旧東海道 平塚から大磯を通り二宮へ(2)

JR東海道線と交差して進むと<江戸見附>の案内板がある。

左手に日枝神社がみえてきてここから国道1号線と重なる。このあたりから大磯宿となる。左手に<小島本陣跡>の碑と案内板があり、もう一つの本陣跡をさがしていると、中年の男性が、<地福寺>は行かないの。藤村のお墓があるよ。と声をかけられる。左手のすぐ近くにお寺が見える。これなら寄れると、そちらに先に行くことにし、男性に新島襄の終焉の地を尋ねると、解かりやすく教えてくれた。

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一度大磯の町だけは歩いているが、東海道と上手く効率よく廻れるか事前に調べていなかったので助かった。島崎藤村と静子夫人のお墓が梅の木の下に並んでいる。そこから<島崎藤村旧宅>へまわることとする。かつて大磯駅から来た道がわかるが、その時も旧宅まですぐには行きつかなかったので、地図を見つつ進むが、やはり途中で、地元の人に尋ねる。藤村さんはこの家が気に入り、終焉までの2年半を過ごしいる。静子夫人はその後、箱根に疎開するが、最後はこの家で暮らされ亡くなっている。

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国道1号線に出て<本陣跡>方向にもどる。先ず<鴫立庵>に立ち寄る。西行法師の「こころなき身にもあわれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮」の歌にちなみ、小田原の崇雪が草庵を結び、鴫立沢の標石を建てたという。この庵室に初めて入庵したのが、俳諧師でもあった大淀三千風(おおよどみちかぜ)さんで、今の庵主さんは二十二代目である。俳諧道場もあり、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び三大俳諧道場の一つである。円位堂には西行法師の座像があり、法虎堂には、虎御前の十九歳の時の姿の木像がある。観音堂には、中国革命家・孫文の持仏(二千年を経た化石仏)であった観音菩薩像が本尊としておさめられている。

この日も句会が行われていた。庵の前に置かれたお茶をいただき、ホッとする。

同志社創設者、新島襄が病に倒れて亡くなった旅館百足屋の一部だけのこっている場所に徳富蘇峰の筆による碑がある。志し半ば47歳で亡くなる。

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さらに東に進み、虎御前が曽我兄弟をしのんで庵を結んだ跡といわれる<延台寺>。ここに、虎御石と呼ばれる石がある。山下長者が子宝を願い虎池弁財天に願いをかけると子供が授かり、虎と名前をつける。長者の枕元には小さな石も置かれてあり、その石を大切にしていたところ、虎女とともにその石も大きくなる。十郎が虎御前の家で工藤祐経の刺客に襲われた時、十郎に放たれた矢を身代わりとなって受けたといわれる石である。石はお堂の中で見学は予約が必要のようである。大磯では虎御前の人気は高いようである。広重の大磯宿の浮世絵が「虎が雨」で雨が降っていて、虎御前の十郎を想う雨なのであろうか。

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さてふり出しに戻り、もう一つ<尾上本陣跡>があるはずだがと捜す。これは案内板がなく、碑のみであった。もうひとつ、石井本陣があったようであるが、この碑はない。本陣が三つあったのである。再び西に向かうと<高札場跡>の案内板があり、ありがた味を加えるために高い位置に高札があったとあり、皆が見上げている絵がある。見やすさが肝腎であろうと思うが、いつの時代も上のお方は見上げられるのが重要な事なのであろう。

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<鴫立庵>を過ぎて西に向かうと見事な松並木が続く。海の潮風でかなり曲っている松もある。今は排気ガスに嘆いている。海側にも行きたいが海までは遠いので迷っていると、友が<こゆるぎ緑地>への小路を見つける。よさそうな小道なので海に向かう。この海岸地帯は明治の名士たちの邸宅や別荘が並んでいる場所である。海のかなり手前にこれから育つ松を植えた緑地があり、それを、西に進む。海も見え良い進み方である。

適当なところで国道1号線にもどり進むと、右手に城山公園があり、左が吉田茂さんの旧邸である。建物は焼失し、再建しているところである。庭をまわるが広い。海が広がりこの庭を歩くだけでもかなりの運動量になりそうである。

後は、、<一里塚>を見つけてJR二宮駅に向かえば良いだけである。今日は、かなり上手くいき充実した内容だったと友と話し合い、「いつも一つくらい見つからないのよね。」と言い合う。変な予感。<六所神社>まで2キロの表示が見える。「このへんから左手の<一里塚>に注意しよう。」「もう出てきてもいいはずよね。」「おかしい見落としたかな。」右に<六所神社>が見える。納得できないまま、JR二宮駅となり、電車の中で地図を広げる。地図の左下の囲みに城山公園周辺図があり、城山公園前の信号から、旧東海道の道筋とある。本を取り出す。「旧東海道はこのあたりから国道1号と分れる。」とかいてある。地図は丁度綴じ込みの部分で、よくみると国道からそれている。これである。大磯の途中から小田原までは、国道で面白くないとの仲間の感想が二人ともインプットされていた。

きちんと文章を読み込まなかったのがいけないのである。これは、またリベンジである。これから先、何回もリベンジしているわけにはいかないので、旧東海道に入る部分を厳重チェックと二人で戒めた。

この日のお昼は、仲間たちが寄ったという水車のあるお蕎麦屋さんで、冷たい天ぷらそばとシラスどんぶりセットでエネルギーは充分だったので、次のリベンジの意欲も残っていて、メラメラと計画を練った。

 

旧東海道つづき → 「二宮~小田原~箱根湯本(1)」  2015年5月31日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

旧東海道 平塚から大磯を通り二宮へ(1)

