不忍通りとにはさまれた位置に仲町通りとある。この通りの角から、お蔦さんは不忍池の弁天様に手を合わせたのであろう。皮肉な結果になってしまうが。

本によると、池之端の料理店「清凌亭」で佐多稲子さんが働いていて、菊池寛さん、芥川龍之介さん、久米正雄さん等作家達の話を耳にしていたとある。

啄木さんは東京朝日新聞の校正係りとして上野広小路から切通坂を上り、本郷通りを横切り下宿先の床屋喜之床の二階に帰ったのである。春日通りの途中に啄木さんの通った道として案内板がある。<二晩おきに、夜の1時頃に切通の坂を上りしも、勤めなればかな> 喜之床は明治村に移されていて、そのあとには理容院アライがあるようであるが、そこまでいかなかった。本郷3丁目交差点手前に老舗の藤村菓子舗がある。もっと手前では、小さいお店だが菓子店があり人が何人か入るので立ち止まってしまったが、壺の形をした最中を売る壺屋総本店であった。

本郷3丁目交差点から菊坂を目指すのであるが、二回ほど来ている。一度は人まかせで、二度目は交番で道を尋ねたので、今回も交番でお世話になる。菊坂はすぐ分かったが、近くに文京ふるさと歴史館があるので、どちらから行ったらよいか尋ねると、そちらから菊坂だと分かりづらくなるでしょうから菊坂の帰りに寄ってはどうですかと言われる。菊坂の入口に案内板があり、宇野千代さんが<西洋料理店・燕楽軒で給仕のアルバイトをしていて、宇野さんを目当てに今東光さんが通った>とあった。なるほどである。

前の二回では寄れなかった「本郷菊富士ホテル」跡を目指す。道標のあり探すのは難しくなかった。とにかく凄い数の文学者や著名人が泊っていたのである。現在の環境からすると想像できないのである。

「大正から昭和にかけてのころとなると、多くの作家や芸術家達が止宿したホテルというより、いわば高等下宿であったが、もともとは、「帝国ホテル」などに次いで「東京で三つ目のホテル」として、外国人を対象にしたハイカラなホテルであったようだ。そのエキゾチックさに、作家たちはひきよせられていったのだろう。」(「東京文芸散歩」) ここは様々な物語のあった場所である。

菊坂にもどり上がっていくと、一葉さんが通った伊勢屋質店があり、そこから徳田秋声旧宅に行きつこうとしたが行きつけなかった。再び菊坂にもどる途中で旅館「大栄館」があり、玄関前に啄木さんの歌碑がある。ここに啄木さんは一時寄宿したらしい。菊坂にもどり一葉さんの旧居跡へ。菊坂から脇の階段をおりるのであるが、適当に目星をつけて下りて路地をのぞくと今も住民の方が使っている井戸の上の手押しポンプが見える。ここである。生活圏なので、その前を静かに通る。また菊坂にもどればよかったのにそのまま先の階段を上がったために迷路に入ったように、方向を見失い白山通りに出てしまった。そのまま白山に向かえば一葉さんの終焉の地に行きついたのであろうが、頭が回らずそこで『本郷菊坂散策』は中止とした。

<文京ふるさと歴史館><宮沢賢治旧居跡><坪内逍遥私塾跡><振袖火事の本妙寺跡>などがあるのだが、次の機会とする。<坪内逍遥私塾跡>は真砂町にあり、『婦系図』の主税の真砂町の先生もこのあたりに住んでいたことになる。司馬さんの「本郷界隈」によると、坪内逍遥は私塾常磐会には3年いてそばの借家に移っている。そのあとに正岡子規さんがこの常磐会の寄宿舎に入っている。この高台の下に一葉さんが住んでいた。

「子規の友人の夏目漱石も一度ならずこの崖の上の寄宿舎に同窓の子規をたずねてきているのだが、崖下に一葉という天才が陋居(ろうきょ)しているなど、知るよしもなかった。」

 

 

本郷菊坂散策 (1)

友人たちと歩いた谷中から、今度は本郷を歩こうと、湯島天神から始める。梅の三分咲きの頃である。湯島天神となれば菅原道真公であろうが、浮かんでくるのは、<湯島通れば思い出す お蔦主税の心意気>で泉鏡花の『婦系図』で新派である。いつどのようにこの歌の一節を記憶したのか覚えていない。<ちから>が<主税>と書くのも知ったのは随分あとである。

