龍馬と握手  四国旅(2)

高知と言えば龍馬であろうが、高知駅のすぐそばに<「龍馬伝」幕末志士社中>がありNHKの大河ドラマ「竜馬伝」の時の龍馬の実家の撮影セットがこちらに設置されている。長年使われていた家を表すため木材の角は丸くなっていたり大道具の人達のこだわりがある。釘隠しなどは紫の坂本家の紋・ききょう紋になっていて、是非見てほしいと書いてあった。龍馬の姉役の寺島しのぶさんが着ていた着物が展示されていたが織りのしっかりしたもので色も柄もテレビより素敵だった(紫根地格子紬着物)。

セットを眺めつつ黒澤明さんと本多猪四郎さんのドキュメントを思い出す。黒澤さんは本多さんのことを<本多木目守>と手紙で呼びかけている。本多さんが助監督時代、大道具さんがやる木目の磨きを自分で黙々とやっていたからだそうだ。クロさんとイノさんが二人で磨く姿もあった。映画に映らなくてもリアルさを求めるのであろうが、セットを眺めていると、そこで演じる役者さんの気持ちにも反映するだろうと思われた。

そこから桂浜へ。なぜか期待していなかったのであるが、充分に龍馬への想いを沸き立たせてくれる浜辺であった。坂本龍馬記念館の入り口前に懐から右手をだした龍馬像があり、龍馬と握手してしまったのである。龍馬の手紙など資料豊富であるが、一つ一つ読んでいる時間が無い。桂浜がよく見える屋上があり、ここからの桂浜と海の地平線は美しかった。「君が踊る、夏」の病院の屋上から見える海と似ている。この場所か隣の国民宿舎からの撮影であろうか。瀬戸城天守跡があり長宗我部元親の居城とありこんな美しいところに城があったのだ。龍王岬まで行きたかったのであるが、バスガイドさんに遠いですと言われたので止めにしたが時間配分を考えれば可能であった。残念。桂浜水族館に降りてゆくと、映画「コクリコ坂から」のテーマ曲「さよならの夏」のオルゴールのような音が流れていた。桂浜をみつめる坂本龍馬像も大きくて、あの目線の高さなら相当遠くまで見通せているのだろうと龍馬を見上げてきた。期間限定で「龍馬に大接近」として高さ約13.5メートルの龍馬と同じ目線で太平洋を見る事ができる企画があるらしい。それを考えた人、仲間。

 

 

映画『君が踊る、夏』 四国旅(1)

四国を旅し、高知の風景を描いている映画「君が踊る、夏」がある事を知り、旅から帰ってすぐDVDを借りて観る。高知市内、四万十川、茶畑、桂浜などがすべて網羅されていた。

「君が踊る、夏」は小児ガンと闘いつつよさこいを踊る少女の実話を元に映画化したものである。主人公は写真家になる夢があり高校を卒業すると、恋人と共に東京に出る約束をしているが、彼女は高知に残る。彼女の妹が小児ガンを発症してしまうのである。主人公はその事を知らず、彼女に振られたと思って一人上京する。病気の少女には夢がある。少女の王子様とよさこいを踊ることである。その王子様は主人公の若者である。主人公は母の病気で高知に帰って来る。そこで少女の病気の事を知る。少女の姉でもある恋人が、妹の命を縮めるかもしれないがよさこいを踊らせたいと行動し始め、主人公も動き出す。かつての仲間たちの協力も得て少女の夢は現実となる。結果的には主人公の夢である新人写真家としての登竜門である写真コンクール入賞を捨てる事となるが、主人公は郷里の高知に自分の写真のテーマを見つけるのである。

高知の街と自然をふんだんに使い、よさこいの踊りの躍動感もたっぷりに感動的な映画となっている。少女のよさこいを踊る表情が愛くるしい。出てくる場面場面が旅で観てきた場所なのでドラマと同時に追体験し、単なる観光ではない色彩の程好い人の係わる風景となった。

