東慶寺から城ケ島へ (3)

『東慶寺花だより』にも、城ケ島がでてくる。『東慶寺花だより』は、見習医者になるか滑稽本の作者になるか未だ定まらない主人公・信次郎の目から見た、縁切りのために東慶寺に駆け込む女人とその関係者、逗留する旅籠の柏屋の人々の様子などが花の名と共に語られる。その柏屋の八歳になる一人娘・お美代に信次郎は話をねだられ昔々おられた東慶寺の梅月尼についてのお話をする。(実在の方なのかどうかは調べていない)

梅月尼様は上総の国の武将の御姫様で、八歳のとき安房の国の武将の若様と婚約する。この二人は一度だけ顔を合わせている。その後、御姫様の父は戦で討死。御姫様が敵に殺されてはと恐れた母がお姫様を東慶寺に預けたのである。母はその後敵に殺されてしまう。御姫様は梅月尼として両親の菩提を弔って20年がたつ。その頃関東に大合戦が起こり、許嫁の安房の国の若君が大将として城ケ島から鎌倉に攻め入り梅月尼を奪い去り、安房の国に連れて行き幸せに暮らすのである。安房の国から若君は三浦半島をいつも眺めていたのであろうか。城ケ島から鎌倉にまっしぐらに進んだ若君の雄々しさが想像できる。お美代もその話に涙し、それから信次郎に話をせがむようになる。信次郎は、大人の汚れた部分をも耳から伝え聞いてしまうお美代の居る環境に対し、御姫様をお美代と同じ年齢から話を設定し作りあげたのである。夢を見る前に現実を感じてしまうお美代の感性に、違う風を吹き込んだである。

この話の後でお美代が語る言葉は八歳の子が言えるとは思えない内容で、反対に大人が言えば空中分解しそうな言葉でお美代ちゃんが言うから可笑しみのある真となる。

「このあいだ、円覚寺のお坊様がお説教で、この世はだれが騙してだれが騙されるか、嘘と噓との寄り合い所帯、確かなものは仏の御教えだけじゃと、そうおしゃっていた。けれど、その噓と噓との寄り合い所帯のこの世に、恋という、もう一つたしかなものがあったのね」

お美代ちゃんの言葉を借りると、白秋さんはそのたしかな恋で名声を失い恋を成就させ三崎で俊子さんと共に暮らすのである。そして様々な思いの中で詩作し、「城ケ島の雨」も作り、俊子夫人の結核療養のため小笠原の父島に渡る。その恋は破たんするが歌集『雲母集』で「兎に角此の雲母集第一巻は純然たる三崎歌集である。而してこれらの歌が全く自分のものであり、私の信念が又、真実に自分の心の底か燦めき出したものに相違ないという事は、自分ながらただ有難く感謝している。」と書いている。恋というたしかなもののほかに、歌というたしかなものもあったということであろうか。

現在の「城ケ島の雨」の一節を刻んだ白秋碑は城ケ島大橋の下に位置する。歌からすると橋よりも雨と舟が似合う。

雨はふるふる 城ケ島の磯に 利休鼠の雨がふる                          雨は真珠か 夜明けの霧か それともわたしの忍び泣き                       舟はゆくゆく 通り矢のはなを 濡れて帆あげたぬしの舟                      ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意氣                    雨はふるふる 日はうす雲る 舟はゆくゆく 帆がかすむ

かつての御姫様と若君様は城ケ島から舟で安房の国へ渡ったのであろう。その時は梅の香るころ、雨ではなく、月の美しい夜。そのほうがお美代ちゃんが喜びそうなので。

 

白秋歌碑

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東慶寺から城ケ島へ (2)

京急の三浦海岸駅からバスで三崎港へ。調べた限りでは三崎口駅よりもバスの本数が多いからであるが、それでも1時間に1本程度である。よく解らぬが予定にないバスが、あまり待つことなく来てくれた。テレビで路線バスの旅をする番組があるが、あそこまでは行かなくともこの辺りも路線バスは少ない。地形的には高い位置をバスは走る。30分ほどで三崎港に着く。

旅行ガイドブックの紹介によると、三崎港から城ケ島渡船「白秋」で城ケ島に渡るルートでそれも気に入ったのである。12人乗りの船で他に乗船者が見当たらない。船を運転する方が乗っていいと言う。お金を払って、乗船し何人か来るまで待つのだろうかと思っていると動き出した。貸し切りである。300円で船を貸し切ってしまった。10分に満たない時間ではあるが。城ケ島に着くと、もし船がいなければそこにあるボタンを押すと10分で迎えに来るからと教えてくれる。成る程そういう仕組みになっているのか。お店のある方向と山には水仙が咲いている事も教えてくれた。

年末暴飲暴食でひどい目に合い、お粥とスープが続いていたので軽くミニマグロ丼を半分食べる。周りは豪華に海の幸を食べているが、我慢である。灘ケ崎の岩棚まで降りもどって丘の上の楫(かじ)ノ神社で平和祈願。航海安全と大漁祈願の漁師さんの神社のようだが今年はどこの社寺仏閣でも願いは全て平和祈願に決めた。

