映画『わが街セントルイス』『グランド・ブタペスト・ホテル』『THE 有頂天ホテル』

映画『わが街セントルイス』(1993年)は、1933年の大恐慌時代に少年がその苦境に闘うという映画ということで手にした。少年がどう闘うのか。

12歳のアーロンは、父が不況で職を失い今は装飾用のローソクを売って歩いておりホテル住まいである。弟のサリバンは叔父の所に預けられ、母は病弱でサナトリウムに入ってしまう。父は時計のセールスの仕事を得て旅立ち、少年は一人ホテルに残される。少年に手助けしてくれるのが同じホテルの住人でレスターという若者である。卒業式の服を調達してくれたり生きていく方法の手ほどきをしてくれる。

お金がないためホテルの住人は次々とホテルから消えてゆき、アーロンも追い出されことになるが部屋に閉じこもり何んとか生きのびる。アーロンは頭がよく、弟を呼び戻すため叔父に父の名で手紙をだす。「サリバン(弟)がいたクラスに伝染病が流行している。潜伏期間は数カ月。しかし、兄弟の輸血で簡単に治せるらしい。至急サリバンをこちらに帰して欲しい。」

父は、政府事業庁の採用にも応募していてその採用通知がくる。父の居場所はわからない。時計会社の父宛に採用通知を送る。その事によって父は採用を知り、窮地の兄弟のホテルに帰って来る。無事家族は新しい家で一緒に住むことができることになる。

気持ちに余裕が無いのは分かるがこの父親には疑問を感じてしまう。アーロンを励ます言葉が他にあるのではと。実際にはアーロンの機転が何んとか持ちこたえさせ良い方向へと導ていくのである。そして、レスターとの関係がアーロンの大きな力となってくれている。レスターは警察に連れ去られてしまうが。

レスター役のエイドリアン・ブロディが印象的だったので、彼の出演映画を探したら、映画『戦場のピアニスト』の主役をつとめていた。この映画は評判になったが観ていない。映画『グランド・ブタペスト・ホテル』(2014年)にも出ていて、ホテル関連でこちらを観る。この映画の出演者が凄い。

レイフ・ファインズ、ハーヴェイ・カイテル、ウィレム・デフォー、ジュード・ロウ、ビル・マーレイ、エドワード・ノートン、シアーシャ・ローナン、エイドリアン・ブロディなどである。

映画は架空の場所の設定で、話しはホテルだけに留まらない。1932年にグランド・ブダペスト・ホテルには富裕層の人々が利用していた。そこの名高いコンシェルジュ(ホテルでのお客様の要望にあらゆる面からお世話する役目の人ということのようである)のグスタヴ(レイフ・ファインズ)がお客であったマダムDの死を知り、ベルボーイのゼロを連れてマダムDの邸宅へ旅立つのである。

マダムDの邸宅では遺言の公開があり、グスタヴは名画「少年と林檎」を相続する。マダムDの長男ドミトリー(エイドリアン・ブロディ)はグスタヴを嫌い、母の殺人者にしてしまう。グスタヴは監獄へ。ところが、そこで脱獄に参加。脱獄したグスタヴを待っていたのがゼロで、二人のその後に何があったのか。

話しがホテルから随分逸脱していくが、そのことを語るのが老人となったゼロである。グランド・ブダペスト・ホテルはかなり古くなっており、ゼロが所有者となっていたのである。グランド・ブダペスト・ホテルで出会ったグスタヴとゼロが突然巻き込まれる事件と大きくとりまく戦争による話しである。ホテルマンの情報網や連係プレイには驚かされる。グランド・ブダペスト・ホテルで銃撃戦が行われたりセットも見どころである。

登場人物が個性的で人数の多いホテルの映画といえば、三谷幸喜監督『THE 有頂天ホテル』(2006年)である。23人の人々がホテルの副支配人を中心に新年を迎えるカントダウンのイベントを目指し、様々に関り合いを持つのである。この映画は観客のほうが映画を観ながら人間関係がわかっており、映画の中の人の方が関係がわからなくて奇妙な行動に出てしまうところに笑いが起こるという設定である。それに加えて俳優さんたちの個性的な役作りも注目度が高い。

歌い手になるという夢があったベルボーイがそれをあきらめ田舎に帰ることにする。ギターとマスコットとバンダナを、一緒に働いたホテル仲間にプレゼントする。ホテルはカウントダウンまでの短い時間に色々な問題が生じるが何とか成功させることができるのである。気が付いてみればギター、マスコット、バンダナはベルボーイのところにもどり、彼は夢を追い続けることにする。

ギターを背負って仕事をしていた客室係の女性とバンダナを巻いて逃げ回っていたアヒルは、敢闘賞ものである。筆耕係りには笑えた。垂れ幕に謹賀新年と書く時、垂れ幕の上を膝を折って足首をあげて移動する様子などは性格をよく表していた。

ホテルでは、皆笑顔で新年をむかえ有頂天となり、それぞれの新しい年への一歩を踏み出すようである。23人のそれぞれの生き方、仕事分担、思いがけないハプニングが印象強く残るようにできているのが見事である。

さて登場人物の役者さんの多さで期待できるのが4月から始まるテレビドラマ『半沢直樹』である。前作は最終を含め3回分しか観ていないのでDVDで観直した。今のほうが台詞がびんびん響くような気がする。銀行だけではくくれない体質が想像でき広がる。今回もラストのテンションが納得いかない。頭取は、常務を自分の目の届くところに置き、半沢にはさらなる成長を望んだのか。それとも単なる保身か。もう一回テンションを上げてくれることを期待し楽しみである。

現在・過去・現在・未来への回線

日々の報道や観てきた映画、ドキュメンタリーなどから想いは様々に巡っていく。過去の人々が経験してきたことを今見つめている。

常磐線の全面開通。9年かかった。良かったと思ったら、放射線量の高い帰還困難区域はまだ存在していてそこを通るのである。そこを飛び越えて東北に来て下さいということである。東北を元気にすることは大切である。この開通を喜ぶなら、帰還困難区域のことへも思考の回線をつなぐ必要がある。現状が落ち着いたら乗車し車窓を眺めたい。

ドキュメンタリー『“中間貯蔵施設”に消えるふるさと福島 原発の町で何が~』では、“中間貯蔵施設”というのを知る。福島県内の除染で出た除染土などの除染ごみを仮りに置く場所である。30年間の仮りの貯蔵施設である。その場所を所有している人々の苦渋の決断を伝えてくれた。自分がこの世にいなくなったあとにどうなっているのかをも思考しての決断である。

