ぶらりぶらり『日本橋』

地下鉄駅を出ると凄い人だかり。何があるのか。箱根駅伝の通る時間だった。それにしても歩道に何層もの人垣である。日本橋の麒麟も心なしか大人しく見える。走者が通ったようだが人の頭が歓声とともに左から右に動いただけ。今度はチラッと見えた。速い。待ちもしないでその時間に居合わせるとは縁起の良い年と成るかも。応援しつつ地下鉄の通路を潜り三越側へ渡る。遠くなるが走者の全身が見える。無駄な脂肪の無い身体なので驚く程細い。誰彼関係なく拍手して応援してしまう。消耗していそうな走者には声をかけたくなる。沿道に人も少ないなと思ったら<一石橋>だった。

栄螺(さざえ)や蛤(はまぐり)を放してやる風情は何処にもない。日本橋の方を見るともう一本橋がある。そこまで戻ると<西河岸橋>とある。日本橋から一石橋までの八重洲側を西河岸、三越側を裏河岸と呼ばれていた。この辺りの日本橋川の両岸は蔵が並んでいたのであろう。

一石橋八重洲側のビルの間に日本橋西河岸地蔵寺教会がある。中には入れないが外からガラス越しに左手に《お千世》の額がぼんやり見える。花柳さんの文によると<深とした静かな雪の夜。小さい御堂に揺らぐ燈明の灯りのかすかな光り、鼻をかすめてゆく線香のにほひ、色あせた紅白の布を振るとガンガンと音を立てる鰐口をならしてお千世の成功を祈った>とあるが、この<ガンガンと音を立てる鰐口>これはその通りで御堂の小ぶりに対して音の大きさに驚いた。このお寺の絵馬が雪岱さんの描かれた<お千世>の顔であった。

 

 

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案内の文には<板絵着色 お千世の図額 大正4年(1915)3月本郷座で初演 当時21歳無名であった花柳章太郎はお千世の役を熱望し、劇と縁の深い河岸地蔵堂に祈願した。この劇でお千世役に起用されて好演。これが出世作となる。2度目のお千世役 昭和13年の明治座のさい奉納。>とあり、花柳さんの文章とは少しことなる。役をもらう前か後か。どちらもとしておくことにする。

雪岱さんは此のことに対し鏡花先生と結びつけ次のように書いている。<実際日本橋檜物町数奇屋町西河岸あたりは先生に実にお馴染みの深い土地でありました。><先生御信心の西河岸の地蔵様には先年花柳章太郎氏の奉納されました「初蝶の舞ひ舞ひ拝す御堂かな」の句を御書きになりました額が掲げられてをりまして、>とあり、その額の絵を自分が描いたとは一言も書かれてないのである。前面に自分が出ると云う事がなく、それは舞台装置などの仕事に対する姿勢とつながっている。しかししっかり物事の内を知っている。龍泉寺町や入谷に対し<木遣りをやりながら、棟梁の家へ帰るのを見ますと、極めて勢のよいものでありながら、何となく寂しいものでありました。>木遣りを寂しく思わせる空気。雪岱さんは、「日本橋」が書かれた時代に日本橋檜物町に住んでいる。歌吉心中のあった家である。周りの人は気味悪がるが彼は、気にかけない。そういうことも起こりうる町と感じているのであろう。そのあたりが、受け入れて浄化する鏡花世界とぴったり合ったのかもしれない。

ただ現実の町にはその姿は全くない。ゴジラに踏み潰してもっらって、ドラえもんのポッケトからかつての町を取り出し再現してもらいたいがそうもいかないので、ただ雪を降らせたり、駒げたの音を作ったりしてぶらぶらするだけである。そこからも一本八重洲側の通りには竹久夢二が開いた<港屋>の碑がある。

 

 

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一石橋にまたもどり、<一石橋迷子しらせ石碑>の前を通り常盤橋、新常盤橋と歩き神田駅から電車に乗った。日本橋川、神田川を船でめぐり、その後、川をなぞって歩くのもありかなと考える。仲間に提案して考えてもらおう。

「小村雪岱」( 星川清司著)の本もあるらしい。はっきりした舞台装置と映画の美術が知りたいものである。

 

<日本橋> →  2013年1月7日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

続・続 『日本橋』

「やがてお千世が着るやうに成ったのを、後にお孝が気が狂つてから、ふと下に着て舞扇を弄んだ、稲葉家の二階の欄干(てすり)に青柳の絲とともに乱れた、縺(もつ)るゝ玉の緒の可哀(あわれ)を曳く、燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子は、此の時見立てたのである事を、一寸比處で云って置きたい。」の小説「日本橋」から、市川崑監督の映画『日本橋』の一場面を思い出した。