司馬遼太郎さんの『本郷界隈』によると、明治の文明開化の象徴ともいえる瓦斯灯(ガス灯)がこの境内に何基かあったことに触れ、「瓦斯灯があればこそ主税はお蔦をここへよび出せるのである。ふつう、村落の氏神の境内などには夜間灯火がなかった。もし湯島天神もそうだったら、両者は闇の中を手さぐりでにじり寄らざるをえず、芝居にならない。」と記している。なるほどと思いつつ、そこは工夫して石灯籠に火を灯し、背景に月を描き、月明かりとするであろうなどとつまらぬ事を考える。しかし明治という時代性を考えると<瓦斯灯>が似合っている。市川雷蔵さんと万里昌代さんの映画『婦系図』の録画が何処かにあるのでどうなっていたか、そのうち調べてみる。新派の舞台は瓦斯灯だったと思うが。ガス灯も復元されたらしいが、司馬さんの本は今、桜の時期に読み気がつかなかった。

宝物殿へ入館してきたが、ここで思いがけず川鍋暁斎さんの「龍虎図」の衝立一双に出会う。龍も虎も威圧的ではなくどことなく愛嬌がある。意外な出会いである。湯島の梅に因み、奥村土牛、横山大観、川合玉堂、竹内栖鳳等の梅の絵があり、竹内栖鳳の絵に引き付けられた。富くじの箱が展示されていて、司馬さんによると「この神社は幕府から社領をもらわず、そのかわり“富くじ”の興行をゆるされ、経費をそれでまかなっていた。」とある。当殿のパンフによると、目黒不動、谷中の感応寺、湯島天満宮が三富と称されたいへんなにぎわいをみせたらしい。落語の「富久」は深川八幡宮である。

男坂から下りようとすると、<講談高座発祥の地>の碑を目にする。文化4年(1807年)湯島天満宮の境内に住み、そこを席亭としていた講談師・伊東燕晋が家康公の偉業を語るにあたり庶民より高い高座とし、北町奉行小田切土佐守に願い出て認められたとある。なるほど初めから高かったわけではないのである。男坂を下り、美空ひばりさんの「べらんめい芸者」<通る湯島に鳥居はあれど 小粋なお蔦はもう居ない>と湯島天神から春日通りを登る。この切通坂は先にある麟祥院に春日局のお墓がありそれに因んだ名らしい。

ここから少しきつくなる。坂の勾配ではない。ここからのメモをなくしてしまったからである。さあどうなりますか。手さぐり坂である。

映画と新派の『婦系図』が見つかった。

映画『婦系図』(1962年) 監督・三隅研次/脚本・衣田義賢/出演・市川雷蔵・万里昌代の湯島天神はガス灯である。実際にはガス灯の明かるさはどの程度であったのであろうか。電球の街灯でさえ一部分を照らしていたのであるから、ほのかに明るいという感じであろうか。

新派は、新橋演舞場1985年公演の録画である。演出・戌井市郎/脚本・川口松太郎/出演/片岡孝夫(現片岡仁左衛門)・水谷良重(現水谷八重子)・波野久里子・安井昌二・長谷川稀世・英太郎・菅原謙次・杉村春子で、大きな石灯籠の灯りであった。こちらの方が場面としては薄暗い。お蔦が「あなた、いい月だわねえ」の主税の答えは「月は晴れても心は闇だ」である。月の姿はないが、台詞の中に<月>が出てくる。「ほらあの月を見てごらん。時々雲もかかるだろう。まして星ほどにもない人間だ。時には闇にもなろうじゃないか。」(主税)

あの周辺を歩いているので、台詞が立体化する。お蔦が自分が巳年なので弁天様にお参りしてくるという。それは上野不忍池の弁天様である。あそこまで行くのであろうかと距離的にどうかと思ったら、戻ってきたお蔦は仲町の角からお参りしたと告げる。江戸の切絵図でいえば池之端仲町の角ということであろうか。お蔦の別れる際の台詞が「切通しを帰るんだわね。思いを切って通すんじゃない。体を裂いて別れるよう。」

喜多村 緑郎さんのお蔦が良かったので、湯島の場面は泉鏡花さんが新たに書き足した場面らしいが、この辺はよく歩いていたらしく風景を上手く台詞に反映している。ただ、一度、石灯籠ではなくガス灯で舞台をやって欲しいとも思う。お蔦が石灯籠に腰かけての形がなくなるが、どうもあそこで形を作っていると意識され、リアルさから引きもどされるのである。それまでの作られているが、清元の「三千歳」の語りに合わせて動くお蔦の自然に流れるような動きが一瞬、それこそ引き裂かれてしまうのである。新しい明治のガス灯の淡い灯りのなかで、闇に向かう恋路というのもなかなかいいではないかと勝手に思い描いてしまった。ガス灯でも月の台詞は邪魔にはならない。