アメリカ文化ヒップホップに興味をもって映画やドキュメンタリー映画などを追い駈けていたら日系アメリカ人のことにぶつかった。ドキュメンタリー映画『N.W.A & EAZY-E:キングス・オブ・コンプトン』(2015年)は、ヒップホップグループ「N.W.A」のイージ―・Eの半生を描いたドキュメンタリーである。グループの映画としては『ストレイト・アウト・コンプトン』(2015年)がある。

ドキュメンタリー映画のほうで、メンバーのイージ―・Eとドクター・ドレ―を会わせたのが日系アメリカ人のスティーブ・ヤノという人であった。スティーブ・ヤノは、ローディアム(カリフォルニア州ロサンゼルスの南部の蚤の市)の伝説のレコード店の店主である。当時彼は、地元の大学院で心理学を学んでいた。この店に行けば流行りのレコードが全てそろっていて、ミックステープもあり、皆、彼の店で音楽を調達していた。

スティーブは音楽をわかっていて、ドレーのミックステープも置いていた。イージ―もこのレコード店を訪れていてドレ―に会いたいとスティーブに伝えていたのである。三人は電話で話したようである。それが「N.W.A」結成のきっかけとなるのである。日系アメリカ人がアメリカ文化に関係していたということを知ってから次の報道に目が留まる。

カリフォルニア州議会下院本会議は2月20日、第2次大戦中の強制収容など不当な扱いにより日系人の公民権と自由を守れなかったことを謝罪する決議案を可決したというのである。決議案の提出の中心議員が日系アメリカ人のアル・ムラツチでカリフォルニア州は日本人移民の多い場所であった。調べたら、1988年、アメリカ政府は公式謝罪をしている。

強制収容所に関しては、ドキュメンタリーで『シリーズ日系人強制収容と現代 暗闇の中の希望』を昨年観ていた。こちらはカナダでの日系人強制収容所でのことである。教育を受けられない子供たちのために収容所に高校を設置しそこで教えた女性カナダ人宣教師と子供たちとの交流が紹介されていた。そこで受けた教育はその後の子供たちの成長に大きな力となっていた。カナダ政府も日系人強制収容に対しては1988年謝罪している。

これらの事実を知ってもらいたいと思っている人々は、世界中が行き来する現在、過去の差別的考えを知ってそういう状況が発生することがないようにと願ってのことであろう。新型コロナウイルスのまん延する現在にもあてはまるように思える。

この機会にこの映画を観ておかなければ。映画『バンクーバーの朝日』(2014年・石井裕也監督)。今だからこそ差別と閉塞感がひたひたと水か煙のように迫ってきた。野球によって何か変わるのではないかという希望は強制収容所への道となってしまう。

3年間働けば一生楽に暮らせるとの話しから日本人はカナダのバンクーバーに到着する。ところが白人より低賃金で、日本人の真面目さはかえって反感をもたれる。バンクーバーで生まれた子供たちは働きながら野球チーム朝日で野球の練習に励む。体力的にもチームは最下位であったが、チビといわれながらも体力差を頭脳プレーに変え日系人を勇気づけ野球を面白くした。

日華事変がはじまりますます職が無くなっていく。朝日は優勝して対外試合に呼ばれ野球で新しい世界があるように見えた。息子(妻夫木聡)は父(佐藤浩市)に「野球ができるならここで生まれてよかった」と伝えるが、真珠湾攻撃により敵性国人として強制収容所へ隔離されるのである。

日系人が自由になったのは日本が負けて4年後であった。2003年、朝日軍はカナダ野球の殿堂いりをするが、その時大半の選手がこの世を去ったあとであった。この映画は、バンクーバー国際映画祭で観客賞を受賞している。

映画『ハワイの夜』(1953年・マキノ雅弘監督)では、二大スターの共演ということで恋愛作品となっている。日華事変の頃、ハワイでの水泳の親善大会で日本人男性(鶴田浩二)と日系人女性(岸恵子)とが出会い、第二次大戦となってもその想いは変わらず死を賭けて再会を果たす。深くは掘り下げていないが、親と二世の子供たちの千々乱れる苦悩は伝わってくる。移民できた親たちは日本への郷愁が強く、ハワイで生まれた子供は自分はアメリカ人だと宣言し志願して戦争にいく。

国立歴史博物館で企画展示「ハワイ:日本人移民の150年と憧れの島のなりたち」を開催していて興味があったのであるが知ってから日にちが無く観ることができなかった。残念である。過去に生きた人々は現在の私たちへ様々な足跡を残していてくれる。その回線を少しでも感知していたいものである。未来への回線は・・・

役立つかなテンプルちゃんとアニー

学校が休校となり、姪のところの姉妹にDVDを送ることにした。映画『テンプルちゃんの小公女』『アニー』である。姪から助かるとメールがきたが楽しんでもらえるかな。

BS世界のドキュメンタリー『カラーでよみがえるアメリカ ハリウッド黄金期』を見た時、テンプルちゃんことシャーリー・テンプルが子役を越えてスターとしてあつかわれていた。1930年代の大恐慌時代に健康的な愛らしさで国民的人気を得ていた。当時のルーズベルト大統領が「この国にシャーリー・テンプルがいるかぎり私たちは大丈夫だ」とまで言ったのである。そのことがあってこのDVDを目にしたとき購入しておいた。

もう一作品ないかなと古本屋をつらつら探していたら『アニー』があった。アニーは大恐慌時代の話しであった。結構ミュージカル『アニー』の宣伝などは目にしているが子供用と思っていてスルーしていたので内容は知らなかったのである。この二作品を観て制作時代と物語の時代とがかさなる。二作品とも自分の信じることを一途に突き進む姿にうるっときてしまった。

さてこちらがこの映画から知ったことである。『テンプルちゃんの小公女』(1939年)の原作はバーネット夫人の「小公女」である。映画のほうは、お母さんを亡くしているサラが、お父さんがアフリカの戦場にいくためロンドンの寄宿学校に預けられる。ところがお父さんが亡くなったとの知らせが入る。お父さんからの寄付金が無くなり、特別扱いされていたサラは一転使用人として働かされる。お父さんが死んだと信じないサラは、軍の病院を毎日訪ねる。そして、お父さんとめぐりあうことができるのである。

サラは偏見なく様々な人と交流していく。使用人として働いているベッキーやインド人、女教師とその結婚相手の馬術の先生など。その自然さと笑顔がテンプルちゃんの強みであり、タップの上手さが楽しさと明るさを加えてくれる。

