2月文楽 『七福神宝の入舩』 

『七福神宝の入舩』の平成15年5月の床本があった。この演目は第一部で上演されているが観ていないので第二部の『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』を観たのであろう。今回は三部立てで一部の『七福神宝の入船』を観るので床本を読んでおいた。

<浮かれ出でたる神々の七つの福を銘々に積むや宝の船遊び、呑めや謡へや酌に立つ、その色こそはなよ竹の生ふる嶋にぞ住み給ふ>

七福神が浮かれている。呑めや謡えと酒盛りである。楽しそうである。<サアサアこれから銘々に嗜(たしな)みの芸尽くし> 隠し芸大会である。舞台は七福神。大夫さん七人、三味線七人。琴も置いてあるのでなにが始まることか。

寿老人、<子供に戻りし老人が、この三味線で玉琴に似せるも時のヲホ、、、、お笑い草>寿老人は三味線を取り上げかき鳴らす。そこに琴が加わり華やかになる。

次は布袋の謡に合わす腹鼓。見事なお腹で音も良し。

さてお次は色の黒いのが自慢の大黒天。驚くなかれ胡弓である。いやいや三味線ばかりか、胡弓も素晴らしい。

逃げようとした弁財天に似合うのはやはり琵琶。太棹で弁財天の琵琶の音を。

さてお次は道化役。長い頭の天辺に何であろうか獅子頭が乗っている。頭が伸びたり縮んだりの角兵衛獅子。<越後の国の角兵衛獅子、国を出る時や、親子連れ、獅子を被ってくるりと回って首をふりまする>

黄金の釣竿持つ恵比寿さん。黄金の釣竿で太鼓に見立てて船端を軽快に刻み打ち。ついには釣竿海原に投げ鯛釣りと、失敗何のその。ビール、ジョッキで飲み干していざ再挑戦。恵比寿ビールの後押しで鯛も見事に釣りあげました。

物々しい異形の毘沙門天。船の眠りを覚まさんと、取り上げたる三味の船歌。太棹七棹豪快に福を讃える 芸尽くし。<実に福神の音曲の数を並べて積み上げし浪乗船の音のよき調べを代々に伝へける>

人形の動きもさることながら、どんな音曲がつくのか楽しみであった。期待以上の楽しさであった。観たし、聴いたし、おめでたいし、愉快だし、七福神は浮かれているし、音曲は確かだし、国立小劇場で七福神巡りはできたし、しの七並べで上出来上出来。

 

歌舞伎座2月『花形歌舞伎』 への雑感 (2)

『青砥稿花紅彩画~白浪五人男~』の<白浪>とは盗賊のことである。そのいわれは諸説あるので省略して、<白波五人男>の見せ所、「稲瀬川勢揃い」の場についてである。「雪ノ下浜松屋の場」で風体の良くない男(狼の悪次郎・菊十郎)が、小袖を頼んだらしくその期日の催促にくる。店の中を眺めまわし、何かこの男は企んでいるなと思わせる。この小袖が「稲瀬川勢揃い」で<白波五人男>の着る小袖だったのである。「雪ノ下浜松屋の蔵前の場」の最後、この悪次郎が出てきて日本駄右衛門に罪科がばれ危ない状況を伝える。それを聞いた浜松屋の主人が自分からの餞別として、着物を渡すのである。筋書を読んで、初めて分ったのであるが、日本駄右衛門が、悪次郎を通じて小袖を頼んでいて、その着物は結果的には、<白波五人男>の死に装束でもあったのである。

「稲瀬川勢揃い」の派手な衣装は<白波五人男>を恰好よく目立たせるために考えたものとだけ思って居て、芝居の中にその衣装のことが組み込まれていたとは、今回まで知らずにいた。実際には、衣装は衣装部さんなり役者さんなりが考えだしたのであろうが、芝居の中では、日本駄右衛門がデザインし注文していたことになる。そうなると、「稲瀬川勢揃い」も違う輝きが増してくる。台詞も、黙阿弥さんが考えたものなのだが、この衣装に負けない台詞をいう五人でなければならない。自分たちで設定しているのであるから。黙阿弥さんは格好いい。自分が消える事の恐れなどないのである。むしろ自分が消えて役者の登場人物の光る事を望んでいる。作者に負ける役者は駄目だともいっているように思える。

日本駄右衛門(市川染五郎)・弁天小僧菊之助(尾上菊之助)・忠信利平(坂東亀三郎)・赤星十三郎(中村七之助)・南郷力丸(尾上松緑)は負けてはいなかった。

テープで、日本駄右衛門(七代目松本幸四郎)・弁天小僧菊之助(十五代目市村羽左衛門)・忠信利平(六代目尾上梅幸)・赤星十三郎(市村家橘)・南郷力丸(十三代目守田勘弥)を聞いたが、先輩たちのほうが朗々としているが、花形のほうは声の質の違いが面白かった。それぞれに声に特徴がありそれを楽しんでいた。もう一つは、雪ノ下といえば、鎌倉に残る町名であり、稲瀬川は静岡である。所がこの芝居は江戸の話なのである。役者さんは江戸前で演じる。

<白波五人男>の名乗りの台詞(つらね)には、鎌倉から浜松、そした奈良の吉野、福島の白河まで出てくるのである。江戸の人々は歌舞伎の芝居小屋の中で日本全国あるいは唐天竺までを旅するのを楽しんでいたのである。

