12月の夜の駆け足東京散策

  • 2018年(平成30年)映画館での鑑賞映画の最後は『私は、、マリア・カラス』となった。この映画上映を知り観るまでに夜の東京散策があった。12月歌舞伎座の夜の部の終焉が20時といつもより早かった。それではと、観劇一回目は、歌舞伎座から、恵比寿のガーデンプレイスのイルミネーションを見に。バカラシャンデリア。ここは何回か来ている。そこから六本木へ。六本木ヒルズから東京タワーを真ん中にしたケヤキ坂のイルミネーション。夜のほうが目的場所が見つけやすい。さらに日比谷のミッドタウンへ。日比谷にミッドタウンという建物ができ、小さなフリーの一画ができあがった。ツリーやイルミネーションが飾られていて、ツリーの光の変化を眺めてから6階の空中庭園へ。

 

  • クリスマス前なので人は少なく、透明の囲いが夜のため黒いガラスとなってテラスに飾られた灯りが映る。昼のここからの景色もみたいものである。下におりると、ツリーを上から座って眺められる空間があり、ここのほうが綺麗でゆったりできる。なるほどである。この建物にシアターフロアーができていた。(TOHOシネマズ日比谷)今までTOHOシネマズシャンテの映画館での上映映画が好きで鑑賞していたが、これからは多数の映画も見られるようになったわけである。馴染のTOHOシネマズシャンテで『私は、マリア・カラス』を上映するポスターを見つける。失敗したのはこの時フライヤーをもらっておくべきであった。上映が始まるとフライヤーは置かないのである。(TOHOシネマズ日比谷とTOHOシネマズシャンテは別建物です。)

 

  • 観劇二回目の夜の部の終焉後はさてどこにしようかと考え、新橋からゆりかもめに乗ってお台場へ行くことに。夜のゆりかもめの車窓はなかなかおつなものである。乗っている人は少なく乘り慣れているのか誰も興味をしめさない。さてどうするか。観覧車が綺麗なので観覧車のある場所へ。よくわからないが、お台場海浜公園駅で降りて観覧車をめざす。青海駅のほうが近かったようだ。通路があって多少歩いたが観覧車まで行けた。観覧車は一周16分。下がシースルーになっていて見えるゴンドラは15分待ちというので普通のゴンドラにする。東京タワーとスカイツリー、レインボーブリッジと東京ゲートブリッジの両方がみえた。

 

  • 東京ゲートブリッジはオシャレな姿をしていて名前がわからなかったのであるがアナウンスがあった。お台場の観覧車は「パレットタウン大観覧車」と名前があり日本で一番大きいのかなと思ったら葛西臨海公園にある「ダイヤと花の大観覧車」のほうが大きくさらにおおきいのが大阪にできたらしい。葛西臨海公園とお台場は水上バスもあり東京ゲートブリッジもそばに見えるようなので水上バスを利用しつつ今度体験しよう。

 

  • 三回目の『阿古屋』一幕見の時、番号つきの入場券を購入してからTOHOシネマズシャンテへ行き『私は、マリア・カラス』の入場券を購入して席を指定する。歌舞伎座へもどり番号順に並び席を確保し『阿古屋』を観て再び日比谷へ。時間があるので日比谷公園での「日比谷クリスマスマーケット」へ。

 

  • 「クリスマスマーケット」というのはドイツを中心にヨーロッパで楽しむクリスマスでクリスマスツリーではなくクリスマスピラミッドの周辺で飲食の屋台やクリスマス用の雑貨のお店が並びクリスマス気分を楽しむのである。手に同じようなマグカップを持っており、ホットドリンクは最初にマグカップ付きで購入し、その後は飲物代だけを払うシステムで、マグカップはお持ち帰りとなる。ホットワインなどもあるのでなるほどである。ビールはグラスを借りる代金を含めて購入し、グラスを返すと料金がもどってくる。イルミネーションで華やかであるが、足元が暗く少しでこぼこなので、飲食は昼間ゆっくりと何を食べようかと楽しみつつ選んで味わったほうがよさそうである。

 

  • オシャレな場所が好みの友人もいるので、そういう場所も散策してみようかと駆け足であるが回ってみた。こういうところは人が多く、結構地下鉄からの階段の上り下りなどで歩いて疲れる場所なので下調べは一人が効率的にである。お台場はお台場海浜公園駅で降りたため、りんかい線の東京テレポート駅の位置もわかった。こういう場所を散りばめつつの東京旅計画もできそうである。

 

  • イルミネーションはクリスマス時期をはずしての散策が人が少なく楽である。人がいないと盛り上がらないという人にはさみしいであろうが。人形振りではないが、人の動きをちょっと外すと味わい方も違って来る。普通じゃないのも失敗したりするが、集中度が増したり新しい発見へとつながることもある。

 

  • 箱根のポーラ美術館も制覇。期待に応えてくれた。箱根の美術館は一箇所で充実しているので、さらに欲張って二箇所として自然を楽しみつつの日帰りコースの案もできあがった。これで箱根全体の愉しみ方の予想図が出来上がる。2018年の締めとしてはまずまずである。2018年も楽しかった。2018年よ、ありがとう!

 

石和温泉大衆演劇の旅

  • 老人会の旅と称して動線はゆるやかである。行先は山梨県の石和温泉にある大衆演劇つきの宿。友人はどんなところか心配している。大衆演劇のお値段もついての宿泊料に疑心暗鬼であったようだ。あっと驚く・・・「いいではないかあ!畳も新しい!」ようございました。その時はその時と思っていたのであるが先ずは通過。スパランドでもあるので館内はスリッパ無し。部屋にはたびソックスも用意していてくれた。一息いれて館内の散策である。お風呂は宿泊者用のロッカーもあり、浴用タオルは使い放題である。お風呂は大衆演劇が終ってからゆっくりと。ただここは天然温泉ではないが、満足。

 

  • 友人たちは大衆演劇初体験なので、興味津々である。四か所の飲食店のサービス券ももらったので先ずはこじんまりと乾杯して、大衆演劇の会場で食事とする。指定席を予約していたので、時間になると先に飲食されていたお客さんを誘導して席をあけてくれる。またまた乾杯。この旅で何回乾杯したことか。スパランド内藤は土日が大衆演劇昼夜、平日は昼のみの上演である。今回は気に入れば次の日昼の部を観劇する予定であった。

 

  • 友人達、気にいってくれて次の日の午前中は石和温泉駅までの送迎バスで石和温泉駅前に出る。観光案内でいくつかチエックして駅裏の大経寺へ。本堂前も綺麗に整備されていてお庭も有料で拝観できるが残念ながら応答なしで誰もおられなかった。そこからワイナリーへ。試飲などして買い物をして食事すると送迎バスでスパランドにもどる時間となる。もし大衆演劇がもう結構となれば、甲府に出て太宰治さんの新婚生活の場などを散策してもと思っていたが歩く気なしである。

 

  • 大衆演劇二日目。お芝居も舞踏ショーも前日と違うが何となく役者さんがわかり、あの役者さんは昨日のあの役の人ねとゴチョゴチョ、ヒソヒソ。ただ友人一人、座長さんの立役と女形とを別の人とずーっと思っていました。舞踊ショーは今日のほうが振り付けに変化があり、役者さん一人一人の個性が出ていて良かったとの共通意見。面白かったのが、二才の子がフード付きの衣裳で出てきた。この衣装、大衆演劇ではブームのようで笑ってしまった。うしろ向きになってフードを外しての見せ場なのであるがなかなかフードを後ろに外せないのである。何んとか外してお顔をばっちりである。

 

  • 口上の時も現れて、座長さんが舞台が好きでと言われていたが、もう音楽の世界に入りきっている。舞台中央の先端に座ってポーズをきめ、二段ほどの階段を飛び降り、客席の真ん中を通り舞台にもどりジャンプしたりしてきっちり最後まで自分の世界を披露してくれた。最後の群舞にも出て来て自分なりの踊りをしていたが皆さん移動して踊るのでちょっとぶつかって泣き出してしまった。でも誰も慰めてはくれない。役者さんは皆さん自分の踊りを続けている。どうするのかなと見ていたら、泣いてる場合か!とばかりに踊り始めて前のほうに前のほうへと移動していた。あっぱれ!こうやって幼い頃から芸を身につけていくのかと納得。

 

  • 20代で座長になられる方も多く、20歳くらいまでには最低一か月昼夜別芝居をできるだけの数の芝居を覚え込まなくてはならないであろうし、怪我や病気などの団員さんもでてくるであろうから、その場その場で臨機応変に対処できるノウハウも身に着ければならない。2歳くらいからやっても時間は短いともいえる。

