『演劇人祭』

  • 五年ごとに行われている日本演劇協会の主催による『演劇人祭』である。今年は創立七十年記念である。1951年(昭和26年)に設立されてた演劇にたずさわる人たちの団体で、初代会長・久保万太郎さん、二代会長・北條秀司さん、三代会長・河竹登志夫さん、そして四代現会長・植田紳爾さんの挨拶から始まった。(総合司会・葛西聖司さん)

 

  • 日本演劇に貢献された15人の演劇功労者の方々の表彰式があり、配られたパンフレットに記された年齢をみ、皆さんお元気で活躍されておられるので心強いかぎりである。石井ふく子さん(プロデューサー)、辻亨二さん(舞台音響家)、小田島雄志さん(翻訳家)、八千草薫さん(俳優)欠席、坂田藤十郎さん(歌舞伎俳優)、嶋田親一さん(演出家)、花柳壽應さん(日本舞踏家)、仲代達矢さん(俳優)、吉井澄雄さん(舞台照明家)、黒柳徹子さん(俳優)欠席、草笛光子さん(俳優)、藤田洋さん(評論家・逝去・奥さまが代理授与)、横溝幸子(評論家)、ジェームス三木さん(劇作家)、水落潔さん(評論家)

 

  • 次の座談会の司会をされた渡辺えりさんは『有頂天団地』で着た和服で登場で、草笛光子さんも同じ戯曲の『隣人戦争』で舞台に立たれたことがあり、演劇の流れも次の世代につながっているのを感じさせられる。今はかつてのスター演劇が無くなってきていてアンサンブルの演劇性が強くなってきている。歌舞伎もアニメを題材にするようになったのであるから演劇もこの先大きく変わっていきそうである。そんな中、座談会はG2さん、横内謙介さん、市川猿之助さんで司会の渡辺えりさんも歌舞伎の演出をしたことがあるので、大変盛り上がる。

 

  • 歌舞伎の練習の短さとか、今日出来上がって渡したセリフや歌が次の日には完璧に動きもできていて驚いたなど、ゾンビの世界といわれる。先代の猿之助さんの時には、練習が初日の幕前に終わり、そのまま本番とか、今であればブラックといわれそうな世界である。それだけ新しいことを取り入れるということは大変ということなのであろう。G2さんは、絵コンテもなく衣裳さんがこれこれの衣裳と口頭で伝えられてチンプンカンプンなのを福助さんが、それはこういう衣装でと通訳してくれたなど沢山の裏話がでてくる。

 

  • 横内謙介さんは『ワンピース』のとき、これで歌舞伎関係者から総スカンクで、自分の劇団があってよかったといわれる。猿之助さんは歌舞伎は歌舞伎役者にとって皮膚感覚になっていて、先輩たちが残してくれた公式が沢山あり、この芝居にはこの公式とこの公式を使えばよいと組み合わせていくと。それを受けて渡辺えりさんが引き出しが沢山あるのよねと。他の演劇も引き出しはあるのでしょうが、歴史が長いだけにその数が半端ではなく、歌舞伎界という組織全体で継承してきたという強みなのであろう。歌舞伎と他の演劇人とのコラボはこれからも続きそうである

 

  • この座談会から祝賀芸能へと移る。新派『朗読 北條源氏ー六條御息所ー』 (水谷八重子、波乃久里子、喜多村緑郎、河合雪之丞)雪之丞さんの語り手のみぐさを、語り手のときとみぐさのときの声質をかえての朗読が効いて聴きごたえある世界であった。 宝塚歌劇『すみれファンタジー ー宝塚歌劇105周年 名曲を綴ってー』 観ていないので歌になじみがなく眺めているという感じになってしまうが、やはり華やかである。葛西聖司さんが、読むのが大変とおもいますがといわれたが、名前の読み方が難しい。(凪七瑠海、暁千星、麗泉里、風間柚乃、天紫珠李、彩音星凪、結愛かれん、礼華はる、羽音みか)

 

  • 地唄舞『』(坂東玉三郎) いつ観られるかわからない『雪』に逢えた。傘の扱い方にさらなる想いを込められたように見えた。 舞踏『七福神船出勝鬨』(西川箕乃助、花柳寿楽、花柳基、藤間蘭黄、山村友五郎)日本舞踏会のかたが流派を越えて5人で「五耀會」を結成されている。素踊りなのであるが五人で五福神の様子を現わし最後に二神を加えて五人で七福神を踊るという試みである。色々な工夫ができるものなのである。 半能『石橋』(観世三郎太、観世清和) 獅子のでる後場だけなので半能ということである。赤獅子と白獅子が登場。面をつけているので人間界と違う世界という遮断差がある。最後は千秋万歳を祝って舞い納めるということで、『演劇人祭』も目出度く幕がおりる。

 

  • 演劇の様々な一端を感じることができ、平成最後の一月も終わる。さて二月は歩みをゆるめ、積んである映画などのDVDを中心に鑑賞し、整理したいと思うので書き込みもゆるゆるとなる予定である。

 

小幡欣治戯曲集

  • 新橋演舞場での『喜劇・有頂天団地』観劇から小幡欣治さんの戯曲を読んだ。読んだのは『隣人戦争』『女の遺産』『遺書』『鶴の港』『春の嵐ー戊辰凌霜隊始末』『浅草物語』『かの子かんのん』『明石原人ーある夫婦の物語ー』である。

 

  • 女の遺産』は、代々娘に養子をとらせて商売の安定をはかってきた日本橋横山町の玩具問屋の人間関係を描いている。時代背景の情報もでてくる。「ツェッペリンの号外!」というのあり、世界一周のツェッペリン伯号が帝都上空に到着した知らせである。そして円本の時代である。そうした時代の中での古さと新しさがせめぎ合いの中で、それぞれが新しい一歩を踏み出していく。小幡欣治さんの戯曲には人の情愛と常に一歩踏み出すという設定が多い。小幡欣治さんは、最後は新劇のために作品を書くが、商業演劇と新劇の境を意識しないで書き続けた劇作家でもあった。

 

  • 遺書』は、金沢犀川大橋近くの割烹・犀明館の息子の結婚と戦争により特攻隊となり出陣するまでの夫婦の絆がえがかれる。浅野川の友禅流しやその川に生息する魚のゴリを金沢ではグズと呼ばれ、そのグズと息子を重ねたり、結婚相手が水引人形屋の娘で金沢伝統の水引で作品をつくっていたりと金沢文化も色濃い。息子は京都の学校に通っており、特攻隊として飛び立つとき一緒に奈良の秋篠寺の伎芸天を見たかったと語る。妻は水引で伎芸天を作ることを約束し、南九州の鹿屋航空基地から妻の立つ城山公園ぎりぎりまで低空飛行をして飛び立つのである。

 

  • 鶴の港』は、長崎の稲佐地区は維新前からロシア艦隊の冬の間の休息地で、稲佐楼はロシア艦隊の乗組員のためにロシア料理を提供している。ところがロシアと戦争となるとの話しから他の料亭などはロシア人相手の商売の鑑札を返し、ロシア相手の商売をやめる。稲佐楼の女将は、今までの付き合い通りロシア人相手に商売を続ける。最初から日本料理しか出さなかった玄海楼の女将や日本人の母とロシア人との間に生まれて成長した娘などを含めて鶴の形に似ている港での人間模様が展開する。ロシアが戦争に負け、ロシア兵の捕虜が稲佐山の仮収容所に連行され、ロシア人の父と娘が思いがけず再会する。芝居の始めのほうではぶらぶら節も流れている。

 

  • 春の嵐ー戊辰凌霜隊始末』は、題名からもうかがえる幕末から明治への混乱の時代の話しである。郡上八幡の郡上藩には幕末に凌霜隊(りょそうたい)というのが存在した。この隊は郡上藩とは関係がないということを約束されて江戸に立つ。江戸で幕府軍の手助けをするために。小さな藩は、旧幕府につくか新政府側につくかを迷い、二枚舌を使うこととして、そこに参加している人間は藩と関係なく凌霜隊の一人であるというだけの身分で、何かがあれば消される運命にあった。芝居であるので史実どおりではないが、凌霜隊が存在していたのは確かである。郡上八幡の歴史の一部を知る。藩主の姉や家老の娘が同道し、凌霜隊は藩のため幕府のためを信じて行動するのであるが・・・。要所、要所に郡上踊りが踊られたり歌が流れたりと、小幡欣治さんは、その土地の空気を漂わせる。

 

