河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (3)

訳注によると、暁斎が狩野家を出たのは安政二年(1855)24歳の時で、河鍋洞郁を名乗るのは安政四年(1857)数え27歳、<狂斎>の名で狂画を描き始めるのが安政5年(1858)28歳の時としている。

狩野派にあっても暁斎は実物の写生はしている。日本の画家の写生についてコンドルは高く評価している。「日本の画家が自然を写すというのは、単に目前の形態を紙に写し取ることに終わるのではない。」「日本の画家は記憶力によって自然の形態を心に留めると同時に、目には見えても紙には写せぬ自然の心の動きを心に捉えているということである。」

洞白の画塾は自由なところがあり、夜になると60人の塾生の多くは外に遊びに行き、講釈を聞いたり寄席に通ったりした。暁斎は能が気に入り能の師匠のもとへ通ったりした。その費用を援助してくれたのが狩野洞白陳信の祖母貞光院である。

暁斎が狩野派を去った理由をコンドルは次の様に書いている。「狩野派の様式と伝統を十分に学んだのち彼は狩野派を去った。その主たる理由は狩野派に対抗する諸派の技術を知るに及んで、一流派の画論にのみ束縛されるべきではない、広くすべての流派を研究し、すぐれた部分は積極的にこれを利用すべきであると決意したからである。」狩野派を去ることにより、上流人士や官界有力者の引き立てからも疎遠になってゆく。

明治三年(1870)狂斎時代、席画の場所で逮捕され投獄される。その風刺絵によるものなのか当時の政府高官を戯画的に表しているとして国事犯扱いとなる。明治四年(1871)頃<狂斎>から<暁斎>に改名する。<狂>は北斎の<画狂人>から「画に熱狂する人」をもじって付けたとされるが、その<狂>が災いしたとの考慮もあったようである。

暁斎は、仏画、宗教画、戯画、滑稽画などその画の領域が広範囲である。

他界する四年前54歳の時剃髪し、「如空」の法名をもらう。

「この偉大なる画人は明治二十二年、病苦を得て他界した。享年五十八であった。その最期は、こよなく愛し続けた画業との永別に多分の憾みを残すものであった。暁斎の死はその力量の絶頂期にあったと言えるかもしれない。」

「彼は外国の著書で知った解剖学的形体、透視画法、陰翳法に関する科学的知識や、西洋に見られるような絵画の写実的発展に深い敬意を寄せていた。暁斎の想像力の前には常に限りなく豊かな美術の世界が存在していた。それは彼の生まれた世界を照らす光の外側にあるものであった。彼は自分の世界を照らす光の範囲の中で、機会を捉えて仕事をせざるをえなかったのである。」とコンドルは結んでいる。

年譜によると明治二十一年亡くなる前の年、狩野芳崖没後東京美術学校教授依頼のため岡倉天心とフェノロサが来宅するが病気のため謝絶とある。学術的にも暁斎の画業はみとめられつつあったわけである。