平将門の上空旋回

吉川英治著「平の将門」を読んでいて驚いたのは、菅原道真の三男・景行が出てきた時である。道真の子がなぜ。小説によると、筑波山のふもとにわずかな菅家の荘園があり、景行は父の遺骨をもって筑波のふもとに祀り、そのまま住みついて地方官吏の余生を送っているとあった。その景行が創建したと言われる大生郷天満宮が常総市にある。

市川市の永井荷風の姿をよく見かけたという白幡天神社は、太田道潅の建立とのいい伝えもあり白幡神社だったのが、明治になって菅原道真を合祀して天の字を加え白幡天神社となり、「白幡神社」の扁額は勝海舟が書いて奉納している。

常総市には、累(かさね)の墓のある法蔵寺もある。歌舞伎では「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)ーかさね」の舞踊でお馴染みである。これは佑天上人の霊験譚として語り伝えられていて、法蔵寺には、累の木像や佑天上人が用いた怨霊解脱の数珠も保存されているようだ。伝説では、苅り取った豆を累に背負わせて、うしろから与右衛門が鬼怒川に突き落とし窒息させたとして、舞踏で、累が鎌で与右衛門に殺されるのはこのあたりの話からきているらしい。

さらに、千姫の墓もある。千姫は家康の命で大阪城落城の際、救出される。千姫の映画で記憶に残るのが、「千姫と秀頼」の美空ひばりさんである。江戸城にもどった千姫は祖父家康を恨み、気がふれたような行動をとる。それが凄い印象で残っているのだが、You Tube に千姫のひばりさんが祖父家康の前で薙刀を持ち踊る場面があった。その形の良さは驚くばかりである。是非 「千姫と秀頼」は見直したい。秀頼は当時の中村錦之助さんである。

千姫のお墓は東京の小石川傳通院にもあり、千姫はその後、桑名藩の忠刻と結婚するが死に別れ落飾し、その時からこの地にある弘経寺を菩提寺と決めている。この寺に崇拝する了学上人がいたからとされている。

将門の終焉の地は、現在の坂東市岩井にある国王神社である。今年は平将門公生誕1111年で、将門まつりが11月10日(日)に行われるらしい。小説では猿島で敗死とされているが、ここが昔猿島と呼ばれた地かどうかはわからない。石下に行ったとき坂東市のパンフも貰ってきたのであるが、処分してしまった。どうも地元の地図が無いと頭の中に描ききれない。

読んでおられる方はもっと描ききれないことであろう。こういう事は、人に言われたからと言って興味が湧くものでもない。どこかで、出会っていても興味が湧かないものは沢山ある。何かそういった事があったなあと素通りして、あれっ!と思ったときに自分で調べるのがよい。

平将門を討った平貞盛はのちの平清盛へとつながるわけで、貴族社会の番人を武士に据えることになったのは、平将門の登場があったからであり、この人なく平清盛も源頼朝もないのであり、徳川家もないのかもしれない。

電車に乗れば駅でパンフレットを手当たり次第に貰ってくるのだが、その中に面白いのがあった。あの鵺(ぬえ)退治 道後温泉  四国旅(6)の源頼政 の頼政塚が千葉県印西市にあった。京都宇治からなぜ。

似仁王(もちひとおう)を立て、平家打倒で闘い敗れ、宇治の平等院で自害した頼政である。解説によると、頼政は自害する時、二人の家臣に「自分の首を持って馬を引き東国へ向かえ。重くなったら、そこに塚を築いて首を葬れ。」と遺言。二人は遺言通り、首が重くて進めなくなり、その地に首を葬り塚を築いた。同じような伝承が茨城県古河市にもあり、古河市には頼政神社があるという。これは、将門に対する憧れの気持ちではないだろうか。東国が武士の発祥の地という。

 

平将門の伝説と史実

歴史的伝説と史実というのはその境目が難しい。興味を持ったが運のつきで、気にもしていなかったことが気になり始め、底なし沼に足を取られかねない。

友人が茨城に引っ越した。やっと訪問することができた。最寄りの駅が関東鉄道常総線の駅である。この線には、石下駅、下館駅がある。石下は、いしげ結城紬の町で、ここに行って結城紬といしげ結城紬が別ものであることを知る。さらに小説「土」の長塚節誕生の地であることも知りその方が興味深かった。夏目漱石の推挙で朝日新聞に連載されたのである。短歌から小説へと才能を伸ばすが36歳で亡くなる。映画「土」は内田吐夢監督である。