「平塚」~「大磯」~「二宮」までが目標である。ただし、「平塚」と「大磯」での見学場所が多いので、目的地が見つかるがどうかによる。今回は、仲間一人が同道である。

JR平塚駅から、先ず<お菊塚>からにする。友は探しあてられず今回リベンジである。他の仲間は三回目で見つけたり、情報を得て一回で見つけたりという手強いお菊さんである。駅から紅屋町の表示が見える町内に入り、小さな公園と思ったが、あれ!違う。待ってくださいよ。こんなに近くはないか。友が、この辺りは私たちも捜していてもっと先にあったと言っていたよと。地元の人に尋ねる。そんなに駅から離れていたのかなあという位置にあり、無事に到達。経験の生かされない二回目の<お菊塚>である。

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東海道に出る。前回ゲットした平塚市の地図も出す。<馬入一里塚>あたりで道路が分れ、右手国道1号線、左手東海道となっていて、その延長線の道である。<馬入一里塚>近くに「榎木町」とあるが、一里塚に榎木が植えられていてその地区を「榎木町」と言ったのであろうかなどと想像するのも楽しい。右手に<平塚の江戸見附跡>。宿場の入口が判ったところで、お菊さんのお墓に向かう。「見附町」の名前がある。墓地の中を捜したが無い。地図からいうと端なので、道路脇から捜すとあった。真壁家墓所の中に。そして新しく<番町皿屋敷 お菊の眠る墓>の墓石があり、裏に父・真壁源右衛門さんの詠んだ歌が彫られている。「あるほどの花投げ入れよすみれ草」

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現場にもどれで、東海道にもどり、<脇本陣跡>。宿場の中心である。道路反対側に<東組問屋場跡>。戻って、<高札場跡><本陣旧跡><西組問屋場跡>。東西の問屋場があるが、仕事が大変なので、十日目交替で執務していたとある。ここから北へ入り、おたつさんの墓に向かう。<平塚の塚>のそばである。

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<平塚の塚>は、「ひらつか」の地名の由来の場所である。桓武天皇の三大孫高見王の娘・政子が東国の旅の途中逝去しこの地に埋葬され塚が築かれ、その塚が平になったので、里人が『ひらつか』と呼びそれが「平塚」の起こりとある。

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その近くに歌舞伎『鏡山旧錦絵』のモデル松田たつ女のお墓と顕忠碑がある。おたつは平塚宿松田久兵衛の娘で、萩野山中藩大久保長門守の江戸屋敷の中臈(ちゅうろう)岡本みつ女のもとに奉公にあがる。主人みつ女が年寄沢野から侮辱をうけ自害。たつ女は、沢野を討ち主人の仇をとったのである。歌舞伎では「お初」となり、この役で印象に残っているのは芝翫さんのお初である。年齢に関係なく主人を想う健気で一途な娘役が見事であった。御主人の尾上は雀右衛門さんであったと思うが、とすると、岩藤はどなたであったのであろう。後で調べてみることにする。

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これで安心、東海道にもどり、<上方見附跡>。解説板に広重の平塚宿の「縄手道」の浮世絵が紹介されている。平塚も空襲や区画整理で正確な東海道史跡が分らない部分もあるが、前方の高麗山(こまやま)から考えて、広重の絵もこの辺としている。絵は前方にこんもりとお椀のような山があり、山に向かう道の両脇は海である。不思議な絵であると思っていたが、このあたりは埋め立てられたのであろうと想像すると誇張しているとは思うが納得できる。平塚宿も終わりである。国道1号線と合流する。大磯に入る。

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花水川に架かる花水橋を渡り、大磯宿をめざす。右手に高麗山のふもとにある高来(たかく)神社の入口がある。この「高麗」も「高来」も朝鮮半島の高句麗(こうくり)に由来する。唐・新羅軍に敗れ国を追われた高句麗の王族関係の人々が日本各地に渡来し、大磯の高麗山ふもとに住み、開墾に尽力したという。海からこの高麗山が見えたのであろう。大磯は彩色の当時の様子を描いた解説板となる。

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虚空蔵堂

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化粧坂(けわいさか)あたりから国道1号線と分れ旧東海道に入る。松が少し残る道である。左に<虎御前の化粧井戸>がある。鎌倉時代は、大磯の中心はこの化粧坂あたりであったという。曽我兄弟の兄十郎の恋人虎御前は、この近くの山下長者の娘でこの井戸の水を使って化粧したであろうとの名前である。

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右手に<大磯一里塚跡>があるのを見落とし、戻って捜す。<化粧坂の一里塚>の絵入り案内板があった。市によっ史跡の解説・案内板は違い、石碑のところもあれば案内板だけのところもある。大磯の表示に慣れず、石碑的表示を捜していて見逃したらしい。

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JR東海道線の下の道を通る。友は一度ここを歩いていたが、時間が遅くなり暗く化粧井戸の案内板など何も見えず、ひたすら大磯駅を目指したのだそうである。保土ヶ谷の<権太坂>を私たちは旧東海道ではなく、大学駅伝の権太坂を歩いたのであるが、そのリベンジをしてから歩いたのでおそくなったらしい。私もリベンジしなくてはならないのであるが、一応、「保土ヶ谷」「戸塚」間は歩いているのである。

旧東海道つづき → 「平塚~大磯~二宮(2)」 2015年5月13日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

旧東海道 茅ヶ崎から平塚

茅ヶ崎から平塚は4キロくらいと思う。藤沢から平塚までが約13・5キロくらいである。茅ヶ崎駅近くに一里塚があったので、平塚付近にも一里塚があるはずだが、地図には無い。昔あった位置が不明なのであろうか。とにもかくも、今日は楽勝とJR茅ヶ崎駅から出発で国道1号線にでる。先ず最初は右手に<第六天神>がある。

 

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さらに進むと鳥井戸橋があり、<南湖左富士之碑>の石碑がある。京に向かう時、常に右に富士山が見えるがここでは左に見える<左富士>の地点である。

 

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静岡県の吉原にも<左富士>の地点があるが仲間の話しだと、今は建物があって見えないとのことである。JR吉原駅で降りると、正面に富士山があり、ひたすら富士に魅せられて突進して行ったため、東海道からどんどん遠ざかり、地元の方に<左富士>の位置を尋ねたところ、すぐ教えてくれたそうである。同じような尋ね人が多いのかもしれない。とにかくそれくらい素晴らしい富士山だったようである。道に迷ってもいいからそんな富士山にめぐり会いたいものである。