 

  • 後方と前方と観劇でき、友人達も大満足であった。休憩のときはまた乾杯。こんなに一生懸命演じるとは思わなかったと。また老人会宜しくとのことである。そしてお風呂のあとは、また飲んで、しゃべって。次の日一緒に山梨県立美術館に寄る予定であった友人が、少し飲み過ぎのため先に帰る友人と共に帰ることとなり、石和温泉駅で別れて一人山梨県立美術館へ。

 

  • シャルルー=フランソワ・ドービニー展』。どこかで観ているのでしょうが印象に薄い。「バルビゾン派から印象派への架け橋」とあり、バルビゾン派はどちらかというと好きではなく、「架け橋」にひかれたのである。バルビゾン派の画家の一人で個展を開催されたことがなく、没後140周年企画といことである。後年、サロン(官展)の審査員をつとめ印象派の画家たちを応援した。モネが落選したときドービニーはそれに反抗して委員をやめている。

 

  • 面白い人で、アトリエ船「ボタン号」に乗って移動しつつ絵を描いていて「旅する画家」と呼ばれた。挿絵で生計を立てていた時期もあり、エッチングの版画で『船の旅』を出しており、ゴッホもその版画を集めていた。ゴッホは『ドービニーの庭』の作品もあり、ドービニーのアトリエのあったオーヴェルがゴッホの終焉の地である。ゴッホがオーヴェルに行った時はすでにドービニーは亡くなっていたが非常に敬愛していたようである。

 

  • モネも船上での制作を試みたことがあり、特別出品の『セーヌ河の朝』は時間の流れにともなう光からの色の変化を追求するモネの原点に、ドービニーの影響を示唆している。ドービニーは船での移動で観る自然の風景が時間によって変わることを体験したからこそ、印象派の新しい若き画家たちの絵を理解し後押しできたのであろう。「架け橋」とは大事である。甲府市に宿泊した人は割引きしてくれた。(12月16日まで) 同館のミレー館ではミレーの『角笛を吹く牛飼い』が約100年ぶりの一般公開であった。

 

  • 新宿から甲府まで高速バスもある。日中は30分おきに出ていて、特急便は2時間くらいで甲府駅まで行き、途中、石和で停まる。このバス停で降りると徒歩10分で石和温泉駅につく。平日限定の二枚回数券「トクワリきっぷ」が3000円である。甲府まで片道・2000円であるからかなりのお得である。おそらく石和までもあると思う。石和温泉駅で送迎バスを待っている間、色々な宿のむかえの車がきて石和温泉元気じゃないのと思ったが、20年前にくらべると落ち込んでいるそうだ。外国のかたは、外国経営の宿に泊まるそうである。石和温泉に行こうなんて思ってもいなかったので、これをご縁に石和(いさわ)温泉心にとめておこう。

 

東京国立博物館『京都大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ』

  • 京都の大報恩寺は行っていない。北野天満宮の近くのようだが、梅の時期に北野天満宮だけを目指し周辺を散策しなかった。大報恩寺のみほとけの解説は分かりやすく頭の中の整理ができた。六観音がそろい、十大弟子がそろった。先ず、釈迦如来坐像(行快作・快慶の一番弟子)のお顔の目が切れ長で少しつりあがっている。これが鎌倉時代の仏像の特徴のようである。六観音のお顔もそうで、姿が平安と比べると細身である。特別展は平成館で、本館の彫刻展示室に仏像がありどれが鎌倉時代か当ててみた。平安との比較でもあるので当る確率は高い。

 

  • 釈迦如来坐像を中心に並んでいるのが十大弟子たちの立像である。どこかでチラシを手にしたら見開きにしてながめてほしい。十大弟子がそれぞれどんな力があるのか簡潔に紹介してくれている。棟方志功さんにも十大弟子の作品があるが、どいう修業をして何が優れているのか調べもしなかった。そんな怠け者にとってこの説明は灯です。運慶と並び称せられる快慶作。

 

  • 自分がなれるなら目犍連(もくけんれん)がいいなあと。超能力が使えるのです。少し膝を曲げ、いつでも発するぞの気構え。修業ぬきでの願望なので、阿那律(あなりつ)に見透かされそうである。眼は見えませんが、心の眼で見通せるのです。そして、そういうことではいけないと富楼那(ふるな)に説得されそうである。どのような人でも説得してしまうのです。

 

  • そう考えると十大弟子も親しみがもてる。そして、棟方志功さんの十大弟子が気になる。棟方志功さんは、この弟子をどう考えてこう表現したのかなあなどと興味がわいてくる。手の位置や形などにも何か意味があるのであろうかとも考える。棟方さんの十大弟子はどこか愛嬌が合って今阿難陀(あなんだ)は静かに集中してお釈迦様の教えをきいているのだなあと想像がついてきたりする。よかった。これで棟方志功さんの十大弟子に会っても会話できそうである。

 

  • 六観音菩薩さまは、六道のどの世界にいても手を差し伸べて救ってくれる。天道→如意輪観音、人間道→准胝(じゅんでい)観音、修羅道→十一面観音、畜生道→馬頭観音、餓鬼道→千手観音、地獄→聖観音。六観音菩薩像は運慶の弟子・定慶作である。六体が光背も台座も造られたままで残されている。六体あるのでなるほどと思って鑑賞する。自分は極楽に行くと言い切る友人がいる。私が地獄にいたら助けてちょうだいと頼んである。もちろん蜘蛛の糸を垂らすようなことはせずに即救助してくれるようにとつけ加えてある。かの友人はわたしにとって聖観音菩薩ということになる。体形的には鎌倉でなく平安である。

 

  • 誕生釈迦仏立像は、花まつりで甘茶をかけらるお釈迦様の誕生像だが、天を指す右手の人差し指と地を指す左手の人差し指が超長かった。心して思考せよと言われているみたいだが、あまりの長さに思考がとまった。作者不明。平安時代の作者不明の千手観音菩薩立像の手があどけない赤子の手のようだった。

 

  • 見どころ1 「慶派のスーパースター 快慶・定慶・行快の名品がずらり!!」
  • 見どころ2 「秘仏・本尊・釈迦如来坐像と十大弟子が同じ空間で!!」(寺外初公開で寺院では別々に安置されている)
  • 見どころ3 「六観音菩薩像の光背を会期中に外し背中も間近にみれる!!」(現在は外された状態) 東京国立博物館・平成館 12月9日まで

 

  • わかりやすくて満足。今度はやはり現地での再会をである。東洋館がリニュアールされてから観覧していないので再び訪れる。その前に人気の明治外苑イチョウ並木へ。人が多く想っていたより黄色がはっきりしない。歩道をおおう左右の薄黄色と薄緑のコントラストのトンネルのほうが面白い。上野公園では数本の色鮮やかな黄色のイチョウのそばに桜が咲いていてこちらの方が印象に残る。

 

  • 東洋館が観やすくなっていた。展示室の空間を狭くして展示品も少なくしたのであろうか美術館感覚で鑑賞できた。鑑賞したいところをメモしておいて出かけた。

 

  • 5階から降りてゆく。5階の9室「清時代の工芸」ーガラス工芸と玉製器物で繊細で美しい。
  • 4階の8室「特別企画 中国近代絵画の巨匠 斉白日」-これが新感覚。墨絵も近代となるとこうなるのかという楽しさである。赤とか黄色などの使い方。濃淡。熊谷守一さんと似たところがあって身近なものを描いていたりする。カニの群れ。魚の群れ。カエルの群れ。群れと言ってもイラスト的な感覚も加味され、軽さがあり格式ばった山水画のイメージが一掃され、いいな、いいな、いいなと心の中で連発していた。
  • 3階の5室「中国の陶磁器」ー景徳鎮窯の作品。なんという色であろう。どうしてこういう色がでてくるのか。自然の色にかなわないというが、押し込められた人工の色もなかなかである。アジアの占い体験コーナーもあり、国立博物館前が見渡せるテラスにも出られる。疲れた時にはくつろげる場所である。地下の13室「アジアの染織 カシミヤ・ショール」を忘れて見逃してしまった。

 

