超個性派 ベティ・デイヴィス

ベティ・デイヴィスの映画は『八月の鯨』が先なのか、『イブの総て』が先なのかはっきりしないが、その二本は見ている。今回『痴人の愛』、『何がジェーンに起こったか』を見て、再度『イブの総て』を見た。強烈な個性である。

『痴人の愛』は、原作がサマセット・モームの『人間の絆』である。足の不自由な医学生・フィリップ(レスリー・ハワード)が、レストランのウエイトレス・ミルドレッド(ベティ・デイヴィス)に恋をするが、ミルドレッドは感情に任せた奔放な生き方をする。都合の良い時にフィリップに頼り、また自分の思うままの生活に戻り、身を崩し病死してしまう。フィリップのほうを見ると、翻弄されつつも、じっとミルドレッドを見つめ続ける『人間の絆』とも思える。

ベティ・デイヴィスはこの悪女役で認められる。大変特徴ある演技の仕方である。目線、身体のみような捻じれ加減、感情の爆発など演技派というよりも、その役に憑りつかれているようである。

もっと憑りつかれているのが『何がジェーンに起こったか』である。少女時代にスターであった妹のジェーン(ベティ・デイヴィス)と妹が売れなくなってから映画スターになった姉のブランチ(ジョーン・クロフォード)。立場が逆になった姉妹が、今は引退して二人で暮らしている。姉のブランチは、車の事故のため車いす生活で、妹のジェーンが面倒をみている。その二人の生活が、まさしく<ジェーンに何が起こったか>であって、異常な状態となっていくのである。二大女優のぶつかり合いである。お互いに過去の自分が忘れられず、妹のベティ・デイヴィスのドンドン過去に引きずり込まれて狂気じみていくところが凄まじい。

驚くべきことは、車の事故の真相をブランチが語るところである。ずうっと真相を語らずに、ブランチはジェーンを支配しようとしていたのである。恐るべき展開と演技の映画である。

『イブの総て』は、再度見て、アン・バクスター演じる大女優の付き人がのし上がっていく姿には腹立たしさと人間の卑しさを感じてしまった。大女優がベティ・デイヴィスで、これまた大女優の我儘さを威厳をもって上手く現している。その大女優に取り入り付き人となり、陰で献身的に仕える。周囲の信頼も得ていきながら自分の味方に組み込んでいき、その全てが実は自分の名を売るための策略だったのである。よくある話しであるが、ベティ・デイヴィスの鼻持ちならない態度とアン・バクスターの可憐さが大逆転するという怖さの映画で、それを知った時のベティ・デイヴィスと同じ気持ちでアン・バクスターを見てしまった。

この映画は、まだ知られていなかったマリリン・モンローが女優の卵として出演しているのでも知られている映画である。

晩年の『八月の鯨』では、リリアン・ギッシュと共演するなど、ベティ・デイヴィスは共演者と臆することなく渡り合う。渡り合うのを楽しんで、役に憑りつかれていくように感じる。その辺のプロ意識は、時にはスパイスとして、刺激的時間を提供してくれる。

『痴人の愛』のレスリー・ハワードが、どこかで見ているのだがと思っていたら、『風と共に去りぬ』のアシュレーであった。レスリー・ハワードの沈着さが、ベティ・デイヴィスの超個性的演技を受けてくれたから上手くいったとも言える。

また何処かで、違う映画でベティ・デイヴィスに逢いたいものである。

今回は、もう一つ収穫があった。「ベティ・デイヴィスの瞳」という歌があるのを知った。キム・カーンズという女性歌手が歌っていて、そのかすれた声が、この歌の名前にぴったりなのである。

京橋の東京国立近代美術館フイルムセンターの展示室(7F)で『シネマブックの秘かな愉しみ』をやっている。映画関係の本の紹介である。手に取ることはできないのであるが、読みたくなるような本が沢山展示されている。そして、引き出しを開けると資料が見れますとあるので、適当に開いたら、和田誠さんの『イブの総て』のベティ・デイヴィスのイラストと、簡単な映画の紹介のぺージが開かれて現れた。何の表記もない一番上ではない適当に開けた最初の引き出しである。あまりのご縁に笑ってしまった。

 

映画『陰陽師』『陰陽師Ⅱ』(2)

『陰陽師』で安倍晴明を演じるのが、野村萬斎さんで、この人の起用がこの映画の成功の鍵であろう。権力争いには興味なく、自分が必要とされぬ世界を望んでいるのかもしれないが、そのあたりもノーコメントと言った感じでいながら、自分の能力には自信がある様子。なんとも、捉えがたき人物であるが、動き出すと古典芸能で鍛えられた身体表現を駆使して、シャープな動きをしてくれる。ぶつぶつ唱える言葉も特別に思え、その通りに力があるのである。

悪玉陰陽師の真田広之さんの道尊との闘いの場面も、晴明は武器を持たず狩衣の袖を大きくひるがえしたりして、鳥の羽のようであり、柔らかい布の起こす動きは優雅でいて剣よりも風を呼ぶ感じである。おそらくワイヤーなども使い飛んだり跳ねたりしているのであろうが、重心の決まった動きは、互いに武器を持つよりも迫力がある。

道尊は、人の権力欲や怨み、憎しみ等の心に火をつけその情念を大きくさせ災いをもたらすのである。そしてそのことにより、人を操り、自分の意の儘にしようとするのであるが、そこに立ちはだかるのが安倍晴明である。道尊はついに、桓武天皇の御代、無実なのに天下転覆の首謀者とされた、早良親王の霊をよみがえらせ、その恨みの心を利用しようとする。

早良親王の恋人だった青音は、桓武天皇から頼まれ、不老長寿の身となり早良親王がよみがえるようなことがあったらそれを、止める役目で生き続けている。この青音が小泉今日子さんで、出て来た時から不思議な存在で、この人は何であろうかと思わせ、途中でその役割が解かり、この展開も面白い。そして、生きつづけることの辛さを伝えつつ、恋人である早良親王の萩原聖人さんの心をなだめ、ともに死の世界に入って行くのである。

常に晴明のそばに蝶の化身の蜜虫の今井絵里子さんがいる。この蜜虫の登場も晴明の友人の源博雅が驚くような登場である。博雅の伊藤英明さんは、悠然としている晴明にとってかけがいのない友であり笛の名手であり、女性に惚れっぽい。しかし、晴明にとってかけがえのない存在であることも明かされる。月のそばで輝く二つの星は一つであってはならないのである。