駄右衛門では、生まれは遠州浜松、人に情けを掛川、金谷をかけてと雑談から旅での地名が出てきて大喜びである。弁天小僧菊之助は、江の島の岩本院の稚児上がり、髷も島田の由比ヶ浜、悪い浮名も竜の口、八幡様の氏子、鎌倉無宿と解かりやすい。忠信利平は、義経に関係してくる。月の武蔵野江戸育ち、廻って首尾も吉野山、足を留めたる奈良の京、けぬけの塔の二重三重(義経、弁慶、忠信等が頼朝の追手から隠れた場所)。赤星十三郎は、鈍き刃の腰越、砥上ヶ原に身の錆を、月影ヶ谷神輿ヶ嶽、など鎌倉近辺である。最後の南郷力丸は、大磯である。磯馴れの松の曲がり形(大磯東海道の様子)、その身に重き虎が石、覚悟はかねて鴫立沢。

大磯を少し付け加えると、東海道の宿場町で、東海道の松並木がのこっている。澤田美喜記念館。藤村が晩年の過ごした旧島崎藤村邸、地福寺には藤村の墓がある。鴫立庵は西行の歌ゆかりの、日本三大俳諧道場の一つ。新島襄終焉の地であり、宿泊跡地に碑がある。海側には政治家の別荘がある。大磯城山公園には、国宝「如庵」を模した茶室「城山庵」がある。数奇な茶室「如庵」 そんなわけで、現代人も芝居を見つつ旅をしているのである。

江戸と設定するよりも、辻褄が合わなくても、観客がもっと遠くまで想像を巡らし遊び楽しむ世界観を後押ししてくれている。盗賊が主人公という事もそれに一役かっている。

 

歌舞伎座2月『花形歌舞伎』 への雑感 (1)

今月の歌舞伎座 『花形歌舞伎』は、昼が四世鶴屋南北の作品で夜が河竹黙阿弥の作品である。南北は『心謎解色糸(こころのなぞとけたいろいと)』で、昭和48年に国立劇場で上演され、今回は再演である。染五郎さん、菊之助さん、松緑さん、七之助さん、等の若手にとっては新作と言ってよい作品である。それに対し黙阿弥の『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』は通しとして、「浜松屋」と「勢揃い」の単独や二つセットを数えると何回上演されているか分らないほどである。

この二作品を花形の役者さんで観て思ったことは、歌舞伎は型の芝居であるということである。他の演劇と歌舞伎を分けているのは型である。そしてその型があるゆえに生き残ってきたのである。『心謎解色糸』は、型が決まっていない、模索状態である。型が決まっていないだけに台詞まわし、声のトーン、息継ぎなども定まらない。人物の寸法も、善と悪の演じ分けもすっきりしないところもある。芝居がメチャクチャだということではない。複雑な人間関係を解り易くし役者さんもそれなりの登場人物たちをこなしており早変わりもある。しかし、観ている側に何かもっとと求める声がする。それがなんであるか。『青砥稿花紅彩画』を観て明らかになった。古典で型があり、がんじがらめに縛られているはずなのに、こちらのほうがのびのびと演じられているように見える。観ているほうもストン、ストンと気持ちよくこちらの感性に入ってくるものを受け止めている。

おそらく花形役者さんたちも、先輩や師匠(親)から口うるさく言われてきたことが沢山あったであろう。あちらからも、こちらからもそう沢山のことを注意しないで欲しいと反発もしたことであろう。それが、身体の中に少しずつ積み重なって、身体が味方してくれているのである。花道から去る時の不敵で怪しい目つきと視線。そこに色気があり、その顔の表情を受けて立つ身体に型があるのである。この身体があるからこそである。

これがあるからこそ、歌舞伎は幼い頃から舞台に立たせられ身体に染み込まされるのである。そうしなければ、何代も続いて工夫してきたことを、覚え込む時間が足りないのである。身体に覚え込んで覚え込んで自分の芸を探し当てていくのである。さらに、観客の目も意識しないわけにはいかない。こんなに一生懸命なのに受け入れられないのか。この程度で喜んでもらえるのか。どちらにも落とし穴があるかもしれないし正解があるのかもしれない。それをどう捉えどう平衡感覚を保つかも役者さんの仕事である。

新作は、かつての役者さんたちがやってきたように、再演の度に工夫して積み重ね、自分の代で駄目なら次のいやもっと先の次の次の世代での花を夢見て伝えていく足掛かりとなるものである。若手の役者さんがそれを苦労し模索しているのもまた違う意味での観る楽しさではある。

今月の筋書きに新歌舞伎座の軒丸瓦の写真が載っている。歌舞伎座の座紋の鳳凰が丸瓦に型採られれている。歌舞伎座タワーの5階に上がると庭園もあるが、歌舞伎座のいぶし銀の屋根瓦を間近で見ることができる。その軒丸瓦を大写しにした写真である。筋書き買おうかどうか迷ったのであるが、この写真がボーンと出てきてそれだけで満足した。(古い瓦はどうしたのか気になるが。)表紙は後藤純男さんの奈良の當麻寺の『雪景』である。當麻寺といえば中将姫。中将姫と言えば国立劇場での新作歌舞伎『蓮絲恋慕曼荼羅(はちすのいとこいのまんだら)』であり、玉三郎さんの初瀬である。。この新作も是非再演し伝えていって欲しい作品である。中将姫伝説の人形アニメーション映画『死者の書』も人形を使うことによって伝説の幻想性を浮きだたせていた。

 