お土産屋さんを通って途中から階段を登り真っ白な城ケ島灯台へ。灯台の後ろには伊豆半島と雪の富士山がうっすらと見える。長津呂(ながとろ)の磯も見える。この千畳敷の長津呂の磯から浸食されて穴のあいた馬の背洞門までが大変であった。岩礁は見ていると美しいが波に削られ起伏があり、平になると砂場で足を取られ歩きずらい大した距離ではないが時間を要した。削られた岩穴から地平線を見るのも海の自然の金魚鉢のようである。馬の背洞門から上の道に上がると両脇に水仙が植えられているがまだ花の数は少ない。水仙まつりは12日からだそうで山の上の散策コースを歩くともっと咲いていたのかもしれない。

ウミウ展望台から眺めるとウミウであろうか鳥が飛び回っている。海に突き出た切り立った崖とその上の緑が広い海に一言物申しているかのようである。道なりに歩いていくと県立城ケ島公園である。展望台からは千葉房総半島、伊豆大島、伊豆半島がパノラマ式に見える。公園の東側に安房崎灯台がある。下までおりて上がってくるのが大変そうなのでそのまま公園の入り口に向かう。風に任せて曲がっている松の下に水仙という取り合わせがなかなか良い。そこから「北原白秋記念館」に向かう。

白秋の三崎時代は短いが凄い時間であったことを知る。「城ケ島の雨」の雨に色をつけ、それも<利休鼠>としたことに感動してしまうが、白秋さんにとってはもっと深い色であったのであろう。記念館で「北原白秋 その三崎時代(抄) 『雲母集』を歩く」(野上飛雲著)を購入。これがとても参考になる。「彼の官能的唯美時代で、この年(明治43年)の二月の強烈な官能美をたたえた作品「おかる勘平」を掲載した『屋上庭園』は、その内容が検閲当局の忌諱に触れて、発禁処分を受けた年であった。」の部分にはどんな「おかる勘平」なのか知りたい。こんな所までおかると勘平が追いかけてくる。頼朝が設けた三つの御所・桜・桃・椿と白秋の関係など場所も訪ねられ歌も調べられて書かれているので、またまた三崎の関連場所を歩きたくなる。帰りはバスで城ケ島大橋を渡ったのであるが、渡ってすぐに「椿の御所」の名前のバス停があった。大椿寺(だいちんじ)が「椿の御所」の跡だそうで、白秋さんが朝な夕な散策したところである。見桃寺は「桃の御所」でここに白秋の歌碑がある。「寂しさに秋成が書讀みさして庭に出でたり白菊の花」上田秋成の「雨月物語」を読んだときの気持ちである。

「ただ一人帽子かぶらず足袋穿かず櫻の御所をさまよひて泣く」 「桜の御所」は本瑞寺で、この歌はノートに記されていながら棒線を引いて消されていて『雲母集』のなかにも収められていづ、世の中に出ていないのだそうである。あまりにも実写過ぎて歌としての空間がないということであろうか。筆者も「白秋が三崎に流離した当時の風姿を知る上で貴重な歌である。」としているが、その当時の白秋さんの姿そのものと思う。そして三崎から城ケ島の木々の緑が雨のベールを通して見た時<利休鼠>だったのである。

 

東慶寺から城ケ島へ (1)

迎春と思って居たら、もう七草である。今年はプチ旅からの出発である。

昨年は何から始めたのであろうと振り返ったところ腕に抱え込んだ継続 (小村雪岱)であった。『平家物語』『日本橋』『「日本橋檜物町』と繋がっていたようである。今回のプチ旅の<東慶寺>も本に関係する。そしてそれは、歌舞伎座新春歌舞伎の新作演目として『東慶寺花だより』が登場したからであり、原作が井上ひさしさんの『東慶寺花だより』なのである。その前に古本屋で鎌倉の旅の本を購入したところ、三浦半島が載っていた。持ち合わせの鎌倉の本には三浦半島は載っていない。最後の案内が城ケ島である。<奇岩と波と島 白秋の詩が聴こえる 絶景の隣には漁港>地図を見ているだけで次はここと決めている。城ケ島に行く前に<東慶寺>と<浄智寺>に寄ろう。

北鎌倉8時半着である。<東慶寺>は8時半開門である。北鎌倉なら円覚寺、東慶寺、浄智寺、明月院、建長寺、そこから鶴岡八幡宮であろうか。あとは健脚次第だが、今回は楽勝である。時間も早いため人もまばらである。北鎌倉駅から東慶寺が近づくと、離縁のために東慶寺に駆け込む女性達を世話した宿がこの辺にあったのであろうかと想像たくましくなる。お寺の前は鎌倉街道。この辺りは山ノ内と言われ山ノ内街道ともいわれる。テレビで新春東西の歌舞伎が紹介され『東慶寺花だより』の中継もあったが、録画してまだ見ていない。芝居の方の観劇は千穐楽に近い日にちになる。それが終わってから録画を見ることにする。

東慶寺>の歴史に関しては興味深いことが沢山あるが説明は省く。お寺にも『東慶寺歴史散歩』の小冊子が置いてあり購入した。「会津四十万石改易事件」などという項目があったのである。その冊子の最後に詳しくお読みになりたい方は有隣新書『東慶寺と駆込女』をお求めくださいとある。井上ひさしさんの『東慶寺花だより』(文春文庫)にも「特別収録 東慶寺とは何だったのか」があり、解り易く解説されている。