清葉(山本富士子)が、お孝(淡島千景)の病を知り見舞いのため稲葉家への路地を歩いていく。この家かしらと二階を見上げると二階の窓から舞扇が空に飛び上がるのを見る。二階では寝ているお孝が<燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子>の襦袢を着て何回となく舞扇を空に飛ばしては堕ちてくるのを受け取っている。それがふわっと窓から飛んで清葉の腕の中に落ちる。清葉はそれを抱きかかえる。お孝は二階の欄干から姿を現し清葉を見下ろすが清葉の事はわからず視線をそらす。

この舞扇を天井に向かって投げ上げ受け取るシーンは実際に淡島さんがされてたそうで、舞扇が上がると舞扇だけをカメラが捉えるのだから他の人が飛ばしてそこを撮れなくもないが一生懸命自分で投げては受け取っていたとインタビューで語られている。この時代の役者さんは皆努力の塊である。

花柳さんに描いて贈った小村雪岱三さんの《お千世》はこの<燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子>の襦袢を愛しげに抱きかかえている。この絵は今、日本橋西河岸地蔵寺教会にある。

お千世の役をもっらた花柳さんは稽古が終わった雪の日<重い高下駄を引ずって、西河岸の延命地蔵や一石橋や、歌吉心中のあった路次口を探し、すつかり鏡花作中の人物気取りで歩きまはつたものです。><再び、延命地蔵尊に詣つた私は「何とかして此のお千世の役の成功を希ひ、早く一人前の役者になれます様に・・・」願をかけたのです。>(大正4年本郷座初演)

昭和13年明治座での『日本橋』の再演。花柳さんは再びお千世役。<祈願の叶う嬉しさ>に花柳さんは約束していた雪岱さんの絵を奉納する事を思い立つ。雪岱さんは快く引き受けられ《お千世》の額は無事納められた。その後泉鏡花さんが此の額に 《初蝶のまひまひ拝す御堂かな》 の句を添えられ、花柳さんも 《桃割に結ひて貰ひし春日かな》 一句添えられた。

やはりたとえ様変わりしていてもふらふらその辺りを歩きたくなるものである。

 

<日本橋> →  2013年1月5日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

続 『日本橋』

昭和62年新橋演舞場の舞台『日本橋』の録画を見直した。今回の『日本橋』は玉三郎さんの鏡花の世界の『日本橋』で、昭和62年の『日本橋』は新派の『日本橋』で新派が受け継いできた芸の継承である。後半に入ってどうも繋がりが悪く感じていたのは、見返してみて納得できた。

この録画は平成4年のNHK・BSの新春スペシャル番組で玉三郎さんの芸を長時間に及んで放送したもので時間的関係から舞台が割愛されているためであった。其の事を踏まえても今回の『日本橋』の面白さは、新派の形を残しつつも、新たな世界を見せてくれた事である。

あらためて見直して仁左衛門さんの葛木は新派の芸に花を添えていた。伝吾との対決の場では迫力があり、最後に熊(伝吾)に投げつける台詞は鏡花の自然文学への切捨てをも含ませてきこえた。若い松田悟志さんを葛木に起用し、そこは玉三郎さん上手く鏡花の世界に取り込んだ。松田さんは玉三郎さんに言われたそうである。<頼むからダメだしを私にださせないで。恋人役にダメ出しなんてしたくないから>と。玉三郎さんらしい言い方である。

平成4年の録画の中で、篠山紀信さんと一緒の時、玉三郎さんは<篠山さんは話題づくりが上手いから>といわれた。話の内容から同じ解釈はできないが、昨年、篠山さんは写真展をされた時、木枯らしの吹く頃電車のホームから大きな山口百恵さんの海の浅瀬に水着の肢体を伸ばした写真が目に飛び込んできた。篠山紀信さんの写真展の案内板であった。こちらの肌の感触の寒さとその写真は物凄い温度さがあり、篠山さんはどうしてあの写真を選んだのだろう。私には宣伝効果が浮かび、そんな必要ないのにとちょっとムッとして見にいかなかった。素人と芸術家の感じ方の違いであろうが。

横道にそれたが、『日本橋』のお千世役の新人の齋藤菜月さんは雰囲気が役にぴったりである。お千世の着物が大正時代を善く現していて、柔らかくストンと下がりそれでいて体の動きを可愛らしく見せ、あれは齋藤さんの体の動きだけではなく布地の力もあったと思う。小村雪岱さんに言わせると装置とか衣装が自己主張してはいけないのだがやはりその力は大きいと思う。一石橋で清葉が裾から見せる麻の葉模様の白に近い空色と朱色の長襦袢、それをお孝はお千世に仕立てて稲葉家の二階で渡すのであるが、その長襦袢の事を鏡花は小説のほうで次のように表現している。(今回お孝がお千世に渡すこの場はなかった)