1933年テンプルちゃんは5歳の時、フォックス・フィルム社と7年契約を結ぶ。大恐慌下、テンプルちゃんによってフックスは倒産をまぬがれる。1935年、20世紀映画と合併し、20世紀フォクス映画が誕生。テンプルちゃんの主演映画は次々ヒットして、彼女がいなければ『スター・ウォ―ズ』『タイタニック』等の20世紀フォクス映画は存在しないとDVDの特典映像で言及している。

ハリウッドにとっても救いの主である。ハリウッドの映画は、セックスと暴力を賛美しているとして宗教団体などから抗議されていた。ハリウッドは「下品、軽薄、低俗なものを排除します。」と宣言したのである。そこに登場してくれたのがテンプルちゃんなのである。というよりもハリウッドが利用したのかもしれないが、テンプルちゃんは大人たちの思惑をはねのけて成長する。

『オズの魔法使』(1939年)は、テンプルちゃんが第一候補であったが、ジュディ・ガーランドに決まる。なるほどテンプルちゃんでも大当たりしたであろうが、ジュディ・ガーランドも好かった。ダイアナ・ロスがドロシー役を33歳で演じたのが映画『ウィズ』(1978年)であるが、ダイアナも頑張っていた。カカシのマイケル・ジャクソンがクリクリっとした眼の愛らしい表情で、カカシの骨のない動きが素晴らしい。やはり天才である。

映画『アニー』(1982年)は、大恐慌時代のニューヨークが舞台で、貧しい親たちは施設に子供を預けるのである。子供たちは両親が迎えに来る希望を胸に頑張っている。その中の一人がアニーである。ある時、大富豪のウォ―バックスが施設から一週間子供を招待することにする。アニーは招待の子に選ばれる。

お金のことしか頭になかったウォ―バックスはアニーが気に入り自分の子供にしたいと望む。アニーは赤ん坊のころ施設の前に置き去りにされ、両親の顔も知らないが実の親がいるからと断る。ウォ―バックスはあらゆる手を尽くし両親を捜してくれるのであるが...

アニー役のアイリーン・クインもお茶目で愛らしい。ブロードウェイ・ミュージカル舞台からの映画化なので、歌やダンスなどもたっぷりである。アニーのまわりの子供たちの動きも見どころである。アニーはウォ―バックスの金力によって貸し切りの映画館でグレタ・ガルボの映画『椿姫』(1937年)を観たり(歌の中にシャーリー・テンプルの名前も出てくる)、ルーズベルト大統領と会ったりと1930年代が再現されている。

アニーが助けた犬・サンディーも共に行動し、インド人のマジックもあったりと多種多様の見せ方をしていて、そのあたりは『テンプルちゃんの小公女』との時代の流れを感じる。

休校がなければこちらも今の時期にこの二作品は観なかったであろう。他にも姉妹が観れる映画はないかなと置き去りにしていたジュディ・ガーランド作品や『若草物語』を観直したりした。

『若草物語』再確認。長女は『サイコ』のジャネット・リーには驚き。次女は『グレン・ミラー物語』のジューン・アリソンで声が何とも言えない魅力。三女はエリザベス・テイラーでそれほど光はかんじられないが。四女は名子役マーガレット・オブライアンで『ジェーン・エア』にも出ていたそうだ。ジュディ・ガーランドの『若草の頃』でマーガレットがもっと小さくて四女役で出ていたのを今回発見した。一番楽しんでいるのはだれであろうか。

追記:暖かいところは青空卒業式もいいのでは。さらに上着を着て暖かくして。来賓ご挨拶や議員の祝電などのない卒業生中心の卒業式。パーティやゴルフ、マスクの転売まで誰のために仕事をしているのでしょうか、この人達は。自分だけのため。

話芸アラカルト(1)

映画『男はつらいよ』の寅さんである渥美清さんは言わずと知れた話芸の抜きんでた映画俳優であった。とらやのあの狭いお茶の間で旅の様子などを語るときはアップの寅さんの顔を眺めつつ、家族の一員になって聴き入ってしまう。話しの中に女性が登場すると、一家は現実に戻されて雰囲気が変わってしまう。満男くんは大人の思惑をよそに「またか」と小馬鹿にしたような顔をするのである。

50作目『男はつらいよ お帰り寅さん』は、この満男(吉岡秀隆)が寅さんを通して人間の一長一短ではいかない面倒な部分も見て来たことによって、面倒な状況にたいしても自然に対峙できる大人になっていたということが証明されるのである。

満男は初恋の泉(後藤久美子)と再会する。そして泉の母と父に関わることになる。離婚している泉の両親は老齢となり一筋縄ではいかない。特にお母さんは見ていても呆れてしまうほど勝手な行動にでる。ところが満男はこともなげにその母と泉の仲を取り持つのである。

満男には泉と母親のそれぞれの気持ちが何となくわかるのである。これは、寅さんの生き方を通して、寅さんと接する人々を通して自然に蓄積されていったものである。良いにつけ悪いにつけ寅さんから言葉では簡潔に表せない人間の面倒さを生活感覚として教え込まれていたのである。寅さんは意識しないで満男に一人前の大人となり親となれる力を与えていたのである。

その様々の寅さんが画面上に走馬灯のように出現する。

50作目の記念イベント『落語トークと寅次郎』に参加した。『男はつらいよ』に関連した落語(立川志らく、柳亭小痴楽)、浪曲(玉川太郎)と座談会トーク(司会・志らく/山田洋次監督、倍賞千恵子、柳家小三治)である。落語家の小三治さんがどんなことを発言されるのかが一番興味があった。

小三治さんが寅さんの映画で一番印象に残っているのは、暑い沖縄で照り付ける太陽を避けるため寅さんが、電柱の影に隠れようとする場面といわれた。山田監督はそれは渥美さんが考えてやったことですと。電柱の影は細くて隠れようもないのである。落語に登場する人物がやりそうな行動である。そして、小三治さんが倍賞さんの「下町の太陽」を一節歌われて、倍賞さんのアカペラの「下町の太陽」の歌唱のお土産つきとなった。

小三治さんのまくらでフランク永井さんの話しを聴いたことがある。オートバイの小三治、オーディオの小三治、まくらの小三治といわれ、落語の小三治とは言われませんと笑わせる。フランク永井さん自身も大切にされていたという「公園の手品師 」が好きでと、歌ってくださった。沁みます。

