『さらば八月の大地』 (新橋演舞場11月)

映画、芝居好きには、日本映画の歴史、芝居としての出来など多くの好奇心を満たされた舞台であった。勘九郎さんは襲名後、初めての現代劇。日本による傀儡国家満州で、日本人と映画作りをする中国人の助監督の役である。内に矛盾を感じつつも、助監督として撮影現場を上手くまとめ様と努める役でもある。この方は間が上手いのであろうか。歌舞伎の見得もない、受けの役でもあるが、舞台にきちんと位置を決めてくれる。演じてますという臭さがないのである。それでいながら演じている。勘九郎さんあっての舞台と言えば褒め過ぎであろうか。

1937年(昭和12年)満州に日本国策の映画会社、満州映画協会(満映)が作られた。そこで終戦を挟んでの数年間、映画作りに賭けていた日本人と中国人の反発と交流の物語である。

満映の理事長が、元憲兵大尉・甘粕雅彦大尉である。大杉事件(アナキストの大 杉栄と伊藤野枝さらに大杉の甥が関東大震災の時憲兵隊に連行され殺害されたとされる事件)の首謀者とされており、その人と映画の結びつきを始め知ったのは高野悦子さん(岩波ホールを開設、日の目を見ない良質の世界の映画を紹介)の本からであろうか、映画に関しては自由な解釈の人とも思え捉えどころの難しい人である。舞台上では、甘粕大尉をモデルとして高村理事長として出てくる。得たいの知れない人物として木場勝己さんが好演である。中国人の助監督・凌風(リンフォン・勘九郎)も高村理事長のことを怪物と表現し、女優の美雨(メイユイ・檀れい)に高村理事長に近かづかないほうが良いと忠告するが、美雨はスター女優になることのみを夢見ている。宝塚出身の檀さんの歌とスター性が適役である。

そんな中へ映画を撮りづらくなった日本からまた一人撮影助手として池田五郎(今井翼)が飛び込んでくる。凌風と五郎の最初の出会いと撮影を通しての偏見や仲間意識など現場風景を見せつつの舞台は山田洋次監督ならではの演出であり、鄭義信さんの脚本の面白さである。撮っている映画は長谷川一夫さんと李香蘭さん共演の映画と思わせるし(李香蘭さんの半生を描いたテレビドラマで中村福助さんが長谷川一夫の役をやり雰囲気が似ていて驚いたことがある)、美雨が終戦後中国当局から拘束されたりと、李香蘭さんの歴史的事実とも重ねられる。そういう下敷きのなかで、架空の登場人物たちがどう映画作りをしていたのかを見せてくれるのである。

五郎の今井さんはもう少し凌風との出会いに惡が強くても良いのでは。映画を語ったり、終戦となり凌風と反対の立場となるあたりの変化がもっと躍動的になると思うのだが。それは、舞台始まりと中国語訳が字幕としてでるため、更に撮影現場セットの舞台に観客が気をとられ、舞台の状況に慣れるまで少し時間を要する事も原因のひとつであり、そのずれ分今井さんは損をしているかもしれない。

拾っていたら切りがないが、凌風と五郎が、黒澤監督の『姿三四郎』の映画の場面を語るところも、こちらを喜ばせてくれる。その他、主演男優(山口馬木也)が、冬に夏の場面を撮り、寒さから白い息が見えない様に口の中に氷を含んだりと、現場の大変さや、端から見る可笑しさも加わり見どころが多い。それでいて筋は通していて出演者の動きもよく計算されていて見逃さなくて良かったと思える舞台であった。

そして、映画 『天地明察』 (改暦1)で書いた〔NHK教育テレビ「知るを楽しむ・歴史に好奇心」<映画王国・京都~カツドウ屋の100年>〕(2007年12月)のテキストがこの舞台の時代をも含む映画の歴史としてとても参考になったのである。この満映の人材の受け皿が東映だったということなど。

演出・山田洋次/作・鄭義信/出演・中村勘九郎、今井翼、檀れい、山口馬木也、田中壮太郎、有薗芳記、中村いてう、関時男、鴫原桂、広岡由里子、木場勝己

大杉栄の時代とその周辺に関係する舞台については 『美しきものの伝説』(宮本研の伝説) と 『美しきものの伝説』のその後 を参照されたい。

 

前進座『明治おばけ暦』 (改暦2)

もう一つ明治に入ってから改暦があった。それは、2012年の前進座創立八十周年記念公演『明治おばけ暦』で知る。今回改めて振り返った。

明治5年11月、暦問屋角屋では来年明治6年の暦を小売に渡しひと段落ついた後で号外が出る。明治6年から太陽暦を採用する改暦の号外である。明治6年には6月の後に閏6月があり、1年が13ヵ月ある年であった。太陰暦では2年か3年に一度、閏月を設け1年を13ヵ月にして調整しなければならなかった。太陽暦にすれば4年に一度、1日を増やせばすむのである。ところが改暦となると明治5年の12月は2日で終わり、3日目は明治6年1月1日なのである。暦問屋角屋は大変である。小売から前の暦は返品となり急遽摺りなおした新しい暦は人気がなく売れない。ついに角屋の主人は大赤字のため自殺に追い込まれる。芝居が好きで芝居にうつつを抜かしていた息子の栄太郎と戯作者・河竹新七は、改暦をすすめた大隈重信を懲らしめる芝居を考える。