神奈川のほうの<左富士>は霞んで見えなかった。右手には大きな鳥居が見え、<鶴嶺神社>の入口である。参道が1キロあるという。それも両側がずーっと松並木である。往復2キロであるが、今日は歩く距離も短いので、本殿まで歩く。 <鶴嶺神社>にも大イチョウがあった。前九年の役の戦勝祈願に源義家が植えたものといわれている。このあたりの歴史はよくわからない。鶴の首のように長くて美しい松並木の参道であった。鳥居までもどり西を目指す。

 

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小出川を渡ろうとする手前の左に公園のようなものが見え案内板のようなものも見える。近づいてみると、水が張ってあり杭のようなものが出ている。これは、関東大震災のとき、源頼朝が渡ったといわれる橋の橋脚が出現したのだそうで、それを保護して守り、後に埋めてその上に、再現模型を作ったのが現在の形である。写真などが掲示されていて、木をどのように保護して埋めているかの図もあった。八王子城での礎石を思い出した。それにしても、地震の被害の大変な時によく遺したものである。歴史的知識のしっかりした人がいたのであろう。<旧相模川橋脚>とあり、相模川の流れの位置が変わったことを表している。頼朝は、この橋を渡った帰り道に落馬しており、その後この落馬が原因であろうか亡くなっている。

 

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史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」|茅ヶ崎市 (city.chigasaki.kanagawa.jp)

 

もう少し進むと現在の相模川があり、昔は馬入川とも呼ばれたのであろうか、橋は馬入橋とある。この橋はかなり長い橋である。時間があったので、平塚に着いてから平塚市博物館に寄った。そこでジオラマミニチュア模型の相模川のランプを押したら、赤い電気のランプが凄い範囲に広がり、幾つもの川が河口に集まっている様を目にして驚いた。相模湖からも流れてきているのである。 馬入橋の南側の海寄りに鉄橋が見え、橋の上では撮り鉄さんであろう、東海道線の電車を撮っているようである。撮ることに夢中のあまり、ヒンシュク者の撮り鉄さんもいるようである。

馬入橋を渡って少し行くと<東海道馬入一里塚跡>の石碑が建っていた。新しいので近年建てたのであろう。これで納得である。ここまで来ればJR平塚駅はもう一息である。

 

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平塚駅を背中に北へ向かい立派な<平塚八幡神社>と<平塚市博物館>に寄る。すぐそばの平塚市美術館には一度来たことがある。バスを使ったが歩ける範囲であった。 <番町皿屋敷>のお菊さんの塚があるので、それだけは見つけて帰ろうと思うが、仲間が苦労したというので、市民センターに寄り平塚の地図をもらい、<お菊の塚>を聞いたが詳しい位置を知る人はいなかった。市民センターの手前に<平塚見附跡>があり、ここからが<平塚宿>となる。

 

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お菊の塚>は商店街の間に挟まるような小さな公園にあり、それも、背の低い草木に囲まれ見落とすところであった。解説板があった。

お菊は平塚宿の役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため、江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主膳の意のままにならなかったため、家来が憎み、お菊が皿を紛失させたと主膳に告げ口し、手打ちにかけられる。死骸は長持ちに積められ馬入の渡し場で父親に引き取られる。源右衛門は、死刑人の例にならい墓を作らずセンダンの木を植えて墓標にしたと。

 

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今は、真壁家の墓所にお菊さんのお墓がある。このお墓は、次の「戸塚」から「二宮」での東海道歩きで探し行くことが出来た。さらに、歌舞伎『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』のお初のモデルとなった松田たつさんの<義女松田たつ女顕忠碑>もありちょっと驚いた。

お菊さんの塚が見つかり、目的達成の「茅ヶ崎」から「平塚」である。

 

旧東海道つづき → 「平塚~大磯~二宮(1)」 2015年5月12日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

旧東海道 藤沢から茅ヶ崎

旧東海道歩きも、気ままさゆえに自分でもどこまで歩いたか混乱している。飛んでいるから間を埋めなくてはならない。というわけで一人、藤沢から平塚までの予定であったが、茅ケ崎までとなった。

藤沢での旧東海道を見つけるのが大変であった。戸塚から藤沢までの時、遊行寺の後、浅間神社に寄って一応おしまいとしてJR藤沢駅に向かったため、遊行寺の出口を参道の階段ではない方の黒門から出ていたので遊行寺橋を渡っていなかった。地図に<遊行寺橋>とあるのに、実際にある<藤沢橋>を名前が変わったのだと勘違いしたのである。地図には<藤沢橋>の名前がなかったのである。北側にもう一本道があり迷ったが<藤沢橋>を背にして進んでしまった。そろそろ右手に<藤沢公民館>が出てきてもいいはずだが出て来ない。人に訪ねると道が違うと思うとのこと。仕方がない。迷ったところまで戻るしかない。<藤沢橋>を右手に北に向かうと旧東海道の案内板がある。完全に間違っていた。さらに進むと右手奥に赤い<遊行寺橋>があった。

 

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昨年はこの参道の階段から見事な桜を眺め見降ろしたのである。遊行寺の境内まで上がる。あの美しかった八重桜も、今年は終わりを告げていた。その分、銀杏の木が青々と元気な姿を誇っている。一度この銀杏の秋の色も堪能してみたいものである。

 

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心機一転、階段を下り、旧東海道に向かう。出てきました。右手奥に<藤沢公民館>が。この辺りが藤沢宿である。<蒔田(まいた)本陣跡>の標識、左手の消防署の前に<坂戸町問屋場跡>の標識。<問屋場(といやば)>というのは、幕府の公用の役人の旅のお世話をする事務所である。人足や馬を手配したり宿を世話したりと役人相手の仕事なので気を使い大変だったようである。

 

