能 『融(とおる)』

かなり年数が経っているが、能『』を録画してあった。喜多流で前シテ・老人と後シテ・源融は友枝昭世さんで、ワキ・旅の僧は宝生閑さんである。清凉寺は光源氏のモデルの源融の山荘であったとされるが、この清凉寺には、国宝の釈迦如来立像があり、この釈迦如来を模刻したものを清凉寺式釈迦如来としている。

京都に魅せられて通った2002年の月刊「京都」の雑誌に、当時、紅葉と秋期特別拝観とライトアップの組み合わせを考えたらしく数枚の付箋がついていて清凉寺の釈迦如来も、その年の特別公開で見たらしい。京都大好きの職場の友人の影響で、過去の月刊「京都」お勧め月号を持参してもらい、ああじゃらこうじゃら策を練った頃である。その時、源融を知り、能『』も知ったような気がする。

その頃は、「そうなのだ」程度であったが、今回もう一度録画を観直して融の世界が見えてきた。司馬さんの都人の陸奥(みちのく)への憧れの文章の力が大きい。

源融は政界での抗争に敗れ、下々から見れば優雅であり贅沢であり風雅である生活を送る。能に出てくる旅の僧を通じて、追体験をする事とする。

仲秋の名月の夜、源融の別荘河原院跡に東からやってきた僧が休んでいると、潮汲みの老人があらわれ、潮汲みとはおかしいというと、老人は、ここは昔融の邸宅があり、陸奥の塩釜浦を模した庭があり、毎月難波から海水をはこばせ塩を焼いて遠く陸奥を思い描き楽しんでいたことを伝える。そのとき前シテの老人は天秤に下げた前桶の握っていた綱をすっと離す。桶が舞台床すれすれに落ちて揺れる。時間を少しあけて後ろの桶も落とす。動きの少ない能だけにこの動きと桶のゆれるのがはっとさせ、ゆらゆらと気持ちをゆったりさせる。そして、今までその動作が長いこと必要がなく、やっと日の目をみるといったような老人の心の内を感じるようである。老人は、紀貫之がこの場所で詠んだ歌も披露する。

君まさで煙絶えにし塩釜のうらさびしくて見え渡るかな

この庭を継ぐ人もなく跡だけとなったが貫之には見えていたのである。こちらも、紀貫之を通して、この老人を通してかつての融の眺めた陸奥の風景が紗のかかった感じで見えてくる。その老人は、舞台前方の先端まで進み、舞台の下の空間から海水を汲み採り、すうっと橋懸りの奥へと姿を消すのである。旅の僧は、融が潮汲み老人となり、何もかもが無くなっている現世をなげいていたことが分かる。その夜、僧の夢の中に美しい貴公子の融があらわれ、月の光の中で優雅に舞い、かぐや姫のごとく月の世界に消えていくのである。

塩を焼く煙たなびく塩釜浦を模した庭。それを楽しんだ河原大臣。その跡に立つ紀貫之の歌のこころ。その後に登場する、劇中の僧と融の亡霊。一つの空間に異次元同士でつながっている。その重なりを観客は観ている。

陸奥(みちのく)の宣伝マン、源融の詠った歌

陸奥のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに乱れんと思ふわれならなくに

司馬さんが引用した「新潮日本古典全集」の訳 ”陸奥のしのぶもじずりの乱れ模様のように、あなたならぬ誰かの求めのままに身も心もゆだねてしまうそんな私ではありません”

この時代の歌の連想ゲームは、現代のゲーム感覚では到底かなわない教養と知性が必要だったようである。

能 『』が、どうやら自分に近づいてくれたので、何か月も借りっぱなしの、能 『求塚(もとめつか)』の録画DVDを頑張ってみる。途中お茶タイムなどを入れ、なんとか観終わる。これで返せると安堵する。『』のように、もう一度みようと思う日がくることを願うが、大作すぎて別枠に奉ってしまった。

司馬遼太郎 『白河・会津のみち』

司馬さんは、誘いの上手なかたである。『白河・会津のみち』も「奥州こがれの記」から入る。平安時代の貴族たちが如何に奥州・みちのくを恋焦がれていたかということから書き始めている。このみちを読むのは二回目であるから、はじめは今回のような誘いの手に乗らなかったわけである。

宮城野」と「仙台」では受ける印象が全然ちがう。「仙台」といえば、伊達政宗を連想する。

福島市は「信夫」で司馬さんは「この時代のひとびとがきけば、千々みだれる恋の心に、イメージを重ねる」と書いている。ここには「信夫捩摺(しのぶもじずり)」(忍摺・しのぶずり)と都で呼ばれていた乱れ模様の絹布があって、「その染め方は、みだれ模様のある巨石の上に白絹を置き、草で摺って、模様をうつし出したといわれる。」

イーハトーボの劇列車」では、紫根染めをしている西根山の山男が、その技術を認められて東京に行く列車に乗るのだが、送られてきた汽車賃を使い果たし、サーカス団に加わるのである。この設定は面白い。井上さんの岩手であろう。

