すみだリバーウォークから横十間川岩井橋へ(3)

小名木川クローバー橋を後ろにしての水門橋。その下には横十間川親水公園の水上アスレチックがありました。

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次の三島橋の下を進みます。

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いよいよ岩井橋となります。が、工事中でした。

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南側はまだのようです。

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さてどうしてここらあたりを隠亡堀というのでしょう。

江戸時代火葬は市街地が形成されるにつれ、各寺院の境内の一角に荼毘所(だびしょ)や火屋(ひや)があったようですが江戸の街が大きくなるにつれ火葬場も郊外に移転し火葬専門の施設が生まれました。五つあったので、江戸五三昧(ざんまい)といわれました。(『江戸・東京の「謎」を歩く』より)その場所は諸説あるようです。

下記の葬儀社による江戸時代の火葬場の歴史では、岩井橋近くの砂村新田阿弥陀堂荼毘所が江戸五三昧に入っていたとしています。別名で隠坊堀炮烙(ほうろく)新田ともよばれていたとありその後のことも紹介されています。

設立前の歴史 (tokyohakuzen.co.jp)

江戸・東京の「謎」を歩く』(竹内正浩著)の<第六話 火葬場三百年史>では江戸五三昧は小塚原、千駄木、桐ケ谷、渋谷、炮烙新田とあり、岩井橋の近くに火葬場があったことは確かなようです。南北さんが<隠亡堀>での戸板返しを考えたのは、江戸の人々の共通の認識場所をえらんで仕掛けたのではないでしょうか。さらにきちんと荼毘にふさなかったお岩さんの怨念がここまで流れ着いたとしたのかもしれません。

南北さんは、芝居ファンへのサービスが旺盛で色々な意味を重ねてきます。でも今はそんな場所ということなど想像できない場所に変わっています。南北さんの選んだ場所に立てて、南北さんの頭の中がさらに少し見えたような気分にさせてくれました。

本では、上記葬儀社のことも書かれていて、偶然検索して見つけたところと重なって驚きました。こちらは現実的な火葬の問題から火葬場移転、運営の話にまで触れています。

『江戸・東京の「謎」を歩く』ではスカイツリーの面白いことも紹介しています。それは幕末に活躍した歌川国芳さんが東京スカイツリーを予言した錦絵を描いていたというものです。『東都三ツ股の図』。三ツ股とは隅田川と小名木川との合流地点のことだそうです。

歌川国芳「東都三ツ股の図」

「右手に永代橋と漁船が舫(もや)う佃島を描写し、正面左手には小名木川に深川万年橋が架かる。たぶん箱崎(日本橋箱崎町)あたりから隅田川ごしに深川方面を望んだものであろう。」

左は火の見櫓(やぐら)で右は「実は井戸掘りの櫓と見られている。」としていますが、それにしては高すぎるとしながら、筆者は解けない謎としています。

永代橋の右端に突き出ているものはなんでしょうね。それにしても三ツ股の塔はスカイツリーによく似ています。不思議な塔です。

歌川国芳を最初の師とした川鍋暁斎の娘さんが主人公の『星落ちて、なお』(澤田瞳子著)を読み終わったばかりで、国芳さんの出現にまたまた「来ましたか」と思いうれしくなりました。

さて歩きのほうは、ラストはテレビで時々紹介される砂町銀座へ。道をよくしらべていなかったので人に聞きつつ行き、どの道を進んだのかわかりません。突然商店街の路地があらわれたという感じでした。地下鉄や電車の駅からこんなに離れた商店街は初めてです。

商店街の道幅が狭いので左右のお店の品物が歩きつつ見えて、何の気兼ねもいらない日常が感じられる砂町銀座です。想像していたよりも商店街は長かったです。帰りは地下鉄都営新宿線西大島駅へ。途中で小名木川にかかっている進開橋を渡りました。プチ旅も大いに満足し終わりとなります。

追記: 砂町銀座商店街

追記2: 砂町銀座の映像はないのかなと探したら『孤独のグルメ』がでてきました。きっちり観たことがなかったのですが物語性もあるのですね。主人公は仕事の途中で砂町銀座商店街であさりめしとおでんやお惣菜を購入し、事務所でこれからしなくてはならない仕事前に食すのです。お惣菜などとの出会いと食べたときの感想に引き込まれました。砂町銀座の様子もほんわりです。