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消防署の裏手の常光寺のさらに裏手に<弁慶塚>があるというのである。結構探すのにてまどった。裏とあったので、お寺の脇からまわり裏から入ったが、本堂側に降りてきたところにあった。文章と文庫本の地図で探すので距離感が予想になる。この本の編纂にかかわった方の一人が、保土ヶ谷駅近くのお蕎麦屋さんのご主人で、偶然そのお蕎麦屋さんに寄り、その事実を知る。「この本だけで歩いてるの。」と驚かれ、それからは手に入ればパンフレットなども使うが、私たち仲間はこの文庫本が好きである。「迷って地元の人に聞くのも旅を感じるよね。」「言葉と会話の理解の幅も感じるし。」古いことは年配者がよく知っているが、道のみに関しては若い人のほうが、簡潔に説明してくれる事もある。

旧東海道にもどり、先の右手奥に、源義経を祀った<白旗神社>がある。白旗神社に向かう前に<義経首洗い井戸>があり、奥州で亡くなった義経の首が首実検のため鎌倉に送られ、そのあと片瀬の浜に捨てられたと「吾妻鑑」にある。その首が境川をのぼりこの地に着き、里人によってこの井戸で首を洗ったと伝えられている。

 

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<白旗神社>には、その石に触ると健康で病気にならないというに<弁慶の力石>があり、芭蕉句碑もある。「くたびれて宿かる比(ころ)や藤の花」。藤はまだであったが、藤が風にゆれているのを想像したら、くたびれたというため息が似合っている。ただし句碑の上の藤棚には「弁慶藤」とあった。元気がよさそうな藤である。白旗神社のお祭りには、義経と弁慶の二基の神輿が出るとのこと。

 

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<白旗神社>から旧東海道にもどり、道路の反対側の奥に<永勝寺>があり、このお寺には、<飯盛女>と呼ばれていた旅籠で給仕と同時に遊女の側面をもっていた女性たちのお墓もあった。彼女たちを抱えていた旅籠小松屋が、39人の墓を建て供養したのである。悲しいかなこのように供養されたのは珍しいことである。東京には、投げ込み寺というのもある。

 

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小田急線の「藤沢本町駅」を右手に進むと、道路左手に<見附跡>がある。道路左右に史跡があるので、横断歩道を右に左に渡り歩きつつ進まなければならない。<見附>があれば、藤沢宿のはずれである。引地川に架かる引地橋を渡りひたすら西に歩く。このあたりは国道一号線と旧東海道が一緒なのであるが、のちに気が付くが、この引地橋手前で国道一号線を外れて旧東海道を歩く部分があった。それを見逃していた。このうかつさは、大磯から二宮での歩きで経験する。

西へひたすら進むと、東海道と大山詣でへの道とに分かれる分岐点にぶつかる。小さな<四谷不動>の堂があり、右手には大山道に向かう道で石の大鳥居が立っている。この鳥居を潜って、大山詣でに向かうのである。関宿の伊勢路への鳥居を思い出す。

 

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大山も行ってみたいとおもうが、こちらは東海道を進む。そして<一里塚跡>がある。JR辻堂駅と並ぶ位置である。松並木が少し残っている。<茅ヶ崎一里塚>に至る。一里約4キロ。街道の両側に盛り土をして、その上にエノキなどが植えられた。この木の木陰で行程の検討をつけホッと一息ついたのである。近頃では私たちも、この一里塚の跡などで行程を考える。藤沢から茅ヶ崎で約8キロである。

 

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今回は平塚まで行く予定であったが、道を間違え時間的ロスもあったので茅ケ崎までとしてJR茅ヶ崎駅に向かう。折角であるから、志ん朝さんの『大山詣り』のDVDを楽しむことにする。

 

旧東海道つづき「旧東海道・茅ケ崎から平塚 → 2015年5月11日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

大山詣り → 大山詣り | 悠草庵の手習 (suocean.com)

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(7)

地図を見て確認していたのであるが、奈良県庁と東大寺の間の道を真っ直ぐ北へ進むと佐保川にぶつかり、そこで二俣に別れ、直進が般若寺方面、右が柳生方面で、その柳生方面の道も途中で、柳生方面と浄瑠璃寺方面へと別れるのである。ただし、<旧柳生街道>は別に位置する。

私が、<般若寺>の帰りバスに乗ったのは、東之阪町バス停であろう。もしそのまま歩いてもどるなら、左に<転害門>をみて、右手の西方向に進むと<聖武天皇・光明皇后陵>があり、佐保路の一部である。御領を背に近鉄奈良駅方面の南に向かうと、<奈良女子大>がある。ここは、奈良奉行所の跡地で、本館と校門は明治時代の建築物である。そこから近鉄奈良駅へもどれば、行きとは違う道を戻れることとなる。

このことを、<般若寺>に行った友人に、こういう道もあったと教えると、「帰りはその道で帰ってきたよ。」とのこと。さすが調べていったようだ。完璧である。

友人は二月堂の<お水取り>を、上の回廊の方で見たそうで、今度は下から見たいとのこと。反対に私は機会があれば上で、見たいものである。あの下駄の音が聞きたい。

他の仲間が、「失踪したお兄さんを捜すため、妹が奈良を探し求め、奈良のほとんどが出てくる小説がある。」と言う。彼女の本の紹介には、なぜか乗りやすい。行ったところばかりなので、風景にのせた登場人物の動きなり、心理を追って行けばよい。ところが、一つ行っていない所があった。名前は出て来ないがある庭が出てくる。

そこは思いかけず雄大な風景が広がっていた。庭自体はそんなに広くないのだが、若草山や東大寺がすっぽり借景となって庭に深い奥行きを与えているのでだ。

この庭は、<旧大乗院庭園>と思われるのである。この小説に出てくる奈良で、ここだけは行っていない場所なのである。小説でも「五、答ふるの歌」の章で、かなり解明が深まるところである。小説に関係がなくても、訪れたい庭園である。次に訪れる時は、心して置こう。