映画のほうは清元の「三千歳」は流れない。替わりに境内の石畳と下駄が作り出す音である。

 

坂のある町 『常陸太田』 (2)

太田城跡があるが、今回の旅の目的ではないのでパスさせてもらう。この辺りを一番長く治めていたのは佐竹氏である。町の西側に細い源氏川が流れている。その名前の由来は判らないが、佐竹氏の祖先が清和源氏ということが関係しているのであろうか。私が尋ねた土地の人は若いかただったからか判らなかった。関ヶ原の戦いのあと、佐竹氏は秋田へ国替えとなり、徳川御三家の一つ水戸徳川の統治となる。水戸徳川家墓所があり、二代藩主徳川光圀(黄門さん)の隠居所「西山荘」、さらに光圀の生母の菩提寺「久昌寺」があり、水戸藩にとっても重要な位置を占めていたようである。

「西山荘」の光圀さんが住んだ西山荘御殿は、没後保存されるが、野火で焼失し、規模を縮小し再建される(1819年)。そして震災で傾き現在、半解体修復にかかっている。

「西山荘」に入る前に、水戸黄門漫遊記でお馴染みの<助さん>の住居跡の標識がある。案内に従って上っていくと、竹に囲まれた場所に案内版がある。

助さんー本名佐々介三郎宗淳(むねきよ)- 延宝2年(1674年)35歳のとき黄門さんに招かれ彰考館の史臣となる。全国各地を訪ね貴重な古文書を収集して「大日本史」編纂に力をつくす。元禄元年(1688年)彰考館総裁に任命され同9年、総裁をやめ小姓頭として西山荘の黄門さんに仕える。同11年59歳で亡くなっている。黄門さんが元禄13年(1700年)71歳位で亡くなっているから、助さんは黄門さんの前に亡くなっているわけである。助さんの住んで居た所に当時使用されていた井戸も残っている。現在は池を巡り上って行き竹の音も爽やかな心地よい場所である。ただ近くに道路があるらしく、車の音が時々静寂を破るのである。

そこを下り整備された公園を進むと<ご前田>があり、光圀が自ら耕された水田の一部である。一領民となった証しとして13俵の年貢を納めたとある。

「西山荘」の受付で入場料を払い門をくぐる。<守護宅>でわずかながら御殿に飾られた調度品が見れる。もともと質素に暮らし「大日本史」の編纂をなしとげるための隠居でもある。その中に、<布袋画賛>と題した布袋様が大きな袋に寄りかかっているユーモアな光圀筆の絵があった。その説明に、布袋和尚は中国の定応大師(じょうおうたいし)という実在の高僧のことで弥勒菩薩の化身とあがめられ、世俗をのがれ大きな布を背負っていたとある。こうありたいと思う黄門さんの願望であろうか。

住まいの方は修復中なので見れないが、透明の覆いで囲まれ所どころ中が見れるように穴が開けられているので、修復の様子は見ることができる。そちらは成る程と思いつつ、庭を散策して失礼する。出来れば、時間をきめ、説明してくれるともっと修復にも関心が向くのではと思ったがそこまで手はかけられないであろう。

旅行案内に<太田落雁>とあり、ここから夕景に雁の下りる姿が美しかったところなのであろう。旅行案内所でそのことを聞くと、水戸八景の二つがこの町にはあってもう一つが<山寺晩鐘>でそちらの方が良いかもとのアドバイス。<西山荘>から駅へ帰る道すがら寄れそうでありそちらを目指す。源氏川を左手に沿って歩いていくと、光圀の生母菩提寺の久昌寺の案内があるが、まだこれから登らなくてはならないので失礼する。太田二高を過ぎると西山研修所、山寺晩鐘の案内があり、その道を上って行く。

人に聴くのが一番と西山研修所で<山寺晩鐘>を尋ねる。すぐ裏手にあった。残念ながら木々に邪魔され下の景色はぼんやりである。鐘の音を聞くのであるからそれもいたしかたない。今は碑のみである。案内板によると、光圀が檀林久昌寺の三昧堂檀林として開き、天保14年(1843年)廃され、それまで160年全国の学僧が集まった。天保4年(1833年)斉昭(慶喜の父)が水戸八景のひとつとして命名。ただの風光明美としてだけではなく、藩士弟たちを八景勝地約80キロを1日一巡させ、鍛錬させることを計ったとされるから、めまいを起こしてしまう。斉昭が周囲の寺々の打ち出す音に歌を詠んでいる。 <つくつくと聞くにつけても山寺の霜夜の鐘の音そ淋しき 斉昭>