この芝居の作者は、今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の山本むつみさんである。河竹黙阿弥となる前の新七が出てきたり、他にも歴史的なことや、当時の庶民の生活や心情がでてきたり、かなり盛りだくさんである。そうなのか、そうなのかと思って観ているうちは良いのだが、見終わってみると改暦の混乱さのような状態であった。架空の話も加わりお気楽のようでいて中々奥が深いのであるが観るほうの理解度がそこまで手が届かなかった。

ここで、政府の改暦の事情に触れる。それまで役人の報酬が年俸制だったのが、明治4年から月給制になった。明治政府の財政は大赤字である。次の年が13ヵ月である。ここで改暦すると、12月は2日間であるから役人の月給12月分を払わないとし、さらに来年は12ヵ月で1ヵ月分払わなくてもよい。ここで2ヵ月分の給料が浮くのである。相当明治政府として助かったことになる。諸外国との関係からも、太陽暦にしたほうが統一され都合が良かったのである。ただ国民には極秘で明治5年11月9日に突然発表されたのであるから、暦問屋さんと同じような大変な事になった人々も多々あったであろう。この時、太陽暦や改暦について分かりやすい本をだしたのが福沢諭吉で、その著書『改暦弁』は大ベストセラーになったようである。

前進座『明治おばけ暦』 作・山本むつみ/演出・鈴木龍男/出演・嵐芳三郎、河原崎國太郎、嵐圭史、中村梅之助

 

映画 『天地明察』 (改暦1)

日本独自の暦を作った人、安井算哲(のちに渋川春海)の話である。こういう世界があるのかと、この映画を作られたことを歓迎します。天体と算術により、今までの暦に誤差がありすぎるということを証明し、新たな日本独自の暦を作るのである。この算哲は秀才であって天才ではなく、秀才が努力をするというタイプの人である。算術では初めから間違いをおかしたり、それでいながらぶつかっていくという行動にも好感がもてる人物である。その算哲の魅かれる人物達を周囲に設定し、算哲の人間性をうまく引き出して、見る方にも肩の凝らない展開にして、難解にならないように工夫されている。きちんと説明は出来ないが、このようにして暦がつくられたのかと興味は広がる。

算哲は徳川四代将軍家綱の時代、幕府の碁方を務めている。碁方とは将軍の前で碁の勝負を披露したり、幕府の要人に碁を教える人である。将軍家綱の後見役の会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)や水戸光圀にその才能を認められ、改暦(暦を改める)を託される。黄門さんでない光圀さんが見れるのも面白い。

ところが暦は朝廷が司るもので聖域であった。それまで、「宣明暦」を使っていたが次第に誤差が生じてきた。そこで算哲は「授時暦」が正しいとして、「宣明暦」「授時暦」「大統暦」の三つの暦の比較を三年間6回の日食、月食で証明しようとしますが、5回当たっていた「授時暦」が最後の6回目ではずれ「宣明暦」が当たってしまい、改暦は叶わない。そこで中国から伝わった暦ではどうしても日本では誤差が出てしまうため、さらなる観測を続け新たな日本の暦を作り上げるのである。そしてついに、貴族たちの妨害を押し破り、算哲のつくった「大和暦」は「貞享暦(じょうきょうれき)」の名をもらい採用されるのである。(この部分のまとめはNHK「知るを楽しむ・歴史に好奇心」のテキストを参考にさせてもらいました。これは2ヶ月分のテキストで、先に<映画王国・京都~カツドウ屋の100年>があり、こちらが目的でした。次の月は<古今東西カレンダー物語>で難しそうで読む気もしません。ところが、『天地明察』の映画を見てこの<古今東西カレンダー物語>を参考にさせてもらえるのですから映画の力は凄い。)

ライバルとの切磋琢磨、先輩たちの教え、師の教え、為政者からと期待、仕事仲間、夫婦愛等を取り込んで暦の世界に賭けた男たちの世界を堪能させてくれます。

名前・算哲の響きがいいです。算哲と呼ばれる度に見せる岡田准一さんの笑顔、驚き、悔しさ、苦渋もいいです。周りの役者さんも上手くはまっていて気持ちのよい流れです。一つ算哲に見せたいものがあります。北海道の阿寒湖畔のホテルの屋上露天風呂から見えた、冬の北斗七星です。本当に近いです。あの時の感動を算哲に分けてあげたい。「ウッオオー!」と目を輝かせると思います。