司馬さんは、この奥州への憧れの代表として、源融(みなもとのとおる)を出す。嵯峨天皇の皇子であり、光源氏のモデルと言われている人である。今の嵯峨野にある清凉寺がもと源融の山荘で、東本願寺前にある渉成園が別荘河原院でその優雅さから「河原大臣(かわらのおとど)」と呼ばれたりもした。河原院は奥州塩釜を取り入れてつくられたいう。現在、公開されているが、当時の面影はないそうで、わたしも行ったが庭の知識がないため特別河原院の感慨はなかった。入ってすぐの石垣のほうが興味深かった。そして宇治の別荘はのちに平等院になるのである。源融は能「」にもなり、旅の僧が六条河原院の跡で休んでいると一人の潮汲みの老人があらわれ、ここは昔、融の大臣が陸奥塩釜浦の風景を写した庭を造り、難波浦から海水を運ばせ塩を焼かせたと話す。この老人は融の亡霊であった。再び夢の中に現れ名月の光の中で舞うのである。

次に平将門の先祖が出てきてさらに義経と馬が出てくる。騎馬集団を指揮する天才である。それまで一騎打ちであった戦に対し、集団で奇襲をかける。歌舞伎で追われる義経であるのは、舞台に義経の騎馬集団を持ち込むことが出来ないのと、琵琶法師や浄瑠璃などの語りを聞いていた大衆の下地を上手く使って演劇化していったような気がする。勝利者はいらないのである。

みちは白河の関へと行き、会津へと入ってゆくのであるが、白河では、思いがけない人について書かれている。山下りんさん。ロシア正教の聖像画(イコン)を描かれた女性である。茨城県笠間の生まれで、笠間はかつて領主に浅野家の時期があり浅野家が播州赤穂に移って4代目が浅野内匠頭長矩である。山下りんさんのイコンはどこであったか忘れたが見た事がある。信者にしては、どこか物足りない。そんな思いで見た記憶があるが、このかたは絵筆を持ちたかったのである。ところが、没落下級藩士の子で絵などそれも女子が学べる環境ではない。しかし、りんさんは上京する。絵のために意に添わなくても彼女は絵筆を持ち続けた。ロシア正教はイコンに対し描き手の感情移入は許さない。その法則の中で縛られて描くのである。白河ハリス正教会の聖堂正面にあるキリスト像と聖母マリア像は山下りんさんの作でほかのものとは少し違うらしい。どこかでは、自分を出されていたのであろうか。

会津には、徳一という学僧がいて、最澄と論争したらしい。徳一は古い奈良仏教で最澄は新しい平安仏教で、かなり執拗に最澄を苦しめたようだ。面白いのは、空海と最澄を次のように比較している。「空海の場合、徳一の論鋒をたくみにかわし、むしろ徳一を理解者にしてしまったところがあり、このあたりにも、最澄の篤実さにくらべ、空海のしたたかがうかがえる。」最澄のほうが空海より保護されており、最澄のほうがしたたかと思っていたので司馬さんの見方が新鮮であった。このことがまた、「イートハーボの劇列車」を観た時、父と賢治の論争がこのことと重なった。

会津若松市に入る。井上ひさしさんの言葉に対する司馬さんの考えが出てくる。

<「会津は東北じゃありません」と、私にいったのは、山形県うまれで仙台育ちの井上ひさし氏だったが、そのとき大げさでなく息が止まる思いがした。そういわれるてみると、会津は藩政時代を通じて教育水準が高く、そのぶんだけ土俗のにおいがしない。>

この後、会津のこと、松平容保のことなどが展開してゆく。

内田康夫さんの『風葬の城』は、会津漆器の職人が殺される。大内宿や近藤勇の墓が出てくる。そして犯人はだれか。事件が解決し、浅見光彦は母雪江から、会津葵のお菓子を買って来るよう言いつかる。こちらのお菓子にも興味ひかれる。

こまつ座公演 『イーハトーボの劇列車』

宮沢賢治は、凄く宗教的ストイックな感じがして苦手であった。若い頃、作品に触れたが童話も詩も「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ・・・」のストイックさがインプットされていて、周り道をするような、簡単に考えてはいけないような、素に触れられないような感じである。井上ひさしさんは、誘い方が上手く、笑わせながらも、幾つかある本質の少なくとも一つは表してくれるので、この公演を観劇できて幸いであった。アレルギーが弱まったようである。

ただ、観劇の前に映画『宮沢賢治 その愛』をDVDで見ておいた。賢治さんは短期間に色々なことを実行され挫折し、また始めているので、その苦悩も生き方もその一つ一つを追っていくと、こちらも混乱をきたすのである。映画は見ておいて良かった。映画自体も面白かった。