  • かの子かんのん』は、歌人であり小説家である岡本かの子さんをえがいている。岡本かの子さんは、漫画家の岡本一平さんの妻であり、芸術家の岡本太郎さんの母である。自分の恋人を自宅に住まわせ自由奔放な人ととされている。小幡欣治さんは、瀬戸内晴美さんの『かの子繚乱』の原作をもとにして、岡本かの子さんの仏教に対する考えかたなども挿入している。人から見ると気ままで自分勝手に想えるかの子さんだが、脚本の中のかの子さんは只一生懸命に突き進んでしまいその道しかなくなってしまう。そういう生き方しかできない人である。そして、それを一番理解していたのが、夫の岡本一平さんであった。

 

  • 明石原人ーある夫婦の物語ー』は、明石原人の発見者の長良信夫さんと妻の音さんの夫婦の物語である。民間人が発見しても考古学の世界ではなかなかそれを認めてはもらえないというのは、群馬の岩宿で石器時代の黒曜石製小頭石器を発見した相沢忠洋さんの著書『「岩宿」の発見ー幻の旧石器を求めて』で知った。たまたま岩宿遺跡と岩宿博物館に寄ってこの本があって読んだからで遺跡に興味があったわけではない。長良信夫さんの場合は、石器時代に人が存在したということ自体が、日本古来の神話に触れることになり曖昧にされ、戦後になってはじめて認められるのである。民間人の発見と、戦争という時代とも重なりもみ消されてしまいそうな事実がやっと認められるのである。

 

  • 相沢忠洋さんの本のあとがきにも、「明石原人の発見者で有名な直良(なおら)信夫先生も来られた。」と書かれてあり、小幡欣治さんも戯曲の中に、相沢忠洋さんに会いにいったことがでてくる。小幡欣治さんは、この戯曲のあとがきで、長良信夫さんの家族に了承を得て創作させてもらったと書かれているが当たり前と思っていた石器時代にも人間が存在していたということが認められるまでには大変な苦労があったのだということを改めて戯曲から知ったのである。

 

  • 小幡欣治さんの戯曲は、日本の知られざる土地の消えてしまいそうな生活者のことが、音楽や風景や生活や歴史を織り込みつつ書かれていて読み物としてもぐんぐん引っ張てくれた。『遺書』は十八代目勘三郎さんが勘九郎さん時代に出演していて、『春の嵐』には、吉右衛門さんが出演されていた。岩宿遺跡は、両毛線の岩宿駅から歩いて25分くらいである。

 

  • 3月にある七之助さんの特別舞踏公演は、この岩宿から距離的にはそう遠くない大間々の「ながめ余興場」から始まるのである。わたらせ渓谷鐵道の大間々駅から徒歩5分の「ながめ余興場」は見学したことがあり、この小屋で演芸が観てみたいと思っていたのである。勘三郎さんの歌舞伎を観た事がない人にもという意志を継いでの公演である。それだけに地元の人の席を取るのは不心得者であるが、先行の抽選に応募したが落選で、潔くあきらめることにした。もう一度この芝居小屋に見学だけでも訪れたいし機会があれば観客になりたい芝居小屋である。

 

 

  • 小幡欣治さんが書かれたのであればと『評伝 菊田一夫』を読む。菊田一夫さんの生い立ち、そして浅草時代が大変参考になった。さらに<あちゃらか>から<商業演劇>への脱出。東宝関連の演劇の流れも初めて文字として知る。菊田一夫さんを描きつつ一つの演劇界の歴史をも知りえて興味深かく楽しませてもらった。

 

石和温泉大衆演劇の旅

  • 老人会の旅と称して動線はゆるやかである。行先は山梨県の石和温泉にある大衆演劇つきの宿。友人はどんなところか心配している。大衆演劇のお値段もついての宿泊料に疑心暗鬼であったようだ。あっと驚く・・・「いいではないかあ!畳も新しい!」ようございました。その時はその時と思っていたのであるが先ずは通過。スパランドでもあるので館内はスリッパ無し。部屋にはたびソックスも用意していてくれた。一息いれて館内の散策である。お風呂は宿泊者用のロッカーもあり、浴用タオルは使い放題である。お風呂は大衆演劇が終ってからゆっくりと。ただここは天然温泉ではないが、満足。

 

  • 友人たちは大衆演劇初体験なので、興味津々である。四か所の飲食店のサービス券ももらったので先ずはこじんまりと乾杯して、大衆演劇の会場で食事とする。指定席を予約していたので、時間になると先に飲食されていたお客さんを誘導して席をあけてくれる。またまた乾杯。この旅で何回乾杯したことか。スパランド内藤は土日が大衆演劇昼夜、平日は昼のみの上演である。今回は気に入れば次の日昼の部を観劇する予定であった。

 

  • 友人達、気にいってくれて次の日の午前中は石和温泉駅までの送迎バスで石和温泉駅前に出る。観光案内でいくつかチエックして駅裏の大経寺へ。本堂前も綺麗に整備されていてお庭も有料で拝観できるが残念ながら応答なしで誰もおられなかった。そこからワイナリーへ。試飲などして買い物をして食事すると送迎バスでスパランドにもどる時間となる。もし大衆演劇がもう結構となれば、甲府に出て太宰治さんの新婚生活の場などを散策してもと思っていたが歩く気なしである。

 

  • 大衆演劇二日目。お芝居も舞踏ショーも前日と違うが何となく役者さんがわかり、あの役者さんは昨日のあの役の人ねとゴチョゴチョ、ヒソヒソ。ただ友人一人、座長さんの立役と女形とを別の人とずーっと思っていました。舞踊ショーは今日のほうが振り付けに変化があり、役者さん一人一人の個性が出ていて良かったとの共通意見。面白かったのが、二才の子がフード付きの衣裳で出てきた。この衣装、大衆演劇ではブームのようで笑ってしまった。うしろ向きになってフードを外しての見せ場なのであるがなかなかフードを後ろに外せないのである。何んとか外してお顔をばっちりである。

 

  • 口上の時も現れて、座長さんが舞台が好きでと言われていたが、もう音楽の世界に入りきっている。舞台中央の先端に座ってポーズをきめ、二段ほどの階段を飛び降り、客席の真ん中を通り舞台にもどりジャンプしたりしてきっちり最後まで自分の世界を披露してくれた。最後の群舞にも出て来て自分なりの踊りをしていたが皆さん移動して踊るのでちょっとぶつかって泣き出してしまった。でも誰も慰めてはくれない。役者さんは皆さん自分の踊りを続けている。どうするのかなと見ていたら、泣いてる場合か!とばかりに踊り始めて前のほうに前のほうへと移動していた。あっぱれ!こうやって幼い頃から芸を身につけていくのかと納得。

 

  • 20代で座長になられる方も多く、20歳くらいまでには最低一か月昼夜別芝居をできるだけの数の芝居を覚え込まなくてはならないであろうし、怪我や病気などの団員さんもでてくるであろうから、その場その場で臨機応変に対処できるノウハウも身に着ければならない。2歳くらいからやっても時間は短いともいえる。

 

  • 後方と前方と観劇でき、友人達も大満足であった。休憩のときはまた乾杯。こんなに一生懸命演じるとは思わなかったと。また老人会宜しくとのことである。そしてお風呂のあとは、また飲んで、しゃべって。次の日一緒に山梨県立美術館に寄る予定であった友人が、少し飲み過ぎのため先に帰る友人と共に帰ることとなり、石和温泉駅で別れて一人山梨県立美術館へ。

 

  • シャルルー=フランソワ・ドービニー展』。どこかで観ているのでしょうが印象に薄い。「バルビゾン派から印象派への架け橋」とあり、バルビゾン派はどちらかというと好きではなく、「架け橋」にひかれたのである。バルビゾン派の画家の一人で個展を開催されたことがなく、没後140周年企画といことである。後年、サロン(官展)の審査員をつとめ印象派の画家たちを応援した。モネが落選したときドービニーはそれに反抗して委員をやめている。

 

  • 面白い人で、アトリエ船「ボタン号」に乗って移動しつつ絵を描いていて「旅する画家」と呼ばれた。挿絵で生計を立てていた時期もあり、エッチングの版画で『船の旅』を出しており、ゴッホもその版画を集めていた。ゴッホは『ドービニーの庭』の作品もあり、ドービニーのアトリエのあったオーヴェルがゴッホの終焉の地である。ゴッホがオーヴェルに行った時はすでにドービニーは亡くなっていたが非常に敬愛していたようである。

 