監督・滝田洋二郎/原作・冲方丁/脚本・加藤正人、滝田洋二郎/出演・岡田准一、宮崎あおい、佐藤隆太、中井貴一、笹野高史、岸部一徳、市川猿之助、市川染五郎、松本幸四郎

 

『伊賀越道中双六』 国立劇場11月

『伊賀越道中双六』(いがごえどうちゅうすごろく)。日本三大仇討が、この芝居の元となっている荒木又右衛門とその義弟・渡辺静馬の伊賀上野の鍵屋の辻でおこった「伊賀上野の仇討」「曽我兄弟の仇討」「赤穂浪士の仇討」だそうである。

「鍵屋の辻」は映画があったと思い調べたら、『決闘鍵屋の辻』で、監督・森一生、脚本・黒澤明、出演・三船敏郎の作品であった。今度出会うのが楽しみである。お気に入りのDVDのレンタルショップが次々と無くなり残念である。本屋さんと同じで、そこでパッケージに書かれている案内や解説、写真を見て選ぶのが楽しいのであるが、そういう楽しみは贅沢の部類に入る時代なのであろう。この映画を調べるのも、本を捜さなくても基本は分かるわけで使い分けの時代であろうか。

歌舞伎の仇討に戻すが、上杉家の家老・和田行家が沢井股五郎に殺され、行家(ゆきいえ)の息子・志津馬がその仇討を果たすまでの話である。

志津馬の姉・お谷は剣豪・唐崎政右衛門(からさきまさうえもん)と駆け落ちして夫婦になっているが、正式の結婚ではないため政右衛門は舅の仇討に手助け出来ない。そこで、お谷を去らせお谷の妹・お後を嫁に迎える。政右衛門の橋之助さんが花道から出てきたとき、由良之助役者だと思いました。これからの橋之助さんの精進が楽しみである。この唐木政右衛門屋敷の場も面白い。どうして駆け落ちまでしたお谷を離別して新しい嫁を迎えるのか。ここの疑問から納得までを橋之助さん上手く運んでくれました。そこが上手く運ばれるので新しいお嫁さんの綿帽子を取ったときの驚きと謎解きが面白くなるのである。お谷の孝太郎さんも政右衛門の一言一言に動揺したり戸惑ったりと武家の妻を維持しつつ演じられた。

別枠でよく単独で演目として出てくるのが「沼津」である。武士の敵討ちに組み込まれる庶民の悲哀が描かれる。志津馬は、吉原の花魁・瀬川の情夫であった。瀬川は今は父・平作のもとに帰りお米として貧しい中で志津馬の仇討の果たされる日を待ち望んで暮らしていた。そんなところへ、平作は呉服屋十兵衛を連れてくる。この平作と十兵衛の出会いと平作宅までのやり取りも見せ場である。年齢を逆転の十兵衛は藤十郎さんと平作は翫雀さんである。身についた関西弁で流れも良いが翫雀さんの平作は少し早すぎるように思えた。極貧の平作宅で十兵衛はお米を見初める。しかし、お米には夫があり、それが自分のお世話になっている沢井又五郎を敵とする志津馬であり、自分が所持している薬を、お米は傷を負っている志津馬に渡したいと思っていることを知る。さらに、平作は実の父であり、お米は実の妹であった。お米は今は貧しい娘であるが、かつては傾城である。門口に立つ姿などにその雰囲気を扇雀さんは映し出した。

十兵衛は全てが分かった上で、薬とお金を置き夜のうちに平作の家を後にする。十兵衛の去ったあとで平作親子は全てを理解するが、そこからさらに、平作は、敵の又五郎の行先を十兵衛の口から聞き出すため息子の後を追う。追いつくのが沼津の千本松原である。この場面が明るく千本松原の中とは思えなかったのが残念である。あの暗さの中でこそ親子の葛藤が似合うと思うのである。もちろん役者さんは夜であるからそのつもりで演じられているが、その気持ちの表現にこの明るさは損をしている。気持ちが乗らなかった。

武士の事情、庶民の事情を包含しつつ、敵討ちは成就されるのである。

沼津の千本松原へはいったことがある。日中でも暗いところである。沼津御用邸記念公園から、沼津魚市場、水門(びゅうお)の上を通り、千本松原公園へ。若山牧水記念館があり、そこで牧水が千本松を切り倒す話があったとき、先頭に立ち反対運動を起こし、この千本松原を残したことを知る。鬱蒼としていて昼間でも暗いところである。井上靖文学碑があったり、種々の歌碑がある。何でもが明るく現代化するなかで、自然の明暗が残る場所である。折角残っている場所である。舞台にもその雰囲気が欲しかった。その中で藤十郎さんの関西弁と関西歌舞伎の柔らかさを堪能したかった。

 

『張り込み』『ゼロの焦点』の映画

映画『張り込み』の原作は短編であった。推理小説としても異色である。映画を見ると原作は心理小説かと思ってしまうほど、張り込みをする刑事の描き方が丁寧であり、見張られている殺人犯の元恋人役の高峰秀子さんが、淡々と日常をの生活を営み、それが、見張りの刑事を翻弄しているようにも思えてくる。映画のほうが原作を超える面白さである。