主人公と彼女は高校時代<一生懸命>の名のよさこいチームで踊っていた。土佐弁で<一生懸命>は<いちむじん>というのだそうである。その世話役が旅館の女将・高島礼子さんで、あねさん役を優しく柔らかい雰囲気にしながら貫禄があり、若者たちの軽さを引き締めている。

古い映画を観るのが好きなので今の若い俳優さんはよく解からないが、主人公の若者は「麒麟の翼」で加賀刑事・阿部寛さんとコンビの松宮刑事・溝端淳平さんであった。

旅では高知市内はほんのわずかしか見ていない。追手門と天守閣が一枚の写真に納まる数少ないお城の一つ高知城も地味なライトアップの外観を見ただけであり、はりまや橋もバスの中から見ただけである。がっくり三大名所は札幌の時計台と長崎のオランダ坂と高知のはりまや橋だそうである。~土佐の高知のはりまや橋で  坊さんかんざし買うを見た~ よさこい節にもあるこの歌のようにはりまや橋のそばのお店で主人公は彼女にかんざしをかって欲しいと言われるがお金がなくて買えない。5年後にはプレゼントするのだが。この辺りは歌と名所と二人の行動を上手く使っている。そういえば『お嬢さん乾杯』で圭三が池田家で歌うのもよさこい節であった。

高知城の近くにひろめ市場があり、覗くと小さなお店が様々な食べ物を提供している。藁で焼いた鰹のたたきで飲むことができた。楽しい市場であった。映画にもこの市場はでていた。高知の観光キャッチフレーズは<ローマの休日>ならぬ<リョーマの休日>である。

 

 

 

永い空白の旅(小海線)

30年以上も友人として付き合っていながら近頃始めて知った事がある。高校時代、彼女はJR小海線で通学していたという事実である。長野の生まれとは知っていた。ここ数年親の見舞いと介護で帰っていたことも知っている。佐久平まで新幹線で、車で迎えに来てもらうと聞いていたのでその周辺の小さな円で想像していた。何かの話から小海線の「奥村土牛記念美術館」がよかったと話した。小海線の何処にあるのか聞かれ、駅名が出てこなくて確か<無人駅>と答えたら駅名を言い始めた。高校時代、小海線で通学していたと。

4、5年前に小諸から小淵沢までの小海線にあこがれ、それも奥村土牛の美術館もあると知りやっと実現したのである。彼女は海外旅行の方が好きだから自分の故郷の小海線など話題にもしなかったのかもしれない。高校時代ローカルの小海線でのどかに通学していた彼女をちょっと想像できない。甲斐小泉に「平山郁夫シルクロード美術館」があることを教える。そちらの方が彼女好みである。

「奥村土牛記念美術館」は八千穂駅のすぐそばにある。八千穂はあの辺では大きい駅だから<無人駅>ではないそうだ。勝手に思い込んでいたみたいである。そのほうがイメージにあっているのだ。小諸も小淵沢も歩いてみると歴史的にも面白い町である。小海線の駅から降り立つ町にもよい所があるのであろうが、列車の本数が少ないので列車の旅を楽しむにはあちらこちらと降りられないのである。

そんな話から他の仲間が若い頃、飯山線の桑名川駅から千曲川を渡し舟に乗ってスキー場に行った事があるという。それはまた素敵ではないか。どんな舟なのか聞くとおしんの世界だそうだ。写真があるとのことで後日見せてくれた。桑名川駅前での写真と舟に乗り込む写真である。幸せなことに舟は同じであるが雰囲気はおしんとはかけ離れていた。若人が上野から夜行列車を乗り継ぎいよいよ目的地に向かうぞという明るさに溢れている。話す彼女も忘れていた空白の時間を取りもどしたようである。

そのローカル線と駅が残っていてくれるので、いつの日か違う色合いの旅も可能である。

 

小さな旅

「東京の中の江戸名所図会」(杉本苑子著)の日本橋の図会は日本橋を渡る人の混雑と日本橋川を行き来する船の多さに驚く。<この橋からは海上を昇る日も富士山も、江戸城の甍や森までよく見えた。>面白いのは幕府の買出し係り御納屋(おなや)役人が朝市、夕市の戦場をすばやく動き回り、一番よい魚貝に目をつけ<「御用ッ」とさけび、手に持つ手拘(てかぎ)を品物に引っかける。これをやられると、もはやおしまいだ。>5両、10両のものも3文か5文で買いとられる。しかし、明治以降、築地に移ってからの税負担より楽だったという話もある。

