『昭和浅草映画地図』

  • 大阪の松竹座(二代目市川齊入・三代目右團次襲名披露)から帰ると申し込んでおいた『昭和浅草映画地図』(中村実男著)が届いていた。もう夢中で読んでしまった。きっちり調べておられるので信頼でき、たくさんのことを教えてもらった。浅草が映されている映画が170本以上ある。ため息がでそうであるが、俄然元気になってしまう。行くぞ!

 

  • 映画の中で浅草のどこが映されているかも一本、一本について記してくださり、もう嬉しくなります。自分でもメモしたりしたのだが、次第に雰囲気がわかればいいやと正確に調べることをやめてしまったのである。浅草の変遷も詳しく書かれていて、たとえば昭和34年(1959年)に完成した「新世界ビル」の中にあった「劇場キャバレー」のホステスさんの人数は500名とある。そんな時代もあったのである。

 

  • 何本かの映画は内容も詳しく紹介されているが、映画『喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん』は読んでいても北林谷栄さんとミヤコ蝶々さんの様子を思い出して吹き出してしまう。今井正監督は先を見込んで撮られたようであるが、それを越える程、おふたりはしたたかである。老人はしたたかに生きるべしである。

 

  • 脚本を書かれた水木洋子さんは、「死を目前にみた老人が一日をたのしく遊べるところ、といえば浅草意外にない」といわれたそうで、右同じと同意させてもらう。浅草でしか会えないような多種多様の人々に会い、二人のお婆ぁちゃんは新たな社会体験をするのである。老人施設の面倒な人間関係それを浅草に照らしてみるとまだまだと元気になるのである。テレビに映った北林谷栄さんを見て「浅草のあの人」から、ミヤコ蝶々さんは元気をもらう。シニカルでコミカルで、脚本の力、役者さんの力、監督の力、そして浅草の力が融合した傑作である。その浅草を懇切丁寧に解説されているのがこの著書である。今度は根気よく確認しなければ。

 

  • この著書には出てきてない映画がある。『ガキ☆ロック』である。コミックの実写化である。浅草に住む人情に長けた若者が時には暴走しつつも人助けに浅草を走り回る4人である。コミックならではの登場人物のキャラを楽しむ映画でもある。歌舞伎の『助六』だって江戸のキャラ満載の芝居である。

 

  • ガキ☆ロック』は東武鉄道浅草駅が重要な場所となっている。そこにおり立った蝶々さんに主人公の源(上遠野太洸)は一目惚れである。源はストリップ劇場の息子で仕事を手伝っている。劇場の名前が、イギリス座。フランス座にぶつけたとおもわせる。蝶々さんはストリップの踊子さんで、兄を探しに大阪からでてきてイギリス座に世話になることにしたのである。その兄探しを手伝うのが源の仲間の、人力車の車夫のマコト(前田公輝)、フリーターのジミー(川村陽介)、坊主向きではないまっつん(中村僚志)である。

 

  • お兄さんは見つかるのであるが、気の弱いヤクザになっていた。皆は、お兄さんを大会社のサラリーマンにし、恋人役も頼み、兄と妹の再会を演出する。しかし、それも蝶々さんにばれてしまい、最後はお兄さんもヤクザから堅気になって、兄と妹は東武浅草駅から大阪に帰るのである。(2014年/原作・柳内大樹/監督・中前勇児/脚本・山本浩貴)

 

  • 東武浅草駅はかつては今のとうきょうスカイツリー駅が浅草駅で、その後隅田川を渡って延長し、浅草雷門駅とした。それが、浅草駅は、業平橋駅となり、浅草雷門駅は浅草駅となり、スカイツリーができ、業平橋駅はとうきょうスカイツリー駅となったわけである(詳しく知りたいかたは是非本で)。この東武浅草駅は電車が隅田川を渡って駅に入るのがなかなか面白いのである。

 

  • 東武伊勢崎線で浅草からとうきょうスカイツリー駅まで乗ったのだが、どうもピントこないので、また引き返した。やはり駅構内に入っていくほうが新鮮な気分になる。隅田川に架かる東武鉄橋は隅田川が見えるように設計されている。かつてはとうきょうスカイツリー駅(浅草駅)から皆歩いて浅草に遊びにきたのである。ただ、上野などからは都電はあったであろう。今度はとうきょうスカイツリー駅から歩く機会をつくろう。

 

  • 『ガキ☆ロック』の一人は人力車の車夫である。かつては、樋口一葉さんの『十三夜』のように、密かに想いあっていた男のほうが車夫に身を落としてといったような印象であるが、今の浅草では勢いのある格好いい姿を楽しませてくれていて浅草になくてはならない存在である。日本近代文学館(『浅草文芸、戻る場所』)では人力車・明治壱号が展示されていた。車輪は荷車の車輪職人、金属部分は鍛冶職人、座席は家具職人、塗装部は漆職人によって制作されていたとか。それぞれの専門の職人さんの合作だったわけである。

 

  • 車夫の印象といえば、美空ひばりさんの歌『車屋さん』で明るい光があたったような気がする。『小説 浅草案内』(半村良著)では、主人公が猿之助横丁を歩いている時、ご苦労さまという芸者に見送られて梶棒をあげる俥屋のシルエットをみて、「たった一台だけだが、この界隈には俥屋がまだ残っていて、それが走っても全然違和感のない町並みなのだ。」と書いている。そして「生き残った最後の何台かは、木曽の妻籠あたりへ移って、観光用の商売をしているとか」とくわえている。実に色々な顔をみせてくれる浅草である。

 

  • 昭和浅草映画地図』には参考資料文献も記載されているので、興味ひかれるものは目を通したいものである。図書館にリクエストした本も二冊ほど届いたそうなので秋の夜長映画と本で楽しめそうである。そして思い立った時には浅草へ。夏に友人が浅草神社の夏詣での特別御朱印を貰いに行ったのだそうである。最終日で凄い人で整理券の番号からすると夕方になっても無理そうで、整理番号券があれば違う日でもよいということで後日再び出かけたらしい。

 

  • 美空ひばりさんの映画『お嬢さん社長』で、お参りする神社があって、映画の流れからすると浅草神社のようなのだが、随分心もとないたたずまいなので違うのかなとおもったところ、『昭和浅草映画地図』にやはり浅草神社と書かれてあった。そんな具合に曖昧さを払拭してくれる有難い本でもあるわけである。

 

『浅草文芸、戻る場所』(日本近代文学館)

  • 京王井の頭線・駒場東大前駅西口改札から歩いて7分の「日本近代文学館」で『浅草文芸、戻る場所』展をやっている。関東大震災のころは、写真というものが庶民に広く普及していたわけではないので、十二階の凌雲閣などの様子も銅板画とか錦絵などで、こういう貴重な絵をしっかり保管しておられる方がいての展示である。2時からギャラリートークもありそのあたりのことの解説があった。

 

  • 凌雲閣は関東大震災で二つに折れて倒れ、その後爆破されて消滅してしまうが、今年の2月にその建築跡が出て来てきちんとその位置が確認されたそうである。そのときに分けてもらった赤レンガの破片が展示されていた。凌雲閣が重要な場面となっている文学作品の紹介もあった。爆破のときのことは、川端康成さんの『浅草紅団』にもでてくるし、江戸川乱歩さんの『押絵と旅する』にも出てくるらしい。乱歩さんが使いたい建物である。青空文庫にもあるらしいがまだ読んでいない。

 

  • 凌雲閣の映画といえば、『緋牡丹博徒・お竜参上』である。最後の闘争の場所が凌雲閣なのである。お竜さんが、鉄の門を開けるのであるが、そこからすぐに凌雲閣の建物がありこんなに狭いのだろうかとおもったが、絵からするとかなり正確である。架空の東京座という劇場の利権争いがあるが、この東京座の前に実際にあった電気館の建物が映り、この六区のセットには相当力を入れていたのがわかる。

 

  • 監督は加藤泰監督で脚本も鈴木則文さんとふたりで書いているので、意識的に凌雲閣を選んだのであろう。お竜さんが世話になるのが鉄砲久一家で、色々調べられて、六区を選んだ以上その雰囲気を作り出そうと頑張られている。映画人の心意気である。お竜さんが馬車で走る鉄で覆われた橋はかつての吾妻橋のように思える。今戸橋の雪の中をころがるミカン。この映画の事は書いているかもしれない。

 

  • 文学のほうにもどると、ひょうたん池に噴水があったが、もう一つ浅草寺の本堂の後ろにも噴水があってその真ん中に立っていたのが、高村光雲作の龍神像で、今はお参り前に清める手水舎に立っているのだそうで、よく見ていないので今度いったときは見つめることにする。その噴水で子供の身体を洗ってやる親子のことを書いているのが、堀辰雄さんの『噴水のほとりで』である。堀辰雄さんは橋を渡ったすぐの向島の育ちであるから浅草育ちと言ってよいだろう。

 