原作では張り込みの刑事は一人であるが、映画は二人で、ベテランと若手という設定も定番ながら膨らみを持たせた。若い方の刑事が自分の恋人との関係をこの張り込みで考えるという伏線にもしている。そのことが、張り込む相手の女性の心理にひかれていく過程が面白い。この女性は幸せなのであろうか。そして、殺人犯を捕まえた後、元恋人が飛ぼうとして失墜する危機から救ってやり、もとの日常へと戻してやり、自分の恋人には、窮状から自分のもとに飛び立たせるのである。なかなか現れぬ殺人犯を焦りながら待ちつつの心理劇も加わり、さらに、1960年代の長距離急行列車三等席の旅の様子も描かれていて秀作である。

東京発であるが、新聞社記者の目を逸らせるため横浜から列車に乗り込む。三等席は混んでいて座れない。仕方がないので通路に新聞などを敷いて座る。若い頃の旅でありました。ユースホステルに泊って乗り込んだ列車はデッキまで人が立っている。こちらは遊びだから良いけれど。でもこの原作の出だしが、映像としてさらに効果的なのである。まずはここで引きつけられてしまう。張り込みをする宿屋の人々が、ラジオから流れる実況の歌謡番組で美空ひばりさんの「港町十三番地」を聞くのも庶民と歌謡曲の密接さがわかり1960年代の風を伝える。

『ゼロの焦点』。1961年版。何が印象的かというと、能登に行きたくなったのである。観光地能登は積極的に行きたいと思ったことがない。この映画を見た途端行きたいと思った。白黒の力でもあろう。久我美子さんのきりっとした佇まいもよい。ヤセの断崖での久我さんと高千穂ひづるさんの対決も見ものである。久我さんの夫・南原宏治さんの元妻の有馬稲子さんも久我さんと違う色気である。結婚して一週間、夫は元勤務先の金沢へ引き継ぎを兼ねて出張にでて、約束の日が来ても帰らず連絡も取れない。妻・久我さんの捜索が始まる。その金沢行きの走る列車の風景がいい。雪の能登金剛。特典のシネマ紀行。赤坂漁港、鷹の巣岩、義経四十八隻舟隠し、機具岩、関野鼻、ヤセの断崖・・・・。

能登金剛の巌門には<ゼロの焦点の歌碑>がある。それは、この映画が出来る一年前小説に影響されて若き女性が自殺したのだそうである。そのことを悼み松本清張さんの自筆碑である。「雲たれてひとりたける荒海をかなしと思えり能登の初旅」。

2009年版映画『ゼロの焦点』も見たのであるが、こちらは風景よりも、戦争に翻弄された人間の悲しみとそこから這い上がろうとする生きざまを描いていて、社会派推理小説の原点からいえば正統なのかもしれないが、1961年版が好きである。2009年版は、セットも小道具もその当時を再現すべく努力を惜しまない。見ていてそれは凄くわかるのであるが、なぜか退屈なのである。

1961年版は高千穂さんが恐らく死を選ぶべく車で立ち去るが、その時後ろから追いかける夫の加藤嘉さんが追いつける速さとわかる。シネマ紀行によると地元の人が後ろから押していたのだそうである。そんな完璧でないところも当時の時代の味となって映像から風がくるのである。風に乗って匂いも貧しさも運ばれてくる。

『点と線』の青函連絡船の乗船名簿を探すところとか、常磐線回りの青森行きとか、清張さんの映画作品は古い方がワクワクさせてくれる。

 

神田川舟めぐり

<日本橋から品川宿 (1)>(2012年12月23日)で、神田川コースの舟めぐりをしたいと書いたが、あれから早くも時間がたち11ケ月目にして実行である。少し捜してみたら、「江戸東京再発見コンソーシアム」というところが日本橋から、日本橋川、神田川、隅田川、日本橋川とめぐって日本橋にもどるコースがあったため事前に予約する。舟が小さく10人乗りである。東海道歩きの仲間たちも以前情報を提供したところ、興味を持ち貸し切りにしようと仲間が動いたが日にち調整ができず、まずは私がお先に失礼と一人先行する。後は2班位に分かれ後日に予約したようである。

全部で45の橋の下を通過するのである。古地図と現在の地図を見つつ、ガイドさん付きである。屋根もあるので雨でも大丈夫であるが、潮の満ち引きと関係しているので不定期であるためきちんと調べた方が良い。1時間半ほどであるが、45の橋である。それも、あちらの道とこちらの道を、さらには、あちらの町とこちらの町を結ぶのであるから、川は一筋でも地上は複雑で、さらに橋の形、浮世絵で江戸時代と現在との比較などとなると、結構忙しいのである。但し面白い。最初に講義を受けてから乗り込みたいところである。