雑談から旅

ちょっとした雑談で驚くような事を聞くことがある。以前にも聞いていたのであろうが、そのことの引っ掛かりを掴めていないこともある。

かつてご近所に居たかた達と集まり話をしているうちに、彼女のお母さんがもう亡くなられておられるが、銀座生まれでお蕎麦屋さんの娘さんであったと。「銀座のどこだったのですか。」と尋ねると、「金春湯の向かい。」 え~!である。「私、銀座の銭湯には是非入らねばと思い金春湯に入ってきましたよ。」周囲の人が「銀座に銭湯があるの?」「そうなんです。あるんです。」彼女が生まれたときは、もうお母さんの実家もそこにはなかったそうである。お孫さんと銀座に行った時「おばあちゃん生き生きとしていたよ。」と娘さんが彼女に報告したそうで、やはり若い頃の自分を銀座で取り戻したのであろう。

静岡出身の仲間と冬は富士山が綺麗に見えるよねの話から、清水港から土肥までフェリーが出ていて富士を見るには良いと教えてくれる。駿河湾を富士山を見つつ横切るわけである。静岡から伊豆ね。それは素敵である。清水駅からエスパルス行きの無料バスに乗ると清水港に行ける。市内のバス停はちびまる子ちゃんの絵が描かれている。そうか、清水は次郎長さんもいるが、ちびまる子ちゃんの町でもあるのか。親戚の近くがちびまる子ちゃんの漫画家の家があり今は住んで居ないみたいだけど、ちびまる子ちゃんの漫画の町が残っているよ。いいな。漫画の町が残っているなんて。でも悲しいかな登場人物は思い出せても<町>が全然思い出せない。そこを通っても気が付かないだろう。

たまたま私が旅行パンフの切り抜きを持っていてここへ行ったことがあるか尋ねる。<加茂花菖蒲園(加茂荘)>と<花庄屋 大鐘家>である。<加茂花菖蒲園(加茂荘)>は江戸後期に菖翁(しょうおう)と称された旗本・松平定朝開発の古花が咲き誇り、<花庄屋 大鐘家>は300年以上の歴史をもち、母屋と長屋門は国の重要文化財の庄屋屋敷でアジサイの時期が良いらしい。<花庄屋 大鐘家>は彼女の実家の近くだという。行ったことはないが、看板を見た事があるよ。彼女は牧之原市出身であった。静岡県牧之原は私の頭の中に無かったので、以前にも彼女から聞いていたのだろうが聞き流していたのであろう。電車の走っていないところで、海沿いを走る国道150号線である。その先が浜岡原発。さらにその先に<ねむの木子ども美術館>がある。美しいところに原発が陣取っているのか。駿河湾と遠州灘を両脇に従えて御前崎である。山側に東海道の金谷があり、大井川鉄道である。<加茂花菖蒲園(加茂荘)>は掛川からの天竜浜名湖鉄道の方角にある。この天竜浜名湖線は「秋野不矩美術館」へ天竜二俣駅で降りて行ったので記憶に残っている。

バスも良い。東海道線真鶴駅からバスで中川一政美術館に行ったときはバスに揺られながら「岬めぐり」の歌が出できた。ツアーは楽なのであるが、記憶の中で道が切れてしまい、さらにツアーよりも安くいく方法は無いかと考える。時間を換算すると、安いかどうかは実際のところ分らない。雑談からまた、旅の青写真が増え何処かで使えそうである。

東海道神奈川宿から保土ヶ谷宿を読んでくれた友人が、<台之景>のおりょうさんが住み込んで働いていた料亭「田中家」の特別会席とお話つきのお食事の案内が横浜地域新聞に載っていたと新聞を送ってくれた。これうれしやと思ったが残念ながら予定ありの日にちであった。

情報は多いから、そこから取捨選択して自分の気に入った旅にする時間がこれまた、楽しくもあり、他の必要時間を奪う形にもなる。

 

 

神楽坂散策 (2)

私の要望で「宮城道雄記念館」へ。宮城道雄さんの胸像が朝倉文夫さん作である。ハ歳の時に失明している。邦楽に西洋音楽を取り入れ現代化した人である。一通り館内の展示を見てから建物の外に出ると、作曲や著作の時使用した「検校の間」があり、更に進むと宮城喜代子記念室がある。玄関を入った角に、アケビと思われる銅製の置物があり、三人とも気に入る。部屋には着物と帯が掛かっており、それぞれの感想が飛び交う。その畳敷きの廊下に座りしばし休憩。友人が茨城の岡倉天心の再建された六角堂に行った話から、釣竿を持った岡倉天心像が平櫛田中の作品で驚いたという。、彼女を小平市にある平櫛田中彫刻美術館に誘ったことがあり満足であったようだが、茨城の天心記念五浦美術館で天心像「五浦釣人」をみたのであろう。

それでは、今度は谷中の朝倉彫塑館に行こうとの話になり、廊下から見える屋根瓦を見るとお琴の琴柱(ことじ)のような飾りがある。朝倉彫塑館の瓦にも取っ手のようなものがついていた。あれは飾りなのだろうかと疑問を投げると、テレビで雪止めといっていたような気がする、近所にもあれがついている屋根瓦があるから聞いておくと言って聞いてくれたところ、<雪止め>であった。なるほど、朝倉彫塑館では互い違いになっていたりしていたが、役目があったのである。朝倉彫塑館は庭もあり、屋上庭園もあるから、彼女たちはそこの植物も気に入るであろう。

とにかくお昼にしようと宮城道雄記念館を出る。早稲田まで歩きたかったが、午後から雨ということで今回は辞めにして、<黒龍あります>のお蕎麦屋さんにする。一人は下戸で私は今飲むのを控えているので、見つけた人だけが飲む。お蕎麦は美味しかった。その後は喫茶でお茶とおしゃべりである。

天気がよければもう少し歩きたかったのである。大久保通りから早稲田通りに抜ける外苑東通りに、和算学者関孝和のお墓がある浄輪寺と、松井須磨子のお墓がある多聞院がある。