  • 浅草はレビュー、カジノフォーリー、オペレッタ、浪花節、女剣劇、喜劇などのエノケン、ロッパ、シミキンなど多くの芸人さんの名前が登場する。シミキンこと清水金一さんなどの「シミキンの笑う権三と助十」の宣伝ポスターもある。伴淳さんもロック座で一座を構え、喜劇とレビューをやっていたが、レビューのほうが人気となりそれがストリップとなり、伴さんの退団でストリップ劇場になったとあった。こういうポスターやチラシなどを収集しているかたがいてその方たちからお借りしての展示となったようである。

 

  • 同時開催として『モダニズムと浅草』として、川端康成さんを中心にした展示室もある。川端さんは映画『狂った一頁』(1926年)で映画製作にも参加している。小説『伊豆の踊子』の発表が1926年で、小説『浅草紅団』が1929年に発表され浅草が評判となり、1930年には映画化されている。そして『伊豆の踊子』が1933年に映画化されている。大正時代の経験が小説となり、そして、映画化さる。川端康成さんの作家として、あるいは作品としての知名度は芸人さんと芸人さんのいた場所と映画とが結びついて始まっているわけである。

 

  • 大正モダニズムについては、日比谷図書文化館で特別展を『大正モダーンズ 大正イマジュリィと東京モダンデザイン』も7月1日まで開催していたが、そこで観たいと思っていた浅草ひょうたん池の夜の絵葉書があった。

 

  • 高見順さんの『如何なる星の下に』で、主人公と嶺美佐子という女性がひょうたん池の橋の上から池に映るネオンをみて「綺麗だ」という場面がある。展示物に東京の地図に当時の写真の絵葉書をそえて名所を紹介していたものがあった。名所用でもあるから、夜のひょうたん池はネオンの灯が映って美しかった。けばけばした歓楽街とすたれた歓楽街の両極端のイメージがついて回りちょっと気の毒な六区なので、「綺麗」の言葉にちょっと気恥ずかしがっている六区に思えた。

 

  • 東京モダーンズ』では、大正時代の印刷術の発達と出版文化の興隆時代であることに触れている。なるほどと納得する。雑誌の表紙や挿絵、そして、浅草でのカジノフォーリー、レビュウー、演劇、音楽などのポスター、パンフレット、プログラムなどにどんどんポップな絵やデザインが使われるのである。それが『浅草文芸、戻る場所』の六区のポスターなどにもあらわれている。

 

  • 女性や子供に人気があったのが竹久夢二さんである。その他、杉浦非水さんなどが図案集などをだし、そこから商店などが宣伝用に図柄を使っているのである。「新時代のジャポニズム」として小村雪岱さんや橋口五葉さん、鏑木清方さんなどの絵も新しい浮世絵として見直される。

 

  • 次に出てくるのが写真ということになる。浅草の芸人さんたちも写真で紹介され雑誌などにも写真で登場ということになる。劇場も実演が成功すると芸人さんは浅草六区から出て行き映画のほうが主となっていく。この辺の変遷は沢山あった劇場のそれぞれの変遷でもあり複雑で手に負えない分野である。浅草を舞台とした小説も書かれた年代によって浅草の顔が違う。

 

  • 高見順さんの『如何なる星の下に』は、1939年(昭和14年)に連載され、その時代の浅草なのであるが、主人公はその一年前に浅草の本願寺うらの田島町に部屋を借りるのである。しかし主人公は六区や浅草寺の境内や仲見世などにはいかないのである。その反対側にある「風流お好み焼 惚太郎」が軸になっていて、そこで出会う芸人さんなどとのことで回転していくのである。

 

  • 活躍している芸人さんたちではないのでその人達からきく六区の様子はかなり厳しい状態のようである。浅草国際劇場の松竹歌劇団華やかなりし頃で、そのお客は脇目もふらずに田原町の停車場か地下鉄駅と劇場を真っ直ぐに往復すると書かれてある。そういう時代である。

 

  • 「風流お好み焼き 惚太郎」は現在の「染太郎」さんで、「高見順の観た浅草」ということで、日本近代文学館では染太郎二代目ご主人の対談があったようである。『如何なる星の下に』で主人公は、浅草レビュー発祥の水族館も廃屋のままで、ただ食い物屋は凄いと言っている。確かに無くなってしまった飲食店もあるがいまだにしっかり残っているところもあり、主人公の考察は当っていることになる。また半村良さんの『小説 浅草物語』は時代も違い、浅草の別の顔がみえるが、長くなるのでこのへんで・・・。

 

  • 『浅草文芸、戻る場所』の主催は「浅草文芸ハンドブックの会」である。

 

『鉄砲喜久一代記』の拡散(5)

  • 鉄砲喜久一代記』について筆者の油田憲一さんはあとがきで書かれている。「三十年の長期にわたり、文献を追い、現場を訪ね、彼と面識を持つ多くの人に会い、できるかぎり正確を期する努力をしてきた。筆者自身は鉄砲喜久と何回も会っているが、幼児であったために彼の風貌と感触以外に知り得たものは少ない。したがってほんとんど収集資料に頼った。」そうなのである。史的事実、産業界の動き、興行界、政治家の私的動向など、調べていなければ書けない内容が満載である。いかに喜久次郎の行動範囲がひろかったかも実証されている。

 

  • 喜久次郎の生家は、喜久次郎が養子になったので、生家のほうも養子を迎え山田屋の名前で薬局業を営み、あのガマの油を復活販売していたのである。浅草の奥山でも口上を述べて売っていたし、大道芸としても演じられている。復活販売の時、口上と効能書きの原稿を書いたのが、少年時代の筆者であった。残念ながら山田屋は閉めてしまったようである。

 

  • 宝井其角の歌が、喜久次郎がお辰と出会ったときの空模様を表すものとしてでてくる。「 夕立や 田をみめぐりの神ならば めぐり会いにし濡れつばめ 結べえにしの糸柳  川向こうの宝井其角の夕立塚で、雨乞いをしていた人達の御利益があったためか、日照りつづきの炎天が、その夕刻におよんで、にわかにかき曇って、恵みの雨が期待されるようになった夏の宵だった。」こういう風に、お堅い文章だけではない惹きつける表現もあってぐいぐいひぱってくれた。八月の歌舞伎座演目に『雨乞其角』とあり、ほほう!とにんまりである。記憶にない演目で愉しみである。

 

  • 木馬館」は最初「昆虫館」であった。経営が思わしくなく、二階を昆虫館に下を木馬を回らせ「木馬館」としたのである。この木馬、曾我廼家五九郎が喜久次郎のところにもってきた話で、さっそく根岸に購入させ、孫の吉之助に受け持たせろと言ってそうなったのである。ジンタが流れ、ガッチャンチャン、ガッチャンチャンと三段階に揺れながら回ったのだそうだ。「昆虫館」は、歌舞伎『東海道中膝栗毛』の 座元釜桐座衛門(中車)は芝居よりこっちのほうがいいよと言いそうである。こちらも八月歌舞伎座で、再びお伊勢参りにいくらしい。猿之助さんは、八月は歌舞伎座と新橋演舞場『NARUTO ナルト』との掛け持ちである。移動には人力車がいいかも。

 

  • さて、『鉄砲喜久一代記』からの沢山の拡散があったが、映画『乙女ごころ三人姉妹』 も浅草が舞台の映画で、成瀬己喜男監督で原作が川端康成さんである。脚本は成瀬監督でこんなにも脚色するのだと驚いてしまうが、原作の『浅草の姉妹』は、浅草で頑張って生きる三姉妹には変わりはない。花やしきのタワー飛行機に次女お染と三女千枝子が、別々に前後して乗って、その上から、喫茶店の二階の窓が見え、中に男に囲まれた長女おれんをみつけるのである。この偶然の場所での三姉妹の出会いが劇的である。二人は、他の門付けをしている娘とくんでおれんを助ける。おれんは、東武電車で日光に帰る小杉を見送るのである。その後、これから旅興行に出る千枝子をおれんとお染が上野まで送っていくというところで終わる。さて川端康成さんの浅草ものをこれから読むことにする。

 

  • 其角の雨乞いの歌碑は隅田川を渡った向島の三囲神社の中にある。その近くに「すみだ郷土資料館」がある。かつてここで堀辰雄さんの展示に出会って驚いたことがある。堀辰雄さんといえば『風立ちぬ』など、軽井沢の自然豊かな中での清楚な乙女との恋である。下町のイメージがなかったのである。牛嶋神社の近くに堀辰雄旧居跡もある。彼は、養子となっていて家族関係は良好であった。関東大震災で、隅田川に飛び込み、肋膜炎となる。その後、肺結核となるが、この時に肉体的にダメージを受けたのではなかろうか。宮崎駿監督がアニメ映画『風立ちぬ』には、墨田川の川蒸気船が登場し、川花戸船着場がでてくるらしい。というわけで、このアニメもそろそろ観ようと思うし、「すみだ郷土資料館」も再度訪れる機会をつくりたい。

 