一橋家は、一ツ橋の近くに住んでいたので、一橋の名前をもらったのだそうである。聖橋は関東大震災の後、ニコライ聖堂と湯島聖堂を結ぶ橋として聖橋。これは一般によく知られていることである。聖橋に異変が。御茶ノ水橋からの美しい聖橋の前に余計なものが。御茶ノ水駅を建てかえるため、川のほうに工事用資材を置く場所と移動するための橋が設置されてしまったのである。少なくとも5年はかかるとか。御茶ノ水駅も相当古いので安全のためには致し方ないが、あの川に移る姿がしばらく見られないのは残念である。

万世橋のところで、旧万世橋駅が復活し煉瓦造りの駅舎後には手作りのお店や飲食店が入っている。その二階からは両側を走る中央線の快速列車がみえるのだそうで、舟から下りたら寄らねばならない。ゆりかもめ(都鳥)も季節がらか沢山みかける。赤いブーツと赤い口ばしがゆりかもめでカモメより可愛らしい顔をしている。柳橋に近づくと、舟宿が並ぶ。上から見るよりも、やはり川から見る方が風情がある。落語の『船徳』を思い出す。この舟は電気ボートで、船頭さんも若旦那の徳さんではないので安心である。隅田川では、清州橋の真ん中にスカイツリーが見える。書き切れない沢山の楽しい発見がある。

舟を下りて、秋葉原駅から万世橋を渡り旧万世橋駅へ。可愛らしいお店があり、川べりはテラスになっていて歩くことが出来る。さっきまで舟にゆられた川を上から眺めるのもいいものである。二階に上がると、ガラス張りになっていて、お子さんたちも安全に手の届きそうな近さで列車の通るのが見えて声をあげて喜んでいる。列車を見ながらのレストランもあり人気で並んでいる。心惹かれたが、万世橋から御茶ノ水橋に向かって歩くことにする。階段を下りるとその階段は、旧万世橋駅の階段である。そしてここで買った本がまた大当たりであった。

万世橋から昌平橋。。そしてJR総武線のが走る鉄道橋、右手には湯島聖堂が、その奥は神田明神である。聖橋も見えてくるが道は聖橋の下をくぐる形で御茶ノ水橋へと続く。ここで散策は終了である。

大当たりの本であるが、竹内正浩著『江戸・東京の「謎」をあるく』である。<第四話 江戸・東京の怨霊を追う>は神田明神と平将門の集大成と言って良いのでは。私としては、これですっきりである。そして神田明神の氏子さんたちの頑張りには拍手である。万世橋駅についての歴史も書かれている。<第一話 江戸の京都を探訪する>からして引きつけられる。舟めぐりも本めぐりも的を射たようである。

映画『地下鉄に乗って』を見て思い出す。聖橋の前を地下鉄が走る。そうである。舟から地下鉄丸ノ内線の電車が通る鉄橋を見上げたのである。そして上手く丸ノ内線の列車が通ったのである。昌平橋、JRの鉄橋、丸の内線の鉄橋、聖橋である。映画『地下鉄に乗って』の聖橋前の地上に一瞬姿を見せる地下鉄の映像も貴重である。

 

長唄舞踊『小鍛冶』 と 能『小鍛冶』

『十八世 中村勘三郎   一周忌メモリアルイベント』が行なわれ七緒八くんが歌舞伎舞踊に参加されたのをテレビの芸能ニュースでチラリと見たが、足が滑ったのに何事もなかったように踊り続け恐れ入ってしまった。目がいい。身体を動かした方向に遅ればせながら目が動く。能に多少こちらも目がいき、能の『小鍛冶』の録画を見て、勘三郎さんの勘九郎時代の『小鍛冶』も見直したばかりであった。勘三郎さんの『小鍛冶』での三条小鍛冶宗近の形と目が好きである。面白い事があると本当に楽しそうに笑うその顔付ではない。目もきりっとしていて怖いくらいである。あの目でみつめられると、勘九郎さんも七之助さんも、何を言われるかと小さくなったであろうと思われる目である。七緒八くんにもあの目がありそうで嬉しくなった。その世界に入り込んだら入りきる目である。

私が見た歌舞伎の『小鍛冶』は、勘太郎時代の現勘九郎さんも出ていて、17才のときであるから、1999年頃のNHKの「芸能花舞台」の録画である。「芸能花舞台」のほうで『小鍛冶』に関連して、『釣狐』と喜多流の『小鍛冶』を断片的に紹介してくれた。能の『小鍛冶』は後シテに出てくる狐の頭の毛の色によっても演出が違うらしく、赤頭、白頭、黒頭がある。狐の足を表現する狐足なども変わってくるようだ。

能『小鍛冶』は、一条帝の宣旨により、橘道成が勅使で三条小鍛冶宗近(宝生閑)に剣を打つよう伝える。宗近は相槌(あいづち)にふさわしい人が見当たらず途方に暮れ稲荷明神に祈願する。すると一人の童子(観世清和)が現れ、日本武尊の草薙剣(くさなぎのつるぎ)についてなど語り、宗近の討つ剣は草薙剣にも劣らぬと告げ姿を消す。宗近が剣を打つ準備を整えたところへ、稲荷明神の使者の狐(観世清和)が槌を持って現れ、宗近と共に剣を打ち剣はできあがる。表に小鍛冶宗近、裏に小狐と銘を打ち、狐は稲荷山へ帰って行く。