『宮沢賢治 その愛』 監督・神山征二郎/脚本・新藤兼人/賢治・三上博史、父・仲代達也、母・八千草薫、妹トシ・酒井美紀、弟清六・田中実

賢治と父との葛藤。宮沢家は古着屋・質屋である。その家業が貧しい農民からさらに搾取しているとして賢治には納得できない。さらに、浄土真宗の父と法華経信仰の賢治は対立する。詩や童話を書きつつも、実行あるのみと、農業にも従事する。さらに、農業の生産性の肥料の研究、それだけではなく農業労働をするものにとって芸術も必要であると、音楽を聞かせたり、演劇もとりいれたいと、自分の理想を実行していく。しかし、その資金は父親から出してもらうのである。その負い目と宗教的観点から菜食主義で、米に塩の生活である。のちに宮沢家は家業を金物業に変えている。実際には弟の清六が質・古着商をやめ、建築金物・電気機械の販売を始めている。一番の理解者は妹のトシである。賢治より2歳下で日本女子大に進み、兄の言わんとしていることが解るのである。ところが、トシは25歳で肺結核のため亡くなってしまう。妹トシの死は、賢治の作品や生き方に大きな影響を与えている。そして、賢治は39歳で生を閉じる。母に「そんなことをしていたら死んでしまいます。死んだら何にもならないでしょう」と言われ、最後に父には「賢治、おまえはたいしたもんだ」と言われ、家族の情愛を受けての賢治自身の<その愛>でもある。

これだけの流れが解れば、井上さんの本の芝居はまず台詞を楽しむことである。『イーハトーボの劇列車』は賢治を中心とした一つの宇宙である。現実には、賢治は仲間に入ろうとするのであるが賢治の理想は受け入れられずはじかれることも度々である。劇中では、他の人が賢治に自分の生き方や考えをぶつけることによって、賢治がそれに答えていき、賢治の考え方を理解する形となる。悲しい結果にはなるが賢治が理解出来る生き方の人、考え方が自分と違う人もいる。井上さんは明らかに生き方も考え方も違う登場人物に対し、笑いをもって<なんかちがうな、それでいいの>と疑問をなげかける。その人の筋が通っていればいるほで、どこかでほころびてくる可笑しさ。

賢治と父の宗教論争は、それをやるんですかと恐れ入ってしまった。でもそこはそこ、論争にハエが加わる。父は邪魔ものとしてハエを叩き潰そうとする。それは、賢治の宗教観をも、論破することと一致している。賢治は父の質問に答えつつ、いかにそのハエを逃がしてやるか、様子をうかがっている。答えることが目的ではなく、ハエを逃がすことのほうが重要なのである。この設定も賢治の生き方を違う意味で照射させている。このあたりが、井上さんの二重に面白いところである。賢治は父の誘導にはまってしまい、再び花巻に帰ることになる。この花巻から上野までの何回かの列車の旅は、賢治にとって、人との触れ合いの場であり、死にゆくものたちの一瞬の光を受ける場でもある。

賢治は自分を<デクノボー>であると告げる。そして、自分に頑強な肉体があったら、立派で強い日蓮上人を求めたであろうが、頑強な肉体ではないからデクノボーの日蓮上人でいいのだと言い切る。あくまでも弱い立場の方に自分を置いているのである。そして皆と一緒に「イーハトーボの劇列車」に乗るのである。この<ボ>はデクノボーの<ボ>のような気がしてきた。

歌は比較的少ない。その分、台詞が面白い。風の音がすると「風の又三郎」などがふうっーと浮かぶ。それと岩手弁が文字ではなく音となって伝わるのが心地よい。宮沢賢治の作品も音読があう作品である。宮沢賢治は周囲の思惑を考えに入れない強引さもあったようで、ストイックでありながら、やられっぱなしではなく、また進み、人として偏屈なところもあり安心した。

井上芳雄さんの賢治は、野畑の中を這いずりまわる賢治ではなく、どこか、遠くをみつめつつ人と争わず自分の理想を置き土産としておいていくような、疲れた少年や人々を共に連れ立ってふうっーと消えてゆくような賢治であった。

作・井上ひさし/演出・鵜山仁/演奏・荻野清子/出演・井上芳雄、辻萬長、木野花、大和田美帆、石橋徹郎、松永玲子、小椋毅、土屋良太、田村勝彦、鹿野真央、大久保祥太郎、みのすけ

 

 

十月 歌舞伎座『義経千本桜』 ・ 国立劇場『一谷嫩軍記』『春興鏡獅子』 (2)

内田康夫さんの推理小説に『風葬の城』がある。内田さんの推理小説に手がいくのは、行った場所、行きたいと思っている場所の名が出てくるからである。<風葬>は会津を思い出させた。戊申戦争では、死者達の埋葬を許されなかったのである。小説を読んだ後、司馬遼太郎さんの『街道をゆく 33 白河・会津のみち』を読む。義経のこと、佐藤継信、忠信兄弟のことも出てきて芝居にエッセンスを振りかけてくれた。

『道行初音旅』は『吉野山』ともいわれる舞踏である。『大物浦』が重々しい心理劇も担っているので、気分を変え、京から満開の吉野山への静と忠信(実は狐)の道行である。藤十郎さんと菊五郎さんがおおらかに踊られる。義経は大物浦から九州にむかうが、吉野に逃れてくる。その義経のもとへ行こうとしているのである。ここで忠信の兄継信が屋島で、平教経の放った矢を義経の身代わりとなって受けて死ぬ、戦話も展開される。あくまでも踊りの形で見ている側もそうであったかとうなずく感覚である。江戸時代の人は平家物語など熟知していて、そうそうそうなのよ!の感覚だったのであろう。