小説名は『まひるの月を追いかけて』(恩田陸著)である。小説のほうは、兄を中心に二人の女性が、兄を通過しての心模様が映し出される。妹は旅を通して二人の女性のことを知り、そのことを通して幼い頃の記憶を紡ぎ出す。兄の中に存在する、遥か彼方にいるもう一人の女性との思いがけない巡り合わせとなる。奈良の風景が映像のように流れていく。

どちらも、近鉄奈良駅から歩いて行けるところなので、<奈良女子大>から<聖武天皇・光明皇后陵>までの道と<旧大乗院庭園>の空白部分を、埋められるであろう。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(6)

二月堂のお水取りを友人に勧め、あと何処がお薦めかと聞かれる。<般若寺>をあげる。友人の時間的配分から考えると、近鉄奈良から歩いて30分なので、その後お水取りまで、食事の時間もとれる。薦めていながら私はまだ行っていないが訪れたいお寺なのである。

花のお寺でコスモスが有名のようであるが、友人が行った時は水仙が咲いていていたそうである。そのお寺の先に、<奈良豆比古(ならずひこ)神社>があり、この神社では、神事としての『翁舞』が秋には毎年舞われているとの情報を持ち帰ってくれた。説明を読んでも上手く捉えられないが、三人の翁が登場するのが、この『翁舞』の特色であるらしい。猿楽の初期の形が残っているということであろうか。

今回の旅の締めはには是非ともこの二箇所をと思い、訪ねることができた。<般若寺>はバスでも行けるが、30分ならバスを待つなら歩きとする。<般若寺>に向かいつつ、<お水取り>のツアーで来た時、夕食をとったお店の前を通る。夕食の後、ガイドさんが、二月堂まで連れて行ってくれたのである。<お水取り>が終わると、自力でこのお店前のバスまで戻ったのである。この食事処は、かつて旅館で正岡子規さんが泊られ、この旅館で柿を食べられたということで、<子規の庭>と句碑が整備されていた。なるほどここであったかと地理的確認ができ<般若寺>に向かう。

道が二俣になり、<般若寺>の道標がある。もう一つの道は、柳生の方に向かう道らしいが詳しくわからない。バス停もここまでもどればいいのだと検討をつける。途中で、夕日地蔵がある。<般若寺>の前を通り過ぎ、神社に向かう。道路からすぐの神社である。中の敷地も広くなく、本殿のすぐ前に舞台があり、神様もすぐ前で奉納舞をご高覧になるわけである。翁舞を舞うかたは決まっていてその方々が順番で舞うようだ。今では広く知られるようになり10月8日は境内狭しと見学者があるらしい。かつてあった高札場も新たに設置され、今は人通りは少ないが、ここが、いかに人々の集まるところであったかが伺える。裏が森でここからは入れなくてぐるっと周るといわれ周ってみたが入口が無い。どうも違う周り方をしたようである。反省。きちんと確認すること。鵜呑みにしないこと。

先日友人と交番で道をたずねた時のことを思い出す。「駅の反対側に交番がありますから、そこでもう一度聞いて下さい。」二人とも「駅の反対側のすぐの交番ですね。」と理解。「いえ、すぐではありません。その交番の位置をこれから教えます。」ここは、そんなそばに交番が二つもあるのだとちょっと疑問に思ったのだが、勝手に、交番を作ってしまった。

諦めて、<般若寺>に戻る。来た時よりも、この坂道が時代を超えて見つめていた空気を感じる。<般若寺>の受付で、疑問に思っていたことを質問する。「『宮本武蔵』の般若坂の闘いとこの道と何か関係がありますか。」「この坂が般若坂です。昔はこの道が京へ行く道だったんです。」そうなのか。映画で若草山と思える場所で僧兵と闘うので、般若坂はその近くなのだろうと思ったがそうか、ここなのか。握りこぶしである。

これから庭の手入れをされるようで、沢山の土などの袋が置かれている。桜と椿が少し色をそえる。お寺の大きさに似合わないほど大きな十三重石宝塔が見える。この宝塔の東側に薬師如来、西側に阿弥陀如来、北側に弥勒如来、南側に釈迦如来がほられてある。

ここの楼門が凄いのである。鎌倉時代の日本最古の貴構で、屋根の先端が鳥の翼のように反っているのである。これは道路から眺めたほうが良い。この楼門の内側に、<平重衡公供養塔>があった。平清盛さんの五男で、奈良を治めようとして闘いとなり南都を焼け野原にしてしまうのである。東大寺に避難していた人々もその猛火のため多くの人が亡くなり、重衡さんは斬首され、、南都の人々によって<般若寺>の門にさらされたとも言われている。

お寺の方の話しだと、ここは平城京の北の鬼門にあたり、そのために建てられたとされ、高台にあり、いつも戦場の場所となり、折から北風に煽られ下まで火が走ったのであろうとのこと。色々な戦を見て来た場所なのである。今は、コスモスなどのお花の寺として、北に位置している。

本尊は、逞しい獅子に坐している凛々しい小ぶりな文殊菩薩様である。秘仏が白鳳時代の阿弥陀如来様で4月29日から5月10日まで公開される。

来た時の二俣の道の合流するところのバス停に人が待っているので、そこからバスに乘り駅に向かう。かつては京から、京へと人々が賑やかに行き来した古の道もわかり充実した旅であった。

 

 

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(5)

<浄瑠璃寺>について土門拳さんは書かれている。

こんな山の中に美しい大伽藍をつくったのは、どういう考えだったのであろうか。 そして京から奈良から、野越え山越え浄土信者たちは詣でたのであろうか。その道のりの遠さは、彼岸への遠さと似ていたのであろうか。 浄瑠璃境内に雨におもたくぬれるさくらは、ものうく、あまく、人の世のさびしさ、あわれさをいまさらのように考えさせている。