長唄の『小鍛冶』は、小鍛冶(勘三郎)と使者の橘道成(翫雀)が並んで舞台中央からせりあがる。そして能の後半部分の稲荷明神の神霊。(勘太郎)が花道すっぽんから現れ、宗近と共に刀を打つ。歌舞伎の場合、この刀打ちの槌の音をリズミカルに出させ躍動的である。神霊の動きも足を狐足にしたり、跳躍したりと、勘太郎さんは緊張しつつも一心に努めている。勘太郎さんの若いころからの性格をみるようである。

澤瀉屋には、義太夫と長唄とを取り入れた『小鍛冶』があるようである。

この三条小鍛冶宗近の三条は、京の三条に刀打ちの小鍛冶が多く住まいしていたところで、粟田神社、鍛冶神社、三条通りを挟んで相槌稲荷神社あたりにその痕跡があるらしい。粟田神社は行きたいと思っていた場所でいつも青蓮院どまりなので、是非行く機会を作りたい。さらに友人が狂言の和泉流『釣狐』と宝生流『小鍛冶』の録画をダビングしてくれ、そのタイミングの良さに嬉々として臨んだが、映らないのである。機種の相違か未設定であろうが、残念でならないない。クシュン!

 

追記: その後、粟田神社、鍛冶神社、相槌稲荷神社へ行けました。携帯からの写真で写りが不鮮明。

          粟田神社。この境内に鍛冶神社があります。  

          相槌稲荷神社

解説版には次のように書かれていました。

「ここは刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通りの南側粟田口にあったと伝える。宗近は信濃守粟田藤四郎と号し粟田口三条坊に住んだので三条小鍛冶の名がある。稲荷明神の神助で名剣小狐丸をうった伝説は有名で謡曲「小鍛冶」もこれをもとにして作られているが、その時相槌をつとめた明神を祀ったのがここだともいう。なお宗近は平安中期の人で刀剣の鋳も稲荷山の土を使ったといわれてれる。 謡曲史跡保存会」

追記2:  時間を経て 2021年に和泉流『釣狐』と宝生流『小鍛冶』の録画を観ることができました。

<能>を題材とした映画 『獅子の座』『歌行燈』 (2)

<能>を題材とした映画 『獅子の座』『歌行燈』 (1)で、>戦前は映画の一部に能楽をとりいれることがタブーとされと、増田正造さんの文を参考にして書かせてもらったが、『歌行燈』のほうが昭和18年で『獅子の座』より10年先にできた映画である。『獅子の座』のほうは原作が能に関係している方であり、『歌行燈』は泉鏡花原作で、架空の文学作品ということもあるのであろうか。但し能楽考証として伝統芸能研究者の松本亀松さんの名前が出てくるだけであり、能楽指導の方の名前はない。仕舞の場面もあるだけに、このあたりはミステリアスである。

成瀬監督は「内務省もうるさかった頃ですからね、よくやったと思う」と言われている。芸に精進する一生懸命さが、戦中ものとして許可されたのであろうか。成瀬監督は、この後、昭和19年に『芝居道』(長谷川一夫、山田五十鈴)の芸道物を撮っている。

映画『歌行燈』は、東宝映画と新生新派提携作品である。

監督・成瀬己喜男/原作・泉鏡花/脚本・久保田万太郎/時代考証・木村荘八/能楽考証・松本亀松 / 出演 花柳章太郎・柳永二郎・大矢市次郎・伊志井寛・山田五十鈴

若手の才能ある能役者の恩地喜多八(花柳)は、名古屋公演あと、父(大矢)や叔父(伊志井)と伊勢を回りゆっくりしようと列車に乗るが、そこで、古市にあなたたちより凄い謡の師匠宗山がいるといわれる。古市に着くと喜多八は宗山を訪ねる。宗山は元は按摩で今では3人の妾もおり、周囲からはよく思われてはいなかった。喜多八は宗山の謡の浅さをしらしめ立ち去る。そのとき、宗山の娘のお袖(山田)を妾と思い「死んでも人のおもちゃに成るな」と叱責する。宗山は自分の芸を辱められ自殺してしまう。そのことにより、喜多八は父から勘当され、謡をうたうことを禁止され門づけの旅烏となる。

お袖のほうも父を亡くし、伊勢山田で芸者に出るが三味線が出来ず、芸がなければ嫌な仕事につかなければならない。喜多八の門付けの博多節の上手さから客のつかなくなった次郎蔵(柳)が、喜多八の声の良さが気に入りご祝儀の貰い方を伝授してくれ、ひょんなことからお袖のことも話してくれる。