『鉄砲喜久一代記』から映画『桃中軒雲右衛門』『殺陣師段平』『人生とんぼ返り』(4)

  • 喜久次郎と交流のあった、桃中軒雲右衛門を主人公にした映画『桃中軒雲右衛門』と澤田正二郎の新国劇で殺陣師をしていた市川段平を主人公にした映画『殺陣師段平』である。

 

  • 桃中軒雲右衛門』(1936年)は、成瀬己喜男監督の芸道物といえる。原作が真山青果で、澤田正二郎が上演したのと同じ原作のようだ。静岡の沼津に桃中軒というお弁当屋さんがあるらしいが、それとは関係がない。『鉄砲喜久一代記』によると雲右衛門は、放牛舎桃林という芸人の名がすきで、牛を桃林の野に放つ風景が結城の故郷の風景を思い出させ、桃中軒牛右衛門にしようとしたが、周囲がおかしいというので雲にしたのだそうである。映画は、東京の本郷座での公演に向かう汽車の中からはじまる。時々、かつて東京から下る雲右衛門と女房・お妻との映像とをだぶらせる。

 

  • この映画は、雲右衛門とお妻との他人にはわからない心の葛藤を描いている。はじめは桃中軒雲右衛門がいかに凄い浪曲師であったかを見せてくれるような気がしてみていると何か予想と違うのである。雲右衛門が途中下車して行方がわからなくなる。人気が出たと言っても、東京へもどるのが怖いのであろうかと憶測をする人もいる。雲右衛門がおじいさんと呼ぶ人と苦労した昔を懐かしがったりし、自分の芸に対する自信はあるが人気が出ての人との関係がわずらわしくもなっている。このおじいさんは、『鉄砲喜久一代記』で雲右衛門の若い頃について語っている春日井文之助がモデルのようである。雲右衛門はこの人のもとで修業したことがある。文之助は引退してから松月と名乗り、お浜(映画ではお妻)の死んだ後の三味線を手伝っている。

 

  • 兄弟子の女房だったお妻の三味線の腕は確かなものであった。しかしお妻は近頃、自分の腕が落ちているのに何も言わない雲右衛門にいらだちを感じている。雲右衛門もそれは感じているが、前のように共に芸に向かう気持ちが起らない。さらに雲右衛門は芸者の千鳥を身請けする。お妻は自分は女として可愛がられたことがない。自分は、雲右衛門の芸のために食われた女であると言い放つ。お妻は肺を病み入院するが、雲右衛門は途中まで見舞いにいくが引き返してしまう。そして、人を通して芸に貫いた女として死んでくれと伝言する。嫉妬に狂っていたお浜もその言葉に納得して安らかな気持ちで亡くなるのである。言ってみれば、そこには外からではわからない芸で通じ合った絆があったのであろうが雲右衛門の身勝手ともとれる。

 

  • 人気とお金によって、自分と芸との関係にどう向き合えばよいのか手こずっている雲右衛門の姿もみえる。今の自分に値する修業をしたことを松月と懐かしむあたりには、おれはあそこで土台は築いたのだから大丈夫だと思う自分を見出して確認しているようにもおもえる。千鳥といると明るい気持ちになれるのに、お妻とだと、どうしても芸が介在し、さらにかつて東京を後にした二人の関係が簡単ではない感情をおこしてしまうようだ。お妻が亡くなった病室で、聞いてくれとお妻だけに素直になって一節語る雲右衛門であった。

 

  • 月形龍之介さんの明るい表情と暗い表情の差に雲右衛門の一口では言えない心のうちが見える。お妻の細川ちか子さんが、単純ではない感情を独特の雰囲気で演じる。三味線の手も実際に弾かれたのかどうか分からないが、音に合っていてかなり練習されたのであろう。頂点をきわめていく最後の山場といった映画で、単純ではなく一ひねり加えてある。原作で、真山青果さんと成瀬己喜男監督の捉え方をさぐりたくなる。
  • 脚本・成瀬己喜男/出演・千葉早智子(千鳥)、藤原釜足(松月)、伊藤薫(息子泉太郎)、三島雅夫

 

  • 映画『殺陣師段平』(1950年)。原作・長谷川幸延/脚本・黒澤明/監督・マキノ雅弘。長谷川幸延さんは、著作は読んでいないが大阪の芸人などの様子を書かれていて、映画では、成瀬己喜男監督での芸道物の『芝居道』があり、マキノ雅弘監督では、『殺陣師段平』のリメイク版『人生とんぼ返り』と『色ごと師春団治』がある。映画『殺陣師段平』の脚本に関しては、かつて観たときは、それほど感じなかったが、『鉄砲喜久一代記』を読んで観ると、劇団・新国劇の歴史的流れ、澤田正二郎の演劇に対する考え方、そこに、殺陣だけが生きがいの段平を入れるという構成の丁寧さがわかった。

 

  • 大正10年大阪。頭取の段平には殺陣師としての新しい仕事がなかなかこない。『国定忠治』の新たなる台本ができ、段平はこれは、澤田が自分に新しい殺陣を考えろと言ってくれていると思い込む。段平の殺陣は出来上がっていたが、澤田が考えていたのは歌舞伎のような殺陣ではなく、写実の真剣の殺陣で、段平の出る幕ではなく稽古はすぐ終わってしまった。段平は澤田に食い下がる。リアリズムとは何か写実とは何か。そんなおり段平は喧嘩をして、写実の殺陣を感じとるのである。

 

  • 新国劇は大阪で剣劇として人気を博し、東京で再び公演できることとなる。段平も行くはずであったが、来なくていいとの連絡である。東京での公演が上手く行かず、座員の運賃などの経費がでなくなっていた。突然来いとの連絡が入る。やっと東京で当たり始めたのである。喜ぶ段平。結婚して七年の女房・お春は髪結いの仕事をしつつ段平が連れて来た素性のわからぬ娘・おきくともども世話をしていた。だまされ続けて七年と憎まれ口をいうお春も、段平から殺陣をとったら何も残らないことを百も承知なので嬉し涙をそっとふく。

 

  • 新国劇の人気は上がるが、段平はむくれている。澤田にどうして立ち回りをやらないのかとせまる。『父帰る』『桃中軒雲右衛門』『白野弁十郎』などが演目に並んでいる。澤田は、剣劇だけが新国劇ではないという考えがあった。立ち回りのための芝居はしないという。段平はお春の危篤の知らせにも帰ろうとせず、ついに他の芝居の誘いに乗り、新国劇を去ってしまう。お春が亡くなって5年後、段平は中風にかかって身体が不自由になっている。そんな時、昔の仲間が訪ねて来て、南座へ新国劇の『国定忠治』を観に連れてってもらう。そして、30円で中風になった忠治の最後の殺陣を買ってくれるように頼んでもらう。

 

  • 澤田も、自分の考えで段平の想いを切り捨てたことに後悔があり、30円で買うという。段平の最後の殺陣への挑戦が始まる。しかし身体はすでに思うようには動いてくれない。段平は新国劇のお金、80円を持ったまま飛び出し、お春の葬式代などで使い、おきくのくれるお金をためて50円になっており、それに30円を加え返してくれという。澤田たちは段平の殺陣を待っていた。娘のおきくが駆けつけ自分が教えるという。澤田はお客に少し時間をくれるように頼む。おきくが教えた殺陣は、リアリズムそのもで、蒲団から起き上がることもできない、刀を鞘から出すこともできない忠治であった。捕手は、恐ろしがって御用と取り巻くが、時がたち忠治の起きあがれない状態を知った役人は静かに観念するよう声をかけて幕となる。

 

  • 段平は、澤田先生、お客さんが納得するかどうかは知りませんが、リアリズムの中風の忠治であればこういう殺陣となりますよと自分の体で真実を教えたのである。おきくは自分の父が誰だかわからない。澤田は「おきくさん、あんたは段平が父親であってくれたら嬉しいんだろう。段平はお前さんの父親だよ。お前さんだから父親段平の殺陣を教えられたんだよ。」というあたりに、リアリズムに徹底さを求めた澤田正二郎のそれだけではないという思いもかぶさってみえる。

 

  • 段平の月形龍之介さんは、殺陣が命でそれしかない男そのものを貫き、澤田正二郎の市川右太衛門さんは、真実の演劇を求め取り込もうとするインテリさを貫禄をもって演じている。山田五十鈴さんは、こんな女房ならだれでも望むであろうと思う女房・お春である。娘のおきくの月丘千秋さんは、苦労は多かったであろうが、この夫婦のそばにいて幸せであった。段平の最後のことば。「明日、お盆やが。お春に南座に連れて行ってもらい、澤田が勝つか、段平が勝つか見届けて地獄にいくんや。」

 

  • 鉄砲喜久一代』によると、澤田正二郎の雲右衛門は、本物と見まがうほどの名演技であったと語り伝えられたとある。段平を置き去りにしてしまうくらい新しさを取り入れての演劇道があったのであろう。それにしても澤正は36歳という若すぎる死であった。こうした大衆を相手とした芸というものは、伝統芸のようには残らないが、形を変えてどこかにつながって拡散されていっていると思う。もしかすると、黒澤明監督だって、この脚本を書くことで、その後の時代劇映画の立ち回りになんらかの影響を受けたかもしれないではないか。