土門さんはタクシーを利用されている。山のなかゆえ歩いては行けない。タクシー料金は相当高いが、それも苦にならないほど通われる。

境内のさくらを雨が音もなくぬらしている春が一番、浄瑠璃寺の浄瑠璃寺らしい季節かもしれない。

初めて行った私は、土門さんの一番良いとする季節と雨という状況の中にいたわけである。そんな好条件でありながら、これは、何回か訪れた土門さんの感性である。こちらは、小雨とは云えども、<岩船寺>から歩いている。<浄瑠璃寺>の彼岸では晴れてお目にかかりたかった。ただ池に落ちる雨の波紋は趣きを加えてくれた。 <浄瑠璃寺>前からバスで奈良に入る。加茂から奈良へ入りたかった旅も成就出来た。これからが欲の深いところで、<道明寺>を目指す。土門さんの感性に逆らい、バタバタしていては、とても、土門さんのような奥深い文章は書けそうにない。酒田での『土門拳記念館』への旅も忘れられない楽しい旅でしたのでお許しを。

<浄瑠璃寺前>バス停からJR奈良駅まではバスで30分弱である。奈良から行くなら、「奈良公園・西の京/1DayPass」(500円)が断然お得である。範囲が浄瑠璃寺までなので、岩船寺までは別料金であるが、岩船寺から浄瑠璃寺まで歩けば片道分で済む。バスの本数が少ないので頭を使うが、お天気なら、浄瑠璃寺から2キロほどのところに<浄瑠璃寺口>バス停があり、そこはバスの本数も多いのでそこまで歩くと、時間を自由に使える。

JR奈良駅で案内のため立たれていた駅員さんに<道明寺>までの行き方を尋ねる。解かったつもりが券売機の前ではてな。二回乗り換えるが、どこまで買えば良いのか、また駅員さんのもとへ。奈良で二回も乗り換えるとなると、時間的ロスが心配になり、またまた、あたふたする。 JR奈良から快速で王寺へ、そこから普通で柏原に行き、道明寺線で道明寺へいくのである。乗ったことのない道明寺線に乘れる。一時間弱で到着するようで、楽勝である。落ち着いて車窓を楽しむ。河内堅上駅の桜が満開であった。河内ということは、大阪なのである。

先ずは駅前の商店街を抜け<道明寺天満宮>を目指す。最初は土師寺があり、そこへ道真公が伯母の覚寿尼さんをたびたび訪ねられ、道真公の亡きあと祟りをおそれ、天満宮が出来、土師寺も道明寺と改名し、天満宮も道明寺天満宮となったようである。立派な天満宮である。桜が多く、梅は無いのかと歩いて行くと、きちんと整備された梅園があった。さらに予想外に、白太夫社があり、「菅公大宰府への途次の道道案内をした従者白太夫を祀る」とあった。歌舞伎の世界と交差する。

この地で、大坂夏の陣で道明寺合戦というのがあったらしく、<大阪夏の陣400年道明寺合戦まつり>の宣伝看板があり、かなり力を入れているようである。

ところで<道明寺>は何処であろうかと近くのかたに尋ねたら、「尼寺さんですね」と関西弁でいわれ、「尼寺さん、良い響きだなあ。」と思う。歌舞伎の道明寺の場面から、こちらは、<道明寺>=道真公と思っているが、地元のかたにとっては、尼寺としての<道明寺>なのである。芝居とは離れた昔からある地元の尼寺さんなのである。地元ならではの響きである。

<道明寺>は尼寺さんらしく静かであった。本尊が、十一面観音菩薩であるが、18日と25日にしか拝観できないのだそうで、お寺のかたが気の毒がってくださる。今回の旅で、<道明寺>まで足を延ばせたのであるから、またご縁のあるときとする。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(4)

<旅籠屋>は、一般の旅人や武士が公用でない時に泊まり、食事がついている。今でいえば、一泊二食つきである。関宿の玉屋さんでは、坪庭と離れ座敷があり、食器も、石川県の輪島から取り寄せた、玉屋のシンボルの宝珠の紋が入っていた。<木賃宿>は、食事がなく、自分で食材を持ち込み自炊し、薪代などとして宿代を払うのである。

旧東海道を歩いていると、<高札場跡>というのを目にするし関宿にもあった。その場所は昔は「札(ふだ)の辻」と呼ばれ、その名前が交差点や町名として残っているところもある。木の板に、ご法度や、掟などを墨で書かれたもので、奈良の「山の辺の道」の旅で、奈良の興福寺の猿沢池方面に下りた三条通りの橋本町で<高札場>を見つけた。修学旅行の生徒さんで賑うお土産屋さんの近くである。現物が見れ、これで今はなくても想像が倍加する。

さて、関西本線の加茂駅からバスで、<岩船寺>に向かう。時間的には15分ほどで着いてしまうが、その短い時間の自然との出会いが楽しい。この辺りは京都府の木津川市で、この地の神社・仏閣を回るのは、車でないと数をこなせないのであるが、その分、行ったと言う満足感も湧く。<岩船寺>の境内は静かで、小雨の中でも赤が美しい色をみせる三重塔が目に入る。ゆっくりと三重塔を目指し、池を巡り歩く。「石室不動明王立像」が、小さいが正面奥の石板に彫られ、石の屋根と左右を石板に囲まれていたのが珍しかった。本尊の阿弥陀如来と四方を守る四天王の力強さとバランスがとれている。白象の上に坐している普賢菩薩がなんとも優美で、象はその優美さを誇って背に乗せ守っているようである。喧騒を離れこの世の平和な静寂を願っておられるような仏様たちであった。

お寺の方に、「浄瑠璃寺まで歩きたいのですがこの雨でも大丈夫でしょうか。」と尋ねると「大丈夫ですよ。階段したの道を左に進んでください。」とのこと、安心して歩みをすすめる。山門を下りた左手に神社があり、上ってみる。<春日神社>と、<白山神社>が並び、円成寺の二つ並んだ檜皮葺の社を思い出した。円成寺は<春日堂>と<白山堂>となっている。春日と白山が並ぶにはなにかいわれがあるのかもしれないがここまでとする。