落語「粗忽長屋」は小三治さんの噺を聴いて、こんなに面白い噺にできるのだと再認識した噺である。それまで噺としてはばかばかしい面白さとは思っていたが、本当に面白いとは思ったことが無かった。いやもう、登場人物にこちらが成りきって楽しませてもらった。

浅草寺にお参りにきた男が人だかりの先に行き倒れの死体を見つける。そこに行き着くまで、こちらも男にご一緒する。行き倒れの死体の身元を探す世話役。男は死体は自分が住む長屋の熊だといい、本人を連れてくると言う。常識の通じない相手の登場に困ったものだとあきれる世話役。こちらも世話役目線になってあきれる。世話役の気持ちがよくわかる。噺の中にどっぷりである。

なんでそんなことが信じられるのであろうかは噺を聴かない人が思うことである。語っていることがそのまま本当に思えてくるから不思議である。そこがまた可笑しいのである。ばかばかしいはずなのに。入ったが最後、その世界から出ようと思わないのである。

男は長屋の住人の熊をつれて浅草寺にもどってくる。熊さん、お前の死体があるよと言われてついて来るのである。その過程は知っているが、「もう一人変な人があらわれたよ。」の世話役目線にすぐこちらは入り込んでいる。もう可笑しくてしかたがない。終わってしまえば可笑しい笑いの世界の中にいたと満足なのである。

これが腕のない落語家さんだと、この噺はこういう噺なのだと納得して笑うが、噺の世界の一歩こちら側にいて中へ入り込むことはないのである。

ヒップホップ文化(DJ、MC)

ヒップホップ文化のDJとMCの要素が難しい。馴染みのない音楽の分野なのでその関係の映画を観てやっと入口を見つけたようなものである。レンタル店のCDの棚に、HIPHOPの分野にラップ関係のCDが並んでいるのがわかった。アーティストの名前がわからなかったのでその棚を探すこともなかったが何人かの名前には目がとまるようになった。

その中で、映画『8 Mile』はヒップホップ文化を知る前に観ていたのでMCのバトルの緊張感やそこからのし上がっていく壮絶さは少しわかっていた。MCもエミネムもゼロ状態で、キム・ベイシンガーが出ていたのでそれならと観たのである。ヒップホップ文化を知って、あの映画の世界かと思い出していた。場所はデトロイトである。

MCの自伝映画やドキュメンタリー映画を観て、ヒップホップ誕生のことを探れたのがドキュメンタリー『ヒップホップ・レジェンド』(2005年)で、その後の様子を想像させてくれたのがドキュメンタリー『ライム&リーズン』(1997年)である。

ヒップホップ・レジェンド』でのインタビューから、ブロンクスで誕生したヒップホップ文化の大きな力になったのが、クール・ハーク、アフリカ・バンバータ、グランド・マスター・フラッシュ等で三人の名がよく出てくる。特にギャングであったアフリカ・バンバータの名前が多く出てくるし、本人も登場し語る。アフリカ・バンバータはギャングであった自分の経験からパーティーなども警備させる術を心得ていて争いなども上手くコントロールする形態を作り上げ、1973年11月12日ズール・ネーションを結成し、ヒップホップの四要素を一つにした。11月12日はヒップホップ誕生の日であり、11月はヒップホップの月としている。

音楽が好きだったバンバームは、人間が持つ否定的なエネルギー、互いに傷つけあったり喧嘩や縄張り争いへのエネルギーを前向きなエネルギーへと変えて行った。ブレイクダンスのバトル、MCのバトルで闘い、さらなる向上へと前進させていった。ミキシングをやるだけだったDJのバトルも行われた。

当時はディスコの時代で、ビージーズの音楽や映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の世界である。黒人の貧民街で育った若者たちはお金がなく、ディスコには入れなかった。彼らにとってディスコから流れてくる音楽は脆弱であった。彼らは自分たちの音楽を作り出し、自分たちのブロック・パーティーを開いた。そしてバトルで自分たちを高めていった。

音楽業界は、ディスコ音楽が飽きられることを予想し次の音楽を探していた。そして目を付けたのがヒップホップ・ミュージックである。レコードが発売され、大ヒットするや、中産階級にも広がっていった。そして新しいDATレコーダーがDJに変わり、DJは重要ではなくなりヒップホップ文化も変化してしまうのである。

ドキュメンタリー『ライム&リーズン』では音楽業界で成功したアーティストから出身地で頑張るのアーティスト、女性アーティストなどのインタビューが続く。成功者はヒップホップがビジネスとしていかに人生を変えられるかそれも重要なことであるとし、ラップのスキルが少しでもあれば、曲を出して金を稼ぎたいし、ストリートから逃れることが自滅だというなら意味が解らないと語る。自分の生まれ育った場所でギャングだった者はその現実をラップに、売人はその現実をラップにしていった。そして契約したレーベルとのいざこざから自分のレーベルを立ち上げる動きとなっていく。

広域に広がったヒップホップは西海岸と東海岸での抗争へと進んでしまう。アーティストたちは、メディアが煽り立てていてお互いに何のいさかいもないと主張しているが、結果的に2パックとBIGの死によって終結する。

この辺りや自分たちのレーベルの立ち上げなどについては、映画『ノトーリアス・B.I.G.』(2009年)ニューヨークのブルックリン出身BIGの伝記映画))、『ストレイト・アウト・コンプトン』(2015年・カリフォルニアのコンプトン出身のグループN.W.Aの伝記映画)などと合わせて観るとつながってくるが過激さもあるので要注意。

ヒップホップ・レジェンド』は、『ライム&リーズン』の後に制作されているので、インタビューに応じたアーティストはヒップホップの原点を忘れずにその精神をつなげることが重要だと考えている人が多い。

そして行きついたのがドキュメンタリー映画『自由と壁とヒップホップ』(2008年)である。パレスチナ人の若者たちがヒップホップによって自分たちの詞と音楽を作り出していく。ガザ地区と西岸のヒップホップが壁を越え、検問を越え交流するのである。知らなかったことを教えてくれ、さらにヒップホップの力を伝える見事な映画であった。映像の撮り方、編集に説得力がある。私的ヒップホップ文化のジグザグ道はここに行きつけた。

その他参考にした映画・『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』(50セント主演、彼の半生がベース)、『ヒップホップ ・ヴィ・アイ・ピーズ』(ヒップホップのビッグスターたちのインタビューとライブ映像)

追記: 『悠草庵の手習』をスマートフォンで見ると画面のサイズが合わないのもあるようです。原因がわかりません。スマートフォンの画面をトントンと二回軽くタッチすると見やすくなる場合もあります。宜しくお願い致します。

