笑いの深呼吸

歌舞伎座の五月歌舞伎は一通り観たのであるが、歌舞伎と<リアル>とはどこまで融合できるのであろうかとふっと考えてしまい、そこから動けなくなり歌舞伎のことが全然かけなくなってしまった。

平成16年歌舞伎座の勘三郎(勘九郎時代)さんと三津五郎さんの「棒しばり」のDVDを見る。勘三郎さんを見ると涙するのではと思ったが、声を出して笑った。そこだけが現実とは違う世界であった。勘三郎さんと三津五郎さんのライバル意識は観る側のエッセンスの一部でもあったが、それは無く、太郎冠者と次郎冠者の縛られた形でいかにしてお酒を飲もうかというその事だけである。二人はその事しか頭にない。その為に身体を一心に動かすのである。

小林秀雄さんが正宗白鳥さんとの交遊の一場面を講演で紹介している。正宗宅を訪れ、奥さんがワインを用意してくれ今まさに注がれるという時に何か用事で奥さんがその場を離れてしまった。奥さんはなかなか戻ってこない。自分はお酒が好きだから今か今かと待っている。ところが奥さんは現れない。正宗さんが一言「君、飲みたまえ」とか何とか言ってくれればいいのであるが一言もいわない。酒を飲まない人は酒飲みの気持ちが分からないのである。だから黙っている。正宗さんにしてみれば、飲みたいんなら飲みたい人が「じゃ、いただきます」といえばよいのだ。正宗さんという人はそういう人です。

落語の落ちのようである。それも志ん生でやるのだから堪らない。自分の気持ちを優位に持ってきていながら自虐的でもあり、分からず屋のほうの論理が正統になるという可笑しさである。さらなる落ちは正宗白鳥が面白そうな人だから書く物も面白いのだろうと手をだすとそうではないのである。そう簡単な人ではないのである。

芸にもそういうところがある。

歌舞伎座の8月演目に三津五郎さんと勘九郎さんの「棒しばり」がある。

呼吸の乱れも一つの深呼吸で救われた。

 

5月 歌舞伎座 『京鹿子娘二人道成寺』

玉三郎さんと菊之助さんの『京鹿子娘二人道成寺』さらに面白くなっていた。驚くほかはない。踊りのレベルが上がれば工夫も増えるということか。

一人の踊り手がいる。その踊り手は自分の中で二人の踊り手を存在させていてその二人の踊り手を操っている。観ている方は一人の踊り手の内面の二人の踊り手を見せられている。一人の踊り手はなぜ内面の二人の踊り手を見せるのか。踊りに対して自分の中で抑制し合ったり、ここはもう少し逸脱しようかなと思う心の動きを見せても踊りは成り立つからである。一人の踊り手はこちらの表現の方が良いかもしれないと思う。しかし一つしか選べない。二つ選べるとしたら。こうなるのであるが。

さらに表面に出てきた二人の踊り手は踊りつつ会話をしている。花道の出は菊之助さんである。途中花道のスッポンから玉三郎さんが登場。「あなた余り気持ちよさそうに踊りすぎてよ」。「だって楽しい恋だったんですもの」。二人顔を見合わせて「おおいやだふふふ」とでも語りあっていそうである。これはこちら観る側の妄想であるが、ただ美しいとかこの表現力には圧倒されたとかの感動を通り越した面白さである。

烏帽子をつけ「さあしっかりいくわよ」。鐘に対する恨みも「それ以上表すと娘らしさが壊れるわよ」。「烏帽子の取り方も変えましょうね」。

手まり遊びも「ちょっと大きく動きます」。「勝手にどうぞ」。「ここはしっとり踊らせてもらうわ」。

そんな事を一人の踊り手が自分の中で楽しみつつ自問自答しているようでもある。菊之助さんが自分の踊りに手ごたえを感じ始めているのか苦しい自問自答ではない。観ているほうも「え、そうなるんだ」「なるほど思いもよらなかった」「玉三郎さんの色香を菊之助さんが押さえてる」「菊之助さんの恥じらいを玉三郎さんが引き出そうとしている」