映画「麒麟の翼」はどのように日本橋を映すのかと興味があったので最初の部分だけ少し見たが、夜の高速道路と日本橋を上手く撮っていた。

佃島と家康との関係もどこかで読んでいるなと思ったが杉本さんのこの本で読んでいたのである。

「戦国時代の天正年間、まだ徳川家康が浜松の城主だったころ、上洛のついでに摂津の住吉神社に詣でたさい、神崎川の渡船をうけ持ったのが、近くに住む佃村の漁民たちであった。その縁から、伏見に在城する家康に魚貝を献上したり、大阪夏冬の陣にも軍事の密使役などつとめて功を立てたため、江戸開府後、三十四人の漁夫が召されて江戸へ下向し、鉄砲州の東の干拓地百間四方を下賜されて住みつくことになった。これが、佃島のはじまりだという。佃の名は、つまり故郷の村名からつけたのである。」

土地の名前は大事にして欲しいものである。変える役目に当たった人は一度歴史を紐解き、かつて此処にはこういうものがあったとだけでも残せないか考えて欲しい。そこからでも小さな旅は続き始まるのであるから。

 

<日本橋> →  2013年1月24日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

ぶらりぶらり『日本橋』

地下鉄駅を出ると凄い人だかり。何があるのか。箱根駅伝の通る時間だった。それにしても歩道に何層もの人垣である。日本橋の麒麟も心なしか大人しく見える。走者が通ったようだが人の頭が歓声とともに左から右に動いただけ。今度はチラッと見えた。速い。待ちもしないでその時間に居合わせるとは縁起の良い年と成るかも。応援しつつ地下鉄の通路を潜り三越側へ渡る。遠くなるが走者の全身が見える。無駄な脂肪の無い身体なので驚く程細い。誰彼関係なく拍手して応援してしまう。消耗していそうな走者には声をかけたくなる。沿道に人も少ないなと思ったら<一石橋>だった。

栄螺(さざえ)や蛤(はまぐり)を放してやる風情は何処にもない。日本橋の方を見るともう一本橋がある。そこまで戻ると<西河岸橋>とある。日本橋から一石橋までの八重洲側を西河岸、三越側を裏河岸と呼ばれていた。この辺りの日本橋川の両岸は蔵が並んでいたのであろう。

一石橋八重洲側のビルの間に日本橋西河岸地蔵寺教会がある。中には入れないが外からガラス越しに左手に《お千世》の額がぼんやり見える。花柳さんの文によると<深とした静かな雪の夜。小さい御堂に揺らぐ燈明の灯りのかすかな光り、鼻をかすめてゆく線香のにほひ、色あせた紅白の布を振るとガンガンと音を立てる鰐口をならしてお千世の成功を祈った>とあるが、この<ガンガンと音を立てる鰐口>これはその通りで御堂の小ぶりに対して音の大きさに驚いた。このお寺の絵馬が雪岱さんの描かれた<お千世>の顔であった。

 

 

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案内の文には<板絵着色 お千世の図額 大正4年(1915)3月本郷座で初演 当時21歳無名であった花柳章太郎はお千世の役を熱望し、劇と縁の深い河岸地蔵堂に祈願した。この劇でお千世役に起用されて好演。これが出世作となる。2度目のお千世役 昭和13年の明治座のさい奉納。>とあり、花柳さんの文章とは少しことなる。役をもらう前か後か。どちらもとしておくことにする。