『陰陽師Ⅱ』は、滅ぼされた出雲の人の復讐である。家族劇を神話と結び付けているが、神話をとってしまうと、父の野望に逆らう姉弟愛でもある。

滅びされた出雲の長・幻角(中井貴一)は息子・須佐(市原準人)を鬼に変身させ都を脅かす。幻角の娘であり、須佐の姉である日美子(深田恭子)は戦の時藤原安麻呂(伊武雅刀)に助けられその娘となって大きくなった。しかしこの娘は夜夢遊病者のように歩き周り安麻呂は晴明に相談する。そのことから、晴明の謎解きが始まる。

玄角は最終的には、須佐に姉のヒミコを食いちぎらせ、アマテラスとして岩戸に隠れさせてしまうのである。須佐はスサノオノミコトを意味するわけで、玄角はこの鬼と化かした須佐を使って朝廷に復讐を考えたのである。そうはさせまいと晴明は巫女となって岩戸の前で舞うのである。これまた、萬斎さんならではの出番である。アマテラスは姿を見せ、弟の須佐を諭す。須佐は、琵琶を愛する優しい若者であるが、父の力には抗えなかったのである。須佐は姉に従い二人天上へと去ってしまう。

家族に見捨てられた玄角は、一人力尽きてしまう。

『陰陽師』では博雅が死に、青音によって生き返り、『陰陽師Ⅱ』では晴明が死に、玄角によって生き返り、晴明と博雅は、やはりそばに寄り添う二つの星なのである。

付け加えると、歌舞伎の『陰陽師』の染五郎さんの晴明が、自分の出生をどこかで憂い、博雅の勘九郎さんの天真爛漫さを羨む心情は捨てがたいものがあった。

映像のスペクタクルな部分と、生で伝わる舞台のそれぞれの表現の形式の違いともいえる。その辺が表現形式の違いの腕の振るいどころであり、観る側の楽しみともいえる。

監督・滝田洋二郎/原作・夢枕獏/脚本・福田靖、夢枕獏、江良至(『陰陽師』)滝田洋二郎、夢枕獏、江良至(『陰陽師Ⅱ』)

映画『陰陽師』『陰陽師Ⅱ』(1)

映画『陰陽師』に至る。どうもまだ霞んでいて観るのを伸ばしていたが、伸ばしただけあってどうして平安京の貴族社会の時代の中で陰陽師が重用されたのか納得でき始めた。

映画『恋や恋なすな恋』の中で、京の天地に異変が続く。東では富士山が爆発したとの情報が流れ、京の空にも白い虹が出たり、金環日食のような現象が起きたりする。現代でも地底のことは予想できない部分が多いのであるから、平安時代はもっと不安がいっぱいの時代である。その時代の天文学の権威が加茂保憲で、その弟子に安倍保名と芦屋道満がいて、この二人のうちだれが師の後を継ぐかという話しが出来上がるわけである。

そういう時代を経て、安倍保名から子の安倍晴明の時代となる。そして安倍晴明を主人公とした物語ができる。その一つの形が夢枕獏さんの小説『陰陽師』で、それを原作として、歌舞伎になったり映画となり、現代とは異なった世界へ誘ってくれるわけである。そのブームからかなりずれての参加である。芦屋道満は晴明のライバルともされ、この辺は定かではない。架空の人物ともいわれ、悪しきライバルとしての位置にいる。

歌舞伎などでも、亡くなっている人を蘇らせて、それを操ったり乗り移ったりして悪事を働くという話しが出てくる。今回、大きく一つ解かったのは、京都には封じているものが沢山あるということである。亡くなったからそれでお終いですまないのである。その祟りを恐れて封じ込めているのである。関東は武士の作った地域であるから、神として崇めて終わりとしたり、どこか武士的発想であるが、京都の場合は、祟りをおそれて、封じ込めているが、いつそれがよみがえるか分からないという繋がりがある。それが、平安京の成り立ちから続いた貴族社会の名残とも言えるようである。

そこを、押さえると興味の無かった<よみがえり>も、平安時代の人々の畏怖の気持ちが伝わってくるのである。

それを考える材料となったのが、『京都魔界地図帖』(別冊宝島)である。今までなら目にも止らぬ内容である。本屋の歴史関係のところでスーと手が伸び気に入った。映画『陰陽師』『陰陽師Ⅱ』が、俄然面白くなる。

平安京は桓武天皇が遷都される。その前は、長岡京に遷都されるが、遷都の中心的役割をした藤原種継が暗殺される。その首謀者として桓武天皇の弟の早良親王(さわらしんのう)とされ、早良親王は自ら命を絶つのである。そのことがあって、長岡京の遷都を止め、平安京遷都となったのである。

今までの権力争いや、早良親王のあとの異変も大きく影響していたのであろうが、平安京は南は朱雀、北は玄武、東は清龍、西は白虎に守られた都なのである。北東は魔が入りやすい方角の鬼門で、それを封じるために比叡山延暦寺が位置している。

比叡山を創建したのは最澄で、桓武天皇は奈良仏教の勢力が次第に強くなり、そのことも考慮し、唐から新しい仏教を学んできた最澄や空海を認めたのである。

映画『陰陽道』では、それだけ魔界から守られた京にも、早良親王の霊を蘇らせる者が現れ、安倍晴明の出番となるのである。怨霊や物の怪などがでてくればそれを封じる結界が作られるが、安倍晴明の場合は五芒星(ごぼうせい)が結界となる。これも天文学や占星術などが絡まり合って一つの知識とされたのであろうが、これ以上はお手上げで、安倍晴明といえば、五芒星が結界となり、守ってくれたり、悪霊を封じ込めてくれるものと思って、はらはらどきどきしながらやったーと思うことにする。

映画に到達しなかった。結界を張られているのかもしれない。

 

気分回生には玉三郎舞踊集

気分転換でなくても当たると思うのが、玉三郎さんの舞踊集DVDである。明治座5月の『男の花道』で、猿之助さんが、歌右衛門がお風呂帰り花道を、長谷川一夫さんが、長唄の『黒髪』の独吟に乘って出るという情報を得た。猿之助さんの出がそうだったかどうかは、観た後の情報なので捉えていない。その程度の音感ということである。