そして、平将門の館跡と思われる将門公苑がある。これは、後になって将門が身近に出没し気がつくのである。関東鉄道常総線の辺りは将門伝説と史実が入り組んでいることだろう。

下館は陶芸家板谷波山さんの生まれた町であり、波山さんが完成させた葆光釉磁(ほこうさいじ)は光沢を押さえつつもその曲線部分に柔かな光の反射を投げかけられる。下館には「板谷波山記念館」がありこの辺りもプラプラと歩いたのである。板谷波山の映画もある。「HAZAN」(監督・五十嵐匠/主演・榎木孝明)。波山没後50年でドキュメンタリー映画「波山をたどる旅」(監督・西川文恵)も出来たらしい。

友人宅のほうは、心地よいおもてなしで将門も波山も飛んでいた。今度機会をみて話すこととする。

将門伝説のほうは、水木洋子邸でサポーターの方から教えられたが、市川市のパンフを見ていたら書かれてあった。市川の大野に将門の出城があったらしく、大野城跡とある。歴史家によると市川には来ていないという説もあるようで、馬を駆使しての行動であるから、ここに城や屋敷は作らなくてもこの地を眺め渡した将門の姿はあったであろう。大野にある駒形大神社の祭神とし将門も併祀(へいし)されている。市川市役所の前に、八幡知不森(やわたしらずのもり)というのがあり、それは、平貞盛が将門の乱のときここに八門ある陣をしき、その死門の一角を残していてこの地に入るものにたたりがあるとされている。八門とは、開門・休門・生門・傷門・杜門・景門・死門・驚門で、開門・休門・生門の三門は吉門の方位を示すようだ。当然、死門は悪い方位であろう。行ってはいないが、森というより藪のようである。

御代の院と呼ばれるものもあり、これは、京都の菅野氏が将門平定のため関東に下り、その妻の美貌を使い将門に近づき内情を知らせさせ、それにより、将門は田原藤太秀郷の強弓に首を射抜かれた。その後、菅野夫妻は仏門に入り将門を弔いこの世を去ったが、その心根に里人が夫妻を祀り、これを御代の院と呼んで今日にいたるのである。

この御代の院の近くに幸田露伴終焉の地があり、露伴さんは「平将門」を書いており、将門伝説の残る地で最後を送ったというのも思えば不思議なことであるが、司馬遼太郎さんは関東・東北は馬文化であると言っており、馬の進むところ武士ありで、坂東武者の祖の将門は今も神出鬼没と言えるかもしれない。

 

歌舞伎座 『九月花形歌舞伎』 (2)

歌舞伎座新開場記念 新作歌舞伎 『陰陽師』

作・夢枕獏 / 脚本・今井豊茂 / 補綴・演出・斎藤雅文

『陰陽師』に、<滝夜叉姫> と添え書きされている。観ての概略は、平将門が都から東国に帰り乱を起こす。将門の友である俵藤太に将門討伐の勅命が下る。藤太は将門の行動が納得できず、自分の目で確かめた上でどうするかを決めようと考える。しかし将門は、藤太が知っていたかつての将門ではなく藤太は将門を討つこととなる。

それから20年後都では、盗賊が荒らしまわったり、子供を宿した 母親が殺されたりと不穏な空気で満たされている。そんな時、帝の命で、陰陽師の安倍晴明が平貞盛の病を治すべく様子を見に行く。晴明には、常に友であり笛の名手の源博雅がそばについている。博雅の笛の音に魅せられて現れた美しい娘は、将門の娘滝夜叉姫で、盗賊を率い、貞盛の病も滝夜叉姫が係っていた。

将門を焚き付け乱を起こさせたのは興世王で、将門亡き後、将門を慕う娘・滝夜叉姫を利用し将門討伐に加わった者たちを亡き者とし、将門の再生を企んでいたのである。この時には興世王は実は藤原純友なのである。しかし、それも晴明の陰陽師の力によって打ち負かされてしまう。最後は、将門と藤太の友情、晴明と博雅の友情が前面に出され、滝夜叉姫も博雅の美しい笛の音に心穏やかになることが出来るのである。

