『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から  (2)

  • 実際に戦争を体験していなければ戦争文学を書けないのかという事に関しては、作家・浅田次郎さんが1951年生まれで体験していないが書きますと。その代りウソを書くわけにはいきませんから調べます。当時の天候状態まで細かくしらべます。その事から、暑さに関して、昭和30年代の8月1ヶ月、31度が数日間であとは30度以下ですと言われる。暑いですが戦争よりいいです。ごもっともです。

 

  • 戦場で芥川賞を授与した作家・火野葦平さんについて話されたが、火野葦平さんは1928年に幹部候補生として入隊しているのである。どうして入隊したのか。大正軍縮というのがあり、こじんまりとした近代的軍隊にしようということで、そこで職をうしなった将校を学校などのへ軍事教練の教師として派遣した。早稲田大学生の火野さんは、そこで将校に勧誘されたのではないかという推理である。一年間だけの入隊で将校などの幹部候補生としての資格を得るわけである。ところが所持していたレーニンの本がみつかり伍長に格下げされて除隊となります。大正軍縮というのがあったというのも驚きですが、レーニンの本を持って入隊するというのも驚きです。

 

  • 火野葦平さんのお父さんは九州若松で石炭沖士玉井組の親方・玉井金五郎で、この父と母のことを書いたのが『花と龍』で映画化されている。火野葦平さんも波瀾万丈の中作品を書きますが、浅田次郎さんは、火野さんの『インパール作戦従軍記』を高く評価される。火野さんが、従軍作家としてビルマのインパール作戦に参加して事細かく手帖に書き記したもので、戦争の中の人物がよく描かれていて、自然主義文学は戦争文学に残っているといわれた。そして、戦争は一人一人の人生を破壊するものであると。

 

  • 『インパール作戦従軍記』の紹介チラシに 「文中に「画伯」として登場する同行の画家・向井潤吉のスケッチも同時掲載。」とある。向井潤吉さんは「民家の画家」ともいわれる、自然の中の民家を描かれている画家である。『向井潤吉アトリエ館』は思いつつ行けないでいる美術館なので意識的に繰り込もう。

 

  • 火野葦平さんの小説は多数映画化されている。『陸軍』(木下恵介監督)は、最後のシーンが戦意高揚に反するとされ、木下監督が一時映画から離れた作品であるというのは有名である。芥川賞受賞の『糞尿譚』(野村芳太郎)も映画化されていた。九州の若松港関係の作品などは任侠物となって映画化されているし、そのほか青春物もある。『ダイナマイトどんどん』(岡本喜八監督)も原案が「新遊侠伝より」となっていた。

 

  • 新橋演舞場で新作歌舞伎『NARUTO-ナルトー』を観てきた。うずまきナルトとうちはサスケという二人の若い修業中の忍者が成長していく話しであるが、ふたりとも自分の知らない過去を背負っている。その過去の事実が次第に明らかになりそのことにより悩み行動し成長していくのである。うちはサスケの一族の過去を死者から語らせ、うちはサスケに事実を教えるため先輩忍者が死者をよみがえらせ語らせる。死者をよみがえらせる術を使うことはその忍者の死を意味している。死をかけて伝えるのである。そんな術はないので、『戦争はなかった』という世界にならないように、ときには、過去をおもいいたる時間を持つしかない。

 

  • 作家・堀江敏幸さんは、岐阜の多治見市出身ということで昨年も講義の中に岐阜が出てこないかと捜されて、今年も目出度く出てきたのである。昨年の岐阜は、梶井基次郎さんの『檸檬』が発表されたのが同人誌「青空」で、お金がないため岐阜刑務所に印刷を頼んだのだが、誤植で「塊」が「魂」になっていたという話しをされた。もう一度その話をされたので、そうであったと思い出したのである。『檸檬』の冒頭。「えたいの知れない不吉な塊りが私の心を始終圧さえつけた。」今年は井伏鱒二さんである。井伏鱒二さんは梶井基次郎さんの『ある崖上の感情』を読んで凄いと思ったのだそうである。

 