「そんなに男を怨んじゃだめよ」。「だってあなた」。「さあ憂さを晴らしましょ」。

長唄の詞に乗り、お囃子連中の音に乗り、身体はあくまでも優雅に、観ているほうの指が、鏡獅子の弥生が獅子頭に動かされるように動いている。

「最期は言いたい想いはきちんと伝えましょうね」。「最期はそれぞれの想いでね」。

さやさやと皐月の風が歌舞伎座を吹き抜けてゆく。

 

 

 

『天保遊侠録』(てんぽうゆうきょうろく)

勝海舟の父親・勝小吉を主人公にした真山青果の作品で「天保遊侠録」という芝居がある。

小吉は旗本ではあるが無役であるため、役付きになりたいと思い上役を向島の料理屋で接待する。周囲の皆からどんなことがあろうと悋気を起こさないように注意される。しかし、持ち前の自由奔放さと江戸っ子気質であるから上役たちのこちらの弱みに付け込んだ勝手な振る舞いに堪忍袋の緒が切れる。言いたいことを言い役付きも終わりである。

その時、小吉と一緒では麟太郎(海舟)の先行きが思いやられると考えたお局になっている小吉の義姉が、隣の別室に麟太郎を呼んでいた。麟太郎は父の一部始終を見ていて、叔母の言う通り大奥に勤めるのである。この時の麟太郎は父を負かせてしまうほどの賢さを見せ、父は父、子は子の人生だなあと思わせたのである。

麟太郎は7歳の時、十二代将軍家慶の五男・初之丞に仕えるのであるが、この初之丞が夭折し、9歳でお城から下がるのである。芝居では父と子それぞれの生き方と思えたが「氷川清話」を読むと小吉の血が確実に流れていると感じてしまう。

観たお芝居の方は小吉が吉右衛門さんで窮屈な感じで接待をし、ぶちまけた時はきっぷの良い江戸っ子で、麟太郎との別れには親の切なさを格好よく演じられていた。麟太郎役の子役さんもなかなかの賢さを出していたが名前の方は分からない。この時の甥役の染五郎さんを観て染五郎さんの三枚目がいいと確信したのでる。世間からずれている小吉より勝ってずれている加減が良かったのである。

そういえば『西郷と豚姫』の西郷も吉右衛門さんであった。愛嬌があり腹の据わった西郷であった。このあたりの芝居はリラックスして観られる演目ではあるが、「氷川清話」を読むと、軽くは言っているが生死の狭間を潜り抜けていたわけで、胎の中心の深さが常に決まっていなくてはならないと思う。小吉もただ自由奔放の変わり者ではなく時代の風に会えば何を仕出かすか分からないといった大きさが無くては単なる人情話に終わってしまう。海舟の道に至る無頼さの味が必要である。

 

『西郷と豚姫』

歌舞伎の『西郷と豚姫』は京都揚屋の中の間での一幕ものである。体格が立派で気立てがよく明るいお玉は豚姫と呼ばれている。お玉は親も無く天涯孤独であるが面倒見もよく皆に慕われている。そのお玉の想い人は薩摩藩の重役西郷吉之助である。西郷の事を想いふさいでいるとき、西郷が幕府の刺客から追われてお玉の前に現れる。

西郷は藩主にも幕府にも自分の考えが受け入れられず八方塞がりである。お玉は西郷とのことが八方塞がりで、西郷はお玉の心情と自分を重ね合わせ自分はお玉と死んでもよいと思い、お玉に一緒に死のうという。お玉は西郷の真情に天にも昇る想いである。そこへ、藩主の勘気が解け新たな使命が与えられたと大久保利通と中村半次郎が訪れる。