関孝和は映画 『天地明察』 (改暦1)では私は触れていないが、市川猿之助さんが関孝和をされている。 映画の役の印象としては、渋川春海より才能があるようであるが、名声を得るタイミングが遅れたような感じであった。誰でもが和算の問題を出しても良い場所があり、その問題を一番に解き、算哲の出した問題自体が間違っている事を指摘した人でもあり、算哲に有効な刺激を与えた人として登場する。思いもかけないところで名前をみる。松井須磨子にかんしては、島村抱月に出会う事によって実力よりも人気を博してしまった人と思う。今はそう思うのであって後に違う捉え方をするかもしれない。

ここを通り早稲田の演劇博物館にでも行こうと考えたが、またの機会とする。

神楽坂散策(1)で狛犬ならぬ狛虎の毘沙門天の善国寺のことを書いたが、JR日暮里駅で調達したパンフレット<川越・さいたま>に中山道の宿場町・浦和に兎の置かれている調(つき)神社の紹介があった。平安時代の全国の神社名簿である『延喜式神名帖』に記載がある神社なのだそうである。これまた珍しい狛兎である。色々あるものである。

 

神楽坂散策(1)

どちらかと言えば今回も超プチ散策である。友人三人で会う事となり何処か散策しようという事になり、神楽坂と決まった。神楽坂の細い路地はまだ歩いていなかったので好都合である。

JR飯田橋駅西口集合。行く途中の電車の中で違う仲間たち四人に会う。早稲田の穴八幡神社に行くという。ここで貰うお札を節分に張ると金銭的ご利益があるらしい。調べてみると冬至から節分までの2か月だけ授けられる、お札に「一陽来復」と書かれている。冬至、大晦日、節分の3回、夜中24時ちょうどに天井近くの壁にその年の恵方に向けて張るのだそうである。

その一人と話していたら隅田川の七福神めぐりの話となり、彼女の実家が鐘ヶ淵だという。『剣客商売』の小兵衛の住んでる所ねと言ったが通じなかった。今年の隅田川の七福神めぐりは17人連れて歩いたそうである。常磐津の『乗合船』を思い出すが、隅田川の七福神は文化文政期に、大田蜀山人や、谷文晁(たにぶんちょう)、酒井抱一といった文人たちが有名な谷中の七福神になぞらえてはじめたのだそうである。私が回った時は三囲神社から始めて多聞寺で終わったのだが、最後が淋しい感じだったと話すと、反対に回って賑やかなほうに進むのよと言われる。なるほどそうか、終わって一休みは浅草に近いほうが都合も良い。

友人達と神楽坂を歩き始める。地図の感覚よりも町並みは狭く、あれっと思うと通りを過ぎてしまい、またもどったりと説明のしようがない。最初の路地のお蕎麦屋さんに<黒龍あります>の張り紙に一人の友人は即反応を示し、このお酒なかなか出会えないとのこと。ではあなたの好みに合わせてランチの候補にしようという事になる。石畳の路地にお洒落なお店があったり、路地の奥に椿の美しい住宅があったりする。夜はまた雰囲気が変るのであろう。こちらに進みあちらに進み、毘沙門天の善国寺へたどり着く。狛犬が狛虎である。私が珍しいと言うと友人が京都にもあったよ、どこだったか忘れたけど凄く良かったよとの事。後で調べてメールをくれ、建仁寺の両足院とわかるが、思い出せない。建仁寺は京都めぐりの初期段階で行くから記憶も薄れているし、見る目が違っていたかもしれない。調べたら3月初め頃が冬季公開のようである。この善国寺は新宿山手七福神の一つでもある。由来など読んでお参りしてもどると一人の友人の姿がない。もどってくるとパンを抱えている。そういえば、あそこのパン屋さん美味しそうと言っていた。一切れづつ手渡され、お参りに来ていた男性にもおすそ分けしている。いつもの彼女らしい行動である。

そこから光照寺に向かう。途中でたわわな赤い小さな実の木が玄関脇に良い具合に覆っている。この二人は木や植物に強い関心があり、関心はあるが、名前を憶えられない者にとっては助かる。名前はピラカンサスと教えてくれる。家のかたが玄関前を掃除されていて、友人が鳥が食べに来ないんですかと尋ねると、鳥は飛びながらでは食べれないので止れる枝の回りの実を食べるので枝の近くの実は食べられますと答えてくださり、なるほどである。光照寺は歴史の古いお寺のようであるが、ここは牛込城跡でもある。牛込氏は赤坂、桜田、日比谷付近まで領有していたこともあったと説明版がある。そして地蔵坂の由来となった、木造地蔵菩薩坐像と荒削りの木像十一面観音座像の写真がある。この十一面観音坐像が良い。作者は円空と並び称された像仏聖・木食明満である。公開はされていないようである。鐘楼のそばにあるこの木は梅か桜か。枝垂れ桜に決定。

 

 『三千両初春駒曳』から映画『家光と彦左』

『三千両初春駒引』の幕に美しく飾られた白馬がうつし出され初春らしい華やかさであった。馬の鞍がきらきら輝き席につくと楽しい芝居が観れそうで明るい気分にしてくれる。素敵な趣向である。

<釣天井>で思い浮かべたのが、映画『家光と彦左』である。「宇都宮釣天井事件」という史実的にははっきりしない話があり、これは、二代将軍秀忠を宇都宮城主本田正純が釣天井で暗殺しようとしたというものである。『三千両初春駒曳』でもその話を導入して勝重が三法師丸を暗殺するため釣天井をつくるのである。歌舞伎の釣天井は、釣った天井の上に大きな石が幾つか乗っており、天井が床に落ちても、そこに役者さんが隠れるような工夫になっていて、人が床に潰されてしまう形となった。