 

  • 澤正の『桃中軒雲右衛門』を無性に観たいと思わせられ、さらに映画との比較もあり真山青果さんの『桃中軒雲右衛門』を読んだ。亡きお妻に一節語るところはなく、雲右衛門が死の床についているとこまで描かれている。泉太郎が退学となって、自分が二代目となると告げると二代目はいらないと告げる。「真の芸は一代で滅ぶべきものだ。一代で滅び、後に継ぐ者のないところに、その芸人の誇りがあるのだ。おれは何人(なんびと)の芸も継いではいない。したがって後に残す二代目はないはずだ。」映画よりも、真山青果さんの脚本は、雲右衛門に自分と芸の関係を語らせている。驚いたことに、青山青果さんは、澤田正二郎をモデルとして、これを雲右衛門の中にほうりこんだということである。それぞれの芸のうえで結ばれる二人だったのである。

 

  • 『殺陣師段平』をマキノ雅弘監督が自ら脚本もかねリメイクしたのが『人生とんぼ返り』(1955年)である。段平が森繁久彌さんで、澤正は河津清三郎さんである。リメイクの間に『次郎長三国志』9作品を撮っており、森の石松で才能開花した森繁さんの起用となったのではなかろうか。河津清三郎さんは『次郎長三国志』では大政である。山田さんのお春はマキノ監督の理想の女房であろうから当然そのままである。澤正のそばにいる倉橋仙太郎が水島道太郎さんで『次郎長三国志』の8部では小政で森の石松に自分の女の名前を教えるのに藤の花をさっとひとふりで斬って石松に見せ「お藤ってえんだ。」というところは名場面として語りつがれている。

 

  • 筋は変わらないが『人生とんぼ返り』のほうが、よく整理されていて段平と澤正の芝居に対する関係や新国劇の歴史がわかりやすくなっている。俳優のアップも多くなり、南座など劇場の撮り方や京都の風景も取り込んで少し華やかさもある。お春が死んで一人段平が居酒屋で、俺は河原の枯れすすきの「船頭小唄」を歌う場面があるが、『次郎長三国志』の森繁さんの歌う場面から意識的に段平に唄わせるとしたらと、導入を考えたように思える。おきくは左幸子さんで、独特のリアルさが加わる。最後は、澤正が南座の舞台から死んだ段平の名前を呼ぶと、段平が現れとんぼを切る。そしてお春と共に消えていく。舞台から新国劇の団員が頭を下げて終わりとなる。『殺陣師段平』を基本に『次郎長三国志』を通過しての『人生とんぼ返り』と思わせ、新たに役者を生かして臨まれた作品となっている。

 

『鉄砲喜久一代記』(3)

  • 喜久次郎と関係したその他の人たちについて。相撲の常陸山は若いころから喜久次郎の吉原の家にきていた。その常陸山が突然伊勢松坂の巡業中にいなくなってしまった。東京相撲にもどるのはそれから三年後である。そのころは名古屋相撲とか京都相撲とかにわかれていたようである。常陸山は名古屋相撲で腕をあげ大阪相撲にいた。東京相撲も詫び状を入れてもどることをすすめる。こばむ常陸山。彼の気持ちを変えさせたのは喜久次郎であった。喜久次郎は鉄砲を封印して言葉を玉にして相手を打つ修業をしてきたような説得力である。常陸山は頭を下げ、幕下から出直す。常陸山は親に反対されて入った相撲界だった。それから三年後大関になった時、喜久次郎の計らいで親にも晴れ姿をみてもらい勘当をとかれる。

 

  • もう一人若者が出入りしていた。立原卓蔵で、その後花井家の養子となる花井卓蔵ある。吉原で喧嘩していたのを喜久次郎が助けたのである。卓蔵は、代言人(弁護士)の試験に受かっていた。腕力じゃなく説得力で相手を負かすのが本筋だろうと喜久次郎に言われ、ごもっともですとばかりに納得する。彼はその後、金玉均事件、足尾銅山の鉱毒事件、伊庭想太郎事件、日比谷焼打ち事件など世の中の人々が注目する事件を弁舌爽やかに闘う。日比谷焼打ち事件では、この国民大会に喜久次郎も参加していて、彼の知り合いが多く検挙され花井卓蔵に弁護を頼むことになる。芝居などにでてくる代言人は、法をかざしてお金の取り立てをする人なので、こういう弁護士もでてきていたのかと考えをあらたにする。

 

  • 残念なことに頂点を極めながら転げ落ちるのが桃中軒雲右衛門である。雲右衛門は兄弟子の三味線弾きの女房と結ばれ西に落ちていたが、九州で大人気となっていた。雲右衛門の東京進出を喜久次郎は頼まれる。喜久次郎は別当の時、小繁時代の雲右衛門の浪花節を聴いており会っていた。事情を知り、引き受けた喜久次郎は自分の本郷座でやらせた。さらに「でろれん」といわれていた浪花節を歌舞伎座で興行させたのである。大成功であった。しかし喜久次郎には違和感があった。成功とともに頭も上がるばかりである。ついに喜久次郎は雲右衛門と手を切る。喜久次郎がいないとなるとレコード『義士銘々伝』著作権の問題がぶりかえされ、そのころから雲右衛門は酒を浴び、胸の病気で亡くなってしまう。(大正5年・43歳)

 

  • 喜久次郎と澤田正二郎が会ったのは大正5年である。澤田は島村抱月の劇団・芸術座に参加していた。新劇による芸術至上主義を掲げていた劇団・芸術座が浅草の常盤座に登場した。浅草の大衆のための行楽街への進出は、新劇の理念からすると賛否両論があった。島村抱月と松井須磨子の結びつきは、抱月と師・坪内逍遥との仲をさいた。いろいろあった劇団・芸術座も『復活』での挿入歌『カチューシャの唄』、『その前夜』の挿入歌『ゴンドラの唄』の流行で、松井須磨子は大女優となっていた。その相手役が澤田正二郎であったが、澤田は須磨子のわがままに嫌気がさし、芸術座を脱退していたが、抱月に呼び戻されての浅草であった。澤田は浅草の体験でその後庶民のための芸術を探すことになる。

 

  • 喜久次郎は澤田に真剣の切り合いについて自分の子供時代に見た天狗党などの死闘から話す。この時耳にした話が、後の澤田の剣劇の殺陣の探求へとつながる。抱月は大衆にうけたもうけで芸術劇をめざすという作戦をつきすすめようとしたが、澤田は疑問を感じ、須磨子の言動にも嫌気がさし、再度芸術座を脱退し新国劇を結成する。抱月の急死で須磨子も後をおうことになる。新富座での新国劇の旗揚げは不入りで関西にて、澤田の殺陣の探求はうけいれられ東京での明治座での公演となる。最初は不入りであったが『父帰る』『国定忠治』で盛り返し『大菩薩峠』で大当たりとなる。

 

  • 島村抱月とのこともあり、澤田は浅草進出をためらっていたが、喜久次郎のすすめもあり、松竹のもとをはなれ、喜久次郎の公園劇場での浅草乗り込みとなる。新しい大衆演劇をめざし『国定忠治』『机竜之介』『月形半平太』『清水次郎長』『沓掛時次郎』などの剣劇が庶民の大喝采となる。剣劇だけでなく澤田は、真山青果作の『桃中軒雲右衛門』なども上演している。しかし、大事件も起こった。大正12年8月29日、浅草象潟(さきかた)警察署員による新国劇座員の40数名の連行事件である。賭博の現行犯の名目で連行され、拷問もおこなわれた。澤田も威儀を正して出頭したが、鉄拳と靴の襲撃をうけた。喜久次郎も警察庁へ出頭し収拾を依頼。9月1日には、あの関東大震災である。座員は警視庁の地下から、非常事態における責付放免として釈放された。どうも他の興行師からの妬みがあったようである。

 

  • 喜久次郎の言葉が、あの事件がなければ、公園劇場の中は満員で、そのお客を殺さずにすんだのだから神に感謝しなくてはならないであった。そして公園劇場の焼け跡で天幕をはり、東京として復興第一番ともいえる公演をしたのである。根岸浜吉の亡きあと根岸興行は、金竜館でオペラを、常盤座で新派あるいは旧派の芝居を、東京クラブでは、映画を上映していたが、三館共通券という方式もこころみている。三館を廊下で結び、映画入場料が七銭だったので、十銭にしたのである。安すぎとおもうが、一日のうち三館全部見られる人は数少なく、二館みるとしても十銭は安いと大当たりだったらしい。これは経験してみたかったです。映画派もちらっとオペラをみれて、次はオペラを主にと思うお客もいたであろう。

 