東慶寺に小さくて可愛らしい観音菩薩がある。<水月観音菩薩遊戯座像>である。いつも拝観できるわけではない。予約が必要である。10年ほど前、上野の国立博物館で『鎌倉ー禅の源流』展がありその時お逢いしている。今年は2月4日~4月13日まで東慶寺で公開のようである。(再確認されたし)東慶寺でお逢いしたいのでまた訪れねばならない。花としては蝋梅がまだですがせっかくですから少しだけと奥ゆかしく咲いていた。岩壁にイワタバコと書かれていたが岩肌に群生する花の名前のようである。これも見てみたい。いつ頃咲くのであろうか。本堂の屋根の線が美しい。松ヶ岡宝蔵は時間が早く開いていないので次の機会とする。

 

 

水月観音菩薩遊戯座像     (絵葉書より)

 

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今回は周囲の雰囲気を想像したかったので次の、浄智寺へ。山門への石段の感じがいい。石段の薄さ、ゆるくデコボコしているのが優しい。大正12年の震災で破損し昭和の初期に復元された南北期の観世音菩薩が裏の方にひっそりと佇ずまれているのが印象的である。古くて大きな高野槇がありやぐらも多く、トンネルの先のやぐらの中の布袋尊がユーモアがあり福がきそうである。お腹をなでると元気がもらえるそうで、もちろん元気をもらってきた。鎌倉・江の島の七福神の一つである。浄智寺の横の出口を抜け山に向かっていくと少し竹林があり、道が細くなり登り道となる。源氏山公園に続く道である。こちら方面に錢洗弁財天、佐助稲荷神社がありそこから大仏坂を下って行くと大仏の高徳院そして長谷寺へと続くのである。長谷方面からこの道で東慶寺へ入る女人もいたのである。寿福寺から長谷まで裏大仏の道を歩いたことがあるので、その辺りのことが小説『東慶寺花だより』に出てくると様子が浮かんでくる。東海道の宿場の名前が出てきたりすると嬉しくなり読んでいてとても楽しかった。

山道は途中で引き返し北鎌倉駅に向かい久里浜を目指す。反対に駅からこちらに向かう人の多さに驚く。早い出だしで正解であった。

 

会津若松町歩き (2)

会津武家屋敷は想像していたよりも広かった。主は家老屋敷・西郷頼母(さいごうたのも)邸の復元の建物であるが、建築面積は280坪、部屋が38ある。設計図が見つかり再現されたとある。開け放しであるから見学していても寒さが身にしみる。ここを出る時知ったのであるが、中を見学出来るのは12月から3月の雪の時期だけで、あとは、外からの見学なのだそうである。外周りに雪があるので外からは見て周れないからである。それは幸運であった。説明書きもよく見える。

御成り御殿といわれる一角がある。藩主と重役だけが通される別棟の部屋の一角である。そこで接待をするためのお茶などを用意する賄の間の柱の釘隠しは銅製ではなく、鋳物である。銅は湯気で緑青という毒物が発生するからである。西郷家家臣の執務する部屋。家族の部屋。使用人の部屋と台所。四つのブロックに分けることができる。家族の仏間は西郷家の自刃の間である。その再現は屋敷内の片長屋の資料館にある。自刃された人々の中には、お城に入るとなると城内の食料などを減らすことになるという考えも含まれていたようである。逃げる事をせず、負担もかけずの選択死なのであろう。頼母さんの場合はもう一つ、和議恭順説を主張し軟弱とも言われていたので、その事も家族として頼母さんの負い目とならない様にとの気持ちもあったのかと想像する。痛ましい事である。

西郷頼母は、会津藩松平家譜代の家臣で千七百石取りである。一石(いっこく)が米二俵半であるから米俵にすると、4250俵であろうか。どういう経緯かは解らぬが、榎本武揚の艦隊と合流し終戦をむかえている。各地の神官をつとめ一時期日光東照宮の宮司であった旧主君松平容保と再会を果たしている。晩年は城の近くの十軒長屋で居住し74歳で亡くなる。

司馬遼太郎さんの街道をゆく『白川・会津のみち』によると、容保は入浴以外肌身放さず長さ一尺ばかりの細い竹筒を身につけていて、死後竹筒を改めると「なんと孝明天皇の宸翰二通だった。」「会津人はつつましかった。この二通で、薩長という勝者によって書かれた維新史に大きな修正が入るはずだのに、公表せず、ようやく明治三十年代になって、『京都守護始末』に掲載するのである。」と書かれている。

頼母邸に入る門前先に西郷四郎像がある。この人は頼母さんの養子になったかたで、「姿三四郎」のモデルである。講道館を入門8年を経て明治23年に去り長崎に居をかまえ、東洋日の出新聞の編集責任者として活躍し病気療養中の広島の尾道で大正11年57歳で亡くなっている。投げられても地につくまで身をひるがえす柔軟さで「猫」と呼ばれていた。特技「山嵐」は彼の独特のもので、その後は禁じ手となる。新聞特派員として大陸や日露戦争、辛亥革命の報道でも活躍し、孫文らとも接触があったとも言われている。内田康夫さんの『風葬も城』に「夏目漱石の『坊ちゃん』に出てくる熱血漢「山嵐」も会津っぽで、江戸っ子の「坊ちゃん」とともに、いつも損ばかりしている。」とあり、<山嵐が会津っぽ>であることに気づかせてもらったのだが、さらに西郷四郎さんは夏目漱石の視野にも入っていたわけである。

持ち帰ったパンフや観光案内を見ると、いつものように行けなかった所、行きたい所が出てくる。一度行くと時間配分や使う交通手段も決まってきて計画は立てやすくなる。来年も沢山のプチ旅が出来ることを願っている。そして今まで平和な国であったことに感謝し、新しい年も平和な国でありますように。宇宙のことはよく知らないが、人間のような生命体が存在しているのは地球だけであろう。その地球で戦争をしないと誓って実行している国があるというのは誇れることだと思う。