「ヒップホップ文化」 → 2020年1月10日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

ヒップホップ文化(グラフィティ)

ヒップホップ文化のグラフィティ・アートを描くライターを主人公にした映画は、少ない。映画『ワイルド・スタイル』(1983年)の主人公・がグラフィティ・ライターである。この映画は、ヒップホップ文化の四大柱としグラフィティが4要素に加わるきっかけを現わす映画ともとれる。

主人公・レイモンドは<ゾロ>という名前で電車や壁にグラフィティを描いている。ゾロが誰であるかは限られた人にしか知られていない。ゾロの名はマスコミにも知られており、クラブの支配人である友人は、レイモンドにマスコミの取材を受けさせる。電車に描くなどは違法行為でもあり、顔を出すことにレイモンドは迷う。友人はマスコミにつながりを持ち、ヒップホップのパーティーを野外公会堂で開くことを任される。レイモンドはその野外公会堂のアーチと壁のグラフィティを頼まれる。

レイモンドは描き始めるが、絵の中心となる部分のアイデアが浮かばない。そんな時、彼がゾロであることを知っていた恋人が「ゾロにこだわり過ぎている。スターはラッパーよ。」と助言する。レイモンドは気がつく。グラフィティ・アートもパーティーに溶け込むものの一つであると。

パーティーが始まると、ゾロはアーチの上に登りそこから下を眺める。自分の描いたグラフィティの前でDJ、MC、ブレイクダンスが披露され、それを楽しむ人々の姿に自分もビートに乗って満足するのである。ヒップホップの四大柱のできあがりである。ヒップホップの誕生時の公園、公民館、体育館などで開かれたパーティーの様子を想像出来る映画でもある。

映画『ビート・ストリート』(1984年)よりも前のヒップホップカルチャーの映画『ワイルド・スタイル』を、遅まきながら見れることができて満足である。

映画『ビート・ストリート』に登場するグラフィティ・ライターのラモも壁や電車にスプレーペイントをしていた。描き終わった自分の絵の上に名前だけスプレーしていく者がいて、腹だたしく思っていた。ラモは電車に描いたばかりの絵に名前をスプレーする者を見つける。逃げる相手を追いかける。そして相手を捕まえ争ううちに線路の電流に触れて亡くなるという悲劇にみまわれる。

主人公のケリーはクール・ハ―クのもとでDJとMCをやっており、プロモーターに大晦日のパーティーを任される。認められるかどうかのチャンスである。友人ラモの死に臨み、とてもできる心境ではない。しかし友人達に励まされ、ラモのグラフィティ・アーティストとして讃える祝祭を考え開催するのである。ラップ、ゴスペル、フリーダンス、ブレイクダンスなどを組み合わせ、参加者が楽しめるパーティーがケリーの考案通り盛り上がるのであった。

映画『ワイルド・スタイル』と『ビート・ストリート』はヒップホップの4要素とともに、崩壊したり荒れすさんだサウス・ブロンクスの街並みを見ることができ当時の現状が垣間見える。

グラフィティを前面にだしているのは、映画『ボム・ザ・システム』(2003年)である。グラフィティ・ライターとそれを取り締まる警察官との攻防戦も描かれている。グラフィティに使うスプレー缶は盗むというのが信条らしく、かなりあぶなっかしい主人公・アンソニーとその仲間の兄弟の三人で描いていく。アンソニーの兄もグラフィティ・ライターだったらしく、幼い頃、自分を置いて描きに行き死んだらしい。その兄との連鎖が主人公の中にくすぶっているようだ。

兄弟の弟のほうが警察につかまり暴力をうける。兄は熱くなり挑発的になっていく。取り締まる二人組の警察官とのいたちごっことなり、三人がいるところに警察官二人が姿を見せる。言い争いもめるうちに兄のほうが転落死してしまう。アンソニーは大学に受かり絵と対峙する別の道もあったが、アルコール中毒になっている警察官の一人に撃ち殺されてしまう。アンソニーは兄の死の連鎖とつながってしまった。

仲間の弟・ケヴィンが「連鎖を断ち切る」と一人電車に乗り込み去る。グラフィティの才能があるゆえに自分にこだわり迷う青春の挫折ともとれる。消されて残されないグラフィティの虚しさ。それでも描く若さの無鉄砲さと、ぶすぶす飛び出す怒りが感じられる。そして連鎖を死によってしか断ち切れなかったという悲劇。

負の連鎖をどう断ち切るかということがテーマなのかもしれないが、その代償は大きい。負の連鎖から抜け出し、前に向かって進むのがヒップホップ文化の信条である。

グラフィティの映画では『タギング』(2005年)というのもあるが、この映画はグラフィティの縄張り争いがからみ、銃と暴力が飛び出しギャング化している。

ヒップホップ誕生時期に一方でポップアートの時代の寵児と言われたジャン=ミシェル・バスキアが重なるが、バスキアはブロンクスではなく、マンハッタンで放浪生活をしており、彼はヒップホップ文化とは一線を画していた。ただ、グラフィティ・アーテイストが逮捕されその後、路上で警察官5人に暴行をうけ、病院で亡くなったことにショックを受けていたと元恋人がドキュメンタリー映画『バスキアのすべて』でコメントしている。黒人アーテイストとしての扱いにバスキアは苦悩していた。

新しい美術館が開館していた。アメリカのフロリダに、グラフィティアートに特化した世界初の美術館『 Museum of Graffiti 』がオープンしていたのである。時代と共に一緒だった四大柱にもそれぞれの道が模索されているようである。

   

<「ヒップホップ文化」(DJ・MC)> →  2020年2月4日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

                                                                                                                                   

                                                                                              

気ままに『新版 オグリ』

ヒップホップ文化のもやもや感が少し薄れ、スーパー歌舞伎Ⅱ『新版 オグリ』のことが出て来たので気ままに書かせてもらう。

猿之助さんと隼人さんが並んだ『新版 オグリ』のフライヤーを見た時、猿之助さんの鬘は今までのスーパー歌舞伎のイメージから納得できたのであるが、隼人さんのがわからなかった。地味系だなとおもったら、ヒップホップ系であった。舞台にオグリ6人衆が出て来て、玉太郎さんのキャップで、そいうことだったのかとパッと解明したのである。ストリートダンス映画を観ていてどうして気が付かなかったのであろうか。悔しい。

もう一つは、衣裳にフードがついている。これもストリートダンスには多い。さらにヒップホップ文化の誕生当時は、一人がMC、DJ、ブレイクダンス、グラフィティの全てやっていたという。グラフィティなどは、違法の場所にも描くので映画などではフードで顔を隠すためフード付きのパーカーを着ていることが多いのである。