映画『家光と彦左』は、三代将軍を決める時、長男の千代松(家光)を大久保彦左衛門が押し、次男の国松を松平伊豆守信綱が押す。将軍秀忠は彦左衛門の長男が継ぐのが順当の意見に従い、家光を三代将軍にする。そこから家光と彦左の<じい><わこ>の熱い関係が生まれるのである。彦左は老体となり生きがいを無くす。それを見た天海僧正が時には暴君となるのも必要ですと家光に提言する。家光は彦左が飛んできそうなことをしでかし、彦左は張り切って家光に意見すべく登城してくる。家光は彦左の花道として、日光東照宮参詣の先供を命じる。彦左は三千石の身分の自分がと涙を流し任務に励むのである。途中、本多正純の宇都宮城に寄りそこでの宴の席が突然、入口、窓など全て閉じられる。何事かと尋ねる家光に正純は自分は秀長(国松)を将軍にと仕えていたから、ここで家光には死んで貰うという。そして釣天井が下がってくるのである。主君正純の考えに一度は同意した家来の川村靭負は慌てることなくそれを受け入れようとする家光を、隠し通路から逃がし自分は正純の家来として死するのである。

家光を窮地に立たせてしまった彦左は切腹の覚悟であったが、家光は彦左の気持ちを察し、勝手に死ぬなよと言葉をかけるのである。

あらすじを読むと娯楽時代劇の定番であるが、家光が長谷川一夫さんで彦左が古川緑波さんである。天海僧正の意見を受け入れ家光は芝居をする。遊興にふけり白拍子と連れ舞いをする長谷川一夫さん。お手の内である。ところがその間に分け入るロッパさんの動きのよさ。老人の形で危なっかしさを見せつつ踊りのすき間を上手く動くのである。家光が芝居をしていると彦左は気が付き憤慨するが、天海に家光の心を受け入れなさいと言われ芝居に芝居する。その辺のあたりも二人の役者さんの見せ場である。長谷川一夫さんは川村靭負との二役で船弁慶も舞う。そしてもう一つの見どころは16歳の藤間紫さんが出ており、静御前を短時間であるが舞う形がいいのである。長谷川さんが褒めたというのでこの映像を見て確かめられ納得した。

1941年の東宝作品で、戦の馬の場面、釣天井が下がる屋台崩しや、建物の爆破など、東宝の技術人の力がわかる。

監督・マキノ正博/脚本・小国英雄。

筝曲の宮城道雄さんと按舞に藤間勘十郎さんの名前もある。家光と彦左の互いを思う気持ちを軸に、名君を返上しての振舞という形で歌舞音曲も入れ、世継ぎ問題からくる逆臣の手の込んだ企ても見せ、娯楽時代劇でありながら見せてくれる映画である。

 

国立劇場 『三千両初春駒曳』

観劇している時は、ああなってこうなって、この人がこうで、こちらの人はこうでと人間関係、筋も分っていたつもりが、いざ文字にするとなると話が入り組んでいて上手く説明がつくのか心もとない。途中でギブアップするかもしれないが、筋書を参考に試みる。

織田信長の死後の羽柴秀吉と柴田勝家の後継者争いが話の中心で、そこへ、徳川家の二代将軍秀忠の次男(長男は三代将軍家光)忠長の子・松平長七郎をモデルに、信長の次男・信孝として設定している。芝居の登場人物としては、小田信長と長男・信忠の死後、長男・信忠の子・三法師丸を押す真柴久吉と次男・信孝を押す柴田勝重が権力争いをしている。(信孝は史実では信長の三男であるが気にしない。)

この権力争いのすきを狙って隣国・高麗国が攻めて来ないか久吉側は采女を、勝重側は小平太を偵察にやる。高麗国の皇女は采女に恋をして、采女のあとを追って日本に渡る。采女は小平太の計略にかかり謹慎の身となるが、兄から紛失した小田家の宝・蛙丸の剣を探す任務を受ける。皇女は廓の仲居として働いていて、采女と再会し剣を探す手伝いを誓う。

勝重が押す、信孝は遊興三昧で家督相続には関心がなく、三法師丸とも不和になりたくないので自ら家追放となる。

勝重は信長の一周忌法要のため三法師丸が泊る宿を建設する。かつて庄助と名乗っていた勝重を庄助の妻・小谷が夫を探しにきて、勝重が庄助だと信じる。勝重は身を明かさないが、もし自分が窮地に落ちいっていたら、寝所の釣り燈籠を切り落とせと伝える。その宿には釣天井が造られ、それに係った大工は足止めされていて、いづれは殺される運命である。その棟梁の与四郎は宿を抜け出し恋人の父親・藤右衛門にその事を伝え、宿にもどる。藤右衛門はそのことを久吉に伝える。

宿に帰った与四郎は勝重に詮議さるが、与四郎の所持していた脇差から、与四郎が先妻との自分の子であることを知り逃がしてやる。事の次第を知った久吉は勝重のもとに軍勢を送り込む。これまでと思った勝重はつり天井の寝所に軍勢を誘い込み、勝重の窮地を知った小谷は吊リ燈籠を切ると釣天井が落ち皆圧死する。<釣天井>

久吉は信長の菩提を弔うために三千両を高野山に納める。その納める三千両を積んだ馬が石川五右衛門の子分が奪い、その奪った三千両を廓通いのために信孝が奪い取る。ここで言う詞がふるっている。信長のために使うお金を息子が持ち帰っても何の問題もないと悠々と三千両を積んだ馬を引いて行く。<馬切り>