雪岱さんは此のことに対し鏡花先生と結びつけ次のように書いている。<実際日本橋檜物町数奇屋町西河岸あたりは先生に実にお馴染みの深い土地でありました。><先生御信心の西河岸の地蔵様には先年花柳章太郎氏の奉納されました「初蝶の舞ひ舞ひ拝す御堂かな」の句を御書きになりました額が掲げられてをりまして、>とあり、その額の絵を自分が描いたとは一言も書かれてないのである。前面に自分が出ると云う事がなく、それは舞台装置などの仕事に対する姿勢とつながっている。しかししっかり物事の内を知っている。龍泉寺町や入谷に対し<木遣りをやりながら、棟梁の家へ帰るのを見ますと、極めて勢のよいものでありながら、何となく寂しいものでありました。>木遣りを寂しく思わせる空気。雪岱さんは、「日本橋」が書かれた時代に日本橋檜物町に住んでいる。歌吉心中のあった家である。周りの人は気味悪がるが彼は、気にかけない。そういうことも起こりうる町と感じているのであろう。そのあたりが、受け入れて浄化する鏡花世界とぴったり合ったのかもしれない。

ただ現実の町にはその姿は全くない。ゴジラに踏み潰してもっらって、ドラえもんのポッケトからかつての町を取り出し再現してもらいたいがそうもいかないので、ただ雪を降らせたり、駒げたの音を作ったりしてぶらぶらするだけである。そこからも一本八重洲側の通りには竹久夢二が開いた<港屋>の碑がある。

 

 

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一石橋にまたもどり、<一石橋迷子しらせ石碑>の前を通り常盤橋、新常盤橋と歩き神田駅から電車に乗った。日本橋川、神田川を船でめぐり、その後、川をなぞって歩くのもありかなと考える。仲間に提案して考えてもらおう。

「小村雪岱」( 星川清司著)の本もあるらしい。はっきりした舞台装置と映画の美術が知りたいものである。

 

<日本橋> →  2013年1月7日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

日本橋から品川宿 (2)

寄り道はせずひたすら道のみを歩くことに決めた。暖房はあったが屋根なしの船だった為か、体が冷えていたので歩くには好都合であった。

日本橋から京橋に向かう。京橋には<京橋大根河岸青物市場跡の碑><江戸歌舞伎発祥の地の碑>がある。中村座のあったところで座元は初代中村勘三郎である。1624年であるから約390年前から中村屋は続いている。勘九郎さん、七之助さんのこれからの責務は大きいのである。

銀座に入ると歩行者天国になっていて道の真ん中を歩いたため碑などは無視となってしまった。銀座4丁目を進み銀座と新橋の間に<銀座の柳の碑>。西條八十作詞・中山晋平作曲の「銀座の柳」の詞と楽譜が。

新橋から浜松町へ。左手には浜離宮庭園が位置する。浅草から水上バスで行ったことがある。そして同じ方向JR浜松駅の東京湾寄りには旧芝離宮恩賜庭園であるがまだ行っていない。一度は行きたい点である。右手奥には増上寺、芝公園、東京タワーであるが、この点は行っている。ビルの間からチラッと東京タワーが見えた。とにかく線を目指しているので第一京浜を歩く。地下鉄「三田駅」のそばに<勝海舟・西郷隆盛会見の地の碑>がある。西郷隆盛は西郷南洲となっていて、西郷吉之助書とある。いつ書いたのか気になるが軽く流す。この会見で江戸は火の海から救われるのである。当時この辺は裏がすぐ海で月の美しい風光明媚なところだったようで落語の「芝浜」の舞台もこの辺りらしい。札の辻の歩道橋をわたると<港区の花あじさい>とあり、さら進むと<港区の花バラ>とある。引き返して<港区の花あじさい>を再度たしかめる。港区の花は二つなのであろうか。軽く、軽く。

どうも街歩きらしきご婦人が階段を上がってくる。「街歩きですか。」と尋ねると「泉岳寺から来ました」と。泉岳寺が近いのか。仲間たちは泉岳寺に寄ったようだがその点も行っているので前進。楽勝、品川。考えが甘かったのであるが。

品川駅の前を通り、いつか原美術館を捜すのに手間取ったことを思い出す。いよいよ東海道品川宿である。入り口の案内板を見ると最終に<鈴ケ森刑場跡>とある。ここだったのか。