  • 本館1階では「綴プロジェクト作品 平家物語 一の谷・屋島合戦図屏風」が展示されていた。原本は大英博物館にあり、これをデジタルの高性能さを使用しオリジナルの保存と鑑賞の機会を設けるということらしい。すぐそばでながめることができた。鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし。那須の与一の扇の的。熊谷直実の呼び戻もどされる平敦盛。義経の弓流し。それらが二双の屏風画に描かれていた。
  • 2階の9室「能と歌舞伎 歌舞伎衣装」ー 戦で攻撃から身を守るために着用する鎖帷子(くさりかたびら)を、七宝つなぎ模様に金糸で編み胸当てや脛(すね)当て部分に装飾としていて、なるほどあれは鎖帷子なのか。
  • 10室「浮世絵と衣裳 江戸(衣装)」ー 忠臣蔵をを動物たちで描いていた。武家屋敷の年末の大掃除がこれまた忠臣蔵に見立てられている。
  • 18室「近代美術」ー「形見(かたみ)の直垂(ひたたれ)・虫干」(川村清雄)幕臣の子として生まれた川村は、早くにフランス、イタリアで本格的に油絵を学んだ。画家の保護者であり恩人であった勝海舟の死を悼んで制作された作品。勝海舟の胸像があり、少女が葬儀の時にお棺かつぐ侍者が着た白い直垂を着ている。「虫干(むしぼし)」ともあり周りには他の衣裳がみられる。その中で白さが際立つ。下村観山の「白狐」も秋の森の中での白がりんとした静謐さを感じさせた。

 

  • やはり二日にわたって鑑賞して正解であった。時間があっても一日で全てをでは新鮮味がなくなる。旧東京音楽学校奏楽堂もリニュアールオープンしたので、上野公園も楽しい場所になりそうである。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」さらに浅草(4)

  • 宮沢賢治さんが浅草オペラを観ていたという記述をみつけた。『浅草六区はいつもモダンだった』(雑喉潤著)にである。1983年(昭和59年2月4日)、東京の新橋ヤクルトホールで『宮沢賢治没後50年記念のつどい』があった。「賢治へのいざない」の中で関係者から宮沢賢治さんがペラゴロの一人であったことが明らかにされ、1918年(大正7年)の暮れ以来、上京のたびに浅草オペラに通っていたのである。

 

  • その後花巻農学校の生徒を連れて修学旅行に行った際の函館港を詩にし次のようにうたっている。「あはれマドロス田山力三は  ひとりセビラの床屋を唱ひ  高田正夫はその一党と  紙の服着てタンゴを踊る」(『函館港春夜光景』)このとき浅草オペラはすでに無く、函館港の灯りに懐かしく思い出したのであろう。高田正夫は高田雅夫さんであろう。記念のつどいで田山力三さんは、「浪をけり風を衝く 舟人に海は家」を歌い、「賢治さん、終わりのない銀河鉄道に乗りながら、この歌を聴いて下さいね」と挨拶した。

 

  • 『明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎」(矢野賢二著)には宮沢賢治さんの「弧光燈(アークライト)の秋風に、芸を了(おわ)りてチャリネの子、その影小くやすらいぬ。」(「銅鑼と看板 トロンボン」)を紹介している。チャリネというのは、西洋からのサーカス団「チャリネ曲馬団」が人気を博し、日本人による曲馬団が「日本チャリネ一座」と名乗り、チャリネがサーカスを意味していた。

 

  • 宮沢賢治さんは新しい芸能に興味がありそれを実際の演劇にも反映し、詩のなかにも新しい感覚として使っていたようにおもわれる。灯りと芸を演じる人を上手く組み合わせている。農業に関しても新しい方法を探求し胸の内には既成の物事にとらわれない生命が常にふつふつとわき上がっていた。それに肉体がついていけなかったのである。参考まで少し。「チャリネ曲馬団」を歌舞伎で一幕の舞踏劇にしたのが五代目菊五郎さんの『鳴響茶音曲馬』(なりひびくちゃりねのきょくば)』で黙阿弥さん作である。

 

  • 島津保次郎監督『浅草の灯』は古い映画でもありオペゴロやその当時のようすを面白おかしく紹介しているだけのもの思っていた。ところが、この映画はしっかり当時の浅草オペラとその周辺の人間関係などを撮っているということである。原作は浜本浩さんの小説『浅草の灯』でこの原作自体が架空の小説ではなく事実に即した浅草の生態「正義と勇気と友情と純粋な恋愛に生きた浅草の人々」の生活記録としている。金竜館の裏の射的屋や看板娘とペラゴロの様子。給料の前借りをしてドロンして夜逃げ。舞台と観客の様子など実際にあったことを盛り込んでいるのである。

 

  • 『浅草六区はいつもモダンだった』は、大正の浅草オペラ、昭和戦前のレビュー、軽喜劇、その流れからの戦後の六区の芸能のことが詳しく語られている。驚くのは『鉄砲喜久一代記』を書かれた茂在寅男さん(ペンネーム・油棚憲一)、が浜本浩さんに、自分に弟子入りして小説家にならないかと誘われていることである。茂在寅男さんが海洋小説の懸賞に応募し、その作品を選考委員をしていた浜本浩さんが気に入ったのである。茂在寅男さんは迷ったが海洋学者の道を選ぶ。『鉄砲喜久一代記』は、そのおかげでとも言えるような資料を丹念に調べ、読者の気をそらさない作品となっていて大変参考にさせてもらった。浅草六区に魅かれた起爆剤のひとつでもある。 『鉄砲喜久一代記』と「江戸東京博物館」(1)

 

  • 五代目菊五郎さんも驚くほどの新しがり屋で、キクゴロがいてもいいくらいである。舞台に浅草公園を登場させている。イギリス人の風船乗りスペンサーが来日して上野公園の博物館まえでも公開し、それを歌舞伎にしたのが五代目菊五郎さんと黙阿弥さんである。『風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)』。「高殿」が凌雲閣で、そこに登って風船乗りを見物していた様々なひとが茶店に集まってそのうわさ「評判」をしているのである。そこに圓朝に扮した五代目菊五郎さんがあらわれるということらしい。もちろんその前半には五代目菊五郎さんが歌舞伎版スペンサーとなって演じている。ここでは浅草公園と十二階が歌舞伎に出てきたということだけにする。こちらはこの芝居と反対にそろそろ浅草公園から上野公園の博物館に誘われているようである。

 

  • 面白いことに浅草で不良だったサトウハチローさんの詩の挿絵をいわさきちひろさんが描かれている。いわさきちひろさんは、ずっーとかわいらしいものが好きだったようである。サトウハチローさんは色々なことにたずさわるが、すぱっと童謡詩人にもどる。かわいらしいものや小さいものがお好きなようだ。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」(3)

  • 東京都練馬にある『ちひろ美術館』に行ったとき、あの可愛らしい絵の中の子供たちと同じように生きている子供たちが幸せであるようにという想いが伝わってきた。同時にいわさきちひろさんには過去に非常につらいことがあったのだなということを少し知ることができた。戦争のあった時代を生きてこられたわけであるから誰しも悲しいこと、後悔すること、怒りを感じることなど様々な感情を呼び起こす経験はされている。

 

  • ちひろさんが最初結婚されたかたは、自分で命を絶っていた。ちひろさんは自分の意志をはっきりさせず周りに押し切られて結婚し、そういう結果を招いたことに深い自戒の念があった。そして絵を捨てたことにも。前進座公演『ちひろ ー私、絵と結婚するのー』は、戦後ちひろさんがそこから這い出し、絵で自立する3年半をえがいている。ただ、それと同時も結婚を申し込まれるというところで終わっている。結婚しても絵との結婚を妨げない人からの申し込みであったということになる。

 

  • ちひろさんがどうして絵で自立できたかという過程は知らなかったので芝居を観つつそうであったのかと明らかになる部分がほとんであった。松本から泊るところも決めないで出版社の面接に東京にでてくる。これが自立への第一歩であった。1946年(昭和21年・27歳)のことである。食料難である。泊めてもらえたのが、池袋モンパルナス(芸術家が修練の場所として住んでいた地域)の丸山俊子さんのアトリエであった。丸山俊子さんは丸木俊さんがモデルであるということがわかる。ちひろさんは、出版社にも就職でき、丸山俊子さんの早朝デッサンの会にも参加し、色々な人に絵の批評を受ける。

 

  • ちひろさんは、子供時代お母さんは教師をしており、恵まれた環境で「コドモノクニ」の子供雑誌などにも触れて豊かな感性をはぐくんでいる。絵の仲間たちから『コドモノクニ』とは高価なものを手にしていたんだね。などともいわれる。皆、自分の絵の線を探している。印象的なのは、丸山俊子さんがちひろさんに、人の絵にふらふらしないで自分の絵をめざせという。丸木俊さんは、『原爆の図』を描かれたかたで、いわさきちひろさんの絵とはかけ離れているようにおもえるが、その精神性は一緒であると理解されていたようである。ちひろさんも、自分の意見を主張しないで悲劇が生まれたとの想いから恐らく自分の絵に対する意志は曲げなかったであろう。

