『星落ちて、なお』(澤田瞳子著)から歌舞伎へ

今年の年始めの読書は、テレビドラマの『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』から澤田瞳子さんの著書『若冲』でしたので、師走は澤田瞳子さんの『星落ちて、なお』で締めることと致します。

川鍋暁斎の娘・とよ(暁翠)が父の死後、父との関係を思いめぐらします。とよは、5歳の時に父から絵の手本を渡され絵師の道を歩みます。兄・周三郎(暁雲)は、実母が亡くなり、後妻として入ったとよの母がきたため他家へ養子に出ますが、十七歳で実家にもどり、そこから絵師の修行に入ります。

周三郎は、父の葬儀のことなども皆とよにまかせてしまいます。とよは、弟子の鹿島清兵衛と真野八十吉に助けられながら葬儀を終わらせます。そして父と自分は親子というよりも父が自分を弟子としてしか接しなかったことを回顧します。

周三郎は、父はとよを葛飾北斎の娘・応為のようにそばにおいて手伝わせるために絵を習わせたといいます。周三郎は、とよに絵ではお前なんぞという態度をとりとよを傷つけますが、それは自分ととよしか川鍋暁斎の絵を継ぐ者はいないのだという想いからでもあったのです。

とよは自分の母によって養子にだされたことを周三郎が恨んでいるのかともおもったのですが、後々、自分も兄と同じ想いであることに気がつきます。

暁斎は次第に古い画家として隅っこにやられ、200人いた弟子たちもいつしか離れていってしまいます。時代はあの狩野派に私淑したことを忘れて新しい絵の流れへと進んでいました。

とよはいいます。「そりゃ確かに、親父どのはどんな流派の絵でも描きました。でも、その根っこにあったのはやはり狩野の絵なんだと、あたしは思いますよ。」

とよは結婚し娘をさずかりますが、娘にはあえて絵を教えませんでした。自分と同じ道は歩ませたくないとの想いでした。挿絵などを描いていたとよはしっかり父の絵に対峙し自分の絵を描かねばと離婚し、父を見送った根岸金杉村の家にもどります。改めて絵の道へと進むのです。

明治維新から四十年余りたち、画壇を席巻していたのは橋本雅邦、横山大観といった画人でした。基は狩野派で学んでいましたがその名を表にだすことはありませんでした。真野八十吉の息子・八十五郎も絵師となりましたがやはりとよの想いとは違う画風でした。

周三郎は父の絵から離れず、かといって父を越えられないことを承知の上での道を進みます。そして周三郎は暁斎そっくりの絵を描きながら父を愛しみ憎しみもがきながら亡くなっていきます。その生き方がとよにやっとわかるのです。父の絵の基本までにも到達できない自分と兄は川鍋家の中で同じ闘いをしていたのです。

それでもとよは兄と同じ道をあゆみます。兄の死後、川鍋暁斎を継ぐのは自分しかいないのだと、その孤独感に戦慄しつつ心にきめるのです。

とよは、薄暗い画室をながめ、かつて確かにここに輝いていた星の残映であったことをおもうのでした。

川鍋家の絵の継承を基本軸に、とよと大きくかかわった鹿島清兵衛と真野八十吉の家族の確執なども描かれています。

興味ひかれたのは鹿島清兵衛でした。新川の下り酒屋百軒余りを束ねる大店・鹿島屋の養子となり、八代目鹿島清兵衛をついだ人物です。生まれは、大阪・天満の鹿島屋の分家でした。清兵衛は暁斎の弟子として二年ほど絵を習い、その後パトロンでもありました。暁斎が亡くなり独り身のとよは暁斎の申し出により、深川佐賀町にある加島家の先々代の隠居所へ引っ越します。

新川は幸田文さんが新川のお酒問屋の息子と結婚していたのでかなり前から新川とお酒はつながっていましたが場所はしりませんでした。行徳河岸のそばでした。さらに深川の佐賀町を調べました。

下記の地図は、「江戸東京再発見コンソーシアム」主催の舟めぐり「神田川コース」のときにいただいた地図です。古地図の上に現在の地図がかぶさって古地図と比較できます。

三ツ股も書かれています。朱色の線が小名木川で黄色が行徳河岸で、新川には酒問屋が並んでいたのでしょう。緑の丸あたりが佐賀町です。

現在は埋め立てられていますが、小網町、新川、佐賀などの町名は残っています。

残念ですが「江戸東京再発見コンソーシアム」での舟めぐりは再開しておりません。そのため、小名木川は「下町探検クルーズ・ガレオン」を利用しました。スカイツリーや日本橋から【東京のクルーズ】を楽しむならガレオン (galleon.jp)