西郷は大久保達が藩から預かったお金を受け取り、その多くをお玉に手渡す。お玉との今先ほどの約束を破ってしまったことへの詫びとこれが今生の別れかもしれない思いからである。お玉はいらぬ心配をかけまいと西郷の真情を胸に収め、お金を受け取るのである。

亡き勘三郎さんのお玉は今でも思い浮かぶ。何も考えることは無い。ただ観ているだけでお玉の気持ちが伝わってくる。西郷への想いのやるせなさ。喜び。可笑しさ。悲哀。どうしてこの人はいとも簡単にお玉の心の動きを表現できるのであろうか。確かに勘三郎という役者が演じているのであるが、その役者と役の皮膜が薄いのである。薄いというよりも透明に近いのである。時としてそれに我慢が出来ず生の役者勘三郎を見せてお客もそれが大好きで大喜びするのであるが、このお玉にはそれがなかった。あくまでもお玉である。大きな体でありながらいじらしくて可愛いいのである。それでいながらいざとなれば懐が大きくてこれは女形でしか表せられない女性かもしれない。

 

平将門の人気

『平の将門』(吉川英治著)を読む。<将門遺事>に次のようにある。

「江戸の神田明神もまた、将門を祠(まつ)ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。初めて、将門の冤罪(えんざい)を解いて、その神田祭りをいっそう盛大にさせた人は、烏丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、「将門を、大謀反人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を勅免祭りともいったという。」

今年は四年ぶりの神田祭が5月9日から15日までおこなわれる。神田明神の資料館に行けば将門の事も分かるかなと思い出かける。その前に大手町にあるという首塚へも。地下鉄の大手町駅の5番出口から出ると左手すぐに幟と白壁が見える。

説明板によると「酒井家上屋敷跡 江戸時代の寛文年間この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末 伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである」。これは驚きでした。原田甲斐と将門が繋がるとは。将門が戦で命を落としたのは、天慶3年、2月14日、38歳である。将門首塚の碑には次のような説明が。「昔この辺りを芝崎村といって神田山日輪寺や神田明神の社があり傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治二年(1307年)に真教上人が将門の霊を供養したもので焼損したので復刻し現在に至っている。」

この後、延慶二年(1309年)神田明神のご祭神として祀り、徳川家康が幕府を開き江戸城を拡張する際現在の江戸城から表鬼門にあたる場所に移動し、首塚の碑は大手町にそのまま残ったわけである。神田明神の正式名称は神田神社でご祭神は、だいこく様、えびす様、まさかど様である。

資料館ではー江戸の華 神田祭をしりたいー【大江戸 神田祭展】の特別展を開催していた。そこで面白い説明があった。江戸時代将門の凧が好まれて空に多く舞ったという。朝敵といわれた将門の凧が空を舞ったのは江戸以外ではあまりみられなかったそうだ。もう一つは将門は妙見様を武神として篤く信仰していて将門が彫ったといわれる妙見尊像が奉られていた。妙見様は本体は北斗星・北極星といわれている。それで思い当たることがあった。吉川英治さんの本の解説に劇作家の清水邦夫さんが、将門生存説があり将門には七人の影武者がいてその影武者が将門の身代わりとなり将門は生きのびたとする説で、茨城県のあちらこちらに七騎塚とか七天王とかの塚が残っていて、名古屋あたりにも七人塚があると書かれている。清水さんは将門を戯曲にしていて将門のことを色々調べたらしい。そこで思ったのである。この七という数字は将門の妙見様信仰の七からきているのではないかと。他の数字でもよいであろうが、将門の事をよく知っている身近なところからこの伝説は生まれたようにおもうのである。

歌舞伎の舞踏劇<将門>は、山東京伝の将門の遺児たちの復讐の物語をもとにした芝居の大詰めの踊りで、将門が余りにも呆気なく敗死してしまったことに対する庶民の思い入れもあるような気がする。江戸時代にはもっと人気があったと想像するのだが。