『木の実』『小金吾討死』『すし屋』は、どんでん返しの庶民の悲哀となる。武士の話に庶民を主人公とする話もきちんと入れるところが、何とも心にくいところである。奈良の下市村のすし屋の弥左衛門は平維盛を奉公人弥助としてかくまっている。勘当されているすし屋の息子・いがみの権太は、維盛を尋ねてきた妻・若葉の内侍、若君の六台、家来の小金吾からお金をだまし取り、若葉の内侍親子と維盛の首を頼朝の家臣梶原景時に差し出してしまう。

それを知った、父親の弥左衛門は息子・いがみの権太を刺してしまう。実は、差し出した維盛の首は家来・小金吾の首で、若葉の内侍親子は、自分の妻と息子なのである。仁左衛門さんは今回は、要所ごとに自分の心の内を表にだした。自分の妻と子供を差し出すところは、ここは捕り手の松明の煙が目に染みると涙を隠すくらいであったが、その前にも辛さを表情にだし、花道を去る妻子にすまないという気持ちを出している。これで維盛親子を助けられる。親父に親孝行が出来ると喜んで「とっつあん!」と振り向いた時、事実が分からない弥左衛門は権太を刺すのである。ここから権太の嘆きが始まるのであるが、悪事を企む権太と、情を見せる権太の入れ代わりが、一人の人間の表裏の切なさとなるような変わり方であった。

『熊谷陣屋』で義経が<一枝を切らば一指を切るべし>と敦盛を助けろと熊谷に命じたように、梶原が褒美に与えた陣羽織には維盛を出家させるようにとの暗示が隠されていた。どちらも死んだという風聞は必要なのである。生かすとなると誰かが犠牲にならなくてはならない。そのあたりも組織の非情さがうかがえる。

奈良から観光バスで吉野に向かう時、ガイドさんが「この先にいがみの権太の住んでいた場所があります」と説明してくれた。モデルとなるようないがみの権太が実際にいたらしい。下市村あたりだったのであろう。それにちなんだすし屋さんもあるらしい。驚いた。

『川連法眼館』は狐忠信の畜生でありながら、親を思う情愛を見せる芝居である。知盛が吉衛門さん、義経を梅玉さん、静御前を藤十郎さん、いがみの権太を仁左衛門さん、狐忠信を菊五郎さんと、『通し狂言 義経千本桜』として通したわけである。『川連法眼館』は年齢的にみて菊五郎さんには負担過ぎる動きだったのではないだろうか。今回動きに捉われて情愛が薄くなったのが残念であった。飛び込んだりとかの動きを少なくしても、情愛がでれば、それはそれで芝居として面白いと思う。忠信として、団蔵さんと権十郎さんに挟まれ引っ込まれる時の立派さからすると、違う方法もあったのではと考えてしまった。団蔵さんと権十郎さんも出は少ないがきちんと役を作られるので出が楽しみである。

国立の『春興鏡獅子』は染五郎さん。美しい品のある弥生である。もう少し身体に貯める部分も欲しかった。獅子はシャープで切れの良さが魅力的であった。

 

 

 

十月 歌舞伎座『義経千本桜』 ・ 国立劇場『一谷嫩軍記』『春興鏡獅子』 (1)

今月は大御所達の登場である。歌舞伎での義経は控えめである。考えてみると不思議である。兄頼朝に追われる身になってからの義経を描いていて、あくまでも控えめな気品ある義経である。『勧進帳』などは、ずうっと控えている。動きの少ない中で、いかに気品を出すかが義経役者の芸である。『勧進帳』は能を取りれているが。今回は鳥居前は菊之助さん、国立は友右衛門さんで押さえられていたが、なんといっても、梅玉さんであろう。

『一谷嫩軍記』の陣門で熊谷直実の子・小次郎が花道から走り出てくる。梅玉さんが小次郎よりも数倍の年齢であるのに小次郎で出られたときがあった。年齢に関係なく小次郎であった。その走り方、若者のはやる心の表し方、これが歌舞伎の芸なのだと思わされた。今回は染五郎さんであったが、その形は成りきれていなかった。そこが歌舞伎の不思議なところなのである。

義経は天皇から初音の鼓を賜る。この鼓を義経が打てば、兄頼朝を討つことを意味するので、義経は自分の後を追ってきた静に形見として与え、ついて来ることを禁じる。その場所が伏見稲荷で狐と関連する場所でもある。この鼓の皮となった狐の子供が親を慕い、静を守る家臣佐藤忠信に成りすますのである。<鳥居前>での弁慶は義経に、鎌倉側の軍兵を殺した事を叱責されオイオイと泣き、忠信も狐が化けていることが分かるような派手な勇壮な姿である。近頃、亀三郎さんと亀寿さんがキラと光始めている。松緑さんもこの年代の舞台を締めている。