ただ、金谷の宿でだったと思うが御簾から良い音曲が流れていたのは記憶にある。なんだろう後で調べようと思って詞を気をつけていたが、見事に忘れている。それはいいとして、『黒髪』が気になる。手もとには玉三郎さんの舞踊集の地唄の『黒髪』がある。やっと手が伸ばせる時間がめぐった。今回は詞の字幕、解説つきで観る。人の意見に左右されやすいので、解説つきでみるのは初めてである。こちらの想いの邪魔にはならなかった。次が大好きな地唄の『鐘ケ岬』である。もうはまってしまった。

舞踏集2と6を一気に観た。詞の重なり、枕詞、などなどもうたまらない。なんでこう遊び心を挿入しつつ人の想いを伝えられるのか。そしてそこに玉三郎さんの踊りがある。『鷺娘』など<妄執の雲 晴れやらぬ 朧夜の恋に迷いしがわが心・・・>とはじまり、最後は地獄の呵責の責めに合い死んでいくわけだが、その間に傘づくしなどがあり、傘を車に見立てた箇所では、『日本橋』のお孝を思い出す。『鷺娘』は舞台でも何回も観ているのに改めてその新鮮さに驚愕してしまった。

荻江節の『稲舟』は、最上川を渡る稲穂をつん小舟のことなのだそうで、最上川特有の風物だったそうだが、玉三郎さんは、遊女の恋という設定である。日本各地の風物も詞に入っている。

『藤娘』では、近江八景が歌いこまれている。行ったところが半分、行っていないところが半分。この機に、今年は制覇しようなどと余計なことも考える。

『保名』は、どうも中だるみしてしまう。<男物狂い>で気がふれて亡くなった恋人を捜したり、幻覚をみて恋人の打掛を恋人にみたてたりする。この作品は保名の美しさだけでは物足りないのである。具体的な物語は語られないのである。

そこで、大川橋蔵さんの映画『恋や恋なすな恋』を見直す。1962年の作品で監督は内田吐夢監督である。1959年に萬屋錦之助さんの『浪花の恋の物語』を内田吐夢監督が撮っていて、橋蔵さんの役の流れに違う流れも入れてみようとされたと思う。脚本・依田義賢、音楽・木下忠司、美術がのちに『トラック野郎シリーズ』の監督・鈴木則文、撮影・のちに任侠映画の吉田貞次。1962年には橋蔵さんは大島渚監督の『天草四郎時貞』にも出られていて、時代劇スターの変わり目の時期であることがはっきりしてくる。『天草四郎時貞』は、橋蔵さんに合わなかった。権力者と宗教、信者のキリスト教の解釈も絡んでくるので大島監督流の問題提起の映画である。

『恋や恋なすな恋』は、保名(大川橋蔵)が天文博士・加茂保憲の一番弟子なのであるが、跡目相続の争いに負け、師匠の娘で恋仲の榊(嵯峨美智子)にも死なれ気がふれてしまう。その場面を踊り『保名』として作ったわけである。映画のなかでも保名は踊るのである。そのあと、狐葛の葉(嵯峨美智子)との場面となるが、保名に恩ある狐が、榊の妹・葛の葉(嵯峨美智子)になりすますのである。映画ではその場面は舞台上での物語として設定している。いわゆる安倍清明の誕生と狐葛の葉との別れである。幕がぱっと落とされたような場面展開や、一面菜の花での保名の狂乱振りなど映画と舞台との共存のようである。

最期は、病が治ったと思った保名は踊っていた保名で、恋人の小袖をかぶって伏してしまう。そして、狐の葛の葉の鬼火であろうか、石の周りを飛び回っている場面で終わりである。あの石は、保名なのであろうか。理解に苦しむ終わり方である。保名と榊との関係から舞踏『保名』が生まれ、保名と葛の葉の関係までは、歌舞伎や文楽では『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』がある。通しで観たくなる。

トントンとノックして返事の無い部屋に入り、様々な想いをもらって後にするプロの部屋は新たな気分を発酵させてくれる。素人に媚びたプロの仕事は爪痕しか残さないが、素人に媚びないプロの仕事は足跡を残す。時には、痕跡さえも消え、ふたたびノックさせるのである。

『谷崎潤一郎展』

谷崎潤一郎没後50年。『谷崎潤一郎展 絢爛たる物語世界』県立神奈川近代文学館 4月4日~5月24日。約2ケ月間あったのに最終日に行くことができた。谷崎さんの文学作品の流れと、作家としての実生活が資料をもとに、多数展示されているが、大変分りやすかった。分りやすいからと言って谷崎さんの文学作品というものが、分ったわけではない。

谷崎さんは、自分の鋭い感性は人と違い、それを表現する天才的能力も兼ね備えていて、自分はその仕事を成し遂げられるとの想いがあった。

己は禅僧のやうな枯淡な禁欲生活を送るにはあまり意地が弱すぎる。あんまり感性が鋭(するど)過ぎる。(中略)

 

己はいまだに自分を凡人だと思ふ事は出来ぬ。己はどうしても天才を持って居るやうな気がする。己が自分の本当の使命を自覚して、人間界の美を讃へ、宴楽を歌へば、己の天才は真実の光を発揮するのだ。

谷崎さんは自分の美意識に対しては周りの人をも取り込んでいく。それは、松子夫人との事でもわかるが、自分の美意識から外れるとして出産をも許さない。ただ、相手に自分の気持ちを納得させるためには、大変な努力をされた方でもあると今回思った。反対にその努力が平行して作品に反映しているとも言える。

佐藤春夫さんとは、谷崎さんと谷崎前夫人千代さんの不仲から、佐藤さんが千代さんを譲り受けたいとして、一旦は谷崎さんも承諾するが、その後断る。そして、千代さんは違う男性とのこともあったがそれが壊れる。谷崎さんは、佐藤さんに千代さんの身の振り方を相談し、千代さんは谷崎さんと離婚して佐藤さんと再婚するのである。

この事は世間的にも文学界にもセンセーションを起こすが、物書きという生業から、この辺りのことは文学作品にも吐露される、佐藤春夫さんの詩『秋刀魚の歌』は千代さんを想っての詩である。

今回面白いチラシを手にする。

夢と冒険、そして恋・・・ 時は大正。“片思いの神様 ” 佐藤春夫は「さんま」だけでは語れない!