清水さんは東京の近郊の鳩の巣の神社にも将門を祀っていると書いている。奥多摩の鳩の巣渓谷は歩いた事がある。参考にした雑誌を見たらJR青梅線鳩の巣駅の上に将門神社があり、暑い日だったので行くのを止めた記憶が蘇る。今なら無理してでもも行ったであろうが、その時は将門への興味は薄かったのである。将門っ原とありそこは居館跡とある。その雑誌では将門神社の説明が次のように書かれている。

天慶(てんぎょう)の乱をおこした平将門は権力に圧迫されて苦しんでいた民衆に人気を集め、いつしか民衆の英雄として都内のあちこちに将門伝説をのこした。ここ将門神社もその子良門が亡父の像を彫って祀ったといわれる場所。

これからもあちらこちらで将門神社や将門伝説に会うことであろう。

 

柿葺落四月大歌舞伎 (六)

【第三部】 二、勧進帳

「勧進帳」は長唄の中でも一番多く聞いている作品である。舞台を観てても音楽と役者さんと一体感に成れる作品でもある。弁慶は幸四郎さんである。幸四郎さんはミュージカルも多く演じられており、五線譜の洋楽と邦楽では間が違うのでは無いか、違和感は無いのであろうかと思うがどうなのであろうか。

平家追討に大きな業績を残しながら、それが義経の想いとは違う方向に進み、兄頼朝の不興をこうむってしまう。義経の若さ、一途さと云う事でもある。芝居での義経は強力(ごうりき)に身をやつしても品良く振る舞い、じっと弁慶に従うが、義経は梅玉さんである。弁慶はいかにして義経の存在を消し安宅の関を越えるか。義経は居ないのであるから何の懸念も無いという大きさがその知略を現す。そして、弁慶と同じように義経を思う四天王を従えている。四天王の染五郎さん、松緑さん、勘九郎さんはこれから弁慶を受け継いでいく方たちなので力の入れ方が凄い意気で伝わってくる。弁慶とその三人の間を持つ左團次さんも良い位置にある。これらを束ねつつ弁慶は関を守る富樫・菊五郎さんとの対決である。弁慶は何も書いていない勧進帳を読み上げるが、これが源平の戦で焼けた東大寺再建の勧進である。平重衡が火を点けてしまった奈良炎上で焼失した東大寺ある。誰もがすぐ思い浮かぶ事実である。上手く事は運び関を一行は通ろうとするが番卒が強力が怪しいと富樫に進言する。富樫は引き止める。

怪しまれた弁慶は主人の義経を杖で打ちすえる。もし義経であれば、家来がそんな事は出来るわけが無い。富樫はそこまでして主人を助けようとの弁慶の心意気にうたれ、逃がしたことが知れると自分の命が危ないのに係わらず見逃すのである。この辺の緊迫感とそれぞれの内面が少ない動きで分かるのが面白い。富樫が引いた後、弁慶は主人を打ち据えてしまい身の置き場がない。そんな弁慶を義経は手を差し伸べ労わるのである。これには泣かない弁慶もついに涙してしまう。

そこへ富樫が再び現れ疑ったことを謝り弁慶に酒を勧める。本当であれば断って早くこの場を立つところであろうが、そこは富樫の温情に答え酒を豪快に飲み延年の舞を踊る。ここは観客への緊張感からの開放でもある。そして楽しんでいると見せながら何気なく義経たちを先に発たせるのである。ここがまだ気は許してませんよと観客に思わせる好きな仕草で、幸四郎さんは軽快にやられた。そして一行が花道から去り姿が見えなくなって初めて弁慶は安堵するのである。お客も弁慶が無事義経を安宅の関を抜けさせた功績と弁慶役者が無事ここまで成し遂げたことに安堵し弁慶とそれを演じる役者とが一瞬切り離され役者さんを讃える空気が生まれる。

