日本近代文学館 夏の文学教室 (5)

荒川洋治さん「伊藤整『日本文壇史』の世界」

伊藤整の死により、伊藤整の『日本文壇史』は18巻で終わっている。この文壇史はA君が何年にどこで誕生し、B君は何年にどこそこで誕生、A君が10歳のときこのようなことがあり、B君はそのとき8歳でこういうことがあった。その時C君はどこそこで生まれた。A君はその時、小説家A男になり、B君は学生でこういうことをしていた。B君はB夫となり小説を発表したが認められなかった。A男は次第に文学界から置き去りにされ、B夫は文学界の中心となり、その時C雄は、文学界の寵児と言われていた。こいうふうに作家が時代と共に年齢を重ね文壇で並ぶときはそれぞれどういう状態であるかが解るように書かれている。(実際には実名入り例だったのであるが、島崎藤村だったか、国木田独歩だったか忘れたので私が勝手にA、B、Cにした。)尾崎紅葉の一番弟子が泉鏡花で、弟弟子の徳田秋声と仲が悪かった。鏡花の弟豊春も作家になったが芽がでず、豊春が困っているので秋声は自分の貸家に住まわせたがほどなく亡くなってしまう。葬式で鏡花と秋声が顔を合わせ和解する。それが、秋声の小説『和解』である。

高見順の文学碑の除幕式の時、高校生の僕は、来ていた伊藤整に彼の本にサインをしてもらった。僕がお辞儀をすると、伊藤整も丁寧にお辞儀してくれた。高校生の僕にですよ。丁寧にお辞儀してくれたんです。(実演入り)『日本文壇史』は後世のための仕事です。

〔 実演も入るので楽しく聴いていたら正確さに欠け、A、B、Cになったが、同時進行で進んでいくように書かれているようで面白そうである。ただこの書き方は大変な作業である。偉いかたもきちんとお辞儀をされたほうが、後世に作品を読ませるように説明して貰えそうである。

高見順さんの文学碑ということは、東尋坊の荒磯遊歩道入口近くの碑であろう。福井に行った時、路線バスで東尋坊入口まで行き、そこから東尋坊に向かい、日本海の荒海を見つつ遊歩道を歩いた。高浜虚子、三好達治等の文学碑があり、こちらの歩き方からすると、遊歩道の終わり近くに高見順さんの文学碑があった。海を眺めるかたちで立っていた。遊歩道入口のバス停は広いのに何もない所でこんなところで置いてけぼりは困ると思ったものである。あの文学碑の除幕式に伊藤整さんと一人の高校生との劇的出会いがそこであったわけである。

バスがきちんと来てくれて、三国駅まで乗るつもりが、途中で高見順さんの 生家跡の町名のバス停がありあわてて降り、それが正解であった。そんな思い出の高見さんであるが、近代文学館の秋季特別展は『高見順という時代ー没後50年ー』である。

2015年9月26日~11月28日

記念講演会  ①9月26日14時~池内紀「高見順の蹉跌」             ②11月3日14時~荒川洋治「高見と現代」

伊藤比呂美さん「古典を読んで訳してその同時代を生きること」

今、座禅にはまっています。雑念が多いので絶対ダメだと思って居たら驚く速さで時間が通過したりします。『説教節』とか『日本霊異記』を訳していて、面白いので原文と訳文を読みます。『安寿と厨子王』『小栗判官』なども説教節からです。説教節の女性達は良く働きます。安寿にしろ照手姫にしろ、奴隷のように働きます。男は役立たずです。お経の一字一字に入り込んでいきます。四季には仏教感があり、それが無常にも繋がっていたりします。

〔カリフォルニア在住で、九州に実家があり、以前に聴いたときは、遠距離介護の話しをしておられたのを思い出す。玉三郎さんが出た時で、もう少し我慢して下さいね、お目当てはあとに控えていますからとも言われていた。興味のあることには分け入って進み何かしら面白いものを見つけるぞと突進して行きそうなかたである。それにしても、説教節とか日本霊異記とか、分け入ってできた道を後からついて行きたくなるような話ぶりであった。〕

対談 「「あの日」の後に書くことについて」 いとうせいこうさんと高橋源一郎さん

これは、聞いた方からのみとする。前半は高橋さんがいとうさんに聞くかたちで、後半はいとうさんが高橋さんに聞くかたちであったが、それぞれの話が交差したりするので、上手く書けないのである。お二人とも小説を書けないときがあって、いとうさんは15年くらい高橋さんは7年くらいあったそうで、書こうとすると吐き気をもよおしたりするのだそうである。もう一人の自分が書かせてくれない。

いとうせいこうさんは、みうらじゅんさんとの見仏記でDVD映像とか本でお目見えしているが、その頃は書けなかった時期であろうか。関西と関東のカキ氷談義など楽しかった。

いとうさんは東日本大震災のあとで書けるようになり、もう一人の自分が書けといって書かせてくれているようなのだと。書ける書けないはもう一人の自分に左右されているらしい。高橋さんは、詩は書こうとすると書けないのであるが、小説の主人公に詩を書かせると書けるそうで、小説を書くという行為は複雑怪奇である。

浅田次郎さんが、泣かせの作家と言われているが、泣かせようと思って書いてはいない。作家というのは冷徹でなければ書けないと言われていた。人が一人一人いるように詩人や作家もそれぞれである。聞いたことは、ほとんど忘れているが、どこかで聞いたなと思い出すこともあるであろう。