こちらは、没後50年記念出版 『佐藤春夫読本(仮)』の宣伝チラシである。初の本格的文学案内とある。<「さんま」だけでは語れない!>というのがいい。

熊野の新宮、『佐藤春夫記念館』でお手上げだったが、この本が手助けしてくれそうである。大林宣彦映画監督の講演録も載っているようである。刊行されたら購入することとする。全体の流れのどういう部分であるかが解かると、一部分だけ取り上げられて強調される狭さの解釈もちがってくる。 美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮)

主軸を谷崎さんにもどすが、谷崎さんは、自分の目指す物語世界を、世間の思惑など眼中になく突き進む。大阪国立文楽劇場のそばに『蓼食う虫』の一文を記した文学碑がある。『蓼食う虫』には、文楽を観ての谷崎さんの感想が書かれている。そこには、『心中天の網島』の人形・小春に対し、「永遠の女性」を想い描いている。さらに主人公の美意識を書いている。

自分がその前に跪(ひざまつ)いて礼拝するやうな心持になるか、高く空の上へ引き上げられるやうな興奮を覚えるものでなければ飽き足らなかった。これは芸術ばかりでなく、異性に対してもさうであって、その点に於いて彼は一種の女性崇拝者であると云える。

まだこの時点では、この想いを実感したことがなく

ただぼんやりした夢を抱いてゐるだけだけれども、それだけひとしほ眼に見えぬものに憧れの心を寄せていた。

すでに、千代夫人はこの対象外であった。そして、人妻であった松子さんと出逢っている。谷崎さんの場合、女性観の基準がはっきりしている。

今回もう一つゲットしたのが、谷崎さんの作品の大阪弁のことである。入場したところで映像が飛び込んできた。田辺聖子さんである。座って見る。田辺さんが『卍』と『細雪』の朗読をしたときの映像の一部で、<『卍』は同性愛の話しであるが、谷崎さんが初めて大阪弁を使った小説で、大阪弁を使うことによって流れるように繋がっていき、『細雪』も同じで、このことが源氏の世界に繋がる要因である>とされる。

『卍』は、岸田今日子さんと若尾文子さんの同性愛の演技に興味がありDVDをレンタルして見ていた。このお二人の声のやりとりを耳にしたかったというのが一番強い。その時大阪弁の役割には気がつかなかった。想像していたよりも嫌味なくサラサラ見て居られ、田辺さんの話しを聞いて、なる程そういうことかと気がつかされた。

映画で驚いたのは、園子(岸田)と光子(若尾)が奈良に出かけるのであるが、柳生街道の道が映ったことである。増村保造監督の意図的なロケ場所と思えた。原作では、若草山になっている。園子が女子技芸学校で観音様を描くが、光子の説明のつかない奔放ぶりを観音様と重ね、柳生街道の磨崖仏の前に二人を立たせたのも意図してのことであろう。成り行きから、園子と光子と園子の夫は睡眠薬を飲み、園子一人が生き返るのである。誰かが亡くなり誰かが生き残るとすれば、誰がという事によって作者の意図も、考察の対象となる。光子は園子の夫を連れ去り、夫を園子から離して、観音様の絵を残した。光子の行動が描いた物語は出発点にもどり、丸い円を描き完成させたともいえる。このあたりは自由解釈である。

この作品の前に、谷崎さんは松子さんと出逢っていて、この大阪弁も松子さんと出逢うことによって作品に取り入れるきっかけをつかんだのかもしれない。大阪弁がなければ、谷崎さんの耽美主義も完成度を低下させていたということである。大阪弁によって新たな開拓をしたのである。『細雪』は大阪弁でも船場言葉ということで、一般の大阪弁とはちがうらしい。大阪弁も何となくの段階であるから、大阪弁と船場言葉とどう違うのかも判らない。谷崎さんが耳に受けたイントネーションで朗読を聞いてみたいものである。

小津安二郎監督の『彼岸花』も、山本冨士子さんが大阪弁で、小津監督の映画のなかで、いつもとは違う明るさとテンポを作り出しているのが印象的で大阪弁の不思議な効果を感じた。

谷崎さんは映画にも関係していて、横浜にあった映画会社・大正活動写真株式会社の脚本顧問として参加し映画4本に関係したがフイルムは現存していない。この時女優として千代夫人の妹さんも参加していて、義妹は『痴人の愛』のインスピレーションを与えた女性でもある。岡田茉莉子さんの父上の岡田時彦さんも、高橋英一という名前で出ていた。谷崎さんはこの時期北原白秋に勧められ3年ほど小田原に住んで居る。

お墓は、京都の哲学の道に並ぶお寺の一つ法然院にある。慌ただしく満杯の計画の旅の時期(今よりも)に訪ねた。境内の奥のほうにあったと記憶する。桜の下に自然石のお墓が二つあった。<寂>と<空>の一字で潤一郎書とかれていて、谷崎さんと松子夫人と思ったらそうではなく、<寂>は谷崎御夫婦で<空>は松子夫人の妹重子さん御夫婦の墓である。訪れたというより、「なるほど。」と通過に近い。あの時は、南禅寺の境内にある琵琶湖疎水の水路閣から、疎水沿いに歩いて、地下鉄蹴上駅までをも予定に入れていたのである。

ついでに、京都市動物園の琵琶湖疎水側の仁王門通りに山県有朋さんの別荘<無鄰菴>があり、庭が小川治兵衛さん作である。東山を借景にしている。山県さんは小田原に<古稀庵>、東京には<椿山荘>がある。政治的手腕は置いておき、庭に対する造詣は深かったようである。<古稀庵>へはまだ行っていない。

自分の理想とする女性を探しもとめ、その感性と天才は<絢爛たる物語世界>を創造し闘い続けた。

 

谷崎潤一郎生誕の地碑  東京の人形町で誕生しています。鳥料理店玉ひでのすぐそばで建物の間の一隅にあります。碑は谷崎松子夫人筆。

 

映画『ゆずり葉の頃』の涙

ことさらに感動させたり、泣かせるような場面は出て来ないのに、なぜか涙がツーツーと頬を静かに流れる。軽井沢は美しくお洒落である。しかし、ものすごくそれが強調されているわけではない。主人公の一人の女性の眼に映る風景と、接する人々の静かな自然体の佇まいである。