さて鹿島清兵衛ですが、商売の腕もありましたが様々な趣味もあり、その中でも写真にのめり込み木挽町5丁目には写真館『玄鹿館』も開き写真大尽ともいわれました。写真の発展には相当寄与しています。しかし放蕩が高じ新橋の芸者・ぽん太を落籍し、ついには養子先の鹿島家から放逐されてしまいます。とよの前に時々現れその時々の様子が描かれています。最後は能の笛方となり、ぽん太は最後まで添い遂げました。

森鴎外の『百物語』の中にもでてきます。主人公は知人に勧められ百物語の会に出席します。その会の主宰者が今紀文(いまきぶん)と評判の飾磨屋でした。この飾磨屋のモデルが鹿島清兵衛です。その隣に芸者が座っています。主人公は清兵衛と芸者を観察し「病人と看護婦のようだ」と思います。さらに女性がこれから捧げる犠牲の大きくなるのを察知します。

主人公は自分を生まれながらの傍観者としています。飾磨屋は途中から傍観者になった人だと感じます。主人公は途中で先に帰りその後の飾磨屋の様子を聞き結論づけます。「傍観者と云うものは、矢張多少人を馬鹿にしているに極まっていはしないかと僕は思った。」

そうした新しいものへの時代の流れのなかで、とよは暁斎は狩野派であると主張します。狩野派での厳しい修行時代があり基礎ができているからこそどんな絵を描こうとゆるぎないのだということでしょう。

ジョナサン・コンドル著『川鍋暁斎』によると、最初の師である歌川国芳は戦さの絵があれば実際のけんかを観て描けとおしえます。狩野派ではひたすら狩野派の巨匠の絵を模写することでした。ここで自分の個性を消して目と手で頭に蓄積していったのでしょう。

コンドルは書いています。「西洋画の写生はただ一編の詩を読んでそれを後で引用することができるという程度、それに対し日本画の写生は詩集全体を記憶してそのすべてをそらんじることができる。」

ここまでのことで、歌舞伎の身体表現について思い当たったのです。歌舞伎座12月の三部『信濃路紅葉鬼揃(しなのじもみじのおにぞろい)』がどうとらえていいのかわからなかったのです。入り込めないし何か拒否反応が起こるのです。鬼女たち(橋之助、福之助、歌之助、左近、吉太朗)の身体表現が魅了させるほどの出来上がりでなかったのではと思い当たったのです。玉三郎さんとの差がありすぎるのと、玉三郎さんにただついていっているだけで若さのオーラも感じられなかったのです。

筋書で見ましたら2007年の歌舞伎座での鬼女が門之助さん、吉弥さん、笑也さん、笑三郎さん、春猿さんでした。登場したとき赤く染まった紅葉だと思えたのです。

そして納得しました。まだ歌舞伎の身体能力が途中なのだと。山神の松緑さんで沈んだ気持ちが挽回するかなと期待しました。高まりまでにはいたりませんが平常にはもどりました。鬼女たちの毛振りの中で動く七之助さんの美しさが際立っていたのが救いでした。これって維茂が主役なのかなと思ってしまい七之助さんいいとこ取りをしていました。

その前の『吉野山』では今まで観た吉野山とは違っていてお雛様の形もなく、静御前の踊りの見せ場が多く、静御前も積極的で、静御前を守る家臣忠信よりも狐忠信を感じさせました。最後も花道ではなく本舞台での狐の振りがなおそう思わせたのかもしれません。松緑さんと七之助さんの踊りをたっぷり堪能し期待しただけにその期待との落差の淵にはまってしまった感じでした。

観劇した日が早かったからかもしれません。歌舞伎の身体表現はやはり時間がかかるということを改めて感じさせられたのです。

周三郎ととよの闘いも同じですし、暁斎の模写して模写して自分の手のうちにし発信するという行為は歌舞伎の身体表現も同じと思えました。

一か月の舞台経験が身体に蓄積され、詩集の素敵な部分を自由に出し入れできる日がくることでしょう。

玉三郎さん、カルガモのお母さんのようで神経も使われて大変なのではなどと余計なことまで考えてしまいました。

最後まで勝手なことを言いまして面目次第もございません。

穏やかな年越しでありますように。そしてささやかでも希望の持てる新しい年でありますようにと願うばかりです。他力本願に思いを込めて祈ることもつけくわえておきます。