忘れるということは、今必要ではないこととする。雪が降って、自分の木の興味ある枝だけにふんわりと雪を残していってくれた感じである。解けない内に雪を固めて時間を稼ぎ、興味あることに水分を吸収してしまいたいものである。頭のなかでは想像できる雪も、現実の暑さは何んということか。関西のカキ氷をいつか経験しよう。

 

日本近代文学館 夏の文学教室 (4)

川本三郎さん「終戦前夜の永井荷風」

永井荷風は3回の空襲にあっている。人付き合いのしない荷風で老人(66歳)であり単身者である。空襲による孤独感と恐怖は大きかったであろう。(1回目)昭和20年3月10日の大空襲で麻布自宅偏奇館焼失。杵屋五叟宅へ。(2回目)5月25日、菅原明朗の紹介で住んで居た東中野の国際文化アパート空襲で焼失。菅原明朗と永井智子と明石へ向かい、岡山に移動。(3回目)6月28日岡山での大空襲にあう。この三つの空襲の体験は、その後の荷風の様子から考えて、トラウマとなり心的障害をきたしていたのではないか。荷風を支えていたのは、言葉である。

荷風を助けた人々。クラッシク音楽家の菅原明朗、声楽家の永井智子、菅原の弟子・宅孝二。明石に向かったのは宅の実家があったから。(訂正:菅原の実家である)永井智子は作家・永井路子の母である。菅原と永井は8月3日から3日間広島でコンサートがあり、5日の夜岡山に残した荷風が心配で泊まらずに岡山に向かう。泊っていたら被爆していたであろう。菅原はドイツ音楽ではなくフランス音楽を研究しフランス好きの荷風と好みが一致した。宅孝二はクラッシクからジャズに転向し、戦後、映画音楽を手掛けている。森繁久彌の社長シリーズなども。荷風の詞、菅原の作曲、智子の歌、宅のピアノでの演奏会もあった。

〔 資料もあり、広島原爆の後、荷風さんと谷崎さんとの岡山での再会のことなど『断腸亭日乗』から調べたことがあるので、長くなってしまう。市川市文学ミュージアムでの『永井荷風展』での講演でも、荷風の空襲によるトラウマとする考えは聴いているが、テーマは違っていたので少し触れただけだが、今回はきちんと日記をひいてなので説得力はある。フランス仕込のおしゃれな荷風さんには考えられない晩年の姿と行動の原因と考えておられるのである。価値観が変わったことは確かであるがそのトラウマの程度や影響は荷風さんの言葉、文章から読み解くことはできないのであろうか。それが知りたいところである。

永井智子さんという声楽家がいてその方が、永井路子さんのお母さんであるということを初めて知る。古河市に永井路子さんの実家があって、古河文学館の別館として公開されている。私が古河と『南総里見八犬伝』の関係から古河市を訪れたのは、東日本大震災の後だったので、非公開であったが、再公開されているようである。その旧永井家は智子さんの育った家でもあったわけである。古河城の櫓が歌舞伎『南総里見八犬伝』での<芳流閣屋上の場>の芳流閣のモデルとされているが、その痕跡はない。代わりに古河市の文学関係者のことを知る結果となったわけである。

その一人が子供雑誌『コドモノクニ』の編集者・鷲見久太郎さんである。映画『小さいおうち』の男の子の枕元にもこの『コドモノクニ』が置かれていて、奥さんの好きになる青年が男の子に読んであげる場面がある。『コドモノクニ』は大正から昭和初めにかけて出版された、贅沢で、子供たちの情操を深く考慮した本で、この男の子が大変幸せな環境にいることがわかるし、ここにこの本を出し子供文化の豊富な時代の先駆けであった時代の停止も感じとれる。

永井路子さんは、家の方針で、絵本を眺めることなく、すぐさま本を読むことを習慣づけられ目にしていないといわれ、郷里の大先輩の鷲見先生を後になって知ったことを残念に思われている。鷲見さんは、古河藩江戸詰家老で洋学者鷲見泉石の曾孫にあたり、鷹見泉石の住居も残っていて公開している。文学館に併設しているレストランはお薦めである。

音楽家の宅孝二さんが、映画音楽に携わり、市川崑監督の映画『日本橋』も担当をしており、永井荷風さんの交際する限りある周辺からは興味深いことが出現した。次の日、原爆が落とされることなど全く知らずに、音楽を聴き一時の倖せを享受していた人々もいたのである。移動演劇の桜隊の演劇人、丸山定夫さんや映画『無法松の一生』の吉岡夫人役の園井恵子さんなども被爆し亡くなられている。荷風さんが言葉を捨てなかったことによって、その日記をもとに様々な見分ができるわけである。〕

追記: 上記文章の中に<明石に向かったのは宅の実家があったから。>とありますが、宅氏の実家ではなく菅原氏の実家とのコメントをいただきました。調べますと確かにこちらの間違いでした。荷風は5月25日の夜、駒場の宅孝二氏宅に泊めて貰っています。6月2日、菅原氏夫妻とともに宅氏兄弟に渋谷駅で送られ、東京駅から罹災民専用大阪行の列車に乗り、3日に明石に到着。「菅原君に導かれ歩みて大蔵町八丁目なるその邸に至り母堂に謁す。」とあります。菅原氏の実家でした。訂正させていただきます。