フードを使ってダンスの振り付けを考えたら、振り付けを盗まれてしまうというのが映画『ボーン・トウ・ダンス』に出てくる。新しい振り付けはバトルの最重要課題である。映画『ユー・ガット・サーブド』でも盗まれていた。振り付けを盗まれるのでは、映画『ストンプ!』にも出てくる。<ストンプ>はアフリカで生まれたもので、それがアメリカの大学の友愛会で行われるようになる。足踏み、拍手、体を叩いて音をだしつつリズムをつくりながら踊るのである。なかなか勇壮である。

ストンプの映画は数が少なく『ストンプ!』、『ストンプ・ザ・ヤード』、『ストンプ・ザ・ヤード2』の3本を観る。『ストンプ!』はカナダ制作で高校生の年代であるが、脚本家はカナダでは高校生が踊っていて、アメリカでは大学生が殆どなのでその違いに驚いたとコメントしている。入り方もそれぞれである。

さて軌道修正し、『新版 オグリ』は、個人的興味ゆえにストリートダンスと重ねて観て楽しんだ。オグリに見いだされたオグリ軍団の仲間意識。オグリ自体が貴族社会から逸脱した人物である。馬を乗りこなすのは武士の誇りでもあったが、その能力さえもオグリには備わっていた。ただしその才能による自信過剰をなんとかしようとする人物(?)がいた。この方フットワーク抜群である。ダンスも踊れるかも。

愛し合うオグリと照手姫は離れ離れとなり、それぞれの旅をすることになる。その旅先で登場するのが二人組である。ストリートダンスのバトルでは、得意分野のダンスをしかけるとき、単独、コンビ、トリオでしかけ変化をもたせることが多い。全員でやるときは気持ちを一つにし、さらにそれぞれの持つ力を上手く発揮させること。これもバトルの重要な作戦でもあり、観客を楽しませることにもつながるのである。

新版 オグリ』でも、このコンビとトリオが流れの中に上手く取り入れられていて上手い使い方であると思った。衣裳も電飾つきの衣裳が出て来た時は、映画にもあったので笑ってしまった。もちろん立ち廻りでもこの組み合わせは使われる。

若い役者さんの活躍をみれるのも楽しみである。竹松さんは、歌舞伎『あらしのよるに』の<はく>が印象的であったが小栗一郎で活躍する。ぴったりである。博多座と南座は鷹之資 さんだそうである。どうなるのであろうか。これまた興味深い。

二郎が男寅さんで、どこか甘えん坊の雰囲気が次男坊ゆえであろうか。四郎の福之助さんの武骨さが出自と合っている。六郎の玉太郎さんが難しい役どころで、屈折した若者像を上手く出している。そしてきっちり若者に同化しているのが三郎の笑也さんと五郎の猿弥さんである。この六人を率いるのが猿之助さんの小栗判官と隼人さんの小栗判官のダブルキャストである。今、思った。猿之助さんのオグリの鬘、アフロヘア―をイメージしてるかも。そんなわけで色々想像豊かにしてくれる。

隼人さんのオグリは颯爽として仲間をひきつけ、遊行上人の猿之助さんに思慮深く導かれる。猿之助さんの遊行上人の雰囲気がいい。隼人さんの若いオグリを導くという印象が強く出た。時代の成り行きに懐疑的なオグリの猿之助さんは仲間を力強くひっぱる。隼人さんの遊行上人は、猿之助さんのオグリと共に自分も導く道を模索しているという感じである。そこの違いも見どころの一つであり、どう見るかは観客に任される。

小栗判官のお墓があるのが神奈川県藤沢遊行寺であるが面白いことを知った。河竹登志夫さんが書かれているのであるが、曾祖父にあたる黙阿弥が「阿弥」号をもらったのが、この時宗総本山遊行寺からだということである。

相模湖に行った時には小仏峠に照手姫の美女谷伝説があるのを知った。照手姫が小仏峠の麓で生まれていて、その美貌から地名が<美女谷>となったといわれていて、両親が亡くなって照手姫は<美女谷>から消えてしまったとあった。『新版 オグリ』での照手姫の運命はいかに。

照手姫は新悟さんである。新悟さんの照手姫の役にも、新悟さん自身にも自意識がみえた。あまり自分を押し出さない方だが、猿之助さんのオグリの時、凄い大きな声で台詞を言われて客席に笑いが起きた。意に介さずさらに貫いた。これは好い傾向であると思えた。次の国立劇場の『蝙蝠の安さん』の花売り娘では、細やかさが加わっていた。ひとつ突き抜けたかも。

今月の新春歌舞伎では、『新版 オグリ』の役者さん達は、あちらこちらの舞台で活躍している。悪戦苦闘している方もいるであろう。そろそろ心は、『新版 オグリ』への移行が始まっているのかもしれないが、今月の舞台、悔いのないように無事つとめられますように。

<「ヒップホップ文化」(グラフィティ)> →  2020年1月26日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

     

ヒップホップ文化(ブレイクダンス)

映画『ビート・ストリート』と同年(1984年)に公開されたのが、映画『ブレイクダンス』、『ブレイクダンス2』である。この映画からブレイクダンスという言葉が拡散したといわれている。(原題は『BUREAKIN’』)

ブレイクダンス』の場所はカリフォルニアのヴェニスビーチでストリートダンスのメッカということである。詳しくはわからないが他の場所でもストリートダンスが盛んな場所があり、それぞれに特色があるようだ。ブレイクダンスは体操競技、カンフー映画、ジェームス・ブラウンなどからも影響をうけ、様々な要素を取り込んでいき進化していく。

ブレイクダンス』はケリー、オゾン、ターボの3人が主人公である。ケリーはジャズダンスサーを目指していてオーディションで表舞台に立ちたいと思っている。そのケリーがストリートダンスを踊るオゾンとターボに出会いブレイクダンスに魅かれそのダンスを取り入れていく。紆余曲折しつつケリーの提案で3人はミュージカルのオーディションに立ち向かい自分たちのダンスを認めさせるのである。

ターボの箒を使ってのダンスは多くのダンス場面でもイチ押しである。3人に敵対するクルー(チーム)の中に、マイケル・ジャクソンにムーンウォークを教えたというポッピン・タコも出演しているのを知る.