 

  • そんな時、紙芝居を制作したいという仕事が舞い込む。その編集者・稲村泰子さんは盛岡出身で宮沢賢治の信奉者でちひろさんも宮沢賢治は大好きであった。意気投合する。紙芝居はアンデルセンの童話で、原作を脚色している『お母さんの話し』である。そのあたりのふたりのやりとりも面白い。ちひろさんに結婚を申し込む人・橋本善明さんは青年活動家で宮沢賢治を知らくて、ちひろさんと稲村さんにずっこけられる。今回この舞台の脚本は、前進座の俳優・朱海青さんでこの作品が脚本家デビューである。よく出来上がっていると思う。下宿のおばさんが庶民の感覚を代弁したりしている。

 

  • ちひろさんは、満州で身体を壊し他の人より早く日本に帰ってくる。そのことも残された人々のその後を考えると苦しいものがった。芝居には出てこないが、お母さんが国のためにした仕事など、その後に見えてきたことに対する贖罪のような感情がたえずあったと思われる。それでも自立し絵に対する気持ちを大切にしようという意思が<私、絵と結婚するの>に現れている。東京での女学生時代、岡田三郎助さんに師事し女性の公募展で入選もしていてその才能は芽を出していたのである。ちひろさんの子供たちには、その芽をつまないでの祈りのようなものさえ感じる。

 

  • 前進座の歌舞伎や時代劇ではない現代物である。役者さんも、現代物でのほうがその演技力を発揮できるかたもおられたのではないだろうか。いわさきちひろ生誕100年に舞台化され新たな前進座の前進となったように思える。ちひろさんの絵の色使いとか線とかも改めて味わってみたくなった。

原案・松本猛/台本・朱海青/演出・鵜山仁/出演・有田佳代、新村宗二郎、松川悠子、益城宏、中嶋宏太郎、浜名実貴、黒河内雅子、西川かずこ、渡会元之、嵐芳三郎、上滝啓太郎、嵐市太郎、松涛喜八郎

 

  • 宮沢賢治さんが自作の戯曲の上演をしたのが、勤務していた農学校が岩手県立花巻農学校となり新校舎落成・県立校昇格の記念式典である。上演したのは『植物医師』『飢餓陣営』である。(1923年・大正12年)『飢餓陣営』は浅草オペラの影響があり、宮沢賢治さんは浅草オペラを見たとされている。まだいつ賢治さんが浅草オペラに接したのか、実証される文献にはお目にかかっていない。あのガチガチに固まってみえる宮沢賢治さんが浅草でオペラを観たと想像するのは楽しいし、それを岩手で実行しようとしていたなら先進をいっている。

 

  • 春と阿修羅』を自費出版したのが1924年(大正13年)で、それを激賞したのが、辻潤さんの『惰眠洞妄語』(読売新聞)と佐藤惣之助さんの『十三年度の詩集』(日本詩人)である。このお二人、浅草の「ペラゴロ」で「ゴロ」はゴロツキではなくフランス語のジゴロ(地回り)からきていて辻潤さんが命名したとの話もある。その「ペラゴロ」が宮沢賢治さんの『春と阿修羅』を一番に押したのであるから浮き浮きしてしまう。宮沢賢治さんの心の中は弾力豊かに跳ねていたとおもえる。

 

  • ちひろ ー私、絵と結婚するのー』のチラシの絵が「窓ガラスに絵をかく少女」で『あめのひのおるすばん』に入っているらしい。早く帰って来ないかなとひとり窓から外を見ているうちに窓ガラスの水滴に気が付きそれに人差し指で絵を画いているのだろう。パンフレットの中にも「指遊びをする女の子」という右手の人差し指を動かして遊んでいるらしい絵。その人差し指が強調されていて少し長い。「絵をかく女の子」は親指と人差し指でクレヨンを持ち絵を画いている。高畑勲監督(合掌)の『火垂るの墓』の節子ちゃんが親指と人差し指にドロップをはさみ口に入れるのを思い出す。

 

  • 映画『アンデルセン物語』(1952年)はダニ―・ケイがアンデルセンを演じるミュージカル映画である。デンマークのオーデンスに住むアンデルセンは靴屋の仕事もせずに、お話を作っては子供たちに聞かせるのである。弟子のピーターは気が気ではない。子供たちが話に夢中になり学校へ行かないのである。町の偉い人達はオーデンスの町から追放すると決める。ピーターは追放をアンデルセンに気づかせないようににコペンハーゲンに行こうと誘いだしコペンハーゲンに着く。ところが、国王の像の台座に登ってしまいけしからんと牢屋にいれられてしまう。アンデルセンは窓から外をのぞくと女の子が寂しそうにしている。友達がほしいのかいといって、左手にハンカチをかぶせ、親指に目鼻を画いて小さくたってくじけないと楽しく歌って聞かせる。そして右手の親指と仲良くなる。女の子は自分の親指をみつめる。女の子は寂しいときは親指姫と遊ぶのかな。

 

  • この映画は、アンデルセンの失恋も描いてもいる。バレリーナに恋をして、『人魚姫』の話しを捧げる。そのお話はバレエの台本につかわれ、恋するバレリーナによって人形姫は踊られるのである。ところが、アンデルセンの勘違いで恋は破れてしまう。病気で頭の毛がない男の子に『みにくいアヒルの子』を聞かせその子は納得して元気になる。その子のお父さんが出版業をしていてアンデルセンのお話しを新聞に乗せる。作家アンデルセンの誕生である。アンデルセンはピーターと故郷へもどるのであった。

 

  • 『人魚姫』のバレエ舞台の振り付けが時代的に考えると新しく誰の振り付けかと思ったらローラン・プティであった。なるほど。アンデルセンの恋するバレリーナはパリ・バレエ団のジジ・ジャンメイルが演じている。ちひろさんのお陰でほったらかしの映画『アンデルセン物語』のDVDの封も切ることができた。ちひろさんのアンデルセンのお話の挿絵はどんな絵であろうか。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」(2)

  • 木馬館』浅草でここへ何回も来るとは思っていなかった。浅草そのものが観光ガイド的な場所であった。毎月一回は大衆演劇を楽しむため『木馬館』を訪れる。予定はたてずその時の気分だったり、友人に声をかけて決まったりする。今回は浅草公会堂での前進座『ちひろ ー私、絵と結婚するのー』の夜の部の観劇を入れていたので昼は『木馬館』と決まった。

 

  • 大衆演劇の芝居小屋によって違うこともあるが、整理券を出すところもあり『木馬館』も出している。その時によって入場者の波があるのを知る。友人を誘い私は予定がありぎりぎりにいくので先に入っていてと言ったところ彼女らしい見やすい席に座っていたので安心した。こちらもほど良い席に座れた。一度など友人と時間を潰してから行ったら整理券がでていて並んでいる。座れたのは一番後ろの丸椅子であった。どこでも観やすいのでそうこだわらないが、先に覗いて整理券のあるときはそれを受け取ってから散策にでかける。要領がよくなってきた。

 

  • サトウハチローさん自身の<木馬館の恋>がある。当時の『木馬館』はジンタが流れ乗り物の木馬が回る小さなメリーゴーランドであった。今もその木馬が建物の外から見えるように展示されている。ハチローさんはこの木馬に乗り続けた。身体の大きなかたであるからあの小さな木馬に乗った姿は想像しても恰好よいものではないが、木馬館の女の子に恋をしてしまったのである。お金は父・紅緑さんに「乗馬をやっている」といってお金をもらっている。おしィちゃんには全然通じていない。告白などできない。

 

  • 以前、今戸の渡し場で船頭の手伝いをしたことがあった。渡しの船で向島から浅草を決まった時間に往復する美しい娘さんに恋をしてしまう。ある日、向島から後をつけると浅草金魚飼育所の看板の家に入った。数日後ハチローさんは意を決し娘さんをお嫁さんにしたいと申し込みことにいく。金魚屋を訪れ兄貴らしい人に、いつも渡しで浅草に行くあの娘さんをお貰いしたいと申し出る。兄貴が言った。あの娘ですか。あいつは俺の女房なのですが。

 