  • 昭和3年に喜久次郎(70歳)は息をひきとるが、お葬式で棺をかついだのが両国の春日野(栃木山)部屋の力士たちであり、その先導をしたのが澤田正二郎であった。友人総代として花井卓蔵、横山大観の名もあった。澤田正二郎は翌4年になくなっている。36歳という若さであった。喜久次郎は鉄砲を封印したあとも鉄砲喜久の名前で呼ばれ、鉄砲喜久がいうならと難しいこともおさまったといわれる。

 

『鉄砲喜久一代記』と「江戸東京博物館」(2)

 

  • 別当の喜久次郎のほうは、泣く子も黙る小金井金次郎一家を相手にするときがきた。小金井一家のものが馬車の伝法(ただ乗り)をしたのである。黙っているような喜久次郎ではない。相手をやりこめ、後日払うという約束をとりつける。相手から金を渡したいと連絡がくる。喜久次郎は一人で乗り込んだ。その時懐から出したのが鉄砲だった。これは、郵便馬車には重要な郵便や現金が積まれていて襲われたことがあり、それから駅逓局は別当のおもだったものに鉄砲を持たせていたのである。このときから「鉄砲喜久」の名前がついた。しかし、いざこざはおさまらず喜久次郎は警察のやっかいになる。

 

  • 警部から大福餅を出され、このままではお前の一生はまっとうできない。八王子から姿を消せ、と言われる。その人は、子供の頃、父の使いでの山道で倒れていた天狗党のひとであった。喜久次郎は、持っていた大福餅と弁当を与えて助けたのである。喜久次郎の実家は菓子製造をしていた。八王子に来てすぐ警察につかまり釈放してくれたのもこの人であった。

 

  • 喜久次郎は新宿で飲み屋を始める。ところが、客は別当仲間で、小金井一家や他の一家も客として相手をしなくてはならない。そんなおり不審火で店は焼け、隣家も焼けてしまい債務の問題で裁判所に呼び出された。その裁判長が、喜久次郎の親戚で、喜久次郎は今のやりかたでは滅亡しかない。自分で火をつけたのと同じだ。鉄砲を封印し、どん底からやり直せとさとされる。預けられたのが吉原の稲弁楼で、ここで技夫(牛太郎)として働くことになる。このとき喜久次郎、31歳。

 

  • 牛太郎とは、番頭のことで、立派な牛台の上にすわって、客の呼び込み、楼内すべての監督をしていた。外からみるとただの呼び込みにみえるが、「毎夜登楼した客の人相、推定年齢、顔立ちの特徴、服装など」を記録して警察に届ける仕事もしていた。短時間のやりとりでそれだけを把握していたのである。

 

  • ここで喜久次郎は、亡くなった初恋の人お辰に会ってしまう。名前もお辰であった。この人は、辰巳楼の女将であった。主人に早世され、実質的な後援者がすでにいた。後援者というのが、台屋であった。台屋というのは、客の食する物を直接座敷へ届ける仕出し屋で、この台屋者が郭で腕力を振るう客に腕力をもって応酬できる荒っぽい男たちであった。それでも喜久次郎はあきらめられなかった。そんな時、根岸浜吉と再会する。10年ぶりである。

 

  • 浜吉は浅草六区建設の夢に向かってつきすすんでいた。浜吉は喜久次郎の願いを引き受けてくれ、喜久次郎とお辰は結婚できたのである。ただし、辰巳楼はたたみ、新たに稲弁の二字をもらい辰稲弁とし、喜久次郎は入り婿となった。入り婿の条件として、吉原はねぐらで仕事は浜吉達と外でするとした。喜久次郎は、この商売をやめたかったが、その後の話し合いでもお辰にはお辰の考えがあり曲げなかった。結婚式には、守田勘弥が黒の礼服で、左團次は舞台の富樫の衣裳に長袴だけとりかえて駆けつけたので、吉原はてんやわんやである。ただの牛太郎であった鉄砲喜久はたちまち大物になってしまった。

 

  • この頃、勘弥は高利貸しとのやり取りで大変だったが、落ち目の新富座に左團次は残っていた。『上野戦争』と『勧進帳』で大入りとなり、木挽町にできた歌舞伎座のほうがが苦戦。勘弥は歌舞伎座に興行主任としてむかえられ、歌舞伎座で再び團・菊・左の舞台が実現するのである。勘弥は明治30年に亡くなり、新富座は時を経て松竹の経営となるが関東大震災で崩壊し再建はされなかった。関東大震災での浅草寺の修復もおこなわれる。その時観音堂の屋根の中心にあった鬼瓦取り外されてしまう。その鬼瓦が「江戸東京博物館」の一階に置かれている。

 

 

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  • 崩壊したものには十二階の凌雲閣がある。浅草公園のひょうたん池からその姿を眺める絵があるが、「江戸東京博物館」の浅草ゾーンにその模型がある。ゆっくり眺めにいく。前に来た時より見た事のない模型の凌雲閣が身近になってみえる。

 

 

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  • 浅草公園は、明治6年に上野寛永寺と芝増上寺が公園になったのと時を同じくしている。浅草は低地で浅草田んぼとよばれていた。六つに分けられ、浅草の行楽街の全盛期には、一区が浅草寺、二区が仲見世、三区が浅草寺伝法院、四区が木馬館通り、五区が花やしき、六区が映画館街である。根岸浜吉の六区建設の夢は四区、五区、六区が含まれていた。風紀問題、喧騒など様々な問題があったが、六区浅草公園内で道化踊りの興行許可がやっとおりる。続いて玉乗り、のぞき眼鏡、剣舞、幻燈、パノラマなどが人々をたのしませることになる。

 

 

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  • 「江戸東京博物館」には、その後の、六区の電気館や映画館街のジオラマや地図などがある。ひょうたん池は今のウインズ浅草(JRA場外馬券売場)のところにあった。ウインズ浅草の前にあった映画館がなくなり、今は建物がないので明るく、その通りからひさご通り、花やしき通りが行きやすくなり、ここはど~この細道じゃと散策しやすくなった。浅草には高い建物は似合わない。今のうちに楽しんでおくことにする。博物館には、江戸時代の実寸大の日本橋があるが、今回は意外と短いのに気がつく。両国橋と広小路の見世物小屋などのジオラマもあり、中村座もある。四谷怪談の小さな舞台の仕掛けがもあり、短時間で提灯ぬけ、仏壇返しなど係りの人が説明してくれる。

 

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  • 吉原には三きくがそろった。大阪楼の松本菊次郎。中村楼の菊次郎。辰稲弁の山田喜久次郎である。明治29年三陸沿岸で地震による大津波がおこる。吉原には東北出身者多い。三きくは支援物資をもって災害地に飛んだ。想像を超えていた。喜久次郎は、顧問をしていた本郷の春木座(のちの本郷座)で天災の大変さを伝える『三陸大海嘯(つなみ)』の芝居を沢村吶子(とつし)を中心に上演し、救済をうったえ大入りで、慈善興行の収益金を東北三県に送った。春木座は本郷座になってから新派の人気もあり一流の劇場の地位をえる。

 

  • 根岸浜吉は喜久次郎より32歳年上であったが85歳(明治45年)でなくなり長命であった。二人の間にお金の貸し借りはなく、喜久次郎は浜吉に仕えた。根岸興行内にあって喜久次郎は浜吉の代理を勤められる実力がありながら、相談役に徹し、出資者としての立場にはたたなかった。浜吉は浅草公園に常盤座をたて、金竜館では映画で儲け、赤坂に中劇場の演技座をつくった。演技座は歌舞伎役者の稽古場的役割を果たし、新派の井伊蓉峰はここで育った。浜吉に実子がないため親戚の小島丑治を娘と結婚させ養子とした。この後実質的浅草六区の繁栄は、養子の小島丑治とそれを支えた喜久次郎の力による。

 

『鉄砲喜久一代記』と「江戸東京博物館」(1)

  • 映画『浅草・筑波の喜久次郎 浅草六区を創った筑波人』から、喜久次郎さんを知り、不完全燃焼から『鉄砲喜久一代記』の本に出会い、ドカーンと壁が破られたような感じである。筑波山下の北条村の茂在喜久次郎は、子どもの頃から天性の暴れ者で暴れ喜久と呼ばれていた。そんな喜久次郎に剣術、柔、読み書き、算術などを教えたのは、宝安寺の住職・宗円である。喜久次郎が子供の頃、天狗党の旗揚げがあり、喜久次郎の父は天狗党の後押しをしていた。著者の油棚憲一さんは本名・茂在寅男さんで、600年以上続く家系の同じ一族の出であることは間違いないとされている。資料的にもよく調べられていて水戸藩が幕末から明治にかけて内紛でいかに多くの人材をを亡くしたことかと言及されている。

 