最期、観客も弁慶にもどり、弁慶は大きく六法で花道を引っ込むのである。

四天王の若手三人が本当に真剣な眼差しで全身に力が入り、自分達が次には演じるだという気迫が感じられ、動かなくても頭の中では動いていたと思われる。富樫に見破られたとき、<かたがたは何ゆえに・・・>から四天王の勇みを押さえる弁慶に迫力と威厳があり、しばらくはこの世代間の葛藤が楽しめる様に思える。

 

柿葺落四月大歌舞伎 (五)

【第三部】 一、盛綱陣屋(もりつなじんや)

徳川幕府は戦国から江戸時代の事を芝居にする事を禁じていたので、この話も大阪冬の陣での真田幸村と信之兄弟が敵味方に分かれて戦ったことを題材にしているが、時代は鎌倉で頼朝の死後、鎌倉の実朝と京方の頼家との争いにしている。鎌倉は実朝の祖父・北條時政が実権をにぎっている。鎌倉は(江戸)で京方は(大阪)。鎌倉(江戸)の北條時政は(徳川家康)である。この争いに佐々木家(真田家)が、鎌倉方には兄の佐々木盛綱(真田信之)がつき、京方には弟の佐々木高綱(真田幸村)がついている。江戸時代の観客はその辺りの二重性をも楽しんでいたのであろうが、そこまでは踏み込めないので、架空の鎌倉時代の芝居として堪能する。

弟高綱は知略家で時政を悩ませている。高綱には息子・小四郎(松本金太郎)がおり、盛綱(仁左衛門)には息子・小三郎(藤間大河)がいる。この小三郎が初陣で従兄弟の小四郎を生け捕りにしてくる。京方の軍使・和田兵衛秀盛(吉右衛門)は自分の首と引き換えに小四郎を逃がしてくれと頼むが盛綱は応じない。盛綱は考える。小四郎に対する情愛から弟の高綱が自分の戦が出来なくなるのではないかと。そこで母の微妙(東蔵)に母の手で小四郎を討ってくれと頼む。ここは、兄弟の情、母と子の情、祖母と孫の情が交差して戦の悲劇性をも伝えるところである。

さらに微妙が小四郎に父の為に切腹してくれと諭す時、外では小四郎の安否をきずかってやって来た母・篝火(時蔵)が事の次第を知りつつなす術も無い。そこへ時政(我當)が高綱の首を討ち取ったとして、盛綱に首実検を命じる。

ここからが盛綱と小四郎の駆け引きであり、観客の推理の為所である。高綱の首を見て子四郎は「父上様!」と叫び自分の刀を自分の腹に突き刺すのである。盛綱はその首が高綱ではない偽首である事を見抜いているので、なぜ小四郎が自害するのか疑問に思う。ここは見せ場である。今回は特に盛綱と小四郎のお互いに見やる目線の位置がピタリときまりお互いの気持ちが通じた息がこちらに伝わってきた。金太郎くん上出来である。苦しさを押し殺し叔父をみつめる小四郎。高綱の首をたしかめながら甥の視線を追う盛綱。盛綱はたと気づく。そして、高綱の首に間違いないと答える。時政は喜び、褒美に鎧櫃を置いてゆく。

盛綱は微妙、妻の早瀬(芝雀)、篝火の前で小四郎をほめてやってくれと、真相を伝える。高綱は自分の偽首を時政に自分の首と思わせ死んだと思い込ませ油断させるつもりであり、その知略を小四郎は父から聞かされそれを守ったのである。自分が父の死を知って後追いしたと見せたのである。息子が後を追うのだから、高綱の首に間違いない、その事を叔父に分かって欲しいと一心に目で伝え、盛綱も小四郎を通して弟の気持ちを理解したのである。盛綱もこの親子によって主従の関係より肉親の情をとったのである。盛綱は主人を裏切ったので自害しようとするが、和田兵衛が鎧櫃に時政の間者が潜んでいることを教え、今死んでは高綱の事もすぐ露見し何もならないから時間を稼ぎ露見してから死んでも遅くは無いと説得し、盛綱も納得するのである。

