観劇している時は、ああなってこうなって、この人がこうで、こちらの人はこうでと人間関係、筋も分っていたつもりが、いざ文字にするとなると話が入り組んでいて上手く説明がつくのか心もとない。途中でギブアップするかもしれないが、筋書を参考に試みる。
織田信長の死後の羽柴秀吉と柴田勝家の後継者争いが話の中心で、そこへ、徳川家の二代将軍秀忠の次男(長男は三代将軍家光)忠長の子・松平長七郎をモデルに、信長の次男・信孝として設定している。芝居の登場人物としては、小田信長と長男・信忠の死後、長男・信忠の子・三法師丸を押す真柴久吉と次男・信孝を押す柴田勝重が権力争いをしている。(信孝は史実では信長の三男であるが気にしない。)
この権力争いのすきを狙って隣国・高麗国が攻めて来ないか久吉側は采女を、勝重側は小平太を偵察にやる。高麗国の皇女は采女に恋をして、采女のあとを追って日本に渡る。采女は小平太の計略にかかり謹慎の身となるが、兄から紛失した小田家の宝・蛙丸の剣を探す任務を受ける。皇女は廓の仲居として働いていて、采女と再会し剣を探す手伝いを誓う。
勝重が押す、信孝は遊興三昧で家督相続には関心がなく、三法師丸とも不和になりたくないので自ら家追放となる。
勝重は信長の一周忌法要のため三法師丸が泊る宿を建設する。かつて庄助と名乗っていた勝重を庄助の妻・小谷が夫を探しにきて、勝重が庄助だと信じる。勝重は身を明かさないが、もし自分が窮地に落ちいっていたら、寝所の釣り燈籠を切り落とせと伝える。その宿には釣天井が造られ、それに係った大工は足止めされていて、いづれは殺される運命である。その棟梁の与四郎は宿を抜け出し恋人の父親・藤右衛門にその事を伝え、宿にもどる。藤右衛門はそのことを久吉に伝える。
宿に帰った与四郎は勝重に詮議さるが、与四郎の所持していた脇差から、与四郎が先妻との自分の子であることを知り逃がしてやる。事の次第を知った久吉は勝重のもとに軍勢を送り込む。これまでと思った勝重はつり天井の寝所に軍勢を誘い込み、勝重の窮地を知った小谷は吊リ燈籠を切ると釣天井が落ち皆圧死する。<釣天井>
久吉は信長の菩提を弔うために三千両を高野山に納める。その納める三千両を積んだ馬が石川五右衛門の子分が奪い、その奪った三千両を廓通いのために信孝が奪い取る。ここで言う詞がふるっている。信長のために使うお金を息子が持ち帰っても何の問題もないと悠々と三千両を積んだ馬を引いて行く。<馬切り>
信孝が元信長の家臣でもある与四郎に馬を引かせ帰った先は、元小田家の家臣でもあり与四郎の養父であり叔父でもある町人の田郎助宅である。帯刀が田郎助宅を訪ね、信孝に三法師丸の補佐役になって欲しいと要請するが、信孝は断る。ここで、事実が露見する。田郎助は重勝の弟であり、与四郎は重勝の子供である。帯刀に与四郎を打つように言われるが、田郎助は与四郎の代わりに自害し、事実を知った与四郎も自害する。その二人の血潮が池に流れ込み蛙の声とともに蛙丸の剣が浮かび上がる。信孝は遊興しつつこの剣を探していたので、二人に感謝し、剣を三法師丸に渡すようにと帯刀に託す。
信長一周忌の法要の席に、死んだはずの勝重が現れ、企んでいた高麗国からの援軍の鬨の声に合わせ久吉に飛びかかるが、三法師丸と高麗国の皇女と共に信孝が現れる。鬨の声は信孝により皇女が三法師丸と久吉側と友好を結んだ証であった。三法師丸は信孝に励まされ立派に日本国を治める事を誓うのであった。
筋はこんな感じである。信孝が菊五郎さんで、今の菊五郎さんは古典の油の乗りようのほうが好きなので鷹揚さがあるが無難にこなされたなとの感想である。菊之助さんは高麗国の皇女と与四郎で、采女に合っている松也さんを恋する乙女心を上手くだし、与四郎役のほうはスカッとしていた。松緑さんの勝重の顔の造りが良く映えていてシャープであったが、もう少し重みも欲しかった。田郎助の自害は菊之助さんの自害と合わせ、なんてことか、二人死んでしまうのと思いきや息も合い血潮が合体し納得であった。団蔵さんはなぜかいつか変貌するのではと期待してしまうが最後まで善人で少々がっかり。その代り、高麗国での小平太の亀三郎さんと高麗国の国守・権十郎さんはこの人達は悪人とすぐ分かり、何をしでかすかもわかり、滑り出しを解り易くしてくれた。鷹の場面では、亀寿さんが納得してから松緑さんへ渡したので、この鷹は何かの役割をするのだろうと思ったが、ウソ発見器の役割だったわけだ。時蔵さんの小谷は私の目にくるいはないとばかりに迫ってましたが、あの迫り方が勝重が重要な役を託す人として選んだのに納得できる。梅枝さんのお豊はやっと与四郎との仲を許されたと思ったらまた宿にもどってしまうし、無事帰ってきたと思ったら止めるのも聞かず自害してしまい、そのあたりの心情を可憐に演じられていた。お豊と与四郎の保護者の藤右衛門はこの人しかいませんの彦三郎さん。もう一人適役は大徳寺住職の田之助さん。舞台が広くなる。出が少ないが、町衆のまとめ役の萬次郎さんが押さえる。あの背の高い侍は誰と思ったら右近さん。新鮮さを感じたいのでなるべく筋書を見ないで観るので見落とすことがたくさんある。三法師丸も大河さんとは思わなかった。小さいのに最後までしっかり台詞をいう子役さんだと思い、大河さんはもう少し大きくなっていると思っていた。
150年ぶりの復活狂言だそうである。新作とかでも思うのだが、近頃やはり歌舞伎は型のあるかたちにしてほしいと思う。型は何代も受け継がれて出来上がってきたわけであるが、現代でもこれが型の原点となるのかなというものに遭遇したい。未知との遭遇ではなく、原点との遭遇である。
筋を追いつつ、役者さんを追うので、どちらも時間がたつと薄れてしまうのが悲しい。役者さんに捉われていると筋が飛んでいたりする。筋が分かって観ると先にも書いたが新鮮さが薄れるような気がするのである。ただ古典は型が分るためにも、きちんと押さえるべきところは押さえていないと役者さんの段取りから型にいたるプロセスが分らないなと思うこの頃である。
1月の歌舞伎では浅草の夜の部を見逃してしまった。上手く時間が取れなかったのである。残念である。