  • そのことがあり今度は木馬館でラムネを売っているお婆さんに仲介を頼むことにした。木馬に乗り過ぎてズボンの内股はすり切れ、両方の手のは手綱のタコが出来ている。喉が渇くのでラムネを日に何本も飲むためラムネ売りのお婆さんとも顔みしりである。お婆さんは、毎日木馬に乗っている人に嫁はこないだろうとあっさり拒否する。このお婆さんはあの女の娘の母親であった。コントになりそうな実体験である。

 

  • 木馬館』の大衆演劇も楽しく大笑いの場面もあった。大衆演劇には笑いのセンスの良い役者さんが多い。何が飛び出すか分からないところがお化け屋敷さながらで、突然変な人が現れる。初めての人は、皆の笑いについていけず何事かと思い、もしかしてあの美しい役者さんがこの人なのかと3歩ぐらいおくれて気が付く。そのうち芝居の笑いに吸い込まれる。ただこの変な人は、恰好良い人に居場所をとられてしまう。そして形が決まって幕となる。まあこれは一つの例で、様々のバージョンがあるので何とも出たとこ勝負である。珍しく、昼夜同じ演目で役者さんが代わるという。残念ながら夜は<ちひろ>さんである。

 

  • 歌舞伎座12月夜の部はAプロ、Bプロとややこしい組み合わせになっているがどうせなら『あんまと泥棒』の松緑さん(泥棒権太郎)と中車さん(あんま秀の市)も入れ替えて演じて欲しかった。それぞれの色があって面白かったと思うが残念である。

 

  • 大衆演劇、舞踊ショーも含めて、またまた楽しませてもらった。東北の友人が、お得な電車の切符のときにそちらに行きたいから計画してほしいと言ってきた。こちらの旅に合わせるというが大きな病気もしているしそうもいかない。温泉かなと思っていたが、そうだ大衆演劇に行こう!というわけで大衆演劇付き宿泊と決めた。よろぴ~!と返信がくる。こちらも手続き簡単で助かった。喜んでもらえるかどうかは出たとこ勝負である。まあおしゃべりだけでもいいわけであるから楽しもう。そしてもう一つ浅草で実行できた。

 

  • 人力車。ついに乗った。大したことではないがなかなか予定もあったりで好い状態でつかまえられなかった。『木馬館』の送り出しは混んでいるであろうと裏から抜けて路地を出たら車屋さんがいた。ラッキーである。乗り心地と目線の高さを知りたかった。そして人の少ないところを。こちらの要求をわかってくれた。車輪はタイヤで座席のクッションもよく乘り心地が良い。観光はいらないと思っていたが、さすがプロである。知らない事を教えてくれる。

 

  • 実際に走って乗るなら樋口一葉さんの『十三夜』や『無法松の一生』の時代の人力車よりも現代の人力車である。特に時間が長いと快適さが違うであろう。車屋さんは説明しつつ、こちらの質問に答えつつスイスイ進んでくれる。路地の四つ辻なども人をよけ上手く回ってくれる。今日は人が少ないということである。江戸通りも停っている車をよけつつ走行車の横を走る。人に対しては邪魔かなと思うが車に対してはなぜか優越感である。高いせいもある。家並みもいつもより高い目線なので古い家並みとして映る。桜の時期の墨田川沿いがお薦めという。いいだろうな。その時は人力車の日として考えなければ。

 

  • 人力車のあとは、車屋さんに聞いた沢山の芸能人などのサイン色紙が飾ってある洋食屋さんへ。壁全面に飾ってある。たまたま座ったところに大杉漣さんのサイン色紙が目に入った。(合掌)浅草でというのが心ならずもうれしかった。さてまだ少し時間があるので駒形橋を渡り吾妻橋からもどることにする。駒形橋の真ん中でカメラを据えている若い男性がいる。気になってずーっとここで撮っているのか尋ねると朝から20分置きにシャッターをきっているという。一つの風景の時間の経過を追っているらしい。別の場所で映して一枚に編集したのをみせてくれた。編集が大変らしい。この風景なら時間の経過がはっきりして素敵な作品になるであろう。写真関係の学生さんだった。吾妻橋に近づくと尾形船の灯りもあって浅草と隅田川の相性のよい風景となる。ではこれからちひろさんに会いに行く。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」(1)

  • 浅草の浅草寺境内も確かめることが多い。先ず、「ひょうたん池に噴水があったが、もう一つ浅草寺の本堂の後ろにも噴水があってその真ん中に立っていたのが、高村光雲作の龍神像で、今はお参り前に清める手水舎に立っているのだそうで、よく見ていないので今度いったときは見つめることにする。」からである。 『浅草文芸、戻る場所』(日本近代文学館) ありました。想像していたよりも小ぶりでしたが、お参りするまえにこの龍神像に逢えるというのもいいものである。高村光太郎さんより光雲さんのほうが身近になりそうだ。
  • 嵐山光三郎さんの『東京旅行記』の中に当然浅草がある。この旅は1990年頃で他二名の三人で回っている。「一人だと本当に蒸発しかねないから、三人でお互いに見張っていた。」とあり、飲んだり食べたり、好きかってな感想がハチャメチャで、吹き出してしまう。日の出桟橋から船で浅草に向かうのであるがそのハスキーなガイド嬢の声に対する反応。「ガイド嬢の低音鼻声は、掛布団かぶって布団のなかで女から秘密をを打ちあけられたような気分で、くすぐったくなる。」こちらはその反応にいぶかしくなる。
  • 吾妻橋に到着し、すぐ浅草寺方向には向かわない。反対側のアサヒビールで黒ビールである。どうにかこうにかやっと浅草寺に御到着である。「本殿の天井を見上げると堂本印象作の飛天が描かれている。この飛天に会いたかった。」一人は好きなタイプだといって目をうるませ、一人は気に入らないようである。著者は、観察しつつ好き勝手なことをいっているが落ちが「どちらかというと好きなタイプです。」とくる。というわけでこちらも飛天様をながめる。三人の印象がのり移っていて可笑しさがこみあげる。現代風の美女であらせられる。遠い平安時代の飛天様ではない。そこがまた気取らない浅草の飛天様ともいえる。

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  • 本堂の後ろの噴水の場所には、平成中村座があって2018年11月の浅草の風景である。浅草は懐かしがりつつも今を楽しむ場所である。
  • 沢山の碑があり解説板もある。今回結構真面目に読んだりながめたりした。『天水桶(てんすいおけ)』 太平洋戦争が激しくなりご本尊の観音さまを天水桶に納め地中深く埋めて戦火から守った天水桶である。『胎内くぐりの灯籠』 江戸時代からこの灯籠の下をくぐると子供の虫封じや疱瘡のおまじないになるという。灯籠自体は新しい。

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  • 活動弁士の碑』活弁の創始者・駒田好洋さんの名前がなかった。生駒雷遊さんは、サトウハチロウーさんが浅草でオペラファンの「ペラゴロ」のころ弁士として大変人気のあったかたである。ハチローさんは帝国座の弁士部屋に古川緑波さんに連れて行ってもらう。詩人仲間でもありえない弁士同士の会話の言語表現に感心する。「海坊主の親類」(ハチローさんはあだ名をつけるのが得意であった)と近づきになった。海坊主の親類は大辻司郎さんのことである。司郎さんは、ハチローさんのお金のないのを知って生駒雷遊さんのところに連れて行く。この男は朝からノーチャブらしくカラケツ詩人なのでハイ両ばかりやって下さいませんかと頼む。雷遊さんは、一円札を司郎さんに渡す。細かくしてあげると外で両替をしてハチローさんの手に50銭玉を一つ乗せ、相互扶助の精神で生きようとのたまった。ハチローさん、感激から感嘆の溜め息にかわった。(『ぼくは浅草の不良少年』玉川しんめい著)