「やがてお千世が着るやうに成ったのを、後にお孝が気が狂つてから、ふと下に着て舞扇を弄んだ、稲葉家の二階の欄干(てすり)に青柳の絲とともに乱れた、縺(もつ)るゝ玉の緒の可哀(あわれ)を曳く、燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子は、此の時見立てたのである事を、一寸比處で云って置きたい。」

お千世は花柳章太郎さんの出世作となった役である。このお千世役を見て小村雪岱さんは『日本橋』のお千世の絵を花柳さんのために描くことを約束するのである。(「日本橋檜物町」の中の花柳章太郎の文<二つの形美>)

 

<日本橋> →   2013年1月4日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

予定外のテレビ番組

年末年始にかけてのテレビ番組、気がついたものは録画をセットしたのであるが、30日から予定外のテレビ番組を偶然にも途中から見る事となった。

30日。TBS「たけしが釣瓶に今年中に話しておきたい5~6個のこと~其の四」去年偶然にみて可笑しくて最後にたけしさんがチラッと落語の<野ざらし>をやってくれたのが抜群で、早一年たち忘れていたのが今年も見れた。来年、たけしさんは落語<お見立て>をやると宣言した。志ん朝さんの<お見立て>は聴くべきだとも。釣瓶さんは師匠・松鶴の話に変えた<かんしゃく>をやるそうで、カレンダーに印をしておかなければ。

31日はNHKBSプレミアムで高倉健さん特集。映画があるのは知っていたが、「プロフェショナル男の流儀」の密着取材があるのは知らなかった。健さんは撮らせないと思っていたので慌ててバタバタしつつもしっかり見た。健さんが任侠映画の自分を好きでないのが判ったように思えた。九州の炭鉱で生まれ育っていたのだ。人が命を失うような喧嘩を見ているのだ。それは義理とか人情とかとは別の次元なのであろう。だからこそ虚構の映画の世界ができるのであるが、健さんは簡単に折り合いをつけるタイプではないようである。それと、そういう男の世界からドーランを塗る世界に入ったことに屈折した思いがあるようだ。一番いやなのは自分の言ったこと、行動したことが凄い事として捉えられる事で、面映いようなのだ。スターになるとどうしても伝説は作られる。律儀な方で<高倉健>を演じられてしまうのかもしれない。そしてそういう自分がまたイヤだったりするのかも。などと余計な迷惑千万な事を感じてしまう。1日にテレビ朝日で特別篇の「徹子の部屋」を途中から見ていたら以前でた時の健さんが出られ、大学を卒業し実家に帰り、東京にいる女性のために家を飛び出したと言われてた。健さんが言うと絵になってしまう。それがまたいやなのでしょうが。今現在、これからも映画をやりたいといわれたので、観客は健さんの律儀さとは別のところで役者<高倉健>を楽しませてもらう。

「徹子の部屋」に嵐寛寿郎さんも出られ、7年丁稚奉公したと言われてた。仕事は朝5時から夜12時まで。そこの主人が亡くなったので辞め、お祖父さんが文楽の人形使いだったのでその関係から歌舞伎の世界に入り、同じ頃、長谷川一夫さん、市川右太衛門さんと三人がいつも腰元の<申し上げます>をやっていたと。映画に移ってすぐ「鞍馬天狗」でスターに。

最後は長谷川一夫さんで、どうして着物をゆとりを持たせて着るのか手を袖から抜いて襟元からだし色々な動作を説明してくれ、いかに体がそれを覚えてしまっているかを目の前で繰り広げてくれた。軍隊では、弟子として炊事・洗濯・掃除すべてやっていたので皆の好奇の目が好意にかわったと。三人の上官の名前をどうしても覚えられない人がいて節をつけて覚えるように教えたら、縄を50メートル作れと命令され困った時その人が上手で「これは長谷川のだよ」といって編んでくれてありがたかったと涙ぐまれた。

その前にBS・TBSで小三治さんの「死神」を聴くことができた。

日本橋から品川までのプチお徒歩(かち)の時、<芝浜>の場所が判ったので、志ん朝さん・談志さん・小三治さんの三師匠の<芝浜>を今年の聴き初めにと思ったが、小三治さんの「死神」からはじまった。三が日中には、「お見立て」「芝浜」を聴かなければ。「芝浜」はこのお三方のしか持っていないのである。