  • モネも船上での制作を試みたことがあり、特別出品の『セーヌ河の朝』は時間の流れにともなう光からの色の変化を追求するモネの原点に、ドービニーの影響を示唆している。ドービニーは船での移動で観る自然の風景が時間によって変わることを体験したからこそ、印象派の新しい若き画家たちの絵を理解し後押しできたのであろう。「架け橋」とは大事である。甲府市に宿泊した人は割引きしてくれた。(12月16日まで) 同館のミレー館ではミレーの『角笛を吹く牛飼い』が約100年ぶりの一般公開であった。

 

  • 新宿から甲府まで高速バスもある。日中は30分おきに出ていて、特急便は2時間くらいで甲府駅まで行き、途中、石和で停まる。このバス停で降りると徒歩10分で石和温泉駅につく。平日限定の二枚回数券「トクワリきっぷ」が3000円である。甲府まで片道・2000円であるからかなりのお得である。おそらく石和までもあると思う。石和温泉駅で送迎バスを待っている間、色々な宿のむかえの車がきて石和温泉元気じゃないのと思ったが、20年前にくらべると落ち込んでいるそうだ。外国のかたは、外国経営の宿に泊まるそうである。石和温泉に行こうなんて思ってもいなかったので、これをご縁に石和(いさわ)温泉心にとめておこう。

 

劇団民藝『グレイクリスマス』

  • グレイクリスマス』とは芝居の中では、雪が降って辺り一面を真っ白に美しくおおってくれるクリスマスがホワイトクリスマスで、雪の降らなかったクリスマスのことをグレイクリスマスとしている。グレイクリスマスのほうが現実をさらけだしているということで、グレイクリスマスを知らずに、ホワイトクリスマスにしても良いのかという意味合いにもとれる。

 

  • お芝居の中で、九條家の娘・雅子がピアノで「ホワイトクリスマス」を弾く場面がある。「ホワイトクリスマス」の歌は、アメリカ映画『スイング・ホテル』の中に出てきた一曲で大ヒットする。それが太平洋戦争が始まった次の年、1942年のことで、戦争が終結したのが1945年である。『グレイクリスマス』は1945年のクリスマスから1950年のクリスマスの間を描いていて、日本でも当然映画『スイング・ホテル』は公開されていたわけである。そしてもう一曲弾くのが『蛍の光』である。この曲を頼んだのは、闇屋であるらしい権堂である。1950年には朝鮮戦争が勃発している。

 

  • 5年間を元伯爵家である五條家の離れの一室で描かれる。華族制度廃止で五條家は収入源がなくなり、母屋は進駐軍のダンスホールとして接収される。時間がたつことによって、戦犯裁判にかけられる人、ヒロポン中毒にかかる人なども出て来てくる。心に内に秘めて言えなかった事実が次第に吐露されそれぞれの人間像が明らかになっていく。その人物設定が絡み合って、戦後5年間にどう人々が生きていき、また復活していくかが上手く表現されている。そして演じる役者さんも隙間のないしっかりした演技で交差してみせてくれる。

 

  • 夢のようなお金の儲け方を考える五條家の主人(千葉茂則)。若くして後妻に入り日系二世のアメリカ人の進駐軍将校のデモクラシーの話しと新しい憲法に光を見い出す華子(中地美佐子)。その時代その時代を上手く乗り越える主人の弟・紀孝(本廣真吾)。死にたいとしていながら警察予備隊に生きがいをみつける息子・紘一(岩谷優志)。自分の恋人が戦争責任で処刑される娘・雅子(神保有紀美)。夫のために進駐軍のもてなしをする紘一の妻・慶子(吉田陽子)。戦争で儲けてその後も何とかしよう画策する華子の兄・三橋(みやざこ夏穂)。

 

  • 日系二世で日本のデモクラシーをと尽力する進駐軍将校のジョージ・イトウ(塩田泰久)。始めは皆にもてはやされるイトウの運転手でもある進駐軍兵士のウォルター(神敏将)。何となく凄味があり、うさんくさく、それでいて五條家の人々の手助けをする権堂(岡本健一)。権堂の口利きでもうけ話を主人に持ち込む平井(吉田扶敏)。権堂にくっついて働く藤島(大中輝洋)。しっかり者の女中頭(船坂博子)。今も先頭にたって主人に従順な使用人(境賢一)。お暇をまぬがれた使用人たち(飯野遠、野田香保里、岡山甫、平野尚)

 

  • 12月23日にA級戦犯が処刑され、24日のクリスマスイブの日に釈放された人たちもいて、進駐軍は仕事を早くかたずけてメリークリスマスを迎えたかったのであろうか。それは宗教上の違いということでもあろう。大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』の「メリークリスマス」といったビートたけしさんの笑顔が浮かぶ。かえってなぞが深いところにはまっていきそうであるが、なにかつながっていそうな気がする。

 

  • 岡本健一さんは、奈良岡朋子さんとの二人芝居で初めて観たのであるが、今回は何かありそうでわからないという雰囲気がよかった。客演で劇団民藝で訓練されていない部分がかえって上手くその輪を変形させてくれて興味ひかれる権堂像となった。さて何事もなかったように雪はふるのであろうか・・・。
  • 作・斉藤憐/演出・丹野郁弓 (三越劇場 12月19日まで)

 

  • 民藝は木下順二さんの作品『神と人とのあいだに』第一部『審判』(演出・兒玉庸策)、第二部『夏・南方のローマンス』(演出・丹野郁弓)も2-3月に上演している。『審判』のほうは、「東京裁判」を扱っていて、『夏・南方のローマンス』はBC級戦犯裁判を扱ったもので重いなと思っていたが意外と笑わせられた。『審判』は、民藝のベテラン陣の役者さんがいなければ上演できない作品である。日本を弁護してくれているのかと思う外国の主張が、締めは自国の弁護にするっと切り替わるという展開に、そこにくるわけですかと笑ってしまった。聴いているぶんにはそういうことかと筋道は立つようなのであるが、説明しようとすると各国の思惑が複雑に絡んでいてできないのである。よく脚本にしたと思います。

 

  • 『夏・南方のローマンス』は南の国の夏に行われた三日間の戦犯裁判がからんでいて、無事に帰ってきた上等兵が、戦友で死刑が執行された上等兵の家族にそのことを伝えにくるのであるが、死んだ上等兵は本当に死に値する罪を犯したのかということが見え隠れしてくるのである。この芝居は、若い人はあまり観ないであろうと思っていたが、若い人の姿がありちょっと不思議な現象であった。こういう問題をきちんと脚本にし、それを演じるまでのキャリアを積むという事は、新劇の歴史の積み重ねということなのでしょう。

 

  • 劇団民藝は年5回の東京公演を決めて『民藝の仲間』を募集している。年会費2万円。一回公演あたり4000円でパンフレットつきである。『民藝の仲間』の新聞も送られてきて公演の内容、劇団の活動状況などが紹介されている。以前三越劇場でもこうした会を催していたが残念なことにやめてしまった。

 

新橋演舞場『喜劇 有頂天団地』・ 劇団民藝『浅草物語』

  • 新橋演舞場『喜劇 有頂天団地』は、渡辺えりさんとキムラ緑子さんのコンビ「有頂天シリーズ」の第三弾である。自分の家を持つのが最大のステータスの時代背景(昭和50年代初め)。榎本健一さんの『私の青空』がピッタリコン。小幡欣治さんの『隣人戦争』を、「有頂天シリーズ」ゆえに『有頂天団地』にかえている。小幡欣治さんは浅草生まれで、それとエノケンさんをかぶせ、さらに歌の歌詞をかぶせ、本当に歌詞どおりなのと喜劇にもっていく。さらっと重ねているところが妙手。

 

  • 夕暮れに あおぎ見る かがやく青空 日が暮れて たどるは 我が家の細道 せまいながらも 楽しい我家 愛の日影のさすところ 恋しい家こそ 私の青空

 

  • 軽く踊ってタイトルを出すのも「これ喜劇ですから御気軽に オホホホホ~ホホ」である。歴史ある?住宅街に、安普請の建売り住宅6棟の住人が悪戦苦闘して見栄を張りながらも、新たな絆を築いていく。演技過剰の動きも庶民の細やかな幸福を何んとか守ろうとする愛すべき住人として功を奏している。中途半端だとかえって今の時代しらけてしまう。よくしゃべり、よく動く。

 

  • 新参者に古参の住人が少しお話がありますと登場する。鷲尾真知子さんの古参がいい。きゅっと締める。認知症のおじいちゃんが授業参観の名目で小学校に通っている。認知症があるのかないのかその境目のない隅田家のおじいちゃんの笹野高史さん。嫁の隅田秀子の渡辺えりさんのど~んとしたところが舅問題も問題なし。お隣の徳永家のお婆ちゃんは口も身体も元気なので嫁のくに子のキムラ緑子さんはアタフタするがそれ以上に動きっぱなしで姑の広岡由里子さんも負けてはいられない。結果的に老人には優しい有頂天団地で、めでたし、めでたし・・・? 老人問題よりもマダム問題・・・?