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  • 獅子文六さんなどは、染井三郎さんを最高としている。低い声で抑揚なしで説明するが人の心を捉えたとしている。喜劇では杉浦がクスグリをやらずセンスがよかったが途中できえたようだとあり碑にも名前がない。花井秀雄さんに関しては、八字ヒゲの顔や説明文句まで思い出している。獅子文六さんはオペラよりも活動写真派で外国映画のイプセンの『ノラ』や『幽霊』に感動している。(『ちんちん電車』)
  • 喜劇人の碑』横に名前があり、喜劇人ではない人の名も。それらは世話人の方の名で喜劇人の名は碑の裏にありました。さすが裏技。榎本健一(エノケン)さんの名前もあり、サトウ・ハチローさんとの関係は菊田一夫さんともつながる。エノケンさんは、カジノ・フォーリーから観音劇場で「新カジノ・フォーリー」を旗揚げ、さらに玉木座にうつって「プぺ・ダンサント(踊る人形)」を結成。ハチローさんは、このプぺ・ダンサントの文芸部長になる。しかし流行歌の作詞家としての仕事も加わり忙しく脚本を書く時間がない。あらすじとギャグを提供し5歳年下の菊田一夫(22歳)さんが脚本にしてサトウハチロー作で発表。さらにエノケンさんは浅草松竹座でエノケン劇団を旗揚げする。
  • サトウハチローさんと菊田一夫さんは、古川ロッパさん、徳川夢声さん、大辻司郎さんが常盤座で旗揚げした「笑いの王国」に加わる。古川緑波さんはハチローさんとは早稲田中学での同級生で優等生であった。生駒雷遊さんのところに連れて行ってくれた時にはすでに映画の紹介や批評の仕事をしていたのである。今度は喜劇俳優となり、さらに「声帯模写」というジャンルを作り出す。菊田一夫さんもこうした経験からのちに人気作家として活躍し、ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』『君の名は』につながっていく。これらは『ジュニア・ノンフィクション サトウハチロー物語』(楠木しげお著)から参考にさせてもらった。簡潔でサトウハチローさんを通じてエノケンさんの流れも童謡の流れもよくわかった。
  • 中学生の頃、サトウハチローさんは、父の佐藤紅緑さんから何回も勘当されるが、親の七光りも当然ある。田端では室生犀星さんにお金を借りる。役者は大入りが出ると財布の紐もゆるむので新派の大矢市次郎さんなどにもおこづかいをねだっている。新国劇の澤田正二郎さんも劇団でハチローさんを預かったりしているが長くは続かなかった。
  • オペラの演し物のプログラムの第一が新劇、第二が少女歌劇、第三がオペレッタ、第四がグランドオペラとなっている。ペラゴロ組は金龍館党と日本館党に分れひょうたん池の藤棚でたむろしてお互い対向して歌い出す。それを黙っていられないのが中之島の芝生を陣取る活動写真組。ヤジったり喧嘩となったりする。ところが夜の八時になると半額となりその知らせのベルがなると取っ組み合いをしていてもそれぞれの劇場めざしかけだすのだそうである。皆、若さはあってもお金がなかったのである。ハチローさんなどは次第にすべての劇場が顔パスとなる。
  • 石井漠記念碑』谷崎潤一郎さんの筆により「山を登る」とある。獅子文六さんは、石井漠さんが「牧神の午後」を踊ったのを日本館あたりで見ている。ヨーロッパで「牧神の午後」が発表されてそう間のない頃だと思うとし浅草がいかに先端をいっていたかがわかる。獅子文六さんはカジノフォーリーの頃は外国に行っていて日本にはいない。サトウハチローさんは獅子文六さんより10歳年下で、石井漠さんの日本館の楽屋にもたむろしていた時期がある。サトウハチローさんの交友関係は広く様々な分野の卵たちでもあった。

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  • 嵐山光三郎さんの浅草散策のころの六区の常盤座の演し物は、ミュージカル『浅草バーボン・ストリート』で、出演は小坂一也、佐々木功、演出・滝大作、監修・柳澤慎一とある。次回は麿赤児の大駱駝艦の公演で、音楽・坂本龍一、美術・横尾忠則。光三郎さんらは、麿さんが近くのソバ屋にいたから、「やあ」と五秒あいさつして手焼きせんべい屋をのぞき新仲見世通りから浅草寺へと向かうのである。では奥山の碑巡りもこの辺にしておくこととしよう。

 

追記: 黒澤明監督はお兄さんから勧められた映画をたくさん見ていた。お兄さんは映画弁士となり、トーキーの時代となり弁士の生活がおびやかされ組合の委員長もされるが自ら命を閉じてしまわれた。後に映画『綴方教室』で徳川夢声さんが「君は、兄さんとそっくりだな。でも、兄さんはネガで君はポジだね。」といわれたそうである。(「蝦蟇の油」)

 

ふたたび『三峯神社』と『秩父』

  • 早々と『三峯神社』への再挑戦である。解ったことは、やはりバスがかなり気力を奪われてしまう。行きも帰りも、あのカーブを登って下りるのでバスの車体だと振りが大きいのである。帰りは三峯神社で頂いた気をかなり使いきった感じであった。平日とあって先日より少しは人は少ないが、紅葉は見ごろなのでやはり人気である。

 

  • 三峯神社』では、しっかり「遥拝殿」から「奥殿」のある山にむかって手を合わすことができた。遥拝殿もっと距離があると思っていたが階段を少し登るだけであった。もともと高い場所なので見晴しがよい。この「奥殿」へ歩いて登るツアーも見つけたが期間がきまっている。乗り物の席が保証されているのが魅力である。スーパー歌舞伎でかなり身近になっている日本武尊像にもおそばから右手を挙げて挨拶できた。日本武尊は東国に来たおりこの地にのぼり、周囲のあまりの美しさに、イザナギノミコトとイザナミノミコトの二神をお祀りし、国の平和を祈られたのが始まりだそうである。

 

  • 拝殿へ向かう階段の脇に並ぶ石塔は東京築地市場講とありお店の名前が記されてあった。拝殿の横には水をまくと龍が現れるという石畳あり、小教院という古い建造物はコーヒーハウスとなっていた。先日見落としていたものを確認できた。拝殿への道も、隋心門を通らずに歩く楽な道があり、多くの摂末社が祀られている。早めにバス停にむかったので無事座ることができた。座っていても身体がゆれるカーブなのである。紅葉は綺麗であった。穏やかな自然体である。陽の光が当ったところだけが色づいている。その素直さは、あの大災害と同じ自然とは思えない。

 

  • 今回は『ちちぶ銘仙館』と『やまとーあーとみゅーじあむ』に行く予定を立てていた。秩父銘仙は、平織りで裏表がなく色があせれば裏を使って仕立て直しができ、明治後期から昭和初期まで人気があった。秩父銘仙は「ほぐし模様」といわれる変化に飛んだ斬新な模様で喜ばれたのである。「ほぐし模様」というのは、タテ糸に型紙を使って模様を染め、これを「ほぐし捺染(なっせん)」という。大正ロマンでは竹久夢二さんの描く女性の着物が明るい太い縞や植物、幾何学模様で銘仙であったとされている。当時の女性たちへのあこがれの相乗効果をもたらしていたようにおもえる。普段のおしゃれ着として開放的な可愛らしさを楽しめたのである。

 

  • 先に糸を染めて織りつつ模様を出していくものはしっかりめの硬さがあり、織ってから染めたものは手触りにも柔らかさがある。秩父銘仙はそのどちらでもない特徴を考案したものです。先にタテ糸で型染するのでタテ糸が柄を作り、横糸は一色で織り「ほぐし織」という。「ほぐし捺染」で大胆な柄を描くことができ、柄を簡略に織り込むことができ、さらにこの技法は光線の加減で玉虫色に光るという効果をも生み出したのである。「ほぐし」というのはたて糸だけではばらけてしまうので仮の横糸を織り込み、それは本織りのときにはほぐしてとってしまうところからきているのようである。秩父の織物は神話の時代にさかのぼる。

 

  • 秩父の織物は、神話時代、崇神(すじん)天皇が国造りのため知々夫彦命(ちちぶのひこのみこと)をつかわされ、知々夫彦命が秩父地域に養蚕と機織りの技術を伝えたのが始まりと言われている。このかたが秩父の祖神を祀ったのがはじまりで知知夫国の総鎮守としての『知々夫神社』があるわけだ。織物にもどすと、盆地で石灰質の強い土で稲作に向かず養蚕による絹織物が盛んになる。盆地というのはよくわかります。

 

  • 江戸時代、出荷できないような繭をあつめ作ったのが「太織(ふとおり)」。丈夫で江戸で評判になり「鬼秩父」と呼ばれ、いまでいうデニム感覚で歌舞伎役者や江戸っ子が着こなして秩父の織物が世に知られるようになる。歌舞伎役者の着るものは江戸ファッションのさきがけである。この「鬼秩父」は残念ながら展示されていなかった。見たかった。そのあとで『秩父銘仙』を作りだすわけである。

 

  • 秩父銘仙の歴史の年表が掲示されているが、上のほうで字も小さいのが残念。江戸時代の寛政の改革では、秩父夜祭の曳きまわしが禁止されている。そんな事まで目が届いていたのである。12年後に復活する。現『ちちぶ銘仙館』は秩父工業試験場として建ち、その後、繊維工業試験場となり変遷があって廃止となる。建物は、建築家ライト氏が考案した大谷石積みを使い、三角屋根の工場棟は渡り廊下になっており、市民運動によって残され『ちちぶ銘仙館』として開館する。

