河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (5)

あの明治三年に逮捕された「筆禍事件」後も暁斎は、文明開化の諸政策に対する風刺戯画は描いており、旧幕臣や江戸市民層には人気があった。政府にとって要注意人物であったであろうが、その画才を認めないわけにはいかず「枯木寒鴉図」は博覧会で日本画部門で最高賞を獲得している。

「一般には戯画、狂画の作者ないしは浮世絵師として知られていた暁斎だったが、コンドルは師を伝統的日本画の正統を継ぐ画家として評価した。」

これがコンドルの基本にあり、暁斎の晩年そばについて制作の画材・画法・手順方法など細部にいたるまで記録し、おそらく今日でも日本画の伝統的手法の参考文献となりえるであろう。

コンドルは建築に携わる前、画家を志しており、その上建築設計の知識が加わり、谷中の五重塔のような建造物のスケッチでは暁斎を驚かせている。<暁英>の画号を貰うのは入門して2年目、コンドルの代表的建築物、鹿鳴館の開会式のあった明治十六年である。また展覧会などにも出品し賞もとっている。

暁斎とコンドルの関係は、師と弟子というよりも友人としての意味合いが強かったようである。コンドルはそれとなく金銭的援助もしていたようで、それを素直に受け入れられる友人関係であったとするなら、暁斎の晩年は何よりも良き友人が傍に居たという事で幸福であったと言える。

コンドルは大正九年(1920)に日本で亡くなっている。かれの建築作品は焼失してしまっているものも多く残念であるが、多くの日本人建築家も育て、画家河鍋暁斎を日本人よりも深く理解していたことに敬意を感じる。

「河鍋暁斎記念美術館」が埼玉県の蕨市にある事が分かり、楽しみが増えた。