お菓子の会津葵も買ってきた。カステラにあんが入っているハイカラなお菓子である。「小公子」を翻訳した若松賤子(しずこ)さんも会津出身で、ハイカラさんの多い町である。今度訪れることがあれば、会津の郷土料理を食したいと思う。風土からくる保存食の工夫が見られる。みしらず柿であろうか、列車から柿の実を残した木が多く見られた。この旅には「古典夜話ーけり子とかも子の対談集ー」(円地文子・白洲正子著)を持参したが面白く、旅で読み終わり、お二人には古典の魅力を鼻先に突き付けられ微香を嗅がせられてしまった。

 

会津若松町歩き (1)

会津若松から郡山までの列車の旅を日の暮れる前と限定しているので若松市内は4時間弱の町歩きとなる。途中で日が暮れては、列車からの雪景色も見えなくなってしまうからである。

七日町駅で降り、駅の前に観光案内があると電話で聞いておいたので、まずそこで相談する。4時間とすると何処をまわれるか。会津若松は若い頃一度来た事がある。鶴ヶ城での魚のにしんを保存食として漬けておく鰊ばちが印象深かった。本郷焼きである。それとやはり飯盛山の白虎隊のお墓である。今月国立劇場で歌舞伎の「主税と右衛門七」を見たが、大義名分があろうと若者の早すぎる死は理不尽である。今の時代そういう状況が現出したらそれは大人や老人の浅はかな思慮のなさである。

数十年前に来た時は夏で暑く、鶴ヶ城への坂がきつかったように記憶している。今回は寒さが厳しく駅の階段を急ぐと冷たい空気が呼吸を妨げるような感じなので無理をしない方針である。案内の係りの方に色々聞き、七日町通りを歩きそこからレンガ通りの野口英世青春通りまで行きそこから、まちなか周遊バスのハイカラさんに乗り武家屋敷に行く事とする。観光案内のすぐ横に風葬となっていた会津と幕府軍の死者を葬ることとなったお寺、阿弥陀寺がある。伴百悦という五百石の会津藩士が身分を非人に落として作業にあたったという。阿弥陀寺には1281体が埋葬されている。当初の墓碑は民政局から撤去を命ぜられ、明治6年に墓碑を立てることが出来た。個人では斎藤一、黒河内伝五郎の墓もある。

七日町通りは古い建物が点在していて飲食店や様々の販売店として活躍している。ぶらぶら眺めつつ歩いていると、清水屋旅館跡の碑があり、解説版には歴史上の人物が宿泊した旅館跡とある。吉田松陰、土方歳三、新島襄・八重夫妻、山本覚馬の娘・峰、青年時代の森鴎外(林太郎)。森鴎外の名があるとは意外である。その先に骨董屋さんがありその二階に昭和なつかし館として昭和30年代の生活を詰め込んでいた。紙芝居用の自転車などもあった。そこの姉妹店の珈琲館が野口英世青春館の後ろにありランチもやっているというので、ランチはそこにきめる。野口英世青春館は野口英世が火傷でうけた手の傷を手術をしてくれた会陽医院跡で、その手術によって野口英世は医学を志し、その医院の書生となり勉学に励むのである。勉学の部屋が二階に残っており見学できる。窓からは野口英世のみた風景が見れるのである。英世さん勉学だけではなく、初恋の地でもある。その初恋の人・山内ヨネさんに出会ったと思われる、英語を習いに行き洗礼をうけた教会も残っているようだ。帰ってからパンフレットで知る。

ランチをした珈琲館も蔵を利用していて、丁度ランチにきていた5人のOLからは生の会津弁をたっぷり聞かせてもらった。やはり寒いところ特有の重さのある発音である。バスの時刻表は案内でもらっているので、レトロなボンネットのバスで武家屋敷に向かう。途中でお菓子会津葵の暖簾を目にする。本店であろうか。バス停・奴郎ケ前で近藤勇の墓の標識があったが、今回は寄れない。バス停から15分位歩くようだ。バス停・武家屋敷前到着。寒いの一言である!

 

会津雪景色の旅

龍王峡散策 <雪の時期、この線で会津まで雪見の旅がよい、などと次の旅を思い描く。>と書いたが雪の時期である。どの位の雪があるか調べもせず実行する。

東武鬼怒川線の最終、新藤原から会津高原尾瀬口までが会津鬼怒川線、会津高原尾瀬口から西若松までが会津線、西若松から会津若松を通って郡山までがJR磐越西線(ばんえつさいせん)である。

司馬遼太郎 『白河・会津のみち』 <内田康夫さんの『風葬の城』は、会津漆器の職人が殺される。大内宿や近藤勇の墓が出てくる。そして犯人はだれか。事件が解決し、浅見光彦は母雪江から、会津葵のお菓子を買って来るよう言いつかる。こちらにも興味がある。>の雰囲気も楽しみたい。

新藤原からの旅とするが、ここはまだ雪は無い。湯西川温泉を過ぎるとまだらに雪が現れる。トンネルを抜ける度に雪の量が多くなり、気持ちもワクワクしてくる。次の中三依(なかみおり)温泉駅に着くと一面雪である。新藤原から30分弱である。駅に入ってくる上り列車を撮る若者もいる。松の緑に刷毛で白をのせている風情も何とも言えない。もっと雪が多くなると白いマントを着た松となるのであろうか。