 

  • 最盛期には約7割の市民が織物関係に仕事にたずさわっていたという。おしゃれ着から、座布団や寝具などの製品としても送りだすが、時代の波は変わってしまった。「ほぐし捺染」に関しては、映像があって20分位かかる。案内チラシでは現在、毎週第2土曜日にすべての設備が稼働して、繭から秩父銘仙になるまでの工程がみれ、体験コーナーもあるらしいが確認が必要とおもう。銘仙は、秩父、足利、桐生、伊勢崎、八王子が関東の五大産地と呼ばれていた。

 

  • 同じ方向の先に『やまとーあーとみゅーじあむ』がある。ここは、棟方志功さんの作品を中心とした美術館ということである。羊山公園の北側の端にあって、南側の端が芝桜で有名な場所となる。今回芝桜の位置もわかったので来年は芝桜観にくるである。途中に「牧水の滝」という小さな憩いの場所があった。案内板の文字が薄れてしまっているのが残念である。ここの道を登って行けば美術館に行く道に出るのでできれば書き直して欲しいものである。若山牧水さんと奥さんの貴志子さんの比翼歌碑がありそこには記されてあった。

 

  • 牧水さんは、大正9年に秩父鉄道の秩父駅で下車し、徒歩で妻坂峠越えて名栗に向かっている。そのとき片側町の家並みから機織りの音がして、男女が声を合わせて唄う家もあると、紀行集『渓(たに)より渓へ』に記しているとある。牧水さんの歌は 「秩父町 出はづれ来れば 機をりの うた聲つづく 古りし家並に」。貴志子さん歌は、夫の歌碑のお礼として詠んだ歌で 「のび急ぐしたもえ草の あさみどり あやふくぞおもふ 生ひ立つ 子等を」。牧水さんの歌では、旅したころの秩父の様子がよくわかる。

 

  • そこからも秩父市街がみえるがさらに登ったところに『やまとーあーとみゅーじあむ』があり、お隣には『武甲山資料館』がある。資料館のほうは寄れなかった。武甲山は秩父市街の南にそびえる石灰岩質の山はだをみせる名峰である。秩父神社とも関係が深く、秩父観音霊場はこの武甲山への信仰が基盤なのだそうである。隣駅の横瀬駅から近い『横瀬町歴史民俗資料館』にも信仰と祭りというコーナーがあるらしく興味ひかれる。

 

  • やまとーあーとみゅーじあむ』の棟方志功さんの作品たちよかったです。個人の方が収集されたそうです。「大和し美(うるわ)し」もあり、三峯神社でヤマトタケルノミコト殿に挨拶したばかりなので嬉しい。よくこれだけの文字を彫ったものである。秩父の夜祭りの版画もあった。観ているとしぼんでいた<気>が膨れ上がってくる。書も恰好良くて元気がもらえる。棟方志功さん、やはり爆発している。熊谷守一さんの絵も三点あった。アリとネコである。爆発なんのそので、これまた可笑しくて素敵である。帰りの電車、爆睡であった。秩父また行くよ~。

 

『秩父神社』と『三峯神社』

  • 和太鼓を習っている友人から、演奏会があるが興味があったら観に来てといわれる。解禁になった。今まで見られたくないと言っていたのである。いつの間にか、普通の和太鼓クラスに屋台囃子クラス、エイサークラスにも参加していて出演が増えていた。これだけやる体力があるのだから大したものである。変化に飛んでいて退屈しなかった。この演奏会をみて体験教室でやってみたいと希望が多いのはエイサーだそうである。なるほど、動きもあって楽しそうに打っているのでやりたいとおもうのであろう。屋台囃子は秩父夜祭りで演奏する秩父屋台囃子であった。

 

  • 秩父に行かなければ。行きたいとおもっていたが実行まで時間を要した。どう行こうかと迷っていた。ツアーは目にしていたが自力で行きたかった。三峯神社へ西武秩父駅からバスが出ている。秩父神社三峯神社が行ける。西武秩父駅から秩父神社は歩いて15分。三峯神社はバスで三峯神社下まで行き、歩いて15分である。楽勝である。机上のことであった。

 

  • 出発してみたら、電車乗り換えでは人身事故のため電車が止まっている。復旧は不明。仕方がない遠回りで西武池袋へ。特急に間に合ってこれで西武秩父からの10時05分の三峯神社行きのバスに乗れる。安心したのもつかの間、何かおかしい。停車ボタンが押されましたので確認のため遅れがでていますとのこと。ウムッ!15分の遅れ。次のバスは11時がなく12時15分なのである。では秩父神社へ先に。

 

  • 観光案内に寄る。友人が、そこで、秩父が舞台のアニメ『あの日見た花の名前を僕はまだ知らない。』(なが~い。通称『あの花』。)と『心が叫びたがってるんだ。』関連の展示をみつけて「これこれ!」という。テレビで特集で放映されていたらしい。泣かせるアニメらしい。秩父神社への道をきく。すぐそばに温泉施設があった。

 

  • 秩父神社』。扁額には「知知夫神社」とある。色あざやかな彫刻がなされていて左甚五郎作の「つなぎ龍」と「子宝 子育ての虎」がある。「つなぎ龍」は彫られた青い龍に鎖がまかれている。天ヶ池に住みついた龍が暴れた際、必ずこの彫刻の下に水溜まりができ、彫り物の龍を鎖でつなぎ止めたところ、龍が現れなくなったという伝説に基づいているらしい。

 

  • 「子宝 子育ての虎」は徳川家康にちなんでいる。戦国時代、武田信玄の手によって焼失し、それを徳川家康が再建。徳川家康は寅の年、寅の日、寅の刻生まれで拝殿前は四面全て虎の彫物で、子虎とたわむれる親虎の彫刻が左甚五郎作。当時の狩野派は虎の群れの中に必ず一匹の豹を描くことが定法で、母虎が豹としてあえて描かれているのが特徴だそうである。どうしてそう決められたのであろうか。

 

  • 神社のお隣には、『秩父まつり会館』があり、笠鉾と屋台が飾ってあり暗くなって秩父夜まつりの雰囲気となる。綺麗である。一度はと思うが今年も予定があって来れそうもない。3Dシアターで秩父の祭りが紹介されていて一番前の席。飛び出す画面に視力が追い付かない。どうも好きDはない。秩父には色々なお祭りがあるのだ。「龍勢祭」にはロケット花火があがって、この花火を「龍勢」といい、友人によると『あの花』では、誰だかがこの龍勢のアルバイトをしているとのこと。

 

  • 今朝、『秩父神社』で奉納してきたばかりという秩父屋台囃子を地元で聴くことができた。秩父のお囃子は、笠鉾であれば神様の下ということで幕が張られた見えない場所の一番下で演奏し、屋台であれば歌舞が演じられる後ろの襖を閉めた中で、これまた姿をみせないで演奏するとのこと。そこが他の祭りのお囃子とちがうところだそうで、おくゆかしい。聴き終わって急いでバス停へ。並んでいる。なんとか座れてホッとする。ところがこのあとまた一波乱。

 

  • 『三峯神社』までバスで75分である。どんどん登って行く。少し紅葉している。『三峯神社』は高いところにあるのだと思っていたら駐車場まで1キロ弱で渋滞で急ぐ方は歩かれたほうが良いとのこと。駐車場が満車で出る車があると入れるという状態らしい。紅葉の時期であることが頭から抜けていた。安全を確認しつつ降車させてくれた。道は平に近く降車させてくれてよかった。時には木々の葉が真っ赤に染まっている。

 

  • 駐車場からは、友人には御朱印のため先に行ってもらう。鳥居が面白い形である。中心の鳥居の左右に小さな鳥居がついていて一つが三つの鳥居の合体である。拝殿までの道は意外と人が少なく静かであった。彫刻の立派な門があり、さらに進むと日本武尊の像の案内があるが遠くからながめる。そばまで行く気力がない。日本武尊がここに寄られたらしい。拝殿の彫刻の色取りも静かな木々の中を通て来た眼を愉しませてくれる。

 

  • 神楽殿の説明に三峯の神楽は霧の流れる境内にひびく笛と太鼓の調和よく、その巧妙なバチさばきによって宮本武蔵が二刀流に開眼したと吉川英治著『宮本武蔵』にあるとしている。映画ではそんな場面なかったと思うが、小説にはあるのだ。小説のその場面読んでみたいものである。二本の御神木があって触れることができる。触れたところの木肌が光っている。ここはオオカミが守り神らしく狛犬もオオカミなのである。途中狛犬も見て来なかった。注意力散漫。

