『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (5)

  • 詩人・荒川洋治さんは、本にかかっているパラフィン紙をいいですねと言われた。今回の講義に出てきた作品を読まなくてはと文学全集をから探し出して積んで、図書館から探して積んでとやっているうちにそれだけで疲れてしまった。そして邪魔なのが、全集の茶色く焼けたパラフィン紙。ばりばりと破り捨てる。乾いた音と真新しい本がまぶしい。がさつで申し訳ない。荒川洋治さんは、黒島伝治の作品を紹介。小豆島で貧しいなかで育つ。プロレタリア作家で44歳でなくなり、短編60と長編1を書き残している。

 

  • 黒島伝治さんは1919年(大正8年)に召集され、1921年(大正10年)にシベリアへ派遣され1921年(大正11年)に病気のため日本にもどり、そのときのことを書いたのがシベリアものといわれる反戦小説である。大正デモクラシーのためか発禁にはならなかったのである。体験から考えると貧しいひとや、戦う意味がどこにあるのかわからないで死んで行く兵隊のことを書くのは自然のことであったとおもわれる。シベリア出兵というのがよくわからない。

 

  • 荒川洋治さんが紹介してくれた作品に『二銭銅貨』『』がある。『二銭銅貨』は、弟が兄の使っていたコマをみつけるのだが上手くまわらない。ヒモだけでも新しいのが欲しいとねだる。母は一尺ばかり短いヒモが二銭安くしてくれるというのでそれを買う。弟は他のより短いというのに気が付き、それを牛の番をしながら、柱にそのヒモをかけてのびるようにと両端をひぱったのである。ところがヒモの一方が手からはずれころんだところを牛につぶされて死んでしまうのである。『紋』は老夫婦が飼っている猫の名前で、よその鶏を食べたりと悪さをするのでしかたなく捨てにいくのであるが帰ってくるのである。そこで帰ってこられないように船主に頼んだ。船主が捨てて帰ろうとしたら紋は船に飛び乗ろうとしたのであるが船主の棒が当たってあっけなく死んでしまう。

 

  • シベリア出兵は日露戦争の後である。日露戦争は1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月までである。作家・木内昇さんは、『坂の上の雲』から司馬遼太郎さんが描いた近代を話された。明治維新などの主人公は欠点もあるが行動する人として力強く書き進めているが、明治30年以降からの作品が少ないとされる。日露戦争は、三人の人物からの三視点でみている。秋山兄弟は士族で明治になって仕事がなくなるが、名を上げたいと思っている。没落士族の多くがそうのぞんでいた。兄は陸軍、弟は海軍、正岡子規は市井のひとである。

 

  • 日本側とロシア側の近代化を司馬さんは冷静に見つめている。戦争をすることによって藩中心であった日本が国家という一つになったが、西洋に追いつけ追い越せとなって進んで行く。司馬さんは戦争体験があるので、のめり込んでいくことに懐疑的である。そこから第二次世界大戦に進み、日露戦争とは違う軍部、関東軍の暴走のカギがわからない、理由がわからないとしている。こちらはもっとわからないのでお手上げである。司馬さんは生前『坂の上の雲』の映像化を許さなかった。慎重であった。読むのがベストであろう。

 

  • 作家・林望さんは中島敦さん『山月記』の全文をプリントしてくれ、一部を朗読された。声がよく通り、文章が気持ちよく頭の中を通過していく。日本には二つの文脈があって、和文脈は源氏物語のように女性的で柔らかく、漢文脈は漢文の影響で男性的で、悲壮感、孤独感、高揚感があるという。漢文脈は声で味わうのがよいということであろう。中国の『人虎伝』をもとにしているのだそうだ。

 

  • 『山月記』は自分の才を信じている主人公・李徴は、境遇に満足できず発狂してしまい、いなくなってしまう。翌年、猿慘というものが勅命で出かけた先で藪に中から人の声がし、その声が李徴であった。そして姿は見ないで話をきいてくれという。姿が虎になって、そのうち心も虎になるであろうから今人である内に自分の想いを告げて置くという。李徴は切々訴え、帰りにはここを通るなと告げる。李徴と別れ後ろを振り返ると一匹の虎が茂みから躍り出た。「虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入って、再び其の姿を見なかった。」内田百閒さんの『豹』を思い出した。

 

  • 森鴎外さんの『寒山拾得』もプリントにのせてくれた。これは子どもたちにせがまれて書いた児童文学なのだそうであるが、ここにも僧が虎になったような話がでてくる。これは中島敦さんが、6歳の時にでている。中島家は近世以来、代々の儒学の家柄で父は国漢学者であった。幼い頃から漢文の読みに慣れ親しんでいたであろう。林望さんは、高校の教科書にも載っているので、分析しないで『山月記』を先ず耳から味わってほしいということのようである。

 

  • 中島敦さんの年譜から22歳の時、「浅草の踊り子を組織して台湾興行を企てしようとしたという」の箇所を見つけてしまった。中島敦さんも浅草へ行っていたのか。今、駒場の近代文学館では「教科書のなかの文学/教室のそとの文学Ⅱ ー中島敦「山月記」とその時代 」展(~8/25)をやっており、次は「浅草文芸・戻る場所」展(9/1~10/6)なのである。

 

『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (4)

  • 日比谷図書文化館での『大正モダーンズ』展を最終日に観にいった。そのことはまた別のこととするが、図書館のほうに「ジェーン・スーさんと考える 親のこと、わたしのこれからのこと」という講演会の案内があり、そこに、三冊の本が並べられていた。その一冊に北杜夫・斎藤由香・共著の「パパは楽しい躁うつ病」があった。

 