<渡海屋><大物浦> 平知盛の義経への復讐劇である。義経たちは九州へ逃れるため渡海屋で舟の出を待っている。死んだはずの知盛は生きていて、舟宿の主人・銀平となって、義経主従が船出したなら殺そうと待ち構えていた。知盛はさらに、死んだ知盛の亡霊がやったことにするため銀平から知盛に変わるときは白装束である。この知盛は吉右衛門さんの当たり役で、世話的銀平の柔らかさから亡霊知盛へ。しかし、義経を討つこと叶わず失敗に終わり、悲壮感と平家一族の悔恨とを碇を体に巻きつけて海に身を投げ出す場面は、今この場で平家のあらゆる感情をこれ以上この世に浮かび上がらせはしないと、全てを海に沈め、同時に鎮めるほどの迫力がある。いつもながらの大きさである。安徳帝を義経が守る約束をしてくれ、銀平の妻・典侍局(すけのつぼね)も先に自害。芝雀さんも舟宿の女房と帝の乳人との変化を上手く出していた。

『熊谷陣屋』の熊谷の妻・相模の魁春さんもやはり安定している。こちらは武士の妻であるが、思いもかけなかった自分の息子の首を突然見せられるのである。女は陣屋に来てはいけないと言われていながら、息子小次郎の身が心配で来てしまう。夫からは、敦盛の首を討ったと聞き、涙しつつも一縷の安堵の気持ちはあったであろう。それが一変する。熊谷も敦盛の話をきかせつつ、若者の戦での悲壮の死を伝え、事実が分かった時の妻の動揺を押さえたいとおもったであろう。その辺の幸四郎さんの押さえも大きく、自分以外の人間全てに悟られまいとする心のうちが、いつもより息つぎが穏やかでかえってよく伝わってきた。

今回、歌舞伎座と国立を一緒にしたのは、見ていて戦という中での人間の嘆き悲しみが、どちら側も同じであったからである。主従関係。敵味方。どちらにも抜き差しならぬ悲劇の塊である。

 

旧東海道・川崎宿から神奈川宿

10月1日に 「東海道川崎宿交流館」 が出来たと情報を得たので行ってみた。品川から川崎へは歩いていないので気になっていた。JR川崎駅から10分、京急川崎駅から5分位のところにある。その手前に砂子の里資料館があったが、帰りにと思ったが時間が閉館時間を過ぎ寄れなかった。

品川から川崎の間には<六郷の渡し>があった。ここを流れているのが多摩川である。江戸時代に橋が架けられたが洪水で度々流されてしまうため渡しとなった。今は六郷橋があるらしい。奥多摩からずっとつながっているわけである。川の流れのわかる地図が必要である。歌舞伎に女形が七役つとめる『お染の七役』に、土手のお六がある。悪女で、出の大事な役である。なぜかその悪女を思い出してしまった。京急に六郷土手駅があり近くに黒い色の六郷温泉がある。

交流館で販売していた「広重東海道五拾三次」では、川崎は<六郷渡舟>で多摩川の下流は六郷川と呼ばれたとある。絵の中はお天気もよいから富士山も見え舟上の旅人ものんびりしている。

 

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川崎宿にもどるが、ここの万年屋(茶屋のちに旅籠)の名物に「奈良茶飯」があり、大豆、小豆、甘栗を入れて緑茶の煎じ汁で炊いたもので「東海道中膝栗毛」の弥二さん、喜多さん」も食している。作れないこともない。この万年屋には幕末には、ハリスも泊っており、次の日川崎大師に行っている。

 

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田中本陣跡

 

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飯盛り女供養塔のある宗三寺

 

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川崎には、本陣佐藤家に生まれた詩人の佐藤惣之助さんがいる。「赤城の子守唄」「六甲おろし(阪神タイガースのうた)」等もつくられている。坂本九さんもここの生まれで、京急川崎駅には電車が近づくと「上を向いて歩こう」が流れるそうである。

 

 

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芭蕉は「奥の細道」からもどり、最後の故郷伊賀への旅の途中、川崎のはずれで弟子たちと別れをおしみ歌を詠む。 「麦の穂をたよりにつかむわかれかな」。麦の穂をたよりとするとはなんとも力ない様子である。江戸をたったのが元禄7年(1694年)5月でその年の10月には亡くなっている。

 

映画「不知火検校(しらぬいけんぎょう)」で杉の市が師匠から、川崎までの使いを頼まれる。その時「川崎と申しますと、鈴ケ森の先の川崎でございますね」と確かめる。この聞き方が気に入ってしまった。この時代この道しかないのである。映像も白黒で勝新太郎さんが悪役で当てたのが納得いく。絶えず工夫を考え続けていたことであろう。江戸時代の道が分かると時代劇も思いがけない出会いがあるかもしれない。こちらの道はよくそれる。

神奈川宿に入る手前に生麦事件の場所がある。薩英戦争にまで発展した事件である。それよりも歩いた仲間たちは、京急生麦駅の近くにあるビール工場に寄りビールが飲みたかったと残念がっていた。心残りはそれらしい。

「東海道かわさき宿交流館」のみで川崎、神奈川宿まで歩いたつもりとする。今後もつもりが少ないことを願うが。

 

「東海道かわさき宿交流館」で制作してくれた「広重 東海道五拾三次」は貴重な旅の友となりました。

 