ブレイクダンス2』は3人は同じメンバーで、その後ということになる。オゾンは子供から若者たちまでダンスなどを練習できる場所を見つけ、〔ミラクル〕と名付け活動する。建物は廃屋同然の公共の施設のため老朽化しており、資金がなく、民間が買い取りスパーにするという。皆の集まる場所が無くなるとオゾンとターボたちは反対する。ケリーはパリでの主役出演を蹴り二人を手伝い、資金集めのショーを成功させる。

この映画での見せ所の一つがターボの部屋の床、壁、天井での360度のダンス場面であるが、これはすでにフレッド・アステアが『恋愛準決勝戦』(1951年)で踊っているので驚かなかったが、ダンスの種類が違うのでその面白さはあった。振り付けの担当がマイケル・ジャクソンの「BEAT IT」の振り付け師、ビル・グッドソンということである。

ブレイクダンス』『ブレイクダンス2』からマイケル・ジャクソンにつながったが、マイケル・ジャクソンのミュージカル映画『ムーンウォーカー』(1988年)はヒップホップ文化を意識してると思えるし、この映画から新たなB-BOYたちが生まれたことが想像できる。『ムーンウォーカー』では、「最高のワル」と自称する子供たちが自信たっぷりにストリートダンスを披露している。

B-BOYたちが口にする映画に『フラッシュダンス』(1983年)がある。この映画には、主人公が歩く前でブレイクダンスを踊り出すストリートダンサーが出てくるのである。映画を観た時、ブレイクダンスとは知らずになんという面白いパフォーマンスであろうか、こんな動きがあるのだと思った。

ブレイクダンス2』では、自分たちのコミュニティーセンター〔ミラクル〕を守るが、もっと年齢が若い少年、少女が放課後に集まる児童館を守るためにダンスバトルショーを開催するという映画が『ストリート オールスターズ』(2013年)である。『 ストリートダンス TOP OF UK 』(2010年)、『ストリートダンス2』(2012年)の3作目で、3作の中で一番人気度は低いかもしれない。観始めたときはチルドレンものかとあなどった。

6人のメンバーがダンスチームを組むのであるが、言い出す少年が好きになった少女に恰好をつけて自分のダンスメンバーは凄いと出まかせを言い、急遽メンバーを集めるのである。言い出しっぺがダンスが駄目で、一人だけブレイクダンスが上手な少年、格闘技の少女、社交ダンスの姉弟、音楽がなんとかなる少年の6人なのである。期待できない6人が児童館のためにバトルダンスショーを成功させるのである。その6人の始めと最後の落差が見どころである。

印象的な場面があって、ダンスが得意な少年は、親の教育方針でダンス禁止で、優秀な学校への試験を受けるのである。その試験の最中、少年は違う世界に入り込んでいく。そこで、白い紙で作られた甲冑の武士とダンスで戦うのである。笛と尺八が流れなかなか素敵なシーンである。このシーンが映画を観る者を現実の世界につながり愉しませてくれた。

一つは、迎賓館赤坂離宮の正面屋根の左右に甲冑がのっているのである。この洋館の上で、武士の心が守るぜという感じで、歌舞伎の『暫』の衣裳のように左右に広がりをもたせている像である。映画をみたあとだったので遊び心のユーモアさが感じられ、その感性に違和感なく気にいってしまった。

もう一つは、スーパー歌舞伎Ⅱ「新版 オグリ」である。地獄の鬼兵士たちの衣裳と重なったのである。この鬼兵士たち踊るのである。照明にかなり助けられていたが。

追記: パリオリンピックでブレイクダンスも広く知られるようになりました。さらに中国映画『熱烈』が想像以上の面白さでした。ダンスシーンたっぷりでストーリーも笑わせて泣かせて観客を引き込んでいきます。驚きでした。

<気ままに「新版オグリ」> →   2020年1月21日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

ヒップホップ文化

ダンス映画にはまったのは、たまたま映画『ステップ・アップ』に出会ったのである。アップルの創業者の一人であるスティーブ・ジョブズを知りたくて彼の映画を探してレンタルしていたのである。ドキュメンタリーやインタビューものも含めて観れるのはこれぐらいだなと思った時、すぐ横にあった『ステップ・アップ』の文字が目に入った。軽くダンスの映画でもと思ったらこれがダンスシーンがたっぷりでこれは次を観なくては。

ステップ・アップ』が5作品続いていた。主役は変わるが、たびたび登場するB・ボーイ(ブレイクダンスのダンサー)もいる。青春物なのだが、4作目『ステップ・アップ4:レボリューション』では登場人物が大人の設定となる。はじまりから何やら登場人物が謎めいた動きをしている。そして突然踊り出すのである。並ぶ車の上で。『ラ・ラ・ランド』が吹っ飛んでしまった。

すでにこのシーンをやっていた映画があったのだ。この映画の後、『ラ・ラ・ランド』を見直したが、車上で踊るシーンは、精彩をうしなっていた。かつては、物凄い衝撃を受けたのに。『ラ・ラ・ランド』はこれまでのダンス映画に対するオマージュということであるが。

ステップ・アップ4:レボリューション』の美術館でのダンス場面も違ったシチュエーションで魅了させてくれる。それからである。ストリートダンス映画をさらに探して観始めた。

飽きなかった。一つ一つの映画のストリーは単純である。苦難がありそれを乗り越えてダンスに生きるという内容である。ただ、ダンスシーンが圧巻である。ブレイクダンスは、バトルがあり、そこでそれぞれのB・ボーイ(B・ガールもいるが対等の力量から総称させてもらう)の持ち味が試される。それも、相手の出方によってそれに即興で対抗するのである。映画の場合、振り付け師がいて映画用に作られるのはわかっていても面白かった。ダンスの腕前が皆さん素晴らしい。

主演者がダンスが駄目なら、本物のB・BOYやプロ並みのダンサーが見せ場をつくってくれるのであるが、いやいや主演者たちも頑張っていた。映画に出ている日本人ダンサーのレベルも相当なものである。実際の世界大会のドキュメンタリーもみた。驚いた。日本人が堂々と戦っていたのである。ストリートダンスは若者たちが勝手に楽しんでやっているのだと思っていた。そこに懸ける情熱とB・BOYの一途さは半端ではない。

苦難の道であったので逸脱した人々もいたり、その情報が頑張る人々をかすめさせてしまうこともあった。皆人生と若さをそこに懸けていた。ダンサーは活動時期が短い。そしてお金にもならない。それなのにステップを踏み続けるのである。そして観る者を理屈無しで楽しませてくれる。