俵藤太はムカデ退治で有名な藤原秀郷で、将門討伐への途中、ムカデ退治の場面もある。さらに、将門の愛妾桔梗の前と藤太はかつては恋仲であり、藤太を将門の闇討ちから逃がしてやり、興世王に殺される。将門と桔梗の前との子供が滝夜叉姫である。

場面は現在、20年前、現在、20年前、現在と設定し、20年間その怨念を興世王を通じて純友は育て続け将門再生を企てるのである。ただ、将門の死までの前半は面白味にかけていた。後半からの晴明の信太(しのだ)の森の白狐の血を受けているという事を前提としての陰陽師としての力に対する晴明の微かな悲哀と、揺るぎなき血を受けている博雅の屈託ない交流が場面を、明るくしてくれる。そして、興世王の呪縛から解き放された将門と藤太の将門に対する友情が締めてくれた。

『忍夜恋曲者』の滝夜叉姫のイメージがあるので、今回の<滝夜叉姫>の副題は必要ないような気もする。最初の何かに乗って現れた滝夜叉姫の出ももう少し工夫が欲しかった。後半の心理劇の加わりによって助けられたように思う。

安倍清明・ 染五郎 / 平将門・ 海老蔵 / 興世王・ 愛之助 / 桔梗の前・ 七之助 / 源博雅・ 勘九郎 / 俵藤太・ 松緑 / 滝夜叉姫・ 菊之助

平将門が都を去ることを告げる時と藤太と東国で会う場面は興世王に操られているということなのか海老蔵さんが全然生かされてなかった。興世王の企みに従わず再生を拒んだところでやっと見せ場がありホッとした。染五郎さんの狐を使っての晴明の心を遊ばせて自分を解放させる下りは、笛の音と共に美しい場面であった。その晴明の心の内を理解することなく、屈託なく、自分は晴明、君の友達だよと云う勘九郎さんと晴明のコンビが中々良い。松緑さんもまだ形と無らない動きなのでしどころに精彩がなかった。愛之助さんと染五郎さんの異界での争いであるが、その辺は納得出来た。時々出没する蘆屋道満の亀蔵さんも異界の愛嬌者として活躍していた。菊之助さんが将門を慕う気持ちはでているのだが、妖艶な滝夜叉姫としての輝きどころがなかった。

小説も映画も観ていないので、こういう事なのかと楽しませては貰った。

 

歌舞伎座 『九月花形歌舞伎』 (1)

「新薄雪物語」は、恋を裂かれた息子と娘のために、双方の父親が切腹し犠牲となり子供を逃がす話である。好きな芝居ではないが、幸崎伊賀守の息女薄雪姫の腰元籬・まがきの七之助さんの芯のある演技に見惚れて見続けられた。年代的に親子を演じるには無理な配役設定である。薄雪姫の梅枝さんは、腰元籬の助けを借りて恋する姫君の可憐さをだしていた。

一方、園部兵衛の子息・左衛門の勘九郎さんは時として動きが、狐忠信を思い出させ少し違うなと感じた。もう少し柔らかさが欲しかった。園部兵衛の家臣・奴妻平の愛之助さんは籬の七之助さんと恋仲で共に薄雪姫と左衛門の中を取り持ち、<花見>の幕切れは、薄雪姫に横恋慕する藤馬軍団との、たぷり返しの立ち回りがある。<花見>の段は桜の名所清水寺で腰元たちが、愛宕山、マツタケの名所稲荷山などと遠くの山々を指さすのも清水寺から周囲を遠望するようで楽しい。

天下をねらう秋月大膳の海老蔵さんは思いのほか小さく、家来の団九郎の亀三郎さんが惡役として光る。<詮議>の場で、左衛門と薄雪姫に味方し扇の下で二人の手をそっと重ね合わせる葛城民部・海老蔵さんとの三人の場面もどうも腹がなく味が薄かった。秋月大膳の惡と葛城民部の腹の大きさの違いを際立たせて欲しかった。

<合腹>は、相手方の親に預けられた子供を、それぞれの親が逃がし、相手に悟られないように腹を切り子供に代わって責任を取るのであるが、双方の父親は相手の気持ちを理解しての腹切りである。