  • 喜久次郎は、天狗騒動で、まじかに人の生死をみている。さらに人の浮き沈みも目の当たりにし、12歳で父が亡くなり父の遺言で他人の冷や飯食わなきゃ偉くなれないと、奉公にでる。よく働いたが、番頭の不正を見逃しておけず暴力をもって懲らしめる。喜久次郎には、三つ年上の初恋の人・お辰が心の支えでもあった。ところがお辰は嫁入り前に桜川に飛び込み自殺していた。その日は、喜久次郎がかつて桜川に流され死にそうになった日であった。お辰の覚悟の自殺であった。喜久次郎は放浪の旅にでる。18歳の時、東京にでてきて新富町の劇場の前にたつ。大看板が風で倒れそうになり、それを押さえる木戸番に喜久次郎は加勢する。ふたりは筑波下の方言を飛ばし合う。それが、根岸浜吉との出会いであった。「長脇差しの浜吉」として喜久次郎も名前は知っていた。

 

  • 浜吉は新富座の立見席の株をもっていて木戸を預かっており、十二世守田勘弥とは縁続きであった。喜久次郎が初めて観たのは『川中島』で芝居と役者に魅了された。浜吉の手はずで喜久次郎は初代市川左團次の家に住み込みで働くことになる。浅草猿若町に中村座、市村座、守田座があったが、新富町は短期間新島原の名で遊郭があり大暴風で多くの家が倒壊し、遊郭も立ち退きとなる。その空き地に浅草から新しい新富座を立てたのが十二世守田勘弥であった。

 

  • このあたりは、四世市川小団次と河竹新七(黙阿弥)の関係、小団次の養子となって上方から江戸に下った升若が左團次と改名。上方弁が観客に失笑を買い、河竹新七や守田勘彌に助けられ修業に修業を重ねたことなどが書かれていて興味深い。猿若町時代は劇場がはねると車に乗れるような役者になれと言い聞かせ、吾妻橋を渡り自宅の柳島まで歩いて帰り、夜食をとると妙見様へはだし参りをして、江戸流の台詞の練習をしたとある。喜久次郎が仕えたころは、団・菊・左の時代で、左團次は大成していた。喜久次郎はこの苦労人の左團次を敬愛しよく仕えたのである。

 

  • 新富座は建てて五年で火事のため全焼してしまう。守田勘弥は、新しい新富座を建てることを発表する。総レンガ造りで、照明はガス燈である。収容人数は2000人。資金集めに苦労し、工事は中止という事態もあったが、そんなことが外にもれては信用にかかわるので、偽装をした。こういう時活躍するのが道具方と親しくなっている喜久次郎である。道具方に頼み、あちこちの建築現場からかんな屑を買い集め新富座の建築現場入口に盛り上げたり、金主をつれて勘弥が案内するときは、新富座の印半纏の者が先にいって忙しく立ち働くのである。大工棟梁以下がいかに勘弥を応援していたかである。

 

  • 明治11年めでたく開場となった。国家行事のような大イベントであった。陸軍軍楽隊の演奏、続いて海軍軍楽隊の演奏。音楽が終ると、菊五郎、團十郎の祝辞。幕がおりた舞台では、團十郎の翁、菊五郎の三番叟、左團次の千歳、家橘のツレである。舞台が終わりに近づいたところで、ガス燈がつく。その明るさに皆驚いた。読んでいると写真でみただけの新富座の中まで観えるようである。浜吉も喜久次郎も涙、涙である。ここから歌舞伎の演劇改良も始まるのである。喜久次郎はといえば、またまた怒りを抑えられない場に遭遇してしまうのである。

 

  • 苦労人の左團次を敬愛する喜久次郎は、菊五郎の物腰が気になっていた。そこへ、『高橋お伝』の舞台幕引きで、幕引きが腹痛をおこし、喜久次郎が代わってやることになった。初めてである。幕が足に絡まりつつも何とか引き終るのである。菊五郎から叱責が飛んだ。喜久次郎はカチンときて言いたいことを言ってしまい火に油をそそいでしまった。浜吉が間に入っておさめたが、役者側も道具方も後へは引かず、次の日の幕は開かなかった。喜久次郎は責任をとって再び流浪の身となった。浜吉は、二、三年たったら俺のところに戻ってこいといったが、ふたたび会うのは十年後であった。

 

  • この旅で、喜久次郎は、「役者の大詰めの所作と、幕引きとの間の呼吸の一致ということは、素人である自分などには分からない真剣なものがあるのだろう。」ということなどまで考えられるようになっていた。陸(おか)蒸気で横浜へ出て、そこから九州までめぐり、日本海側を通って人々の生活を見って回った。新しい世の中について行けない人々。自由民権運動。東京に近づき、八王子で足を止めた。秩父貧民党。八王子困民党。そんな中、困民党に間違われ警察に引っ張られる。すぐ釈放されたが、そこで知り合った者の紹介で鉄道馬車の御者となる。

 

  • 一回目の流浪の時、盛岡の馬市の仕事をして馬のあつかい方と乗り方は経験ずみであった。御者を別当(べっとう)と呼び、半纏が細かな弁慶模様で粋だった。「馬車の別当さんは小弁慶のそろいで、東京島原迷わせる」と歌われた。郵便乗合馬車というのがあり、郵便物を運ぶのが第一で、そこに6人ほどお客が乗れた。東京から甲府まで、三日かかった。喜久次郎はそれを一日にする提案をする。優秀な御者を選び、馬車も新しくして要所、要所に替えの馬と御者も替え連続13時間で走らせる。客を安心させるため転覆保険付きとした。「はやあし馬車」。馬車の急行である。雨のときは、小仏峠、笹子峠は駕籠にして運賃を安くするのである。定期便二便と「はやあし馬車」が一便走ることになった。

 

  • この乗合馬車、「車の構造は悪く、車輪は鉄の輪付きの木製。ガラガラと音はうるさいし、道路はでこぼこ。尻は席から飛び出すし、頭は屋根にぶっつかる。」喜久次郎の手綱さばきは見事だったようである。少し寄り道をしますと、泉鏡花の『義血侠血』(滝の白糸)で、水芸の太夫滝の白糸が出会うのが馬丁(べっとう)の欣也である。馬車の客と人力車の競争となる。三月歌舞伎座の演目である。この部分は、滝の白糸(壱太郎)の語りとなる。途中、二頭の馬の一頭を馬車から放し、酒代をはずんだ滝の白糸を乗せて欣也は次の茶店まで走り届けるのである。これには滝の白糸もぞっこんである。話しだけの馬丁・欣也(松也)がさらりと登場である。滝の白糸の話しに納得である。この馬車の中の客の様子も、この本ではっきりした。

 

 

映画『モリのいる場所』 『横山大観展』

  • 映画『モリのいる場所』は、画家の熊谷守一さんの94歳のときの一日を映画化したものである。この方を映像化するのは、変に誇張したり、間延びしたりで期待しつつも、まあ全てを受け入れましょうと観た。熊谷守一さんを壊すことなく描かれていて、熊谷守一さんの生活を楽しませてもらった。熊谷守一(山崎努)さんの日常をささえる秀子夫人(樹木希林)がこれまたいいのである。熊谷さんの作品との出会いは、白洲正子さんの武相荘の日本間の床の間にかけられた、「ほとけさま」と書かれた掛け軸である。文字だけで、なんの宗教心もなく手を合わせたくなる静かで暖かいオーラがあった。名前が熊谷守一とあり、書家なのであろうと思ったら画家であった。

 

  • 絵の前に立っているのであろう。じっと見つめる人がいる。誰であろう。かなり年輩であるが、画家か美術評論家かとみていると「この絵は幾つくらいの子供が画いた絵ですか。」とたずねられる。昭和天皇(林与一)である。横写しになるとそれが鮮明になる。そうなのである。子供のようであって子供ではない絵なのである。守一さんは、30年自宅から外へ出ていない。一度だけ出たことがあるがすぐ引き返してしまう。庭の樹々、花、虫、魚、アリ、石などを飽きることなく観察してお昼寝して自分の想い通りに時間を埋めている。映画の中で一つ気にかかったのはこの庭を歩くときの音楽である。少し軽快で音がきつすぎると感じた。楽しい気分を表しているのかもしれないが、個人的には違うなとここだけ思った。

 

  • 世捨て人ではなく、世の中の動きから身を引いていて、人と話す時は真摯に自分の想っていることをわかりやすく答えるのである。それが、ずばりで、楽しくて、可笑しくて、しごくもっとで、深いのである。文化勲章も「これ以上人がきて、ばあさんが疲れては困るから」と断るのである。秀子さんが、守一さんの流れに逆らわないが、守一さんが「生まれ変わったらどうする」と聞くと、「わたしはもういいです。疲れますから。」と答え、守一さんは少しがっかりしたようでもあるが「おれは、また生きたい。生きるのが好きだ。」と。このあたりが絶妙である。「あなた、学校へ行く時間ですよ。」「学校がなければいいんだが。」といって画室に入っていく。どちらに流されているのかわからなくなる。

 