旧東海道・神奈川宿から保土ヶ谷宿(~戸塚宿) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

龍王峡散策

今年の7月1日<鬼怒川温泉と日光杉並木>の小さな旅から、今度こちら方面は、龍王峡を散策しようということになっていた。今回は6人である。行くと連絡があり、全て調べてくれているのでこんな楽なことはない。当日それぞれが電車に乗り込んできて、メンバーが判明する。東武の下今市駅から鬼怒川線となりその最終駅・新藤原駅から野岩鉄道会津鬼怒川線となり、新藤原駅から一つ目の龍王峡駅で降りるのである。

春日部駅から会津田島行きに乗っているのに行先が新藤原になっている。新藤原で切り離しの車両と気が付き会津田島行きの車両に進む。下今市駅で会津若松から日光への直通電車とすれ違う。八重の桜の絵が描かれた列車でなかなか素敵である。列女がいないのでいいでわないかと言いつつ誰も写真をとらない。下今市を過ぎてから3人グループの女性が「これは日光へ行かないのですか」とあわてだした。「前の駅で乗り換えなんです。」「あの八重の電車に乗れば良かったのよ。」「次で降りたほうがいいかもしれませんね。」その前から、この列車のアナウンスの聞こえずらさを話題にしていたのである。スピーカーの性能の悪さか。マイクの使い方の悪さかと。せっかく案内してくれてもこれでは役にたたない。

龍王峡駅から散策開始である。徒歩時間3時間で予定時間は4時間あるのでのんびりである。ところが虹見の滝に見とれと五龍土神社から川の近くまで下り、渡るべき虹見橋を下から見ていながらその橋へ行く道に気が付かず進んでしまった。むささび橋でまたこちら側の道にもどるからといいことにしようと進む。そのむささび橋から見た鬼怒川の渓谷が美しい。紅葉だったら最高である。高千穂と似ている。

鬼怒川の川底は柔らかくどんどん底が削られて水位が下がっている。川辺に小さな砂浜ができている箇所もある。水の下では、人の目からは見えない動きがずっとたゆむことなく続いているのである。22000万年前からと書かれてあった。「22000年じゃないのよ。万がつくのよ。」

今年はキノコが多いらしい。キノコを見つけるのが上手な人がいて、白いキノコや落ち葉と見間違うようなキノコを見つける。キノコと言えば映画『マタンゴ』である。直球で即通じる人がいた。「特撮!」

昼食の後、雨が降り出す。木々に覆われた道を出ると雨も止む。トンネルを3つ通過。最後のトンネルは短くここから出口に紅葉が見えると歓声なのであるが。想像だけは豊かに。龍王峡駅から一つ目の駅・川治温泉駅の近くに到着。「黄金橋があるらしい。どうする!」 と登り坂があると「きらい!」 と文句をいう人が聞く。「どんなおうごんばしか見ることにしよう」 なかなかおうごんばしは現れない。おうごんばしでは無くこがねばしであった。「黄金でもせめて黄色と思ったら青!」

そこから次の川治湯元駅では、目の前を電車が発車。皆疲れていて僅かの坂も急いでのぼる元気なし。予定では1時間後の列車なので予定通りである。駅前に喫茶店があった。

雪の時期、この線で会津まで雪見の旅がよい、などと次の旅を思い描く。そして、東海道も神奈川宿まで進んだのでその次をいつにしようかと。私は、川崎と神奈川宿はパスをしている。次の保土ヶ谷、戸塚も開発された道を歩くようである。季節によっては飛ばして先へ進み、順番を変えようという話もでている。なばなの里のイルミネーションを見て、次の朝は名古屋のモーニングを食べたいとの案もある。

 

 

講演 『荷風をめぐる女性たち』 川本三郎

市川市文学ミュージアムで、川本三郎さんの講演「荷風をめぐる女性たち」を聴く。今までこちらでのイベントは市川在住の人でなければ参加出来なかったが、今年から空きがあれば参加可能ということである。

川本さんは、その著書で永井荷風さんの「断腸亭日乗」を踏まえて、永井さんの東京散歩のブームをつくったかたである。今回は東京散歩が一般化したのでと、荷風さんの周囲にいた女性たちについて講演された。時間たちメモをながめても荷風さんが愛した女性が誰であったのかよく判らないのである。川本さんも話の最初に、荷風さんの時代の恋愛は今の感覚とは違っていることを強調されていた。

荷風さんは新橋の芸者をモデルに「腕くらべ」を書き、銀座のカフェ・タイガーに通い「つゆのあとさき」を書き、私娼の玉ノ井に通い「墨東綺譚」を書かれている。荷風さんの場合、そこに足しげく通ってもそれは取材のためであり、作家であることの野心は忘れないのである。

荷風さんの母親・恆(つね)さんは、一宮出身で漢文学者・鷲津毅堂の娘であり、父親の永井久一郎氏は、尾張藩士の息子で、鷲頭毅堂の弟子であるから師の娘をめとったことになる。のちに米国に留学もしている。荷風の渡米も父の勧めである。荷風さんは二十歳のころは落語家朝寝坊むらくの門人となり、三遊亭夢之助を名乗たっり、福地桜痴の門に入り、歌舞伎座作者見習いとなり、拍子木を入れたりしている。