 

  • 歴史は繰りかえされる。人間はやはり浅はかでした。のど元過ぎればなんとやらで・・・。疑いもなく同じことを。新しい環境で新しい絆をと目指したが・・・。根底には現実はそう簡単に有頂天には解決されないことは分かっているが、ひとまず喜劇の方向からせめてみましょうよである。第二弾『喜劇 有頂天一座』は山場に入るまでが長くへきえきしたが、今回はコロコロと転がってくれたので助かった。近日、小幡欣治さんの『隣人戦争』を読む予定。長い台詞を読むのが楽しみである。(新橋演舞場 12月22日まで)

 

  • 作・小幡欣治『隣人戦争』より/演出・マギー/出演・渡辺えり、キムラ緑子、笹野高史、鷲尾真知子、広岡由里子、西尾まり、久世星佳、明星真由美、田中美央、片山陽加、一色采子 etc

 

  • 小幡欣治さんの喜劇の後は悲劇とする。『浅草物語』は、設定は悲劇なのであるが、そこに何とも言えない暖かい血が通う。「生まれた土地や家のことを書くのは、なんとも面映ゆいもので、今まで意識的に避けてきたが、戦い前の下町を知る人が殆どいなくなってきたことも考えて、照れながら芝居にまとめた。私にとっては、初めての浅草ものである。」

 

  • 小幡欣治さんは、1995年からは民藝に新作を提供している。『熊楠の家』『根岸庵律女』『かの子かんのん』『明石原人』『浅草物語』『喜劇の殿さん』『坐魚荘の人びと』『神戸北ホテル』。『かの子かんのん』『明石原人』は観ていないが今回脚本を読むことにした。どれも秀作である。『喜劇の殿さん』はロッパさんを主人公にしていて、どうしてエノケンさんじゃなくてロッパさんなのですかと聞かれ、小幡さんは答えている。エノケンは不遇のときもあったが晩年に光があたり、ロッパは最後は本当に気の毒な生涯だったから、最後のロッパ独特の魅力に光を当ててみたかったと。脇にいる人に照明を当てている。『隣人戦争』も広い家の一角に出来たシンコ細工のような狭い家の住人にスポットライトを当てたのもそういうことなのであろう。

 

  • 浅草物語』は、2008年に実際の舞台も観ているしテレビでも中継録画を放映してくれたので今回見直して、浅草の瓢箪池がまだ残っている1937年(昭和12年)のことで一層涙を誘われた。あらすじとしては、酒屋の大旦那・市之進が今は三ノ輪で一人暮らしをしていて、浅草千束町の裏通り十二階下と呼ばれる場所でカフェーを開いている女性・りんに惚れて一緒になりたいとおもうが、家族の反対、りんの気持ちなどがからんで、最後は少し光がさすというところでおわる。

 

  • 市之進の長女・くみは浅草聖天町(しょうてんちょう)の大浦ふとん店の女主人で店には、父の事で兄と妹たちが集まっている。父の面倒を見てくれるならと喜んでいたが、もと吉原に勤めていたとあって話は違ってくる。くみはりんの店を訪ね別れてくれという。りんは41才で市之進は還暦を過ぎていて、ただの大家と店子の関係だという。りんは吉原で好きな男の子供を産んでおり当然すぐに里子に出された。その役目を引き受けたのが箱屋の伝吉(ハコ伝)であった。

 

  • りんはその後身請けされ結婚するが、新潟にいる息子に会いたくて会いにいく。農家にもらわれたという子は鍛冶屋に売られていた。その親からそれ相当のお金をと言われどうすることもできず帰ってくるが夫は居なくなっていた。りんは再び浅草でカフェーを開くまでになる。ハコ伝に頼んで息子に送金していたが、息子が結婚するから出席してほしいと伝えてくる。りんは自分が廓にいたことを恥てそれを断る。

 

  • りんは廓から逃げた娘を助けて田舎に帰すが、娘は田舎に帰らず客引きをしていて、警察でりんの店でも客をとったとウソをいう。そのため店は営業停止となりりんはお酒をあおる。そこへ息子が赤紙が来たため一目会いたいと訪ねて来る。りんは会おうとするが自分の酔った姿を見せるのが嫌でカギをかけ電気を消す。息子は訪ねてきた母のことを覚えていて、母の昔のことなど気にかけていないという。その息子の声を聞きつつりんは耐える。息子は帰っていく。

 

  • 瓢箪池の中之島の藤棚のベンチに市之進が座っていて、木馬館のジンタが聞こえる。りんが現れ、息子に会いに新潟に行くことを告げる。「私、一生会えなくてもいいから、戦争になんかに行かずに、お嫁さんとしあわせに暮らしてくれたら、どんなにいいかと・・・でも、そういう訳にいかなくなっちゃった。」市之進は帰ってきたら一緒に住もうという。市之進も宿場の飯盛女の子で里子に出され、たらい回しされてやっと酒屋の小僧になったのである。子供たちはそれを知らない。市之進は上野までりんを送るという。足元があぶないと、りんは市之進を杖につかまらせひっぱるのであった。

 

  • 市之進の大滝秀治さんとりんの奈良岡朋子さんのやりとりが絶妙である。必死になって商売にかける女が、市之進が息子と同じように里子に出されたことを知って市之進の人間性を見るようになる。市之進は時にはべらめえ調でありながら自分の生い立ちについては淡々と語る。りんは長女・くみの日色ともゑさんともぽんぽん言い合うが、嫌味には響かないのが不思議だ。駆け引きのない言葉のキャッチボールだからであろう。喜劇でも悲劇でも、その人の隠れた部分の出し方が台詞によって喜劇になったり悲劇であったりする。ただ悲劇で終わらせないところが小幡欣治さんの本質的な部分なのである。

 

  • 小幡欣治さんの生家も聖天町でふとん屋をしていた。『浅草物語』は戦争に入る時代で、古い綿の回りに新しい綿を包む「あんこ」やお酒を水で薄める「金魚」などの言葉がでてきて庶民生活の変化が映し出されている。そして、市之進とりんの共有する言葉が「しりとり」である。

 

  • 大晦日、晦日が過ぎたらお正月、お正月の宝船、宝船には七福神、神功皇后武の内、内田は剣菱七つ梅、梅松桜は菅原で、わらでたばねた投島田、島田金谷は大井川・・・牡丹に唐獅子竹に虎、虎をふまえた和藤内、内藤さまは下り藤、富士見西行うしろ向き、むき身蛤バカ柱、柱は二階と縁の下、下谷上野の山かつら、桂文治は噺家で、でんでん太鼓に笙の笛・・・

 

  • 作・小幡欣治/演出・高橋清祐/出演・大滝秀治、奈良岡朋子、三浦威、日色ともゑ、白石珠江、細川ひさよ、河野しずか、小杉勇二、仙北谷和子、大越弥生、高橋征郎、渡辺えりか、齊藤尊史、みやざこ夏穂 etc

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」さらに浅草(4)

  • 宮沢賢治さんが浅草オペラを観ていたという記述をみつけた。『浅草六区はいつもモダンだった』(雑喉潤著)にである。1983年(昭和59年2月4日)、東京の新橋ヤクルトホールで『宮沢賢治没後50年記念のつどい』があった。「賢治へのいざない」の中で関係者から宮沢賢治さんがペラゴロの一人であったことが明らかにされ、1918年(大正7年)の暮れ以来、上京のたびに浅草オペラに通っていたのである。

 

  • その後花巻農学校の生徒を連れて修学旅行に行った際の函館港を詩にし次のようにうたっている。「あはれマドロス田山力三は  ひとりセビラの床屋を唱ひ  高田正夫はその一党と  紙の服着てタンゴを踊る」(『函館港春夜光景』)このとき浅草オペラはすでに無く、函館港の灯りに懐かしく思い出したのであろう。高田正夫は高田雅夫さんであろう。記念のつどいで田山力三さんは、「浪をけり風を衝く 舟人に海は家」を歌い、「賢治さん、終わりのない銀河鉄道に乗りながら、この歌を聴いて下さいね」と挨拶した。

 