主人公は見たいと思っていた一枚の絵。その絵を戦争で疎開していた軽井沢で会えるかもしれないと、ある画家の展覧会へ出向く。彼女はこの先の自分の生き方を決めようとしている。気負いでも諦念でもない。この今の時間をゆっくりと味わいつつ穏やかな微かな笑みを伴って。周りの人もその笑顔に誘われるように、彼女のペースに合わせて、彼女の楽しめる方向に成り行きを運んでくれ、彼女が満足してくれることに喜びを感じている。そして、疎開中に出会った一人の少年と出会った場所。

主人公役の八千草薫さんはもちろん美しいが、そこには、もっと美しい時間をかけた細いシワもあり、そこがまた人として素敵さがある。

美しく、美しく描こうとはされていない。幼い頃のままで残ってくれていたお寺に、昔の良い思い出だけを確かめにきて、それがやはり自分の芯として支えるに値するものであった事を確信するのである。

戦争中の苦しかったことも、一人で子供を育てたことも、淡々とした言葉で世間話のように語られ、他のひとの台詞で大変な時代であったことが短く伝えられる。そのわずかな個所に、微笑みを讃えてあたりまえのように優しく静かに毅然としている主人公を見ていると、やはり涙となるのである。映しだされなくても当時を感じることは出来る。そのほうが、いかに、今の佇まいが美しいかを思いやることができる。

綺麗な澄んだ池に広がる波紋。その波紋をつくるのが、かつて子供達が口に含んで頬を膨らませた飴玉である。このあたりが、心憎い設定であるが、波紋の移動と撮り方が何んとも言えない自然の摂理である。山下洋輔さんのピアノも、映像を見ている者の空間に心地よく入り、いつの間にか自分の中で音はなくなり、ふっと気がつくと、またもどる。こちらの感情に合わせて耳が動いてくれる。

見方によっては、どこにでもある風景である。しかし、この当たり前の風景がいかに大切であるかがしみじみと切なくもなる。特別ではあるが、当り前でもあるということの深さが身にこたえる。

主人公が特別のことを、当り前のように振る舞い、押しつけないところに、自分の時間で何かを止めようとしているようにも感じられる。この主人公たちから上の年代の方達はきちんと踏みとどまって、今の時代を創造し取り戻したことが伝わる。その少しの喜びを自分で楽しみながら体験し受け取り、自分の身の振り方も自分で決めようとしている。その踏み止まったことを当り前として微笑んでいることに涙したのかもしれない。

映画が終わって入り口を出ると、中監督が、立っておられ観終った観客に挨拶されていた。「良かったです。涙が止まらなくて。」とお伝えしたら、ちかくの男性のかたも同じだったらしく「泣くような場面はないんですがね。」といわれる。「そうなんです。むしろおしゃれな映画ですよね。」白いハンケチで目頭を押さえつつ「岡本喜八監督より上かもしれない。」とも言われていた。中みね子監督の出て来られる観客に挨拶されているその姿は、『江分利満氏の優雅な生活』での、江分利氏の奥さんが、酒飲みのお客を嫌な顔をせず相手をする新珠三千代さんの役と重なっていたが、それ以上の方であった。

ある画家は仲代達矢さんで、その再会もいい。思いがけないことにも主人公は、心をあらわにしないが、自分を支えてくれた芯が自分の想いと同じだったこと、見たかった絵も見ることができ、一人息子に静かに自分の考えを伝える。

主人公は一枚の絵を訪ねるが、映画のなかでは二枚の絵が、主軸となる。その絵も思っていたよりも静かな深さがあり映画を観る者の期待を裏切らなかった。

中みね子監督は、岡本喜八監督とは違う感性の映画を創られた。ゆずり葉は次の葉が出てくると緑のままで落ち、次にゆずるようである。この世代の人々には感嘆である。今はその想いの涙であったような気がする。

映画『ゆずり葉の頃』

 

明治座5月花形歌舞伎『男の花道』『あんまと泥棒』

『男の花道』は、映画で、長谷川一夫さんと古川緑波さんのコンビで大当たりしているが、残念ながら映画は見ていない。お二人の『家光と彦左』は見ていて面白いと思ったのでどこかで出会いたいと思って居る。( 『三千両初春駒曳』から映画『家光と彦左』 )

筋書によると、 長谷川一夫さんが『男の花道』を舞台化されたとき三世加賀屋歌右衛門を長谷川一夫さん、医者土生玄碩(はぶげんせき)を二代目猿之助さんが演じられている。猿之助さんは4月には、名古屋中日劇場で、『雪之丞変化』もされ、さらに『あんまと泥棒』は十七代目勘三郎さんと長谷川一夫さんが組まれている。この『あんまと泥棒』は先代中車さんと先代段四郎さんが、ラジオ放送で組まれたそうで澤瀉屋にとっても縁のある作品ということになる。

猿之助さんの中には、かつての時代劇映画が歌舞伎から流れそれが舞台化され、それをまた歌舞伎にして継承するのも今ではないかと思われているようである。竹三郎さんが、長谷川一夫さんからの秘伝を教わっており、それを埋もれさせるのは勿体ないとの想いがある。

『男の花道』は、三代目加賀谷歌右衛門(猿之助)が上方から江戸の中村座に出るため出立するが、眼の病で歌右衛門は役者として続けられないとの絶望の中で、眼科医土生玄碩(中車)に出会い治してもらう。もし先生から来て欲しいという時はいついかなる時も参上しますと約束する。その約束通り、玄碩の手紙が届き、玄碩の窮地を救うという筋である。興味があったのは、どのような時に玄碩の手紙が届くのかということであった。

『櫓お七』の梯子を登るところであった。猿之助さんの人形振りをたっぷり見せられたあとである。その前の、失明前の歌右衛門が、眼の見えない役を稽古したりと、舞台ならではの歌舞伎の実演があるのが楽しい。そして、歌右衛門のお客さんにしばしの猶予をお願いするところが、現実の舞台のお客さんに参加してもらうという手法へと移る。舞台の実感をそのまま、芝居の中に滑り込ませるのである。そして、男の約束を果たし、そこでまた歌右衛門であり猿之助さんの舞いを見せる。