  • 井伏鱒二さんも、陸軍徴用員として入隊(1941年・43歳)。国家総動員法(1938年・昭和13年)は、人も物資も、国が集めろ!集まれ!となればそれに従わなければならないのである。井伏鱒二さんは、シンガポールの昭南タイムス社に勤務する。1年で徴用解除となり帰国するがその間小説を書いて送れというので『花の町』を書く。堀江さんによると戦意高揚するような小説ではなく、そこに大工で長くいた古山を軍の上の人が通訳として徴用するのである。どこでも徴用できてしまうのには驚く。その古山が岐阜の多治見出身者だったのである。今年も岐阜とつながりました。

 

  • 徴用中も井伏鱒二さんは、梶井基次郎さんの『交尾』、『ある崖上の感情』に対抗するような胆力のある作品を書いていたということである。井伏さんの小説『駅前旅館』の映画が好評で駅前シリーズができるのであるから、井伏さんにはこの胆力の中心を動かす術もあるようにおもえる。堀江さんが『遥拝隊長』についても言われたので読んだが井伏さんの作家ならではの視線である。

 

  • 堀江敏幸さんも触れていたのであるが『遥拝隊長』の中で主人公は、移動中のゴム林のなかで眼にした白鷺を書いている。爆弾で穴があいたところに驟雨で水がたまり池になっていている。「その濁り池の一つに水牛が二ひき仲よく浸かって首だけ現わしていた。その片方の水牛の角に、白鷺が一羽とまっているのが見えた。水牛も白鷺もじっとして、これらの鳥獣は、工兵部隊の架橋工事をうっとりとして眺めている風であった。」 <うっとりと眺めている風であった> は作家の目である。白鷺はアニメ映画『この世界の片隅に』でも登場する。すずは白鷺に逃げなさいと追い立てる。水兵になった幼なじみが婚家へ訪ねて来てくれて白鷲の白い羽根をくれる。すずはそれを削って羽根ペンにするのである。書くこと、描くことを白鷺がつないでくれているようである。

 

『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (1)

  • 日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)については書き込みする気はなかったのであるが、講師のかたがたの講議から読みづらいと思っていた作品などが読めたり、観ていなかった映画などを観て見ようと触発されたので書き記しておくこととする。講議に関しての報告というより聞いてどうつながったかということである。いつもながらの、どう勝手に飛んだかということでもある。

 

  • 作家・中上紀さんが、父上である作家・中上健次さんとの家族としての生活から作品に流れている原点や書き表したかったことなどを話された。そのことで、和歌山の新宮にある「佐藤春夫記念館」で購入した『熊野誌 第50号記念冊 特集 中上健次・現代小説の方法』が読めたのである。購入したときは全然受け付けなくて中に入ることができなかったのでほったらかしてあったが、もしかしてと思って読み始めたら進んでいけた。読めたからと言って理解したということにはならないのであるが、読めたということが嬉しかった。図書館で中上さんの作品を立ち読みし借りるかどうか検討できる段階には位置する。

 

  • アメリカで家族で暮らし、アメリカから熊野の新鹿(あたしか)で暮らすことになる。中上紀さんはアメリカへは逃避であり、熊野は漂着と表現された。熊野が漂着を受け入れる場所であると。中上紀さんが話す熊野は旅をした風景を思い出させる。ところがそこから一転、熊野で<二木島の事件>が起る。そのこと脚本にしたのが映画『火まつり』(柳町光男監督)である。観ていないが中上健次さんの中での熊野の一端が発せられているようである。作品『熊野集』あたりで探れるようである。

 

  • 中上健次さんは雑誌『文芸首都』に同人として参加し、同時期の同人に林京子さんと津島祐子さんがいる。津島祐子さんは、太宰治さんの娘さんである。講師の詩人・伊藤比呂美さんが太宰治さんについて熱く語られた。昨年は森鴎外さんを熱く語られ、鴎外は夫で、太宰は愛人であると宣言し、今年は愛人について書かれた詩も朗読された。伊藤比呂美さんは津島祐子さんに会われた事があり、その時津島さんが太宰の作品の中に自分の事が書かれていないか探したと語られ、言葉に詰まったようである。出てくるのは二箇所で、一箇所は太宰の奥さんである母に抱かれており、もう一箇所は話されなかったのでわからない。次の日、中上紀さんが父・中上健次さんとの家族生活について話されたので、同じ作家の子であるが津島さんとの違いを感じ、津島さんの求めた父の心細さがふっと哀しくさせる。