  • 『明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎」(矢野賢二著)には宮沢賢治さんの「弧光燈(アークライト)の秋風に、芸を了(おわ)りてチャリネの子、その影小くやすらいぬ。」(「銅鑼と看板 トロンボン」)を紹介している。チャリネというのは、西洋からのサーカス団「チャリネ曲馬団」が人気を博し、日本人による曲馬団が「日本チャリネ一座」と名乗り、チャリネがサーカスを意味していた。

 

  • 宮沢賢治さんは新しい芸能に興味がありそれを実際の演劇にも反映し、詩のなかにも新しい感覚として使っていたようにおもわれる。灯りと芸を演じる人を上手く組み合わせている。農業に関しても新しい方法を探求し胸の内には既成の物事にとらわれない生命が常にふつふつとわき上がっていた。それに肉体がついていけなかったのである。参考まで少し。「チャリネ曲馬団」を歌舞伎で一幕の舞踏劇にしたのが五代目菊五郎さんの『鳴響茶音曲馬』(なりひびくちゃりねのきょくば)』で黙阿弥さん作である。

 

  • 島津保次郎監督『浅草の灯』は古い映画でもありオペゴロやその当時のようすを面白おかしく紹介しているだけのもの思っていた。ところが、この映画はしっかり当時の浅草オペラとその周辺の人間関係などを撮っているということである。原作は浜本浩さんの小説『浅草の灯』でこの原作自体が架空の小説ではなく事実に即した浅草の生態「正義と勇気と友情と純粋な恋愛に生きた浅草の人々」の生活記録としている。金竜館の裏の射的屋や看板娘とペラゴロの様子。給料の前借りをしてドロンして夜逃げ。舞台と観客の様子など実際にあったことを盛り込んでいるのである。

 

  • 『浅草六区はいつもモダンだった』は、大正の浅草オペラ、昭和戦前のレビュー、軽喜劇、その流れからの戦後の六区の芸能のことが詳しく語られている。驚くのは『鉄砲喜久一代記』を書かれた茂在寅男さん(ペンネーム・油棚憲一)、が浜本浩さんに、自分に弟子入りして小説家にならないかと誘われていることである。茂在寅男さんが海洋小説の懸賞に応募し、その作品を選考委員をしていた浜本浩さんが気に入ったのである。茂在寅男さんは迷ったが海洋学者の道を選ぶ。『鉄砲喜久一代記』は、そのおかげでとも言えるような資料を丹念に調べ、読者の気をそらさない作品となっていて大変参考にさせてもらった。浅草六区に魅かれた起爆剤のひとつでもある。 『鉄砲喜久一代記』と「江戸東京博物館」(1)

 

  • 五代目菊五郎さんも驚くほどの新しがり屋で、キクゴロがいてもいいくらいである。舞台に浅草公園を登場させている。イギリス人の風船乗りスペンサーが来日して上野公園の博物館まえでも公開し、それを歌舞伎にしたのが五代目菊五郎さんと黙阿弥さんである。『風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)』。「高殿」が凌雲閣で、そこに登って風船乗りを見物していた様々なひとが茶店に集まってそのうわさ「評判」をしているのである。そこに圓朝に扮した五代目菊五郎さんがあらわれるということらしい。もちろんその前半には五代目菊五郎さんが歌舞伎版スペンサーとなって演じている。ここでは浅草公園と十二階が歌舞伎に出てきたということだけにする。こちらはこの芝居と反対にそろそろ浅草公園から上野公園の博物館に誘われているようである。

 

  • 面白いことに浅草で不良だったサトウハチローさんの詩の挿絵をいわさきちひろさんが描かれている。いわさきちひろさんは、ずっーとかわいらしいものが好きだったようである。サトウハチローさんは色々なことにたずさわるが、すぱっと童謡詩人にもどる。かわいらしいものや小さいものがお好きなようだ。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」(3)

  • 東京都練馬にある『ちひろ美術館』に行ったとき、あの可愛らしい絵の中の子供たちと同じように生きている子供たちが幸せであるようにという想いが伝わってきた。同時にいわさきちひろさんには過去に非常につらいことがあったのだなということを少し知ることができた。戦争のあった時代を生きてこられたわけであるから誰しも悲しいこと、後悔すること、怒りを感じることなど様々な感情を呼び起こす経験はされている。

 

  • ちひろさんが最初結婚されたかたは、自分で命を絶っていた。ちひろさんは自分の意志をはっきりさせず周りに押し切られて結婚し、そういう結果を招いたことに深い自戒の念があった。そして絵を捨てたことにも。前進座公演『ちひろ ー私、絵と結婚するのー』は、戦後ちひろさんがそこから這い出し、絵で自立する3年半をえがいている。ただ、それと同時も結婚を申し込まれるというところで終わっている。結婚しても絵との結婚を妨げない人からの申し込みであったということになる。

 

  • ちひろさんがどうして絵で自立できたかという過程は知らなかったので芝居を観つつそうであったのかと明らかになる部分がほとんであった。松本から泊るところも決めないで出版社の面接に東京にでてくる。これが自立への第一歩であった。1946年(昭和21年・27歳)のことである。食料難である。泊めてもらえたのが、池袋モンパルナス(芸術家が修練の場所として住んでいた地域)の丸山俊子さんのアトリエであった。丸山俊子さんは丸木俊さんがモデルであるということがわかる。ちひろさんは、出版社にも就職でき、丸山俊子さんの早朝デッサンの会にも参加し、色々な人に絵の批評を受ける。

 

  • ちひろさんは、子供時代お母さんは教師をしており、恵まれた環境で「コドモノクニ」の子供雑誌などにも触れて豊かな感性をはぐくんでいる。絵の仲間たちから『コドモノクニ』とは高価なものを手にしていたんだね。などともいわれる。皆、自分の絵の線を探している。印象的なのは、丸山俊子さんがちひろさんに、人の絵にふらふらしないで自分の絵をめざせという。丸木俊さんは、『原爆の図』を描かれたかたで、いわさきちひろさんの絵とはかけ離れているようにおもえるが、その精神性は一緒であると理解されていたようである。ちひろさんも、自分の意見を主張しないで悲劇が生まれたとの想いから恐らく自分の絵に対する意志は曲げなかったであろう。

 

  • そんな時、紙芝居を制作したいという仕事が舞い込む。その編集者・稲村泰子さんは盛岡出身で宮沢賢治の信奉者でちひろさんも宮沢賢治は大好きであった。意気投合する。紙芝居はアンデルセンの童話で、原作を脚色している『お母さんの話し』である。そのあたりのふたりのやりとりも面白い。ちひろさんに結婚を申し込む人・橋本善明さんは青年活動家で宮沢賢治を知らくて、ちひろさんと稲村さんにずっこけられる。今回この舞台の脚本は、前進座の俳優・朱海青さんでこの作品が脚本家デビューである。よく出来上がっていると思う。下宿のおばさんが庶民の感覚を代弁したりしている。

 

  • ちひろさんは、満州で身体を壊し他の人より早く日本に帰ってくる。そのことも残された人々のその後を考えると苦しいものがった。芝居には出てこないが、お母さんが国のためにした仕事など、その後に見えてきたことに対する贖罪のような感情がたえずあったと思われる。それでも自立し絵に対する気持ちを大切にしようという意思が<私、絵と結婚するの>に現れている。東京での女学生時代、岡田三郎助さんに師事し女性の公募展で入選もしていてその才能は芽を出していたのである。ちひろさんの子供たちには、その芽をつまないでの祈りのようなものさえ感じる。

 

  • 前進座の歌舞伎や時代劇ではない現代物である。役者さんも、現代物でのほうがその演技力を発揮できるかたもおられたのではないだろうか。いわさきちひろ生誕100年に舞台化され新たな前進座の前進となったように思える。ちひろさんの絵の色使いとか線とかも改めて味わってみたくなった。

原案・松本猛/台本・朱海青/演出・鵜山仁/出演・有田佳代、新村宗二郎、松川悠子、益城宏、中嶋宏太郎、浜名実貴、黒河内雅子、西川かずこ、渡会元之、嵐芳三郎、上滝啓太郎、嵐市太郎、松涛喜八郎

 

  • 宮沢賢治さんが自作の戯曲の上演をしたのが、勤務していた農学校が岩手県立花巻農学校となり新校舎落成・県立校昇格の記念式典である。上演したのは『植物医師』『飢餓陣営』である。(1923年・大正12年)『飢餓陣営』は浅草オペラの影響があり、宮沢賢治さんは浅草オペラを見たとされている。まだいつ賢治さんが浅草オペラに接したのか、実証される文献にはお目にかかっていない。あのガチガチに固まってみえる宮沢賢治さんが浅草でオペラを観たと想像するのは楽しいし、それを岩手で実行しようとしていたなら先進をいっている。