歌右衛門と玄碩がそれぞれ、役者としての力量と誇りを見せることで、眼科医としての腕と誇りを見せることで、歌舞伎としての厚みが出た。中車さんの玄碩は、無理のない演技で意思を貫き、これまた武士の見栄を押し付ける田辺嘉右衛門の愛之助さんに、「今舞台中だぞ。芝居を大事にする歌右衛門がそれを捨てて来るかな。」の言葉に、自分の軽率さを悔やむ。それを腹におさめ待つところも良い。苛め役の愛之助さんの自分が負けた時のさっぱりとした潔さが愛之助さんの愛嬌である。秀太郎さんの座敷の取り仕切りもいつも軽くそれでいてリアルで手堅い。

弘太郎さんの按摩に一つ学んだことがある。旅籠の畳の縁を片足でスーッと触りながら移動するのである。なるほど、今まで気がつかなかった。亀鶴さんの少し襟元を崩しての出が良い。玄碩に食ってかかりながら、歌右衛門の治療に土下座して頼んだり、歌右衛門の包帯を取る時心配でまともに見られず俯いていたり、一つの役に仕上げている。壱太郎さんの鼓も良い。男女蔵さんらお馴染みの方々が円滑に納まっている。

『あんまと泥棒』は、中車さんのあんま秀の市と猿之助さんの泥棒権太郎である。二人芝居の台詞劇である。あんまのところに泥棒が入り、泥棒があんまに意見されるのである。中車さんにはポーカーフェイスとは何ぞやを思い起こして頂きたい。この役をどう工夫しようかという力が見えすぎる。泥棒権太郎に向かっているのではなく、猿之助さんの芸歴に挑んでいる。そして、映像で期待される、香川照之になっている。とんまな泥棒があんまに騙されてお金まで投げていくのである。私なら投げない。どうみてもくせのあるあんまがずーっとそこにいるのである。ひとくせもふたくせもあっても、相手の気の許す愛嬌が必要である。全然気が許せない。

くせのある役はお手の物であるがゆえに、ただの人の情けで倖せに暮らしている按摩さんに重心をかけて、では一寸くせのあるほうをと重心を少し移してとの変化が欲しい。

お二人の軽妙なやり取りを期待したが、演技の上手さはわかるが、それぞれの芸歴が邪魔をした。

原作は村上元三さんで、初演は明治座で、あんまの勘三郎(十七代目)さんと富十郎(五代目)さんである。

映画の中で歌舞伎が出てくるものの一つに、『お役者文七捕り物帖 蜘蛛の巣屋敷』がある。役者でありながら、勘当された錦之助さんの文七が、その実父でもある時蔵(三代目)さんを助けるのであるが、そこで演じられるのが時蔵さんの『女暫』である。この年に時蔵さんは亡くなられている。映像でお目にかかれた。

庶民に愛された時代劇を、歌舞伎として復活させようとする猿之助さんの試みは、大衆文化の継承の一つの形として心強い試みである。

 

 

映画『江戸っ子繁盛記』

映画『江戸っ子繁盛記』は『宮本武蔵』の脚本も手がけた成澤昌茂さんである。『芝浜』『魚屋宗五郎』『番町皿屋敷』の三つを組み合わせた作品で、魚屋勝五郎(萬屋錦之介)が三つの世界を生きてしまうという繁盛ぶりである。

『魚屋宗五郎』は、歌舞伎では『新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』のなかに『魚屋宗五郎』があり、上演も『魚屋宗五郎』が主である。こちらは、宗五郎の妹のお蔦が磯部のお殿様の愛妾となっていて、横恋慕の家来の策略でお殿様に斬られてしまうのである。

映画のほうでは、魚屋勝五郎(萬屋錦之介)は、時間を間違えて誰もいない早朝の浜で、財布を拾い百両を手にするが、それが夢で、その後はお酒も絶ち、真面目に働くのである。気にかかるのは、しばらく顔を見せない妹・お菊(小林千登勢)のことである。お菊は青山播磨(萬屋錦之介)に見初められ奉公に上がっているのである。勝五郎の夢の中に現れ、青山播磨のことは恨まないで下さいなどと言ったりする。

見ているほうも、このお菊さんはどうなるのであろうかと気になるし、映画ではどういう展開になるか楽しみである。錦之介さんの、一心太助ではない、貧乏な魚屋勝五郎が上手いのである。お金を拾って長屋の連中とお酒を飲み酔っぱらう所もいい。1961年同年の先に『宮本武蔵』を公開しているから、役の幅が出来てもいる。なかなか芸が細かい。娯楽映画でありながらそのあたりも楽しませてくれる。

そしてお菊のこともなかなか出て来ないのが客を引っ張るこつである。お菊が亡霊となって勝五郎と女房・お浜(長谷川裕見子)の前に現れ消えてしまう。お屋敷から、お菊が死んだという知らせが入る。遺体は無いという。長屋の連中は、勝五郎に同情し長屋中のお酒を持ってきて飲ませる。ここからが、『魚屋宗五郎』の酔いっぷりとなり、播磨に、真相を直接聞きに行く。播磨は静かに事の次第を話す。

青山家は三河の出で、徳川家直参の旗本である。ところが、天下泰平の世なれば、無用の存在で何かとはじかれる。面白くない播磨は町奴との喧嘩に明け暮れ、その心を癒してくれるのが、お菊であった。将軍家より、高麗皿が拝領され、この皿で後日もてなすようにと言われる。役人が皿を確かめにきて開けてみると一枚割れている。仕組まれたのである。お菊は主人の責任になってはならぬと自分が割ったと主張し、播磨も仕方なく斬らざるおえない。お菊は切られ苦しみつつ井戸に落ちてしまう。

播磨は、黙っていても潰されることはわかっているので、勝五郎に自分は何れ菊のもとへ行くと告げる。勝五郎は、二人の深い仲を知り納得する。播磨は、幕府が取締りに出るであろう、町奴と旗本の争いに飛び込んでいき死を選ぶのである。