信孝が元信長の家臣でもある与四郎に馬を引かせ帰った先は、元小田家の家臣でもあり与四郎の養父であり叔父でもある町人の田郎助宅である。帯刀が田郎助宅を訪ね、信孝に三法師丸の補佐役になって欲しいと要請するが、信孝は断る。ここで、事実が露見する。田郎助は重勝の弟であり、与四郎は重勝の子供である。帯刀に与四郎を打つように言われるが、田郎助は与四郎の代わりに自害し、事実を知った与四郎も自害する。その二人の血潮が池に流れ込み蛙の声とともに蛙丸の剣が浮かび上がる。信孝は遊興しつつこの剣を探していたので、二人に感謝し、剣を三法師丸に渡すようにと帯刀に託す。

信長一周忌の法要の席に、死んだはずの勝重が現れ、企んでいた高麗国からの援軍の鬨の声に合わせ久吉に飛びかかるが、三法師丸と高麗国の皇女と共に信孝が現れる。鬨の声は信孝により皇女が三法師丸と久吉側と友好を結んだ証であった。三法師丸は信孝に励まされ立派に日本国を治める事を誓うのであった。

筋はこんな感じである。信孝が菊五郎さんで、今の菊五郎さんは古典の油の乗りようのほうが好きなので鷹揚さがあるが無難にこなされたなとの感想である。菊之助さんは高麗国の皇女と与四郎で、采女に合っている松也さんを恋する乙女心を上手くだし、与四郎役のほうはスカッとしていた。松緑さんの勝重の顔の造りが良く映えていてシャープであったが、もう少し重みも欲しかった。田郎助の自害は菊之助さんの自害と合わせ、なんてことか、二人死んでしまうのと思いきや息も合い血潮が合体し納得であった。団蔵さんはなぜかいつか変貌するのではと期待してしまうが最後まで善人で少々がっかり。その代り、高麗国での小平太の亀三郎さんと高麗国の国守・権十郎さんはこの人達は悪人とすぐ分かり、何をしでかすかもわかり、滑り出しを解り易くしてくれた。鷹の場面では、亀寿さんが納得してから松緑さんへ渡したので、この鷹は何かの役割をするのだろうと思ったが、ウソ発見器の役割だったわけだ。時蔵さんの小谷は私の目にくるいはないとばかりに迫ってましたが、あの迫り方が勝重が重要な役を託す人として選んだのに納得できる。梅枝さんのお豊はやっと与四郎との仲を許されたと思ったらまた宿にもどってしまうし、無事帰ってきたと思ったら止めるのも聞かず自害してしまい、そのあたりの心情を可憐に演じられていた。お豊と与四郎の保護者の藤右衛門はこの人しかいませんの彦三郎さん。もう一人適役は大徳寺住職の田之助さん。舞台が広くなる。出が少ないが、町衆のまとめ役の萬次郎さんが押さえる。あの背の高い侍は誰と思ったら右近さん。新鮮さを感じたいのでなるべく筋書を見ないで観るので見落とすことがたくさんある。三法師丸も大河さんとは思わなかった。小さいのに最後までしっかり台詞をいう子役さんだと思い、大河さんはもう少し大きくなっていると思っていた。

150年ぶりの復活狂言だそうである。新作とかでも思うのだが、近頃やはり歌舞伎は型のあるかたちにしてほしいと思う。型は何代も受け継がれて出来上がってきたわけであるが、現代でもこれが型の原点となるのかなというものに遭遇したい。未知との遭遇ではなく、原点との遭遇である。

筋を追いつつ、役者さんを追うので、どちらも時間がたつと薄れてしまうのが悲しい。役者さんに捉われていると筋が飛んでいたりする。筋が分かって観ると先にも書いたが新鮮さが薄れるような気がするのである。ただ古典は型が分るためにも、きちんと押さえるべきところは押さえていないと役者さんの段取りから型にいたるプロセスが分らないなと思うこの頃である。

1月の歌舞伎では浅草の夜の部を見逃してしまった。上手く時間が取れなかったのである。残念である。

 

 

歌舞伎座(平成26年)新春大歌舞伎 夜の部(2) 

『乗合船恵方万歳』(のりあいぶねえほうまんざい) 苦手の常磐津の舞踏である。ところが、常磐津林中さんのCDが出てきたのである。いつ買ったのか記憶が定かではないから、かなり前であろう。もしかするとその時も苦手と思い名人ならと思って買ったのかもしれないが、レコードのSP盤のCD化であるから雑音が入っていて聞きずらい。その為もあってしまい込んでしまったのかもしれない。林中さんのレコードのなかでも通人や萬歳と才造の掛け合いなどの軽妙な芸でこれが一番売れ、『将門』は、林中さんのレコードによって愛好者を広げたようである。『将門』は物語性があるので常磐津でもついていけたのである。『乗合船』は江戸の隅田川風物詩で詞は分らないところもあるが、雰囲気はわかる。

船に、女船頭(扇雀)、白酒売(秀太郎)、大工(橋之助)、通人(翫雀)、田舎侍(彌十郎)、芸者(児太郎)が乗り合わせている。それに萬歳(梅玉)、才造(又五郎)が加わり、それぞれの踊りを披露するのである。それぞれの役者さんの役柄にあっていて、林中さんの萬歳と才造のやり取りの調子の良いリズム感は伝わっていたので、梅玉さんと又五郎さんの二人の踊りの軽さには乘ることが出来た。この踊り七福神にもかぶせているお正月らしい出し物である。