ここから下に下る道を何か仕事をしていたかたに尋ねると、碑の上の場所の奥に道があるという。「時々転んで尻もちをつく人がいますよ」「暗いから襲われない様に」になど冗談をいわれる。尻もちのもちはいただけませんから気をつけて下る。源氏川にかかる東橋を渡り大きな通りにぶつかり、その前方の左手に下井戸坂への入り口が見える。あの坂だけ、上り下りをしなかった坂である。そのまま駅へ向かう。

西山研修所には雪村の碑もあったらしい。雪村は佐竹氏一族の出で碑の揮毫は横山大観である。<太田うちわ>あるいは<雪村うちわ>と呼ばれる四角いうちわがある。<西山荘>のそばのお土産やさんで見たが水戸八景も描かれていた。紹介では後継者は年配の女性のかたであった。

<天狗党>に関しては、かなり深い歴史性があるようである。直木賞を受賞した朝井まかてさんの『恋歌』は樋口一葉の師、中島歌子さん が主人公の小説で、中島歌子さんは天狗党に参加した水戸藩士と結婚していた。驚きである。

旅行案内冊子によると、鯨ヶ丘から西山荘に行く途中に<若宮八幡宮>があり、ここの境内にある六本のケヤキが立派で、樹齢650年以上のものもあるらしい。近頃大木に出会うとトントンと肩を叩くように呼びかけたくなる。呼びかけられなかったのが残念である。

 

坂のある町 「常陸太田」 (1)

水戸黄門でお馴染みの水戸光圀公が隠居後の10年を過ごした<西山荘(せいざんそう)>のある場所が、水戸からの水郡線常陸太田駅から歩けて、そこは城下町で坂の町である。旅行雑誌の常陸太田をコピーしていざ出陣。

水戸からの水郡線は途中の上菅谷(かみすがや)で常陸太田方面と郡山方面とに枝分れしている。そのため水戸から常陸太田行きなのであるが、郡山方面からくる列車との待ち合わせで上菅谷で15分列車は停まっていた。ローカル線の楽しさでもあるが、動きだす時になって、あれまあーホームに出て見れば良かったと後で気が付く。水戸から待ち時間もいれて1時間弱の乗車時間である。震災で被害にあったであろうが、屋根なども綺麗になり、ソーラーを設置している家があちらこちらに見える。畑の水のあるところは薄く氷が光っている。長閑である。

常陸太田駅に着くと隣接している観光案内にこちらの旅の目的を告げアドバイスをしてもらう。今、町の一角でお雛様を飾っていて道路からも見え、飾ってあるお店の中にも入って下さいとのこと。坂に面した町並みである。新たに解り易い地図をもらい歩き始める。大きな坂として七つあり<太田七坂>と呼ばれている。その第一の木崎坂を上がってゆく。広い道だが傾斜があるので道のすき間から見える建物がどんどん下に移動する。先ずは目指すのは下井戸坂で左手にそれと分るが、さらに進み杉本坂を目指す。

細い急な坂が左手に出現。表示がないのでその先に進むと立川醤油店があり、お雛様を飾ってある。お店の裏の母屋にも飾ってあり自由に入ってよい。入らせてもらい立派なお雛様たちを拝見する。帯の上に並べられたお人形もかわいらしい。外に出ると、<天狗党の刀傷あとがある>と書かれている。何処であろうともどると、ちょうど商店の奥さんが来られ「飾ってあるお雛様の後ろです」と案内して見せて下さった。鴨居の柱にもあり、そこは判らないように削られていた。天狗党が軍資金集めに来るという情報があり、住んでいる方達は避難して無事で、その頃は造り酒屋さんをしており、その酒樽が壊されて横の坂を川の様に流れたと。それが、杉本坂である。蔵造りの母屋は大火を免れ230年位たち、お店のほうも築180年はたっている。お店も天井に明り取りがあり、障子などもすてきである。震災前に補強していたので難を逃れたそうである。頂いたこのお店を紹介した新聞記事のコピーによると、先祖は東京の立川市周辺を治めていた豪族であったらしい。今のご主人は17代目とある。