 

  • 林京子さんについて話されたのが、作家であり、長崎資料館館長でもある青来有一さんである。林京子さんは1945年(昭和20年)8月9日、長崎で被爆され、そのことを作品にされたが『祭りの場』である。『祭りの場』で芥川賞を受賞された。「経験のないものが、原子爆弾のことを書くうしろめたさ」を青来有一さんが語った時、林京子さんは「自由に書いていいのですよ、小説は自由です。」といわれて大変励みになったそうです。

 

  • 祭りの場』は、被爆されて30年たって書かれたのである。記憶も薄れているということもあってか、事実関係のみで書かれている部分と、自分が逃げるときに感じた感情とを分離して書かれていて、これが読みやすかった。読み手が変な感情移入でおたおたせずに、しっかり現実をとらえることができたのである。何が起こったのかもわからず、自分のことしか考えられずに歩き続けるのである。この時林京子さんは14歳。学徒動員で三菱兵器大橋工場で労働していて、爆心地から1.3キロの場所で奇跡的にたすかるのである。動員学徒、工員合わせて7500名が働いていて、行方不明が6200名となっていて、死亡が確認できない者で殆んど死亡とみてよいと書かれている。

 

  • 青来さんによると、林さんは14歳の時、体重29キログラム。食べる物がないので体力もなく長崎高女324名のうち40名くらいは休んでいたようである。読んでいてさらに悲しいのは、その日出張で工場に行かなかった先生が次の日から生徒たちを探しにいくのであるが、二次放射線による原爆症で一か月後に亡くなっている。それも亡くなる数日前から気が狂われた。林さんは、先ず生存していることを学校に報告しなくてはと学校に向かうのであるが、爆心地の松山町を通っている。林さんは、「放射能のこわさをしっていたらこんな馬鹿はしない。」と書かれている。途中下痢をして、そのことが後になって放射能障害であるということを知る。無傷でよかったと安心していた人々が、こんどはこの放射能被爆により亡くなり、不安とともに生きることになるのである。

 

  • 10月に二学期が始まり、始業式は追悼会から始まった。各学年1クラスずつ減って400名近い生徒が亡くなった。「生き残りの生徒が椅子に座る。生徒の半数が坊主頭である。」「生き残った生徒は爆死した友だちのために、追悼歌をうたった。」「私は時々追悼歌を口ずさむ。学徒らの青春の追悼歌である。」

 

  • 春の花 秋の紅葉年ごとに またも匂うべし。みまかりし人はいずこ 呼べど呼べど再びかえらず。あわれあわれ 我が師よ 我が友 聞けよ今日のみまつり。

 

  • 「アメリカ側が取材編集した原爆記録映画のしめくくりに、美事なセリフがある。 - かくて破壊はおわりました - 」

 

  • 作家・高橋源一郎さんからのお知らせあり。
  • 8月15日 NHKラジオ第一 20時05分~21時55分 高橋源一郎と読む「戦争の向こう側」 作品は野坂昭如(1930年生まれ・終戦15歳)『戦争童話集』、小松左京(1931年生まれ・終戦14歳)『戦争はなかった』、向田邦子(1929年生まれ・終戦16歳)『父の詫び状』、石垣りん(1920年生まれ・終戦25歳)『石垣りん詩集』
  • ミュージシャン・坂本美雨
  • 詩人・絵本作家・アーサー・ビナード
  • 詩人・伊藤比呂美 (えっ!大丈夫かなとおもったら、高橋源一郎さんもどうなるのか心配ですと。どうなるかわからないくらいエネルギーのあるかた。アニメ『この世界の片隅に』の浦野すずは1925年生まれで、終戦は結婚していて北条すずとなり20歳です。)