勘三郎さんの最後に観た舞台が2月の新橋演舞場の「六代目中村勘九郎襲名披露」である。「御存知鈴ケ森」の白井権八。美しかった。綺麗な形で、勘三郎さんがもどってきてくれたと安堵したのに。「土蜘(つちぐも)」では勘三郎さん、仁左衛門さん、吉右衛門さんが番卒で豪華に脇をかためられていた。西郷隆盛の名前を目にすると「西郷と豚姫」の勘三郎さんの豚姫を思い出す。純情で初めて恋をして思いつめて、それでいながら自分を励まして周りに可笑しさ振りまいて。舞台場面を思い出していたら止まることがない。役者18代目中村勘三郎さんを忘れることはない。

ではゆっくりと北品川商店街を楽しむ。途中、古本屋さんに寄ってご当地のマップを買う。小さい本屋だがその狭さにきちんと迷路のような本の積み上げ方。いかにして多くの本を狭い中に並べるか考えに考え抜かれたのであろう。眺めたいのを帰りにしますと伝える。

足の裏に痛みがきて品川橋まで永く感じられる。マップを開くと3分の1位来ている。まずは鈴ケ森まで行き帰りにゆっくり歩こうと足を速める。青物横丁商店街鮫洲商店街。かなりある。横路地には沢山の神社やお寺があるようだが横目で見過ごす。突然、<龍馬通り>の道しるべ、坂本龍馬像ありのお知らせの路地。どうやら京浜急行の「立会川駅」までの横路にあるらしい。そして浜川橋(なみだ橋)。鈴ケ森の刑場に引かれる罪人と縁者が涙ながらに別れた橋とある。そこから7、8分、やっと目的地鈴ケ森刑場跡に到着。旧東海道と第一京浜(国道15)がぶつかるところの角で陰惨さはない。道にあまりにも近いので旅人もお仕置きがあれば遠くからでもわかったことであろう。旅の途中では遭遇したくないものである。

龍馬さんとこの町の関係は知りたいので京急の「立会川駅」までもどる。途中の公園に龍馬の像がある。立会川河口の浜川砲台に、龍馬は黒船来襲の警備に通ったのである。そうであったか。やっと電車に乗れる。古本屋さんの事はもう頭になかった。

帰ってきてからマップを見ると、驚く事実もあった。あの映画「ゴジラ」でゴジラの第一歩が品川宿入口のそばにある八ツ山陸橋である。数日前ドキュメント『イノさんのトランク~黒澤明と本多猪四郎の知られざる絆』を見ていたので親近感がわく。ここにゴジラは上陸したのか。ジョージ秋山さんのマンガ「浮浪雲」の舞台が江戸時代のここにしている。土佐藩主最後の山内容堂のお墓もある。日蓮の直弟子・天目上人が開祖した天妙國寺には、切られ与三郎とお富、剣豪・伊藤一刀斎、浪曲の桃中軒雲右衛門、新内の鶴賀新内等が眠っている。ゼームス坂の近くには高村智恵子終焉の地でゼームス坂病院があった場所に<レモンの碑>がある。

恐るべし品川宿。今度は点としてもう一度訪ねたい。

 続き 】   その後、京急大森海岸駅から続きを歩いたので鈴ケ森の刑場跡から多摩川までの写真を載せます。

磐井神社

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鈴石による鈴ケ森の由来

梅屋敷

里程標

旧東海道・川崎宿から神奈川宿 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

日本橋から品川宿 (1)

東海道を歩くという仲間がいて1回目、日本橋から品川辺りまでと誘いを受けたが、体の故障でいけなかった。そのため一人で実行に移すことにする。三越劇場へ民藝の「満天の桜」を観に行ったとき、日本橋から墨田川周遊30分コースがあるのを知ったので、それを組み込むことにする。