<岩船寺>から<浄瑠璃寺>へ行くには、<岩船寺>を時計周りと反対周りの道があり、反対周りのほうが、距離的に短いのでそちらを教えてくれたようである。これからの道は<当尾(とうお)の石仏>を眺めつつの道なのである。柳生街道に比べると石仏や磨崖仏も小さくて可愛らしさがある。旅人と共に時々姿を表すといった感じである。表示の通り進んで行けばよい。

岩に彫られた不動明王立像も、別名<一願不動>とあり、一つだけ一心にお願すれば、その願いをかなえてくれるらしい。阿弥陀三尊磨崖像は<わらい仏>。本当に笑っておられる。ここの石仏は、庶民のささやかな日常の気持ちに寄り添って祈りを受けられ守られてきたおもむきがある。疲れも感じない程度で、<浄瑠璃寺>に着く。

しおりの説明によると、このお寺の礼拝のしかたがあり、東の三重塔の薬師如来に現実の苦悩の救済を願い、その前で振り返って中にある池越しに、彼岸の西方の阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の礼拝とある。西方の阿弥陀堂には、九体の阿弥陀如来像があり、往生には九段階あるということのようである。

この「九体阿弥陀如来像」も「九体阿弥陀堂」も今では<浄瑠璃寺>だけにしか残っていない。藤原時代のもので国宝である。

<浄瑠璃寺>には、四秘仏があり、そのうちの「吉祥天女像」を拝観できた。五穀豊穣、天下泰平を授ける幸福の女神である。衣裳の色も想像がつくほど艶やかに残り、正面からの、そのふくよかなお顔とお姿は頼もしくさえあり、まさしく五穀豊穣、天下泰平の女神である。それでいながら、少し横から見ると気品と凛としたところがある。写真家の土門拳さんは、「仏像のうちでは、恐らく日本一の美人であろう。」とまで言われている。これは好みの問題でもあるが、偶然にも拝観でき幸せであった。

雑誌「太陽」の土門拳さんの特集をながめていたら、画家の堀文子さんが一文を寄せられていて、若い頃、土門拳さんに影響を受けられていたことを知る。土門拳さんのあの激しさと、堀文子さんのあの優しい色とがどこかで繋がっていたとは、意外であったが、嬉しかった。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(3)

<関宿旅籠玉屋歴史資料館>の隣が築120年の古民家のゲストハウスである。お酒屋さんがあるから、地酒もあるし、ここは、歩いてきて関宿に入り泊まって、次の朝草鞋を履くというのもいい。情報提供すれば、仲間が、いくつかのコースを考慮してくれるであろう。旧東海道をかなり飛び越して、先にこの辺りの歩きを提案することにする。

旅籠の会津屋さんが食事処になっていて、そこで食事をとる。お店の前が、国指定重要文化財の<地蔵院>で桜が美しかったが、東追分のほうが満開のようですとお店のかたが教えてくれる。お店の暖簾に「鈴鹿馬子唄」の一節が書かれていた。小万さんが主人公のようである。お店は地元の常連のかたが、飲みつつ歓談しており邪魔をするようで質問は止めた。

先ずは、<西追分>まで行ってもどろうと考えて進むと、観音院というお寺がある。そこで、2番目の案内人に声をかけられる。このお寺は今はほかのお寺の分院なのだそうである。昔は後方に見えている観音山にあり、こちらに移ってからは鐘楼が山にあるため、ご住職さん夫婦は大晦日には、除夜の鐘を鳴らす為に山に登り、年を越されたとか。今は無人で行事のある時、本院からお坊さんが来られるらしい。観音様が御本尊なのであろう。観音山といわれるだけに昔は栄えたお寺だったのであろう。観音山の下に<鈴鹿関>跡がある。

<鈴鹿関>が関宿の名前のもとのようである。この<鈴鹿関>は<不破関>、<愛発関>(その後<逢坂関>に変る)古代日本三関の一つである。<逢坂関>は歌にもでてくるのでどこかに印象づけられているが、鈴鹿といば<鈴鹿サーキット>である。

「関東」という呼び方は、この三関から東にある地域として「関東」となったのだそうで、あの和菓子屋さんの看板を考えられた人は優れた遊び心のあるかたである。こちらも、あのお店の前を通り後ろを振り向き、ニンマリしたいところであったが、残念ながら自力でのそこまでの奥行がなかった。時間的に<西追分>の休憩施設は閉じられていた。ここから、大和、伊賀街道へと続くのである。

ではとばかり、踵を返して東追分に向かう。途中<福蔵院>の門柱に「織田信孝卿菩提所」とある。織田信長の三男で、秀吉によって自害させられるが、その首をここに納め、信孝死後400年忌にお墓を建立したとある。もう一つ<小万の墓>と記念碑もあった。父の仇討を成し遂げた娘さんらしい。なるほど、それが「鈴鹿馬子唄」に残ったのである。信長さんの名前が出てくると、映画『忍びの者』『続・忍びの者』の信長役・城健三郎さんが浮かぶ。城健三郎さんは、若山富三郎さんの大映時代の芸名である。

<眺関亭>は5時までなので、急ぐ。関の家並みが眺められる場所である。<百六里庭>ともあり、江戸から約百六里の位置にある。さてさて、東追分に向かわなければ。気になることが一つあったが、その前で声をかけられ説明を受けたのである。関宿は、宿場町を残そうと始めて30年たつのだそうで、電信柱も町屋の後ろに移動させ、家を新しく直すにあたり、土台を残して復元させる場合の、柱のその継ぎ目なども教えてくれた。格子も千本格子とか、もっと細かい格子など。

この関には本陣が二つあり、参勤交代の上りと下りの二つの藩が泊っても大丈夫なだけの用意ができる宿であったこと。旅籠と木賃宿の違い。家康の御座所があり、家康は本陣ではなくそこに泊まり、家康の家よりも棟を高くしてはいけなかったこと。「関の山」の語源ともなった<関宿の山車>は、今は4基しかないが、山車全体を人が回すのではなく、山車の中間部分が回るようになっていて、京都から譲り受けたことは確かなのだが、京都のどこからとは記録にないそうである。山車が回るような仕掛けのあるものは初めて聴いた。