戦の中での様々な人間関係を描きだし、美しいながらもいかに残酷で悲しいことかを伝える芝居でもある。役者さんたちの立ち居振る舞いの美しさ、威厳、大きさ、情感の表現の豊かさ等が揃えば揃うほど舞台は過去と現代人の心の狭間を埋め共鳴し、さらには現実よりも普遍的な高見へも連れて行ってくれるのである。

 

柿葺落四月大歌舞伎 (四)

【第二部】 二、忍夜恋曲者(しのびよるこいはくせもの) <将門>

平将門は実際に登場しないが、将門を中心に据え、それにまつわる常磐津の舞踏劇である。この演目は観た印象が薄く、暗くて重いという印象が残っている。今回は常磐津の詞だけは目を通しておいた。

花道スッポンから玉三郎さんの傾城如月が上がってくる。指し照らされるロウソクの灯りがなんとも如月の怪しい色香を撒き散らす。髪の大きなくしかんざしがロウソクの灯りによって顔に影となり、それが遠目には髪が乱れて顔にかかっている様に見え、如月の心の内の複雑さを表しているようで妖艶でもある。実はこの傾城如月は将門の娘の滝夜叉姫で彼女は蝦蟇(がま)の妖術を使うのである。

大宅太郎光圀(松緑)は将門が住んでいた相馬の古い御所に不審を抱きやってくるが、そこでまどろんでしまう。目を覚ました光圀は如月に怪しいと思うが如月は、<嵯峨や御室の花盛り 浮気な蝶も色かせぐ 廓の者に連れられて 外めずらしき嵐山>そこであなたを見染めて追ってきたとクドクのである。

光圀はわざと将門の最期の戦話をする。松緑さんの見せ場である。もう少し大きさが欲しい。同年代の方たちではなく玉三郎さんが相手となるとどうしても小さく見える。玉三郎さんは最初は若手の方に合わせるが、その次からは玉三郎さんの位置まで上がるように要求するように思える。玉三郎さんと組める嬉しさと同時に苦しさも皆さん味わっておられると推測する。

将門の話に如月が涙するのを見咎めた光圀をそらして、如月は廓話をする。話の途中で如月は相馬錦の旗を落とし、二人で取り合いとなるが如月はついに将門の娘滝夜叉姫の正体を現す。そして蝦蟇の妖術を使い古御所が崩れ(屋台崩し)大屋根の上に大蝦蟇と滝夜叉姫が姿を現し赤旗を翻す。これは、出の花道で白い巻紙の手紙を手に舞うのとは対称的で光圀を油断させ仲間にしようとしての白旗にも思える。それが赤旗で光圀との対峙で終わるあたり上手く出来ている。常磐津の詞を頭に入れてもう一度観てみたい。

平将門を小説で読んでからと思ったが時間が無く進まない。平清盛の前であり、将門の頃は藤原時平と菅原道真との政略争いの後である。将門の最期はこれから自分で読み進めるとする。

東京の大手町のビルの間に将門の首塚があるという。将門の首は京で晒され、その3日目に故郷に向かい空を飛びここに落ちたという事らしい。

これは首塚というより将門塚で平将門公の御首(みしるし)をお祀りする墳墓であるらしく、将門公の所縁者たちにより、この地に納められ墳墓が築かれたそうだ。ここは神田明神創建の地でもあり、色々な経緯から神田明神が将門公を合祀し、江戸時代になって神田明神が現在の地に移る時、墳墓はそのままにして毎年9月の彼岸には将門塚例祭をこの将門塚で執り行い、神田祭の時には鳳輦・神輿が将門塚に渡御して神事が行われているようである。今年5月には4年振りに神田祭が行われる。

 

 

柿葺落四月大歌舞伎 (三)

【第二部】 一、弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)