会津高原尾瀬口ではホームに雪が残っており、家々の屋根にも30センチほど雪が積もっている。風で積もった雪が煙のように飛んでいる。この電車は会津田島まで行き、そこで乗り換える。今度の電車は一両である。ホームの雪を踏みつつ乗り換える。会津が如何に雪国であるかが解る。旅行ツアーによく入っている観光地塔のへつりの駅がある。駅から歩いて5分くらいだそうである。ツアー2回ほど来たことがある。雪の塔のへつりも良いかもしれない。内田さんの小説「風葬の城」に出てくる芦牧温泉南駅を過ぎると大川ダム湖なのであろうか湖面が見える。大川ダム湖が若郷湖なのであろうか。持っている旅行雑誌にも載っていないのである。駅としては、次が大川ダム公園で次が芦牧温泉である。駅の案内板に載っていたのかもしれないが見過ごした。西若松で会津線は終点であるが、この電車は次が七日町、そして次の会津若松が終点となる。少し入り組んでいてややこしいのである。さらに七日町(なぬかまち)のほうが、古い町並みが残っていそうなので、七日町駅で降りる。

七日町での町歩きは飛ばして、帰りの会津若松から郡山の磐越西線の雪景色とする。会津若松駅過ぎしばらく走ると田畑が雪野原となり白一色である。東側の遠い山は霞み雪が降っているのであろう。西側は雪野原の先の雲のすき間から夕日がさしている。一日天候は曇りで最後に太陽が少し顔を出してくれた。雲がなければ眩しくて雪野原を眺めていることは出来なかったであろう。いい具合である。しばらくその景色を堪能する。そして山が迫るとトンネルに入る。来た時と反対に次第に雪が少なくなって行く。磐梯熱海から雪が消えていく。郡山では完全に雪はない。この変化に会津という土地の冬の自然風土を多少ながら感じることが出来た。寒さも肌にしっかり触れた。今回の列車の旅は短いながら雪を満喫することができた。

雪を見るだけで会津若松まで行かないで引き返してもよいと言っていた仲間もいたので、参考まで教えてあげることにしよう。会津田島の祇園会館か塔のへつりを見て引き返すのも良いかもしれない。

 

 

旧東海道・神奈川宿から保土ヶ谷宿(~戸塚宿)

やっと旧東海道歩きの仲間たちの神奈川宿から保土ヶ谷宿に参加できた。

東海道川崎宿から神奈川宿で、仲間たちの心残りを書いた。<神奈川宿に入る手前に生麦事件の場所がある。薩英戦争にまで発展した事件である。それよりも歩いた仲間たちは、京急生麦駅の近くにあるビール工場に寄りビールが飲みたかったと残念がっていいた。心残りはそれらしい。> 次の神奈川宿から保土ヶ谷宿の時、生麦に寄ってビールを飲んではどうかと提案したら早速、キリンビール横浜工場の見学に申し込みをしたと連絡が入り、実行となった。ビール飲むなら行くという人も現れた。

京急電鉄の生麦駅で6人集合。無事保土ヶ谷まで着くのであろうか。途中に生麦事件の碑があったが工事中のため一時的に移転して現在の場所にある。

キリンビール横浜工場は予想以上に広大でさらに工事をしているらしく見学入口まで、ぐるりと回った感じである。ホップを手にし、麦芽を口に。香ばしい。ビンビールのビンを軽くしたり容器にも工夫をしている。なるほどなるほどと思っているうちに、お待ちかねの試飲である。種類を変えて三杯までOK!一杯目がまろやかで美味しい!その時ビールの美味しい注ぎ方を実演してくれてそれに見惚れてて慌てて二杯めを。そこで時間切れ。しっかり要領を解っていて三杯目をクリアーした人もいる。ビール工場を二つ周るツアーに参加し、六杯きちんと飲んで来たそうであるからさすが。心残りがまたまた残った人もいたが、もう次の事を考えていた。ビールを自分でつくり送ってもらうという有料体験コースもあり、これは人気で抽選だそうでこれに次は挑戦するようだ。

生麦駅にもどり、そこから電車で神奈川駅へ。人任せなので呑気なものである。一人の時は地図とにらめっこである。生麦事件のイギリス人は横浜の根岸競馬場からの帰りという話がでる。あの競馬場は外国人用の競馬場だったとか。調べていないので事実かどうかは定かではない。どんどん歩いていて、先導者が、あれ!あっちは横浜よね。旧東海道を飛ばしてきたのかな。立ち止まりつつ、その交差点の高台側にある欄干が青海波の模様の橋が気になっていた。狭い橋のようであるが、人が歩き車が走る橋。何故かあの橋が気になるんだけど。うん。気になる。とにかくあそこの橋まで上がってみよう。

正解。旧東海道であった。もどることとする。神奈川駅から青木橋を渡り、大覚寺と書かれている高台まで、まず上がるべきであったのだ。先導者これが東海道よ。さっきのの橋が上台橋。そこを神奈川駅方面にもどると、台の関門跡がある。さらに台の茶屋跡。広重の<台の景>の場所である。そこに案内版があり、今も残っている「田中家」さんという料亭は坂本竜馬のおりょうさんが働いていたところだそうだ。そこに広重の版画の写真もあり、まさしく東海道の面影がある。田中家さんの前身さくらやもある。かつては左手は海だったのである。横浜は海だったのですからね。

