河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (2)

美術館で見つけた「河鍋暁斎」 (ジョサイア・コンドル著、山口静一訳)から少し河鍋暁斎の生い立ちを紹介する。なかなか面白い。

生まれは茨城県の古河市である。本名は河鍋周三郎。暁斎は自分の思い出を「暁斎画談・外篇」に書いているらしく、コンドルはその本から紹介もしている。暁斎は子供の頃、玩具や菓子よりも絵を見せたり手で持てる生き物を与えられると泣いていても泣き止み、三歳のとき初めて写生をしている。駕籠に乗っての長い旅で、蛙を与えられそれを観察し、目的地につくと紙にその外形を写したという。後年暁斎は作品を完成させるにあたり、モデルを用いたり、直接対象をスケッチすることがほとんどなかったそうで、それまで溜め込まれている観察力と記憶力から画いたらしい。

6歳の時父の仕事から江戸に出て、現在の御茶ノ水にある順天堂大学病院にあった幕府火消組の屋敷に移る。父は賛成ではなかったが、彼の志向から浮世絵師一勇斎国芳に入門させる。この師から、例えば戦闘中の人物を画くなら実際に喧嘩をしている人たちの表情から手足の位置、動き、優勢、劣勢の相違などを深く観察する事を教えら、江戸の裏町を歩きまわり観察力と記憶力を養う。二年で国芳のもとを去り、独自で観察、写生を試みる。

ある時大雨のあと、神田川で尻尾のふさふさした蓑亀と思ったものが人間の生首であった。驚き慄いたが気を取り直し家に持ち帰りこれを画き写そうとしたが親に見つかり、もとの場所にもどす前に急いで写生している。

十一歳の時、狩野派の狩野洞白(とうはく)の画塾へ入れてもらう。十八歳で狩野家から雅号洞郁(とういく)を授けられ、十六年間幕府お抱え狩野派の門弟としての道を歩む。二十七歳の時、主家といさかいを起こし狩野派を離れ独立、狂斎と称する。洞白のもとを去るが、暁斎は師に敬意を持ち続け、狩野派の巨匠たちにも深く尊敬の念を抱いている。健康を損なうほど狩野派の絵の研究をしている。

「門弟の修業は既製の絵を何度も模写することにあったが、その絵そのものがかつての狩野派巨匠の作を模写したものであり、現実の動物も想像上の動物もその表現は狩野派古画の規定した先例に従うように厳しく制限されていた。」