勝五郎夫婦は二人を弔う。ある日大家が顔を出し、かつて勝五郎がお金を拾ったのは夢でないことを伝え、目出度し目出度しである。

三つの話しを上手くまとめ、錦之介さんの魚屋勝五郎も良く、すっきりした娯楽映画になっていた。監督はマキノ雅弘監督である。

『江戸っ子繁盛記』の錦之介さんを見て、評判の高い『関の彌太ッペ』(1963年)を見る。脚本が成澤昌茂さんで、監督は山下耕作監督である。原作は長谷川伸さんの同名戯曲。なるほどこれも見せてくれる。ひょんなことから幼い娘を助ける。その子は年頃になっても、助けてくれた人のことが忘れられない。しかし、その人は姿、人相も変わり果て、娘に名乗れないのである。娘と分れての何年か後の弥太郎(錦之介)は目も凄味、頬には傷跡がある。お化粧の工夫が上手い。むくげの花を挟んで笠を被ったままの弥太郎と娘・お小夜(十朱幸代)とのシーンは山下監督ならではの情感たっぷりの美しい場面である。<情感溢れる美しさ>の錦之介の映画にレンタル店でなかなか手がのびなかったのであるが、むくげの花をぼかし、弥太郎のやるせなさが伝わり、甘味料の甘さはなかった。最後の弥太郎の別れの挨拶の言葉でお小夜はこの人だと気がつくのであるが、弥太郎の姿はない。

萬屋錦之介(改名の時期が記憶できないので、萬屋錦之介に統一させてもらいます)さんなどの映画を見ていて、、役柄の幅も広がり演技の工夫と実力も備わるので、新しい分野の映画に挑戦したいという気持ちが解る。

『孤剣は折れず 月影一刀流』(原作・柴田錬三郎/脚本・成澤昌茂/監督・佐々木康 1961年)は鶴田浩二さんの時代劇であるが、予想に反して、時代劇も悪くない。見ていない<次郎長物>も見てみようと思った。

成澤昌茂さんは、監督もされておられるが、脚本の仕事のほうが圧倒的に多く、ジャンルが広い。高峰秀子さんと芥川比呂志さんの『雁』(森鴎外原作・豊田四郎監督)は好きな映画であるが、これも成澤さんの脚本だったのである。どうなるのか、期待感をもたせ、最後は悲恋でも、ストンと納得させてくれるところが上手いかただと思う。

 

『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ出来事)』と『龍三と七人の子分たち』

バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ出来事)』と『龍三と七人の子分たち』の二本の映画の関連性はない。たまたま、久方ぶりに新作映画を続けて観たのである。関連するといえば、かつて名を鳴らした人が埋もれていて、再起をかけて発奮するということであろうか。

バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ出来事)』は、かつて「バードマン」という映画で名声を得たスターが、今は映画の仕事もなく、舞台演劇の役者として再起をかけている。その主人公役が、マイケル・キートンで、彼は映画『バットマン』で主役のバットマンを演じたため、そのこととも重なって評判をとり、演技力も改めて認められた。「バードマン」は、<鳥男>という意味らしく、主人公のリーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、落ち目となっても常にその<鳥男>に付きまとわれている。「バードマン」としての華やかなりしころの想いを<鳥男>は運んできて今の彼を苦しめる。

映画の中では、彼が望むと物が動いたりするが、それは、彼の心の妄想を表す。何とかブロードウェイでの舞台を成功させたいと必死なのであるが、その舞台裏は、お金のこと、共演する役者のこと、劇評家のことなど難問山積みである。さらに、離婚後引き取っている薬物依存症の娘(エマ・ストーン)をそばに置き、付き人として手伝わせている。役者の一人が装置の落下で怪我をして、新しい役者・マイク(エドワード・ノートン)を雇う。これが上手いのであるが、アルコール依存症である。怪我をした役者には保障金を請求され、マイクは舞台上で勝手な演技をする。 追い込まれたリーガンは「バードマン」となって自由に空を飛ぶ。そして彼はある決心をする。舞台のリーガンは迫真の演技を見せる。しかし、それは現実には失敗に終わる。現実には失敗するが、彼はそこで、<鳥男>と決別して飛べたのだと思う。娘が、ラスト「パパったら!」とにっこり笑うのがその証と思う。それが、長いタイトルの『(無知がもたらす予期せぬ出来事)』と解釈した。

これまた、解釈の分れる終わり方なのである。<バットマン>や<バードマン>(こちらは予想であるが)の奇跡的はハッピーエンドに重ねた。 マイケル・キートンとエドワード・ノートンのプライドの対決も面白い。思わぬ災難からリーガンのブリーフ一枚で街中を歩く姿がネットで公開となり、アクセス数が膨大な数となるのが現代のネット世界を象徴している。舞台裏をみせつつ、心理を超常現象にしているところが技巧的である。

映画『バットマン』も思い出す。どれが『バットマン』映画の中で一番かは、これまた好みがありケンケンガクガクである。

龍三と七人の子分たち』は、ただ笑って楽しむ、任侠おじいちゃんのファンタジーであり、任侠映画へのオマージュである。

兄貴分の龍三(藤竜也)とマサ(近藤正臣)は時々逢っている。昔の仲間のはばかりのモキチ(中尾彬)が詐欺行為の現場で、若い者に暴力を受けているのを助け、龍三がオレオレ詐欺に騙されたこともあり、組を復活させることにする。昔の仲間にハガキを出し、上野の西郷さんの像の前で一人、また一人と現れるのも見どころの一つである。 早打ちのマック(品川徹)、ステッキのイチゾウ(樋浦勉)、五寸釘のヒデ(伊藤幸純)、カミソリのタカ(吉澤健)、出来すぎの場面で登場する神風のヤス(小野寺昭)で、<龍三+七人>となるのであるが、この元ヤクザおじいちゃんたちの親分の決め方が面白い。それを記録する飲食店の店主の職業意識も笑わせる。これは、北野武監督が楽しんでアイデアをドンドンはめ込んでいったオモチャ箱である。

『バードマン』のリーガンがブリーフ一枚なら、龍三親分はもっとド派手である。案外繋がるものである。 どういうわけかことが起きると、京浜連合の若い者たちと繋がってしまう。因縁の対決である。騒動のきっかけは、はばかりのモキチである。この方、落語の『らくだ』のかんかんのうを踊るラクダの役目もし、何回も死んでしまう任侠映画の役者さんをも連想させる。はばかりながら、<はばかり>という言葉も死語に近いかも。バスで商店街を走る場面は、終戦直後の闇市を走り回るところを、老人だから、バスに乗せてしまおうと考えられたかどうかは謎である。