 

  • 春と阿修羅』を自費出版したのが1924年(大正13年)で、それを激賞したのが、辻潤さんの『惰眠洞妄語』(読売新聞)と佐藤惣之助さんの『十三年度の詩集』(日本詩人)である。このお二人、浅草の「ペラゴロ」で「ゴロ」はゴロツキではなくフランス語のジゴロ(地回り)からきていて辻潤さんが命名したとの話もある。その「ペラゴロ」が宮沢賢治さんの『春と阿修羅』を一番に押したのであるから浮き浮きしてしまう。宮沢賢治さんの心の中は弾力豊かに跳ねていたとおもえる。

 

  • ちひろ ー私、絵と結婚するのー』のチラシの絵が「窓ガラスに絵をかく少女」で『あめのひのおるすばん』に入っているらしい。早く帰って来ないかなとひとり窓から外を見ているうちに窓ガラスの水滴に気が付きそれに人差し指で絵を画いているのだろう。パンフレットの中にも「指遊びをする女の子」という右手の人差し指を動かして遊んでいるらしい絵。その人差し指が強調されていて少し長い。「絵をかく女の子」は親指と人差し指でクレヨンを持ち絵を画いている。高畑勲監督(合掌)の『火垂るの墓』の節子ちゃんが親指と人差し指にドロップをはさみ口に入れるのを思い出す。

 

  • 映画『アンデルセン物語』(1952年)はダニ―・ケイがアンデルセンを演じるミュージカル映画である。デンマークのオーデンスに住むアンデルセンは靴屋の仕事もせずに、お話を作っては子供たちに聞かせるのである。弟子のピーターは気が気ではない。子供たちが話に夢中になり学校へ行かないのである。町の偉い人達はオーデンスの町から追放すると決める。ピーターは追放をアンデルセンに気づかせないようににコペンハーゲンに行こうと誘いだしコペンハーゲンに着く。ところが、国王の像の台座に登ってしまいけしからんと牢屋にいれられてしまう。アンデルセンは窓から外をのぞくと女の子が寂しそうにしている。友達がほしいのかいといって、左手にハンカチをかぶせ、親指に目鼻を画いて小さくたってくじけないと楽しく歌って聞かせる。そして右手の親指と仲良くなる。女の子は自分の親指をみつめる。女の子は寂しいときは親指姫と遊ぶのかな。

 

  • この映画は、アンデルセンの失恋も描いてもいる。バレリーナに恋をして、『人魚姫』の話しを捧げる。そのお話はバレエの台本につかわれ、恋するバレリーナによって人形姫は踊られるのである。ところが、アンデルセンの勘違いで恋は破れてしまう。病気で頭の毛がない男の子に『みにくいアヒルの子』を聞かせその子は納得して元気になる。その子のお父さんが出版業をしていてアンデルセンのお話しを新聞に乗せる。作家アンデルセンの誕生である。アンデルセンはピーターと故郷へもどるのであった。

 

  • 『人魚姫』のバレエ舞台の振り付けが時代的に考えると新しく誰の振り付けかと思ったらローラン・プティであった。なるほど。アンデルセンの恋するバレリーナはパリ・バレエ団のジジ・ジャンメイルが演じている。ちひろさんのお陰でほったらかしの映画『アンデルセン物語』のDVDの封も切ることができた。ちひろさんのアンデルセンのお話の挿絵はどんな絵であろうか。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」(2)

  • 木馬館』浅草でここへ何回も来るとは思っていなかった。浅草そのものが観光ガイド的な場所であった。毎月一回は大衆演劇を楽しむため『木馬館』を訪れる。予定はたてずその時の気分だったり、友人に声をかけて決まったりする。今回は浅草公会堂での前進座『ちひろ ー私、絵と結婚するのー』の夜の部の観劇を入れていたので昼は『木馬館』と決まった。

 

  • 大衆演劇の芝居小屋によって違うこともあるが、整理券を出すところもあり『木馬館』も出している。その時によって入場者の波があるのを知る。友人を誘い私は予定がありぎりぎりにいくので先に入っていてと言ったところ彼女らしい見やすい席に座っていたので安心した。こちらもほど良い席に座れた。一度など友人と時間を潰してから行ったら整理券がでていて並んでいる。座れたのは一番後ろの丸椅子であった。どこでも観やすいのでそうこだわらないが、先に覗いて整理券のあるときはそれを受け取ってから散策にでかける。要領がよくなってきた。

 

  • サトウハチローさん自身の<木馬館の恋>がある。当時の『木馬館』はジンタが流れ乗り物の木馬が回る小さなメリーゴーランドであった。今もその木馬が建物の外から見えるように展示されている。ハチローさんはこの木馬に乗り続けた。身体の大きなかたであるからあの小さな木馬に乗った姿は想像しても恰好よいものではないが、木馬館の女の子に恋をしてしまったのである。お金は父・紅緑さんに「乗馬をやっている」といってお金をもらっている。おしィちゃんには全然通じていない。告白などできない。

 

  • 以前、今戸の渡し場で船頭の手伝いをしたことがあった。渡しの船で向島から浅草を決まった時間に往復する美しい娘さんに恋をしてしまう。ある日、向島から後をつけると浅草金魚飼育所の看板の家に入った。数日後ハチローさんは意を決し娘さんをお嫁さんにしたいと申し込みことにいく。金魚屋を訪れ兄貴らしい人に、いつも渡しで浅草に行くあの娘さんをお貰いしたいと申し出る。兄貴が言った。あの娘ですか。あいつは俺の女房なのですが。

 

  • そのことがあり今度は木馬館でラムネを売っているお婆さんに仲介を頼むことにした。木馬に乗り過ぎてズボンの内股はすり切れ、両方の手のは手綱のタコが出来ている。喉が渇くのでラムネを日に何本も飲むためラムネ売りのお婆さんとも顔みしりである。お婆さんは、毎日木馬に乗っている人に嫁はこないだろうとあっさり拒否する。このお婆さんはあの女の娘の母親であった。コントになりそうな実体験である。

 

  • 木馬館』の大衆演劇も楽しく大笑いの場面もあった。大衆演劇には笑いのセンスの良い役者さんが多い。何が飛び出すか分からないところがお化け屋敷さながらで、突然変な人が現れる。初めての人は、皆の笑いについていけず何事かと思い、もしかしてあの美しい役者さんがこの人なのかと3歩ぐらいおくれて気が付く。そのうち芝居の笑いに吸い込まれる。ただこの変な人は、恰好良い人に居場所をとられてしまう。そして形が決まって幕となる。まあこれは一つの例で、様々のバージョンがあるので何とも出たとこ勝負である。珍しく、昼夜同じ演目で役者さんが代わるという。残念ながら夜は<ちひろ>さんである。

 

  • 歌舞伎座12月夜の部はAプロ、Bプロとややこしい組み合わせになっているがどうせなら『あんまと泥棒』の松緑さん(泥棒権太郎)と中車さん(あんま秀の市)も入れ替えて演じて欲しかった。それぞれの色があって面白かったと思うが残念である。

 

  • 大衆演劇、舞踊ショーも含めて、またまた楽しませてもらった。東北の友人が、お得な電車の切符のときにそちらに行きたいから計画してほしいと言ってきた。こちらの旅に合わせるというが大きな病気もしているしそうもいかない。温泉かなと思っていたが、そうだ大衆演劇に行こう!というわけで大衆演劇付き宿泊と決めた。よろぴ~!と返信がくる。こちらも手続き簡単で助かった。喜んでもらえるかどうかは出たとこ勝負である。まあおしゃべりだけでもいいわけであるから楽しもう。そしてもう一つ浅草で実行できた。

 

  • 人力車。ついに乗った。大したことではないがなかなか予定もあったりで好い状態でつかまえられなかった。『木馬館』の送り出しは混んでいるであろうと裏から抜けて路地を出たら車屋さんがいた。ラッキーである。乗り心地と目線の高さを知りたかった。そして人の少ないところを。こちらの要求をわかってくれた。車輪はタイヤで座席のクッションもよく乘り心地が良い。観光はいらないと思っていたが、さすがプロである。知らない事を教えてくれる。

 