それにしても、予定外のテレビ番組に遭遇し時間を取られてしまった。録画だとついつい見るのが後に引きの伸ばしとなるので良かったのかもしれない。

 

 

 

 

腕に抱え込んだ継続 (小村雪岱)

沢山の遣り残しを抱えての年越し、そして、新年になりそうである。大河ドラマ『平清盛』は終わったけれど、自分の中での『平家物語』は続いているし、その他の事もまだまだ続きそうである。

泉鏡花の『日本橋』も、舞台や本の中身だけではなく本の装幀が水面下で続いていてここにきて顔をだしたのである。ある時、素敵なポストカードにめぐり合った。真ん中に日本橋・鏡花小史と書かれ、川を挟み両脇の河岸には倉が並び川には荷を運ぶ船が数多く行きかい、そこに赤・黄・薄墨色の蝶が多数飛び交っているのである。モダンな絵でこれが鏡花の『日本橋』の本の装幀とは思えなかった。気に入って購入し忘れていた。秋に「大正・昭和のグラフィックデザイン ~ 小村雪岱展」の広告を目にし<「大正・昭和のグラフィックデザイン>に引かれ見にいって驚いた。ポストカードの絵はやはり鏡花の『日本橋』の本の装丁で、この小村雪岱さんは『日本橋』が始めての装幀であり、ここから鏡花の多くの本の装幀をしているのである。

 

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さらに、挿絵、舞台装置、映画のセットなども手がけていた。年末近くに図書館で「日本橋檜物町」(小村雪岱著)が見つかり小躍りしてしまった。大正・昭和初期を匂わす文章力はすばらしい。遺した文章は多くはなく、この本は雪岱の死後、有志の計らいで出来た貴重な一冊とある。よく本にしてくれたと思う。

鏡花のことも書かれており<東海道膝栗毛は御自分でもいろ扱ひとまで言って居られ、枕元に2・3冊、旅行中も数冊入れていた>とあり意外であった。

幼くて父を亡くし小村さんは大変苦労されているが人物も草木を見る目も澄んでいる。川越で生まれ4歳で上京、5歳で父を失いそれまで住んでいた下谷根岸から祖父母と共に川越の叔父の家へ引き取られる。浅草の花川戸から荷物と共に船で途中一泊して川越へ越す。その時反対に田舎から東京に渡る船にぼんやり水面をみつめる女性について<今にも降り出しさうな曇空の下の滔々と濁った大川の水の上で、思ひがけなくも見かけた其の姿を、限りなく美しくも亦淋しく思った事でした。>川越に落ち着いてから<其処は旧城下の廓内で、菜種や桐の花が咲く夢の様な土地でしたが、船の中の女は時々思ひ出されて、その運命が儚く想像されるのでした。>と書かれている。

すでに母も失くし15歳で上京し、日本橋檜物町の安並氏の家に入り、このかたの厚意によって画道の修行に励めたようである。

歌舞伎の舞台も多く手がけ、戸板康二さんは、『一本刀土俵入』の取手宿我孫子屋の場について<菊五郎(六代目)の駒形茂兵衛の入神の技とともに、この場面がわすれられなかったと見え、長谷川(伸)氏は自宅の玄関に、その模型舞台を、置いていた。>とある。

舞台装置と映画のセットとの相違点、衣装、小道具などについても短い文の中に、説明文ではなく一つのエッセイとして書かれ、文を味わいつつ仕事ぶりを堪能できるという幸運に巡りあえた。その幸運を記しているうちに新しい年も迎え良き年となりそうである。

2012年締めの観劇 『日本橋』

2012年の最後の観劇が、日生劇場の『日本橋』になった。最後にしてまたもや良い芝居に巡りあえた。 録画で玉三郎さんと孝夫(仁左衛門)さんの『日本橋』も観た。他の方々のも観たが、どうも腑に落ちなかった。泉鏡花の世界はこれだけか。自然主義に挑戦してきた彼の花柳界を描いたものがこんなところに落ち着いていい訳が無い。小説を自ら戯曲にしたのであるから舞台の上で、芝居として表現してこそ自分の世界を現せると考えたのではないか。玉三郎さんにとって25年目の『日本橋』である。それまで演じられてきた足跡は確実に『日本橋』を鏡花の世界にした。