ふりだしにもどり本覚寺へ。横浜開港の時、アメリカ領事館となったお寺である。下まで降りてまた最初に通った道を引き換えす。途中食事をして、今時珍しくにぎやかなシルクロード天王町商店街を通り、帷子(かたびら)川にかかる帷子橋をわたり無事JR保土ヶ谷駅へ。

人任せは楽で楽しいのですが、観劇の事を先行したため時間も立ち、地図を見直していないので途中の記憶が抜けている。困ったものである。今回はビール工場と広重の東海道五十三次の神奈川宿<台の景>が残れば良しとしましょう。

保土ヶ谷駅前のお蕎麦屋さん「桑名屋」でおそばをいただきました。

次の保土ヶ谷宿から戸塚宿は参加できないようなので自力で何とかしなければ。

 

追記 : 保土ヶ谷宿から戸塚宿

保土ヶ谷宿から戸塚宿までは、戸塚から保土ヶ谷に逆方向で歩きそのためか権太坂が見つからず再度権太坂を探しに。見つけることができ無事歩きました。

歩いた日にちは違いますが一応、保土ヶ谷宿から戸塚宿で写真を並べてみました。

本陣跡案内板

保土ヶ谷の旧東海道は「歴史の道」として案内板を設置していました。小田原北条氏の家臣苅部豊前守の子孫が本陣を守っていました。三軒の脇本陣がありました。(藤屋、水屋、大金子屋)

脇本陣は普段は一般旅行客も宿泊させられますが本陣は参勤交代のためのだけの宿なので継続が難しくなる本陣もあったようです。

脇本陣(水屋)跡と保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設案内板

一里塚跡・上方見附跡

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樹源寺  

境内

旧東海道途中の小祠

旧東海道権太坂改修記念碑

権太坂案内板   権太坂の由来は旅人が坂の名前を老人に尋ねたら権太と自分の名前を答えた。

権太坂の石碑

権太坂案内板   もう一つの権太坂の名前の由来。権左衛門という人が代官の指示でひらいたので「権左坂」と名づけられたがいつのまにか権太坂となった。


境木立場跡   権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くが見晴らしは良かった。

境木地蔵尊

武相国境之木   武蔵と相模の国境

焼餅坂の案内板   坂の近くの茶店で焼餅を売っていた。

  

品濃一里塚   

一里塚公園

益田家のモチノキ

護良親王(もりながしんのう)首荒井戸   護良親王については深くは知りません。 

江戸方見附跡  戸塚宿に入るわけです。

吉田一里塚跡

清源院   徳川家康の側室だったお万の方が家康の供養をした。

境内に千手観音のあった朝日堂石碑。その右は心中歌碑。近くで心中があり住職が歌碑を建てた。   <井にうかぶ 番(つがい)の果てや 秋の蝶>

旧東海道 戸塚から藤沢 (1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

『菅野の記』と白幡天神社

「菅野の記」は幸田文さんが、千葉県市川の菅野での父・露伴さんと娘・玉さんと暮らし、露伴さんを看取ったことを書かれた作品である。生半可な情緒的な文ではない。その町の人々をも観察し、介護の事、そこで生じる人間としての葛藤、ふと目にする自然のことなど、細部に神経が鋭く自分にも他人にも家族にも動いていて文学者の神経であり目である。

その中で、白幡天神社のことが出てくる。この神社の裏にあたる所に住まわれていたのである。「白幡神社の広場の入口に自動車がとまっている。いなかのお社さまはさすがに、ひろびろと境内を取って、樹齢二百年余とおぼしい太い榎が何本も枝を張っていた。海岸が近いから若木のときには相当揉まれて育ったのだろう、皆それぞれに傾斜をもって節だっていた。ものはその収まるところどころによる。榎はこんな広い処ではなかなかよかったし、枝のふりにはおもしろい趣きがあった。」「小石川蝸牛庵の前にも二百何十年とかいわれる大榎があった。」「小石川伝通院の榎は孤独で焼け傷んでいた。」白幡神社の榎から三か所の榎について語られる。

白幡天神社は、もとは白幡神社といい、源頼朝が源氏の御印の白幡を掲げたことに由来し、祭神は竹内宿禰(たけのうちすくね)で菅原道真を合祀して、白幡天神社と称された。幸田文さんが住まわれたころは、白幡天神社となっていたが、土地の人は古い呼び方で親しんでいたのかもしれない。この神社は永井荷風さんも出没したところで、水木洋子市民サポーターのかたも子供の頃そこで荷風さんを見かけたと言われていたので、訪ねてみた。

京成八幡駅ホームから荷風さんがかつ丼を食べに通われた大黒家が見える。踏切を渡ると荷風の散歩道として小さな荷風さんの顔が並ぶ京成八幡商美会通りである。狭い道幅に車と人が通り、その横を自転車が慣れているのかスイスイ通って行く。水木洋子さんが利用したうなぎ屋さん。荷風さんが利用した文房具屋さん。幸田文さんが利用し「菅野の記」にも出てくる魚屋さんなどが今も商売をされている。荷風さんが通われた銭湯の高い煙突も見える。文さんが利用したお酒屋さんを左に入ると白幡天神社である。文さんや荷風さんが住まわれた頃は田舎であったのであろうが、今はびっしり住宅があり、神社もこじんまりとしていて、掃除が行き届いて落ち葉も掃き清められていた。