  • 実際に走って乗るなら樋口一葉さんの『十三夜』や『無法松の一生』の時代の人力車よりも現代の人力車である。特に時間が長いと快適さが違うであろう。車屋さんは説明しつつ、こちらの質問に答えつつスイスイ進んでくれる。路地の四つ辻なども人をよけ上手く回ってくれる。今日は人が少ないということである。江戸通りも停っている車をよけつつ走行車の横を走る。人に対しては邪魔かなと思うが車に対してはなぜか優越感である。高いせいもある。家並みもいつもより高い目線なので古い家並みとして映る。桜の時期の墨田川沿いがお薦めという。いいだろうな。その時は人力車の日として考えなければ。

 

  • 人力車のあとは、車屋さんに聞いた沢山の芸能人などのサイン色紙が飾ってある洋食屋さんへ。壁全面に飾ってある。たまたま座ったところに大杉漣さんのサイン色紙が目に入った。(合掌)浅草でというのが心ならずもうれしかった。さてまだ少し時間があるので駒形橋を渡り吾妻橋からもどることにする。駒形橋の真ん中でカメラを据えている若い男性がいる。気になってずーっとここで撮っているのか尋ねると朝から20分置きにシャッターをきっているという。一つの風景の時間の経過を追っているらしい。別の場所で映して一枚に編集したのをみせてくれた。編集が大変らしい。この風景なら時間の経過がはっきりして素敵な作品になるであろう。写真関係の学生さんだった。吾妻橋に近づくと尾形船の灯りもあって浅草と隅田川の相性のよい風景となる。ではこれからちひろさんに会いに行く。

 

浅草散策から「いわさきちひろさん」(1)

  • 浅草の浅草寺境内も確かめることが多い。先ず、「ひょうたん池に噴水があったが、もう一つ浅草寺の本堂の後ろにも噴水があってその真ん中に立っていたのが、高村光雲作の龍神像で、今はお参り前に清める手水舎に立っているのだそうで、よく見ていないので今度いったときは見つめることにする。」からである。 『浅草文芸、戻る場所』(日本近代文学館) ありました。想像していたよりも小ぶりでしたが、お参りするまえにこの龍神像に逢えるというのもいいものである。高村光太郎さんより光雲さんのほうが身近になりそうだ。
  • 嵐山光三郎さんの『東京旅行記』の中に当然浅草がある。この旅は1990年頃で他二名の三人で回っている。「一人だと本当に蒸発しかねないから、三人でお互いに見張っていた。」とあり、飲んだり食べたり、好きかってな感想がハチャメチャで、吹き出してしまう。日の出桟橋から船で浅草に向かうのであるがそのハスキーなガイド嬢の声に対する反応。「ガイド嬢の低音鼻声は、掛布団かぶって布団のなかで女から秘密をを打ちあけられたような気分で、くすぐったくなる。」こちらはその反応にいぶかしくなる。
  • 吾妻橋に到着し、すぐ浅草寺方向には向かわない。反対側のアサヒビールで黒ビールである。どうにかこうにかやっと浅草寺に御到着である。「本殿の天井を見上げると堂本印象作の飛天が描かれている。この飛天に会いたかった。」一人は好きなタイプだといって目をうるませ、一人は気に入らないようである。著者は、観察しつつ好き勝手なことをいっているが落ちが「どちらかというと好きなタイプです。」とくる。というわけでこちらも飛天様をながめる。三人の印象がのり移っていて可笑しさがこみあげる。現代風の美女であらせられる。遠い平安時代の飛天様ではない。そこがまた気取らない浅草の飛天様ともいえる。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3058-2-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3057-1-1024x838.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3059-1024x667.jpg

 

  • 本堂の後ろの噴水の場所には、平成中村座があって2018年11月の浅草の風景である。浅草は懐かしがりつつも今を楽しむ場所である。
  • 沢山の碑があり解説板もある。今回結構真面目に読んだりながめたりした。『天水桶(てんすいおけ)』 太平洋戦争が激しくなりご本尊の観音さまを天水桶に納め地中深く埋めて戦火から守った天水桶である。『胎内くぐりの灯籠』 江戸時代からこの灯籠の下をくぐると子供の虫封じや疱瘡のおまじないになるという。灯籠自体は新しい。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3061-1024x680.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3062-1024x576.jpg

 

  • 活動弁士の碑』活弁の創始者・駒田好洋さんの名前がなかった。生駒雷遊さんは、サトウハチロウーさんが浅草でオペラファンの「ペラゴロ」のころ弁士として大変人気のあったかたである。ハチローさんは帝国座の弁士部屋に古川緑波さんに連れて行ってもらう。詩人仲間でもありえない弁士同士の会話の言語表現に感心する。「海坊主の親類」(ハチローさんはあだ名をつけるのが得意であった)と近づきになった。海坊主の親類は大辻司郎さんのことである。司郎さんは、ハチローさんのお金のないのを知って生駒雷遊さんのところに連れて行く。この男は朝からノーチャブらしくカラケツ詩人なのでハイ両ばかりやって下さいませんかと頼む。雷遊さんは、一円札を司郎さんに渡す。細かくしてあげると外で両替をしてハチローさんの手に50銭玉を一つ乗せ、相互扶助の精神で生きようとのたまった。ハチローさん、感激から感嘆の溜め息にかわった。(『ぼくは浅草の不良少年』玉川しんめい著)

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3064-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3063-632x1024.jpg

 

  • 獅子文六さんなどは、染井三郎さんを最高としている。低い声で抑揚なしで説明するが人の心を捉えたとしている。喜劇では杉浦がクスグリをやらずセンスがよかったが途中できえたようだとあり碑にも名前がない。花井秀雄さんに関しては、八字ヒゲの顔や説明文句まで思い出している。獅子文六さんはオペラよりも活動写真派で外国映画のイプセンの『ノラ』や『幽霊』に感動している。(『ちんちん電車』)
  • 喜劇人の碑』横に名前があり、喜劇人ではない人の名も。それらは世話人の方の名で喜劇人の名は碑の裏にありました。さすが裏技。榎本健一(エノケン)さんの名前もあり、サトウ・ハチローさんとの関係は菊田一夫さんともつながる。エノケンさんは、カジノ・フォーリーから観音劇場で「新カジノ・フォーリー」を旗揚げ、さらに玉木座にうつって「プぺ・ダンサント(踊る人形)」を結成。ハチローさんは、このプぺ・ダンサントの文芸部長になる。しかし流行歌の作詞家としての仕事も加わり忙しく脚本を書く時間がない。あらすじとギャグを提供し5歳年下の菊田一夫(22歳)さんが脚本にしてサトウハチロー作で発表。さらにエノケンさんは浅草松竹座でエノケン劇団を旗揚げする。
  • サトウハチローさんと菊田一夫さんは、古川ロッパさん、徳川夢声さん、大辻司郎さんが常盤座で旗揚げした「笑いの王国」に加わる。古川緑波さんはハチローさんとは早稲田中学での同級生で優等生であった。生駒雷遊さんのところに連れて行ってくれた時にはすでに映画の紹介や批評の仕事をしていたのである。今度は喜劇俳優となり、さらに「声帯模写」というジャンルを作り出す。菊田一夫さんもこうした経験からのちに人気作家として活躍し、ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』『君の名は』につながっていく。これらは『ジュニア・ノンフィクション サトウハチロー物語』(楠木しげお著)から参考にさせてもらった。簡潔でサトウハチローさんを通じてエノケンさんの流れも童謡の流れもよくわかった。
  • 中学生の頃、サトウハチローさんは、父の佐藤紅緑さんから何回も勘当されるが、親の七光りも当然ある。田端では室生犀星さんにお金を借りる。役者は大入りが出ると財布の紐もゆるむので新派の大矢市次郎さんなどにもおこづかいをねだっている。新国劇の澤田正二郎さんも劇団でハチローさんを預かったりしているが長くは続かなかった。
  • オペラの演し物のプログラムの第一が新劇、第二が少女歌劇、第三がオペレッタ、第四がグランドオペラとなっている。ペラゴロ組は金龍館党と日本館党に分れひょうたん池の藤棚でたむろしてお互い対向して歌い出す。それを黙っていられないのが中之島の芝生を陣取る活動写真組。ヤジったり喧嘩となったりする。ところが夜の八時になると半額となりその知らせのベルがなると取っ組み合いをしていてもそれぞれの劇場めざしかけだすのだそうである。皆、若さはあってもお金がなかったのである。ハチローさんなどは次第にすべての劇場が顔パスとなる。
  • 石井漠記念碑』谷崎潤一郎さんの筆により「山を登る」とある。獅子文六さんは、石井漠さんが「牧神の午後」を踊ったのを日本館あたりで見ている。ヨーロッパで「牧神の午後」が発表されてそう間のない頃だと思うとし浅草がいかに先端をいっていたかがわかる。獅子文六さんはカジノフォーリーの頃は外国に行っていて日本にはいない。サトウハチローさんは獅子文六さんより10歳年下で、石井漠さんの日本館の楽屋にもたむろしていた時期がある。サトウハチローさんの交友関係は広く様々な分野の卵たちでもあった。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3066-1024x450.jpg