40代の頃は森鴎外さんを尊敬している荷風さん、鴎外史伝の仕事に影響され祖父・鷲頭毅堂氏の資料など探究したりもしている。全くの想像であるが、川本さんの話しと年譜などから総合判断すると、荷風さんの女性観の一方に母親・恆さんがある。自分の仕事の対極に鴎外さんがあるのと構図が似ているように思う。

荷風さんは39歳の2月より、三世清元梅吉さんに師事している。永井荷風展の資料の中に、昭和30年9月11日の清元梅吉さんから荷風さん宛の手紙に、今月は中村吉右衛門の追善興行で法界坊に出ているとある。(この月の演目と出演者は興味があるので後で調べたい)

荷風さんは歌舞音曲は好きだったようで、浅草へ通ったことからしても、その上下関係は無かったようである。映画「つゆのあとさき」の映画に関しては、「銀座街上及びカフェの空気、映画に現れず全体に面白くなし」と批評している。

永井荷風展では荷風さんが見た映画なども調べられていた。

川本三郎さんには、荷風さんの映画についての話もききたかった。講演後、サイン会があり、川本さんの著書「映画は呼んでいる」にサインしていただいた。「この本はかなりマニアックですよ。大丈夫ですか。」といわれた。「大丈夫です。頑張って読みます。」と答えたが、頑張って読んでいない。サラサラと流した。映画を見てから詳細に読まないと変に植えつけられる部分がでてくるのである。水木洋子さん脚本で山下清さんモデルの「裸の大将」では、花の事がかかれていた。記憶に残っていない。こちらは山下清さん役の小林桂樹さんを見入っていた。口のとんがらせ方とか。先日、松本清張原作・野村芳太郎監督「張り込み」を見た。この列車やバス、車の移動には、事件の犯人の現れるのを待つ観客としては、刑事と一緒に張り込んで追いかけている。さらにこのDVDには「シネマ紀行」の映像もふくまれていた。ほとんどがロケーションで撮られ、現在と比べていた。さらに街に流れている流行歌が時代をあらわしている。もう撮り得ない映像である。

川本さんの本の「張り込み」を読んだらマニアックであった。刑事は犯人が佐賀に住む、かつての恋人のところへ来るであろうと考え、東京から九州の佐賀まで急行さつま号で24時間かけて張り込みのため移動するのである。その途中での乗り換え駅が出ていないと。これは原作が読みたくなる。頭に映像が残っているうちに文字でなぞって置きたいのである。ただ高峰秀子さんのいつもと変わらぬ後ろ姿なのに、日傘が微かに静かに回っていき心の中を表し、何か違うと思わせる。これは文字で表現されているであろうか。この辺の映像と文字の対決も見ものである。

 

水木洋子 『北限の海女』

水木洋子さんの市民サポーターの教え通り、横浜の放送ライブラリーで、ラジオドラマ『北限の海女』を聴くことが出来た。力作である。映像ではないので音だけで、こちらの気持ちに添って映像を造りつつ聞くというのも迫力がある。

水木洋子邸に参考資料として、この作品の取材の様子を書いた一文、「磯焚火」がコピーされていて自由に持ってこれた。作品の登場人物について次のようにある。「一人は命綱を握る夫と娘たちと幸福に山の上に住み、貧しい下町に住む一人は、夫を北洋の海で失い、一人息子がまた同じ海へ出ていると言う七十八才の海女である。産気づくまで海で働き、自分一人で生み、産湯を自分の手でわかし、今でも海女として、腕も体力も絶対若い者に負けないというベテランで、上町の海女と下町のこの海女は春のコンクールにトップを競い合っていた。」

この山町の海女が賀原夏子さんで声にこもるようなふくよかさがあり、下町の海女は原泉さんで独特の凄味のあるしゃべり方、旅人の私は荒木道子さんで若々しい都会人の趣きを出しており、二人の海女の方言と標準語のトーンだけ聴いていても、その生活している風土の違いがよく伝わってくる。目で脚本を読んでいたので、サポーターのかたが、さすが出演者の方言がいいですが、分かりずらいかもしれませんとの言葉も危惧に終わった。この声の澄んだ都会の私は自分の標準語で生き方を見つけて行くであろう。水木さんは出演者を選ばれたのであろうか。映画『にっぽんのお婆ちゃん』にしろ、よくその役者さんの特徴と役者さんの役どころを知っていて、上手く重ねてその作品にあてはめたり、新たな挑戦をさせる。

テレビドラマ『なぎ』(漢字で書かれているがさんずいに嵐と書き水木さんの造語である)『こぎとゆかり』の二本も見ることができた。『なぎ』は信州の洪水によるがけ崩れで両親と兄弟を亡くした少年が無くなった村を訪ねると母方の祖父とその仲間の老夫婦が傾いた家に居残っていた。少年はその温もりに安堵するが、祖父と友人の老人は、放送局で二人の持論の天災ではなく人災であるという説を存分に話してくれと連れ出され精神科の病院に収容されてしまう。それでも少年は山に向かって、暴れないで静かにしてくれよ、暴れない山が好きなのだからと語りかけるのである。