鳥居を潜った左手に幸田露伴さんの文学碑があり、裏には<幸田露伴は小説「五重塔」「運命」等の作者である。昭和12年第1回文化勲章を受章、同21年に白幡天神社近くに移り住み菅野が終焉の地となった。露伴の晩年の生活をしるした娘の幸田文の「菅野の記」には当時の白幡天神社が描かれている。 平成22年8月吉日>とある。

東側の入口の左手には永井荷風さんの碑もあり、永井荷風の名の右側に<松しげる生垣つづき花かおる 菅野はげにも美しき里>とあり、左には<白幡天神社祠畔の休茶屋にて牛乳を飲む 帰途り緑陰の垣根道を歩みつゝユーゴーの詩集を読む 砂道平にして人こらず 唯鳥語の欣々たるを聞くのみ(断腸亭日記)>と記されている。こちらも建立されたのは平成22年夏吉日である。

同じ白幡天神社でも文さんと荷風さんとではその位置関係は相当違うであろう。文さんは露伴さんの介護のために氷を求めたり、食材やその他のものを求めて何回このそばを通られたことだろう。それは荷風さんの散歩とは違うのである。

文さんは文化勲章をもらい、文豪と奉られている露伴さんを介護しているが人はそのことに目がいっている。そのことは解ってはいるが、私は父を看ているのであると言うことを主張される。その世間の目からくる重圧。なにかがあると全て自分に係ってくる責任。そのことをしっかり受け、吐き出しつつ日々の仕事をされている。さらに露伴の名前を出せば便利を図ってくれることは解っていることでも、それを潔しとはしない。そんな中でも榎を見ると、三か所の榎を思い描くのである。

菅野での住まいの長屋のあったところには違う住宅が建ち、入り組んだ住宅街の道となっている。そこから駅まで歩きもどりつつ、何度も仕立て直した浴衣に男帯を締め父のために氷を求めて歩く文さんの姿と、人とは違う生命を感じて木を見つめている文さんの姿が前を歩いているように思えた。やはり凛とされていた。

 

 

 

『伊賀越道中双六』 国立劇場11月

『伊賀越道中双六』(いがごえどうちゅうすごろく)。日本三大仇討が、この芝居の元となっている荒木又右衛門とその義弟・渡辺静馬の伊賀上野の鍵屋の辻でおこった「伊賀上野の仇討」「曽我兄弟の仇討」「赤穂浪士の仇討」だそうである。

「鍵屋の辻」は映画があったと思い調べたら、『決闘鍵屋の辻』で、監督・森一生、脚本・黒澤明、出演・三船敏郎の作品であった。今度出会うのが楽しみである。お気に入りのDVDのレンタルショップが次々と無くなり残念である。本屋さんと同じで、そこでパッケージに書かれている案内や解説、写真を見て選ぶのが楽しいのであるが、そういう楽しみは贅沢の部類に入る時代なのであろう。この映画を調べるのも、本を捜さなくても基本は分かるわけで使い分けの時代であろうか。

歌舞伎の仇討に戻すが、上杉家の家老・和田行家が沢井股五郎に殺され、行家(ゆきいえ)の息子・志津馬がその仇討を果たすまでの話である。

志津馬の姉・お谷は剣豪・唐崎政右衛門(からさきまさうえもん)と駆け落ちして夫婦になっているが、正式の結婚ではないため政右衛門は舅の仇討に手助け出来ない。そこで、お谷を去らせお谷の妹・お後を嫁に迎える。政右衛門の橋之助さんが花道から出てきたとき、由良之助役者だと思いました。これからの橋之助さんの精進が楽しみである。この唐木政右衛門屋敷の場も面白い。どうして駆け落ちまでしたお谷を離別して新しい嫁を迎えるのか。ここの疑問から納得までを橋之助さん上手く運んでくれました。そこが上手く運ばれるので新しいお嫁さんの綿帽子を取ったときの驚きと謎解きが面白くなるのである。お谷の孝太郎さんも政右衛門の一言一言に動揺したり戸惑ったりと武家の妻を維持しつつ演じられた。

別枠でよく単独で演目として出てくるのが「沼津」である。武士の敵討ちに組み込まれる庶民の悲哀が描かれる。志津馬は、吉原の花魁・瀬川の情夫であった。瀬川は今は父・平作のもとに帰りお米として貧しい中で志津馬の仇討の果たされる日を待ち望んで暮らしていた。そんなところへ、平作は呉服屋十兵衛を連れてくる。この平作と十兵衛の出会いと平作宅までのやり取りも見せ場である。年齢を逆転の十兵衛は藤十郎さんと平作は翫雀さんである。身についた関西弁で流れも良いが翫雀さんの平作は少し早すぎるように思えた。極貧の平作宅で十兵衛はお米を見初める。しかし、お米には夫があり、それが自分のお世話になっている沢井又五郎を敵とする志津馬であり、自分が所持している薬を、お米は傷を負っている志津馬に渡したいと思っていることを知る。さらに、平作は実の父であり、お米は実の妹であった。お米は今は貧しい娘であるが、かつては傾城である。門口に立つ姿などにその雰囲気を扇雀さんは映し出した。

十兵衛は全てが分かった上で、薬とお金を置き夜のうちに平作の家を後にする。十兵衛の去ったあとで平作親子は全てを理解するが、そこからさらに、平作は、敵の又五郎の行先を十兵衛の口から聞き出すため息子の後を追う。追いつくのが沼津の千本松原である。この場面が明るく千本松原の中とは思えなかったのが残念である。あの暗さの中でこそ親子の葛藤が似合うと思うのである。もちろん役者さんは夜であるからそのつもりで演じられているが、その気持ちの表現にこの明るさは損をしている。気持ちが乗らなかった。