喜多八はお袖に会う。お袖は、ある人から「死んでも人のおもちゃになるな」と言われたので、自分はそれを守りたいが三味線も出来ず何の芸もないと涙する。喜多八は宗山への仕打ちの悔恨もあり、お袖に7日間だけ仕舞を教える。この場面が重厚で美しい。鼓ヶ岳の林の木漏れ日の中での仕舞の伝授。いそいそと稽古に向かうお袖。それを迎える喜多八。新派ならではである。7日目に喜多八は去る。

お袖は、山田にも居られなくなり桑名で芸者となる。お座敷二日目に客の前で一つだけある芸の仕舞を披露する。喜多八から伝授された謡曲「海人」の一節「珠取り」の舞である。その二人の客は喜多八の父と叔父であり、お袖が喜多八から伝授されたことを聞き、父は謡をやり、叔父は鼓を打つ。それを、酒場で耳にして、喜多八が駆けつける。勘当されてから2年、全ては氷解し喜多八も謡に参加し、お袖が舞うのであった。

仕舞の舞台、練習場面、お座敷での仕舞、謡などが豊富であり、山田五十鈴さんがしっかりと男性陣について行きつつ、最後は圧倒する。「死んでも人のおもちゃになるな」の言葉を秘めての生き方もお涙ちょうだいにはならず、真摯さがいじらしい。それでいて貫禄を備えている。大きな女優さんの例えが似合う役者さんである。

泉鏡花の母は江戸育ちで、生家は葛野流の鼓の家であり、兄は能楽師である。

古市は歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』の舞台でもある。古市の廓・油屋で孫福斎宮(まごふくいつき)が起こした刃傷事件を、歌舞伎にしたものである。歌舞伎では、主人公・福岡貢とその恋人油屋の遊女・お紺の話となるが、二人を弔う比翼塚が、大林寺にある。伊勢に旅したとき寄ったが、歌舞伎で想像するような昔の面影は街には残っていなかった。

最後に増田さんの文から伊藤監督が『歌行燈』を意識したかもしれない一文を紹介して終わる。「雨の上がった夕焼け。「母の情けありがたや」と、「小袖曽我」を謡う父子交流のラストシーンは、「田中絹代を画面にだせ」という松竹側と、「それでは新派劇になる」という監督との間に、はなはだしい論争があったという。」

 

<能>を題材とした映画 『獅子の座』『歌行燈』 (1)

今、能を題材とした映画で思いつくのは、『獅子の座』と『歌行燈』である。

『獅子の座』(昭和28年)は、宝生流の15代と16代の子供時代を中心にその周囲の動きを題材にした映画で、国立劇場あぜくら会の集いで見ることができた。5、6年前なので解説者(増田正造)やゲスト(茂山忠三郎)のかたの話は記憶に残っていないのであるが、資料として貰った増田正造さんの一文は映画ファンにとって大変興味深いものである。

監督・伊藤大輔/原作・松本たかし(初神鳴)/脚色・伊藤大輔・田中澄江/音楽・団伊玖磨/美術・伊藤熹朔

出演  宝生彌五郎・長谷川一夫/妻久・田中絹代/息子宝生石之助・加藤雅彦(現津川雅彦)/義妹お染・岸恵子/幾太郎・堀雄二/幾右衛門・大矢市次郎/与兵衛・伊志井寛

伊藤監督は、幼い頃から能が大好きで、能を主題とした映画を作りたかったが、戦前は映画の一部に能楽をとりいれることがタブーとされ、やっと戦後実現したが、能に溺れすぎて熱くなりすぎ「失敗作」と語ったそうである。能の敷居はそれだけ高く、無闇に能の世界を外に持ち出すことはタブーだったのであろう。映画の中で、絵を描くためにと頼まれて能の形を見せ破門になる弟子も出てくる。伊藤監督は能を難しく考えている映画の観客のため「羽衣」「忠信」「石橋 連獅子」を選ばれ、能に関心を持って貰いたいと考えた。観客に迎合し過ぎたと思い失敗作と思ったのであろうが、興行成績は大成功であったようで、配役からしても、映像になったことのない能の世界であるから想像はつく。

宝生家の二人の息子を巡る内紛と16代目宝生九郎の雷嫌いは有名な話らしのであるが、雷嫌いは大きな問題へと発展するが、内紛は映画を見た限りではテーマとなってはいない。

15代宝生流宗家彌五郎は、一世一代の勧進能を催すことになる。この能には将軍徳川家慶が上覧し、江戸庶民も観覧できるのである。ところが、長男の石之助は雷嫌いで、親子で舞う「石橋 連獅子」の時雷雨となり、石之助は舞台に対するプレッシャーと雷の恐怖から楽屋を逃げ出してしまう。彌五郎は事の次第から切腹も覚悟するが、石之助は弟子に見つけ出され、無事舞い終えるのである。