  • 新聞に連載された「私の履歴書」が本になっている。『へたも絵のうち』は、とても読みやすくて明解にかかれている。そこには熊谷守一さんの平坦ではない人生があり、42歳で結婚されてからも、絵でご飯を食べれるようになったのが、57歳ころからで、ここから94歳になって穏やかな日常生活のルールが確立されたお二人の、いや特に秀子夫人の葛藤が大変であったことが想像できる。家のこと、来客、仕事のことなど、すべて秀子さんが守一さんとの間に入って上手く回らせているのである。秀子さん76歳。文化勲章より秀子さんが元気でいてくれることのほうが大事であることがわかります。家事を手伝う美恵(池谷のぶえ)ちゃんは、この熊谷家のルールにすっぽりはまっていて、それでいながら時々外の空気を吸って来るのが元気の秘訣らしい。この家に来る人は、皆、この夫婦のペースに呑み込まれてしまう。
  • 監督・脚本・沖田修一/音楽・牛尾憲輔/出演・加瀬亮、吉村界人、光石研、青木崇高、吹越満、きたろう、三上博史

 

  • 東京国立近代美術館で、『没後40年 熊谷守一 生きるよろこび』があったが、期間が長いと気を許していたら行く機会を逸してしまったので、『生誕150年 横山大観展』は早々と行った。作品を時代順に並べられると、やはり画家の挑戦していく過程がわかり、こんなことを考えながら模索していたのかと新しい発見があり、挑戦のたびに違う横山大観さんの情熱が見えて、大御所であるのに、身近に感じられる。ハレー彗星を描いた「彗星」などをみると、興味の対象を日本画に取り入れようとする革新性と自由さが感じらる。熊谷守一さんも「絵は才能ですか」と聴かれて「いや経験ですよ」と答えられている。観察して探って探って何かを探り当てていく。線であったり、色であったり、ぼかしであったり、構図であったり、主題であったり。そのどれもが、無限なのでしょう。横山大観展、もう一回観たいのだが・・・

 

4月4バージョンの旅・C

  • C・谷崎潤一郎バージョン/ 谷崎潤一郎が住んでいた『倚松庵(いしょうあん)』と『芦屋市谷崎潤一郎記念館』を訪れたいと思っていた。できれば二箇所を一緒に。『倚松庵』の開館が土・日なので制限されてしまっていた。『細雪』の舞台となった家が残っていて公開されているのを知ったが、ここ!という意識は薄かった。島耕二監督の映画『細雪』(1959年)を観て、次女・幸子の家が倚松庵の写真に似ているのである。他の映画(1950年・阿部豊監督/1983年・市川崑監督)では気にかけなかったことである。これは行かなければ。
  • 島耕二監督『細雪』は、自分の中の『細雪』とは違和感があった。阿部豊監督の映画での次女・幸子役の轟夕起子さんをみているので、今度の長女・鶴子役の轟さんはどんなであろうと愉しみにしていた。かなり生活に疲れた主婦として描かれていた。DVDのケースの写真も叶順子さん、山本富士子さん、京マチ子さんの三人だけの写真である。島耕二監督の『細雪』の時、監督と轟夕起子さんは実生活ではご夫婦であり、轟さんだからこその鶴子役なのであろうかと深読みしてしまった。

 

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  • 倚松庵』は、一番近いのが六甲ライナー魚崎駅から徒歩5分。倚松庵で購入した『ほろ酔い文学談義 谷崎潤一郎 ~その棲み家と女~』(たつみ都志著)によりますと、六甲ライナーによって倚松庵は移築することになりそれまでから開館まで、様々な苦難がありました。本は読みやすい形式になっていて、谷崎作品も読んでみたくなることでしょう。こちらは映画からの引き寄せでの興味が強いのでその辺は詳しく書きません。途中に小さな公園があってそこの前に石柱が裏表に<是より南魚崎村><是より北住吉村>とあり、この辺りは、住吉と魚崎の両村の間で境界線の争いがあったようだ。そして元の倚松庵もこのあたりらしい。横には住吉川が流れている。谷崎さんも、大家さんと賃借のことですったもんだあったようでそういう因縁の土地なのでしょうか。そのことは、倚松庵の中に資料も展示されている。

 

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  • 見学して意外だったのは、思っていたよりも部屋の内部が狭いということである。小説のほうは、実物よりも広く表記されている。ただ作品で姉妹の動線を読み込まれているかたは、納得しうなずかれることと思う。これほど実際の倚松庵と『細雪』が結びついてるとは思わなかった。松子夫人を含めた四姉妹の話しであるが、倚松庵がなければ『細雪』は生まれなかった。谷崎作品は発想の斬新さや人間の奥深くにある感情をあぶりだしているが、倚松庵と『細雪』の関係から考えると、実務的に詳細に計算し、計画して設計図をしっかりと設定して書かれていたことがうかがえる。妙子が地唄舞『雪』を舞う場所が、食堂と応接間を開放して、食堂側を舞台、応接間を観客席としていた。日本間と思っていたので、これも新事実である。

 

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  • 島耕二監督の『細雪』を観直した。これは、谷崎作品と距離を置いたほうが違う視点が見えてくる。映画は1959年の作品で、戦争後の考えかたが反映されていると思えた。四姉妹それぞれの経済問題が浮き彫りになっている。三女・雪子(山本富士子)は、東京の長女・鶴子(轟夕起子)と芦屋の次女・幸子(京マチ子)の家を行ったり来たりしている居候的存在である。幸子はそんな雪子の結婚相手を見つけて幸せにしてあげようと一生懸命である。鶴子は自分の家族との生活のことで、四女・妙子(叶順子)は愛ある人との結婚と経済的自立を目指す自分のことでいっぱいである。
  • ところが、この雪子が大人しくはなく行動的である。姉妹の経済的状況も把握していて、姉妹の間に入って行動するのである。自分の境遇も分かっていながら他の姉妹のことにも手を貸すのである。東京で、雪子は鶴子の家に来づらい妙子と外苑で会う。映画でのその建物の場所がどこであるのか気にかかるのであるが不明である。外苑にあった建物という設定であり、神宮外苑競技場のように思えるが、撮影の時は新競技場である。映画では古い感じで、二人はそこから姉の家に向かうが、古いものから出るというイメージでもあるのだ。
  • 鶴子は本家である大阪上本町の家を手放す立場となり、東京暮らしとなる。鶴子が東京から出て来て、売った自分たちの家がビルとなる建設現場で幸子と二人立つ。幸子はせつなくなるが、鶴子は経済的荒波を乗り越えてきているので未練を残さない。やはり轟さんが適任な役だと思えた。一番、家族や経済的に心配のない幸子が姉妹から、幸せだといわれる。それを意識していない京マチ子さん。どんどん荒波に向かう妙子の叶順子さんに対する上の三姉妹との絆は変わらない。雪子の山本富士子さんは、結婚はまだ決まっていないが、悲壮感はない。庭に降る雪が窓から見えるが、細雪ではなくしっかり積もりそうな雪である。倚松庵を思い出しつつ映画をたのしんだ。

 

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  • 芦屋市谷崎潤一郎記念館』は、阪神芦屋駅から徒歩15分なのであるが今回はバス乗車。周囲に市立美術博物館、市立図書館などがあり、文化圏としているようだ。記念館前に15トンの巨石があった。神戸市東灘区岡本の旧谷崎邸にあったもので、昭和13年六甲の山津波で旧邸内に流入したものだそうだ。記念館竣工の際移したのである。小説『細雪』にもこの河川の氾濫は描かれている。

 

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  • 春の特別展は「潤一郎時代絵巻 ー戦国の焔(ほむら)王朝の夢ー」。北野恒富(きたのつねとみ)の『乱菊物語』の挿画があるが、これは、千葉市立美術館の『北野恒富展』でもみている。この記念館から借りられて展示していたのであるが、今回も『乱菊物語』を読んでいないのでイメージがふくらまない。北野恒富作「茶々殿」は松子夫人がモデルである。『盲目物語』は、玉三郎さんのお市の方と勘三郎さんの按摩・弥市がすぐ浮かぶ。按摩ゆえにお市の方の体に触れることができる。目はみえなくともその感触がお市の方の美しさを感知しているという世界である。勘三郎さんの台詞の声の調子は今でも残っている。というわけで、谷崎作品の世界も文字での印象からそれてしまった。
  • 阪神芦屋駅から徒歩10分のところに、『富田砕花旧宅』がある。この家は、倚松庵の前に谷崎と松子夫人が住んでいた家である。谷崎潤一郎記念館にあったチラシで知った。富田砕花は、新詩社『明星』に砕花の名前で短歌を発表とあり、東京の千駄ヶ谷で新詩社跡地と出会っていたので、芦屋でつながるとは。しかし、訪れてはいないので、また次にとなる。たつみ都志さんが調べられて書かれた『倚松庵よ永遠に』によると、谷崎は関東大震災で関西に移ってから足かけ21年の間に13回転居している。そのうち現存しているのが富田砕花旧宅倚松庵だけなのである。『倚松庵』富田砕花旧宅』『芦屋市谷崎潤一郎記念館』の三セットで訪れるのがよいのであろう。
  • 帰りはJR芦屋駅までのバスとした。芦屋川と並行する芦屋公園の間を走りテニスコートがあり、映画『細雪』を思い出す。バスはJR芦屋駅を過ぎ、ぐるっと回って阪急の芦屋川駅前を通る。映画で最初に雪子が階段を下りてくる駅である。映画のほうがすっきりしていて広かった。すぐに芦屋川を渡る。桜まつりで花見客は多いが今年は桜は終わってしまっている。島耕二監督の『細雪』には桜のお花見場面はないのである。『ほろ酔い文学談義 谷崎潤一郎』には、この本の登場人物が芦屋市谷崎潤一郎記念館から芦屋川まで歩いて花見をしつつ阪神芦屋駅へ。阪神電車に乗り香櫨園でおり、夙川の桜をみながら阪急夙川駅までと小説『細雪』に出てくる桜をめでて歩いている。桜がなくても歩いてみたい道である。本にしおりが入っていて、ひまわりの絵の裏に「僕は向日葵が好きだなぁ」谷崎潤一郎 とある。倚松庵こだわりのしおりである。