『東慶寺花だより』どうなるかと楽しみであった。話の前と後は滑稽本作者の信次郎(染五郎)の売れた滑稽本から始まり、駆け込みの人々を観察して新しい滑稽本が出来上がり目出度し目出度しで終わるのであるそ。おせん(孝太郎)の登場で江戸時代の妻の持参金は夫から離縁申し立てのときはそのまま妻のもので、妻からの離縁申し立ての場合は夫のものとなることや東慶寺に入ってからのしきたり、2年間勤め上げれば女は誰と結婚してもよいなど、駆け込み寺の仕組みが説明される。駆け込み女性や関係者を預かる宿柏屋に、信次郎はその仕事を手伝いつつお世話になっているのである。その宿の主人(彌十郎)も、もめ事をまとめる人であるから穏やかで宿の使用人も心得ているから信次郎も居心地がよい。さらに年頃の娘・お美代(虎之介)が信次郎を好いている。(原作では八つであるが、芝居では年頃の娘とした)おぎん(笑也)の話が加わり信次郎は東慶寺の中へ入り、信次郎が医者の修行中であることがわかる。おぎんは囲われる者でそのご隠居から自由になりたいのである。信次郎はそのご隠居(松之助)に意見をしたりもする。そこに男の惣右衛門(翫雀)が駆け込んでくる。東慶寺は男子禁制でそれはかなわない。惣右衛門の妻(秀太郎)が追いかけてきて、一悶着あるが、惣右衛門は妻に丸め込まれて渋々帰って行く。そのことから信次郎は、男と女、あべこべの世界の滑稽本の題材を思いつくのである。

原作の面白さは薄められたが、説明しなくてはならない部分を考えると上手くまとめたかなと思う。信次郎の世間に対する修行の身と言うことも加わり、完全でないところが人に好かれる原因でもあり、愛嬌でもあり、染五郎さんは楽しんで役にはまっておられた。そして有能なコンビが、キャリーバッグである。机にもなり本当によくできていた。ただ、滑稽本の粗筋の説明のとき、声が高く早口になり聴こえずらのが難点であった。染五郎さんの明るさ、宿に係る人々で駆け込みという題材に温かさが加わり、翫雀さんと秀太郎さん夫婦で笑いをとった。駆け込みの仕組みの説明がそれとなくわかる方法があれば、また違う題材の『東慶寺花だより 〇〇編』も可能である。

信次郎は円覚寺の僧医の代わりに代診したのであるが、お寺には専門の医者が居たようで、龍馬のお龍さんの父も医者であり、京都青蓮院の医者であった。

長唄舞踊『小鍛冶』 と 能『小鍛冶』で、<粟田神社、鍛冶神社、三条通りを挟んで相槌稲荷神社あたりにその痕跡があるらしい。粟田神社は行きたいと思っていた場所でいつも青蓮院どまりなので、是非行く機会を作りたい。>と書いたが、その後行く機会があった。栗田神社、鍛冶神社、相槌稲荷神社を参り、三条通りの 地下鉄東西線の東山駅へ青蓮院側の通りを歩いていると、「阪本龍馬とお龍結婚式場跡」の案内表示版がある。そこは、青蓮院の旧境内で塔頭金蔵寺跡で1864年8月初旬仮祝言とある。さらに、お龍さんの父が青蓮院宮の医師であった関係でそうなったとあった。お龍さんの父がお医者さんとは知っていたが、青蓮院のお医者とは驚いた。反対側を歩いていれば見つけていないのである。相槌稲荷神社は、住宅の路地奥にあり個人のお稲荷様かと思うような雰囲気で残されていた。そっと住人のかたの邪魔にならないように静かにお参りさせてもらった。

 

歌舞伎座(平成26年)新春大歌舞伎 夜の部(1) 

『仮名手本忠臣蔵 九段目 山科閑居』はとにかく大作である。どこを切っても絵になっている。それぞれの人物の絡み合いが見事に構成されている。ずうっと気を張りつめている時間も長く、腹を見据える型もある加古川本蔵の女房・戸無瀬を、藤十郎さんが、お歳のことを言っては失礼だが濃厚に演じられ感服してしまう。今回は大星由良之助を吉右衛門さん、由良之助の妻お石を魁春さん、力弥を梅玉さん、加古川本蔵の娘小浪を扇雀さん、加古川本蔵を幸四郎さんと練熟された方々のぶつかり合いである。

山科にある由良之助の住まいの舞台は、その室内の壁の色は濃くてくすんだ松葉色、唐紙には白の漢文字で、家の周囲の竹藪には雪、竹の笹の雪具合もこれから人の生き死にがかかっているとは想像できない静けさである。この場で戸無瀬の赤と小浪の白の着物が配置されるのであるから計算づくであろうか。

戸無瀬は先妻の娘・小浪を力弥と祝言させるため山科の由良之助宅を訪れる。生さぬ仲ゆえこの祝言をなんとか成し遂げたいとの腹である。本蔵の代わりに夫の刀大小を持参している。小浪は綿帽子をかぶり白無垢の花嫁衣装である。お石は、こちらは浪人の身、そちらとは釣り合わないと断る。ここが戸無瀬とお石のさや当てである。戸無瀬はもとはそちらは千五百石、こちら五百、千違って許嫁となり、浪人しても五百の違いと言い返す。お石、心と心が釣り合わないと返答。何処かで使いたいくらいな言葉である。戸無瀬、どの心じゃ。ここでお石は、主君塩冶判官は正直さゆえこうなったが、そちらは金品を使ってのへつらい。戸無瀬、聞き捨てならないがここで怒っては娘のためにならぬと、祝言しょうとしまいと許嫁なんだからりっぱに力弥の嫁。お石、女房なら、力弥に変って母が去らせるとその場を去る。母同士で結婚させ離縁してしまう。小浪はびっくりして綿帽子を取り払い嘆く。戸無瀬とお石、藤十郎さんと魁春さんのぶつかり合いである。