所どころに挟まっているセリフが、ㇷ゚ッ!と吹き出してしまう。 北野監督は遊びながらも、任侠おじいちゃんを格好よく収めてくれる。マルボウ担当の刑事役者として、仕方がないな格好悪くはできないしと、登場するのである。最後まで<龍三と七人>は恰好よく任侠を貫けるのである。

どうしてこの映画を観たかというと、世田谷美術館で『東宝スタジオ展 映画=創造の現場』を見たのであるが、範囲も広く展示方法に心踊らなかったのである。最後に、砧の東宝スタジオを使用したということであろうか、新作の映画のポスターがあり、そこに、『龍三と七人の子分たち』のポスターが目に止った。『オーシャンズ12』? 北野武監督? 情報つかんでなかったな。これは見ようと思ったのである。近日公開の同じようなポスター映画の予告をやっていたが、ポスターに関しては若手のほうが一歩遅れを取った感がある。 これは、えっ!と思ったときが勝負である。

昔を忘れられないおじさんたちの困った<八人>であるが、人にやらせるのではなく、自分たちが鉄砲玉になるのであるから、威勢がよくても笑って済ませられる。

 

時代劇映画の流れ

忍者映画を何本か観て、『時代劇は死なず! ー京都太秦の「職人」たちー』(春日太一著)を手にした。「よくぞ、来てくれました!」である。時代劇映画の流れがよく解るし、時代劇映画に携わっていたそれこそ<影>の「職人」さん達のことが沢山のドラマとなって浮かび上がる。これは、春日太一さんのデビュー作であるが、よくぞ書いてくれたと思う。

今まで観た映画と重なり、さらに観たくなる。<時代劇映画ドンドン>である。黒澤監督映画の出現で、時代劇映画は変って行く。大映は、『座頭市物語』『忍びの者』。東宝は『切腹』。テレビ界では、『三匹の侍』。東映も『十七人の忍者』『十三人の刺客』など今まで脇役であった立場が主役となる。

『新撰組血風録』の原作者、司馬遼太郎さんは、東映の『新撰組血風録 近藤勇』には、「新撰組を動かしたのは近藤ではなく土方」だと激怒して、東映でのドラマ化を認めない。その時、池波正太郎さん原作の『維新の篝火』をみせ、原作を曲げないことを約束する。司馬さんは、この『維新の篝火』を気に入っていたという。

このDVDを借りる時、躊躇した。片岡千恵蔵さんの土方歳三である。近藤勇なら解かるがと期待せずに観たら、これが良かったのである。千恵蔵さんの悲恋も、作りかたで嵌らせることができるのだと、不思議な気分にさせられたのである。それを、司馬さんも気に入っておられたと読んだときは、やはりと思って、この本が益々面白くなってきた。

本を読む前に、映画『赤い影法師』『忍びの者』『続 忍びの者』をみた。『赤い影法師』は大川橋蔵さんで、橋蔵さんの忍者物は観たくないなと思っていた。この際だからと観たのであるが、市川雷蔵さんの『忍びの者』と違い、美しく、スター主義である。ただ、これはこれで、面白いのである。原作は柴田錬三郎さんである。柴田さんというと、和歌山県新宮市にある<佐藤春夫記念館>を思い出す。佐藤春夫さんの東京での住いを移築しており、一階にある暖炉のある洋室の応接間に畳が何畳か置かれ、そこに柴田錬三郎さんが訪れた時に座る定位置があったのである。佐藤春夫さんと柴田錬三郎さんとは異質の感じがするが、師弟関係も幅が広いものである。

映画『赤い影法師』は、関ヶ原で敗れた石田三成の娘が、木曽の女忍者となり、服部半蔵の子を宿し、その子が若影となって母影と共に行動する。若影が大川橋蔵さん、母影が小暮美千代さん、服部半蔵が近衛十四郎さんである。時代は徳川家光のとなる。その他の配役を紹介する。これが豪華。

柳生宗矩(大河内傅次郎)、柳生十兵衛(大友柳太朗)、徳川家光(沢村訥升・九代目澤村宗十郎)、柳生新太郎(里見浩太朗)、水野十郎左衛門(平幹二郎)、春日局(花柳小菊)。その他、黒川弥太郎、大川恵子、東野英治郎、山城新吾、沢村宗之助など。

作品公開が1961年。監督が小沢茂弘さんで、これがまた、司馬さんが激怒した『新撰組血風録 近藤勇』の監督でもある。『新撰組血風録 近藤勇』が見たくなる。スター主義に則った忍者映画である。大川橋蔵さんが忍者役でもきちんとファンの期待には応えている。母影の小暮さんと若影の橋蔵さんの組み合わせもいい。そして、若影と父・服部半蔵との対決も近衛さんが好演である。近衛十四郎さんは、他のスター役者さんとは一味違うリアルさを含んだ演技である。ここから、『柳生武芸帖』に行くのがわかる。大友柳太朗さんの柳生十兵衛は納得できなかったが、『十兵衛暗殺剣』(1964年)の近衛十四郎さんの柳生十兵衛と対決する、幕屋大休の大友柳太朗さんで満足。この対決は見応えがある。湖面の照り返しを顔に当てる撮り方なども工夫がたっぷりである。

『忍びの者』が1962年であるから、時代劇の風の流れがわかってくる。それを教えてくれるのが、春日太一さんの『時代劇は死なず! ー京都太秦の「職人」たちー』である。好きに時代劇映画を選んでも、時代的流れの中に位置付けできるので、楽しさが倍増される。

時代劇がテレビの時代となり、近衛十四郎さんの『素浪人月影兵衛』大川橋蔵さんの『銭形平次』、『新撰組血風録』『木枯らし紋次郎』『必殺シリーズ』『鬼平犯科帳』等々が生まれる流れも解き明かされる。

さらにそこに映画の<影>の職人さんたちがどう係ってきたかを、綿密に取材し書かれているのであるからたまらない。スター主義の映画も役者さんの見どころを組み合わせる手法も好きであるし、その衣装、美術、撮る角度、セットの豪華さも見る楽しみ一つである。リアル系にいけば、いったで、その影の力の勢いは映像に現れるものである。

時代劇映画を懐かしさで見ていない者にとって、『時代劇は死なず!』は必読の一冊である。