国立劇場 三月新派公演『寺田屋お登勢』

初めての『寺田屋お登勢』の観劇である。

一軒の船宿を舞台に、幕末の歴史をしっかりと捉えて時代の流れを表現している作品が新派あったとは驚きであった。作は榎本滋民さんでなるほどとおもいいたる。

若き歴女がみても、面白いと思うのではなかろうか。薩摩と長州の主導権争い。同じ藩のなかでの反目と殺戮。その中で登場する坂本龍馬。そんな若き志士たちが立ち寄った伏見の船宿。その船宿の女将お登勢。お登勢は龍馬からお龍をあずかり、龍馬とお龍の祝言をととのえる。三人の男女の微妙な関係が軸の一つに入ってくる。

坂本龍馬の中村獅童さんがいい。龍馬は奔放なところがあり身なりなどかまわず即興で歌をつくったり、自分の考えをどんどん発言していく。このテンポと野放図さは、難しい。やりすぎるとわざとらしく、うそっぽくなってしまう。獅童さんの龍馬は、そのあたりも違和感なく受け入れられたし、お登勢の水谷八重子さんとのやりとりも、その場その場で変化をもたせた。

お登勢の八重子さんは、船宿に固定されている自分の身と、上り下りと行き来する若き志士たちの未来に向かってすすむ純なところを比較して、若者たちをがっちりと受け止める。身内のように話す龍馬のことが可愛く、時として語る龍馬の大きな計画に対し、男としての魅力にもひきつけられていくさまが、本人の無自覚のところでふくらんでいく。

そんなお登勢を揶揄しにくる同業の女将の高橋よしこさんとの掛け合い。養子でないのにそうおもわれている夫の立松昭二さんの微妙な立場。お登勢の心の内をのぞいた長州藩士の田口守さんとのやり取りなどそれぞれの人との関係もお登勢の人間性をあらわす。

お登勢は、お龍の瀬戸摩純さんを龍馬の嫁としては認められない。だが、自分には出来ない行動力にショックを隠せな。龍馬は、自分はいつどうなるかわからないとして嫁など考えられなかった。瀬戸さんのお龍は、龍馬が自分が死んでもお龍は負けずに生きて行く女であると思わせるようなお龍像で、龍馬が嫁とすることに納得できる。

納得のいかないお登勢。彼女が正直に向かい合えるのが龍馬の姉の乙女の英太郎さんで、お登勢の心の中の乙女は花道のスッポンからあらわれる。設定の仕方もよく、好い出であり台詞もよい。

時代変革の旅のなかでの母であり姉であり、お登勢のほのかな女としの魅力も感じていた龍馬は、あっけなく飛び立ってしまう。

龍馬の死を知ったお登勢は花道で熱唱する。八重子さんならではの締めである。

最初の音楽からして、時代劇映画がはじまるような高揚感である。新派はまだまだ発掘されるべき作品があるようである。月乃助さんが入団したことによって、いずれは『寺田屋お登勢』も新派だけでできるようになるであろうし、殺陣のあるものも形となりえる。

今は無き船宿の様子など、資料館にあるジオラマが、生き生きと動き出し飛び出してくれた楽しさがある。犬まで本物に代わる。獅童さんの愛犬が出演である。

新派はメロドラマ的イメージがあるが、なかなかどうして、底辺の女たちもどっこい浅はかな涙は流さないのである。そのあたりがわかってもらえれば、次世代のひとにも時代をこえて、現代でも通用できる全うな生き方の強さがあったとして観て貰えるのではなかろうか。

八重子十種『寺田屋お登勢』

演出・成瀬芳一、齋藤雅文

27日まで(10日、11日は休演)  開演時間12時

国立劇場 三月新派公演 『遊女夕霧』

新派の国立劇場での公演は15年ぶりとのこと。『寺田屋お登勢』で < なにをくよくよ川端柳 水の流れをみてくらす > の都々逸がでてくるが、新派の柳は時代の流れとともに様々ざまな揺れ方を通ってきた。新派だけではなく、演劇にたずさわる全体がそうであり、劇団という組織があるとその動向が検分されやすい結果でもある。