伊賀守の松緑さんは『熊谷陣屋』での代役を成し遂げたゆえであろうか、老け役に違和感がない。兵衛の染五郎さんは、高音が若々しく損である。菊之助さんの兵衛の妻・梅の方は、伊賀守の家来が左衛門の首を切った刀を届けたため、伊賀守が首桶を持って現れると動揺する。伊賀守の娘・薄雪姫は逃がしたのに何たることか。夫・兵衛にそのうろたえを叱責され、伊賀守と兵衛の合腹を知り三人笑いになるあたりまで上手くつないだ。若過ぎる配役ではあるが、長い場面をよくもちこたえさせた。

『吉原雀』は、七之助さんのしめやかな美しさに勘九郎さんも合わせた踊りとなった。少々、おきゃんなところがあっても良いかなとも思うが、今の七之助さんの美しさを壊す必要もないのかもしれない。『新薄雪物語』の最後の重さを軽くする出し物である。

新橋演舞場の『男女道成寺』『馬盗人』の芝居の間への入れ方も気分を変えてくれ変化に富んでいた。

 

「あまちゃん」の原風景

人気テレビ朝ドラが今日で終了した。その日に、脚本家・水木洋子さんのラジオドラマ「北限の海女」の脚本を読むことが出来た。

市川市八幡に故人・水木洋子さんの家が修復され、決められた日時に公開されている。今回が二回目の訪れなのであるが、市川市文学ミュージアムの永井荷風展で水木さんのラジオドラマ脚本に「あまちゃん」に先駆けて、海女を題材とした作品があるというポスターを目にする。その資料展示も今回見れるということである。

水木さんの家は、鎌倉にある吉屋信子さんの家を参考にされていて様々な工夫をされている。吉屋信子邸にも行ったが細部の記憶がないが、水木邸の書斎の方が明るい印象がする。ただ物書きの方は明る過ぎると落ち着かないと考える方もある。

ラジオドラマの話にもどすと、「あまちゃん」のロケの行われた久慈市の小袖海岸に50数年前、他の取材が上手くいかず、偶然と云うか縁と云うか、北限の海女のことを知るのである。「あまちゃん」の設定では北三陸の架空の場所ということになっている。「北限の海女」にも特定の地名は出てこないが、全くの陸の孤島が昭和31年に6年かけて小袖海岸道路が開通し、小袖海女が北限の海女として注目を集めたのである。そのことは、久慈市の<北限の海女 今昔 編集委員会>のかたが、「北限の海女 今昔 」の雑誌を平成25年3月に出され、水木洋子邸で手に入れることができたから知ることが出来たのである。

ラジオドラマ「北限の海女」は1959年NHKで放送され、その年の芸術祭賞をラジオ部門で受賞している。それから50年後の2009年に久慈市で50年を記念してドラマの資料展を開催している。そして2013年には宮城県出身の宮藤官九郎さん脚本の「あまちゃん」誕生となったのである。

水木さんの「北限の海女」は、夫を亡くした三十歳の私が、夫の母と三歳の子供を抱えて、洋服に名前を刺繍する仕事でやっていけるのかどうか思いあぐね、東京からこの北国へ旅だって来たのである。そこで、同じ海女でも境遇の正反対の二人の女性に会うのである。一人は北山ひで(68才)で高波で両親を亡くした孤児で一人で海女の技術を身に着け、さらに三人の夫を失っている。もう一人は岩田たか(70歳)でひでに比べると生活も安定している。この二人はお互い海女の腕くらべの仲間でもある。その勝敗を着けることになり、私は自分の境遇から考えてひでに勝たせたい、そのことによって自分の生きる方向も決まるような気がしている。結果的には、ひでのほうが勝つのであるが、生活というものは、それで全て良しとは成らない現実を暗示して終わる。私にとっては辛いことであるが、しかしひではそのことは初めから分かっていたように、勝ちに頼ることもなく、今までの生活を続けるのである。それが、ひでの生きてきた現実なのである。

私がそれを、どう見てどう考えるかは水木さんは結論を出していない。これはラジオドラマを実際に聞くと何かが見えてくるのかもしれない。話の中から、かつての北限の海女の厳しさが、岩に砕ける冬の波の音と供に伝わってくる。