 

  • 帰りの渋滞を考えると早めに下りたほうが好いであろうとバス停にむかう。バスに乗るひとがずらーっと並んでいる。何んとか乗ることができたが次第に気分がよくない。通勤電車のラッシュなみである。三峯入口で降りる人がいて座ることができた。これはまずいなと思い西武秩父駅ですぐに特急があったので帰ることにした。池袋までに何とか落ち着いてくれて無事に帰れたのである。休日の紅葉と電車の事故と体調不良により机上での計画は大幅に崩れてしまったがなんとかクリアできた。

 

  • 友人が言うには、三峯神社は気が強いので元気な状態で行くのが良いのだそうである。弱いと負けてしまうこともあり、元気だともっと気をもらって元気になるという。そうなのか。少し風邪気味かなの体調であった。高い所にあるので気圧の関係などもあるのであろうが、奥殿を拝する遙拝殿へも行かなかったので体調の好いとき再度訪れたい。境内には宿泊所もあり日帰り湯もあった。

 

  • 電車の特急券購入では面白いことがあった。行きの特急券購入場所は改札の中にも自動販売機があるというので入って急いで購入。急いでいるのに一人一人別々に購入。続けて購入しているのに前後の席である。そうか別々のお客と判断しているのである。二人で購入すると連れと判断するのだ。帰りの西武秩父駅では有人の切符売り場の購入であった。特急券が残りわずかで通路をはさんでの席である。席があって助かった。一応秩父方面へのアクセスも体験できたし良しとする。

 

大衆演劇散見

  • 浅草木馬館から始まった大衆演劇散見は、10劇団は観劇したと思う。大阪は新世界にある朝日劇場がデビューである。『合邦辻閻魔堂』に参ったのでここから移動も面倒なので新世界の朝日劇場にした。劇団名は頭の中で混乱しており調べるのも手間なので記さないこととするのであしからず。座長さんが「数ある大阪の大衆演劇劇場の中でここを選んでくださりありがとうございます。」の挨拶。大阪は大衆演劇の激戦区らしい。災害の影響か、新世界も観光客の人数は減っているように思う。

 

  • 大衆演劇を観て思うには、股旅物は大衆演劇が継承してくれるであろうということである。もう大衆演劇しかないともいえる。まだその形を身体に残していてくれる役者さんが多く残っていてくれるからである。ただ大衆演劇の場合毎日、昼夜芝居の演目が代わることが多いので気に入った芝居にあたるかどうかはわからない。いつも飛び込みなので当って砕けろである。新たな劇団、できれば新たな劇場を目指しての散見である。大衆演劇の劇場を訪ねると名所仏閣とか美術館とはまた違った思わぬ風景と出会う。

 

  • 愛知一宮の妙興寺駅の近くの一宮芸能館SAZANもそうであった。駅から近いらしく駅の反対側には妙興寺がある。無人駅である。駅前には大きなスーパーだけ。まわりには何もない。本当に劇場があるのであろうか。あった。公演しているとのこと。では、妙興寺へ。これがなかなかのお寺さんで、正式には『妙興報恩禅寺』と称し禅寺の修業の道場のためのお寺さんなのだそうであるが山門も大きい。拝観の釈迦三尊像の大日如来像のお顔がすっきりとしている。脇の普賢菩薩と文殊菩薩もいい。考えたら久方ぶりの仏像拝観である。お寺のかたのお話では確か3月から11月までの公開で寒い時期は閉まっているらしい。

 

  • お隣の一宮市博物館にはもっと古い時代の仏像がありますと教えていただいたが、博物館は工事のため閉館していた。残念である。駅近くまでもどろうとして線路を越えたら、和風の大きな建物がありお蕎麦屋さんかと思いきや珈琲専門店であった。周りは何もない。車や自転車が並んでいる。中は広いので、お客さんが良い具合にくつろいでいる。名古屋ならではのモーニングでシナモントーストをつけてもらう。おいしい。棟方志功さんの版画が何か所かにかかっている。野の草花が生けてある。お店の人によると、専門の人が生けにきて、このお花の写真を撮りに来る人もいるらしい。納得。『らんぷ』。チェーン店らしい。経験したことのない土地の様子である。

 

  • 芝居のほうは、これまた挨拶で「今日は午前中風が強かったようですが、私たちは大災害などにならない限りお客様が一人でも開演しますので安心して足をお運びください。」と。誰かさんに嫌味に聴こえそうであるが、その前のことである。これが芸人さんだとおもう。あのかたは、ご自分が大アーティストと思っておられるのであろう。それはさておき、こんな具合に、その土地の面白い風景に出会ってしまうのが醍醐味でもある。

 

  • 昨夜、NHKテレビ『探検バケモン』(再放送・10月31日午前4時02分~)で東京北区の十条銀座商店街と篠原演芸場が紹介されていたが、この十条銀座商店街に行った時、アニメの中の商店街が突然出現したような驚きであった。横浜には小さいがこんなところに商店街がと思う場所が三吉橋通商店街。商店街に入ると上に「歌丸さんありがとう」の横断幕があった。歌丸さんが亡くなられたとき、テレビでこの風景が映されていた。まさかその商店街に立つとは思わなかった。この場でそっと合掌させてもらった。ここに歌丸さんも愛した三吉演芸場がある。

 

  • 劇場の中は様々で、どんな場所であっても役者さんたちは、そこでどうしたらお客さんに楽しんでもらえるか工夫されている。設備の問題、照明の問題、音響の問題などこちらから観ていてもハラハラする時もあるが、それも大衆演劇のご愛嬌となる。家内工業的に、役者さんのおばちゃんが照明をされていたりもする。舞台が近いので、上手い、下手もよくわかる。三度笠一つとっても若いのに綺麗な扱い方をしていたり、やはり、立ち姿に年季が入っているなど一目でわかる。近いだけにそういう怖さもある。

 

  • 何が飛び出すか分からないのも大衆演劇の楽しさでもある。ゲストの役者さんが来ている日は、劇団の人数では出来ないような芝居をされたりするようでもある。名作と言われる芝居も、その芯はとらえつつ笑いを入れ、お客さんが飽きないように工夫し、そこが上手くいくとお見事とおもってしまう。笑いから芯に引き戻す力量がいる。ラストショーがメチャクチャ盛り上がったりする。それらと出会えるかどうかはなんとも保証のかぎりではない。こうだからこう楽しいとは限定できないのである。

 

  • 一回の観劇では、演目も踊りも変わるのでその劇団の特色がわかったことにはならない。大衆演劇が観たいという友人を連れていって、あの踊りがもう一度観たいのだがといわれたが、それがいつ出るのか保証の限りではないと伝える。一緒に行った人はほとんどが値段の安さに驚く。それと、終演後の役者さんによるお見送り(送り出し)。こちらが10劇団ほど観させてもらったのも、お値段と一か月は公演しているからである。もう一度観たいと思っているのは、同性のよしみでお名前をあげさせてもらうと、橘鈴丸座長である。最初女座長とは知らず少し線が細いなとおもったが、踊りの発想がおもしろく、なるほどと思う。女子高校生が好みそうである。大衆演劇はなんでもありでいいと思う。

 

  • 温泉につかってお芝居や舞踏ショーを楽しむなどとは、日本の庶民ならではの文化であろう。ずーっと働き続けて、時々息子さんがここに送って来てくれ、ゆっくりここで一日過ごすことができるのが楽しみであるという方のお話を耳にすることもある。遊びかたが多様化して大衆演劇も大変のようであるが庶民の楽しみの場は元気であってほしい。

 

  • 〔追記〕 思い通り、女座長・橘鈴丸さんを観にいく。武蔵野線の吉川駅から5分。場所がわかれば帰りはもっと近い。駅のこんな近くに温泉がある。よしかわ天然温泉ゆあみ。大衆演劇つき。温泉好きが、大衆演劇の力に負けて温泉にも入らずに退散とはこれいかに。芝居は母もので泣かせてくれる。長い台詞なのにくどいとは思わせない。怒りが情に変わる。舞踏ショーでは、がらりとかわってやさぐれた男(中性的)を現代バージョンでおどる。そう!鈴丸座長のこういう雰囲気見たかったのです。今後の予定で、怖いのをやりますと言ってました。つつつーと引っ張られた。怖いのいいと思う。いつかまたの機会にである。楽しかった。ファイト!