話芸アラカルト(1)

映画『男はつらいよ』の寅さんである渥美清さんは言わずと知れた話芸の抜きんでた映画俳優であった。とらやのあの狭いお茶の間で旅の様子などを語るときはアップの寅さんの顔を眺めつつ、家族の一員になって聴き入ってしまう。話しの中に女性が登場すると、一家は現実に戻されて雰囲気が変わってしまう。満男くんは大人の思惑をよそに「またか」と小馬鹿にしたような顔をするのである。

50作目『男はつらいよ お帰り寅さん』は、この満男(吉岡秀隆)が寅さんを通して人間の一長一短ではいかない面倒な部分も見て来たことによって、面倒な状況にたいしても自然に対峙できる大人になっていたということが証明されるのである。

満男は初恋の泉(後藤久美子)と再会する。そして泉の母と父に関わることになる。離婚している泉の両親は老齢となり一筋縄ではいかない。特にお母さんは見ていても呆れてしまうほど勝手な行動にでる。ところが満男はこともなげにその母と泉の仲を取り持つのである。

満男には泉と母親のそれぞれの気持ちが何となくわかるのである。これは、寅さんの生き方を通して、寅さんと接する人々を通して自然に蓄積されていったものである。良いにつけ悪いにつけ寅さんから言葉では簡潔に表せない人間の面倒さを生活感覚として教え込まれていたのである。寅さんは意識しないで満男に一人前の大人となり親となれる力を与えていたのである。

その様々の寅さんが画面上に走馬灯のように出現する。

50作目の記念イベント『落語トークと寅次郎』に参加した。『男はつらいよ』に関連した落語(立川志らく、柳亭小痴楽)、浪曲(玉川太郎)と座談会トーク(司会・志らく/山田洋次監督、倍賞千恵子、柳家小三治)である。落語家の小三治さんがどんなことを発言されるのかが一番興味があった。

小三治さんが寅さんの映画で一番印象に残っているのは、暑い沖縄で照り付ける太陽を避けるため寅さんが、電柱の影に隠れようとする場面といわれた。山田監督はそれは渥美さんが考えてやったことですと。電柱の影は細くて隠れようもないのである。落語に登場する人物がやりそうな行動である。そして、小三治さんが倍賞さんの「下町の太陽」を一節歌われて、倍賞さんのアカペラの「下町の太陽」の歌唱のお土産つきとなった。

小三治さんのまくらでフランク永井さんの話しを聴いたことがある。オートバイの小三治、オーディオの小三治、まくらの小三治といわれ、落語の小三治とは言われませんと笑わせる。フランク永井さん自身も大切にされていたという「公園の手品師 」が好きでと、歌ってくださった。沁みます。

落語「粗忽長屋」は小三治さんの噺を聴いて、こんなに面白い噺にできるのだと再認識した噺である。それまで噺としてはばかばかしい面白さとは思っていたが、本当に面白いとは思ったことが無かった。いやもう、登場人物にこちらが成りきって楽しませてもらった。

浅草寺にお参りにきた男が人だかりの先に行き倒れの死体を見つける。そこに行き着くまで、こちらも男にご一緒する。行き倒れの死体の身元を探す世話役。男は死体は自分が住む長屋の熊だといい、本人を連れてくると言う。常識の通じない相手の登場に困ったものだとあきれる世話役。こちらも世話役目線になってあきれる。世話役の気持ちがよくわかる。噺の中にどっぷりである。

なんでそんなことが信じられるのであろうかは噺を聴かない人が思うことである。語っていることがそのまま本当に思えてくるから不思議である。そこがまた可笑しいのである。ばかばかしいはずなのに。入ったが最後、その世界から出ようと思わないのである。

男は長屋の住人の熊をつれて浅草寺にもどってくる。熊さん、お前の死体があるよと言われてついて来るのである。その過程は知っているが、「もう一人変な人があらわれたよ。」の世話役目線にすぐこちらは入り込んでいる。もう可笑しくてしかたがない。終わってしまえば可笑しい笑いの世界の中にいたと満足なのである。

これが腕のない落語家さんだと、この噺はこういう噺なのだと納得して笑うが、噺の世界の一歩こちら側にいて中へ入り込むことはないのである。