今度、このドラマ公開をするようなときは市民サポーターのかたが連絡してくれると言ってくださった。さらに横浜の放送ライブラリーで、このラジオドラマのほか数点、水木さんのテレビドラマも見られるそうで、そちらで先に聴くことになりそうだが。

演出・森理一郎 / 作・脚本・水木洋子 / 出演・北山ひで(原泉) 岩田たか(賀原夏子) 私(荒木道子)

市民サポーターの方々が水木さんの家の管理、資料の整理、説明などしてくださるのだが、水木さんの事だけではなく、永井荷風さんの話もでき、さらに、市川には平 将門伝説もあるそうで、その話も聞くことができ、市川市民でないこちらとしては随分お世話になってしまったのである。

水木さんの取材ノートには、方言として<じぇ じぇ じぇ>も記してあり、サポーターのかたが、資料の中からそれを見つけ、自分が印をつけたと言われていた。何人かのサポーターのかたを独占してしまった。

20代の頃、旅で三陸の浄土が浜が気に入り、仕事先に仮病をつかい休暇を伸ばしたことを思い出した。 宿泊先の夕食が炉辺での海産物の焼き物で、あのほの暗さの煙のもやは忘れられない心地よさであった。

 

新橋演舞場 『九月大歌舞伎』

坂東三津五郎さんが病のため休演である。歌舞伎座の8月に心満たされる演技を受け、舞踏「喜撰」がよく掴めていないのでDVDも出ていることだし、少し探って見ようかなどと考えて居た矢先である。友人で同じ病で手術をし、体力がつくまでかなり時間を要したのを知っているので、ゆっくりと治療にあたって戴きたいものである。それまでDVDで堪能して心静かに待つことにする。

『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』の綱豊は中村橋之助さんである。この役は橋之助さんに合う役であると思って居たのでゆったりと観ることが出来た。役の大きさはまだでも、台詞が納得させれるか、そこが真山青果作では重要である。片岡我當さんの新井白石と、赤穂の浪士たちに仇討をさせたいものだと吐露し、白石が手で目頭を押さえるあたり綱豊の考えが固まっていくのがわかる。赤穂浪士・富森助右衛門が御浜御殿での浜遊びを見学したいと知り、吉良の面体を確認するためなら仇討があるのかもしれないと綱豊は読み、助右衛門を傍近くに呼び探りを入れる。仇討を悟られてはいけないし、吉良の顔を確認したいし、そのあせる気持ちを中村翫雀さんはソワソワしたり、ふてぶてしさを見せたり、綱豊との対決に面白味を加えた。

浅野大学によって浅野家再興が認められれば、仇討は意味がなくなる。その鍵を握っている綱豊は明日浅野家再興を願い出るという。行き場の無くなった助右衛門は、妹の手引きで、吉良を討つことに決める。これから舞台に出ようと能装束に身支度した吉良上野介に槍を突く。それは、吉良の身代わりの綱豊卿で、助右衛門の知慮のなさを叱責する。大石は自分の手で浅野家再興を差出し、自分の手から仇討という大義名分を逃してしまうかもしれない立場にある。その苦しみは如何ばかりか。そこに至る道を考えろ。そこに至る事が大事なのだ。橋之助さんは能装束姿の美しさと、台詞により仇討への過程の美しさをきちんと押し出して絞めてくれた。演じるにしたがい、大きさは加わっていくであろう。

『不知火検校』、悪がどんどん増幅されていき面白かった。河内山宗俊よりも非情で、不知火検校からすればお数寄屋坊主の河内山などはお人よしの悪人なのかもしれない。魚売りの富五郎は自分の子が生まれるための金欲しさから、親元に帰る途中の按摩を殺しお金を手に入れる。ところが、生まれてきた子は目が見えなかった。この子は不知火検校という盲人の最高位の所に弟子入りし富の市と名乗り一人前の按摩となる。小さいころから手癖も悪く、悪巧みにたけている。まるで悪のツボを心得ているように、そのツボを確実に一針うち悪を成功させていく。相手が騙されたと思った時にはすでに手の出しようがないのである。その辺りを松本幸四郎さんは富の市や自分の師匠を殺し二代目不知火検校になるまでの一針を手もとを狂わせることなく、時としては嬉々として、非情に成し遂げていく。その成し遂げる過程が、最後花道で一般庶民は検校に嘲られるが、嘲られるのが当たり前なくらい、ただただ、えっ、そうなるわけとあっけにとられるのである。