ブレイクダンス系を観続けてかなり経ってから知ったのである。ヒップホップは若者が自分たちの力で作り出した 文化 であるということを。

パトカーの上で踊るのが映画『ブレイク・ピーターズ』である。1985年に東ドイツでブレイクダンス映画『ビート・ストリート』が公開され、それに魅せられた若者がブレイクダンスに熱中する。しかし、当然認められない。国はブレイクダンスを認める代わりに皆に受け入れやすいように修正する。いいように操られてはB・BOYSの生き方に反すると思い始める若者たち。

映画『ビート・ストリート』は実際にある映画なのであろうか。実際にあった。日本では公開されなかった。DVDのパッケージの解説によると、 「1984年、日本では『ビート・ストリート』は未公開でビデオとLP盤のみの発売にも関わらず、日本における HIP HOP のパイオニアたちにとっては衝撃的作品であった。」 この作品はヒップホップカルチャーというものを認識させてくれる作品となった。

ヒップホップ文化の四大柱といわれるのがMC、DJ、ブレイクダンス、グラフィティということで、ニューヨークのブロンクス区で誕生する。それを体現する登場人物の友情が描かれているのが映画『ビート・ストリート』なのである。ダンスだけを追い駈けていた者に基本形を示してくれた。

ギャングになるかクスリの売人になるしかないという環境で若者たちは、銃と暴力の対立から全く相手に肉体的危害を加えないバトルをみいだしたのである。それも人種の違う人々が住む地域で。ダンス教室に通えるような環境ではない。家の前で、ストリートで、年齢関係なくステップを踏む。新しい若者文化。文化を生み出すなどと考えられない場所から出現するのである。

ヒップホップという呼び方は、1978年か1979年からという。

ダンス映画の多くの鑑賞ラストに近づいて知った。ブレイクダンスは、ユースオリンピック(14歳から18歳)ではすでに競技種目に入っており、さらに2024年のパリでのオリンピックの競技種目に加えられたのである。軽く手にしたステップが大きくアップしてしまった。

追記: ダンス映画から始めたのでヒップホップ文化の生まれた状況が不安定であったが、DVD『ヒップホップ・レジェンド』を観て、そのインタビューからかなり実態を固めることができた。この映像、好い出会いであった。

<「ヒップホップ文化(ブレイクダンス)> →  2020年1月15日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

映画『シャーリー&ヒンダ ウォ―ル街を出禁になった2人』 『人生タクシー』からの継続(3)

〔 謹賀新年 〕 新しい年を迎えたが、内容は昨年の続きである。

東京国立博物館で『御即位記念特別展 正倉院の世界 ー皇室がまもり伝えた美ー』が開催されていた。シルクロードの一つの終着点が奈良正倉院と言われるが、イランがペルシャ帝国と言われていたころの文化が日本に到着し正倉院に保存されていた。

ペルシャ系人とおもわれる「伎楽面 酔胡王(すいこおう)」、聖武天皇が愛用されペルシャで流行っていた水差し「漆胡瓶(しっこへい)」、胴にペルシャの天馬(ペガサス)が描かれた「竜首水瓶」、80もの円形切子のあるガラス器「白瑠璃椀」、紺色の中にかすかに残る白濁色が残る「ガラス皿」、草原の狩猟を描いた四絃琵琶「紫檀木画槽琵琶(したんもくがのそうのびわ)などペルシャから伝わった展示品をわくわくしながら鑑賞した。

五絃の「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」も展示されていて、四絃はペルシャで五弦はインドで多く使われ、「螺鈿紫檀五絃琵琶」は新たに復元したものも展示されていた。この復元の琵琶の糸は絹糸で、美智子上皇后が育てられている蚕からの絹糸が使用されていた。この蚕は日本の在来種小石丸といい、奈良時代からのものだそうである。このお仕事は、雅子皇后に受けつがれるのである。

イラン関係の本によると、『続日本紀』には736年の記録には当時中国姓を名乗ったらしいペルシャ人も渡来しているということであり、日本に現存する最古のペルシャ文書は1217年に渡来したペルシャ語の詩句とある。

さらに太宰治さんが『人間失格』の中に挿入しているルバイヤットの詩句が、ペルシャのオマル・ハイヤーマの詩集『ルバイヤート』からなのだそうで、11篇も挿入している。この詩句のことなど頭になく、それがペルシャの詩集からなどということも当然知らなかった。さらに『人間失格』の作品の中でどう関連しているのかも。『人間失格』を開いたら確かに挿入されている。読み返してみる必要がありそうである。

さらに、松本清張さんが『火の路(みち)』の中で、自説の古代史の仮説を提示しているという。奈良の飛鳥の石造遺物が、ゾロアスター教(古代ペルシャで生まれた世界最古の炎を崇拝する拝火教)の拝火壇で、日本に渡来したペルシャ人が造ったのではないかという仮説である。推理小説なので殺人もでてくるようだ。興味がそそられる。松本清張さんの著作に『ペルセポリスから飛鳥へ』もある。

迎賓館赤坂離宮に行きたいと思いつつ実行していなかったので、和風別館「遊心亭」のガイド付きで申し込む。映像での紹介の場所があり先に予習をした。見どころいっぱいである。その中にイスラム風の「東の間」があり、意外なつながりに嬉しくなってしまった。世界のあらゆるものを取り入れていたのである。パンフレットにも写真が載っているが、残念ながら公開はされていない。

独特の美しさを持つイスラム風を味わいたい。モスク(イスラム教寺院)である東京ジャーミィ(トルコ文化センター)が公開しているのを知る。曜日によっては案内ガイドつきである。その時間に合わせる。自由にお茶を飲みつつ待つことができる。ガイドのかたの話しが、こちらは知識ゼロのため面白い。チューリップの原産はオランダではなくトルコであった。チューリップバブルというのがおこっていたのである。

礼拝の様子も見せてくれた。生のコーランを耳にする。途中でガイドされたかたも礼拝に参加された。ガイド終了後はゆっくり静かに内部の模様や色使いを楽しませてもらう。美しい。

というわけでトルコ映画へとなったのである。鑑賞したのは『海難1890』(日本・トルコ合作)・『少女へジャル』・『裸足の季節』の3本だけである。

もう一つ長期間、ハマっていた映画の分野がある。ダンス映画である。それもストリートダンスである。30数本観た。なかでも多いのがブレイクダンスである。身体表現は映像であってもやはり魅力的である。その他のダンス映画も観ていたのでダンス系は50本は観たと思う。それと並行しての鑑賞なので、トルコ映画は観れるリストは作ったのでこれからとなる。