言葉は美しくさらに『日本橋』にも<異界>はあった。それは、葛木の姉の身代わりの人形の世界である。

稲葉家のお孝と葛木の出会う一石橋の場面がいい。もうここで鏡花の言葉と世界に操られる。雛祭りに供えた栄螺(さざえ)と蛤(はまぐり)を汐入りの川へ返してやる放生会、その事自体が粋である。葛木はそのため巡査の不審尋問にあう。お孝は、巡査に向かって、雛にあげて口を利いた生き物を蒸したり焼いたり出来ないと伝法に言い放つ。この辺の言葉からもうお孝の人物像ははっきりしている。

葛木は姉に似ている瀧の家の清葉に7年目にして打ち明けるが清葉は旦那があり葛木を受け入れない。お孝はその事を知っていて葛木に近づいたのである。お孝の中にはその時邪悪なものが在ったのかもしれないが、葛木にも観客にも見えない。見えないだけに五十嵐伝吾との事で後悔するお孝の苦しみが悲痛である。

葛木が清葉との事をお孝に話して聞かせるとき、回り舞台を使い清葉を登場させ、お孝を明かりの外に置く。これは、葛木が清葉との会話を全てお孝に誠実に話したことになり、また重要な姉のことがくっきりと浮かび上がる。葛木の姉は自分に学問をさせるため人の妾となり、絶対に自分と会おうとしない。葛木が学校を卒業すると姉は雛人形と姉に似た人形を残し姿を消してしまう。姉は弟に対し自分の現実の姿を見せようとはしない。姉が弟に残すのは<異界>の姉である。葛木は生身の姉を受け入れようとするが姉はそれを許さない。葛木は一層生身の姉を求める。ところが夫婦とも思ったお孝が伝吾をもてあそんだと知ったとき彼は、姉を捜す旅に出てしまう。

その事を告げられる前に葛木の研究室でお孝はお雛様の飾った横に姉に似た人形を抱かせてもらう。黒の羽織を脱ぎそれに包んで抱きたかったという。お孝はその人形で自分を浄化させたいと願っているようでもある。しかし<異界>の人形はそれを拒否する。

葛木が旅に出てからお孝は気がふれてしまう。伝吾はお孝と間違いお千世を殺してしまう。正気にもどったお孝は、伝吾を殺し硝酸を飲み、戻っていった葛木の腕の中で、清葉に葛木の事を託すのである。この時思ったのは、お孝は葛木が望んでも入る事の出来ない<異界>から清葉に預けることで切り離し、自分が<異界>に入ったなと感じた。人形はそれを許したのである。それが私の『日本橋』の鏡花の世界観である。

出て来る市井の人々も生き生きとしている。もっと人間の交差は入り組んでいる。その中で必要な部分は浮かび上がらせる。とにかくお孝さんも清葉さんも着物の着付け方、左つまの位置、立ち姿、動きかた、美しい。ため息がでる。清葉の帯指した笛の包みの薄いブルーも美しい。彼女は笛の名手なのだがそれを使うこともなくなっている。お孝が最後清葉の笛の音の中で死出に旅立つが、それは、芸に生きてねとも伝えているようである。

一つだけ残念だったのは、路地を舞台装置として作れなかったことである。葛木が日本橋に戻ったとき背景の絵に屋根を描きその雰囲気を出そうとしていたが、金沢の鏡花の住んだ町からしても路地が欲しかった。残念である。

作・泉鏡花/演出・齋藤雅文・坂東玉三郎/ 稲葉家お孝(坂東玉三郎)・滝の家清葉(高橋恵子)・葛木晋三(松田悟志)・五十嵐伝吾(永島敏行)・お千世(齋藤菜月)・巡査(藤堂新二)・植木屋(江原真二郎)

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<日本橋> →  2013年1月3日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

《満天姫》の周辺と大滝秀治さんの事など

舞台『満天の桜』の脚本家・畑澤聖悟さんは、民藝への書き下ろしはこれが二作目で、一作目『カミサマの恋』では、奈良岡朋子さんが津軽弁で演じられたので観たかったのであるが残念ながら時間が取れなかった。奈良岡さんは女学生時代弘前に疎開されてて、きちんとした津軽弁であったようだ。

畑澤さんは青森県立青森中央高校の演劇部顧問でもあり震災の被災地からの転校生を巡る作品『もしイタ~もし高校野球のマネージャーが「イタコ」を呼んだら』をつくり、第58回全国高等学校演劇大会で最優秀賞を受賞している。被災各地を部員とともに無償で上演してもいるらしい。

満天姫に関しては、歴史小説「満天姫伝」(高橋銀次郎著)があり、ネットで「満天姫旅日記」を検索すると、作者の取材の旅を辿ることができる。チラッとのぞかせてもらったが思いがけない地にも満天姫の足跡があるようで再度ゆっくり読ませてもらう。

