映画『おぼろ駕籠』と『大江戸五人男』(2)

大江戸五人男』は、『おぼろ駕籠』と同じ伊藤大輔監督で、脚本が八尋不二さん、柳川真一さん、依田義賢さんの三人なのです。原作が無いだけ束縛がないですが、三人でどのように話合われたのでしょうか、興味のあるところです。

五人の男は、幡随院長兵衛、水野十郎左衛門、白井権八、魚屋宗五郎、そして五人目が架空の歌舞伎役者・水木あやめです。魚屋宗五郎も架空でしょうが、水木あやめは、実在の芳澤あやめにかけているのでしょうか。

戦いのない時代になってみれば旗本の価値も下がり、そうなると町人をいじめては刀を振り回す傍若無人な徒党を組んだ幾つかの集団となり、白柄組(しらつかぐみ)もそんな旗本奴の集団のトップなのです。その組頭が水野十郎左衛門で、その旗本奴をかばう方に大久保彦左衛門が出てきたのにはちょっと驚きました。

山村座では、女方・水木あやめの道成寺がかかっており、所化たちの踊りが始まっています。舞台横には<菖蒲道成寺>とあります。そこへなだれ込むのが白柄組で、当然、幡随院長兵衛が花道から止めに入りますが、水野十郎左衛門は御簾席からではなく土間の枡席からの対峙となり、遺恨の蓋はあけられます。

幡随院長兵衛の家には、鈴ヶ森で出会った白井権八がいて、見ているとあなたは引っ込んでいて余計なことはしないのといいたいほど勝手な行動をとります。そのことによって幡随院長兵衛は水野の屋敷へ行くことになり、結果的には幡随院長兵衛の名を天下に残すことにもなるのですが、ちょっとあきれてしまうふるまいです。

権八は身分を偽って花魁道中で見初めた小紫太夫に会うため吉原に出向き、吉原にはもうこないようにと小紫に軽くいなされます。ところが小紫は、白柄組の近藤登之助に言い寄られ、思いつきで権八を自分がいいかわした人であると紹介し、権八も自分は長兵衛の身内の者だといきがり、白柄組はそれを聞いて権八を待ち伏せして喧嘩となり長兵衛の子分たちが駆けつけこれを撃退させますが、捕らえられたのは長兵衛の身内だけで、水野側はお咎めなしでした。

このことがあってから権八と小紫は事実上の恋仲となります。

水野十郎左衛門にも悩みがあり、腰元のおきぬを寵愛していますが、白柄組の頭としてお金が必要で、近藤から勧められた妙姫とお見合いをしますが気がすすみません。そんなおり旗本奴たちの会合を持ち吉原に乗り込むことになり、そのお金は自分が用意すると請け合い、家康公から拝領の南蛮絵皿を道具屋に売るようにとおきぬに申しつけていましたが、おきぬは自分の一存から売りませんでした。

それを知った水野は自分の男を下げる気かとおきぬを斬ろうとします。おきぬはそれを避け倒れ、皿の入った箱を足で蹴ってしまいます。それを見ていた近藤登之助は、水野がおきぬと別れないのをだらしがないと常日頃から言っており、ここぞとばかりに皿をあらためさせます。一枚、二枚、、、、。十枚目が割れていました。水野はおきぬを成敗することとなり、斬られたおきぬは井戸へ落ちてしまいます。

おきぬの実家は魚屋で兄夫婦がおります。兄が魚屋宗五郎で、おきぬの同輩から事情を聴きお酒を飲み水野の屋敷にいきますが、相手にされません。酔いつぶれた宗五郎を見つけた権八は、長兵衛に水野に掛け合うべきだといいますが、長兵衛は取り合いません。松平伊豆守のほうから、これ以上騒ぎを起こすなとの使いが来ていて、その使いが大久保彦左衛門でなるほどここで使うのかとおもいました。長兵衛は自分が大江戸八百八町の町衆を守ると言い彦左衛門を帰しますが、本当にそうかと振りかえります。

権八はさらに、水野がおきぬを斬ったことを、村山座の座元、戯作者、水木あやめをまえにして話し、これを芝居にしてはどうかと持ち掛けます。あやめは乗り気になり、他の二人は旗本相手ですから躊躇しますが、権八は長兵衛が後ろ盾になると勝手に約束して舞台にあげます。それが「播州皿屋敷」で、青山鉄山がおきくを殺す場面が評判になります。この舞台映像がなかなか面白いのです。おきくは井戸に縛り上げられなぶり殺しにされるのです。こういうやりかたもあるかと刺激になりました。