ここまでの間に、芸の鍛錬の厳しさなどが描かれる。彌五郎の妻久は石之助に無事大役を果たして貰いたく厳しさをが増す。確か水を満杯にした<桶>を頭の上に乗せ水をこぼさない様に摺り足を練習させる場面もあったように思う。神経質な石之助は益々萎縮していき彌五郎も見かねて久に注意したりするが、舞台の成功を祈り水籠りなどもし、あくまで子を思う母の気持ちは変わらない。その気持ちを、彌五郎は舞台の終わった夜、屋根の上で石之助に語り親子の絆は一層深くなるのである。

長谷川一夫さんは、父・彌五郎の優しさと切腹を覚悟する芸道に殉じる気持ちを表し、それと対称的に田中絹代さんは盲信的に息子の成功のために鬼となる母性を押し出した。芸を引き継ぐ環境の中で、息抜きの場所を見つけたり、逃げたりする石之助の津川雅彦さんは子役の頑張りである。石之助を見つけ出す弟子幾太郎の堀雄二さんは、久の妹のお染の岸恵子さんの頼みで羽衣の能の形を見せ、それをお染が描き、許しもなく芸を披露したことのために破門となる。見ていてまずいことになると分かるが、岸恵子さんのような美し人に頼まれると嫌とは云えないのもわかる。白黒であるが、着物や能衣装の美しさが際立つ。

増田さんは、「この映画は、宝生流一門と、能楽界の総力をあげての協力の記録でもある。」と書かれている。増田さんの「映画『獅子の座』によせて」の一文は映画好きにはワクワクさせる内容で、映画『獅子の座』を思い出させる大きな手助けとなった。

 

<桶>の連想伝達

能 『融』の潮汲みの<桶>からすぐ連想が移ったのは、『義経千本桜』の「すし屋」のすし桶である。

いがみの権太の父・弥左衛門は、梶原景時の詮議の帰り道、一人の若侍の亡骸に出くわす。弥左衛門は何を思ったかその首を持ち帰る。もしものときには、自宅にかくまっている重盛の子・維盛の首として差し出すつもりなのかもしれない。この亡骸は、討ち死にした維盛の家来・小金吾である。すし屋の自宅に帰り弥左衛門はその首を、すし桶に隠す。

その前にいがみの権太は、父親の居ない間に、母に銀三貫目を無心してまんまと手に入れ、父親の帰りを知ってすし桶に隠すのである。どのすし桶に、お金が入り、首が入っているか、観客は知っている。

すし屋の娘・お里は維盛に思い焦がれている。そこへ、維盛の妻・若葉の内侍と子・六代がたずねてくる。お里は父の意思どうりこの親子を逃がしてやる。その様子を見ていたいがみの権太は弥助が維盛と知り、お金の入ったすし桶を持って訴人すると駆け出すのである。しかし、このすし桶には、小金吾の首が入っているのである。観客は知っている。ありゃりゃ!である。さらに、七三でいがみの権太はすし桶を抱えて見得を切る。拍手しつつも、お金でないことに気が付いたいがみの権太はどうするのであろうかと気にかかる。このからくりの一部を、それも見得を切らせて見せて、次の展開で、「ここまで推測できた、あなたは」と問いかけられてもいるのだと、何回か観て思った。このすし桶を間違えたことが、いがみの権太の運命を左右し、どんでん返しとなるのである。

芝居としては見せない部分である。すし桶を開けて、そこに首を見たいがみの権太は驚き、理解する。父が維盛を逃がし、梶原景時に維盛の首としてこの贋首を差出すのだと。しかし、内侍若君をどうするのだ。この時、いがみの権太の女房・小せんが、親に対する孝行は今しかないと自分たち母子が身代わりになることを申し出る。

維盛の首を持ち、内侍若君を引っ立ててのいがみの権太の登場である。上の見えない部分は後で父に刺されての死に際の権太の語りで分かるのである。権太の語りを聞きつつ観客は巻き戻しをして、あの時は、そういうことだったのかと自分の見方の不足部分を補うのである。そうして涙するのである。もしくは、もう一度見て、ここでこうなるのだが、やはり見抜けないのは当たり前などと納得したりするのである。ジェームス・ディーンの「エデンの東」での、父にも母にも受け入れられない若者の姿が浮かんだりする。

それだけに、いがみの権太の家族の場面が重要になってくる。女房小せんは夫いがみの権太に惚れている。世間から悪く言われ爪弾き者であるが、時として見せる夫の愛嬌に本心の一部をみているのであろう。だからこそ、身代わりになれるのである。そうすることによって、夫は父親から認められる。ここは、貴族でもなく、武士でもない、一般庶民の心意気である。

歌舞伎には首実験の場があり、それが贋首であったりして、話のどんでん返しとなるのである。戦の場合大将の死は一番戦意喪失させることであり、勝利への近道である。それだけに、本物なのかどうかは重要なことである。本当に死んでいるのかどうか。『熊谷陣屋』『盛綱陣屋』は、贋首によって武士の主従関係、親子関係にスポットライトを当てる。時代性と武士の世界観からの首桶である。