日本橋魚市場発祥地碑>があり解説板によると、佃島から将軍家、旗本に魚が届けられ、その残りを庶民用にさばくためここに魚市場が開かれたのが始まりだそうだ。

佃島は、江戸時代初期に摂津国佃村(大阪市)の漁師たちによって開かれたところで、将軍に毎年白魚を献上しており、かがり火を焚いての白魚漁は江戸の風物詩だったようです。                                                     と記したが、佃島の漁師たちは家康が連れて来たとの話もあり、佃島は将軍家の魚市場だったわけである。としますと、大久保彦左衛門は庶民用の一番善い魚を一心太助に届けてもらったことになる。

【 日本橋クルーズ 】

日本橋の昨年出来たという日本橋桟橋から船は出る。その桟橋には<双十郎河岸>と西の坂田藤十郎さんと東の市川團十郎さんの名前に因んで河岸名が付けられた。海に続いているので満ち潮もあり船は屋根が無い。一度<日本橋>を潜る。橋げたが低いので下を通るというより潜る感じで橋の作りが肌に伝わる。Uターンしてもう一度<日本橋>。東野圭吾さんの推理小説「麒麟の翼」でこの橋の麒麟は再度注目された。表紙の写真に釣られ読んでしまった。ライオンの方は橋に32個あり川下から見えるものもあった。

上は高速道路である。それも愉しみの景観の一つと加えなければ気が滅入る。<江戸橋><鎧橋><茅場橋>右手には日本橋水門がある。<湊橋>ここで高速道路が消え空が顔をだす。ゆりかもめが飛んだり水面に浮かんでいたり。ゆりかもめは冬鳥で春には寒い所へ渡ってしまうらしい。船長の“生”コースガイドの声がなかなか良い。<豊海橋>を通ると日本橋川は墨田川に出る。急に揺れが大きくなる。<墨田川大橋>先には<清洲橋>が見え、その先にスカイツリーが姿をあらわす。<清洲橋>は国の重要文化財になってる。

[8月23日[深川本所の灯り(3)]2012年8月23日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)で、「万年橋を渡り川岸へ降りるとスカイブルーの清洲橋が見える。とても美しい橋で後ろの高層ビル群の前に<われここにあり>と横たえている。ドイツ・ケルン市にあったライン川にかかる大橋をモデルに造られたそうだ。」と記したが、反対側から見た時のほうが美しかった。見る方角、光の加減で橋の姿は変わるものである。

Uターンして<永代橋>へ。この橋も国の重要文化財である。国の重要文化財の橋はもう一つあって<勝鬨橋>である。<永代橋>を通ると先には<中央大橋>が、そばに大川端リバーシティー21のマンション群が林立する。再びUターンして日本橋川に入り日本橋へと向かう。

時間があれば<日本橋川・神田川めぐり>や<浅草・日本橋めぐり>もある。今回はミニクルーズであったが楽しめた。帰りにもとあった川を埋め立てて出来た高速道路がビルの間からでている景観も説明され、子供のころ雑誌にのっていた未来の生活の絵のようだと思った。絵の方は夢があったが、現実はいささか老朽化していた。違う角度から見るのも良いものである。橋は様々な形をしている。作る時にはいろんな思いが込められているのである。

日本橋から品川宿 (2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

高野山

12月の文楽は「刈萱桑門筑紫いえづと(かるかやどうしんつくのいえづと)」と「傾城恋飛脚」である。この「刈萱桑門筑紫いえづと」は高野山に残る<石童丸伝説>から作られている。

<石童丸伝説>は、加藤左衛門尉繁氏(かとうさえもんのじょうしげうじ)は筑前国(福岡県)の領主であったが、妻桂子(かつらこ)と側室千里との間の嫉妬の苦しみを見抜き、世の無常を悟って出家し刈萱道心となる。その直後生まれた石童丸は母千里と父を訪ねて高野山へ行く。病の母を宿に残し一人高野山へ登り偶然、刈萱道心と出会うが父は名乗らない。母を病で亡くした石童丸は再び高野山に戻り、刈萱道心(円空)の弟子となり親子の名乗りを上げないまま、ともに厳しい修行に励んで生涯を送った。