  • 作家・磯崎憲一郎さんは、北杜夫さんの作品が好きで、芥川賞を受賞したとき北杜夫さんの本のことを書いたところ、娘さんの斎藤由香さんから手紙をもらい北杜夫さんの自宅で会うことになった。北杜夫さん、奥さん、斎藤由香さんとで話すことになったのであるが、北杜夫さんは話しの輪に入らないで始終黙っておられる。磯崎さんは、北さんの小説について話をふってみたら、黙っていた北杜夫さんが乗ってこられた。それが2011年2月で、2011年3月に対談を計画したが、東日本大震災で中止となり、2011年11月に再度決まるが、その前に亡くなられてしまう。斎藤由香さんは、父は忘れ去られた作家ですからと言われたがそんなことはない。全国紙の一面のコラムが北杜夫の死にふれていたのは井上ひさし以来で忘れ去られた作家ではないと。

 

  • 北杜夫さんは、子供のころは野っ原で昆虫と遊んでいるのが好きであった。父の斎藤茂吉が怖くて避けていた。斎藤茂吉は医者になれしか言わなかったのだそうである。動物学を勉強したかったが許されず東北大学の医学部に入り、ペンネーム・北杜夫は茂吉の子供であることを隠すためでもあった。北杜夫の自然描写は風通しがよく『谷間にて』は台湾に蝶を取りに行く話であるが、実際に台湾にいく予定が埴谷雄高に空想で書けと言われて中止している。風景描写を人の内面としては描かない。そこが当時の作品としては異質であったとされる。

 

  • 『楡家の人々』は40代になって書く予定だったが、亡くなる人が多く30代で書くこととなった。磯崎さんが、小説家になって『楡家の人々』を読むと、外向きの視線に驚かされたと。青山の病院がすごい建物となって表されていて表現の過剰さ、大げささをあげる。読み手に感情移入させない、近代文学の中では乾いていて(ドライとは違う)個人の内面から離れていて外に向かっているとされる。文学少年ではなかったことがそうした作風を生んだのであろうか。

 

  • 北杜夫さんの行かなかった時の台湾から時代的にもう少し前の台湾について、評論家・川本三郎さんが話された。佐藤春夫、林芙美子、日影丈吉、邱永漢、丸谷才一の台湾関係の作品名などを資料としてプリントしてくれた。台湾の人々が日本に親日的であるだけに、台湾という国の過去も知っておいたほうがいいのではないかということだと思う。

 

  • 日清戦争の勝利によって日本は台湾の統治国となる。それが第二次世界大戦のポツダム宣言まで50年間続くのである。他国に統治されるということは、その国の人々とっては様々なおもいがある。佐藤春夫さんは、台湾を舞台とした幻想的な作品『女誡扇綺譚(じゅかいせんきたん)』。林芙美子さんは、新聞社の主催で台湾にいき、総督の官邸の招きより、庶民の町を歩くことを好んでいる。日影丈吉さんは、戦時中の台湾にいた日本軍人を主人公にしたミステリ。邱永漢(きゅうえいかん)さんは、自伝の『濁水渓(だくすいけい)』、『2・28事件』。丸谷才一さんは日本在住の台湾人が「台湾共和国」という独立国家を夢見る『裏声で歌へ君が代』。時間のながれによる台湾に関係した作品である

 

  • さらに映画として紹介されたのが『悲情城市』(侯孝賢・ホウ・シャオシュン監督)である。第二次世界大戦が終わり、長男を中心とした一つの家族・林家が、外からの侵入により内から崩壊していくのである。この映画では外の力がよくわからないのである。一日一日を生活している者にとって政治がどう動いていてそれがどうやって襲ってくるのかなどわかりようもない。特に戦争のときには。観終ってからどういう事だったのかと台湾の日本統治をへてから中華民国からの国民党による2・28事件にいたるという歴史を知ると、林家が翻弄された経過がわかってくるのである。独立を望んでそれが違う形で抑えられてしまう外からの力である。4男の文青(トニー・レオン)がろうあ者なのであるが、どの言葉も正確にはわからないという象徴でもあるようで、さらに弱者が主張できないままに闇のなかに閉じ込められる恐怖が伝わる。

 

  • 内田百閒さんは怖がりであった。闇も怖がった。それを笑われると君たちは想像力がないから怖くないのだといった。作家で演出家でもある宮沢章夫さんは、悲劇と喜劇の横滑りのようなこととして内田百閒さんの『豹』を紹介した。檻のなかの豹をみてその豹が自分を狙っているとして恐怖をいだきある家に逃げ込み皆に話すが皆笑っていてとりあわない。そして豹がその中にいたという小説である。話しを聞きつつ、着ぐるみの豹がふっと浮かんで苦笑してしまった。そういう話しではないのであろうが。宮沢章夫さんは、横光利一さんの『機械』を一行づつ読むという企画で11年間連載したのだそうだ。読んでいないので想像できない。

 

  • 『機械』『日輪』の二字の題名にあこがれ、図書館に本を返しにいったら図書館がなかったという小説を思いつきその題名を考えた。こちらの頭にぱっと浮かんだ。『返却』。当たり! 別役実さんが面白いという話し。別役さんは喫茶店に一緒にいても話さない人で、ある時「ああ、今日はめずらしく話した。」といったのだそうである。いつもと変わらないのに。あるインタビューで別役さんのことをほめて終わったら別役さんが「いやぁ!」といって離れたところにいた。どうしてそこにいるの。聞いているほうは、何も起こっていないのに可笑しい。

 

  • チェーホフは『桜の園』を喜劇『桜の園』としていて悲劇とはしていないのだそうである。そして桜の園の敷地は千代田区の広さなのだと。ちょっと待って下さいな。そんな広さなら嘆くまえに何とかなったんじゃないのですか。持っていない者のひがみか。それを一緒に悲嘆している観客は喜劇。