「白浪五人男」。<白浪>とは盗賊のことで、五人の盗賊の男と云う事になる。<白浪>がなぜ盗賊なのか、マジメさんに見習い辞書で調べると、《中国の白波(はくは)の谷にいた盗賊「白波賊」から》とある。では五人とは、日本駄右衛門(吉右衛門)・弁天小僧菊之助(菊五郎)・忠信利平(三津五郎)・赤星十三郎(時蔵)・南郷力丸(左團次)である。

「弁天娘女男白浪」は弁天小僧菊之助と南郷力丸と日本駄右衛門の三人の白浪が登場する <雪下浜松屋見世先の場>から始まる。歌舞伎は江戸時代の話を鎌倉時代にしたり江戸での話を鎌倉に移したりと当時の幕府の検閲を逃れる工夫をしている。この話も江戸であるが鎌倉にしており、現在でも鎌倉散策で<雪ノ下>の地名に会える。よくぞ残しておいてくれたと嬉しくなる。

白浪は浜松屋の財を取ろうと企んでいる。弁天小僧は武家の娘に南郷はその供侍に化け、万引きの疑いをかけられるように仕組み、実際はやっていないため難癖をつけ金をせびるが、駄右衛門が弁天小僧を男と見破り浜松屋の信用を得る。この弁天小僧の女から男に変わるところが見所で、作者・河竹黙阿弥の七五調の聴かせどころである。菊五郎さんの弁天小僧菊之助は手順から台詞まで手の内なので、こちらはゆったりと楽しむだけである。歌舞伎座はしばらくは三部制でいくのであろうか。二部制だと三演目は入るので一演目は舞踊をいれたりして気を抜く演目が入るが、今回は次の「将門」の舞踊劇も重いので、ベテランの演技を安心して観ていられるのは有り難い。全体像が分らないと駄右衛門の位置が分りづらいが、いつか話の全体像に出会えることがあり、そういう事であったのかと驚くのも楽しい。役者さんは部分的な場面だけでも全体像を頭に入れて演じているので、それを分って観ている人はあそこはさすがであるとなるのである。

<稲瀬川勢揃いの場>は白波五人男の晴れの場である。悪事がばれ追っ手がきているのであるから。捕らえられる前の男振りである。それぞれ生い立ちから語るので地名などもでてくるが 「人に情を掛川から金谷をかけて・・・」「鬘も島田に由比ガ浜・・・」「月の武蔵の江戸育ち・・・」など耳に心地よい言葉が並ぶ。

盗賊などのような悪人を格好よく描いているのも、歌舞伎ならではかもしれない。それは台詞であったり、衣裳であったり、スペクタルな大道具であったり、役者さんの芸の大きさであったりするわけである。

そのスペクタルな大道具の力が<極楽寺屋根上での場>での大捕り物であったり、<極楽寺山門の場>の山門の上<滑川土橋の場>の山門の上と下の橋との上下関係であったりする。役者さんだけではなく、新歌舞伎座ではどう展開するのかという舞台装置も披露する演目となり、安心させてくれたのである。

 

 

柿葺落四月大歌舞伎 (二)

【第一部】 三、熊谷陣屋

「熊谷陣屋」での熊谷直実の腹の内を判ったつもりでいたが、もっと厚い深層部分があるような気がした。直実は、義経から桜の花の制札<一枝を切らば一指を切るべし>を与えらる。それは桜のひと枝を切ったら自分の指を切り落とせということで、この桜は敦盛で自分の指は自分の息子小次郎の事と解釈し、敦盛の身替わりに小次郎の首を差し出す。この首実検が「熊谷陣屋」の重要な場面なのである。直実は義経の言葉の解釈がこれで良かったのかどうか陣屋に帰るまでじっと考え続けたであろう。直実(吉右衛門)の花道からの出となる。