『こぎとゆかり』は、おばちゃんの北林谷栄さんと孫の大原麗子さんのコンビである。おばちゃんは、認知症が出てきている。それとゆかりは日々闘っている。おばちゃんのとんちんかんさとそれに翻弄されつつも、自分の位置を見失わずに、自分の青春を失わせないでと望む葛藤を大原さんは勝気さと情の間で揺れる感情を上手くだしている。文通している青年との交流と別れ。それが、お婆ちゃんと同道する明治村で展開される。その場所設定もドラマを面白くしている。テーマも解決されない今を映していて古くないのである。

その他、水木洋子さんのテレビドラマとしては『竜馬がゆく第16回』『出会い』『灯の橋』『女が職場を去る日』『五月の肌着』がみれる。

 

立川志の輔 『中村仲蔵』

落語の『中村仲蔵』はそう長い噺ではない。天明の頃、歌舞伎の血筋ではない、後に名優と言われた中村仲蔵が名題にまでなり、その最初に与えられた役が「仮名手本忠臣蔵」の五段目の斧定九郎(おのさだくろう)である。この役はは名題下が勤める役どころで、仲蔵にして見れば嫌がらせともとれるものである。仲蔵は何んとかこの役を自分の工夫で見せたいと願い舞台にのぞむのである。

志の輔さんは「仮名手本忠臣蔵」の説明から入った。『牡丹灯籠』の時は、その人間関係の複雑さから概略を説明された。今回は<赤穂事件>から47年たって初演され、それも時代を鎌倉に変え、登場人物の名前も変え、単なる<赤穂事件>が敵討ちの話「仮名手本忠臣蔵」となって蘇らせたた事を話された。そして、「仮名手本忠臣蔵」の粗筋を十一段目まで解説していくのである。

これが幸いなことに、歌舞伎の場面、場面を思い出させ、あの時のあの役者さんはこうだったと思い出させてくれるのである。さらにそこでの役者さんの華があったか、腹があったか、心理がにじみ出たかまで走馬灯のように浮かび上がらせてくれ、やはり「仮名手本忠臣蔵」は大作で役者を見せる出し物であると再認識させてくれた。その中で、斧定九郎の役はお客が弁当を食べつつ、ここで定九郎が与一兵衛のあとからどてらをきて出てきて呼び止めて終わって、次がと箸を動かす程度の役である。大作なるがゆえに如何に斧定九郎という役がつまらない役であるかを叩きこんだわけである。その役を仲蔵はどうしたのか。

志の輔さんは小さな噺の中に大きな「仮名手本忠臣蔵」を入れてしまったのである。歌舞伎の中の小さな落語の噺ではないのである。落語の中に歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」を封じこめたのである。なぜ出来たか。前もって「仮名手本忠臣蔵」を説明することによって聞き手は仲蔵になっているのである。仲蔵の口惜しさ。何いってるか。工夫を見つけてやる。仲蔵の頭も身体も、「仮名手本忠臣蔵」の全てが入っているのである。聞き手は芝居の粗筋を知っただけであるが、仲蔵の気持ちは十分にわかる。志の輔さんの罠にはまってしまった。

上手く工夫が浮かぶようにと、柳島の妙見様へお参りし、37日の満願の日の帰り道、蕎麦屋で雨宿りしていると浪人が駆け込んでくる。黒羽二重の紋付に、五分月代(ごぶさかやき)、大小をさし、着物のすそは高くはしょり、壊れた蛇の目傘。 できた! 斧定九郎は、赤穂の家老職のむすこである。どてらの身分ではない。

斧定九郎の出。反応無し。お客は驚き静けさのあとに・・・。反応無し。最後まで無反応。                        しくじった・・・・!

役者修行のため身を隠して旅へ。人の中を歩いていると、定九郎を褒めている声が聴こえる。一人でも褒めてくれる人がいる。聞き手はもう仲蔵になっているから、嬉しくて目がじわじわとしてくる。違う芝居の定九郎の話が出てくる。えーっ!それじゃ、下手人は勘平じゃない。これには参ってしまう。降参である。泣かせておいて笑わせる。勘平が定九郎を殺した犯人にされてしまった。定九郎が勘平より上になったのである。よくドラマで思いがけない人が人気が出て消えてしまうところを消さないでと嘆願するようなものである。この情から笑いへの転換、情の上に笑いを重ねる職人芸。

志の輔さんは、松竹の回し者ではありませんが、歌舞伎座11月、12月は「仮名手本忠臣蔵」ですと。こちらも、松竹の回し者ではないが、11月の斧定九郎は松緑さん。12月は獅童さんである。今の歌舞伎の斧定九郎のしどころを楽しむのも良いかもしれない。

志の輔さんの『中村仲蔵』は二度目であるが、江戸時代の名題下は幾つかに分かれていて仲蔵がいかに芝居が好きで一生懸命だったか、蕎麦屋に駆け込んだ浪人がゆったりと大きくつくられたこと、泣きから笑へのかぶさりかた、この辺が濃厚になっていた。その位の濃厚さがなければ噺の中に大忠臣蔵は取り込めないであろう。