当然、青山鉄山は水野十郎左衛門とわかり、舞台をみた水野は水木あやめを屋敷に連れて行き、長兵衛に引き取りに来いといいます。長兵衛は小紫から権八がしくんだことだと知りますが、自分は本当に町人の味方であったのだろうかと思うところがあり、一人で出かけていくのです。もし帰らない時は、迎えにきてくれ。しかし、絶対戦いの恰好では来るなと子分たちに言い聞かせます。ここで争いがあったならどちらも容赦はしないという松平伊豆守からのお達しがあり、喧嘩両成敗、こちらが手だししなければ、旗本奴が罰せられるのだからと告げます。

水野の屋敷での長兵衛と水野のそれぞれの言い分のやり取りも見どころです。どうして、あの芝居を上演したのかということですが、水木あやめは長兵衛親分の知らぬことですといいますが、長兵衛は、旗本衆の町人を蔑む態度が、江戸八百八町の町の衆全部にあの芝居を書かせたのだといいきります。

水野は長兵衛の気持ちがわかり、わかった湯に入ってお互い遺恨を流し今夜は飲み明かそうと言います。水野にウソはなかったのですが、他の白柄組の侍は納得がいかず、白柄組の頭として水野自らが長兵衛を殺すこととなるのです。

このことで水野はお家断絶、切腹を申し渡されます。

水野の屋敷から長兵衛の遺体を運びだし、女房のお兼、息子・伊太郎、棺桶を担ぐ子分たちが町中をすすみます。お祭りの日なのに出入りがあると提灯の灯を消して戸を閉めていた町の衆に、もう大丈夫ですから灯りを入れて下さと言いなが通ります。特に息子の声には、涙が出てしまいます。終わり方も上手くできていました。

背中を丸めての阪妻さんには、もっと胸を張ってもいいのではと最初おもいましたが、町民の言葉からこれでよいのかと思考する長兵衛で、こういう長兵衛もありだなあと思いました。芝居は江戸の衆全部で考えたのだというところで、自分たちが主役ではないという想いがあり、そういう長兵衛像にしたのでしょう。こちらから見れば勝手気ままな高橋貞二さんの権八の気持ちまで汲み取り、権八を小紫に頼むあたりに長兵衛の大きさが出ました。

違う時代であれば、もっと違う意地の通し方もあったであろうと思わせる水野十郎左衛門の市川歌右衛門さん。周りに流されていた自分にふっと気がつきますが、遅かったようで、仲間を押さえる事が出来ず最後は白柄組の頭として、旗本奴の長として長兵衛を槍でつくこととなります。

お一人お一人が自分の役どころがわかっていて、それを映像に構成しまとめ上げた監督もさすがです。劇中劇もしっかりしていましたので、長兵衛と水野の対決の面白味が増し、さらに江戸時代、こういう感じで歌舞伎というものはその時に起こって皆が観たいと思うものを瞬時に舞台化したのだなということがわかる映画でもあり、脚本の力を感じました。

出演俳優では、水木あやめの川原崎権三郎さんはその後の三代目河原崎権十郎さんということで、劇中劇「播州皿屋敷」の青山鉄山は二代目権十郎さんということでしょう。魚屋宗五郎の月形龍之介さんは、その出番だけをしっかりまもります。

長兵衛の女房・お兼の山田五十鈴さんがこれまた押さえのきいた女房役で水野の屋敷へ行く長兵衛に羽織を着せるのをためらいますが、長兵衛の死後は腹の座ったところをみせ、じっーと脇としての存在感が大きいです。おきぬの高峰三枝子さんは、腰元という立場に不安を感じつつも、権現様からの品物を売っては水野の名前に傷がつくと心から心配し、小紫の花柳小菊さんは美しく威厳ある太夫で、若い権八を愛しく想いつつも姉のように心配します。

近藤登之助の三島雅夫さんがねちねちとした憎らしい悪役を好演で、最初に白柄組に道を邪魔される外様大名の高田浩吉さんに外様の意地があり、松平伊豆守の市川小太夫が大久保彦左衛門の山本礼三郎さんにピシッと采配を言い渡し、その下で働く町奉行の大友柳太郎さんも切れがいい町奉行です。悪役の多い進藤英太郎さんが、長兵衛の下で働く唐犬権兵衛です。

水野の小姓の澤村アキオさんは、長門裕之さんです。水野の見合い相手の妙姫は松竹歌劇団の小月冴子さんで個性的な演技をみせてくれます。

松竹30周年記念映画ということもあってか、とにかく俳優さんが多いです。撮影は『おぼろ駕籠』でも担当した石本秀雄さんでした。

長くなりましたが、映画の一場面一場面が密接に関連していて、そのつながりがどれも重要でくさりのように繋がっています。最初にお祭りの映像がながれますが、そのお祭りの灯が消え幡随院長兵衛の死によって各家の提灯に灯りがともされていくのが象徴的です。「もう喧嘩はありません。幡随院長兵衛が請け合います。どうぞ、提灯に火をお入れくださいませ。」「どうぞ提灯に火をお入れくださいませ。」