義経の言葉の解釈を間違えたら我が子を身替わりにしたことが何の意味もなくなる。直実はなぜ自分の子を身替わりにせねば成らなかったのか。ここでは敦盛は後白河院と藤の方との間に誕生した、院のご落胤なのである。そして直実とその妻・相模(玉三郎)は後白河院の御所に仕えていたとき恋仲となり不義の罪で死罪(職場恋愛は認められていなかったのかこの辺は不確実)となるところを藤の方に助けられ武蔵の国へ下り、今の地位となる。東国へ下るとき相模と藤の方は二人とも懐妊しており、その子が小次郎と敦盛なのである。

先ずは無官太夫敦盛を後白河院のご落胤に設定していて、直実夫婦は藤の方に命を助けられ一子小次郎がいる。この複線が凄い。さらに義経はこの事実を知っているのである。

義経の意を汲み首実検に臨もうとする直実の前に考えに入れていなかったシチュエーションが出現する。妻の相模が東国から陣屋に来ていたのである。今回、吉右衛門さんと玉三郎さんが顔を見合わせたとき、直実の心の動揺とどう対処すべきかを瞬時に考える直実の内面の動きが反射し、そうだこれは大変なことなのだと今まで以上に納得した。

さらに、妻相模を上手くあしらおうと思ったのに、藤の方(菊之助)までが来ていて、直実を敦盛の仇として切りかかる。直実はそれを押さえ、敦盛の最後を語ってきかせるのである。この物語が、相模と藤の方の出現によって出来た直実の見せ場で、芝居の話の筋と同時に役者の見せ場を作るための筋立ての素晴らしさと思う。直実は藤の方に語っていながら見えているのは小次郎なのである。何回かこの芝居を観ていると、ここは藤の方を忘れて父親としての直実かなと想像する箇所がある。吉右衛門さんの直実にもそれが透けて見えた。

藤の方は納得し敦盛の青葉の笛を取り出し吹くと障子に敦盛の影が、それは敦盛が身に着けていた鎧兜であった。この辺りは「平家物語」を基盤として観客も敦盛の死を想像している。敦盛の死と考えているとその後の展開が驚きでそうなのかと思うし、すでに小次郎と知っていても今度は役者の演じ方に目が行きそれぞれに楽しみ方がある。

いよいよ義経(仁左衛門)の首実検である。制札を前に仁左衛門さんの義経が「敦盛の首に相違なし」の前にちらっと直実に」対し情をみせ、ここで涙がでてしまった。「相違なし」で吉右衛門さんの直実はやっとほっと安堵する間もなく、相模が小次郎の首と知り、藤の方も立ち騒ぐ。それを制札で押さえ、制札を逆さまにして肩に受ける見得となる。この制札も小道具として大活躍である。

真実を知ってからの玉三郎さんの相模のくどきは初めてである。打ち掛けを使い、打ち掛けに包んだ小次郎の首をしっかりと抱きかかえ、観客にその顔をみせつつ嘆き悲しむ。菊之助さんの藤の方に同じときに生まれた小次郎の首を敦盛の首として見せ、藤の方の涙を誘う。座敷上で敦盛の死を嘆いた二人が、今度は庭先で観客に近づいて嘆き悲しむのも立場の逆転の設定として見事である。役の位置関係も見せ所でよくできている。

この後、義経は石屋の弥陀六を、幼いころ自分を助けた宗清と見破り敦盛を託すのである。全てが終わり直実は世の無常を感じ出家する。花道での有名な台詞「ああ十六年はひと昔。夢だ、夢だ」小次郎の生きた年を思い、さらにあの時自分の命は助かったがそれは何の為なのか。やるせなさ、せつなさが胸を打つ。

「平家物語」が史実のはっきりしない部分の多いこともあってそれを使い、新たな複線で役者の見所を作り、さらには人間の組織の中での個人の無力観、無常観をも引き出した芝居である。この芝居に押し潰されないように長い時間をかけて練り上げられてきたのである。