台詞の中に、熊谷宿の場面では、生首の次郎に呼び止められると、呼び止められた敦盛ではあるまいになどと、敦盛と熊谷直実の場面を引き合いに出したり、歌舞伎座での演目『新薄雪物語』や、常盤御前に例えたりとチラリチラリと台詞に色を添えてくれる。歌舞伎独特の江戸の悪の華、堪能しました。富の市や不知火検校に接するとき、相手は、どこか自分のほうが優位に居ると思っているところがあり、そこが、ねらい目でもあるわけである。油断をさせて置いて、全ては自分の手の内である。ただ、不知火検校の悪の大きさに恐れをなした小者が、不知火検校の弁慶の泣きどころであった。

 

『太鼓たたいて笛ふいて』(the座 第48号)

太鼓たたいて笛ふいて』のパンフレットは、こまつ座の出している2002年7月の「the座 第48号」である。このお芝居は何回か上演されているので、その度に違う資料なども載せているようである。「the座 第48号」には、演劇評論家の大笹吉雄さんが連載で「女優二代 鈴木光枝と佐々木愛 第13回」も載せている。

劇団文化座の代表として係ってきた鈴木光枝さんと佐々木愛さん親子の歩みを書き記しているらしい。この第13回は火野葦平さんの『ちぎられた縄』を文化座の創立15周年記念公演で上演した事から書き始められている。『太鼓たたいて笛ふいて』の舞台を見たとき、この大笹さんの連載は素通りしていた。NHKスペシャル『従軍作家達の戦争』で火野葦平さんのことを知らなければ、永井荷風展に行かなければ見返すこともなかったであろう。

『ちぎられた縄』は火野葦平さんの二作目の戯曲で、沖縄がまだ米軍の占領下にあった頃で、火野さんの弟さんが沖縄線で戦死しているため強い関心があり、沖縄の文化を取り入れた戯曲を書いたようである。この芝居は大変評判を呼び、文化座の旗揚げにカンパした花柳章太郎さんも補助席でみたという。鈴木光枝さんは新派の井上正夫さんに弟子入りしている。

『ちぎられた縄』は本土の作家が初めて沖縄のことを取り上げた戯曲で意欲作であったが、大笹さんは、作者の“二度と戦争があってはならない”のテーマが明確に打ち出されていないのと、人物の描き方に突っ込み足りぬところがあって惜しいとされている。しかし、この芝居の好評判で文化座は経済的に助かったらしい。

今は沖縄に「国立劇場おきなわ」もあり、東京の「国立劇場」でも琉球舞踏は見ることが出来るが、芝居の中に琉球舞踏がでてきたのは火野さんの戯曲が初めてなのかもしれなし、沖縄文化というものを考えさせる作品でもあったのであろう。

時代の中で自分の小説のテーマを庶民の生活の中に模索しつつ突き進んでいた火野さんは、死者たちはまだまだ語りたいことがあるのだと伝えに来たような気がする。

井上ひさし 『太鼓たたいて笛ふいて』

太鼓たたいて笛ふいて』は林芙美子さんの評伝劇である。井上さんの評伝劇は、資料を調べるだけ調べて、そこから井上さんの思いを込めて人物像を造形していく。

林芙美子さんに関しては、母と養父の行商について歩く貧しい少女時代。本に夢中となり、職を転々として詩や小説の創作に打ち込む時代。長谷川時雨主宰「女人芸術」に発表した『放浪記』がベストセラーとなり流行作家となった時代。日中戦争が始まり戦争従軍記者として活躍する時代。戦後一転して戦争が引き起こす女性の悲劇を描いた林芙美子さん。その林さんを生活する庶民と文学者の境界を造る事無く走り続けた小説家として肯定し、そこから見えてくる、物書きとしての矛盾をも映し出す井上戯曲。歌を挿入することによって、攻撃性を弱めたり、雰囲気を明るくしたり、理論性で疲れる脳を休めてくれ、新たな問題点、思考すべき事がないのかなどを提示してくれる。