ここからが戸無瀬と小浪のやり取りとなる。戸無瀬は娘の心の内をはかる。他に嫁する気はないか。小浪、力弥様以外いやである。この時、綿帽子を使いつつくどくのであるが、扇雀さんの使い方がいい。柔らかくそれでいて一心である。小浪の意思を確認した戸無瀬は持参の刀を手にし自分の不首尾の責任から自害しようとする。小浪は、自分が力弥に見放されたのだから母の手にかかって死にたいと訴える。母はそこまでいう娘に感嘆し、娘を手にしたあと自分も後を追うと二人手を取り合う。ここで二人は実の母娘になったのである。そう解釈した。

藤十郎さんの娘を手にかけるために刀を使っての腹を決める立ち姿はこちらを圧倒させる。ここが大きいだけに次の心の揺れに戸惑う戸無瀬の心中も推察できる。死出の水を氷の張った手水鉢から氷を割るのであるが、氷が飛び散りこの場面も好きである。戸外では虚無僧が尺八を吹く。この曲は<鶴の巣籠り>で子を思う親鳥を思う曲で、子を手にかける親とをかぶせているようであるが深くは分らない。今回はこの尺八の音色をずっととらえていることが出来た。聞いているようで場面に目を奪われ耳は何もとらえていないことが多いものである。こんなぼあ~んとした音もあったのかと気が付いた。いざ手をかけようとすると「ご無用」の声がする。戸無瀬の手がにぶる。ここも戸無瀬の見せ場である。自分の気の迷いと自分を立て直す。再び「ご無用」の声、さらに力弥と祝言させるとのお石の声。喜び打掛を間違える母娘の前に三方を持ったお石が現れ二人の心構えを見届け祝言させるという。黒の着物に打掛。魁春さんのお石は一層凛としての登場である。ここまでの死をかけた母娘の姿を見れば当然かと思いきや、まだ山がある。

三方に引き出物をというので、戸無瀬は大小二本の刀を差し出す。名刀である。お石、これではない、加古川本蔵のお首が欲しい。ここで、本蔵が塩冶判官を抱き押さえ本望を遂げられなかった恨みを述べ、それゆえ首が欲しいと強調する。そこへ、戸外にいた虚無僧が加古川本蔵の首差し上げると入ってくる。虚無僧こそ加古川本蔵であった。堂々として、この首が欲しいというが、お宅のご主人は何たる様か、遊興にふけり主君の仇討をしようともしない。その息子力弥にこの首が討てるかと三方を踏みつけてしまう。壊してしまったとほくそ笑む本蔵にお石は押さえが切れて槍を取り本蔵に立ち向かうが歯が立たない。そこへ力弥が飛び出してきて落ちている槍を持ち本蔵を刺す。その時本蔵は、その槍を仕損じないように自分の腹に刺し込む。覚悟の上の悪口雑言であった。幸四郎さんあくまでも大きく軽くいなす感じでけしかける。それに乗って魁春さんは戸無瀬とのやり取りとは反対に本蔵とのやり取りで初めてうろたえてしまう。力弥が止めを刺そうとするそこへ、由良之助が登場し、一座を静め、本蔵殿本望であろうと声をかける。

本蔵ここで心の内を知る人物があらわれ、自分の主君・桃井若狭之助が高師直に苛められ師直を切る覚悟と知って、賄賂を使い急場を救わんとしたが、その矛先が今度は塩冶判官に向き、差し押さえたのも相手の傷が浅ければ切腹にはいたらないと考えたからであると語る。本蔵にとっての忠儀は他家の難儀となったのである。ここで初めて死をかけての本蔵という人の実像が明らかになるのである。本蔵の首は三方に乗る形となった。

ここで由良之助は力弥に襖を開けさせ、庭に雪をかぶった二つの五輪。由良之助と力弥の行く末を見せる。戸無瀬は気が付く。お石どのが難題を突き付けたのは死にゆく力弥の嫁にはもらえないとの心づもり。二人の母は涙する。そこで本蔵、引き出物として、師直の屋敷の図面を渡す。由良之助と力弥は図面を推考しつつ嬉し笑みを浮かべる。吉右衛門さんにまだ成さねばならぬ事がある気迫と思慮深さがある。自分の役目を終わろうとする幸四郎さんは、苦しさの中から最後の心使いで、師直は用心深いから障子、雨戸はしっかり止めてあるがどうするかと心配する。そこで力弥が竹のしなりを利用して障子を倒していく様を見せる。いつも不思議である。梅玉さんの力弥は若者である。首の傾げ方、足の運び、手の置き方など点検してしまう。芸の力である。

本蔵は、これだけの家来が主人の短慮から命を捨てる無念さをつぶやく。由良之助もお互い、世が世であれば主人の先に立って働いたものをと慨嘆する。言葉は少ないが、本蔵と由良之助の男同士の本心である。由良之助は本蔵の虚無僧姿で、堺へと立ち、力弥は一夜残り後から出立することとなる。戸無瀬、お石、小浪の女三人はいずれは同じ夫の無い身となるのである。

今回は文楽の床本があったのでそれをなぞりつつ、役者さんたちの動きを思い出していたが、ここはどう表現したのであろうかと自分の中の映像のぼやけに歯ぎしりするが、一応役者さんたちの現された人物像のぶつかり合いは残ったように思う。何処を切っても絵になるのである。