劇団民藝の長老・大滝秀治さんが役者人生を全うされた。最後に観た『巨匠』の最後まで俳優を貫いた役と重なる。ありがたい事に『浅草物語』『喜劇の殿さん』『座漁莊の人びと』なども観させてもらった。思うに、三演目とも小幡欣治さんの脚本で奈良岡朋子さんとの競演である。

『浅草物語』では、吉原の花魁あがりの20歳年下の奈良岡さんに惚れて結婚を考える大滝さん。結婚などさらさら考えていないさっぱりの奈良岡さんに対し、ルンルンの大滝さんが可笑しかった。『喜劇の殿さん』は喜劇役者ロッパさんの話。一世を風靡したロッパ(大滝)さんも晩年は日のあたらない場所に。ミヤコ蝶々(奈良岡)さんが、自分の劇団に招くが演技になら無い。楽屋でこれだけをしてくれればいいからと指導するがそれも覚束なくなっていた。『座漁莊の人びと』では西園寺公望(大滝)の別荘・座漁莊にもと奉公していた新橋の芸者・片品つる(奈良岡)が執事に懇願され女中頭として7人の女中を束ねていく。これは西園寺公望さんがどういう方かよくわからないので困ったが、つるさんが西園寺さんの為に女中さんたちをまとめていくところは面白かった。西園寺さんは偉い方でも、日常的にはつるさんに任せるしかない。何か奈良岡さんがいつも大滝さんをしっかり支える役で、それがお二人の演技に合っていて、その兼ね合いをいつも楽しませてもらっていたような気がする。その掛け合いがもう観られないのは淋しいことである。合掌。

 

 

 

三越劇場 『満天の桜』

劇団民藝の公演である。津軽藩主二代目の時代の物語である。頼朝の鎌倉幕府は始めての武家政治で、戦って勝った者に土地を与えると云う事で統治していった。非常にわかりやす、力ある者が得るという世界である。徳川になってからは、もう戦って勝った者に土地を与える土地がない。ある土地を上手くまわすだけである。

お家騒動があればそれを理由にお取りつぶしとなり、継ぐ跡取りがいなければこれもお取りつぶしとなり、誰かに与えたりする。そんな時代である。芸洲、福島正則の養嗣子(ようしし・跡を継ぐ養子)正之に家康は姪の満天姫(まてんひめ)を養女とし、嫁がせる。満天姫は直秀をもうけるが、夫・正之は幽閉され獄死する。その後満天姫は実子の直秀を弟とし、津軽藩二代目藩主・津軽信枚に再嫁する。これも家康の北を統治する策略である。

信枚には石田三成の娘との間にもうけた信義がおり、満天姫は自分の子を津軽藩家老の養子とし信義を津軽家嫡男として育て夫亡き後は信義を三代目藩主とする。満天姫は葉縦院と名乗り津軽藩のために尽力するが、実子・直秀が福島家再興を言い出す。そんなことをお上に申し出れば津軽藩はお取りつぶしであり、直秀の命もなくなる。

満天姫の幼い頃から仕えた女中頭・松島は、家康近くに仕える南光坊天海が訪ねて来た事に重大さを察し、天海と話し合う。ここがこの芝居の一番のかなめである。直秀の命と引きかえにしか津軽藩と天下泰平は守れない。松島(奈良岡朋子)と南光坊天海(伊藤孝雄)の会談は緊迫感があり、どうしてもそうせざるおえないと納得させる空気に充ちている。

直秀の中には、母を姉としか呼べず、家老の養子である屈折から死をかけても主張しようとする何かが渦巻いているようである。静かにしていれば平穏に暮らせるという母の願いも聞き入れない。

ついに決断しなければならなくなる。直秀が桜が好きと思い松島は苦労して桜をやっと一本、十数年かけて花を咲かせる。直秀は桜を好きだと言ったのは姉(母)だと話す。松島は結果的に満天姫のために桜を育てていたのである。直秀亡き後満天姫は松島と口をきいてくれず、亡くなる。松島は城を去り、ひたすら城内に桜を植え続ける。

舞台は桜を植える年老いた松島の姿で始まりそして終わる。泰平の世になっても時代に翻弄される人々の物語である。子の命のみを考え生きてきたのにそれが叶わず、主人の安泰のみを考えていたのに深い溝を作ってしまう悲しさ。大義名分では埋め尽くせぬ悲しみである。桜のみがその心を知っている。

 

日本橋から品川宿 (2)