この芝居の中の林芙美子と一緒に林芙美子を探している。戦争従軍記者として戦地におもむいた作家は日中戦争前からいた。あの正岡子規さんも新聞記者として従軍しその報告を書いている。林さんは、東京日日新聞(毎日新聞)の従軍記者として、南京に一番乗りし、女性で一番乗りということもあって脚光を浴びる。そして、火野葦平さんの芥川賞受賞が内閣情報部の目に止まり、作家達による「ペン部隊」がつくられ、林さんはその一員として漢口に行き、またまた一番乗りとなり、一段と名を売るのである。日本へ帰ってからも、現地の様子を知りたい残されている家族は、林さんの講演会に殺到する。内閣情報部は見せたいものと、見せたくないものはコントロールしているので、その中で動いた林さんの見たものは、戦場の全貌では無かったであろう事は想像できる。内閣情報部の狙った通り、作家の戦場と銃後をつなぐ一体感は上手くいくのである。戦後そのことに気付いた林さんは、戦争で傷ついた女性たちを題材として小説を書くのである。

『太鼓たたいて笛ふいて』には、驚くべき人が登場する。それは、島崎藤村さんの『新生』で書かれた藤村さんの姪御さんの島崎こま子さんである。芝居は芙美子さんの家で、そこに芙美子さんのお母さん、レコード会社の人、昔の行商隊の人などに交じって島崎こま子さんも登場するのである。これには芝居を観ていて驚ろいた。帰りに慌ててパンフレットを購入する。それによると、こま子さんは藤村さんと別れ結婚もするが、幼い娘を抱え、貧しさと過労から倒れ養育院に収容され、林さんはこま子さんを訪ねる。そして、そのことを「婦人公論」に手記として発表していたのである。

「女の新生 島崎藤村氏の姪荊棘の道を行くこま子さんを訪ひて」  <「新生」と云う作品は岸本と云う男の主人公の新生であり、そうしてまた藤村氏自身の新生でもあって、作中の不幸な女性節子さんの新生ではあり得なかったのだと思います。>

芝居では、こま子さんが突然林さんを訪ねてくる。彼女は貧しい子供たちの託児園の仕事をしていて、「新生」の中では言えなかった事を語る。

小説の中ではない現実のこま子さんと芝居の中のこま子さんを知りそして観ると、小説のこま子さんは藤村さんに作られたこま子さんであるという視点に立つ。

『新生』  「節子の残して置いて行った秋海棠の根が塀の側に埋めてあった。『遠き門出の記念として君が御手にまゐらす。朝夕培(つちかい)ひしこの草に憩ふ思いを汲ませたまふや。』」(岸本はこの節子の言葉が気になり、引っ越しで慌ただしく植えたのが気になる。その根は土の中かから転がって出ていた。二人の子供と一緒に植え直す。)「こういふ子供を相手に、岸本はその根を深く埋め直して、やがてやって来る霜にもいたまないようにした。節子はもう岸本の内部にいるばかりでなく、庭の土の中にも居た。」

この前に節子の手紙もあり、そこからの流れは、節子も<新生>を成し得たように読者は思わせられる。林さんは、そこのところを突いているのである。井上さんは藤村さんに異議ありとした林さんの一本気なとこと、それが、<太鼓たたいて笛をふく>ことにもなる全ての林さんを芝居にしている。林さんを見ると同時に自分を肯定しなくては生きていけない人間の強さと弱さの表裏一体を見るのである。

それは大文豪にも言える事である。しかし、『新生』は書く必要があったのであろうか。物書きの<業>であろうか。

永井荷風・森鴎外・井上ひさし・林芙美子・火野葦平~

どんどん繋がっていくのであるが、北九州市の文学サークルの活動も歴史がある。

驚いた事が幾つかあった。、北九州市立文学館の第9回特別企画展のチラシに 『いつもそばには本と映画があった』 とあり、ウラに <あなたは「読んでから観る」派?「観てから読む派」?> とある。2011年(平成23)4月23日~6月19日であるから、今年5月から7月にかけて開催した東京芸大美術館『夏目漱石の美術世界展』の <みてからよむ> に先駆けて既に使われている。東京芸大美術館のほうが二番煎じのようで後味が悪い。