武士の事情、庶民の事情を包含しつつ、敵討ちは成就されるのである。

沼津の千本松原へはいったことがある。日中でも暗いところである。沼津御用邸記念公園から、沼津魚市場、水門(びゅうお)の上を通り、千本松原公園へ。若山牧水記念館があり、そこで牧水が千本松を切り倒す話があったとき、先頭に立ち反対運動を起こし、この千本松原を残したことを知る。鬱蒼としていて昼間でも暗いところである。井上靖文学碑があったり、種々の歌碑がある。何でもが明るく現代化するなかで、自然の明暗が残る場所である。折角残っている場所である。舞台にもその雰囲気が欲しかった。その中で藤十郎さんの関西弁と関西歌舞伎の柔らかさを堪能したかった。

 

神田川舟めぐり

<日本橋から品川宿 (1)>(2012年12月23日)で、神田川コースの舟めぐりをしたいと書いたが、あれから早くも時間がたち11ケ月目にして実行である。少し捜してみたら、「江戸東京再発見コンソーシアム」というところが日本橋から、日本橋川、神田川、隅田川、日本橋川とめぐって日本橋にもどるコースがあったため事前に予約する。舟が小さく10人乗りである。東海道歩きの仲間たちも以前情報を提供したところ、興味を持ち貸し切りにしようと仲間が動いたが日にち調整ができず、まずは私がお先に失礼と一人先行する。後は2班位に分かれ後日に予約したようである。

全部で45の橋の下を通過するのである。古地図と現在の地図を見つつ、ガイドさん付きである。屋根もあるので雨でも大丈夫であるが、潮の満ち引きと関係しているので不定期であるためきちんと調べた方が良い。1時間半ほどであるが、45の橋である。それも、あちらの道とこちらの道を、さらには、あちらの町とこちらの町を結ぶのであるから、川は一筋でも地上は複雑で、さらに橋の形、浮世絵で江戸時代と現在との比較などとなると、結構忙しいのである。但し面白い。最初に講義を受けてから乗り込みたいところである。

一橋家は、一ツ橋の近くに住んでいたので、一橋の名前をもらったのだそうである。聖橋は関東大震災の後、ニコライ聖堂と湯島聖堂を結ぶ橋として聖橋。これは一般によく知られていることである。聖橋に異変が。御茶ノ水橋からの美しい聖橋の前に余計なものが。御茶ノ水駅を建てかえるため、川のほうに工事用資材を置く場所と移動するための橋が設置されてしまったのである。少なくとも5年はかかるとか。御茶ノ水駅も相当古いので安全のためには致し方ないが、あの川に移る姿がしばらく見られないのは残念である。

万世橋のところで、旧万世橋駅が復活し煉瓦造りの駅舎後には手作りのお店や飲食店が入っている。その二階からは両側を走る中央線の快速列車がみえるのだそうで、舟から下りたら寄らねばならない。ゆりかもめ(都鳥)も季節がらか沢山みかける。赤いブーツと赤い口ばしがゆりかもめでカモメより可愛らしい顔をしている。柳橋に近づくと、舟宿が並ぶ。上から見るよりも、やはり川から見る方が風情がある。落語の『船徳』を思い出す。この舟は電気ボートで、船頭さんも若旦那の徳さんではないので安心である。隅田川では、清州橋の真ん中にスカイツリーが見える。書き切れない沢山の楽しい発見がある。

舟を下りて、秋葉原駅から万世橋を渡り旧万世橋駅へ。可愛らしいお店があり、川べりはテラスになっていて歩くことが出来る。さっきまで舟にゆられた川を上から眺めるのもいいものである。二階に上がると、ガラス張りになっていて、お子さんたちも安全に手の届きそうな近さで列車の通るのが見えて声をあげて喜んでいる。列車を見ながらのレストランもあり人気で並んでいる。心惹かれたが、万世橋から御茶ノ水橋に向かって歩くことにする。階段を下りるとその階段は、旧万世橋駅の階段である。そしてここで買った本がまた大当たりであった。

万世橋から昌平橋。。そしてJR総武線のが走る鉄道橋、右手には湯島聖堂が、その奥は神田明神である。聖橋も見えてくるが道は聖橋の下をくぐる形で御茶ノ水橋へと続く。ここで散策は終了である。

大当たりの本であるが、竹内正浩著『江戸・東京の「謎」をあるく』である。<第四話 江戸・東京の怨霊を追う>は神田明神と平将門の集大成と言って良いのでは。私としては、これですっきりである。そして神田明神の氏子さんたちの頑張りには拍手である。万世橋駅についての歴史も書かれている。<第一話 江戸の京都を探訪する>からして引きつけられる。舟めぐりも本めぐりも的を射たようである。

映画『地下鉄に乗って』を見て思い出す。聖橋の前を地下鉄が走る。そうである。舟から地下鉄丸ノ内線の電車が通る鉄橋を見上げたのである。そして上手く丸ノ内線の列車が通ったのである。昌平橋、JRの鉄橋、丸の内線の鉄橋、聖橋である。映画『地下鉄に乗って』の聖橋前の地上に一瞬姿を見せる地下鉄の映像も貴重である。