4月4バージョンの旅・A

  • ワンピース』にちなんで4バージョンの旅にしてみます。A・戦国時代バージョンB・歌舞伎関連バージョンC・谷崎潤一郎バージョンD・大井川鉄道バージョン
  • A・戦国バージョン/ 作家の内田康夫さんが亡くなられてしまわれた。(合掌)。多くの作品で楽しませていただき、旅の参考にもさせていただいた。そして今回も。さらにこれからも。戦国時代の旅は安土城址でお終いかなと思っていた。ふと、内田康夫さんの戦国時代をモチーフにしたミステリーはあるのかなと捜してみましたら、歴史小説がありました。『地の日 天の海』。徳川家の懐刀でもあった天海が隋風と名乗っていたころ、信玄、秀吉、光秀、信長、家康らの武将に会っていて、その語り部として武将達の行く末を見つめるという形をとっている。
  • 時間経過に順序だてて物語は進み、この時はこの武将はどういう立場でということがきっちりと書かれていて、横並びで、武将達の戦さぶりや考え方がわかるようになっている。さらに、隋風は、仏教だけではなく天文学や八卦のようなものも学び、人の性格や容貌から相手の心の内も観察し、隋風がどう思ったかも書かれていて、「本能寺の変」へとぐいぐいひぱっていく。そこまでに至る人の交わりの複雑さも一列に並べて一歩一歩進んで行きつつ人物像も浮き彫りになるという手法のため、大変面白く、今まで読んだり観たりしたものを、見事に整理してくれることとなった。
  • 天海大僧正の若い頃は実際にはよく分かっていないのである。そこは推理作家の手腕で若き日の隋風を作り上げている。読み進むと映像やお芝居などでの脚色の度合いも感知でき、この人物が歴史上ではこういう立場かというのも浮かんで嬉々としてページをめくっていった。というわけで、旅として残っていた安土城址に加えて、明智光秀の丹波の亀山城址も行かねばとなり、それではと、保津川下りも当然いれることにした。
  • 安土城址へは前の旅からの予定どおり、駅からレンタルサイクルとする。カトリック小神学校・セミナリヨ址に寄る。お城の外堀のそばにあった。

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  • そこから百々橋へ。『地の日 天の海』では「隋風たちは百々(どど)橋を渡り、勾配のきつい登城路に入る。途中、摠見寺(そうけんじ)の境内を通り抜けて、城にたどり着いた。」とある。今は百々橋からすぐの登城路からは登れない。見るからにきつい石段である。

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  • 大手門口から入り秀吉の屋敷跡などを観つつ登って行くが、結構きつい。家康邸跡に摠見寺仮本堂がある。所々に石仏も石段として敷かれている。石材を集める時間が足りなかったのか墓石や石仏、仏足石まで集められたようである。

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  • 天守閣址から干拓されてしまったので遠くに琵琶湖がみえる。この下は琵琶湖の水面が空の色を映していたのである。

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  • 摠見寺跡からは左手に内湖が見える。ここは残ったようである。信長廟のそばの奉納絵馬の中に、宝塚の月組ファンの方が信長の公演の成功を祈願しているのがあった。

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  • 摠見寺三重塔を観ながら下り、二王門を通り、大手道にもどる。『地の日 天の海』には、正月には信長のもとに年賀に訪れる人の多さに、摠見寺の石段が崩れて死者も出たとある。家族で来ていた男の子の一番好きなのは姫路城とか。秀吉が中国地方を制圧するときの拠点の城である。

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  • 地の日 天の海』で隋風が華麗な安土城を見た時を次のように記している。「安土城の天守閣は五層七重で、屋根は黒の瓦葺き。軒先の瓦は金箔(きんぱく)を押し。屋根の隅木には風鐸(ふうたく)が吊るされている。最上層の壁も金閣のような金箔押しで、下の層は朱塗りの八角堂という、奇抜な構造である。」さすが簡潔かつ完璧な表現です。

 

追記: テレビの『英雄たちの選択』が好きで録画し楽しみにみています。「シリーズ・リアル忍者 戦国忍者」で摠見寺の二王門が「甲賀武士 山中俊好建立」と出てきました。伊賀の忍者は信長にやられ甲賀の忍者は信長についたわけです。二王門撮らなかったのが残念。でも目にしているのでつながって嬉しいです。

 

    天守閣 →安土城 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

  • 丹波亀山城は、明智光秀が備中の秀吉の援軍として出陣した城で、途中、京都の本能寺へと方向を変え『本能寺の変』となる。丹波の反信長勢力の制圧には5年を要している。そのため本腰を入れてこの地に城を築き、保津川から守るように城下に町もつくり、光秀の知と計画性もうかがえる。ところがそれを知ったのは、亀岡市文化資料館での資料からで、そのため、城跡へは行ったが町は歩いていないのである。丹波亀山城跡は宗教法人「大本」の本部となっているようで、観れる部分を歩いてきた。
  • 亀山という地名は、明智光秀のときかららしく、家康の時、藤堂高虎が築城し、明治に入って、西郷隆盛の西南の役で城が砦とされるため他の多くの城と共に亀山城も壊されてしまう。さらに三重県にも亀山があるため亀岡と改名する。亀岡の人々は、亀岡のもとをつくったのは、明智光秀としている。観光としては、保津川下りの出発地でもある。個人の予約はないようで、京都からJR嵯峨野線で亀岡に行き朝一番の舟に乗ることにする。番号2番で人が少なく心配したが、団体さんがきて予定時間より15分早く出発してくれた。
  • 川幅が狭く、岩が手の届く近さだったり、岩の棹の当る定位置に穴があいており、ひゅーと下ったり、船頭さん三人が前後中と交替され掛け合いも楽しく、その腕前にプロの意気込みを感じ大満足。この保津峡を開削したのが、秀吉時代、御朱印船の貿易商・角倉了以(すみのくらりょうい)。保津川の筏流しによる京都への資材の運搬は桓武天皇時代からで舟運は角倉了以からである。鉄道と道路輸送により、保津川下りは観光として残り鉄道の一部もトロッコ列車として残りました。

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  • その後トロッコ列車も時間を作り乗車しましたが座席は木で停まるたびに声があがるようなガッタンの大きなゆれで楽しいです。舟から列車もみえました。

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  • 保津川下りは、嵐山の渡月橋付近に到着です。昭和23年ころまで、お客さんを下した舟は曳綱(ひきづな)を使って、人が舟を引っ張って川を上っていたのです。これも勘と力の必要な重労働だったのです。崖岩に綱のあとが残っていたりします。先に保津川下りをすませ、JR嵯峨嵐山駅から再び亀岡へ。そして丹波亀山城跡へいったのです。そのほうが予定がたてやすいので。

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  • 先に保津川下りをすませ、JR嵯峨嵐山駅から再び亀岡へ。そして丹波亀山城跡へいったのです。そのほうが予定がたてやすいので。

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  • 次に『亀岡市文化資料館』。ここで思いがけない情報に出会いました。映画『母と暮らせば』で、吉永小百合さんは助産婦さんの仕事をされていますが、その吉永さんが使っていた産婆カバンがここで展示していたものだったのです。企画展「かめおか子育て物語」を京都助産婦会のホームページで紹介したところ、映画関係者のかたがそれをみて、借りにこられ映画出演となったのです。小道具会社のカバンは日常的に使うには大きすぎ、これだと思われたのでしょう。映画の中で棚の上には手術道具の入ったカバンがあるとのこと。吉永さんの持っているカバンが、亀岡市文化資料館のものですので映画をみるときはご注目あれ。ここに一番力が入ってしまった。
  • 亀岡は足利高氏(尊氏)が篠村(しのむら)八幡宮に詣り、北条氏打倒に出陣した場所でもあり、絵師の円山応挙の生まれた土地でもあり、京都に近いということで、様々な歴史をみてきた町でもあるようです。