今回の公演は『遊女夕霧』と『寺田屋お登勢』である。

『遊女夕霧』。波野久里子さんの夕霧は二回目である。記憶がさだかではないのであるあが、そのとき、惚れた男への女のこんな貫き方があるのかと新鮮であった。

捜したらパンフレットがでてきた。2004年の4月である。第一場<吉原「金蓬莱」遊女夕霧の部屋>の場は、印象が思い出せないのであるが、第二場<深川西森下、円玉の家の二階座敷>の場は、吉原から場所もがらっとかわり、夕霧は円玉の家へ何をしにきたのであろうとじーっと夕霧の波野さんを見つめていた。

今回は、流れがわかっているので、夕霧が惚れた男はどんな男かと、第一場からじーっと見つめた。惚れられた男は呉服屋の番頭の与之助の月乃助さんである。月乃助さんは一月に劇団新派へ入団したということで、新派の古典といえる作品で相手役をするのは初めて観る。

大正十年頃の吉原の様子がえがかれる。酉の市の賑やかな日に、馴染みの客が遊女に「積み夜具」の贈り物をし、それが遊女にとっては鼻高々なことであった。夕霧も、与之助にお金持ちから贈られるより与之助のような普通のひとから贈られたのが一層うれしいと喜ぶのであるが、与之助は金銭的に普通の人であった。やはり、お金の工面から店のお金を遣いこんでいた。

皆に祝われ、いそいそとお酒の用意をする夕霧。やはり新派ならではの遊女の動きである。それに対する与之助のちょとした陰り、着物の着替えの間など流れはスムーズである。

与之助の苦難を自分にも分けて欲しいという夕霧。ここまでは、吉原という世界での男女の恋である。お互いの情をだしつつ様式美的に進む。月乃助さんは歌舞伎役者であっただけに自然さがいい。

第二場は夕霧が、吉原を出ての行動である。円玉は、かつては講釈師であったが、今は講談などの速記をしている。円玉は与之助の被害にあったひとである。そこへ夕霧はお詫びに来たのか。それだけではなかった。

前科者となる前に、与之助を助ける方法を、夕霧は検事から聞いたのである。だました17人から、そのお金は与之助に貸したのだという借用書を17人全員からもらってくれば、罪とはならないと教えられた。

遊女の姿から一変した姿で頭を下げる夕霧。波野さんのその座り方、卑屈さ、断られた時の啖呵のきりかた、円玉のおかみさんに止められても興奮する姿。捨て身の女の乱れが見どころである。

そして、おかみさんの口利きで借用書を書いてもらってからの与之助との出会いを語るとき、こちらも与之助を思い描く。

おかみさんが、夕霧にお茶ではなく、コップ酒をもってくるその事情をわかっての気の利かせ方。円玉夫婦の芸人であったゆえの情の表し方を柳田豊さんと伊藤みどりさんが手堅くおさえる。

この作品の作家は川口松太郎さんで、実際に円玉の弟子になったことがあり、夕霧のモデルもいるのである。その現実に体験していて、リアルと様式美のバランスの作品として新派に提供しているのである。

遊女であるゆえの意気地と情を、その生活ゆえの生態を匂わせつつ波野久里子さんならではの夕霧として演じられ、観客を泣かせてくれた。

円玉の家の二階から席亭<常盤亭>が見え、そこに灯りがともる。検索して調べたところ、永井荷風の随筆「深川の散歩」に<常盤亭>が書かれている。セリフのなかにもでてきて、こうした忘れらてしまう町のようすなどが散りばめられているのも新派をみる楽しみである。

花柳十種の内『遊女夕霧』

演出・大場正昭