この物語は諸国を回る高野聖たちが高野山信仰を唱導しつつ話して聞かせた。

「平家物語」にもでてくる<横笛>は建礼門院に仕える雑仕横笛との身分違いの恋が叶わず出家した斉藤時頼(滝口入道)を追い横笛も尼となり天野(かつらぎ町)で再会出来ぬまま19歳で病死する。(「平家物語」では歌を交わし、横笛は奈良の往生寺で世を去ったとある)

また、西行法師も高野山に庵室をかまえた。妻と娘はやはり天野の里に住まい西行は時々高野山からそこを訪ねたとも伝わる。

明治の初めまで女人禁制で、有吉佐和子の「紀ノ川」にも慈尊院までは上がれてこの寺を女人高野と云うとある。この慈尊院の場は空海が高野山麓の庶務を司る政所をおいたところで空海の母もここに留まっている。この政所に藤原道長・白河上皇・鳥羽上皇等も宿所としている。

戦国時代には秀吉に疎まれた秀次も高野山に追放され自刃している。真田昌幸・幸村親子も高野山に追放され、昌幸は病死するが、幸村は高野山を抜け出し徳川と戦い討ち死にしている。

宿坊に泊まりたくて友人と三人で高野山の宿坊に泊まったことがある。般若湯(はんにゃとう・お酒)も頼むことが出来た。

友人のまとめてくれた記録によると<本場精進料理ごま豆腐は絶品>、<闇夜に聳え立つ木立の上にほんのり霞む月>、<帰宅したら日々修行(掃除)をしようと決意?>とある。宿坊は何処もかしこも磨かれていて、三人掃除の大切さに目覚めたのだが?

朝の勤行の後、もう一人の友人は次から次へと質問をし、深きお話も聞け、持つべきものは友人であると悟ったが、お二人覚えているであろうか。忘れた者にお助けを。

 

 

 

平清盛

NHKの大河ドラマの「平清盛」が色々取りざたされていたが、2回で見るのを止めてしまった。基本的にテレビの続き物のドラマを見続けるのが苦手で映画派である。

村上元三「平清盛」を読んだところ面白い。帝、上皇、法皇と院政が形作られて行くのが解かるし、武士の台頭していく様も面白い。殿上人の世界の魑魅魍魎さ。そして今とは違う寺社の力。寺院の強訴というのが、神輿を担ぎだして京に入り込み混乱を起こすという手法は仏に仕えるというよりも、子供が衆人の真ん中で寝転がってバタバタ手足を動かし大人達を困らせているようで苦笑ものである。清盛はその辺も利用し武士が居なくては貴族は成り立たないと認めさせていくのだが。

今は信仰よりも美術品的にあるいは観光的に鑑賞してきたお寺などの名前が出て来て、その、木造建築、歩いた道、周辺の風景が平安後期に移動して小説の中に現れ、ただ見てきただけの浅はかな旅も少しは役に立つようだと思ったりしつつまた小説の中に入って行ったりした。

<延暦寺の僧兵は日吉社の社人(しゃじん)とともに、日吉社の神輿(みこし)を担ぎ、総勢五百人ほどで洛中になだれ込んで来た。>

観光バスで延暦寺から琵琶湖側に降りて来た時、日吉大社を通り坂本の町を眺めここにはまたいつか来ようと思った。そして三井寺、坂本と尋ねる事ができた。そのことが荒法師の猛り声と共に浮かび上がり、現世に変遷してきた寺院もまた人間の欲得にまみれていたと思うと親しみも湧くものである。延暦寺と三井寺(園城寺)も派閥問題等で対立していたようで、かの弁慶も延暦寺の荒法師で三井寺の鐘を戦利品として叡山まで引き摺り上げたという伝説も残っている。

旅の小話・・・・・ 三井寺には近江の昔話「三井の晩鐘」のはなしもある。この話を題材にした日本画を残され夭折した三橋節子さんのことも偲ばれる。(「湖の伝説 三橋節子の愛と死」梅原猛著)

三井寺を訪ねた時は、33年に一度開扉される秘仏 如意輪観音坐像にも御会いでき思い出深き旅となった。そして坂本では穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣をいたるところで眺めることができた。