寄り道はせずひたすら道のみを歩くことに決めた。暖房はあったが屋根なしの船だった為か、体が冷えていたので歩くには好都合であった。

日本橋から京橋に向かう。京橋には<京橋大根河岸青物市場跡の碑><江戸歌舞伎発祥の地の碑>がある。中村座のあったところで座元は初代中村勘三郎である。1624年であるから約390年前から中村屋は続いている。勘九郎さん、七之助さんのこれからの責務は大きいのである。

銀座に入ると歩行者天国になっていて道の真ん中を歩いたため碑などは無視となってしまった。銀座4丁目を進み銀座と新橋の間に<銀座の柳の碑>。西條八十作詞・中山晋平作曲の「銀座の柳」の詞と楽譜が。

新橋から浜松町へ。左手には浜離宮庭園が位置する。浅草から水上バスで行ったことがある。そして同じ方向JR浜松駅の東京湾寄りには旧芝離宮恩賜庭園であるがまだ行っていない。一度は行きたい点である。右手奥には増上寺、芝公園、東京タワーであるが、この点は行っている。ビルの間からチラッと東京タワーが見えた。とにかく線を目指しているので第一京浜を歩く。地下鉄「三田駅」のそばに<勝海舟・西郷隆盛会見の地の碑>がある。西郷隆盛は西郷南洲となっていて、西郷吉之助書とある。いつ書いたのか気になるが軽く流す。この会見で江戸は火の海から救われるのである。当時この辺は裏がすぐ海で月の美しい風光明媚なところだったようで落語の「芝浜」の舞台もこの辺りらしい。札の辻の歩道橋をわたると<港区の花あじさい>とあり、さら進むと<港区の花バラ>とある。引き返して<港区の花あじさい>を再度たしかめる。港区の花は二つなのであろうか。軽く、軽く。

どうも街歩きらしきご婦人が階段を上がってくる。「街歩きですか。」と尋ねると「泉岳寺から来ました」と。泉岳寺が近いのか。仲間たちは泉岳寺に寄ったようだがその点も行っているので前進。楽勝、品川。考えが甘かったのであるが。

品川駅の前を通り、いつか原美術館を捜すのに手間取ったことを思い出す。いよいよ東海道品川宿である。入り口の案内板を見ると最終に<鈴ケ森刑場跡>とある。ここだったのか。

勘三郎さんの最後に観た舞台が2月の新橋演舞場の「六代目中村勘九郎襲名披露」である。「御存知鈴ケ森」の白井権八。美しかった。綺麗な形で、勘三郎さんがもどってきてくれたと安堵したのに。「土蜘(つちぐも)」では勘三郎さん、仁左衛門さん、吉右衛門さんが番卒で豪華に脇をかためられていた。西郷隆盛の名前を目にすると「西郷と豚姫」の勘三郎さんの豚姫を思い出す。純情で初めて恋をして思いつめて、それでいながら自分を励まして周りに可笑しさ振りまいて。舞台場面を思い出していたら止まることがない。役者18代目中村勘三郎さんを忘れることはない。

ではゆっくりと北品川商店街を楽しむ。途中、古本屋さんに寄ってご当地のマップを買う。小さい本屋だがその狭さにきちんと迷路のような本の積み上げ方。いかにして多くの本を狭い中に並べるか考えに考え抜かれたのであろう。眺めたいのを帰りにしますと伝える。

足の裏に痛みがきて品川橋まで永く感じられる。マップを開くと3分の1位来ている。まずは鈴ケ森まで行き帰りにゆっくり歩こうと足を速める。青物横丁商店街鮫洲商店街。かなりある。横路地には沢山の神社やお寺があるようだが横目で見過ごす。突然、<龍馬通り>の道しるべ、坂本龍馬像ありのお知らせの路地。どうやら京浜急行の「立会川駅」までの横路にあるらしい。そして浜川橋(なみだ橋)。鈴ケ森の刑場に引かれる罪人と縁者が涙ながらに別れた橋とある。そこから7、8分、やっと目的地鈴ケ森刑場跡に到着。旧東海道と第一京浜(国道15)がぶつかるところの角で陰惨さはない。道にあまりにも近いので旅人もお仕置きがあれば遠くからでもわかったことであろう。旅の途中では遭遇したくないものである。

龍馬さんとこの町の関係は知りたいので京急の「立会川駅」までもどる。途中の公園に龍馬の像がある。立会川河口の浜川砲台に、龍馬は黒船来襲の警備に通ったのである。そうであったか。やっと電車に乗れる。古本屋さんの事はもう頭になかった。