 

  • 嵐山光三郎さんの浅草散策のころの六区の常盤座の演し物は、ミュージカル『浅草バーボン・ストリート』で、出演は小坂一也、佐々木功、演出・滝大作、監修・柳澤慎一とある。次回は麿赤児の大駱駝艦の公演で、音楽・坂本龍一、美術・横尾忠則。光三郎さんらは、麿さんが近くのソバ屋にいたから、「やあ」と五秒あいさつして手焼きせんべい屋をのぞき新仲見世通りから浅草寺へと向かうのである。では奥山の碑巡りもこの辺にしておくこととしよう。

 

追記: 黒澤明監督はお兄さんから勧められた映画をたくさん見ていた。お兄さんは映画弁士となり、トーキーの時代となり弁士の生活がおびやかされ組合の委員長もされるが自ら命を閉じてしまわれた。後に映画『綴方教室』で徳川夢声さんが「君は、兄さんとそっくりだな。でも、兄さんはネガで君はポジだね。」といわれたそうである。(「蝦蟇の油」)

 

演劇『大寺学校』から新派『犬神家の一族』

  • 観ていない録画演劇を観なくてはと次は『大寺学校』に挑戦。これも観始めて気分が乗らなくてすぐに止めてしまったのである。新派の大矢市次郎さんが1967年に文学座に客演した舞台である。作者は久保田万太郎さん。大矢市次郎さんの演技お見事。渡辺保さんは大矢市次郎さんのは芸で、一緒に出演している三津田健さんのが演技だと言われいる。そして大矢市次郎さんは歌っていると。

 

  • 明治末の私立学校が舞台で、江戸時代の寺子屋が私立学校として存続したのである。公立にたいする代用学校とも呼ばれた。浅草にある大寺学校の校長が主人公である。窓からは十二階が見えている。女生徒がおしゃれして教室に忘れ物をとりにくる。どこへ行くのかと峰教師にきかれて、観音様の菊市へいくという。菊をささげて別の菊をもらってくるのだそうで、頭痛に効くという。浅草らしい風景がかたられる。

 

  • 峰教師は老校長(大矢市次郎)と意見が合わず学校を辞めてしまう。学校の創立二十周年記念の祝賀会があり、卒業生などが盛り上げる。その様子からすると校長の考え方の古さが垣間見えてくる。峰教師が辞めたのも、平等な扱いとして注意した生徒が校長が長い付き合いをしている「魚吉」の子で校長は穏便にとおもうが、峰教師は自分の意志を通すのである。「魚吉」との関係を、光長教師(三津田健)にお酒を飲みつつ語るところが見事なのである。身体は次第に酔っていくのが演技しているとは思えない自然さである。ところがセリフはきっちりと語るのである。

 

  • 光長教師のほうはも次第に酔っていく。そして三津田健さんは、酔ってしゃべることもはっきりしなくなる様子まで演じている。大矢市次郎さんのほうも相当飲んでいてリアルに語ればろれつが回らなくてもいい状態である。身体はそれを表しているのである。しかしとつとつと語っていく。「魚吉」の先代とは若い頃からの深い友情で結ばれていた。そしてお互い結婚し「魚吉」に娘が生まれる。その娘の婿養子が字が読めなかったので、読み書きを教えたのが校長であった。先代は亡くなるが養子は自分を大切に想ってくれていると自負している。「魚吉」とはそういう関係なのだと語る。

 

  • 時代も変化していて、浅草にも公立学校ができるとのウワサが出ている。その場所が今「魚吉」のある場所で、「魚吉」は土地を売って広小路のほうに店を移すという話しなのである。もし本当なら、大寺学校のそばに公立学校ができるということで大寺学校は当然閉鎖へと追い込まれるであろう。そんな大事なことを魚吉が一番に自分に話さないないわけがないと大寺校長はいう。ウワサでしかないと。大寺校長は浄瑠璃を語る。そして幕である。大寺校長の胸の中にある想いはよくわかる。しかし、今の「魚吉」の学校での娘の扱いに抗議したらしい様子からすると大寺校長の想っているように向うがおもっているかどうかは難しい。

 

  • 大寺校長は、子供たちの家庭環境もよくわかっていて細かく目を配っている。学校経営も昔ながらの地域の情と情のつながりのようであるが、祝賀会の幹事たちの様子からすると周囲も違ってきているらしい。そのことが大寺校長には見えていないし周囲も面と向かっては言えない雰囲気である。お酒は好きなようであるが晩酌も日曜だけのようで、言葉としては出てこないが、教育者として仕事のあるときは何があるかわからないと考えているようである。そういう律義さが見える。最後の語りは、観客が大寺校長のそばでお酒を酌み交わしながら話に耳を傾けている気分に浸らせられた。これが歌うということなのかと思った。

 

  • 新派『犬神家の一族』を観て新派というものをもう一度考えさせられた。『犬神家の一族』は横溝正史さんの良く知られた推理小説である。それゆえ誰かが殺されてなぜということになるのである。前半は自分の息子が殺されたということで犬神家の次女・竹子と三女・梅子が嘆き悲しむのであるが遺産相続の権利がなくなるということもあってかなりヒステリックに叫び、いたしかたのないことであるが食傷気味であった。それが改善されるのは、何者かわからないお琴の師匠・宮川香琴がの水谷八重子さんが語り始めるところから空気が変わった。

 

  • 白いマスクをかぶった長女・松子の息子・左清(すけきよ)と復員兵と青沼静馬の存在がそろそろ金田一耕助のなかで熟し始めていることも予想できる。内容をわかっているのであるがそれをどう展開させるのであろうかと、やっとここから芝居にのっていくことができた。もうひとつ気になったのは松子の殺しの場面を見せたことである。まあそれはいいとして、水谷八重子さんの語りから、波乃久里子さんに流れがいくことによって新派らしいセリフ劇となってきた。そして、喜多村緑郎さんの謎解きとなりそれを助けるのが佐藤B作さんである。謎解きの助けではなく、皆の驚きを静めて金田一が語りにやすいようにしてくれる功績である。

 

  • 展望台を舞台上で上手く使われていた。左清と復員兵との争いの場や最後の警察との撃ち合いも。あのマスクは、セリフが聞きづらかった。傷もありマスクをかぶっているからのリアリティよりも声の質での変化で聞かせた方が二役の面白味があるとおもう。新派としての語りを歌舞伎から移った若き役者さんはこれからも心してさぐっていってほしいと思う。大矢市次郎さんの大寺校長をみてそう思った。水谷八重子さんと波乃久里子さんはもっと強くご自分の芸を主張すべきである。

 

  • 脚色・演出は齋藤雅文さんであるが、近頃すこし理詰めで盛り込み過ぎではと感じるところがある。遺産相続のややこしさ。斧、琴、菊の犬神家の家宝と殺人の関係。戦後の生糸の衰退。戦争で起こった悲劇。そして、なぜ犬神家の当主がこんな遺言をのこしたのであろうかの提示。観ている方も最後は、金田一耕助さんの喜多村緑郎さんが優しく新しい命を授かった小夜子に優しい言葉をかけて去るところが、新派らしいなとの想いであった。

 

  • 新派は、なにをやってもその時代とその場所の雰囲気と佇まい、新派の語りとはなにかを追求していくことが要求されている劇団である。そのことが大切なことに思える。大矢市次郎さんの大寺校長は、新派に対して思う、思う、思う、としきりに思わされる芸であった。小さな場所からその地域性と時代をあらわす世界。大きく見えても人間の欲だけが渦巻いている世界。どちらの世界も新派として進むことは可能である。と思った。

出演/水谷八重子、波乃久里子、瀬戸摩純、河合雪之丞、浜中文一、春本由香(交互出演・河合宥季、喜多村緑郎、田口守、鴫原桂、佐藤B作 etc

『犬神家の一族』新橋演舞場 11月25日まで

 

  • 新橋演舞場の夜の部が終って歌舞伎座の前にくる。もしかして最後の『双面水澤瀉』が観れるのでは。どんぴしゃり。最後の一幕に間に合った。観て10日ばかりしかたっていないが、舞踊が一層しっくりとしてきたようである。一か月公演は若い役者さんにとっては幸せなことだなあと感じる。責任感をも背負って生き生きして観えた。