こちらがさらに知りたかったのは、家の前に、材木のような丸材を乗せた縮小したような引っ張る車があったのが何かである。伊勢神宮の式年遷宮が20年ごとにあり、そこで使われていた、四か所の鳥居の木が四か所に払下げになり、関宿は、宇治橋の鳥居の旧材をもらいうけるのだそうである。ということは、伊勢神宮の鳥居も木材は、40年間その役割を全うしているわけである。さらにもらいうけるところがあれば、さらに使われることとなる。これは聞いて嬉しかった。いくら伊勢神宮の神々のためとは云えども、選ばれた木が使われるわけであるが、贅沢だなあと思っていたのである。切られた以上は出来るだけ長く使われて欲しい。

そのもらい受けた旧材を東追分にある鳥居の建て替えに使うのである。そのため関宿の住民総出で<お木曳き>がおこなわれ、ミニチュアは、幼稚園生が曳くためのものだったのである。なるほど納得である。その行事が、今年、平成27年5月30日にある。5月23日から6月6日まで鳥居建て替え期間のようである。

東追分の鳥居は、伊勢への入口で「一の鳥居」と呼ばれ、広重の絵にも、この鳥居を潜って伊勢に向かう旅人が描かれていて、その道が階段で急なのである。実際にはどうかなのか、見たかったのである。辺りは、かなり暗くなってきている。熱心に教えて下さった方にお礼を言い東追分に向かう。これくらいの心意気でなければ、和をもって伝統を守っていくということは難しいであろう。

もしかすると江戸時代の関宿の夜のほうが、明るかったと思われるような暗さである。旅をすると、皆がいう。電気の消費をしているのがどこであるかがわかるわよね。駅以外はどこも暗いわよね。

これは寝静まった江戸の関宿と想像して歩く。直した家などは、車も格子戸の中にしまわれる様にしているところもある。どんどん歩いていく。ありました。東追分の「一の鳥居」。そこから伊勢街道は坂になっている。先はかなり深い闇である。

目的達成である。関宿は充分味わったが、仲間たちともう一度来たい場所である。亀山宿から歩いて関宿に入りたいものである。

 

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(2)

関宿は、残りの時間を全てあてようと思って居たので、ゆっくりと表示板などを見ながら見学を試みる。いつもは、荷物は駅のロッカーに預けるが、熊野の旅あたりから、少し鍛えなければとリュックを背負ったままで歩く。旅人と思ってくれたのであろうか、関宿では三人の男性に、関宿についてのありがたいご教授を承った。メモしていないので、かなりのことは忘却のかなたであるが、皆さん関宿を守るための意気込みと継続へのねばり、そして誇りを感じさせてもらった。

驚くほど、宿場町が残っている。関駅から北に向かって真っすぐ進むと東西に伸びる宿場町の中町の町並みにぶつかる。そこから、ゆっくりと西へ向かう。時代劇の町屋のセットと思ってしまうほど、古い町屋形式の家が並ぶ。間口が狭く奥が長い形である。<関まちなみ資料館>で町屋の中の様子と保存の歴史的資料をみる。三人目の方の話しを聞いた後でのほうが良かった内容であるが、その方の説明を聞き終わったのが、夕暮れでもう暗くなっていたのである。

自転車をおされた男性が、ある町屋の瓦屋根を横から見るように勧めてくれる。見上げると瓦屋根が直線ではなく、少し丸みをおびたカーブをしている。さらに「関の戸」という看板のある和菓子屋さんの前で、その看板に注目するように教えてくれる。「関の戸」の看板の字は金で金箔を張られていて眩しいほどである。その文字が江戸側からはかな文字で京都側からは漢字なのである。江戸からの旅人には、京都に向かいますよと知らせ、京都からの旅人には、江戸に向かいますよと知らせているわけで、漢字と仮名で江戸と京を表す感覚が楽しい。そして帰りには、無料で上に上がると町並みが見える場所も教えてくれた。<眺閑亭>である。

せっかくなので和菓子屋さんで「関の戸」の和菓子を購入する。歌舞伎の『関の扉』と関係があるのか尋ねると、三つの<関の戸>があるといわれていると。銘菓の<関の戸>、相撲取りの<関ノ戸>、歌舞伎の<関の扉>である。そして、六代目歌右衛門さんが歌舞伎座で『関の扉』に出られた時に描いて頂いたという桜の色紙が飾られていた。今月の歌舞伎座の『六歌仙姿彩』には、『関の扉』の宗貞は後の僧正遍照で、小野小町、大伴黒主と重なっている。ただ、僧正遍照だけが老けてしまうが。

この和菓子は、380年間作り続けられている。阿波の和算盆をまぶしてある小さな甘さひかえめの和菓子である。その和菓子の説明書きに関宿の繁栄の様子が書かれていた。

東海道五十三次の内、四十七番目の関宿は、大和街道と参宮街道(伊勢別街道)の三つの街道が交わる宿場で、参勤交代やお伊勢参りの人々で賑わい、一日の往来客は一万人を超えていました。

 

看板の文字は、新しくしたばかりで、外に晒されているので金文字もくすんできてしまうため定期的に直しているそうで、光り輝く時にぶつかったわけである。

次は、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」と歌われた旅籠玉屋の見学である。ここも、時代劇のセットにして人物を配置して想像してしまう楽しさである。驚いたのが、階段が急である。とてもではないが、「はい、はい」などといって駈け上がったり、下りたり出来る物ではない。江戸時代の人は小柄で足も小さかったので、出来たのであろうか。係りの方も今ではできませんよねと言われる。そして、藁ではなく、竹の火縄があった。時代小説に出て来たのである。藁よりも火持ちがよいそうで、竹の節から節まで薄く削ってそれを材料にして作るが、今はそれを作る人が一人しかいないとのことである。可笑しかったのは、旅籠でののみ除けの方法が書いてあり、その一つに、「からたちの実を一つ持って抱いて寝る事」とあった。効くのであろうか。「からたちの実」と「のみ」。

関宿については、もう少し滞在である。