帰ってきてからマップを見ると、驚く事実もあった。あの映画「ゴジラ」でゴジラの第一歩が品川宿入口のそばにある八ツ山陸橋である。数日前ドキュメント『イノさんのトランク~黒澤明と本多猪四郎の知られざる絆』を見ていたので親近感がわく。ここにゴジラは上陸したのか。ジョージ秋山さんのマンガ「浮浪雲」の舞台が江戸時代のここにしている。土佐藩主最後の山内容堂のお墓もある。日蓮の直弟子・天目上人が開祖した天妙國寺には、切られ与三郎とお富、剣豪・伊藤一刀斎、浪曲の桃中軒雲右衛門、新内の鶴賀新内等が眠っている。ゼームス坂の近くには高村智恵子終焉の地でゼームス坂病院があった場所に<レモンの碑>がある。

恐るべし品川宿。今度は点としてもう一度訪ねたい。

 続き 】   その後、京急大森海岸駅から続きを歩いたので鈴ケ森の刑場跡から多摩川までの写真を載せます。

磐井神社

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鈴石による鈴ケ森の由来

梅屋敷

里程標

旧東海道・川崎宿から神奈川宿 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

日本橋から品川宿 (1)

東海道を歩くという仲間がいて1回目、日本橋から品川辺りまでと誘いを受けたが、体の故障でいけなかった。そのため一人で実行に移すことにする。三越劇場へ民藝の「満天の桜」を観に行ったとき、日本橋から墨田川周遊30分コースがあるのを知ったので、それを組み込むことにする。

日本橋魚市場発祥地碑>があり解説板によると、佃島から将軍家、旗本に魚が届けられ、その残りを庶民用にさばくためここに魚市場が開かれたのが始まりだそうだ。

佃島は、江戸時代初期に摂津国佃村(大阪市)の漁師たちによって開かれたところで、将軍に毎年白魚を献上しており、かがり火を焚いての白魚漁は江戸の風物詩だったようです。                                                     と記したが、佃島の漁師たちは家康が連れて来たとの話もあり、佃島は将軍家の魚市場だったわけである。としますと、大久保彦左衛門は庶民用の一番善い魚を一心太助に届けてもらったことになる。

【 日本橋クルーズ 】

日本橋の昨年出来たという日本橋桟橋から船は出る。その桟橋には<双十郎河岸>と西の坂田藤十郎さんと東の市川團十郎さんの名前に因んで河岸名が付けられた。海に続いているので満ち潮もあり船は屋根が無い。一度<日本橋>を潜る。橋げたが低いので下を通るというより潜る感じで橋の作りが肌に伝わる。Uターンしてもう一度<日本橋>。東野圭吾さんの推理小説「麒麟の翼」でこの橋の麒麟は再度注目された。表紙の写真に釣られ読んでしまった。ライオンの方は橋に32個あり川下から見えるものもあった。

上は高速道路である。それも愉しみの景観の一つと加えなければ気が滅入る。<江戸橋><鎧橋><茅場橋>右手には日本橋水門がある。<湊橋>ここで高速道路が消え空が顔をだす。ゆりかもめが飛んだり水面に浮かんでいたり。ゆりかもめは冬鳥で春には寒い所へ渡ってしまうらしい。船長の“生”コースガイドの声がなかなか良い。<豊海橋>を通ると日本橋川は墨田川に出る。急に揺れが大きくなる。<墨田川大橋>先には<清洲橋>が見え、その先にスカイツリーが姿をあらわす。<清洲橋>は国の重要文化財になってる。

[8月23日[深川本所の灯り(3)]2012年8月23日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)で、「万年橋を渡り川岸へ降りるとスカイブルーの清洲橋が見える。とても美しい橋で後ろの高層ビル群の前に<われここにあり>と横たえている。ドイツ・ケルン市にあったライン川にかかる大橋をモデルに造られたそうだ。」と記したが、反対側から見た時のほうが美しかった。見る方角、光の加減で橋の姿は変わるものである。

Uターンして<永代橋>へ。この橋も国の重要文化財である。国の重要文化財の橋はもう一つあって<勝鬨橋>である。<永代橋>を通ると先には<中央大橋>が、そばに大川端リバーシティー21のマンション群が林立する。再びUターンして日本橋川に入り日本橋へと向かう。

時間があれば<日本橋川・神田川めぐり>や<浅草・日本橋めぐり>もある。今回はミニクルーズであったが楽しめた。帰りにもとあった川を埋め立てて出来た高速道路がビルの間からでている景観も説明され、子供のころ雑誌にのっていた未来の生活の絵のようだと思った。絵の方は夢があったが、現実はいささか老朽化していた。違う角度から見るのも良いものである。橋は様々な形をしている。作る時にはいろんな思いが込められているのである。

日本橋から品川宿 (2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)