お酒の川の話を聞いた後なので急な杉本坂を下るのもお酒に追いかけられるようで印象深い坂となる。途中に小さな山田神社がありその門柱に<杉本坂>と彫られてあった。<杉本坂>を下り下の道を進むと今度は右手に<十王坂>が現れる。この坂は綺麗に舗装され幅も広い。その坂を上り立川醤油店にもどる道すがら、震災で傷んだ網におおわれた郷土史料館分館があり、その隣にレンガ張りの郷土史料館の梅津会館がある。この町出身の梅津福次郎さんが北海道函館に渡り海産物問屋で成功し寄付し、昭和11年まで役場として、昭和35年まで市役所として活躍していた建物である。残念ながら震災のため史料館も現在は休館である。

この町の方々は、お雛まつりを通して震災よりももっと前から続いている町の歴史を一層大切に語られているように思えた。会う方会う方親切に教えて下さるのである。説明書きも丁寧で、満州から戦前送ったお雛様が行方不明となり、戦後届いたお雛様もあるのである。同時にお店の出来た年代も紹介していて古くからのお店が多いのである。この一帯は<鯨ヶ丘>といい、それは鯨の背のような町というところから命名されたようである。立川醤油店の一本向かえの通りの右手には、<板谷坂>が下がっていく。2本の通りに対し左手は<杉本坂>が右手は<板谷坂>が下っていて2本の通りは<鯨の背>なのである。この板谷坂も上から見ると美しい景観の坂で、前方に阿武隈連山が並び、昔はその下に田園が広がっていて、<眉美千石>と言われたと標識に書かれている。若い娘さんが写真を撮っているので旅行者かと尋ねたら「地元で住まいは少し離れていて、初めてゆっくり町を眺めているんです」と。灯台下暗しと言う事であろうか。

創業明治33年の大和田時計店ではお雛様と同時にに110年以上動き続けている大時計を見ることができる。ゼンマイ仕掛けの前の分銅式の時計である。中のは機械はスイス製で木彫りの外枠は日本で作られ、鳳凰と牡丹の模様である。創業当時から時を刻んできたのである。

さらに進むと<塙坂>があり、その坂を下ると<東坂>を斜めに上って行くことが出来る。右手に阿武隈連山を眺めつつ。

太田七坂 <木崎坂><下井戸坂><杉本坂><十王坂><板谷坂><塙坂><東坂>

 

 

『隅田川』 推理小説から歌舞伎まで (2)

私がDVDで観た歌舞伎『隅田川』(清元)は、斑女の前(はんにょのまえ)が六代目中村歌右衛門さんで、舟人が十七代目中村勘三郎さんである。そして清元が清元志寿太夫さんである。驚いた。歌右衛門さんの動きと志寿太夫さんの清元が見事に合っている。歌右衛門さんが描く世界と志寿太夫さんが語る詞がぴったり重なっている。さらに舟人の勘三郎さんが、全く無駄のない動きで歌右衛門さんに寄り添っている。歌右衛門さんが我が子を探し、その死を知った時の悲嘆と狂気を演じられているそばで、どうする事も出来ずに支えたり、落涙する姿の勘三郎さんは演じているのではなく、演じられている歌右衛門さんの芸の流れに乗っているだけにみえる。それほど演じているとは思えない芸なのである。

斑女の前が花道から、白い小さな花の枝を手にし、打掛の片外しで塗り笠を背負い、尋常では無い姿で登場する。静々と何かに導かれるような出である。京の都の白河から人商人(ひとあきびと)にさらわれた我が子を探し訪ねて隅田川にたどり着いたのである。花道で塗り笠を鏡に見立てて髪を直すあたりなども、如何に苦労してたどり着いたかがわかる。来合わせた舟人との問答になり、飛び交う鳥に対し、業平の <名にし負はば いざこと問わん 都鳥 わが思ふ人は ありやなしや> の歌にかけて母親は問う。舟人は、去年旅の疲れから倒れた子供を人買いが置き去ったと話す。その子の国は都の白河、父の名は吉田、年は十二歳、その名前は梅若丸とわかる。お二人の聴く親と語る舟人の動きが美しい。悲しい話がもっと切々と伝わる。