弁慶の主人義経は鞍馬であるが、常盤御前を母とする牛若の兄・今若・乙若は醍醐寺にて出家する。醍醐寺というと秀吉の<醍醐寺の花見>が浮かぶが、まだ武士が権力を握れ無い頃、醍醐寺で命を救われた若子が出家したという時間空間もあったのである。

そんなこんなを考えつつ小説を読み終わり遅ればせながら大河ドラマを見始めた。面白い捉え方をしている部分と誇張され過ぎてる部分と半々である。清盛の新しい国造りの発想は面白い。ただ濃すぎる演技には閉口する。ドラマは役者の演技も楽しむものだが、そこまでやらなくても貴方の役どころは解かりますよと言いたくなる部分も或る。

自分が大河ドラマを見続けるには、それにそくした小説を読んで自分の中で筋を組み立ててからでなければ楽しめないようである。

本所深川の灯り (3)

深川の街歩きの友として、宮部みゆきさんの「平成お徒歩日記」も優れものと言う事が判明した。この本は読むだけでも楽しいが、ご本人も携帯して歩いてくれる事を望まれているのでそのほうがお互いの為かも。

こちらはこの本の事はつい先ごろ知ったもので、深川は宮部さん抜きである。

経路は地下鉄東西線門前仲町駅から富岡八幡宮→深川不動堂→清澄通り→(採茶庵跡・滝沢馬琴生誕の地・紀伊国屋文左衛門墓)→深川江戸資料館→霊巌寺→清澄庭園→万年橋→(史跡展望庭園・芭蕉稲荷・赤穂浪士引き上げの道)→芭蕉記念館→都営大江戸線森下駅となる。

大江戸線・半蔵門線清澄白河駅から深川江戸資料館にまず行き、そこで街歩きの資料を調達するのも一つの方法である。

富岡八幡宮は江戸三大祭りのひとつ「深川八幡祭り」で有名である。昨年震災で延期した本祭りが今年開催されたようである。また勧進相撲でも知られ境内には「横綱力士碑」など力士の碑が多い。深川と言えば木場の角乗りで、「木場の角乗碑」があり<両国の七つ谷の倉の間部河岸という所で三代将軍家光に筏の小流、角乗り、木遣りをご覧にいれ以後年中行事となる>木場の木遣りの由来が書かれている。角乗り、木遣りは深川資料館に映像がある。

深川不動堂では成田山新勝寺東京出張所であるが、ここで護摩焚きを自由に拝観させてもらえた。声明というのでしょうか、その声と太鼓、ほら貝の音の混合の音楽性に驚いてしまった。洗練された音楽であった。芸能が神仏の祈りから流れてきているのが解かる。思いがけない出会いであった。

採茶庵は芭蕉の弟子の杉山杉風(さんぷう)の庵室で松尾芭蕉はここから『奥の細道』へ旅立った。その跡で芭蕉の像がある。

深川江戸資料館は江戸時代の深川の庶民生活や路地などが再現されていて時代小説、落語、歌舞伎の世話物を楽しむ切り札となるような構成である。映像もありゆっくり見学したい場所である。

霊巌寺は江戸六地蔵の一つで、寛政の改革を行った松平定信の墓がある。

清澄庭園は江戸時代下総関宿藩久世大和守下屋敷で明治に三菱財閥岩崎弥太郎が開園した。もともとは豪商、紀伊国屋文左衛門の屋敷跡ではと伝えられてもいる。

万年橋を渡り川岸へ降りるとスカイブルーの清洲橋が見える。とても美しい橋で後ろの高層ビル群の前に<われここにあり>と横たえている。ドイツ・ケルン市にあったライン川にかかる大橋をモデルに造られたそうだ。

ぷらぷらと川面を眺めつつ芭蕉ゆかりの場所に寄りつつ芭蕉記念館へ。関係資料は展示が変わるようである。

その他にも地域を移動すると沢山の興味深い関係地があって、地域限定で歩く必要がありそうだ。 森下文化センターには田河水のらくろ館・伊東深水、関根正二紹介展示コーナー。越中島の古石場文化センターには小津安二郎紹介展示コーナーがある。