2010年(平成22)1月~4月にかけては 『筑前のおかみさんの東路をゆくー田辺聖子「姥ざかり花の旅路」と小田宅子 「東路日記」-』 を開催。この旅は天保12年(1841年)のことで、この小田宅子さんは俳優高倉健さんの祖先にあたるという。歌仲間の桑原久子さんと連れ立って赤間関(現・下関市)から伊勢詣でに出かけ、伊勢・善光寺・日光・江戸をめぐり旅からもどって10年かけて『東路日記』を書きあげたのである。小田宅子さんも日光街道杉並木を歩いたのである。その時同時開催として 『2010年収蔵展 火野葦平の没後50年』 があったがその詳しいことはチラシからは残念ながら分からない。

火野葦平さんの旧住居は北九州市指定文化財になっている。そのしおりによると <史跡、火野葦平旧居「河伯洞(かはくどう)」河童をこよなく愛したことから名付けた。><「河伯洞」は父、玉井金五郎が息子、葦平のためにとその印税によって建てたものです。葦平は、戦地での戦友達の苦労への思いから、後々もこのことを負担に感じていたといいます。>

火野さんは若いころ同人誌「第二期九州文学」を創刊しその時の参加仲間に、小説『富島松五郎伝』で直木賞候補になった岩下俊作さんがいる。この作品が映画「無法松の一生』の原作である。この映画も検閲でカットされたシーンがあり、稲垣浩監督は伊丹万作のシナリオの原型を残すべく再度映画にする。それがベニス映画祭で金獅子賞をとる。

松本清張さんは、森鴎外さんが小倉にいたころ書いた『小倉日記』をもとに小説『ある「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。そのお祝いの言葉を、火野さんと岩下さんが送っているが、火野さんの言葉は強烈である。

「芥川賞に殺されないようにしていただきたい」(昭和26年・1月)

林芙美子さんは下関市生まれで、幼いころから母と義父とともに、九州を行商して歩いている。『太鼓たたいて笛ふいて』には「行商隊の唄」も歌われる。

どうもどうも ご町内の皆さま こんちわこんちわ 行商隊です

 

『永井荷風展』 (3)

今回の図録には、平成16年の井上ひさしさんの講演の抄録も載っていた。どうやら私の聞いた講演である。9年前になるのだ。私の記憶違いが判明した。

「私の見た荷風先生」(井上ひさし)。私が書いた 【一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいと】 は実際は次のようになる。

井上さんが一度目に荷風先生を見た時のこと。やくざを追い払う役もしていて、<ある日スーと背中に気配を感じて「またやくざかな」と思って見たら、なんとそれが荷風先生でした。体が震えました。それはすぐわかりますから。ちょうど一本歯が欠けていました。><先生に会ったというので、私はもうれしくて、その晩はそれで終わりました。>

二回目は<荷風先生に憧れていた文学青年としては手厚く、といってもイスをすすめただけですが、もてなしました。> その頃、谷さん、渥美さん、関さんの芝居は鉄砲が出る乱暴な芝居で、その音を出すため、舞台の袖の先で引き弾を引く役もしていて、荷風先生のお気に入りの踊り子さんの時もその役目があった。荷風先生の座った位置がその近くで音がうるさいので、先生のイスを移動させようとするが先生は気が付かないで熱心に舞台を見ている。しかたがないのでひもを引いたら、先生がイスから転げ落ちてしまった。<人間国宝みたいな人をイスから転げ落として申し訳なくて助け起こしました。そうしたら先生、何でもなく、にこっと笑ったときのその歯の汚かったこと(笑)。> 三回目はなかった。でもこの事があったからこそ、井上さんは荷風さんの住んだ市川に、一時住むことになるのである。

【一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいと】 それにしても随分創作したものである。【荷風さんとは、一度だけ口をきいたことがある。引き弾の役目をしていて、荷風さんをイスから転げ落としたことがある】である。いい加減なものである。図録を買ってきてよかった。

荷風さんの事から井上さんの舞台『太鼓たたいて笛ふいて』、林芙美子さんの評伝劇の話に移りたい。それは、火野葦平さんとも関係することである。

市川市文学ミュージアムの上階は資料室になっており、そこに市川市ゆかりの文学者の資料がまとめられている。さらに、地方の文学活動のチラシや図録もあり、そこで、北九州市立文学館の資料もあった。