舟人はその子の埋められた対岸まで斑女の前を舟に乗せ連れて行く。梅若丸の墓は < 今はこの世になき跡に 一本(ひともと)柳枝たれて 千草百草しげるのみ > 母は、ここを掘って亡骸でいいから一目会いたいと嘆く。 舟人はそれを止め、念仏を唱えてやりなさいという。舟人は道端の花を摘み母親に渡す。その土墓に母は自分の打掛を掛けてやり母は自分の髪の乱れを手で撫でつけ気持ちも新たに念仏を唱えるがその念仏の声の中に梅若丸の声があったとして気がふれて梅若を探しまわる。花道で我が子を何度となく抱こうとする母。どうする事も出来ず涙する舟人。勘三郎さんの情が歌右衛門さんの芸を際立たせる。

< 幻の 見えつ隠れつするほどに 空ほのぼのと明けにけり > 土墓に掛けた打掛を撫ぜ、悲しみゆえに身をよじり握りしめる斑女の前に上る朝日の光が紫炎となって射すのである。

隅田川七福神の多聞寺と白髭神社の間の木母寺は梅若伝説のお寺で、境内には梅若塚とガラス張りの梅若堂がある。また、そばの梅若公園には晩年を向島で過ごした榎本武揚像がある。

そして隅田川の対岸には、梅若の母が梅若の死を知り尼となり妙亀尼と称し庵を結んだとされ、その伝説の塚として妙亀塚がある。二つの塚を結ぶ橋としては白髭橋が近いであろう。

 

『隅田川』 推理小説から歌舞伎まで (1)

葛飾北斎の「深川万年橋下」は、深川の小名木川から流れ込む隅田川を前方に描いている。その隅田川は人気者で様々のところで活躍している。

小旅行とかちょっとの電車の行き来ように文庫本を持つ。本の厚さ、字の大きさ、適度に文と文の間に空間、読み返さなくて良いほどの流れのものと、パラパラと開いて検討して持参するのである。そうして選ばれた本がまたしても、内田康夫さんの本『隅田川殺人事件』となってしまった。ああ、隅田川ねの軽い反応を反省させる広がりであった。

先ず、浅見光彦の住んでいる位置と母親の雪江夫人の浅草近辺を戦前、戦中、戦後の見てきた風景が判るのである。浅見光彦の住まいと言うより母と兄のもとに同居させてもらっている住まいは、東京北区西ヶ原で、飛鳥山に隣接している。飛鳥山は八代将軍吉宗がサクラなどを植え、江戸庶民の遊行地としたところである。音無川(石神井川)に掛かる音無橋の下は公園になっていて、飛鳥山からこの橋したあたりが光彦少年の遊びの縄張りだったようである。さらに先へ行くと、王子の地名の由来の王子神社があり、さらに進むと落語の「王子の狐」でお馴染み王子稲荷神社がある。源頼朝が太刀を寄進したともいわれ、関東稲荷総社の格式がある。

雪江夫人は「花」の歌から青春時代に行った隅田川を連想する。 ~春のうららの隅田川 上り下りの舟人が かいの雫も花と散る~  「花」は武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲である。明治33年で内田さんは明治33、34年の学校唱歌として、「荒城の月」「鉄道唱歌」「箱根八里」「おつきさま」「お正月」「うさぎとかめ」「はなさかじじい」などをあげている。参考までに附け加えるなら、滝廉太郎も演奏した上野にある旧東京音楽学校奏楽堂は残念ながら建物が古いため現在は公開されていない。その建物前にある滝廉太郎像は朝倉文夫作である。建物が修復され公開されると良いのだが。

雪江夫人は戦中は空襲のため火を逃れて隅田川に飛び込んだ人々が亡くなった様子を聞き、その無惨さに隅田川に近づくことを頑なに拒否しつづけている。ところが、隅田川での殺人事件に雪江夫人の知人が関係し、光彦と隅田川や浅草を訪れることとなるのである。この殺人事件、吾妻橋から出ている水上バスで行く浜離宮とも関係があり、読みつつ行った所を思い出していた。浜離宮は『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』の御浜御殿である。浜離宮の横を流れている築地川は昭和20年代には新橋演舞場の後ろを流れていたのである。この一冊だけで、再び新旧の東京見物の一部が出来てしまうのである。

~見ずやあけぼの 露あびて われにもの言う桜木を~  隅田川で手を合わせてから、桜の時期の水上バスもいいであろう。飛鳥山公園の桜もいい。もう一つ出てくるのが、能の『隅田川』である。<愛するわが子・梅若丸を人買いに連れ去られて、物狂いになった母親が、都からはるばる東国にやってきて、隅田川のほとりで梅若丸の幽霊に出会う> そう来れば、こちらとしては、中村歌右衛門さんの『隅田川』のDVDを見ないわけにはいかなくなるのである。